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2024年4月11日木曜日

『荒牧郷土史』に記録された「酒造」と荒牧屋について

昭和から平成に元号が変わり、世も変わろうとする頃、それまでの地域の軌跡を記録しておこうとする動きも、各地でみらます。その取組は、今となっては大変貴重な取組でした。
 『荒牧郷土史』は、非常に念入りな構成で、市史や県史と同様の知見をまとめた非常に価値の高い内容となっています。中でも特に、この項目では「酒造業」の既述をみたいと思う。先ずは、内容をそのまま引用させていただきます。

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◎酒造業
酒造業については、次の文書からこの村でも酒造業が行われていたことがわかります。

寛成(政)四年極月五日(1792年12月5日)
一、右極月五日大坂東御番所より北在組酒家酒造御改二付、与力・同心大勢にて加茂両家、小池・中山・荒牧・川面・大鹿・昆陽・古江凡拾六七軒斗御改被成諸帳面不残御持帰り被成、同六日御番所へ御召にて段々御吟味被遊候所、川面其外無株之分五人有之入牢被為仰付(「天明・寛政期酒造一件諸控」、四井幸吉文書『西宮市史』第五巻)

大坂東御番所から与力・同心が酒造改めのため北在組十七軒ほどの酒家に出向いて帳簿を残さず持ち帰り、あくる日順番に取り調べて酒造株を持たずに営業している五人を入牢させています。この文書によって荒牧でも酒造業が行われていたことがわかります。
 近代になってからは、岸添家が明治三年(1870)大坂出身の酒造家鹿嶋屋清太郎から貸株を受け、伊丹中之島町で酒造業を行っています。

現在の宮水湧水地の様子
 これとは別に江戸時代の終わりまで「荒牧屋」と称していた酒造家があります。現在も「櫻正宗」の銘柄で知られている神戸市魚崎にある山邑酒造株式会社です。この会社は享保二年(1717)の創業で、天保のころ荒牧屋喜太郎(六代目太左衛門)は大坂の伝法町に住み、店は魚崎にありました。のちに西宮にも出作りし、とくに西宮藏の酒質が優れていることを知り、その原因を追及するうちに宮水の発見となりました。天保十一年(1840)のことです。
 現在の当主(山邑美保子氏)に伺いましたところ、残念ながら山邑家の過去帳は天保時代台風で水に浸かり判読できず、それ以前のことはわからないということです。
 ところで、江戸時代の商人の屋号を調べると、米屋・油屋など商品を付したもの、河内屋・播磨屋・大坂屋など国名や大都市の名を付したもの、山田屋・荒牧屋など農村名を付したもの、松本屋・大塚屋など人名を付したものに大別されます。その中で農村名を付した屋号は、その農村が出身地か、商業上の取引があったものと思われます。
 「荒牧屋」と荒牧村との関係を示す具体例として、天保12年西教寺に鯛島万兵衛とともに荒牧屋重次良が釣り燈籠を寄進しています。
 また、天保4年、荒牧屋もよという女の人が寡婦となって、一家そろって荒牧村の源左衛門に引き取られています。このような例から見ると、山邑家の先祖も荒牧村出身で、荒牧屋を称したものと思われます。
 ところで、「文政五年(1822)酒造米引手」では米の品種を大極から下々まで8種に分けて選定していますが、荒牧産米は大極から数えて5番目の「上」になっています。また『伊丹市史』第二巻によれば、米問屋鹿島屋利兵衛購入の荒牧産米は、主として掛米(もろみの仕込みに用いる米)に使われています。
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この中で、特に気になる既述の要素として、

天保のころ荒牧屋喜太郎(六代目太左衛門)は、大坂の伝法町に住み、店は魚崎にありました。のちに、西宮にも出作りし、...。

明治末から大正時代頃の伝法

という口伝です。2点気になる所があります。
 1つ目は、歴史的な一応の流れは、西宮から灘へ拡がったようですが、口伝ではその逆になっているようです。
 2つ目は、荒牧屋当主(六代目)が、大坂伝法町に住んでいたと伝わっている事です。1717年(享保2)に、荒牧屋にとって事業拡大や新体制となった画期で、「荒牧屋初代」と位置付けているようです。概ね一代の活動期間は20〜25年で計算すると、120〜150年後という事になります。ここを基点にすると、六代目の活動期は、1837年(天保8)から67年(明治元年)頃となります。
 一方で、荒牧屋は1625年(寛永2)創醸という事ですので、ここを基点にすると、六代目の活動期は、延享2年(1745)から安永4年(1775)という事になります。
 もしかすると、六代目の時代関係をどこに基準を当てるかによって、宮水の源泉発見も、もう少し前の時代になるのかもしれません。これは今のところ、勝手な想像ですが...。

現在の伝法の河港の様子
別の視点から見てみます。西宮市の公式見解としては、宮水の発見は1837年(天保8)ないし、1840年(同11)としており、また、その発見者を櫻正宗六代目山邑太左衛門としています。
 この事と荒牧屋の初代からの代重ねの道筋と概ね一致します。櫻正宗の公式見解として、「宮水の発見」との関連性から考えて、創業初代を享保2年(1717)としているようです。

それから、西宮や灘地域への拡大経緯ですが、これらを私なりに少々想像してみます。櫻正宗の公式見解と『荒牧郷土史』では、享保二年(1717)を初代と定義しています。創業から数えて六代目当主(天保年間:1831〜45)は、伝法町に住み、事業を拡大しつつあった中で、享保二年に新体制となったのでしょう。しかしこれは、それ以前から伝法町に住んでいたものと思われます。
 また、生産地も西宮から新興の灘地域へ進出して事業を拡大したのかもしれません。社会情勢や業界の成熟期など様々な要因で、更なる品質向上を求めていたところ、主要的生産地であった西宮で「宮水」の源泉に辿り着いたのではないでしょうか。
 もちろん、それまでにも銘水での酒造は行われていたとは思いますが、源泉からの安定供給により、更なる品質向上と生産量の増大によって、地域ブランド力の強化や差別化を図る意図もあったように思われます。時代を経て、酒造メーカーも増えて、競争の激化もあった事と想像します。
 今のところの「宮水発見」の公式見解は、1837〜40年で、これはほとんど、江戸時代末、いわゆる幕末にあたります。

「荒牧屋」が関連する地域の位置関係
一旦、既説をリセット(ご破算)しまして、以下、荒牧屋六代目が大坂の伝法に住んでいたという口伝について考えてみます。
 櫻正宗の公式見解によると、天保年間(1831〜45)に当主は大坂伝法町に住んでいたという事です。天保時代というと、江戸時代も末期で、幕府が倒れるまでに20年程です。その時代であっても、当主が伝法町に住まいを置いていたと言う事は、江戸時代を通じて、今で言う本社を伝法町に置いていたとも考えられます。
 同じく櫻正宗の公式見解では、1625年を創醸の年としており、この年が同地にある正蓮寺の創建(開山:日泉上人・開基:甲賀谷又左衛門尉正長)です。荒牧屋は、この創建時に大量の酒を提供しています。
池田から江戸までの輸送経路と運賃
 甲賀谷正長とは、摂津池田の高位の武士です。甲賀谷氏は、他にも尼崎の長遠寺(じょうおんじ)の大壇越であり、同寺では特別に顕彰されている人物です。ちなみに、両寺は共に日蓮宗です。また、甲賀谷氏の拠点である池田にも同宗の本養寺(京都本圀寺の第五世日伝の嫡弟玉洞院日秀の創建(応永年間1394-1428)と伝わる)があります。この日蓮(法華)宗は、近衛家とも繫がり深く、また全国に組織的ネットワークを持ちます。
 そういった状況もあって、伝法町の正蓮寺を基点にした関係性は維持していたとみられます。外形的には大消費地であると同時に、相場・物流拠点としての大坂・尼崎に近く、時局の把握と生産地への連絡を重視していた事が想像できます。ネットワークの中間地点に住んでいたというのは、無意味では無いのでしょう。
 その詳細は今後の課題にしたいと思いますが、荒牧の山邑氏、上月氏、甲賀谷氏の縁故がこれ程永く保たれていた事は、非常に興味深い事です。この事が、酒造・輸送(物流)・地域経済など、様々な謎を解くきっかけになれば良いと思います。

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2023年3月18日土曜日

灘酒 櫻正宗と正蓮寺・摂津池田の関係(はじめに)

ユーチューブのコンテンツは、様々な情報があり、森羅万象何でもあるように思います。何でもない、いつもの風景から地元情報、昔の話し、陸・海・空・宇宙、世界中、時空も超え、何でもあります。そんな中で思うのは、結局、それは自分の限界に気付きます。知っているモノしか選べない。

まだAI(エー・アイ)技術は黎明期ですが、そのAIが紹介してくれるコンテンツで、思いがけない発見に繋がることもあります。これは、大変に良いことですし、私も折々助かっています。本との出会いもそうです。

そんな流れで、ユーチューブのコンテンツから、大きな発見がありました。灘酒 櫻正宗と正蓮寺・摂津池田の関係です。過去の記事「此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察」の関連記事です。以下の項目を立てて、ご紹介できればと思います。

どうぞご覧下さい。

櫻正宗と運命の出会いと驚きの偶然
摂津池田城家老の存在
摂津国河辺郡荒牧村について
荒牧屋(山邑家)と池田城家老職系譜を持つ上月政重は同郷
寛永2年に荒牧屋(櫻正宗の前身)が創業した頃を考える
摂津国河辺郡荒牧村周辺の酒造りを見る
元禄年間の全国的な好景気と江戸での下り酒のブランド化
江戸送り酒の産地は西宮から灘へ
銘酒 櫻正宗、正蓮寺、摂津池田を繋ぐ縁とその歴史
『荒牧郷土史』に記録された「酒造」と荒牧屋について

【関連記事】此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察


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櫻正宗との運命の出会いと驚きの偶然

本当に何の脈絡も無く、ユーチューブ内での動画候補に上がっていたコンテンツをクリックしたのがキッカケでした。
 その動画に、私にとっては、もの凄い情報が収められていました。私の調べている、池田酒史・郷土史に関する濃密情報でした。『メタボのオッサンの唄』さんのチャンネルにある「【小林商店 直売所】此花区春日出100年続く激渋角打で日本酒と料理を堪能する【大阪市/此花区】」という動画の中、9:10から灘酒の櫻正宗についての紹介があります。この醸造元の代表である山邑家が、戦国時代の池田城家老と関係のあることが判明しました。


動画の中で紹介されていた櫻正宗公式ホームページにある該当部分を引用します。
※酒蔵の軌跡ページ(https://www.sakuramasamune.co.jp/history/

---(資料1)----------------------------------------------
1644:山邑家の原点
当社・櫻正宗の山邑家もまた、酒造りが本格化した伊丹・荒牧村で米を作り、余剰米で酒を造る農家でした。
 伝法の正蓮寺開山時に山邑の酒をたくさん寄進し、「荒牧屋」という屋号で1625(寛永2)年に創醸されました。その後、酒造に重きを置き、1717(享保2)年に初代山邑太左衛門を名乗り、創業しました。
創業の頃、荒牧屋の酒銘は「薪水」でした。酒銘には当代の歌舞伎俳優に関する者が多く、「薪水」もまたそれに習い、俳優の名を取ったものでした。
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山邑家の家伝によると、山邑家は、摂津国河辺郡荒牧村にあって、余剰米で酒も造る農家で、「荒牧屋」の屋号を称し、1625年(寛永2)に創業したようです。

 

櫻正宗公式サイトの該当ページ ※一部強調表現加工

 

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荒牧屋(山邑家)と池田城家老職系譜を持つ上月政重は同郷

先述の通り、上月重政のルーツの地が荒牧村であり、そこに住まう山邑氏とは当然ながら古い縁故関係があって、元禄・寛永年間という日本国内の経済復興期に、家業飛躍の好機を甲賀谷正長に求めたのだろうと思われます。この頃、めぼしい酒造地がほとんど無く、池田郷は、江戸積の下り酒を独占していました。
 伝法の正蓮寺開基というハレ舞台で、「荒牧屋」の酒を多量に寄進できるというのは、これ程のビジネスチャンスはありません。
 伝法という地は、交通の要衝であり、多くの人々が交差する場所で、当然ながら銭も情報も集まります。そんな場所に手がかりができるのは、それだけで莫大な財産となります。
※※大阪府の地名1(平凡社)P747

---(資料8)----------------------------------------------
【伝法村】 此花区伝法1 - 6丁目
中津川が下流の中州によって伝法川と正蓮寺川に分流する地に位置し、伝法川の北岸を北伝法(伝法北組)、南岸を南伝法(伝法南組)と称した。南東側は四貫島村。地名は仏教伝来にちなむとか、鳥羽上皇が紀州高野山に伝法院を建立する時、その用材を船積みした地であるからなどの里伝がある
 当地は、中世末期には中津川河口の湊として交通の要衝となっており、伝法口とも称された。「陰徳太平記」によると石山本願寺を攻める織田信長が、「伝法」に武将を配置している。また慶長19年(1614)の大坂冬の陣では、大坂城に籠もる豊臣方が当地に砦を築いたともいわれる(大阪市史)。諸川船要用留所収の慶長8年付徳川家康の過書中宛朱印状写に過書船発着地の一つとして当地があげられている。同10年の摂津国絵図には「テンホ」とみえる。
 元和元年(1615)大坂藩松平忠明の支配下で船手加子役を賦課され、同6年には大坂御船手(小浜氏)の支配下となり、船番所も設置された。寛永11年(1634)から加子扶持7石を支給されている。寛文10年(1670)幕府領となったことにより加子役はそのままで、年貢も賦課されるようになった(西成郡史)。当地が行政的に村となったのはこれ以後のことで、それ以前は大坂に準じて幕府直轄都市の扱いを受けていたと思われる。元禄郷帳に村名がみえ、幕府領となっている。以後幕末に至る。
 享保20年(1735)摂河泉石高帳によると130石余、流作地4石余。加子役は屋敷を単位に賦課され、南北両伝法に185軒の公事屋敷があった。ところが天明年間(1781 - 89)町を単位に賦課する方法に改められ、当時、当地辺りに成立していた八か町、すなわち北伝法上之町に35役、同中之町40役、同下之町30役、南伝法上之町42役、弥右衛門開の内八軒町6役、南伝法下之町12役、五右衛門開5役、十三軒町15役が課せられた。なおこの加子役の賦課率は村小入用の割付にも適用され、享保8年以降は村小入用の6割は加子役に、4割は村高に割付られたという(西成郡史)。
 大坂市中の河川を回漕する上荷船・茶船のうち、当村上荷船は最も古い由緒をもつ七村上荷船の一つに数えられている。年次は未詳だが船極印方(「海事史料叢書」所収)によると、上荷船45艘をたばねる組頭一人が南伝法に、同45艘の組頭二人と同44艘の頭一人が北伝法にいた。
 正保期(1644-48)上方から江戸への下り酒が伝法廻船で積み出され万治元年(1658)佃田屋与治兵衛が北伝法上島町で江戸積の廻船問屋を開業、寛文年中、中島屋小左衛門・小山屋源左衛門・堂屋藤兵衛が酒樽専門の江戸積問屋を開業、元禄年中(1688 - 1704)には綿屋治兵衛・大鹿屋九兵衛・宮本弥三兵衛・薬屋新右衛門らも加わって、その数を増やした(「船法御定並諸方聞書」同書所収)。それに用いられた伝法船は従来の菱垣廻船よりも迅速に回漕したため「小早」と称され、やがて酒樽以外の商品も積み込んで菱垣廻船に対抗した。これが享保期以降、樽廻船と呼ばれるようになった(「菱垣廻船問屋規錄」同書所収)。樽廻船はとくに伊丹・池田の酒造業の発展に対応して繁栄した。しかし当地においては貞享元年(1684)安治川の開削によって河港としの繁栄を順次安治川沿岸に奪われ、当時船数700余・家数800余・人数3500余と栄えていたのに対し、天明年間には船数200余・家数400・人数1900余に減少したといわれる(西成郡史)。
 もっともその頃当地には廻船業の他に酒株37・醤油造株3・樽屋26・運送屋3・寒天曝屋4・籠屋2・竹屋2・畳屋2・家および船大工9・紺屋4・質屋4・寺子屋4・商人73・医師4・按摩17・社人3・僧尼道心者35などがあり、小都市の景観を呈していた。また、伝法川に設けられた船渡しは「伝法の渡し」とよばれ、尼崎に至る街道に通じて、大名参勤の通路となっていた
 当地には鴉宮(からすのみや)・澪標(みおつくし)住吉神社、浄土真宗本願寺派浄泉寺・西光寺、真宗大谷派慶善寺、浄土宗宝泉寺・西念寺、日蓮宗正蓮寺、単立(浄土真宗系)安楽寺がある。鴉宮はもと伝法の船問屋が祀った「伝母頭神社」といい、豊臣秀吉の朝鮮出兵の時、三羽の鴉が水先案内をしたことから現社名に改称したと伝える。
 川名の由来ともなった正蓮寺では8月26日に川施餓鬼を行う。「伝法の施餓鬼」とよばれ、天神祭とともに浪速の夏の二大行事とされている。明治10年(1877)当村は南伝法村・北伝法村に分村した。なお、天保郷帳に弥右衛門開18石余と「助太夫・五右衛門開」77石余がみえるが、うち弥右衛門開と五右衛門開は当村に近い伝法川上流中州に開かれた地で、助太夫開は大野村(現西淀川区)に接して開かれた新田である。
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池田から江戸までの輸送経路と運賃



それからまた、正蓮寺について、縁起を紹介しておきます。
※伝法 正蓮寺発行の『正蓮寺概史』より

---(資料9)----------------------------------------------
【正蓮寺略縁起】
寛永2年(1625)篤信の武家、甲賀谷又左衛門が、毎夜海中にて光を発するものを見つけ、網を入れたところ、お木像が上がって来たので、邸内にお祀りしていました。たまたま京都から来られた修行僧、唯性院日泉上人がこれを御覧になり、間違い無く日蓮大聖人の御尊像であることを認められました。そこで、日泉上人を開山とし又左衛門を開基として、大方の協力を得て建てた草庵が、今の正蓮寺のおこりであります。寺号の正蓮寺は、甲賀谷又左衛門の予修(よしゅ:生前に、自分の死後の冥福 (めいふく)のために仏事をすること。)、正蓮日宝禅定門より、また山号の海照山は、御尊像が海を照らした事から名付けられたものであります。
 大阪の代表寺院25ヶ寺の内に数えられた正蓮寺は、惟うに権門の庇護に依り建立された寺ではなく、土着の一無名人の発願にて創立された庶民的な寺院であります。創建以来来伝燈絶えずして信徒参集し、寺門興隆して現在は第26世を踏襲するに至っております。
【伝法の川施餓鬼】


享保6年(1721)、当山第7世、寂行院日解上人は、日蓮大聖人が海中にて衆生済度せられた功徳を継承せんとて、川供養の行事をはじめられたのが、いまの伝法の川施餓鬼であります。創始以来、正蓮寺川に棚を作り色々な供物をして、有無両縁の万霊を供養して参りました。摂津名所図絵に記されている様に、数百曳の船団で参拝者が群集したしました。地元の伝法・高見・四貫島の各家では、遠近より親類縁者を招いて精霊をお祀りし、法要の後は各船団は棚を片付けて船遊びに興じてお祭り騒ぎになるのが常でした。陸では数百の露店が賑わい、名物の枝豆・竹ごま・焼鳥屋などが繁昌し、全く天神祭をしのぐ程の盛大な大阪の夏を締めくくる行事でした。夕刻、船団も引き揚げ露店も終わる頃には涼風も吹く時期でもあり、「暑い夏には天神祭、あついあついも施餓鬼まで」と、今日までの夏の風物詩として語り継がれ親しまれて参りました。古来より仏法経典の渡来した最初の浜とも云われる伝法の地であります。仏事が盛大に行われて来たのも当然のことと思われます。昭和46年には、川施餓鬼創始250年の記念大法要を厳修いたしました。殊に現在は、区内に奉賛会が組織され、更には浪速全般に亘る参拝会の活躍は、誠に有り難いことでもあります。ただ、昭和42年頃より正蓮寺川の汚濁が甚だしくなった為、川渡御は新淀川に移すことになりました。平成26年度に「正蓮寺の川施餓鬼」として大阪市指定無形民俗文化財に指定されました。
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縁起では、「甲賀谷又左衛門正長が篤信の武家」であったこと、「寛永2年(1625)、正長を開基として、大方の協力を得て建てた草庵が、今の正蓮寺のおこり」であること、「甲賀谷正長(正蓮日宝禅定門)が生きている間に、予修として寺の開基を行った」ことが伝わっています。

 

施餓鬼当日の様子 ※2019年撮影 

 

施餓鬼当日の様子 ※2019年撮影

 

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銘酒 櫻正宗、正蓮寺、摂津池田を繋ぐ縁とその歴史

今回、全く予測もしていなかった事が、動画コンテンツのクリックから結びついたのは、偶然としかいいようがありません。この出会いの中で改めて思うことが色々あります。

前近代という時代は、特に縁故関係により信用を繋ぐという社会でしたので、無関係から接点になる事は、現代社会と比べれば、その可能性は非常に低かったでしょう。今でも無くはありませんが、経済的な面以外は、縁故関係での結びつきは、嘗てに比べると、小さくなっているのではないでしょうか。しかし、一方でそれは、社会の信用度が安定しているとも言えるかもしれません。
 それ故に、昔は、歴史を大切にし、正確に伝えることで、未来を拓くという習慣があったと思います。近年、科学的な研究が進み、非常に古い記録であっても、ある程度の正確性があると、証明されつつあります。私自身の研究からも、それは言えます。同時に、その時代の日本人の精神を語るものにもなっています。
 未来のため、子孫のために、自身が過去を引き継ぎ、今を真面目に生きるという営みを、淡々と続けてきた事が、今、科学的にも証明されつつあるように思います。それらの記録により、昔と習慣が変わった現代社会に、バラバラに存在しているかの要素(櫻正宗・正蓮寺・摂津池田城家老)が、全て繋がっている事例をまた一つ発見できました。今後、もっと詳しい資料が見つかるかもしれません。他へも拡大するかもしれません。今後が楽しみです。この温故知新で、疎遠だったものが絆になるのかもしれません。
 同じ時代に生き、また、新たな時代の為に、それぞれが真面目に生きれば、未来へ繋ぐことができるというのは、代々の先祖が証明してくれている事です。間違いはありません。

 

施餓鬼当日の様子 ※2019年撮影


施餓鬼当日の様子 ※2019年撮影
 

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2019年8月24日土曜日

此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察(伝法(大阪市此花区)について)

正長自身が法名を「正蓮」と名乗り、それが寺号となっている正蓮寺は、現在此花区伝法にありますが、正長とは何の関係も無いところに建てられるはずがありません。これ程までに経済的に、心情的に支援できるからには、相当に強い結びつきがあったのではないかと考えられます。その「伝法」という場所について、引用してみます。
※大阪府の地名1(平凡社)P747

(資料4)-----------------------
現在の正蓮寺の様子(2019年撮影)
【伝法村】 此花区伝法1 - 6丁目
中津川が下流の中州によって伝法川と正蓮寺川に分流する地に位置し、伝法川の北岸を北伝法(伝法北組)、南岸を南伝法(伝法南組)と称した。南東側は四貫島村。地名は仏教伝来にちなむとか、鳥羽上皇が紀州高野山に伝法院を建立する時、その用材を船積みした地であるからなどの里伝がある。
 当地は、中世末期には中津川河口の湊として交通の要衝となっており、伝法口とも称された。「陰徳太平記」によると石山本願寺を攻める織田信長が、「伝法」に武将を配置している。また慶長19年(1614)の大坂冬の陣では、大坂城に籠もる豊臣方が当地に砦を築いたともいわれる(大阪市史)。諸川船要用留所収の慶長8年付徳川家康の過書中宛朱印状写に過書船発着地の一つとして当地があげられている。同10年の摂津国絵図には「テンホ」とみえる。元和元年(1615)大坂藩松平忠明の支配下で船手加子役を賦課され、同6年には大坂御船手(小浜氏)の支配下となり、船番所も設置された。寛永11年(1634)から加子扶持7石を支給されている。寛文10年(1670)幕府領となったことにより加子役はそのままで、年貢も賦課されるようになった(西成郡史)。当地が行政的に村となったのはこれ以後のことで、それ以前は大坂に準じて幕府直轄都市の扱いを受けていたと思われる。元禄郷帳に村名がみえ、幕府領となっている。以後幕末に至る。享保20年(1735)摂河泉石高帳によると130石余、流作地4石余。加子役は屋敷を単位に賦課され、南北両伝法に185軒の公事屋敷があった。ところが天明年間(1781 - 89)町を単位に賦課する方法に改められ、当時、当地辺りに成立していた八か町、すなわち北伝法上之町に35役、同中之町40役、同下之町30役、南伝法上之町42役、弥右衛門開の内八軒町6役、南伝法下之町12役、五右衛門開5役、十三軒町15役が課せられた。なおこの加子役の賦課率は村小入用の割付にも適用され、享保8年以降は村小入用の6割は加子役に、4割は村高に割付られたという(西成郡史)。
埋め立てられている正蓮寺川(2019年撮影)
大坂市中の河川を回漕する上荷船・茶船のうち、当村上荷船は最も古い由緒をもつ七村上荷船の一つに数えられている。年次は未詳だが船極印方(「海事史料叢書」所収)によると、上荷船45艘をたばねる組頭一人が南伝法に、同45艘の組頭二人と同44艘の頭一人が北伝法にいた。正保期(1644-48)上方から江戸への下り酒が伝法廻船で積み出され、万治元年(1658)佃田屋与治兵衛が北伝法上島町で江戸積の廻船問屋を開業、寛文年中、中島屋小左衛門・小山屋源左衛門・堂屋藤兵衛が酒樽専門の江戸積問屋を開業、元禄年中(1688 - 1704)には綿屋治兵衛・大鹿屋九兵衛・宮本弥三兵衛・薬屋新右衛門らも加わって、その数を増やした(「船法御定並諸方聞書」同書所収)。それに用いられた伝法船は従来の菱垣廻船よりも迅速に回漕したため「小早」と称され、やがて酒樽以外の商品も積み込んで菱垣廻船に対抗した。これが享保期以降、樽廻船と呼ばれるようになった(「菱垣廻船問屋規錄」同書所収)。樽廻船はとくに伊丹・池田の酒造業の発展に対応して繁栄した。しかし当地においては貞享元年(1684)安治川の開削によって河港としの繁栄を順次安治川沿岸に奪われ、当時船数700余・家数800余・人数3500余と栄えていたのに対し、天明年間には船数200余・家数400・人数1900余に減少したといわれる(西成郡史)。もっともその頃当地には廻船業の他に酒株37・醤油造株3・樽屋26・運送屋3・寒天曝屋4・籠屋2・竹屋2・畳屋2・家および船大工9・紺屋4・質屋4・寺子屋4・商人73・医師4・按摩17・社人3・僧尼道心者35などがあり、小都市の景観を呈していた。また、伝法川に設けられた船渡しは「伝法の渡し」とよばれ、尼崎に至る街道に通じて、大名参勤の通路となっていた。
 当地には鴉宮(からすのみや)・澪標(みおつくし)住吉神社、浄土真宗本願寺派浄泉寺・西光寺、真宗大谷派慶善寺、浄土宗宝泉寺・西念寺、日蓮宗正蓮寺、単立(浄土真宗系)安楽寺がある。鴉宮はもと伝法の船問屋が祀った「伝母頭神社」といい、豊臣秀吉の朝鮮出兵の時、三羽の鴉が水先案内をしたことから現社名に改称したと伝える。川名の由来ともなった正蓮寺では8月26日に川施餓鬼を行う。「伝法の施餓鬼」とよばれ、天神祭とともに浪速の夏の二大行事とされている。明治10年(1877)当村は南伝法村・北伝法村に分村した。なお、天保郷帳に弥右衛門開18石余と「助太夫・五右衛門開」77石余がみえるが、うち弥右衛門開と五右衛門開は当村に近い伝法川上流中州に開かれた地で、助太夫開は大野村(現西淀川区)に接して開かれた新田である。
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上記のように伝法は、交通の要衝で、古くから開けていた場所であるようです。当然、その地勢環境(素質)は、長い間受け継がれ、戦国時代にも重視された場所で、伝法から北側に2〜3キロメートルのところには、大和田城があって、それぞれ尼崎街道でつながっていました。
 また、港の機能として、近代時代まで尼崎あたりが大型船の出入りに向いており、大坂よりも尼崎が港として賑わいがあったようです。大坂は、土砂の堆積で海底が浅く、大型の船の航行には不便だったようです。
 それ故に尼崎は古くから港として機能しており、人や物が集まって、それらの活動に相対して古刹も多くあるようです。その内のひとつ、甲賀谷長正長と関係の深い尼崎の大尭山 長遠寺について資料を引用します。
※兵庫県の地名1(平凡社)P446

(資料5)-----------------------
大尭山 長遠寺
【長遠寺】
江戸時代の寺町の西部にある。日蓮宗。大尭山と号し、本尊は題目宝塔・釈迦如来・多宝如来。元和3年(1617)尼崎城築城計画のため移転させられるまでは、風呂辻町辰巳市場にあった(尼崎市史)。寺蔵の宝永2年(1705)の大尭山縁起によれば、観応元年(1350)に日恩の開基とされ、かつては七堂伽藍を備え子院16坊を数えたという。歴代住持のうち5世日了が、本山12世となるなど、京都本圀寺末の有力寺院の一つであった
 開基の地については七ッ松で、のちに尼崎に移転したとする寺伝がある。永禄12年(1569)3月の織田信長の軍勢による尼崎4町の焼き討ちの際には、当寺と如来院だけが戦火を免れたという(細川両家記)。当時は「尼崎内市場巽」に所在しており、元亀3年(1572)に信長は、同地での当寺建立に際して、陣取りや矢銭・兵粮米賦課などの禁止を命じている(同年3月日「織田信長禁制」長遠寺文書)。
16世紀の尼崎(尼崎市立地域研究史料館紀要 -第111号-)
さらに天正2年(1574)には荒木村重が、信長とほぼ同内容の禁制を与えているが(同年3月日「荒木村重禁制」同文書)、禁制の冒頭には「摂州尼崎巽市場法花寺内長遠寺建立付条々」とあり、伽藍造営だけではなく、当寺を中心とする地内町の建設工事であったことを示している。村重はさらに巽(辰巳)・市庭の年寄中に対して堀構のことを申し付けるとともに(3月15日「荒木村重書状」同文書)、尼崎惣中に対して当寺普請を油断なく沙汰するよう指示しているほか(4月3日「荒木村重書状」同文書)、貴布禰社などの諸職の進退や公事・諸物成の納入、諸役諸座などの免除、守護使不入等について定めた寺院式目条々を当寺に付与している(天正2年3月日「荒木村重定書」同文書)。同16年には勅願道場となった(同年3月25日「後陽成天皇綸旨」同文書)。
 江戸時代には長洲貴船大明神宮(現貴布禰神社)の神職も兼ねており、毎年1月7日礼祭神事を執行した(尼崎志)。境内に祖師堂・妙見堂・護法堂と僧院三房があった。
 本妙院は観応元年創立、宝泉院は文亀元年(1501)創立。開基不詳。中正院(現存)は明徳年中(1390-94)創立、開基不詳(明治12年調寺院明細帳)。慶長3年(1598)建立の本堂(付棟札2枚)と同12年建立の多宝塔(付棟札5枚)は、国指定重要文化財。鐘楼・客殿・庫裏は、県指定文化財であったが、平成7年(1995)の兵庫県南部地震のために全てが破損した。一石五輪塔として天正3年10月10日、慶長13年(基礎)・同14年銘のもの、同13年4月8日銘の石灯籠がある。
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また、正長の信仰の篤さを知る事ができる、長遠寺へ寄進するなどした関係資料一覧を以下にあげます。
※尼崎市立文化財収蔵庫(同市教育委員会 歴博・文化財係)様からのご提供資料

(資料6)-----------------------
資料名
年代
内容等
1
多宝塔棟札
慶長11年
「願主甲賀谷又左衛門尉正長敬白」
2
多宝塔棟札
慶長12年
「甲賀谷又左衛門尉正長(花押)
3
日桓曼荼羅本尊
慶長13年1月2日
裏書「授与甲賀谷又左衛門尉正長」
4
客殿棟札
慶長18年4月6日
「大願主甲賀谷又左衛門造之」
5
日蓮書状
(乙御前母御書)
元和元年9月5日
裏書「元和元乙卯暦九月五日
願主甲賀谷又左衛門法名正蓮(花押)
6
日蓮曼荼羅本尊
元和元年9月5日
裏書「元和元乙卯暦九月五日施主又左衛門(花押)
7
日桓曼荼羅本尊
元和4年11月17日
裏書「甲賀谷又左衛門尉法号正蓮日寶授与」
8
日厳曼荼羅
元和8年3月11日
裏書「摂州尼崎長遠寺常住本尊修補之施主甲賀谷又左衛門正長」
9
日聡曼荼羅
元和8年3月11日
裏書「摂州尼崎長遠寺常住本尊
修補之施主甲賀谷又左衛門正長」
10
日円題目
元和8年3月11日
裏書「摂州尼崎長遠寺常住本尊
修補之施主甲賀谷又左衛門正長」
11
本堂棟札
元和9年5月
「願主甲賀谷又左衛門尉法号正蓮日寶建之□」
12
甲賀谷正蓮書状
8月14日
長遠寺宛
13
鐘楼棟札 
寛永14年6月27日
「為正蓮日寶遺言所建立之鐘楼同也
願主大坂法華甲賀谷又左衛門尉貞勝」
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尼崎は、軍事的・経済的にも重要でしたので、時の大名は尼崎を重要視していました。池田家中から成長した荒木村重も織田信長政権下で地域勢力として伸張し、尼崎も支配下に置きます。村重は、摂津国全域と河内国の北半分を担い、統治しました。