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2016年6月14日火曜日

摂津池田とも接点があった加賀国豪商銭屋五兵衛の活動

栄根寺跡にある銭屋五兵衛の顕彰碑
川西市寺畑にある栄根寺廃寺遺跡史跡公園に、加賀国宮腰の豪商銭屋五兵衛の顕彰碑があります。この栄根寺跡には、銭屋五兵衛の事を知りたくて訪ねたのでは無く、荒木村重の本拠地が、この近くの栄根村でその周辺を治めていたという伝承があって、その立地を見ようと訪ねたのでした。ここは、以前にも何度か訪ねた事があったのですが、今年のゴールデンウイークに状況が調ったので、再び訪ねてみました。

荒木村重の事は、別のコラムで詳しくお伝えしたいと思います。色々と今回も感じる事がありました。やはり、現地を訪ねる事は大事だなと思いました。

ちょっと栄根寺についてご紹介します。その縁起によれば、753年(天平勝宝5)聖武天皇の夢想により行基に命じて薬師堂と薬師如来を作らせたのがはじまりと伝わり、その後、兵火にかかるなどして廃れてしまい、江戸時代には、池田の西光寺から留守の僧を置く程度に縮小していました。
 近年まで寺跡に残された薬師堂には、平安時代前期の様風を伝える硬木一材の薬師如来座像がありましたが、平成7年(1995)の兵庫県南部地震によりこの薬師堂も壊滅しました。しかし、薬師如来ほか19体は損害を免れ、市の文化財資料館に保管されています。
 震災後からの発掘調査により、栄根寺廃寺の境内から白鳳・奈良時代の瓦等が多数出土しており、奈良時代の建立が確認されました。
 詳しくは、「摂津国豊嶋郡細河郷と戦国時代の池田(池田氏の支配及び軍事に関わる周辺の村々)」の「栄根村と栄根寺跡(川西市栄根及び寺畑)」項目をご覧下さい。
 
この栄根寺は、池田とも以下の要素で関係(接点)を持ちます。
  • 栄根寺は、1631年(寛永8)から同じ浄土宗の西光寺(現池田市)の支配をうけ、留守僧を置いた。
  • 栄根寺は荒木村重系の荒木家支配地域にあった。
  • 西光寺は天文15年(1546)に池田に再建されたとの伝承を持つ。
  • 西光寺は、江戸時代になって池田に戻ってきた、荒木村重に関係する荒木家など、元池田武士であった家を檀家に持つ。
  • 在郷集落であり、商都でもあった池田の中心地に西光寺があった。
  • 栄根寺あたりの集落からすると、池田郷との経済的・文化的結びつきが強い。
  • 近世には同じ浄土宗であったらしいが、それ以前からの宗派的繋がりがあるか。
  • 池田にも来訪した儒学者広瀬旭荘(広瀬淡窓の弟)と銭屋五兵衛との交流がある。旭荘は池田で没する。
    ※参考:幕末の池田関係の図録(広瀬旭荘)
そんな栄根寺跡公園に、銭屋五兵衛の碑があることも知っていたのですが、それまでは特に調べる事も無く過ごしましたが、今回訪ねるにあたって、ちょっと気になったので、調べてみました。中でも、この本一冊を読めば、銭屋五兵衛の全てが解ります。五兵衛に興味を持った方は、一読をお勧めします。

表紙:銭屋五兵衛と北前船の時代
書名:銭屋五兵衛と北前船の時代
著者:木越 隆三(きごし りゅうぞう)
発行:2001年11月30日 第1版第1刷
発行所:北国新聞社

この銭屋の商売は、材木商を元に海運業にも手を拡げて、大変発展しますが、船に乗せる荷物もうまく扱う、多角経営のビジネススタイルだったようです。その中に、池田で集散される池田炭の取扱も一覧に見られるようです。
 私自身が銭屋五兵衛の事を調べていないので、直接的に資料に行き当たっていないのですが、手広く商品を扱っているようなので、やはり池田の主要生産品である池田酒などもあったのではないかと思います。
 銭五と西光寺や池田との関わりは、池田市の広報誌の裏表紙にある企画「わがまち歴史散歩 -市史編纂だより-」のNo.20(平成18年9月)「銭屋五兵衛の碑と池田の西光寺」に紹介されています。ここから、少し引用させていただき、詳しくは、出典をご覧下さい。
※参考:池田市公式サイト わがまち歴史散歩 「市史編纂だより」

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【三代にわたる努力】
遠地の豪商の碑がこの地に建てられた経緯を、明治41年(1908)の新聞記事では次のように紹介しています。
 池田の西光寺の住職は能登出身で、父の代から懇意であった銭屋五兵衛の死を伝え聞き、功績を伝えるべく、西光寺の住職預かりとなっていた栄根寺の境内に彼の記念碑を建てようと思い立ちます。しかし、経済的な面から、意志を継いだ次の住職の代になっても、建立は実現しませんでした。
 当初から3代目の住職のとき、ようやく転機が訪れます。阪鶴鉄道(今のJR宝塚線)の敷設による一部境内地の売却資金を元手に、栄根寺境内の整地まで進めます。
(後略)
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また、時代は違いますが、もの凄く意外なところで銭五と池田の接点があります。太平洋戦争後、池田市は世界の都市と友好関係を結び、オーストラリアのタスマニア州ローンセストン市とも結んでいます。同州は、タスマニア島にある街なのですが、この島に「かしうぜにやごへいりようち(加州銭屋五兵衛領地)」と刻まれた石があり、これについては『 幻の石碑 』(遠藤雅子氏著)という本で詳しく検証されているようです。驚きです。お互いにそれを知っていて、友好都市提携をした訳では無いと思うのですが、どこまでご縁があるのやら...。

この銭五について、どんな人物だったのか、詳しくは『銭屋五兵衛と北前船の時代』をお読みいただければと思いますが、そのダイジェストとして、同書の「はじめに」を少し紹介します。

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【伝説の銭五】
銭屋五兵衛ほど毀誉褒貶の著しい人物はいない。銭屋五兵衛の晩年は、金沢および近郊の民衆から「藩権力と結んだ政商」として批判された。銭五(銭屋五兵衛の略称)の「成功」は民衆から憎まれ、抜荷・海外密貿易の噂まで立てられ、飢饉になると騒動の標的にされた。嘉永5年(1852)の銭屋疑獄事件があれほどの大事件に発展したのも、実は当時の世評が要因であった。
 ところが、明治時代になると、銭屋五兵衛の評価は一変する。徳川幕府が墨守した鎖国体制の犠牲者として慰霊され、また検証された。つまり、銭五が密かに鎖国の国禁を犯し海外密貿易を行ったらしいという、不確かな伝承を素材に今度は賞賛した。銭五は徳川幕府の悪政である鎖国に反抗し、海外貿易を率先した偉人であり、時代遅れの加賀藩の保守政治の犠牲になったと、その悲劇性を誇張した。そして、銭五処罰の本当の理由は、河北潟への投毒容疑では無く密貿易だったと、銭屋疑獄事件の本質がすり替えられた。銭屋一族に投毒の疑いをもって罵声を浴びせた民衆は、やがて、銭屋処罰の理由は、藩首脳が密貿易の発覚を恐れての事だと合理化した。こうして明治のジャーナリズムと民衆は、銭五を海外貿易の先駆者として讃えることに熱中した。
 明治20年代は、国粋主義が台頭した時代であり、その傾向を帯びた偉人伝が多く刊行された。銭五伝も、その頃数多く刊行され、銭五の名前は全国に知られるようになった。なかでも、石川県士族の岩田以貞が、明治20年(1887)3月に東京尚書堂出版から刊行した『商人立志寒梅遺薫 -銭屋五兵衛伝-』は、数ある銭五伝の元祖といってよいもので、以後の銭五伝は、多かれ少なかれ、本書に影響された。(後略)。
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銭五の生涯は、現在にも通じる事で、決して過ぎたことではありません。現代を生きる私たちにも、これを知ることで導きになることが多くあります。
 また、この著者である木越隆三氏は、歴史の専門家でもあり、この著作を記すにあったって、歴史調査の心構えも述べられていて、この調査全体の姿勢も知ることがでます。「あとがき」を引用します。
 
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たった一人の人物伝を書くため、彼を取り巻くどれだけの人物を知らねばならぬのか、その手間と苦労を思い知った。銭屋五兵衛を総合的に理解するには、家族のほか、奥村栄実ら藩の重臣たち、(加賀国)宮越の商人集団や木谷藤右衛門など影響を受けた北前船主、娘の嫁ぎ先や息子達が作った人脈、青森の滝屋善五郎をはじめとする県外各地の取引商人など、あげたらきりがない。
 彼の生きた時代の制度・習慣・常識なども理解しなければならない。五兵衛の日記と古文書を頼りに書き始めた「銭五伝」だが、随所で暗礁に乗り上げた。文献資料でわかることは多かったが、肝心な所がわからず困った。しかし、古文書の言葉の一字一句の背景を考証する事で、少しづつ解きほぐれてきた。これが古文書を読む楽しみだ。(後略)。
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本を読み進め、この言葉に行き着いた時、なんだか救われた気持ちにもなりました。私も池田勝正の事について、永年調べていますが、全く同じ状況です。レベルは違いますが、専門家でもこのようにされているのですから、私のやっている事も間違いがなかったし、それしかないのだという摂理をも知ったように思いました。「その方法しかない。だから、できるところまでやるしかない。」と、そう感じました。
 いずれ、池田勝正の事も本にしたいと思っていたので、この本を読んで、木越さんのようでありたいと思うようになりました。

このように、人物を知る叢書としての優れた著作です。私はこれを主に仕事の移動中に読んだ本だったのですが、車中で夢中になって、乗り過ごしそうになる程でした。すばらしい本でした。銭屋五兵衛の事を知りたい方は、是非同書をお読み下さい。


2016年3月26日土曜日

中岡嘉弘氏著 改訂版 池田歴史探訪(寺社・史跡・遺跡見所のすべて)という本

中岡嘉弘氏は、私と同じく池田郷土史学会の会員でもあり、池田の郷土史について、色々と教えていただいています。中岡さんは1930年のお生まれで、京都のご出身。1950年代から池田にお住まいです。
 京都出身という事もあるのだと思いますが、生活の中で身についた歴史的知識というものがあるので、池田の歴史についても広く、深く観察されています。その広さと深さに私は溺れるばかりですが、お話しをお聞きすると、色々勉強になります。
 また、中岡さんは、ライオンズクラブにも所属され、地域活動にも熱心に取り組んでおられます。私も出来る範囲で見習いたいと思いますが、追いつくことはできなさそうです。

その中岡さんが2009年(平成21)に出版された、改訂版 池田歴史探訪(寺社・史跡・遺跡見所のすべて)は、その集大成ともいえる本で、自ら取材された池田市内各所の寺社・史跡・遺跡が網羅されています。平凡社から刊行された大著、日本歴史地名大系ともまた違った、地元目線の詳細な記述ですし、本を片手に地域の文化財を気軽に訪ねられるように、記事内容・装丁なども工夫されています。
 この年、池田市は市制70周年を迎えた年で、その記念としてもふさわしい内容です。この3年前に、池田歴史探訪(寺社・史跡・遺跡見所のすべて)を出版されています。

最近また、池田歴史探訪を読み直していて、改めてその凄さを感じている次第です。

残念ながら、どちらも今は品切れで、手に入れることが難しいのですが、図書館などでご覧いただけますので、是非ご一読下さい。
 このサイトでも、池田勝正と関係する記事を抜粋してご紹介できるように準備をしてみたいと思います。ネットを通して、中岡さんの取材力で池田の文化力が伝わったらいいなと願っています。ご期待下さい。


中岡嘉弘著 改訂 池田歴史探訪



2015年9月2日水曜日

素人が歴史を学ぶ(見る)上で心がけたい事

近年、自国の歴史や他国と関わる歴史、特に明治時代以降の近代史について、関心が高まっているように思います。
 確かに、私自身の過去を振り返って、学校ではどのように教えられていたかというと、近代史に入る頃には年末年始頃の3学期で、学ぶ方も教える方も、非常に怠惰だったと思います。ですので、歴史に興味を持つ者は、耳学問で、自分の見聞きする範囲、また、実際にその時代を生きた人の経験談か、伝聞で主に知る事になっていたと感じます。

ですので、非常に主観的、且つ、憶測や不正確な環境の中で、近代史を「学んでいたつもり」になっていたと思います。
 これは私だけの経験では無く、割と多くの人がそういった環境だったのではないかと思います。それに加えて、メディアに関わる人々もそのような状況の中で番組を作り、それを見てまた、私たちが学ぶというサイクルになっていたように思います。
 一概にそうもいえない立派なコンテンツ(番組や映画、出版物)もあり、よく調べ、真実を伝えようとする視点もありますが、マスメディアとは少し性質が違うようにも思います。

しかし、歴史とは、個人の経験が全てでもなければ、組織の理由が全てでもない事もあります。また、その最中には見えず、後になって気付く事もあります。それから、立場によっても、性別、年齢によっても当然違ってきます。
 感情や感覚だけでは説明できない事が、特に近代史の難しいところだと思います。組織の単位、利益の単位、スピードなどが、近世以前とは比べものにならない規模になっているからです。
 同時にその環境の中で個人は豊かになり、自由が拡大した事も視点の中心に置かないといけないと思います。国民が同意していた要素も見なければいけません。それは、中央集権が成された近代という時代の中心であった「国家」の産物です。全ての国民は、その中に居たのです。
 よく決まり文句のように言われる、情報統制されていたとか、教育でそう思い込まされていた、だけでは説明の出来ない状況があります。これは思考と責任の放棄以外の何者でもありません。社会と人間は、民族自決の上で国家を立てるためには、共有しなければいけないものがあります。また、自国と国際社会の関係も視野に入れて考える必要がります。

さて、私は全くの素人から中世時代の摂津国豊嶋郡池田の、特にその城主であった池田勝正という人物について調べていますが、その中で学んだ事があります。歴史を調べる時には、

◎現代の感覚で過去を見ない。
◎織田信長のような史上の人物を特別視しない。
◎「if」を考えない。(結果が歴史であり、絶対にその他はあり得ない事だから。)
◎当時の感覚に近づくよう心がける。(環境を理解する。)
◎対象を、できるだけ多くの情報を元に見る。
◎自分の先入観を無くす。
◎見解は言葉を慎重に選び、客観性を心がける。
◎証拠(史料)が無ければ、結論は出さない。
◎推定をする時も、その根拠をできるだけ多く用意する。
◎反論は、史料を以て行う。
◎機会を見つけて、なるべく自分の考えを他に問うこと。
◎議論で喧嘩をしないこと。喧嘩になる相手は、相手にしないこと。

そういった心がけ(条件)が必要だと思っています。これは日常の生活でも、完璧では無くても、そういう心がけは要りますよね。
 私も最初は、主観的な思い込みが強く、あるべき事実が見えていなかったように思います。今も学びの途上で、いつ終わるのかわかりませんが、兎に角ひたすら、情報に接する、史料を読む事だけは心がけています。
 できるだけ、客観的な判断をするためにそれが必要で、その結果として、真実が見えるようになるのだと思います。見えないのは、自分自身でそれが出来ていないのだろうとも感じています。 


2015年7月22日水曜日

研究用資料を製本して、本棚もスッキリ!

郷土研究をするのに、色々とコピーを取る事が多く、本棚の多くの面積(容積)を占めるようになってきています。
 私のように、限られた時代と人物を研究するだけでも多方面の資料をコピーする必要があるのですから、もっと広範に視点を持つ必要がある研究は相当な量になると思います。

資料としての書籍は、ある程度収まりが良いのですが、コピーしたものを整理して保存しておくのは、数が多くなると収まりも悪いし、見た目も悪いし、本棚上のインデックスとしての一覧性も悪く、何とかならないかと、長い間の悩みでした。

ところが最近、お手頃な値段で、コピー用紙束であっても1冊から製本をしていただける製本・印刷屋さんを見つけて、大助かり! ←どっかのテレビショッピングみたいですが...。

この長年の悩みが解消しつつあります。


(1)製本前の資料の状態

(2)「無線綴じ」で製本した状態 ※文字も本格印刷

(3)製本した資料の背の部分 ※紙がシッカリついて頑丈です

バインダーで留めていた頃は、見開きの部分がどうしても奥まってしまい、文字が読みづらい事もあったのですが、無線綴じ製本すると、あまり接合面が奥深く干渉しないので、難なく読めるようになりました。
 また、製本屋さんのプロの技で、ページを何度めくろうが、外れたりしなさそうな堅牢さです。やはりそういう専用のボンドがあるのでしょうね。
※実はこれが一番心配だったのですが、そんな心配は無用でした。頑丈です。

まあ、何と言っても、本棚に収まり、背の文字で一発視認ができるようになり、持ち運びも便利で、言うことなしです。本当に良い会社を見つけました。

ただいま、資料を鋭意、製本依頼中です。本棚もスッキリすると思うと、楽しみです。


追伸:ちょっと個人的には、将来的に論文集を出そうと思っているのですが、そういった事も対応してもらえるので、良い関係を作っておきたいと思っています。

【会社データ】
社名:株式会社大友出版印刷
所在地:〒544-0002 大阪市生野区小路3-11-9
URL:http://www.ohtomops.jp
連絡先:TEL(06)6751-2377
サービス内容:自費出版・自分史・ミニコミ誌・サークル誌・同人誌・卒業文集・学校新聞・各種テキスト・論文・各種パンフレット・ポスター・チラシ等
事業内容:製版業務・印刷業務・製本業務・版下業務
参考:製本についての同社公式説明ページ http://digital-work.co.jp/sassi/




2015年1月13日火曜日

摂津池田家についての発表会 続報

来月の8日に予定されています、私の摂津池田家についての研究発表会ですが、会場が決まりましたのでお知らせします。 ご興味のある方は、是非お越し下さい。
※私も会員なのですが、池田郷土史学会様では、会員も募集中です。年会費3,000円です。

とき:平成27年2月8日 13:30〜15:00
ところ:池田コミュニティーセンター 栄本町 2皆
テーマ:「池田氏の内紛と白井河原合戦」
主催: 池田郷土史学会様 第629会例会
費用:一般 700円 会員 500円 (レジュメあり)


2014年11月12日水曜日

摂津池田家についての研究発表会

摂津池田家についての研究発表会を致します。ご興味のある方は、是非お越し下さい。
※私も会員なのですが、池田郷土史学会様では、会員も募集中です。年会費3,000円です。

とき:平成27年2月8日 13:30〜15:00
ところ:池田コミュニティーセンター栄本町 2皆
テーマ:(仮題)「荒木村重の登場-池田衆の内紛と白井河原合戦の前後」
主催: 池田郷土史学会様 第629会例会
費用:一般 700円 会員 500円 (レジュメあり)

まだ、完全に内容を固めたわけでは無いのですが、一応の方向性としては、「 荒木村重が活躍した白井河原合戦に見る、池田衆の構成と内紛の歴史」について、ご紹介したいと考えています。
 池田衆の内紛の過程で頭角を現した荒木村重について、史料を基にご案内ができればと思います。史料を見ると、荒木村重は池田家中の中枢に請われて地位を上昇させており、村重の人物像について、これまで言われてきたような「下克上」を体現した狡猾な人間であったとは、私には思えません。その場その場で、ベストを尽くした結果が「摂津一職守護荒木村重」であったと思います。

私は荒木村重の信奉者ではありませんが、淡々と歴史を見、事実が何であったかを知りたいと思い続けています。
 発表では、それらの過程をご紹介し、今までよく判らなかったところに迫ることができればと思います。これを機に、多くの方に地域史の魅力や面白さを知っていただき、また、研究の拡がりに繋がればと願っております。


2013年2月27日水曜日

大東市の市民学芸員制度

南郷研究会という郷土研究会に参加したところ、ちょうど、「市民学芸員Report」という会報が配られた事から、大東市の市民学芸員という取組みを知りました。
 その方は南郷研究会の会員であると同時に、この市民学芸員もされておられて、地域の文化財について熱心に取り組んでおられます。
 この大東市の「市民学芸員」制度は、同市の歴史民俗資料館付けの組織で、全くのボランティアで皆さん参加されておられます。今年で5年目となるそうです。今まで知りませんでした。

多分、全国的に見ても先駆的な取組みだと思いますし、個人的にもこういった取組みをしていくべきだと考えていた事から、興味を持ちました。

例えば、アメリカの映画作りは、莫大な予算とプロジェクトによる取組みでもあるのですが、結構、ボランティアも活用されています。そのボランティアも専門性に分けられ、それを統括するスタッフが居て、組織立てられているようです。労力提供する側にもメリットがあり、受ける組織にもメリットがあるように、互いのメリットの交換の場になっています。
 というのは、俳優の莫大なギャラが制作費を圧迫している背景もあるからだとか...。

しかし、これは今の日本社会全体でも必要な事だと思います。労働の質の向上と継承は、社会の大きな宝です。何よりも、お金を節約したいなら、行政はキチンと組織立てて考える努力をし、市民と共に課題を克服して行くべきだと常々感じています。
 市民の側でも、有為な人材が公的な後ろ盾を受けられる事にもなり、人材の発掘と目的達成の補完が可能になります。

細かな制度の練り上げも必要だと思いますが、制度作りは、行政が得意とするところですので、それを活かす事で解決できるでしょう。また、現実的にそういった素地もニーズもある訳ですから、あとは、行政のやる気だけです。

地方・地域分権を唱うならなら、こういった分野も自主的に考える事ができるかどうか、この一点を見ても、その自治体の万事の素質だと思います。
 一方で、道路や橋、水道などのインフラの維持管理も深刻な問題が指摘されている程ですから、実際のところ深刻な無法行動が続けられているのが現状であり、地域分権などとは夢のまた夢です。

ちょっと横道に逸れてしまいましたが、大東市のこういった「市民学芸員制度」は、非常に期待出来ますし、多くの町に広がって欲しいと願っています。

大東市立歴史民俗資料館 市民学芸員REPORT は、大東市内の公的な施設などで手に入るようです。興味をお持ちの方は、一度手に取ってご覧下さい。


ちなみに、同組織の活動拠点は同市民俗資料館です。
大東市立歴史民俗資料館公式ホームページ

追伸:個人的には、こういった市民活力の現実的な概念として寝屋川市の取り組む地域通貨での支払いも組み合わす事ができれば、有為な人材を定着させ、成長の持続につながるものと考えています。バランスは難しいと思いますが、責任と発展を持続させるには頼りになる要素であると思います。

2011年9月3日土曜日

郷土史を勉強して見えてきた現代の日本

郷土史という人間の歴史を勉強して、見えてきた今の日本社会があるのですが、皆さんが思うように、やっぱり私も将来が不安です。
 私が勉強している摂津池田家も地域権力として滅んだ一族ですが、権力の統合過程で、同じように滅んでしまった家も無数にあります。最近は織田信長とか豊臣・徳川などの権力構造研究が学会でも盛んに行われるようになって、少しずつ解き明かされつつあり興味深く読んでいます。
 しかし、権力になじめず、不合理に滅びた勢力もあるのかも知れませんが、その多くは滅びる理由がありました。池田家もそうです。

 私は、今も昔も変わらない、不変の真理があるように思います。それは、権利とお金の問題を調節できなくなった政治主体は斃れ、滅びるという事です。それが家であれ、何であれ、その集団は内紛や戦争という感情に頼る手段に訴えるしかなくなり、最後には尽きてしまいます。

「追跡!AtoZ 動画 「過熱する日本人技術者争奪戦」」←もし宜しければ、このワードを検索して、動画をご覧下さい。表示されたページの中ほどに動画が表示されています。何度も繰り返す大企業の主導者たちの体たらくに、怒りを覚える一つの事実です。
※現在は平成23年9月3日です。あまり時間が経つとリンクが切れるかもしれません。お早めに。

2011年5月19日木曜日

福井県一乗谷遺跡で、鎧兜を着用してみました!

ちょっと取材に、福井県の一乗谷を訪ねました。平成17年に水害があって、どうなってしなったのか心配もあったのですが、しっかりと復興されていました。安心しました。また、研究と発掘も進んでいるようで、大変見応えのある名所になっていました。
 平成13年(2001)にもこちらを訪ねたのですが、その時は冬で、雪も積もっていたので、ひっそりとしていたのですが、今回は気候の良い5月ということもあり、観光客も見られて賑やかでした。
 復元された町並みを見学していると、室町時代の鎧兜や旅装束などを着用できるお店があって、ちょっと悩んだのですが思い切って着てみました。

写真は、着せてもらっているところから、嬉しくなってはじけている一連の写真です。やはり、ちょっと照れくさいです。最近、太ったのもあるのですが、被りモノは似合いません。小顔がいいですね。
 時代劇でも同じ様なものを使っているようです。素材は、金属のところと樹脂みたいなところがあって、鎧の胴は、樹脂のような素材なのですが、それでもずっしりと重いです。両手の篭手も小さな鎖が表面に施されていますので、ずっしりと重く、生地も分厚いので、真夏に鎧兜は大変だと思います。

意外と気づかないのが、足下です。上体が重いのに足は草履や足袋のようなものしかありませんので、歩くと痛いです。今の靴のように分厚い底や柔らかいクッションもありませんので、かかとに直接重さがかかって、石や凸凹等があると痛いのです。


下半身、特に足は力のかかるところですから、耐久力のある適当な素材がなかったのか、長い間足回りは進化していないように思います。昔の人は大変だっただろうなと思います。
 あまり、鎧兜を着用する機会には巡り会えませんので大変貴重な体験でした。しかも何と、500円(税込)という破格値です。

みなさんも一乗谷を訪ねられた時はどうぞご体験下さい。良い記念になりますし、オススメです。

2011年3月17日木曜日

平成23年(2011)東北・関東大震災

大変な事が起き、毎日、情報に耳を傾けています。被災者の方々は、お見舞い申し上げます。私もできるだけの事はしていきたいと思います。

 さて、勝正の研究を続けていると、様々な昔の古文書を読むのですが、そこには、災害の事が結構書かれています。地震の事も書かれています。そういった事は、発掘でも同じで、慶長大地震の痕跡が、門真市などの発掘調査で検出されています。
 しかし、最近、発掘される事も少なくなり、また、文献の調査もどちらかというと細々とされる程度で、あまり積極的とは言えないように思います。
 神戸の震災から時間も経ち、天災に関する意識や備えは薄れてしまい、人間が小さなものだということを忘れていたのかもしれません。東北・関東大震災を受けて、やはりこのような甚大な被害を繰り返さないためにも、人間の英知を持続させる取組みは必要だと痛感しました。
 また、災害の現場作業という第一線も重要ですが、その後からの支援というのもまた大変重要です。必要な時に必要なものを繰り出す事で、目的を早く遂げる、復興を遂げるという事もしっかりと考えなければならないのでしょう。

 個人は、社会の中に生き、社会の再建が個人をも再建してくのだろうと感じます。突然、多くのものを失った直後の事では、被災者はそのような事を冷静に考えられないと思いますが、被害を受けなかった私を含めた周辺の日本国民が、その支えとなればいいな、強く願っています。

 中世の古文書を読んでいると、事に当たる時、非常に組織的な動きをする側面もありました。「後巻き」という、最前で事に当たる人々の後にも備えをして、目的を遂げています。
 こういった事は、社会を形成して生活をしている現代でも、必要な事だと思います。「東北・関東大震災」においても、ボランティアで直ぐにでも役立ちたいという声も多くある中で、「温故知新」として参考にもなるものだと思います。

 大地震発生の直後で、今必要な事と少々論点がずれているかもしれませんが、やはり先人の知恵を活かす取組みというのは、地道に継続して続ける事で、多くの防げる事が見えてくるのだと、感じる事もありました。

 私のこの研究も社会の何かに役立てる事ができればと、考えるようにもなりました。

 本当に被災された方の無念は、察するに余り有ります。

2009年12月14日月曜日

中世国人の研究って...

大阪府池田市に住んだことがきっかけで、摂津国人池田氏の事を調べ始めました。
 最初は全くの素人からのスタートでした。私は造形やデザインの勉強をしていましたので、 歴史学というかそちらの分野の事は全くわらないまま、興味だけで進んでいました。
 しかし、10年以上もやっていると、活字になった古文書は何とか読めるようになり、 書いてある事の意味も解るようになりました。
 そこから見えてきたものは、やはり、最初に感じていた通りで、歴史とは、勝者の 歴史でした。
 負けた側の歴史は、勝者に都合よく使われて、それはもう「悲惨」といってもいい くらいです。歴史というものを細かく見ていくと、そういった事も見えてきます。
 池田筑後守勝正という人物は、実質的に池田家の最後の当主で、また、同家の最盛期でもありました。そんな、世の中の天と地を経験したような人物ですが、 彼の人生は、あまり知られる事も無く、埋もれたままです。
 しかし、彼は非常に話題の豊富な人物で、歴史的な転換点に多数立ち会って います。織田信長との対戦、また、荒木村重や中川清秀を家臣に持ち、高山右近など ともキリスト教を通して、その資料にも現れます。
 今も池田勝正の研究を続けていますが、また、機会を見つけて、池田勝正の 人物像を紹介していきたいと思います。