戦国大名池田筑後守勝正研究の核心である、勝正そのものの事実や家の事、また、その本拠たる池田城の事をしっかりとご紹介する事をそろそろしないといけません。
摂津池田氏については、滅びた家だけに、総合的な検証もなければ、史料も無いため、これまでは、史料集めを兼ねたその外郭部分を見てきたのですが、少しずつ中心部分のことも見えるようになってきています。かといって、今日明日にご紹介いただけるような状態でもないのですが、兎に角、池田勝正についての細部をご紹介できる段階に入りつつあります。
それらは、このブログで先ず紹介し、ゆくゆくは、本にでもまとめられたらと考えています。ご興味のある方は、お楽しみにお待ち下さい。
それで、最近、池田城の支城について考えていますが、肝心の池田城そのもののテーマを立てていないことに気づき、それもやらなければならないと考えている次第です。
それで今回は、ちょっと古い資料にある池田城の口伝・記述をご紹介して、後便に精を入れるための吉書はじめにしておきたいと思います。
宇保町の荒木藤市郎氏を中心として池田町史編纂室を設け、昭和14年(1939)4月1日に、発行された池田町史にある、「池田城址」についての記述です。
※池田町史(第一篇:風物詩)P21
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一、城址
城址は五月山の南麓にあって、俚俗は城山と呼んで居る。周囲十余町歩に亘り、回字形をなして居る。近時城址の高台に2・3住宅等が造られて居るが、一度■(日の下に邛)を曳いて荒城の址に立てば、千古を語る老樹松鬱に和し、なんとなく在りし昔の偲ばれて荒城の歌でも唱いたくなる。
廃墟の中央に一段高い平面の台地がある。俚俗は天守閣の跡だと呼んで居る。其前面東南下に谷の様に凹んだ所は堀と字して居る。濠址であろう。城は世々土豪池田氏の拠りし処であるが、池田氏の伝は詳らかでない。
一、城下町
今池田町の町の辻々を見るとひとつとして直線をなすものはない。悉く中途で屈折した枡形の町並みである。近時市街整理の為め其の2・3主要路線は屈折を除かれたが...。この屈曲した町並みが池田城を繞城下町として発達した遺址である。そうして伝へらるる池田城の遺墟を見るに、当時は未だ自然の険を恃んで造られた山城制の時代であって、現在の池田城址より稍々(やや)山上の大広寺付近か其の遺址の一部の様に思われる、と某将軍(元37連隊長)は話された。
知性は、西は猪名川の断崖に臨み、北は峻嶺の五月山を負い、東南部は杉ヶ谷川の自然濠を控え、南部は恵那堀の第2次濠があった様である。今この堀は林口町と田中町両界の溝渠となって居るが『細川両家記』を見ると、永正5年5月10日、細川高国の為に埋められた様である。そして山脚は城山より南東部の高台、附属小学校より建石町法園寺に至り、其れより東部に屈曲して、上池田町に亘る一帯の高台は羅城(外郭)を廻らして居た様である。
『永禄記』
永禄11年10月2日池田へ御手遣い、大軍を以て外構放火せられ云々
又建石町回生病院付近では『弓場』の地名を存し、又陽春寺登山路の下より小阪前に至る区域は『的場』と呼んで居る。思うに当時武道教練に設けられた射場の地であろう。当時は常備の武士を城内の館舎に置いて、非常に備えしと謂えば其の地勢より見て、建石町及び上池田町の高台の地は屋敷町の地であって、下町方面は主として商業地区として発達したものの様である、かの俚謡に
山家なれども池田は名所。月に十二の市が立つ。
と謡われた場所は下町に当たる、東西本町より仲之町方面に亘れる地区に限定されて居た様である。
(後略)
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ちなみに、同月29日に池田市が誕生しています。市に昇格するにあたって、これまでの基礎になる要素をまとめて、今後に役立てようとしたのでしょう。そうだとすれば、大変賢実で、立派な考えだと思います。
さて、町史にある上記の記述で興味深いのは、この町史が発行された時代は大東亜(太平洋)戦争前で、軍人が日常的に多数おり、その軍人に池田城についての所見を聞いて、城の縄張りの概念復元を試みている点です。全国の村や町に帝国在郷軍人会が必ずあって、活動をしていました。
この記述を見た事もきっかけの一つだと感じていますが、私自身が色々調べる内に、やはり池田城防備の概念は、五月山山上にも及び、大広寺もその一部を担っていたと考えるようになっています。現在山上にある「五月山愛宕神社」もその関係地だと思います。ここに立つと、北東方面以外は全て俯瞰できます。いわゆる270度の視野です。河内飯盛山城もそうですが、山城の立地はだいたいこういう条件のところに造られています。
池田城は山城ではなく、その中腹に造られていますが、池田城は時代時代の中で重要な拠点の地位でもあり、こういった事から考えても、視野を確保して備える要素は、不可欠であり、必ず求められただろうと考えています。同時に、五月山北側の細川地域との連絡や通路接続についても、頂上は結節点として機能していたと思われます。
詳しくはまた、池田城の項目で考えてみたいと思います。では、また。
摂津池田氏については、滅びた家だけに、総合的な検証もなければ、史料も無いため、これまでは、史料集めを兼ねたその外郭部分を見てきたのですが、少しずつ中心部分のことも見えるようになってきています。かといって、今日明日にご紹介いただけるような状態でもないのですが、兎に角、池田勝正についての細部をご紹介できる段階に入りつつあります。
それらは、このブログで先ず紹介し、ゆくゆくは、本にでもまとめられたらと考えています。ご興味のある方は、お楽しみにお待ち下さい。
それで、最近、池田城の支城について考えていますが、肝心の池田城そのもののテーマを立てていないことに気づき、それもやらなければならないと考えている次第です。
それで今回は、ちょっと古い資料にある池田城の口伝・記述をご紹介して、後便に精を入れるための吉書はじめにしておきたいと思います。
宇保町の荒木藤市郎氏を中心として池田町史編纂室を設け、昭和14年(1939)4月1日に、発行された池田町史にある、「池田城址」についての記述です。
※池田町史(第一篇:風物詩)P21
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昭和14年以前の様子(左奥の森が伊居太神社か) |
城址は五月山の南麓にあって、俚俗は城山と呼んで居る。周囲十余町歩に亘り、回字形をなして居る。近時城址の高台に2・3住宅等が造られて居るが、一度■(日の下に邛)を曳いて荒城の址に立てば、千古を語る老樹松鬱に和し、なんとなく在りし昔の偲ばれて荒城の歌でも唱いたくなる。
廃墟の中央に一段高い平面の台地がある。俚俗は天守閣の跡だと呼んで居る。其前面東南下に谷の様に凹んだ所は堀と字して居る。濠址であろう。城は世々土豪池田氏の拠りし処であるが、池田氏の伝は詳らかでない。
一、城下町
今池田町の町の辻々を見るとひとつとして直線をなすものはない。悉く中途で屈折した枡形の町並みである。近時市街整理の為め其の2・3主要路線は屈折を除かれたが...。この屈曲した町並みが池田城を繞城下町として発達した遺址である。そうして伝へらるる池田城の遺墟を見るに、当時は未だ自然の険を恃んで造られた山城制の時代であって、現在の池田城址より稍々(やや)山上の大広寺付近か其の遺址の一部の様に思われる、と某将軍(元37連隊長)は話された。
知性は、西は猪名川の断崖に臨み、北は峻嶺の五月山を負い、東南部は杉ヶ谷川の自然濠を控え、南部は恵那堀の第2次濠があった様である。今この堀は林口町と田中町両界の溝渠となって居るが『細川両家記』を見ると、永正5年5月10日、細川高国の為に埋められた様である。そして山脚は城山より南東部の高台、附属小学校より建石町法園寺に至り、其れより東部に屈曲して、上池田町に亘る一帯の高台は羅城(外郭)を廻らして居た様である。
『永禄記』
永禄11年10月2日池田へ御手遣い、大軍を以て外構放火せられ云々
又建石町回生病院付近では『弓場』の地名を存し、又陽春寺登山路の下より小阪前に至る区域は『的場』と呼んで居る。思うに当時武道教練に設けられた射場の地であろう。当時は常備の武士を城内の館舎に置いて、非常に備えしと謂えば其の地勢より見て、建石町及び上池田町の高台の地は屋敷町の地であって、下町方面は主として商業地区として発達したものの様である、かの俚謡に
山家なれども池田は名所。月に十二の市が立つ。
と謡われた場所は下町に当たる、東西本町より仲之町方面に亘れる地区に限定されて居た様である。
(後略)
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ちなみに、同月29日に池田市が誕生しています。市に昇格するにあたって、これまでの基礎になる要素をまとめて、今後に役立てようとしたのでしょう。そうだとすれば、大変賢実で、立派な考えだと思います。
昭和40年代初期頃の写真(池田市史 史料編より) |
この記述を見た事もきっかけの一つだと感じていますが、私自身が色々調べる内に、やはり池田城防備の概念は、五月山山上にも及び、大広寺もその一部を担っていたと考えるようになっています。現在山上にある「五月山愛宕神社」もその関係地だと思います。ここに立つと、北東方面以外は全て俯瞰できます。いわゆる270度の視野です。河内飯盛山城もそうですが、山城の立地はだいたいこういう条件のところに造られています。
池田城は山城ではなく、その中腹に造られていますが、池田城は時代時代の中で重要な拠点の地位でもあり、こういった事から考えても、視野を確保して備える要素は、不可欠であり、必ず求められただろうと考えています。同時に、五月山北側の細川地域との連絡や通路接続についても、頂上は結節点として機能していたと思われます。
詳しくはまた、池田城の項目で考えてみたいと思います。では、また。