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2016年5月20日金曜日

摂津池田城の縄張り概念は、五月山山上にまで及んでいた!?

戦国大名池田筑後守勝正研究の核心である、勝正そのものの事実や家の事、また、その本拠たる池田城の事をしっかりとご紹介する事をそろそろしないといけません。
 摂津池田氏については、滅びた家だけに、総合的な検証もなければ、史料も無いため、これまでは、史料集めを兼ねたその外郭部分を見てきたのですが、少しずつ中心部分のことも見えるようになってきています。かといって、今日明日にご紹介いただけるような状態でもないのですが、兎に角、池田勝正についての細部をご紹介できる段階に入りつつあります。
 
それらは、このブログで先ず紹介し、ゆくゆくは、本にでもまとめられたらと考えています。ご興味のある方は、お楽しみにお待ち下さい。

それで、最近、池田城の支城について考えていますが、肝心の池田城そのもののテーマを立てていないことに気づき、それもやらなければならないと考えている次第です。
 それで今回は、ちょっと古い資料にある池田城の口伝・記述をご紹介して、後便に精を入れるための吉書はじめにしておきたいと思います。
 宇保町の荒木藤市郎氏を中心として池田町史編纂室を設け、昭和14年(1939)4月1日に、発行された池田町史にある、「池田城址」についての記述です。
※池田町史(第一篇:風物詩)P21

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昭和14年以前の様子(左奥の森が伊居太神社か)
一、城址
城址は五月山の南麓にあって、俚俗は城山と呼んで居る。周囲十余町歩に亘り、回字形をなして居る。近時城址の高台に2・3住宅等が造られて居るが、一度■(日の下に邛)を曳いて荒城の址に立てば、千古を語る老樹松鬱に和し、なんとなく在りし昔の偲ばれて荒城の歌でも唱いたくなる。
 廃墟の中央に一段高い平面の台地がある。俚俗は天守閣の跡だと呼んで居る。其前面東南下に谷の様に凹んだ所は堀と字して居る。濠址であろう。城は世々土豪池田氏の拠りし処であるが、池田氏の伝は詳らかでない。

一、城下町
今池田町の町の辻々を見るとひとつとして直線をなすものはない。悉く中途で屈折した枡形の町並みである。近時市街整理の為め其の2・3主要路線は屈折を除かれたが...。この屈曲した町並みが池田城を繞城下町として発達した遺址である。そうして伝へらるる池田城の遺墟を見るに、当時は未だ自然の険を恃んで造られた山城制の時代であって、現在の池田城址より稍々(やや)山上の大広寺付近か其の遺址の一部の様に思われる、と某将軍(元37連隊長)は話された
 知性は、西は猪名川の断崖に臨み、北は峻嶺の五月山を負い、東南部は杉ヶ谷川の自然濠を控え、南部は恵那堀の第2次濠があった様である。今この堀は林口町と田中町両界の溝渠となって居るが『細川両家記』を見ると、永正5年5月10日、細川高国の為に埋められた様である。そして山脚は城山より南東部の高台、附属小学校より建石町法園寺に至り、其れより東部に屈曲して、上池田町に亘る一帯の高台は羅城(外郭)を廻らして居た様である。

『永禄記』
 永禄11年10月2日池田へ御手遣い、大軍を以て外構放火せられ云々
 
又建石町回生病院付近では『弓場』の地名を存し、又陽春寺登山路の下より小阪前に至る区域は『的場』と呼んで居る。思うに当時武道教練に設けられた射場の地であろう。当時は常備の武士を城内の館舎に置いて、非常に備えしと謂えば其の地勢より見て、建石町及び上池田町の高台の地は屋敷町の地であって、下町方面は主として商業地区として発達したものの様である、かの俚謡に

山家なれども池田は名所。月に十二の市が立つ。

と謡われた場所は下町に当たる、東西本町より仲之町方面に亘れる地区に限定されて居た様である。
(後略)
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ちなみに、同月29日に池田市が誕生しています。市に昇格するにあたって、これまでの基礎になる要素をまとめて、今後に役立てようとしたのでしょう。そうだとすれば、大変賢実で、立派な考えだと思います。

昭和40年代初期頃の写真(池田市史 史料編より)
さて、町史にある上記の記述で興味深いのは、この町史が発行された時代は大東亜(太平洋)戦争前で、軍人が日常的に多数おり、その軍人に池田城についての所見を聞いて、城の縄張りの概念復元を試みている点です。全国の村や町に帝国在郷軍人会が必ずあって、活動をしていました。
 この記述を見た事もきっかけの一つだと感じていますが、私自身が色々調べる内に、やはり池田城防備の概念は、五月山山上にも及び、大広寺もその一部を担っていたと考えるようになっています。現在山上にある「五月山愛宕神社」もその関係地だと思います。ここに立つと、北東方面以外は全て俯瞰できます。いわゆる270度の視野です。河内飯盛山城もそうですが、山城の立地はだいたいこういう条件のところに造られています。
 池田城は山城ではなく、その中腹に造られていますが、池田城は時代時代の中で重要な拠点の地位でもあり、こういった事から考えても、視野を確保して備える要素は、不可欠であり、必ず求められただろうと考えています。同時に、五月山北側の細川地域との連絡や通路接続についても、頂上は結節点として機能していたと思われます。
 
詳しくはまた、池田城の項目で考えてみたいと思います。では、また。


2016年5月3日火曜日

摂津国豊嶋郡細河郷と戦国時代の池田(細河庄内の木部村と武将下村氏について)

摂津国豊島郡細川郷(庄)内の下村氏は、同郡内から成長を遂げた戦国領主池田氏に早い時期から被官化していたと考えられる。
 実際にはもっと早くから確認できるのかもしれないが、筆者が池田勝正の活動に主眼を置き、その活動を追っている関係で、享禄2年(1529)から天正7年(1579)までの史料しか確認できていない。以下で扱う資料は、そういった状況でのものである事を予めご了解いただきたい。
 それから、下村氏の本拠である木部村とそこに関係する寺社、また出来事、歴史的遺物なども併せて示し、包括的に理解を深めたいと考える。

先ず始めに、他の項目と重複するが、現在既に論説されている木部村とそれに関する寺社を示してみる。

各項目の出典は、『日本城郭全集』『日本城郭大系』『○○(県名)の地名』に紹介されている城から見てみます。なお、出典は日本城郭全集が【全集】、日本城郭大系【大系】、○○(県名)の地名【地名】、その他【書名】、自己調査【俺】としておきます。


◎ご注意とお願い:
 『改訂版 池田歴史探訪』については、著者様に了解を得て掲載をしておりますが、『池田市内の寺院・寺社摘記』については、作者が不明で連絡できておりません。また、『大阪府の地名(日本歴史地名大系28)』や『日本城郭大系』などは、 引用元明記を以て申請に代えさせていただいていますが、不都合はお知らせいただければ、削除などの対応を致します。
 ただ、近年、文化財の消滅のスピードが非常に早く、この先も益々早くなる傾向となる事が想定されます。少しでも身近な文化財への理解につながればと、この一連の研究コラムを企画した次第です。この趣旨にどうかご賛同いただき、格別な配慮をお願いいたしたく思います。しかし、法は法ですから、ご指摘いただければ従います。どうぞ宜しくお願いいたします。


◎木部村(池田市木部町)
  • 池田村の北にあり、細郷の一村。村の東部は五月山の山腹にあたり、西部に耕地が広がる。西側を猪名川が南流し、村の西辺で北西辺を南西流してきた久安寺川と合流する。池田村より北上してきた能勢街道は、村の西部ほぼ中央で余野道(摂丹街道)を分岐。集落は能勢街道沿いに点在、とくに池田村に近い地は木部新宅と称し、町場化していた。
     慶長10年(1605)摂津国絵図に村名がみえ、元和元年の摂津一国高御改帳では細郷1745石余の幕府領長谷川忠兵衛預に含まれる。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では村高275石余で、うち仙洞御領89石余・幕府領185石余、元禄郷帳以降は、すべて幕府領。享保17年(1732)の家数63(うち屋敷持本百姓45・水呑6・借屋8・寺2・庵2)・人数329、牛12(下村家文書)。
     木部新宅は、宝永6年(1709)12軒の建家が認められたのに始まる。享保10年には16軒に増えていたが、4軒の取払いが命じられた。しかし、嘆願によって草履・草鞋・煮売り以外は営業しない、という条件で仮小屋が認められた。寛政3年(1791)には、木部新宅の魚屋3軒が、池田村の魚屋株仲間から訴えられ、廃業させられるという出入も起こっている(下村家文書)。当地は池田村への北からの入口にあたるため、池田商人との争いを繰り返しながらも町場化が進んでいった。紀部神宮・臨済宗妙心寺派超伝寺・曹洞宗永興寺・曹洞宗松操寺がある。【地名:木部村】
  • 池田備後守光重寄進状 昭和11年7月 林田良平稿「大広寺年表」所載
    一相乗實(池田知正)並びに池田三九郎為、木辺村於、米10石御寺納候。田数別紙之在り。仍って後日為寄進件の如し。
       慶長10年(1605)10月吉日 池田備後守光重(花押)
        大広寺御納所
    【池田郷土研究第8号12頁:例会281回(昭55・5・11)蝸牛驢文庫所蔵】

◎曹洞宗 総持寺末 竹林山 松操寺(池田市木部町)
  • 字北条にあり。竹林山と号し、曹洞宗総持寺末なり。寛文2年(1662)8月、下村五郎右衛門の創立にして、大広寺18世雲山の開基と伝えられる。(池田町史)【池田市内の寺院・寺社摘記:松操寺】
  • 木部天神社(紀部神社)前の旧道を少し北へ行くと、五月山山麓の竹林に包まれて「松操寺」があります。ここまでは車の騒音も聞こえない、ひっそりとした佇まいの尼寺です。
     開山は「下村五郎右衛門」という人で、地元では「ごろよみ」と呼ばれていました。寛文2年(1662)大広寺末として、18世により建立されました。ご本尊は釈迦牟尼仏で台座には笹りんどうの紋があって、珍しいことに獅子に乗っておられます。お釈迦様が獅子に乗られたのか、獅子が潜り込んだのか、どちらでしょうか。下村五郎右衛門の祖母の持仏であったとも伝えられていますから、400年以上昔の仏像です。両脇には、達磨大師・天元大師の木像があります。また、小さいけれども創建当時の地蔵菩薩が安置されています。
     長い間無住の時代があって、竹藪にポツンと在った草庵に、籠職人が住み込んでいた事もありました。庵主が入られて現在7世となります。本堂は、周りに増築されていますが、柱など創建当初のまま、焼けることも無く江戸時代初期から修復を重ねて350年近くの年月を経て、今日に至っています。(中略)。
     戦後は政教分離が徹底され、檀家の変遷のある中で、寺院の維持・保存は非常に難しくなってきました。院主のご苦労が偲ばれます。【改訂版 池田歴史探訪:松操寺】

◎曹洞宗 総持寺末 松尾山 永興寺(池田市木部町) 
  • 松尾山と号し、曹洞宗大広寺末にして釈迦牟尼仏を本尊とす。長禄2年(1458)2月、「永公」の創立なり。
     永興寺開山堂(いち名位牌堂)の十一面観音は、左手に水瓶(薬瓶)を提げ、右手で錫杖を立てている。ちょっと見慣れない姿だが、是れがいわゆる長谷式で、大和国長谷観音本尊の写しである。長谷寺は、天平時代に藤原房前が本願となって稽文会(けいもんえ)・稽主勲(けいしゅくん)合作のものを安置したが、現在のものは天文7年(1538)8月1日に成ったのだという。
     恐らく現本尊と同じものが古くからあって、天文年間(1532-55)にその形式を襲ったのであろう。分家が古く、本家が新しいという様な事は、理屈に合わないからである。なお錫杖を持っているのは、地蔵の兼相を表すものだとされている。
     ところで、永興寺の十一面観音は、元は木部天神の神宮寺松梅寺の本尊であったという。だいたい、松と梅は天満天神とかかわりの深いものだから、そんな名の寺に同神の本地とされる十一面観音を祀ったのは当然だろう。
     それは兎に角、この像は一木造りで、高さ110センチメートル、宝冠型のまわりに化仏を前後2体、左右3体、現在頂上に1体を配置する略式であるが、頂上仏は失われていない。それから首だけが妙に継ぎ足しの様にみえるのは、そのところだけ金箔が押し直された為か。なお左手と持物、足先が後補、台座も年代が下る。
     時代は彫眼の向き、肩の線、腰のくねり、衣丈の具合等、はっきり藤原式である。ただ中期か末期かに迷わされる。(池田市史)【池田市内の寺院・寺社摘記:永興寺】
  • 永興寺は、木部天神宮の赤い鳥居の右側の坂道を少し登ると、長尾山を望む高台にあります。このお寺は、室町時代の長禄2年(1458)、僧「永公」の開祖と伝えられますから、応仁の乱直前の540年を超える古いお寺です。永公がこの地に来たとき、粗末な庵(いおり)に十一面観音が祀られてあり、ここで一泊したところ、観音のお告げがあり、寺を建立したと伝承されています。
     ご本尊の十一面観音立像は、藤原時代1100年程前の作です。桧一木造りで、頂上仏が失われていますが、池田市重要文化財に指定されている貴重な仏像です。本堂裏の墓地には、古い歴史を語る、多くの宝塔・墓石が樹木に囲まれて森閑と並んでいます。心落ち着く風情です。
     隣地にある天神宮とは、昔は神仏習合(奈良時代に始まった神と仏の信仰を融合調和する思想の表れ)によって敷地がつながっていたそうです。以前、木部天神宮の神宮寺であった松梅寺がありました。【改訂版 池田歴史探訪:永興寺】

◎曹洞宗 静居寺末 少林寺・退蔵峰 陽松庵(池田市吉田町) 
  • 観応2年(1351)天龍寺開山夢想の開基なりと伝えらる。安永5年(1776)3月、淡路の領主稲田九郎兵衛祖先菩提のため再建せりと。境内九百坪を有し、本堂・庫裏・書院・方丈・廊下・衆寮・如幼斉・侍者寮・経蔵・山門・開山堂・禅堂などあり(大阪府全志)。
     本寺は有名なる天桂禅師留錫の道場であって、享保6年(1721)禅師を招請して中興の開山とした(寺史による)。彼の禅師の名著「正法眼蔵辨註(20巻)」「驢耳弾琴(7巻)」「報恩篇(3巻)」等は当時、眠れる法城に向かって獅子吼された書であって、当山は禅師由緒の地である。今尚は、其の名著の版木は輪堂に蔵され、禅師手澤の「正法眼蔵辨註」は、門外不出の書として当山に尚蔵されている。禅師は「正法眼蔵辨註」を享保11年に起稿され、同14年春に脱稿されている。そして6年後の享保20年(1735)12月10日に遷化された。
     当山は安居其他僧俗を問わず、時々其名著を提唱して修養の禅道場となって居る。そして当山は人寰(じんかん:人の住むべきさかひうち)を隔てて小丘によれる僻陬(へきすう:僻地)の寺院であって、幽翠静寂の勝地である。
     近時都人士が、煤煙の地を離れて当山に集い、提唱を聴く者甚だ多しと世間では、当山を一(いつ)に吉田の天桂と呼んでいる。禅師の遺蹤(いしょう:人の行ったあとかた)を偲ぶ名であろう。(池田町史)【池田市内の寺院・寺社摘記:陽松庵】
  • 細河谷南斜面の日当たりの良い適度に乾燥した土地は、我国有数の松の産地で、五葉松(ヒメコマツ)、柏槙などの生産で有名です。池田の文化に多大な影響を残した連歌師「牡丹花肖柏」の号「肖柏」も松・柏に因んでいます。
     同様に松に因む参禅道場「陽松庵」の開山は、観応2年(1351)室町時代、京都天龍寺開山の夢想国師(疎石)と伝えられています。その地は木部北条にありました。その後、四国阿波蜂須賀候は、深く天桂禅師にに帰依され、創建より362年後の正徳3年(1713)、その家老である稲田九郎兵衛によって天桂禅師を招請し、堂宇を再建することを発願されました。
     享保6年(1721)、木部の牡丹屋下村小兵衛も天桂禅師に深く帰依し、所有する吉田の現在地を寄進し、稲田氏と共に天桂禅師を中興開山として新築移転建立されました。
     陽松庵は禅寺としての伽藍配置が良く整っていて、経蔵・放生池・山門・法堂・仏殿・鐘楼・座禅堂・客殿・庫裏・浴室・東司などを備えて、創建当時のまま修復を重ね、現在に至るまで保存されている池田屈指の古刹といえます。(中略)。
     天桂禅師(1648-1735)の墓所は、禅師自らが示された西側山麓の石段を登りつめた所にあります。そこには禅師が示された楠木が代々植え継がれています。(後略)。【改訂版 池田歴史探訪:陽松庵】

◎紀部天満宮(池田市木部町) 
  • 現在の紀部神宮、旧称木部天満宮の所在は池田市木部。当郷産土神として、崇敬甚だ厚く、祭神菅公の千載に変わらぬ忠烈精誠を仰がざるはない。創建の年代は詳らかならざるも、所伝に依れば、天神系紀国造(きのくにみやつこ)の末裔である木部氏(紀部氏)此の地に居りて祖神天道根命(あめのみちねのみこと)を斉祀し、氏の大神として尊崇されるもの、即ち当社の起源にして、後一条天皇の正歴4年(993)勅使菅原爲理太宰府に下り、菅廟に正一位太政大臣を贈り、霊代を奉じての帰途に、神託を畏みて分霊を島上郡日神山(ひるがみやま:上宮天満宮(天神社)現大阪府高槻市天神町)と当社に奉祀し、次いで、日神山の神を上宮天神、当社を木部天神と称え奉りたるものなり、という。
     天神系紀国造の氏族夙くこの地に住して、其の祖天道根命を祀り、氏神として斉き奉りたりしが、後年菅公を配祀して、天神宮と公称せしものなるべしが、正親町天皇朝の天正年間(1573-92)織田氏の兵火にかかり、社殿・神宝・古記録など悉く鳥有に帰し、今や徴すべき史料はない。
     以来、当地の名族下村五家、宮家として、京都吉田殿の免許を受け、神事を奉仕する事、実に明治40年に至れりという。
     上記は、義川百合女氏の論文を摘記させていただいたのですが、義川氏は最後に「而し、現社号は昭和26年宗教法人法に依り、上記の古文献・記録に従ひ許可されたるにて、神宮の称号は府下希有のものたるべし。」としています。【池田市内の寺院・寺社摘記:紀部天満宮】
  • 畑天満宮と区別するために「木部天満宮」としましたが、地元では「天神宮さん」と呼ばれています。本殿に掲げられている額には、「天満宮」と書かれていますので、天満宮が正しいと思いますが、称号が何時変わったのか明らかではありません。別に紀部神社とも呼ばれています。
     当社のご祭神は、言うまでも無く菅原道真公です。菅原道真は、藤原時時平の讒言によって、太宰府に左遷されて、延喜3年(903)59歳で亡くなりました。以来、天神信仰が全国的に拡がり、各地に「天神さん」として祀られていますが、ここの天神宮は、道真公と直接の由来があったように思います。と言いますのも、かなり古い社で少なくとも14世記南北朝時代には祀られていたように思います。火災には遭っていないようですが、長い間、宮司が不在で、古文書などは散逸してしまっているために、全く不明です。しかし、寛政から天保年間(1789-1843)の頃、最も繁栄していた様です。その後、明治・大正・昭和の初期まで、厚い信仰が続いていました。
     現在の本殿は、100年余り前の建立と思われますが、境内の数百年を経るケヤキの大木や石垣などに歴史の重みが感じられます。木部は「城辺」とも記録され、池田の原住民「佐伯部」の城(とりで)があたっと伝えられる平安時代からの集落でした。五月山は佐伯山と呼ばれていました。
     また、木部は大規模牡丹栽培の発祥地として500年もの歴史と主産地としての繁栄がありました。牡丹屋小兵衛が著名で、今も牡丹屋と呼ばれる下村家が健在です。現在、吉田にある陽松庵は、もとは木部にありました。陽松庵の建立に、牡丹屋小兵衛の大きな尽力がありました。
     木部天満宮は、阪神大震災で社務所が倒壊し、大きな被害を受けました。しかし、整備された神社とは、また違った神秘さと、歴史のミステリーが感じられます。
     当社のお祭りは10月24日・25日の秋祭りです。最近は祭日直近の土曜日に行われます。だんじりは、木部と新宅の2台があります。(中略)。現在は木部のだんじりだけが、2つの赤提灯を先頭に、太鼓の音色も勇ましく、大人・子ども70〜80人が曳いて、木部町を一巡します。保存会の方々のお陰で、元気な子どもたちも大いに一日を楽しみます。【改訂版 池田歴史探訪:木部天満宮】

既述のように木部村は、寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では村高275石余で、享保17年(1732)の人口は329人。この規模で神社(神宮寺)1に寺が3つと陽松庵を持つ。細川郷六ヵ村の中で木部村の石高が特に高いわけでもないが、他の村の寺数が大体は2つであるのに比べて、倍の数を保有している。

次に、戦国時代当時の資料を見てみる。永享元年(1429)8月に発行された『春日社神供料所摂州桜井郷本新田畠三帳』に、春日社柛供料所摂州豊嶋郡桜井郷本田分として、17坪・23坪などの給人で「下村五郎兵衛」と見える。これが下村氏についての史料上の初見ではないかと思われる。また、年記は未詳ではあるが、天文15年と推定される、6月1日付けの池田信正による、今西家(春日社領垂水西牧南郷目代)への神供米切出注文の中に給人として「下村両人」と見える。その後も神供料に関する記録に下村姓が見られ、天正4年(1576)分にも小曽根分として「下村分」が見える。
 そして、これらの給人の多くは、池田氏の被官であったと思われる。下村氏は、春日社領に関わる行動もしていた。早い段階の記述に見える下村氏は、士分の活動をしていたのかどうか、他の史料が無く、今のところ不明ではあるが、地域の有力者や村の防衛のために武士として活動していた一派もあっただろうと思われる。
 また、池田氏の当主が長正に代わると、下村氏は更に深く、その政治体制に関わるようになっていく様子が窺える。史料では年記を欠くが、永禄2年と思われる10月15日付けで、今西橘五郎へ宛てた音信では、池田勘介正行・荒木与兵衛尉宗次・寺井与兵衛尉綱吉・宇保平三郎安家・大井新介宗久・村田善九郎秀宗と共に、下村彦三郎仲成が名を連ねている。内容を以下に示す。
※豊中市史(史料編1)P129

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急度折紙以って申し候。仍て小曽根村井■(井関?)之事、段別一斗六升懸けられ由候。百姓等申し候。如何有り之儀候哉。前々堤切れ候時に、引き懸けなど有るべく候。当年過分に懸けられ候事。各々承引仕り難く候。この由百姓中へ聞かせ仰されるべく候。恐々謹言。
※■=米遍に斤
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続いて、当主が勝正の時代、池田氏は活動範囲が最も広くなる。大和国奈良へ軍を入れる中に、下村重介なる人物が見える。『多聞院日記』5月19日条に、
※増補 続史料大成(多聞院日記2)P14

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一、昨夜宿院ノ城へ夜打シテ池田衆損了。寂福院へコミ入了。事終次第也(下村重介死了。百計ノ大将ト云々)。坊舎オモコホチ了。並金龍院ヲモフルヰ了。日中後尊蔵院ヲモコホツ由也。定テ宿院辻之城ノ火用心二、坊ヲ可壊取之由被申歟。浅猿浅猿。
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下村重介は、奈良宿院城の夜襲に失敗し、戦死した模様。この時の重介は、100人程を采配する大将であったらしいが、大将が戦死したと伝わる程の戦闘であるから、他にも死傷者を多く出しているのだろう。この戦いについての記述が他になく、詳しくはわからない。
 その後、下村氏については、直接的史料では見られなくなるが、伝聞資料や系図、軍記物などで下村市之丞なる人物の行動が見られる。ただ、これは豊島郡細郷の下村氏とは別家系かもしれないが、参考までにあげてみたい。
 
『岡藩豊後中川氏諸士系譜(豊後竹田市立図書館所蔵)』に、下村市之丞勝重(下村伊賀守成兼長男)の項目がある。以下にその部分の内容を抜粋してみる。
 ちなみに下村成兼とは、下村仲成とは「成」の字が共通しており、通字を冠していたかもしれない。これは、今のところ個人的な想像に過ぎないが...。また、「市之丞」は正式な官位の名乗りではない。本拠地が「市場」であるためか。
※荒木村重史料(伊丹史料叢書4)P147

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一、同(永禄)12年(1569)1月4日、三好勢本圀寺の御所に押寄候に付、伊丹兵庫頭・池田筑後守を始め渡辺宮内少輔・萱野長門守・田能村伊賀守・有馬伊予守・白井主水正・下村市之丞・粟生谷兵衛尉・長柄八郎左衛門・安威三河守・畠田但馬守・(中川)清秀様・布引舎人助・荒木弥助・長目清助・桜塚庄兵衛等摂州を打立、公方家之御味方に参る。(中略)。
一、元亀元年(1570)9月、荒木信濃守村重池田城に在りて勝正か余類退治の時、清秀様・下村市之丞・粟生谷兵衛尉・安威三河守・瓦林越後守以下村重か下知に依りて、自身馬を進め人数を出し、残党共の要害に押寄壱人も不残悉く討取。
一、元亀3年(1572)8月28日白井河原合戦荒木信濃守村重和田伊賀守惟政と合戦の節、市之丞は荒木方にて、清秀様・粟生谷兵衛尉等一同に上の郡勝光寺に勢揃いして馬塚に出張し、和田勢と相戦い和田方の鉄砲頭十河扶之助を討捕。
一、市之丞儀、荒木幕下に有之時、何れの合戦にや無比類高名を顕し、村重差所の刀を引出物として賜る、其刀子孫伝来す。刀長二尺五寸、作出雲道永。
一、天正6年(1578)11月、荒木謀反之節、清秀様茨木御籠城、依之市之丞御加勢として茨木城へ参上。
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とある。また、同じく『諸氏系譜』に、何名かの下村姓の由緒が見られる。参考までにあげてみる。
※摂津市史(史料編1)P528、530、532

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第12巻
此巻にも又摂州菅家之一族、永禄年中清秀公之旗下に属する輩記之。
【下村総蔵】其祖下村次郎左衛門者播磨国赤松之支族にして、播州三木郡下村に居る。永禄年中摂州に入て伊丹家に属、其後清秀公之旗下に属す。
第17巻
此巻にも摂州にして室町公方の御家人、公方御浪人の後、大祖の旗下に属する輩記之。
【下村弥五郎】其祖下村市之丞、代々摂州島下郡下村の領主にして、室町公方の御家人たり。永禄の末、和田伊賀守に所領を奪われ、荒木信濃守に付きて本領安堵を望む。元亀3年(1572)8月、白井河原合戦の節、清秀公と御相備にして白井河原出張す。夫れより後終いに清秀公の御幕下と成る。
第20巻
此巻にも元亀・天正之頃より大祖之旗本に有て、年月不詳輩記之。
【下村九郎左衛門】其祖下村太郎太夫、山崎合戦に軍功有、主帳に見ゆ。夫れより以前、大祖の旗下に有と云う。其の来る事、元亀・天正の始めなるべし。
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上記の下村氏姓は、何れも摂津国内に縁を持つ出自らしい。豊島郡細郷の下村氏とは、直接の関係は無いかもしれない。
 それからまた、『中川史料集』では、白井河原合戦での下村市之丞について、詳述しているので、市之丞の登場部分を抜き出して紹介しておく。
※中川史料集P15(北村清士 校注)

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一、28日暁、白井河原へ御出陣に依って付き従う人々、「老職御備頭」熊田千助資勝、池田次郎長政、森田彦市郎吉俊、森村次郎大夫正家、田近新次郎長祐、中川淵之助重定、菅杢大夫相雄、野辺弥次郎村清、森田半右衛門、辻六郎兵衛、弟同助右衛門、萱野五右衛門正利、安西弥五太兵衛、上島新左衛門正恒、弟同与兵衛、弟同理左衛門、弟同庄右衛門、弟同猪右衛門、飯田七助、丸山孫六、永田伝内、嫡子同右衛門秀盛、森市兵衛、田島伝助、右の輩を始めとして、御備えの人数押し出す。荒木方より加勢として、馳せ加わる人々、粟生兵衛尉氏晴、熊田孫七資一、下村一之丞勝重、鳥養四郎大夫、既にして打ち立たんとし給う。(中略)。卯辰(午前7時)の刻の頃には、荒木の軍勢3,000の人数、郡山より馬塚にかけ、東向きに陣を敷く。和田伊賀守は、茨木の城主、茨木佐渡守重朝を語らい、1,000余人を従えて糠塚より、西向きに備えを堅む。(中略)。太祖引き続きて隙もあらせず、突いてかかり給う。粟生兵衛尉、熊田孫七、下村市之丞、鳥養四郎大夫、中川淵之助、田近新次郎、菅杢大夫など息をもつかず突撃すれば、和田が旗本崩れて八方に逃げ走る。(中略)。二本靡きの指物この靡きは、伝助取って御供す。荒木は太祖の横合にかかり、敵の色めくを見て、先手旗本一同にかかり、自身も太刀打ちして茨木佐渡守を組み打ちにす。郡兵大夫をば山脇源大夫討ち取り、十河杭之助は下村市之丞討ち取り、永井隼人を三田伝助組み打ちにし、池田久左衛門尉は槍を合わせし時に、和田方より槍下につき伏せられたるもまた起き上がり、能く敵を組み打ちにす。その余り和田方の名ある勇士共、66人悉く討ち死にす。雑兵は数を知らず。終いに和田方総敗軍となる。既に軍散じければ、太祖は御人数をまとめ、荒木が前に御出あり、戦いの次第御披露あり。同夜、荒木は郡山村に陣取り、味方の軍労を慰めんがため、池田より諸白数十樽取り寄せ、酒宴を設く。其の席にて諸士に感状を与う。此の時下村市之丞進み出で、今日の合戦は信濃守殿軍略を以て、敵を引き掛け、前後を駆り隔てらるる故に、御勝利となる事もちろんなれども、清秀よく塩合を見定め横槍を入れて、和田勢を突き崩せしより、敵一同に崩れ立ち、伊賀守・佐渡守も討ち死にせしむ。今日の勝利全く清秀の手柄なり、御杯を始められ一番に清秀に賜れと申せば、荒木もさこそ思いつれ、某たとへ先手を切崩すとも、鬼神と呼ばるる伊賀守を旗本を以て、二の見をせば六つか然るべし、清秀横槍の働きを以て味方の勝利となる。剰え和田が首を討取らるる事、今日一番の功名紛れなし、といって杯を進ぜられんとて、太祖へさして御勲功を賞す。此の御働きに依って、呉服台500貫の地も領し給う。(後略)。
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このように、下村市之丞は、武士として大変有能であったらしい事が述べられている。また、池田家中でも重く取り立てられて事もあり、「勝重」という諱は、当主勝正からの偏諱であったのかもしれない。

しかしながら、この下村市之丞が豊嶋郡細郷出身であるかどうかは、今一度慎重に考えるべき資料があるので、それも示してみる。
※摂津国豊嶋郡熊野田村古跡見聞書(竹田市立図書館蔵)

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摂津国豊島郡熊野田村古跡見聞書
 安政4年(1857)12月15日書 下村市之丞

御咄申し上げ候口上之覚え

私儀此の度摂津国豊島郡山田之庄下村市場と申す所は先祖之旧地に付き、是れに罷り越し代々之墓にも参り、先祖市之丞旧宅且つ同姓も御座候に付き、是れに暫く滞留仕り候。(後略)。
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この『見聞書』によれば、下村市之丞の縁故地は、摂津国嶋下郡山田庄下村市場であるとしている。
 この下村市之丞の主家である中川家自体は、池田家中での活動として「春日社領垂水西牧南郷柛供米切出分注文」の給人として、天文年間(1532-55)から見られるので、古くから池田家との接点がある。
 そんな中で個人的に、中川清秀そのものの起源が、多少縁起を担いだ起源を挿し入れているのではないかと感じている。清秀自身に武士の才能があり、諸々の活躍で大身に成長した事は間違いない事ではあるが、中川家が成長しきった時代性もあったのか、派手な縁起をその成り立ちの中に求めることがあったのかもしれない。
 中川家の、池田家中時代の動きを追うと、どうも唐突に感じられる事象もあるように感じている。だからその周辺の人物についても、そういった風潮の中で謂われが形成されている可能性もあるのではないだろうか。その土台がウソという訳ではない。
 他方、下村市之丞の本拠地とする山田市場は、その名の通り「市場」がある重要な地域であり、また小野原方面からの街道と千里丘陵の南側の街道の交点でもあり、土豪として成長したり、重要な人物がそこに入っても不思議では無い。ただし、嶋下郡であるこの場所は、摂関家領垂水東牧に属する。
 後に、嶋下郡山田の下村氏も中川家の転封に従う一派と旧地に残る一派が出て、ここでも運命を分かつ出来事があったようである。
 いずれにしても、精査するためには他にも情報を集め、状況証拠をもって見る必要がある。下村市之丞については今のところ、その家系が、豊嶋郡細郷の下村氏と同じかどうかは断定できない

戦国時代の池田家中及び荒木村重に属した下村氏の動きを時系列にまとめてみると、
  • 池田城の防衛上、要所である木部村の有力者下村氏が、天文年間(1532-54)には池田氏と関係が深まっている事が確認できる。
  • 池田長正の当主時代になると、池田家の公文書に下村氏が署名する程に地位を向上させ、取り立てられている。
  • 永禄10年(1567)5月、下村重介が100名程を率いる大将として奈良へ出陣し、戦死したらしい。
  • 永禄12年1月、京都本圀寺・桂川合戦に下村市之丞が出陣しているらしい。
  • 元亀元年(1570)の池田勝正追放に、下村市之丞が加わって、勝正残党を討つ行動を取っているらしい。
  • 元亀2年8月、白井河原合戦に下村市之丞が従軍して活躍し、名のある武将十河杭之助を討ち捕ったらしい。この時は荒木村重が率いる一団に属し、中でも中川清秀と共に行動して、手柄を立てた模様。
  • その後、池田家中が再び内訌を起こし、池田一族と荒木村重が争った時には荒木方に属し、ここでも活躍していたらしい。これらの功に対して村重から下村市之丞へ「出雲道永」作の刀が贈られている模様。
  • 天正6年秋、荒木村重が織田信長から離反した時、一時的にはそれに従うも、村重から離れた清秀に同調し、織田方となった模様。下村市之丞はその後、清秀と行動を共にするようになったらしい。
となる。

摂津豊嶋郡下村家はそういった経緯を辿り、江戸時代に至って家を保ったと思われる。ただ、下村一族の全てが同一行動をとった訳ではない。豊島郡に残った一派(代々庄屋を勤める)と中川家と共に豊後国へ移った一派などがあって、その時代の求めにより、それぞれが判断し、それぞれの涯分を護ったようである。

豊島郡の下村氏について、その本拠地の様子と時代による活動を見たが、やはりこれ程に戦国領主摂津池田氏と深く関係しているからには、城を持ったであろう事は、想像に難くない。しかもその場所は、要所である。それが『日本城郭全集』や『日本城郭大系』に記述されている「木部砦」であろう。以下に再度、引用してみる。
  • 天文年間(1532-54)に池田氏が拠った所といわれている。池田市の北方にあり、阪急バスにて池田駅より約7分で行ける。ここは古くは城辺(きべ)という地名で呼ばれており、今は田圃になって見るべきものはないが、「城ヶ前」「土居」と呼ばれる高地があって、土地の人はこれを城地であったと伝えており、周囲およそ100メートルばかりの地である。【全集:木部砦】
  • 城ヶ前・土居という地名があるが、遺構は全く残っていない。『摂津志』は神田・今在家・利倉等の諸砦と共に天正6年の織田信長による荒木村重討伐と関わらせているが未詳。【大系:木部砦】
また、記述の陽松庵の項目を見ると、同庵の前身は観応2年(1351)天龍寺開山の夢想国師の開基で、その頃は今の木部町字北条にあったと伝わる。今現在、字北条には竹林山松操寺がある。ただ、「字北条」とは現在の細川小学校から南側あたり一帯も含まれ、厳密には、陽松庵の前身施設がどこにあったのか、今のところ不明である。
 一方、江戸時代の享保6年(1721)に、新築移転して陽松庵となった場所は、下村小兵衛による土地の寄進で事業が実現している事から、このあたりも下村氏に縁の場所であった事が判る。
 ここは川辺郡との境目で、戦国時代には重要な場所でもあったため、陽松庵の造営に際して、そういった経緯があったこと自体、大変興味深い。

それからまた、永興寺は、長禄2年(1458)の創建時には、大広寺末であった。大広寺は池田氏の菩提寺であるが、永興寺は下村一族の菩提寺であり、歴代の墓塔もある。永興寺創建の頃の長禄2年は、当主充正が主導して池田氏が台頭してくる年代でもあり、その頃に大広寺末として木部村に永興寺を開山した事も興味深い。
 ちなみに、永興寺は、木部天神の神宮寺であった松梅寺の本尊である十一面観音を引き継いでいるらしい。

一方で細郷の本拠の下村氏は、江戸時代にも牡丹の栽培を続け、その道で全国に名を知られるようにもなっていた。以下、資料を引用して紹介する。
※広島史話伝説(第2号)已斐の巻P148

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◎已斐園芸植物の元組 -植木屋こと下村次郎右衛門-
花を好んだ二代将軍、徳川秀忠の妹「振姫」を妻にもらった、浅野家初代広島城主長成は、当時上流社会の諸国大名たちの間に流行していた。愛花、盆栽趣味に凝ることは、当然のなりゆきで、特に江戸時代吹上御苑に花壇を造り、自らその範を示すほど園芸好きの兄秀忠に刺激された振姫が、未だ見ぬ安芸の国へ転勤するについて、荒大名福島正則の跡を受け継ぐだけに、一層「花」の事を先に考えた事は、人情の然らしめたものであろう。
 元和5年(1619)7月4日、世子光晟を伴い、海路紀州を発し、8日夕方、はやくも広島城に到着、紀州37万6千5百石から、振姫の持参金と称せられる5万石を加え、合計42万6千5百石で、広島城主となった浅野名晟は、広島に転封を前に、元和2年1月19日、家康の三女「振姫」と結婚し、一子光晟をあげた。ところが、振姫は産後の日立ちが悪かったか、どうかして、結婚の翌3年8月29日、光晟を産んで間もなく急死した。この振姫は、生前特別牡丹花を好んでいたらしく、今の大阪府池田市に居住していた、牡丹造りの名人、牡丹屋こと下村次郎右衛門を同行する事となっていた。
 しかし、結果からみると、振姫の愛した牡丹の花は広島でその開花をみたものの、振姫の死語その墓前をかざる花となってしまった。振姫は安芸国広島の城下を見ぬままに紀州の地で他界した。
 牡丹屋次郎右衛門は、予定通り新城主とともに広島城下に赴任すると、国泰寺付近に宅地をもらい、その後城主の命により直ちに牡丹造りの適地を探し歩いた結果、已斐の地に白羽の矢を立てた。
 已斐の地は旧已斐小城を囲んで、その小茶臼山を抱くように、大茶臼山、抽ノ木山などが連峰をなして、北西から吹いてくる寒風を遮り、南面して暖かい土地で牡丹のみならず、園芸植物には理想的な適地であること等報告して、ここに屋敷地の下賜を受けて牡丹造りに精だし始めた。
 その屋敷跡はもと百花園のあった小高いところ、已斐住民が住み着いた五ツ井戸のうちの一つ、松本井戸のある上堤一帯で、園芸造花には最適の地であった。
 この牡丹園下村次郎右衛門は、植木職人であるといっても、下村姓を許されている浅野候お召し抱えの人であるから、ただ単なる下級職人といった風の者ではなく、名字につきものの帯刀をも許された家柄であった。、ということであるが、その後、下村家の末裔は如何になって行ったであろうかは、極めて興味ある問題である。
 浅野長晟公に従って現在の大阪府池田市細川から広島に来た。初代植木屋次郎右衛門より数えて八代目、現当主下村卓爾氏(82歳)はいまも八十二歳の老齢ではあるが、大阪市旭区に健在であるから、その父から聞いた記憶を辿って左記「已斐植木屋元祖 下村次郎右衛門系譜覚帳」の項に述べてみよう。(後略)。
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また、細郷の下村氏は「牡丹屋」との屋号で、大東亜戦争(太平洋戦争)前には、「大日本帝国牡丹元組」なる全国的な牡丹生産振興組織を主導し、会報などを発行していた。
 『広島史話伝説(第2号)』に紹介された、初代下村次郎右衛門は、万治3年(1660)に没している。またその名も、細郷木部村の松操寺を創立(寛文2年)した下村五郎右衛門と名付けの共通性があり、兄弟や血縁の近い一族である事を想像させる。
 
上記にあげた様々な木部村と下村氏についての要素と歴史は、個々別々のものでは無く、出所としては一つであろうと思われる。現在のように、何の縁故や謂われ無く交わる事が難しい時代にあって、ここにあげた要素のそれぞれは、偶然に結ばれたものでは無いだろう。
 今後、これらに興味を持った人々が、それらを更に深く、広く研究される事を祈りつつ、この試みが、そのキッカケになれば大変嬉しい。




2016年4月9日土曜日

戦国時代の摂津国池田城と支城の関係を考える

どこで、どのように確認すれば良いのかわからないまま、個人的には「城」というのは、軍事・政治的に展開するためには、本城と支城で構成されている事が、必要不可欠であったと考えています。更に踏み込んだ言い方をすると、「郡」単位を支配領域に持つ、いわゆる戦国領主にとっても、それは当然の原理であっただろうと思います。

上は天皇から、下は名主・諸座構成員に至るまで、日本国中隅々に下達、また、徴集、動員を行うには、制度・仕組みが無ければ維持させる事ができません。これが機能していなければ、社会の永続はあり得ません。

そして、特に戦国時代末期の頃を見てみると、地域毎の特徴はあると思いますが、その中にも組織を維持する仕組みが無ければ、生きていけません。ましてや戦国時代ですから、「軍事」という直接的に生き死にをかけた行動も必要です。
 人間は、一人では絶対に生きる事ができず、必ず帰属しなければなりません。また、組織に属していても、それ以上に大きなチカラに対する時には、共同してそれに対処しようとします。
 人間が他の動物と違うところは、それを可能にする意思疎通・伝達能力を持つ事にあります。人間の歴史は、正にそれの記録ではないかと思います。

ちょっと前置きが長くなりましたが、そういう摂理から考えて、摂津国豊嶋郡を中心とし、近隣の数郡を支配下に置く池田氏ともなれば、本拠である池田城が単体で存立していたはずが無いと考えています。永禄11年秋には摂津守護を幕府から正式に任じられているのですから、その時点では既に、そういう規模と実力を持つ家だった事は間違いありません。
 池田氏と血縁関係にあったりする氏族の本拠地や支配地にある政所はもちろんの事、軍事的に必要な要地を領内各所に置いていた、と個人的には考えています。
 特に軍事的に、池田城の支城の事について考えてみると、『日本城郭全集』『日本城郭大系』『大阪府(兵庫県)の地名』が基本的な資料になるように思います。

一方で、池田という都市そのものの維持・増殖行動にも注目すべき点があるのではないかと思います。都市そのものの生態というか、都市が活力を持ち続けるための、主導者(役)としての池田氏の立場という要素もあったように思います。
 池田は街道を多く交差させる都市でもあり、それらと共存、また、利用する行動特性もあったと考えられ、日常的には産業・商業利用もされていたでしょうから、重要拠点にあたるところは、池田氏が縁組みするなどして、特別な関係を築いていたのではないかと思います。
 
その他、見聞きしたり、個人的に考えるところも加えて、以下に思索として、まとめてみたいと思います。前述のように、何を以て本城と支城の連携機能とするか、や範囲も難しいところですが、今は感覚的な部分も含めて、取りあえず池田城の支城群として上げてみます。その他、関係の深い周辺の村々や寺社を分けてご紹介したいと思います。
 これらは、北側は細河地域全域、南側の領域感覚としては、箕面川から北側の範囲。西側は猪名川を越えて、平井の段丘のあたりを想定しています。

先ずは、『日本城郭全集』『日本城郭大系』『○○(県名)の地名』に紹介されている城から見てみます。なお、出典は日本城郭全集が【全集】、日本城郭大系【大系】、○○(県名)の地名【地名】、自己調査【俺】、その他【書名・出典名】としておきます。

◎望海亭跡(池田市綾羽)
  • 望海亭の記

    摂津池田村に寺有り。大広と云う。前の総寺祥山禅師之を主る。師、目は雲霄を視、機は仏祖を呑み、曹洞下の老尊宿なり。其の俗譜を論ずれば、則ち日本国管領畠山源君の葭莩なり。華と謂ふべし。池田筑後の守藤充正、夙に師の風を欽び攸を相て創基せるもの、此の寺是なり。山を負ひ海に瀕し、殿宇翼如たり。而して亭を山頂に置き、偏して望海と云う。先に是余等持の官寺に居り、師某人を以て介と為し、亭記を作らんことを求む。夫れ望海楼なる者は、白傅の唐に於ける、東坡の宋に於ける、惟肖の本朝に於ける文は以て賑ひ、詩は以て貼る。千古の佳話なり。余未だ嘗て身ら歴て之を目撃せず、縦い其の萬が一を髣髴すと雖も、小社の阿房を賦すや笑ふべし。求むるに随ひ辭するに随ひ、茲に年有り。庚子のの夏、師適々事以て洛に入り、一日余が小補の斗室に訪ね、話次いで又亭記及び、求めて已まず。是に於て就きて亭の望海と為せし所以を詳らかにするなり。亭南に面し、南は乃ち滄海なり。而して天王の浮圖雲間に層出し、住吉の松原波底に鼓動す。東南に跨ぐ者三州、曰く紀、曰く泉、曰く河、斯に咽喉す。呉綾蜀錦、盬鐵銜艫相逐ふ者は、商売の往来なり。官租軍給、粟麥連檣絶えざる者は、行使のの運漕なり。紅粧翠蓋、盃盤狼藉、青蒻綠蓑、煙雨勃窣、太守水嬉を張くるなり。漁翁鈎瀬を下るなり。野老謳歌して水田漠々たり。市人言語して城府潭々たり。摂人の其の楽しみを楽しむなり。沙鴎翔びて岸柳暗く、宿雁驚きて渚蓮に飛ぶ。夜潮月を吹き銀山鐵壁前に粉砕し、海市雪を映じ、珠宮貝闕、上に湧現するが若きに至っては、亭上の四時なり。亭上の朝暮なり。之を欄檻の上に翫び之を袵席の間に接するは、蓋し偉観なり。余師の説く所を聞き、寸歩を移さずして此の亭に優遊す。紅塵の萬頃の滄波と為るか、滄波の十丈の紅塵と為るか、得て知らざるのみ。余に一説あり、洞上に最上乗の禅有り。名付けて寶鏡三昧と云う。嗚呼、水天際無く一波起らず、滄海は豈一面の寶鏡に非ずや、此の亭は豈一箇の鏡臺に非ずや。海中有る所の色像、豈胡来古現、漢来漢現に非ずや。師は此の三昧に入り、機に応じ物に接し、遠くは曹山の洞水を取り、近くは永平の峨山を取り、五位功勲、三種滲漏、皆鏡中より流出し、天を蓋ひ、四来の学者をして、此の光影を弄び、同に三昧を証せしむ。亦た大ならずや。言未だ既らずして師起ちて袵を斂め、亭記成れりと云う。
     文明12年6月吉日書す。前の等持 横川の叟景三。
     
    望海亭廃せられて既に久し。記も亦た其の原本を失う。星霜再び移らば、即ち名勝復た伝ふる由無し。故に旧圖に據り故趾を求め、石を建て記を勒し、以て不朽を要むと云う。
     古の深山の庵の跡をしも 千代まで見よと残す石碑
                            邑人 山川正宣誌
                            大阪 呉策書
    【池田郷土研究 第18号 大廣寺望海亭碑文小考:吉田靖雄】

◎池田城下の家老屋敷群(池田市旧市街地)
  • 一、今の本養寺屋敷ハ池田の城伊丹へ引さる先家老池田民部屋敷也 一、家老大西与市右衛門大西垣内今ノ御蔵屋敷也 一、家老河村惣左衛門屋敷今弘誓寺のむかひ西光寺庫裡之所より南新町へ抜ル。(中略)。一、家老甲■(賀?)伊賀屋敷今ノ甲賀谷北側也 一、上月角■(右?)衛門屋敷立石町南側よりうら今畠ノ字上月かいちと云、右五人之家老町ニ住ス。
    ※■=欠字
    【穴織宮拾要記 末(抜粋)】

◎八幡城:はちまんじょう(池田市伏尾町)
  • 伏尾の北方、東野山の山頂にある。東西南の三面を久安寺川に囲まれ、北方は低地で濠渠も形をしており、これを城山という。頂上に平坦地があり、周囲870メートル余、武烈天皇崩御の際、丹波国桑田郡にあった仲哀天皇5世の孫大和彦主命を迎えようとして、迎えの武士が桑田に向かったが、王は捕り方の兵と誤解、逃れて東能勢止々呂美の渓谷を下りて、東野山に来て住んだ。その後、1世の孫猪名翁に至って、行基菩薩を迎えて久安寺を建立した。
     後、承平天慶年間(931-46)、多田源満仲の家臣藤原仲光がここに館を築いて居住した。また、元弘年間(1331-33)には、赤松播磨守則祐はこの地に砦を設けて拠った事がある。【全集:八幡城】
  • 『摂陽群談』によれば、伏尾にある古刹久安寺(聖武朝神亀2年、僧行基開創)山内に築かれた山城で、多田満仲の臣藤原仲光が在城と伝える。遺跡は東野山山頂部にあり、土壇が存在したという。【大系:八幡城】
  • 吉田村の北東にあり細郷の一村。北東は下止々呂美村(現箕面市)。村のほぼ中央を久安寺川(余野川)が南流し、並行して余野道(摂丹街道)が通る。村域のほとんどは山林で、集落は街道沿いに点在する。「摂津名所図会」には「寺尾千軒」と称したとあり、久安寺を中心に発達した村であることを伝える。慶長10年(1605)摂津国絵図には伏尾村と久安寺門前村が記される。元和初年の摂津一国高御改帳では、細郷1745石余のうちに含まれ、幕府領長谷川忠兵衛預。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では石高264石余で幕府領。以後幕府領として幕末に至る。なお享保20年(1735)摂河泉石高帳に久安寺除地17石余が記される。高野山真言宗久安寺・同善慶寺がある。善慶寺は宝暦4年(1754)播州加古川の称名寺内に創建されたが、のち現在地の久安寺宝積院の旧地に移ったものである。【地名:伏尾村】

◎東山砦(池田市東山町)
  • 中河原村の北東にあり、細郷の一村。村の西部を久安寺川が南西流し、ほぼ並行して余野道(摂丹街道)が通る。村域の東部は五月山に連なる山地で西部に耕地が広がる。慶長10年(1605)摂津国絵図に村名がみえ、元和初年の摂津一国高御改帳では、細郷1745石余の幕府領長谷川忠兵衛預に含まれる。以後幕末まで幕府領として続く。村高は寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳によると541石余。植木栽培が盛んであった。曹洞宗東禅寺は、行基創建伝承をもち、慶長9年僧東光の再興という。真宗大谷派円成寺は天文14年(1545)西念の創建という。【地名:東山村】
  • 正棟-池田民部丞、属足利義澄公、忠信篤実無二心、永正5戊辰年夏、大内義興、細川高国等、攻池田城、正棟固守数日、防之術尽城陥、于時託泰松丸、貽謀正能父子、隠同国有馬谷、5月10日正棟登城自殺、東山密葬、謚円月光山居士 ○正重-池田勘右衛門、後号監物、民部丞、生害之時、与母共父之首隠、従城裏山伝移東山村、大山谷之口山林埋葬、密請僧吊、隠住山脇源八郎。【山脇氏系図:昭和26年7月 林田良平假写】
  • 第十代城主池田知正は勝正の弟で久左衛門、のち民部丞を経て備後守となった。(中略)。知正は嗣子がなかったので、弟光重の子幼名於虎丸の三九郎を養子にしていた、知正歿後三九郎が家督を継いで豊臣秀頼に仕えたが、慶長10(1605)年7月28日僅か18才で歿した。大広寺に墓が残る。
     知正の弟光重は、弥右衛門と称した、知正、三九郎相次いで歿したので、東山村にいた光重がその家督を継ぎ、秀頼に仕えて備後守となった。(後略)。【城主池田氏略記:林田良平】
  • 東山村は、細郷六ヵ村(伏尾・吉田・東山・中河原・古江・木部)の中では最も大きな石高を持ち、集落も最も大きい。また、地理的にも、五月山の北側の斜面の守りで、山上の尾根道へ繫がる何本かの山道を持ち、ここからは比較的緩やかに上る事ができる。更に、村の眼下を走る摂丹街道、北の水平方向には妙見街道がよく見える。
     池田城の裏を固め、重要街道を押さえるためには、東山村は非常に重要であったため、ここの有力者山脇氏と池田氏は深く結びついていて、池田姓を名乗る一族扱いであった。伝承や言い伝えでは、最後の自主的な池田氏の当主知正と東山村に居た光重は兄弟であったとしている事から、知正も山脇系池田氏だったのであろう。重要な地を得るため、池田家中から血の濃い人物が山脇氏と姻戚関係を持ったのだろう。
     そんな環境にあるので、東山村自体が館城のように機能していたと思われ、村の中央には広場のような場所(クルマのすれ違いのために近年拡げられたらしいが...)もあって、独特の構造ももっているように見受けられる。村そのものも大きく、細郷の中心的な村でもあった。もっとも、村同士の交流はあまり無いらしいが...。【俺】

◎木部砦:きべとりで(池田市木部町)
  • 天文年間(1532-54)に池田氏が拠った所といわれている。池田市の北方にあり、阪急バスにて池田駅より約7分で行ける。ここは古くは城辺(きべ)という地名で呼ばれており、今は田圃になって見るべきものはないが、「城ヶ前」「土居」と呼ばれる高地があって、土地の人はこれを城地であったと伝えており、周囲およそ100メートルばかりの地である。【全集:木部砦】
  • 城ヶ前・土居という地名があるが、遺構は全く残っていない。『摂津志』は神田・今在家・利倉等の諸砦と共に天正6年の織田信長による荒木村重討伐と関わらせているが未詳。【大系:木部砦】
  • 池田村の北にあり、細郷の一村。村の東部は五月山の山麓にあたり、西部に耕地が広がる。西側を猪名川が南流し、村の西辺で北西辺を南西流してきた久安寺川を合流する。池田村より北上してきた能勢街道は村の西部ほぼ中央で余野道(摂丹街道)を分岐。集落は能勢街道沿いに点在、とくに池田村に近い地は木部新宅と称し、町場化していた。慶長10年(1605)摂津国絵図に村名がみえ、元和元年の摂津一国高御改帳では細郷1745石余の幕府領長谷川忠兵衛預に含まれる。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では村高275石余で、うち仙洞御領89石余・幕府領185石余、元禄郷帳以降はすべて幕府領。享保17年(1732)の家数63(うち屋敷持本百姓45・水呑6・借屋8・寺2・庵2)・人数329、牛12(下村家文書)。木部新宅は、宝永6年(1709)12軒の建家が認められたのに始まる。享保10年には16軒に増えていたが、4軒の取払いが命じられた。しかし、嘆願によって草履・草鞋・煮売り以外は営業しないという条件で仮小屋が認められた。寛政3年(1791)には、木部新宅の魚屋3軒が池田村の魚屋株仲間から訴えられ、廃業させられるという出入も起こっている(下村家文書)。当地は池田村への北からの入口にあたるため、池田商人との争いを繰り返しながらも町場化が進んでいった。紀部神宮・臨済宗妙心寺派超伝寺・曹洞宗永興寺・曹洞宗松操寺がある。【地名:木部村】

◎神田砦:こうだとりで(池田市神田)
  • 神田の東方、小字菅井にあり、今は田畑あるいは宅地となっている。地名は城垣内の名を残している。天正年間(1573-91)、池田城主勝正の甥池田備後守が居住していた。池田城陥落の後も備後守は当城にいたが、慶長9年(1604)3月18日、卒去してより廃城となった。【全集:神田砦】
  • 城垣内の地名を残すが、遺構は全く存しない。『摂津志』では「神田今在家に堡は倶に池田氏保之」とし、『大阪府全志』では「天正年中池田勝正の臣池田備後守の守」る所とし、備後守死去の慶長9年3月18日以降、放棄されたとする。また、『北豊島村誌』では、池田弥右衛門尉光重の拠った所とするなど、諸説あるが、なお未詳。【大系:神田砦】
  • 八坂神社は、猪名川左岸、早苗の森に鎮座。祭神は素戔嗚尊。旧神田村社。(中略)。神宮寺であった常福寺蔵の慶長16年(1611)の奥書のある清光山常福寺縁起によると天元元年(978)の創建。社伝によると、天正7年(1579)織田信長の伊丹城攻撃の兵火にかかり焼失、それ以前は不明という。慶長15年、池田豊後守光重がその嫡子の成人を祝って当社を再建、現存の本堂はその時に建立されたもので、一間社流造、檜皮葺の桃山時代の様式を伝え、国指定重要文化財。(後略)。【地名:八坂神社】
  • 常福寺は、高野山真言宗。清光山と号し、本尊は千手観音。慶長16年(1611)の奥書を持つ清光山常福寺縁起(寺蔵)によると、天平3年(731)の開創で、行基が自作の千手観音を安置したという。当寺二世の海然大徳は、真言密教を極め、種々の法験を示したといい、寺伝によるとその法験によって天元2年(979)現在の八坂神社の祭神(縁起は牛頭天王とする)が降臨したという。その後、同社の神宮寺として隆盛したようで、長徳4年(998)一条天皇は勅願所とし、現寺号を下賜。承保2年(1075)白河天皇は源頼義に命じ、正安3年(1301)には後伏見天皇が北条貞時に命じてそれぞれ堂宇を修補させたという。天正6年(1578)10月、伊丹城の城主荒木村重が織田信長にそむいた時、常福寺衆徒は荒木氏に同心し籠城との流言が広まったため、翌7年寺領没収され、堂舎も焼き払われた。その復興に尽力したのは池田備後守光重で、慶長11年本堂が再建され、以後仏供料として50石下付したという。寺蔵文書中に慶長7年3月17日付けの光重自筆除地免状がある。慶長15年の棟札(「池田市史」所引)には珠徳院・西之坊・玉蔵坊などの支院がみえるが、江戸時代には玉蔵院・珠徳院・西福院があった。玉蔵院は明治37年(1904)新潟に移り、他の二院は同41年当寺に合併された(大阪府全志)。境内北の土蔵前に「願主 右衛門尉藤原景正 正応六」と刻した花崗岩製宝篋印塔の基礎があり、当寺梵鐘は天和2年(1682)の黄檗僧高泉の銘がある。(後略)。【地名:常福寺】

◎今在家城(池田市豊島南)
  • 北今在家の西南にある。天文より天正年間(1532-91)まで、池田城の支城として池田氏の一族が守備していた。【全集:今在家城】
  • 城の内・城の淵という地名があるが、遺構はまったく残っていない。『摂津志』に「神田今在家に堡は倶に池田氏保之」とあり、天正6年の織田信長による荒木村重討伐と関わらせているが未詳。【大系:今在家城】
  • 神田村の南東にあり、東は轟木村。西は川辺郡下河原村(現兵庫県伊丹市)。村のほぼ中央を西国街道(山陽道)が東西に通り、村の西部で南西流から南流に方向を変えた箕面川と交差する。19世記初頭の山崎通分間延絵図に、この辺りの箕面川に「平日水ナシ」と記され、橋も架けられていない。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳によると村高561石余で、うち392石余が麻田藩領、259石余が旗本船越三郎四郎永景領。麻田藩領は元和年間(1615-24)以降のことで、幕末まで続く。船越領は慶長4年(1599)以来と推定され、寛文10年(1670)にはうち209石余が分家三郎四郎景通に分知され、以後当村は麻田藩・船越本分家の相級地となり、幕末に至る。なお、享保20年(1735)摂河泉石高調は、麻田藩領を東今在家村、船越本分家領を西今在家村と記す。東今在家村については「摂津名所図会」にもみえ、行政村としてではなく、東西の今在家村の区別があったと思われる。(後略)。【地名:今在家村】

◎西市場城(池田市豊島北)
  • 西市場にあって、東西180メートル、南北157メートル、周囲700メートルの地域が城址で、現在は畑地あるいは宅地となって、なんら見るべきものはない。しかし、地形やや高く、南北西の三面に水田を巡らして暗渠の状をなしている。土地の人はこれを堀と呼んでいる。当城は、観応年間(1350-51)、瓦林越後守が築いて拠った城地という。【全集:西市場城】
  • 『北豊島村誌』には「西市場の西、役場の北方、現在”濠”と呼ばれている一段低く細長き田によって囲まれている地がそれか」とあり、周濠を回した館城かと思われるが、現在ではまったく消失。『摂津志』には「瓦林越後守所拠」とあるが、その歴史については未詳。【大系:西市場砦】
  • 神田村の東にあり、村の南側を箕面川がほぼ西流。(中略)。元文元年(1736)成立の豊島郡誌(今西家文書)によると、当村にある市場古城に観応年間(1350-52)瓦林越後守が拠ったという。地名は中世の定期市に由来すると考えられるが史料上の確認は得られていない。(後略)。【地名:西市場村】

◎豊嶋中之島城?(池田市住吉)
  • 西市場村の東にあり、村の北境を箕面川が南西流する。元和年間(1615-24)以降、麻田藩領。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳によると村高70石余。溜池に寛永14年築造という丁田池があった。浄土真宗本願寺派の正光寺がある。【地名:中之島村】
  • 以前、2001年に「池田中之島城?」として記事を書いたが、その頃は核心に至らず、提起的な形で文を終えた。それを今の時点で再び取り上げてみたい。その記事の中でも触れているが、中之島村は、江戸時代の後半に村を移動して現在地にある。元あった場所は、轟木村の北側の箕面川の脇(あられのトヨス工場付近)で、ここが度々水害の被害を受けるので、より高地の現在地に村を移した。
     この場所は、待兼山の丘陵が標高を下げながら、西に張り出した台地の西端に立地する。中之島村にある正光寺は、陸軍参謀本部陸地測量部の明治18年の輯製図では、村の北側に独立的に描かれている。
     ちなみに、江戸時代になると、西国街道周辺の池田市南側にあった村は、ほとんどが麻田藩領となって、池田村と切り離されてしまい、文化的な分断が永年続いた。
     それらの事を併せて考えると、旧地に城があったかどうか検討すると、水害被害を受けやすい場所に常設の軍事的拠点を作るかどうかは若干いぶかしむところがある。また、西市場城・今在家城との位置関係が近すぎるように思える。
     しかしながら、地図をよく見ると、稜線が続く部分に人工的な方形に加工されたような50メートル四方の場所があるので、ここを少し高くして、施設などをそこに備えていたとすれば、その目的としては、北側にある才田村(出在家村)・尊鉢村からまっすぐ南へ伸びる道に対するものだったかもしれない。この道は、能勢街道から石橋村を経ずに、小坂田村や原田村へ通じる幹線でもある。
     一方、正光寺の位置に城跡があった場合は、東市場村を意識し、そこへの道に対する目的があったのではないかと思われる。
     もし、西市場・今在家・中之島に城があった場合、今在家と中之島は、箕面川の南にあって、防御力としては低くなるが、2つの城で相互補完する目的があったかもしれない。そういう観点では、城を作る理由は無くも無いだろう。また、関所や管理施設も兼ねたような、政治的な意味合いを持った、施設だったかもしれない。どちらの推定地も左程の距離は無く、東西に300メートル程の差である。どちらにあったとしても、目的は変わらないだろう。【俺】
    ※参考ページ:池田城関係の図録(池田中之島城?)

◎加茂城(川西市加茂)
  • 加茂城は旧加茂村字「上加茂」にある。一帯に「城屋敷」「城垣内」などの小字名があり、伝承では荒木義村(吉村)の居城という。義村は「荒木系図」によると、村重の父で、信濃守を称し、摂津池田六人衆の一人であった。天正6年(1578)に荒木村重が有岡城に籠もった時、織田信長がこれを攻めるため、嫡男の三位中将信忠をここに配置したと『信長公記』にある。そして信忠転戦後の翌年4月には、塩川国満・伊賀七郎・伊賀兵左衛門らがこれを守っていた。【大系:加茂城】
  •  栄根村の南、最明寺川下流域の大地上に古くから開けた上加茂村と、東部の猪名川沿い平地部の下加茂から成なる。(中略)。上加茂にある中世城館の跡は、加茂城とよばれ、付近に城屋敷・城垣内などの字が残るが、遺構は残らない。伝書では荒木義村の居城という。義村は村重の父とされる。天正6年の有岡城攻めの時に「賀茂」は織田方の付城の一つで、当初は織田信忠の陣所となるが、翌年4月には塩川国満・伊賀七郎・伊賀平左衛門らが入城している(信長公記)。【地名:賀茂村】

◎原田城(豊中市原田元町)
  • ただいま編集中。少々お待ち下さい。




2016年3月20日日曜日

摂津国豊嶋郡細河郷と戦国時代の池田(はじめに)

古江橋を経て多田へ続く道(1970年頃か)
政治的問題を解決するため、武力行使が一般化していた戦国時代には、摂津国豊嶋郡細河庄(郷)は、摂津国人池田氏にとっても重要な地域でした。
 しかし、そういう場所でありながら、研究や解明がほとんど進んでいません。今も池田市域内は文化圏が3つに分かれているような感覚があります。北部の細河、中央の池田、南の石橋、という感覚です。
 この感覚は、実のところ、物理的な根本的要素が大きく変わっていない事から、昔も今もそんなに変質していないかもしれません。北の細河地域は、池田との間に五月山が楔のように存在する事から、どうしても行き来が阻害され、気持ちというか、感覚的に文化の乖離ができていきます。実際、近代の池田市の地域構成史を見てもそれが分かります。
 しかし、戦国時代となれば、そうも言ってられません。直接的な生死にも関係しますし、利益や権利、生活を侵されないように、互いに結束する事が必要になります。そんな中で、木部村で頭角を現す下村氏や東山村の山脇氏といった勢力は、池田氏とも関係を深くしていきます。それもやはり、必然の事であったと考えられます。

既に発表されている大阪府の地名1 -日本歴史地名大系28-(平凡社刊)などの通説や池田市史での見解も参考にしなあら、私が見聞きした事も加えて、この細河地域と池田城(池田氏も含む)について、考えてみたいと思います。

以下の要素について、それぞれご紹介し、まとめてみたいと思います。


摂津国豊嶋郡細河庄(郷)とその村々及び社寺
細河庄内の木部村と武将下村氏について
細河庄内の東山村と武将山脇氏について
◎細河庄内を通る街道
◎細河庄と周辺
◎細河庄での牡丹の花卉栽培

【参考】
戦国時代の摂津国池田城と支城の関係を考えてみる
戦国時代の摂津国池田氏の地域支配及び軍事に関わる周辺の村々
戦国時代の摂津国池田氏に関わる寺
戦国時代に池田市の木部町にあった木部城
 

【出典】
写真:グラフいけだ1970年12月 特集:ふるさとのみちしるべ
   発行:池田市役所 / 編集:市長室・秘書課広報係


2014年6月28日土曜日

戦国時代に池田市木部町にあった木部砦(城)跡

久しぶりに更新します。ちょっと時間が無くて、テーマの途中で止まったままですいません。まとまった時間が取れないので、思索を深める事ができず、まだまとまっていません。残りは必ずアップしますので、もう少々お待ち下さい。

それで、今回はその償いという訳ではないのですが、池田市の木部地域にあった木部城をご紹介します。以前(10年以上前)、呉江舎でも取り上げたのですが、今年の5月に地元の方に詳しく状況をお聞きした事を図と写真で簡単にまとめましたので、ご覧頂ければと思います。

参考ページ:摂津池田城の支城木部砦跡?

場所は、大阪府池田市木部町376を北限とした付近一帯です。



また、今のところ想像ですが、素人ながら縄張図も書いてみました。


<図の要所説明>
  • A・Bの場所に高所へ上がる道が存在したか?また、存在したとすれば、施設や設備が存在した可能性もある。
  •  C.代官所と伝わる場所があり、重要施設が存在した可能性もある。現在も僅かながら道が折れ曲がった環境になっている。
  •  D.の場所に奇妙なクランク状の道があった。現在は駐車場になっている。何らかの公的な施設があった可能性もある。
  •  土居という小字があった事から、土塁があり、またその上部には柵や壁などがあった可能性もある。
  •  木部砦は、能勢街道と余野街道に挟まれた立地に存在している事から、防御のために、土塁で城域を囲んでいた可能性もある。
  •  川は、元は堀のような役割を持ち、砦領域の外郭を流れていた可能性もある。現在の流路は、造園業が盛んとなって、後世に付け替えられたのかも知れない。

上記は、今のところの情報での作図ですので、あくまで想像です。今後は更に詳しく聞き取り、専門家にも聞き、精度を上げた図を作成したいと考えています。

それから、取材した時の木部砦跡の写真をいくつか以下に紹介します。



伝土居あたりから西を見る
伝土居あたりから北を見る

西縁の段差の様子(南から北を見る)

西縁の段差の様子(北から南を見る)
北縁の現在の様子(昭和30年代の洪水後に改修し、幅が倍に)
伝土居付近から五月山を見る(山の窪みあたりに愛宕神社)
五月山山上の愛宕神社から木部方面を見る

現在の池田市木部町は、摂津国豊嶋郡細河郷内にある木部村ですが、ここには「下村」という姓があり、庄屋も務められていた家があります。
 『多聞院日記』の永禄10年5月18日条に、奈良に出陣した池田勝正の配下の武将として下村重介という武将が戦死した旨が記録されています。この武将は、足軽大将で100名程を束ねていたと、その時に聞いた情報が書き残されています。

私はこの下村重介が木部村の出身の侍だったと考えていて、長い間興味を持っていました。そしてこの木部地域は、能勢街道と余野街道が交差し、猪名川と余野側も交差する重要な地域です。
 また、五月山の裏に位置する細川荘の出入り口にあたり、池田を支える重要な場所でもありました。もちろん軍事上も大変重要な位置です。

それからまた、戦国時代は、国境や郡境が曖昧で、力関係で常に移動しています。猪名川を挟んだ東西は猪名川が大きいために安易に勢力が入り込むこともありませんが、細河荘の北側は山で、その尾根上を重要な街道が通っています。更にその西側には、能勢街道も通っています。

この辺りは川辺郡と豊嶋郡の境目で、川辺郡は塩川氏、豊嶋郡は池田氏が領する地域で、実力で勝る池田氏は、猪名川を越えて西に勢力を拡げていました。今の川西市小戸・小花・栄根・加茂・久代あたりにも勢力を拡げ、栄根のあたりを荒木村重一派が領していたようです。

現在と同じく兵庫県と大阪府池田市の境となっている山塊の尾根筋から南側を池田氏が、その北側を塩川氏の領域とていたのでしょう。
 ですので、重要な場所には必ず軍事的な施設や設備があって、それぞれが連携していたと考えられます。写真でもおわかりのように、五月山から見れば細河荘方面はもちろん、北側は全て見渡すことができます。
 そして、その南にある池田氏の拠点、池田城がこの五月山を利用して軍事的な補完関係にあった事は、戦国時代であれば、当然のことだったと思われます。

そんな凄い事が見えてくる池田市細河地区です。続きはまた、追々アップいたします。