2016年5月21日土曜日

摂津池田城下にあった万願寺屋は荒木村重と関係する!?

大正時代頃の酒造家の万願寺屋跡(池田町史より)
満願寺屋は池田の歴史を語る上では、避けて通れない要素で、その歴史は広くて深いので、これだけを取り上げても相当なボリュームになります。詳しくはまた後日に譲るとしまして、戦国時代と万願寺屋の関係についてご紹介したいと思います。

この万願寺屋は、荒木村重とも関係するとされているのですが、その詳しい事はわかっていません。伝えによると、応仁年間(1467-69)頃から池田郷で酒造業を営み始めたと伝わっています。

この万願寺屋の当主は「荒城」を名乗り、このあたりがやはり荒木村重との系譜を連想させる主因となっているようです。また、万願寺屋当主の代々の墓が池田では無く、現在の伊丹市大鹿の妙宣寺にあって、このあたりのところも何だかミステリアスな要素です。

荒城九郎右衛門の銘
満願寺屋は、池田郷の酒造業では最も多く生産していました。池田酒の最盛期(醸造家38軒)でもある元禄10年(1697)の記録によれば、1135石を醸造しています。
 しかし、江戸時代に酒造家同士の訴訟に負け、没落していきます。その最後の姿が、写真に残されています。取り壊される前の様子だそうです。以下、昭和14年(1939)4月1日に発行された、池田町史にある「満願寺屋九郎右衛門の旧址」についての記述をご紹介します。
※池田町史(第一篇:風物詩)P113

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慶長以来、近畿に並ぶものなき我が郷土の酒造王、満願寺屋九郎右衛門の旧址は、池田町東本町池田警察署東隣の一角であって、其の旧址は西は警察曙より東溝(小蟹川)に限り、南部は本町より北は甲ヶ谷町に亘る広大な屋敷であった。現今は我が郷の素封家北村元一郎氏の所有地となって居て、数年前その旧址荒廃を極めし為、取り壊ちて借家と化って仕舞った。取り壊たれるまでは、永い間荒倉のまま風惨雨蝕に委して居たけれども、池田名物の一として八ツ棟造りの昔の遺影を存して居た。
 満願寺屋は荒城九郎右衛門と呼んだ。されど其の伝は詳らかでない。其の名の示す如く、古く川辺郡満願寺村より移住したものと伝えられて居る。そして我が郷土で酒造業を営んだのは遠く戦国の初期(応仁時代)に在りと伝えられて居る。世々醸造業を以て天下に知られた当地の旧家である。

『摂陽落穂集』
東武将軍家御前酒は、満願寺屋九郎右衛門より送り出せるなり。熊野田村の米を以て元米となし、水を清め道具を改め造り出せるなり。江戸表にて「満願寺」と呼ぶ酒之なり。

と記して居る。当時、一商人の分限を以て将軍の臺命を蒙り、破格の恩命に浴したものである。そして当時我が郷土の清酒醸造業者には一大特権を付与せられ、期年より運上、冥加銀、御免は勿論且つ、御朱印を下附され、また犯罪其の他其の業を継承すべきものなき以上休業を命ぜられざる特典があった。(後略)。
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妙宣寺にある歴代万願寺屋の墓群
万願寺屋は、池田城があった頃にもう既に城下にあったのかもしれません。発掘などは行われていませんので、定かではありませんが、戦国時代には大きな都市に成長していましたので、あったと想定した方が自然だと思います。池田は交通の要衝でもあったため、戦国時代にも宿場であり、やはり酒の需要もありました。
 ちなみにこの万願寺屋の系譜は、今の「剣菱」ブランドで全国的に有名な剣菱酒造株式会社に引き継がれているようです。
 
この万願寺屋については、近年、研究の進展無く、旧来のフレーズを繰り返すだけになっているのですが、城という狭い要素だけでも万願寺屋の関係を深めてみたいとは考えていますので、何れまた詳しくご紹介できればと思います。


2016年5月20日金曜日

摂津池田城の縄張り概念は、五月山山上にまで及んでいた!?

戦国大名池田筑後守勝正研究の核心である、勝正そのものの事実や家の事、また、その本拠たる池田城の事をしっかりとご紹介する事をそろそろしないといけません。
 摂津池田氏については、滅びた家だけに、総合的な検証もなければ、史料も無いため、これまでは、史料集めを兼ねたその外郭部分を見てきたのですが、少しずつ中心部分のことも見えるようになってきています。かといって、今日明日にご紹介いただけるような状態でもないのですが、兎に角、池田勝正についての細部をご紹介できる段階に入りつつあります。
 
それらは、このブログで先ず紹介し、ゆくゆくは、本にでもまとめられたらと考えています。ご興味のある方は、お楽しみにお待ち下さい。

それで、最近、池田城の支城について考えていますが、肝心の池田城そのもののテーマを立てていないことに気づき、それもやらなければならないと考えている次第です。
 それで今回は、ちょっと古い資料にある池田城の口伝・記述をご紹介して、後便に精を入れるための吉書はじめにしておきたいと思います。
 宇保町の荒木藤市郎氏を中心として池田町史編纂室を設け、昭和14年(1939)4月1日に、発行された池田町史にある、「池田城址」についての記述です。
※池田町史(第一篇:風物詩)P21

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昭和14年以前の様子(左奥の森が伊居太神社か)
一、城址
城址は五月山の南麓にあって、俚俗は城山と呼んで居る。周囲十余町歩に亘り、回字形をなして居る。近時城址の高台に2・3住宅等が造られて居るが、一度■(日の下に邛)を曳いて荒城の址に立てば、千古を語る老樹松鬱に和し、なんとなく在りし昔の偲ばれて荒城の歌でも唱いたくなる。
 廃墟の中央に一段高い平面の台地がある。俚俗は天守閣の跡だと呼んで居る。其前面東南下に谷の様に凹んだ所は堀と字して居る。濠址であろう。城は世々土豪池田氏の拠りし処であるが、池田氏の伝は詳らかでない。

一、城下町
今池田町の町の辻々を見るとひとつとして直線をなすものはない。悉く中途で屈折した枡形の町並みである。近時市街整理の為め其の2・3主要路線は屈折を除かれたが...。この屈曲した町並みが池田城を繞城下町として発達した遺址である。そうして伝へらるる池田城の遺墟を見るに、当時は未だ自然の険を恃んで造られた山城制の時代であって、現在の池田城址より稍々(やや)山上の大広寺付近か其の遺址の一部の様に思われる、と某将軍(元37連隊長)は話された
 知性は、西は猪名川の断崖に臨み、北は峻嶺の五月山を負い、東南部は杉ヶ谷川の自然濠を控え、南部は恵那堀の第2次濠があった様である。今この堀は林口町と田中町両界の溝渠となって居るが『細川両家記』を見ると、永正5年5月10日、細川高国の為に埋められた様である。そして山脚は城山より南東部の高台、附属小学校より建石町法園寺に至り、其れより東部に屈曲して、上池田町に亘る一帯の高台は羅城(外郭)を廻らして居た様である。

『永禄記』
 永禄11年10月2日池田へ御手遣い、大軍を以て外構放火せられ云々
 
又建石町回生病院付近では『弓場』の地名を存し、又陽春寺登山路の下より小阪前に至る区域は『的場』と呼んで居る。思うに当時武道教練に設けられた射場の地であろう。当時は常備の武士を城内の館舎に置いて、非常に備えしと謂えば其の地勢より見て、建石町及び上池田町の高台の地は屋敷町の地であって、下町方面は主として商業地区として発達したものの様である、かの俚謡に

山家なれども池田は名所。月に十二の市が立つ。

と謡われた場所は下町に当たる、東西本町より仲之町方面に亘れる地区に限定されて居た様である。
(後略)
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ちなみに、同月29日に池田市が誕生しています。市に昇格するにあたって、これまでの基礎になる要素をまとめて、今後に役立てようとしたのでしょう。そうだとすれば、大変賢実で、立派な考えだと思います。

昭和40年代初期頃の写真(池田市史 史料編より)
さて、町史にある上記の記述で興味深いのは、この町史が発行された時代は大東亜(太平洋)戦争前で、軍人が日常的に多数おり、その軍人に池田城についての所見を聞いて、城の縄張りの概念復元を試みている点です。全国の村や町に帝国在郷軍人会が必ずあって、活動をしていました。
 この記述を見た事もきっかけの一つだと感じていますが、私自身が色々調べる内に、やはり池田城防備の概念は、五月山山上にも及び、大広寺もその一部を担っていたと考えるようになっています。現在山上にある「五月山愛宕神社」もその関係地だと思います。ここに立つと、北東方面以外は全て俯瞰できます。いわゆる270度の視野です。河内飯盛山城もそうですが、山城の立地はだいたいこういう条件のところに造られています。
 池田城は山城ではなく、その中腹に造られていますが、池田城は時代時代の中で重要な拠点の地位でもあり、こういった事から考えても、視野を確保して備える要素は、不可欠であり、必ず求められただろうと考えています。同時に、五月山北側の細川地域との連絡や通路接続についても、頂上は結節点として機能していたと思われます。
 
詳しくはまた、池田城の項目で考えてみたいと思います。では、また。


2016年5月14日土曜日

摂津池田家解体後に池田紀伊守家系の人物が、毛利輝元へ客将として迎えられている史料

元亀4年7月に足利義昭が京都から落ちた事で、幕府機能が停止します。しかし、織田信長方が五畿内地域で優勢ではあったものの、その後も余震が続き、天正3年春頃までは足利義昭方の勢力も抵抗を続けて、侮れませんでした。
 とはいうものの、織田方は重要な戦で確実に勝ち、また、政治的対応も進めて、同年夏頃には一応のメドを立てて、京都とその周辺地域で優位に立ちました。こうなると、足利義昭も抜本的な構想の再編を行う必要に迫られて、毛利輝元との連合を模索します。

そして遂に、互いの利害が一致し、天正4年2月28日に足利義昭は、毛利家に迎えられて、備後国鞆に入ります。これで、西側に権威を持った大きな対抗勢力ができ、織田信長は京都を維持しながらも敵に囲まれる状況に陥りました。
 この足利義昭の移座に、名家や名だたる武士も多く付き従っているようですが、摂津国大名の池田家の一派もこれに供奉していたようです。義昭が鞆に入った直後の天正4年3月29日、毛利輝元が、池田勘助に知行を宛て行っています。
※黄薇古簡集P269

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備中国薗庄内有井本所18貫之地之事、給地為置き遣わし候。知行全うせしめ、いよいよ馳走肝要候。仍って一行件の如し。
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その翌月20日、毛利輝元の一族である小早川隆景が、足利義昭関係者、若しくは、池田から移ってきたと思われる、上野右衛門大夫某(上野肥前守系の毛利被官かもしれない)・渡辺対馬守某へ、池田勘助の事について音信しています。
※黄薇古簡集P268

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池田勘助大取り退きの由、其の心得候。然る間当地行の事、相違無く宛て行うべく候。忠義肝要為すべく候。仰せられるべく通り与え候。随って同意得之者共進退事者、忠義次第に安堵の儀申し付けるべく候。恐々謹言。
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とあります。
 実は、毛利家中の名だたる武将で、池田姓を持つ人物が以外にも存在しません。4月29日の文中で「池田勘助大取り退きの由、其の心得候。然る間当地行の事、相違無く宛て行うべく候。」と言っているのは、他から移ってきた事を指していると考えられます。
 また、この備中国薗庄内有井(現岡山県倉敷市真備町有井)は、同国の最西端、西国街道を通す高梁川の西側で、毛利領国境の地域です。また、ここには、比較的規模が大きいと想定されている馬入堂山城があります。
 そしてそこから少し西には、摂津池田勝正が入ったとの伝承がある備後国上御領村があります。この頃、摂津国大坂の石山本願寺支援の計画が持ち上がり、毛利領内国境を固める必要もあったため、こういった措置を取ったのかもしれません。しかし、国境の不安定な地域です。「随って同意得之者共進退事者、忠義次第に安堵の儀申し付けるべく候。」との文意は、そういった事情を顕しているのかもしれません。

さて、この池田「勘助」なる人物は、池田家中では「紀伊守」の家系で使われる名乗りと思われ、紀伊守といえば、清貧斎正秀が有名です。そして、その嫡子と思われる正行も勘介を名乗り、後に紀伊守を名乗っています。ちなみに、助と介の違いがありますが、同一の人物とみて良いと思います。この時代も割りと、漢字の使い方はアバウトです。但し、現在のところ、慎重に見る可能性も残されてはいる段階ですが...。

ここで、紀伊守(清貧斎一狐)正秀の登場する史料をご紹介します。元亀4年4月27日付けで、織田信長奉行人林佐渡守通勝・同佐久間右衛門尉信盛・同柴田修理亮勝家・美濃国三人衆(安東守就・氏家朴全・稲葉一鉄)・同滝川左近尉一益が、幕府奉行人一色式部少輔藤長・同上野中務大輔秀政・同一色駿河守昭秀・同曽我兵庫頭祐乗・同松田豊前守頼隆・同飯尾右馬助貞連・同池田清貧斎一狐(正秀)へ宛てた起請文です。
※織田信長文書の研究-上-P629

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霊社起請文前書事、公儀信長御間事、御和平之上、信長一切表裏致すべからず候。並びに信長以前之条数、何れも堅く御請け之条、各慥かに受け取り申し候間、違逆有るべからず、若し此の旨違背せしめ者、起請文御罰深厚に罷り蒙るべき者也。仍って前書件の如し。
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その翌日、今度は幕府側から織田方奉行人へ宛てて起請文を発行します。28日付け、幕府奉行人池田清貧斎一狐(正秀)・同飯尾右馬助貞連・同松田豊前守頼隆・同曽我兵庫頭祐乗・同飯川肥後守信堅・同一色駿河守昭秀・同上野中務大輔秀政・一色式部少輔藤長が、織田方奉行人塙九郎左衛門尉直政・同滝川左近尉一益・同佐久間右衛門尉信盛へ宛てて起請文を発行しています。
※織田信長文書の研究-上-P630

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霊社起請文前書事、今度信長御和平之上者、一切御違変有るべからず候間、各請け取り申し候。猶以て今自り以後、信長に対し逆心之儀を存ずべからず候。但し以前之条数、然るに自り御相違者、右之趣き御分別預かるべく候。若し此の旨違背於て者、起請文御罰深厚に罷り蒙るべき者也。仍って前書件の如し。
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この2つの史料から判るように、池田正秀は、将軍義昭の側近として取り立てられています。また、この時正秀は、清貧斎一狐として、入道となっていたようですので、当主の紀伊守は別にいたのではないかと思います。それは多分、正行です。
 次に、年記未詳ですが、池田家中の人々が連署して、摂津国有馬郡湯山年寄中へ宛てた、6月24日付けの音信を示します。これは、いわゆる池田二十一人衆の連署状として知られている史料です。今のところ個人的にはこれを元亀2年(1571)と推定しています。署名者は、小河出羽守家綱(不明な人物)、池田清貧斎一狐、池田(荒木)信濃守村重、池田大夫右衛門尉正良、荒木志摩守卜清、荒木若狭守宗和、神田才右衛門尉景次、池田一郎兵衛正慶、高野源之丞一盛、池田賢物丞正遠、池田蔵人正敦、安井出雲守正房、藤井権大夫敦秀、行田市介賢忠、中河瀬兵衛尉清秀、藤田橘介重綱、瓦林加介■■、菅野助大夫宗清、池田勘介正行、宇保彦丞兼家です。
※兵庫県史(史料編・中世1)P503

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湯山の儀、随分馳走申すべく候。聊かも疎意に存ぜず候。恐々謹言。
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この文書に「池田勘介正行」がおり、その父と思われる、「池田清貧斎一狐」も署名しています。そしてその後、勘介正行は、紀伊守を名乗ります。その史料をご紹介します。年記未詳12月13日付けで、池田正行が、奈良春日社領南郷目代今西橘五郎へ音信したものです。正行の花押の形状が一致しているので、同一人物と思われます。
※春日大社南郷目代今西家文書P456

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尚々吹田寺内衆へも此の由堅く仰せ付け候て出ずべく候。少し取り乱し候之間、閣筆候。重々後日に対し私曲之儀之在り候ハバ、貴所疎意為べく候。(悉く事無き之様御調え専一候。)南郷五ヶ村扱い之儀、相調え候由然るべく存じ候。其れに就き寺内村之儀も軈而作環住申すべく候歟。五ヶ村別儀無き様如く御調え所仰せ候。然るに自り後日ニ申事之在る於者、其の曲在る間敷く候。御案内為此の如く候。恐々謹言。
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ちょっと高圧的な感じの内容です。この史料は個人的に元亀2年ではないかと考えています。この頃に正行は、紀伊守を名乗って、正秀の跡を継いでいるものと考えられます。

そして、この元亀2年の後に再び池田家は内訌を起こして分裂し、荒木村重が台頭します。その頃の史料が、先に紹介した元亀4年のものです。
 ご存知の通り、この争いは村重が競り勝ちます。その後、劣勢となった池田家は、主に五畿内地域で活動していたようですが、天正3年頃には史料を追えなくなりますので、多分、バラバラになったか、吸収されたのだと思います。滅ぼされたかもしれません。

そんな流れの中で、天正4年3月の池田勘助の史料は、摂津池田家の武士の動向を探る貴重な史料ではないかと考えています。ただ、この勘助の諱がわからず、他の勘介・紀伊守とどういう繋がりを持っているのかは不明です。天正4年頃になると世代が変わり、この「池田勘助」とは、正行の嫡子かもしれません。今のところ、不明です。


2016年5月13日金曜日

池田筑後守勝正の法名は「前筑州太守久岩宗勝大禅定門」か

研究特集「摂津国豊嶋郡細河郷と戦国時代の池田」としてご紹介している一連の記事ですが、今は「細河庄内の東山村と武将山脇氏について」を調べています。ただ今、鋭意作成中ですので、近日の公開にご期待下さい。

色々な資料を読んでいますが、池田郷土史学会が発行している会報『池田郷土史研究』は、やはり必読ですね。凄い内容だと思いますし、よくこれだけの事ができてきたものだとも感服します。もちろん、時代時代で立派な方々は居られますが、戦前・戦後を生き、熱心に郷土の歴史の保護に努められた林田良平氏などの功績は誠に大きなものだと思います。日本全国の視野で見ても、これだけの郷土研究を深めてきたことは、珍しい取り組みの部類に入るのではないかと思います。

さて、その『池田郷土史研究』の第8号に収録の
 例会:第281回(昭和55・5・11)
発表者:林田 良平(理事)・富田 好久(理事) 
テーマ:城主池田氏と池田城(蝸牛驢文庫所蔵:池田郷土先賢資料書目(其28))

に、「大広寺由緒 第16世雲峰記 元禄6年(1693)4月」の筆写(昭和11年7月18日 林田良平写)が収められています。そこに、池田勝正についての気になる記述があります。
※池田郷土史研究(第8号)P30

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城主池田氏に関する記事左に抄録す。(中略)。
「当寺開基家之法名俗名」
一、前筑州太守大広寺殿玉堂金公大禅定門 俗名池田筑後守藤充正、池田之城主也。此城地と申し伝所今于に池田村に之有り。文明14年(1482)10月24日卒。
一、前筑州太守玉窓珍公大禅定門 此の筑後守者名乗並びに亡日之記さず。
一、前筑州太守久岩宗勝大禅定門 俗名池田筑後守勝正、初め之名伝八郎三郎、同池田城主也。亡日者4日也。年月者之記さず。
(後略)。
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また、参考までに、池田一族と思われる人物の墓石が紹介されいている資料があります。ただ、この人物の名前は不明のようです。「摂北古金石新資料 藤沢一夫稿 考古学雑誌所載(昭和9年11月号)」です。
※池田郷土史研究(第8号)P38

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(前略)。
大広寺附属墓地に室町以降各時代に亘る多数の石塔がある。虱潰的に調査の結果、古銘あるもの十数基を発見した。木崎氏著「摂河泉金石文」には、梵鐘及び池田家の2塔に就き記されて居るに過ぎない。是れ従り個々列記の中に、花崗岩の重合五輪、地輪の端物、高8寸5分、幅1尺1寸、4面に梵字。
・笑岩正忻禅定門 永正5年戊辰5月10日 (昭和8年10月24日調)
※池田市史 史料編(昭和42年発行)では、笑山霊忻禅定門としている。
(後略)。
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塩増山 大広寺の山門
池田勝正の事が記載されているようです。池田勝正は、どこでどのように死亡したのか、判っていません。また、池田勝正の墓と伝わる墓塔が、三田市小柿・田中地区にあり、ここには勝正に従っていた武士の家系の家もあるようです。

しかし、その場所だけでは無く、摂津池田家の菩提寺でもある大広寺が、池田勝正の死亡について把握していた事がわかる記録がありました。勝正の墓があるという事なのかどうか、この記述からは判断出来ませせんが、これまで公式には、勝正の墓の存在が確認されていません。
 大広寺は荒木村重が摂津国を支配した時代に、伊丹の有岡城建設と供に移転し、その後元に戻っているようですから、その時に紛失などしたのかもしれません。ただ、これを記した「元禄6年(1693)4月」は、慶長年間(1596-1615)に池田知正が池田へ大広寺を旧地に復した後、本格的に復興する頃で、確認のためにこういった覚え書きを残した可能性もありますね。ちなみに元禄7年、本堂など主要な施設が再建されているようです。
 また、『摂北古金石新資料』に紹介された、「笑岩正忻禅定門」なる人物は、勝正の法名「前筑州太守久岩宗勝大禅定門」と「岩」が共通して入れられていて、もしかすると同じ系譜の一族であるのかもしれません。

さて、何れにしても大広寺の代表である「第16世雲峰」が、元禄6年(1693)4月の時点で、勝正の墓石の存在について認識しているのですから、それはそれで意義のある事だと思います。
 今回のこの要素を知った事で、勝正の謎解明が、飛躍的に進んだ訳では無いのですが、その全体を把握するための要素がいくつか増えました。
  • 勝正は4日に亡くなったらしい。年月は不明。
  • 法名は「前筑州太守久岩宗勝大禅定門」である。
  • 元禄6年(1693)4月の時点で、大広寺が勝正の死について把握していた。この頃それらの確認を行い、墓石も探そうとしていたのか。
今後とも続けて、調べを進めていきたいと思います。道のりは遠いですが...。


◎参考ページ:池田氏関係の図録(伝池田勝正墓塔)



2016年5月3日火曜日

摂津国豊嶋郡細河郷と戦国時代の池田(細河庄内の木部村と武将下村氏について)

摂津国豊島郡細川郷(庄)内の下村氏は、同郡内から成長を遂げた戦国領主池田氏に早い時期から被官化していたと考えられる。
 実際にはもっと早くから確認できるのかもしれないが、筆者が池田勝正の活動に主眼を置き、その活動を追っている関係で、享禄2年(1529)から天正7年(1579)までの史料しか確認できていない。以下で扱う資料は、そういった状況でのものである事を予めご了解いただきたい。
 それから、下村氏の本拠である木部村とそこに関係する寺社、また出来事、歴史的遺物なども併せて示し、包括的に理解を深めたいと考える。

先ず始めに、他の項目と重複するが、現在既に論説されている木部村とそれに関する寺社を示してみる。

各項目の出典は、『日本城郭全集』『日本城郭大系』『○○(県名)の地名』に紹介されている城から見てみます。なお、出典は日本城郭全集が【全集】、日本城郭大系【大系】、○○(県名)の地名【地名】、その他【書名】、自己調査【俺】としておきます。


◎ご注意とお願い:
 『改訂版 池田歴史探訪』については、著者様に了解を得て掲載をしておりますが、『池田市内の寺院・寺社摘記』については、作者が不明で連絡できておりません。また、『大阪府の地名(日本歴史地名大系28)』や『日本城郭大系』などは、 引用元明記を以て申請に代えさせていただいていますが、不都合はお知らせいただければ、削除などの対応を致します。
 ただ、近年、文化財の消滅のスピードが非常に早く、この先も益々早くなる傾向となる事が想定されます。少しでも身近な文化財への理解につながればと、この一連の研究コラムを企画した次第です。この趣旨にどうかご賛同いただき、格別な配慮をお願いいたしたく思います。しかし、法は法ですから、ご指摘いただければ従います。どうぞ宜しくお願いいたします。


◎木部村(池田市木部町)
  • 池田村の北にあり、細郷の一村。村の東部は五月山の山腹にあたり、西部に耕地が広がる。西側を猪名川が南流し、村の西辺で北西辺を南西流してきた久安寺川と合流する。池田村より北上してきた能勢街道は、村の西部ほぼ中央で余野道(摂丹街道)を分岐。集落は能勢街道沿いに点在、とくに池田村に近い地は木部新宅と称し、町場化していた。
     慶長10年(1605)摂津国絵図に村名がみえ、元和元年の摂津一国高御改帳では細郷1745石余の幕府領長谷川忠兵衛預に含まれる。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では村高275石余で、うち仙洞御領89石余・幕府領185石余、元禄郷帳以降は、すべて幕府領。享保17年(1732)の家数63(うち屋敷持本百姓45・水呑6・借屋8・寺2・庵2)・人数329、牛12(下村家文書)。
     木部新宅は、宝永6年(1709)12軒の建家が認められたのに始まる。享保10年には16軒に増えていたが、4軒の取払いが命じられた。しかし、嘆願によって草履・草鞋・煮売り以外は営業しない、という条件で仮小屋が認められた。寛政3年(1791)には、木部新宅の魚屋3軒が、池田村の魚屋株仲間から訴えられ、廃業させられるという出入も起こっている(下村家文書)。当地は池田村への北からの入口にあたるため、池田商人との争いを繰り返しながらも町場化が進んでいった。紀部神宮・臨済宗妙心寺派超伝寺・曹洞宗永興寺・曹洞宗松操寺がある。【地名:木部村】
  • 池田備後守光重寄進状 昭和11年7月 林田良平稿「大広寺年表」所載
    一相乗實(池田知正)並びに池田三九郎為、木辺村於、米10石御寺納候。田数別紙之在り。仍って後日為寄進件の如し。
       慶長10年(1605)10月吉日 池田備後守光重(花押)
        大広寺御納所
    【池田郷土研究第8号12頁:例会281回(昭55・5・11)蝸牛驢文庫所蔵】

◎曹洞宗 総持寺末 竹林山 松操寺(池田市木部町)
  • 字北条にあり。竹林山と号し、曹洞宗総持寺末なり。寛文2年(1662)8月、下村五郎右衛門の創立にして、大広寺18世雲山の開基と伝えられる。(池田町史)【池田市内の寺院・寺社摘記:松操寺】
  • 木部天神社(紀部神社)前の旧道を少し北へ行くと、五月山山麓の竹林に包まれて「松操寺」があります。ここまでは車の騒音も聞こえない、ひっそりとした佇まいの尼寺です。
     開山は「下村五郎右衛門」という人で、地元では「ごろよみ」と呼ばれていました。寛文2年(1662)大広寺末として、18世により建立されました。ご本尊は釈迦牟尼仏で台座には笹りんどうの紋があって、珍しいことに獅子に乗っておられます。お釈迦様が獅子に乗られたのか、獅子が潜り込んだのか、どちらでしょうか。下村五郎右衛門の祖母の持仏であったとも伝えられていますから、400年以上昔の仏像です。両脇には、達磨大師・天元大師の木像があります。また、小さいけれども創建当時の地蔵菩薩が安置されています。
     長い間無住の時代があって、竹藪にポツンと在った草庵に、籠職人が住み込んでいた事もありました。庵主が入られて現在7世となります。本堂は、周りに増築されていますが、柱など創建当初のまま、焼けることも無く江戸時代初期から修復を重ねて350年近くの年月を経て、今日に至っています。(中略)。
     戦後は政教分離が徹底され、檀家の変遷のある中で、寺院の維持・保存は非常に難しくなってきました。院主のご苦労が偲ばれます。【改訂版 池田歴史探訪:松操寺】

◎曹洞宗 総持寺末 松尾山 永興寺(池田市木部町) 
  • 松尾山と号し、曹洞宗大広寺末にして釈迦牟尼仏を本尊とす。長禄2年(1458)2月、「永公」の創立なり。
     永興寺開山堂(いち名位牌堂)の十一面観音は、左手に水瓶(薬瓶)を提げ、右手で錫杖を立てている。ちょっと見慣れない姿だが、是れがいわゆる長谷式で、大和国長谷観音本尊の写しである。長谷寺は、天平時代に藤原房前が本願となって稽文会(けいもんえ)・稽主勲(けいしゅくん)合作のものを安置したが、現在のものは天文7年(1538)8月1日に成ったのだという。
     恐らく現本尊と同じものが古くからあって、天文年間(1532-55)にその形式を襲ったのであろう。分家が古く、本家が新しいという様な事は、理屈に合わないからである。なお錫杖を持っているのは、地蔵の兼相を表すものだとされている。
     ところで、永興寺の十一面観音は、元は木部天神の神宮寺松梅寺の本尊であったという。だいたい、松と梅は天満天神とかかわりの深いものだから、そんな名の寺に同神の本地とされる十一面観音を祀ったのは当然だろう。
     それは兎に角、この像は一木造りで、高さ110センチメートル、宝冠型のまわりに化仏を前後2体、左右3体、現在頂上に1体を配置する略式であるが、頂上仏は失われていない。それから首だけが妙に継ぎ足しの様にみえるのは、そのところだけ金箔が押し直された為か。なお左手と持物、足先が後補、台座も年代が下る。
     時代は彫眼の向き、肩の線、腰のくねり、衣丈の具合等、はっきり藤原式である。ただ中期か末期かに迷わされる。(池田市史)【池田市内の寺院・寺社摘記:永興寺】
  • 永興寺は、木部天神宮の赤い鳥居の右側の坂道を少し登ると、長尾山を望む高台にあります。このお寺は、室町時代の長禄2年(1458)、僧「永公」の開祖と伝えられますから、応仁の乱直前の540年を超える古いお寺です。永公がこの地に来たとき、粗末な庵(いおり)に十一面観音が祀られてあり、ここで一泊したところ、観音のお告げがあり、寺を建立したと伝承されています。
     ご本尊の十一面観音立像は、藤原時代1100年程前の作です。桧一木造りで、頂上仏が失われていますが、池田市重要文化財に指定されている貴重な仏像です。本堂裏の墓地には、古い歴史を語る、多くの宝塔・墓石が樹木に囲まれて森閑と並んでいます。心落ち着く風情です。
     隣地にある天神宮とは、昔は神仏習合(奈良時代に始まった神と仏の信仰を融合調和する思想の表れ)によって敷地がつながっていたそうです。以前、木部天神宮の神宮寺であった松梅寺がありました。【改訂版 池田歴史探訪:永興寺】

◎曹洞宗 静居寺末 少林寺・退蔵峰 陽松庵(池田市吉田町) 
  • 観応2年(1351)天龍寺開山夢想の開基なりと伝えらる。安永5年(1776)3月、淡路の領主稲田九郎兵衛祖先菩提のため再建せりと。境内九百坪を有し、本堂・庫裏・書院・方丈・廊下・衆寮・如幼斉・侍者寮・経蔵・山門・開山堂・禅堂などあり(大阪府全志)。
     本寺は有名なる天桂禅師留錫の道場であって、享保6年(1721)禅師を招請して中興の開山とした(寺史による)。彼の禅師の名著「正法眼蔵辨註(20巻)」「驢耳弾琴(7巻)」「報恩篇(3巻)」等は当時、眠れる法城に向かって獅子吼された書であって、当山は禅師由緒の地である。今尚は、其の名著の版木は輪堂に蔵され、禅師手澤の「正法眼蔵辨註」は、門外不出の書として当山に尚蔵されている。禅師は「正法眼蔵辨註」を享保11年に起稿され、同14年春に脱稿されている。そして6年後の享保20年(1735)12月10日に遷化された。
     当山は安居其他僧俗を問わず、時々其名著を提唱して修養の禅道場となって居る。そして当山は人寰(じんかん:人の住むべきさかひうち)を隔てて小丘によれる僻陬(へきすう:僻地)の寺院であって、幽翠静寂の勝地である。
     近時都人士が、煤煙の地を離れて当山に集い、提唱を聴く者甚だ多しと世間では、当山を一(いつ)に吉田の天桂と呼んでいる。禅師の遺蹤(いしょう:人の行ったあとかた)を偲ぶ名であろう。(池田町史)【池田市内の寺院・寺社摘記:陽松庵】
  • 細河谷南斜面の日当たりの良い適度に乾燥した土地は、我国有数の松の産地で、五葉松(ヒメコマツ)、柏槙などの生産で有名です。池田の文化に多大な影響を残した連歌師「牡丹花肖柏」の号「肖柏」も松・柏に因んでいます。
     同様に松に因む参禅道場「陽松庵」の開山は、観応2年(1351)室町時代、京都天龍寺開山の夢想国師(疎石)と伝えられています。その地は木部北条にありました。その後、四国阿波蜂須賀候は、深く天桂禅師にに帰依され、創建より362年後の正徳3年(1713)、その家老である稲田九郎兵衛によって天桂禅師を招請し、堂宇を再建することを発願されました。
     享保6年(1721)、木部の牡丹屋下村小兵衛も天桂禅師に深く帰依し、所有する吉田の現在地を寄進し、稲田氏と共に天桂禅師を中興開山として新築移転建立されました。
     陽松庵は禅寺としての伽藍配置が良く整っていて、経蔵・放生池・山門・法堂・仏殿・鐘楼・座禅堂・客殿・庫裏・浴室・東司などを備えて、創建当時のまま修復を重ね、現在に至るまで保存されている池田屈指の古刹といえます。(中略)。
     天桂禅師(1648-1735)の墓所は、禅師自らが示された西側山麓の石段を登りつめた所にあります。そこには禅師が示された楠木が代々植え継がれています。(後略)。【改訂版 池田歴史探訪:陽松庵】

◎紀部天満宮(池田市木部町) 
  • 現在の紀部神宮、旧称木部天満宮の所在は池田市木部。当郷産土神として、崇敬甚だ厚く、祭神菅公の千載に変わらぬ忠烈精誠を仰がざるはない。創建の年代は詳らかならざるも、所伝に依れば、天神系紀国造(きのくにみやつこ)の末裔である木部氏(紀部氏)此の地に居りて祖神天道根命(あめのみちねのみこと)を斉祀し、氏の大神として尊崇されるもの、即ち当社の起源にして、後一条天皇の正歴4年(993)勅使菅原爲理太宰府に下り、菅廟に正一位太政大臣を贈り、霊代を奉じての帰途に、神託を畏みて分霊を島上郡日神山(ひるがみやま:上宮天満宮(天神社)現大阪府高槻市天神町)と当社に奉祀し、次いで、日神山の神を上宮天神、当社を木部天神と称え奉りたるものなり、という。
     天神系紀国造の氏族夙くこの地に住して、其の祖天道根命を祀り、氏神として斉き奉りたりしが、後年菅公を配祀して、天神宮と公称せしものなるべしが、正親町天皇朝の天正年間(1573-92)織田氏の兵火にかかり、社殿・神宝・古記録など悉く鳥有に帰し、今や徴すべき史料はない。
     以来、当地の名族下村五家、宮家として、京都吉田殿の免許を受け、神事を奉仕する事、実に明治40年に至れりという。
     上記は、義川百合女氏の論文を摘記させていただいたのですが、義川氏は最後に「而し、現社号は昭和26年宗教法人法に依り、上記の古文献・記録に従ひ許可されたるにて、神宮の称号は府下希有のものたるべし。」としています。【池田市内の寺院・寺社摘記:紀部天満宮】
  • 畑天満宮と区別するために「木部天満宮」としましたが、地元では「天神宮さん」と呼ばれています。本殿に掲げられている額には、「天満宮」と書かれていますので、天満宮が正しいと思いますが、称号が何時変わったのか明らかではありません。別に紀部神社とも呼ばれています。
     当社のご祭神は、言うまでも無く菅原道真公です。菅原道真は、藤原時時平の讒言によって、太宰府に左遷されて、延喜3年(903)59歳で亡くなりました。以来、天神信仰が全国的に拡がり、各地に「天神さん」として祀られていますが、ここの天神宮は、道真公と直接の由来があったように思います。と言いますのも、かなり古い社で少なくとも14世記南北朝時代には祀られていたように思います。火災には遭っていないようですが、長い間、宮司が不在で、古文書などは散逸してしまっているために、全く不明です。しかし、寛政から天保年間(1789-1843)の頃、最も繁栄していた様です。その後、明治・大正・昭和の初期まで、厚い信仰が続いていました。
     現在の本殿は、100年余り前の建立と思われますが、境内の数百年を経るケヤキの大木や石垣などに歴史の重みが感じられます。木部は「城辺」とも記録され、池田の原住民「佐伯部」の城(とりで)があたっと伝えられる平安時代からの集落でした。五月山は佐伯山と呼ばれていました。
     また、木部は大規模牡丹栽培の発祥地として500年もの歴史と主産地としての繁栄がありました。牡丹屋小兵衛が著名で、今も牡丹屋と呼ばれる下村家が健在です。現在、吉田にある陽松庵は、もとは木部にありました。陽松庵の建立に、牡丹屋小兵衛の大きな尽力がありました。
     木部天満宮は、阪神大震災で社務所が倒壊し、大きな被害を受けました。しかし、整備された神社とは、また違った神秘さと、歴史のミステリーが感じられます。
     当社のお祭りは10月24日・25日の秋祭りです。最近は祭日直近の土曜日に行われます。だんじりは、木部と新宅の2台があります。(中略)。現在は木部のだんじりだけが、2つの赤提灯を先頭に、太鼓の音色も勇ましく、大人・子ども70〜80人が曳いて、木部町を一巡します。保存会の方々のお陰で、元気な子どもたちも大いに一日を楽しみます。【改訂版 池田歴史探訪:木部天満宮】

既述のように木部村は、寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では村高275石余で、享保17年(1732)の人口は329人。この規模で神社(神宮寺)1に寺が3つと陽松庵を持つ。細川郷六ヵ村の中で木部村の石高が特に高いわけでもないが、他の村の寺数が大体は2つであるのに比べて、倍の数を保有している。

次に、戦国時代当時の資料を見てみる。永享元年(1429)8月に発行された『春日社神供料所摂州桜井郷本新田畠三帳』に、春日社柛供料所摂州豊嶋郡桜井郷本田分として、17坪・23坪などの給人で「下村五郎兵衛」と見える。これが下村氏についての史料上の初見ではないかと思われる。また、年記は未詳ではあるが、天文15年と推定される、6月1日付けの池田信正による、今西家(春日社領垂水西牧南郷目代)への神供米切出注文の中に給人として「下村両人」と見える。その後も神供料に関する記録に下村姓が見られ、天正4年(1576)分にも小曽根分として「下村分」が見える。
 そして、これらの給人の多くは、池田氏の被官であったと思われる。下村氏は、春日社領に関わる行動もしていた。早い段階の記述に見える下村氏は、士分の活動をしていたのかどうか、他の史料が無く、今のところ不明ではあるが、地域の有力者や村の防衛のために武士として活動していた一派もあっただろうと思われる。
 また、池田氏の当主が長正に代わると、下村氏は更に深く、その政治体制に関わるようになっていく様子が窺える。史料では年記を欠くが、永禄2年と思われる10月15日付けで、今西橘五郎へ宛てた音信では、池田勘介正行・荒木与兵衛尉宗次・寺井与兵衛尉綱吉・宇保平三郎安家・大井新介宗久・村田善九郎秀宗と共に、下村彦三郎仲成が名を連ねている。内容を以下に示す。
※豊中市史(史料編1)P129

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急度折紙以って申し候。仍て小曽根村井■(井関?)之事、段別一斗六升懸けられ由候。百姓等申し候。如何有り之儀候哉。前々堤切れ候時に、引き懸けなど有るべく候。当年過分に懸けられ候事。各々承引仕り難く候。この由百姓中へ聞かせ仰されるべく候。恐々謹言。
※■=米遍に斤
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続いて、当主が勝正の時代、池田氏は活動範囲が最も広くなる。大和国奈良へ軍を入れる中に、下村重介なる人物が見える。『多聞院日記』5月19日条に、
※増補 続史料大成(多聞院日記2)P14

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一、昨夜宿院ノ城へ夜打シテ池田衆損了。寂福院へコミ入了。事終次第也(下村重介死了。百計ノ大将ト云々)。坊舎オモコホチ了。並金龍院ヲモフルヰ了。日中後尊蔵院ヲモコホツ由也。定テ宿院辻之城ノ火用心二、坊ヲ可壊取之由被申歟。浅猿浅猿。
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下村重介は、奈良宿院城の夜襲に失敗し、戦死した模様。この時の重介は、100人程を采配する大将であったらしいが、大将が戦死したと伝わる程の戦闘であるから、他にも死傷者を多く出しているのだろう。この戦いについての記述が他になく、詳しくはわからない。
 その後、下村氏については、直接的史料では見られなくなるが、伝聞資料や系図、軍記物などで下村市之丞なる人物の行動が見られる。ただ、これは豊島郡細郷の下村氏とは別家系かもしれないが、参考までにあげてみたい。
 
『岡藩豊後中川氏諸士系譜(豊後竹田市立図書館所蔵)』に、下村市之丞勝重(下村伊賀守成兼長男)の項目がある。以下にその部分の内容を抜粋してみる。
 ちなみに下村成兼とは、下村仲成とは「成」の字が共通しており、通字を冠していたかもしれない。これは、今のところ個人的な想像に過ぎないが...。また、「市之丞」は正式な官位の名乗りではない。本拠地が「市場」であるためか。
※荒木村重史料(伊丹史料叢書4)P147

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一、同(永禄)12年(1569)1月4日、三好勢本圀寺の御所に押寄候に付、伊丹兵庫頭・池田筑後守を始め渡辺宮内少輔・萱野長門守・田能村伊賀守・有馬伊予守・白井主水正・下村市之丞・粟生谷兵衛尉・長柄八郎左衛門・安威三河守・畠田但馬守・(中川)清秀様・布引舎人助・荒木弥助・長目清助・桜塚庄兵衛等摂州を打立、公方家之御味方に参る。(中略)。
一、元亀元年(1570)9月、荒木信濃守村重池田城に在りて勝正か余類退治の時、清秀様・下村市之丞・粟生谷兵衛尉・安威三河守・瓦林越後守以下村重か下知に依りて、自身馬を進め人数を出し、残党共の要害に押寄壱人も不残悉く討取。
一、元亀3年(1572)8月28日白井河原合戦荒木信濃守村重和田伊賀守惟政と合戦の節、市之丞は荒木方にて、清秀様・粟生谷兵衛尉等一同に上の郡勝光寺に勢揃いして馬塚に出張し、和田勢と相戦い和田方の鉄砲頭十河扶之助を討捕。
一、市之丞儀、荒木幕下に有之時、何れの合戦にや無比類高名を顕し、村重差所の刀を引出物として賜る、其刀子孫伝来す。刀長二尺五寸、作出雲道永。
一、天正6年(1578)11月、荒木謀反之節、清秀様茨木御籠城、依之市之丞御加勢として茨木城へ参上。
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とある。また、同じく『諸氏系譜』に、何名かの下村姓の由緒が見られる。参考までにあげてみる。
※摂津市史(史料編1)P528、530、532

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第12巻
此巻にも又摂州菅家之一族、永禄年中清秀公之旗下に属する輩記之。
【下村総蔵】其祖下村次郎左衛門者播磨国赤松之支族にして、播州三木郡下村に居る。永禄年中摂州に入て伊丹家に属、其後清秀公之旗下に属す。
第17巻
此巻にも摂州にして室町公方の御家人、公方御浪人の後、大祖の旗下に属する輩記之。
【下村弥五郎】其祖下村市之丞、代々摂州島下郡下村の領主にして、室町公方の御家人たり。永禄の末、和田伊賀守に所領を奪われ、荒木信濃守に付きて本領安堵を望む。元亀3年(1572)8月、白井河原合戦の節、清秀公と御相備にして白井河原出張す。夫れより後終いに清秀公の御幕下と成る。
第20巻
此巻にも元亀・天正之頃より大祖之旗本に有て、年月不詳輩記之。
【下村九郎左衛門】其祖下村太郎太夫、山崎合戦に軍功有、主帳に見ゆ。夫れより以前、大祖の旗下に有と云う。其の来る事、元亀・天正の始めなるべし。
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上記の下村氏姓は、何れも摂津国内に縁を持つ出自らしい。豊島郡細郷の下村氏とは、直接の関係は無いかもしれない。
 それからまた、『中川史料集』では、白井河原合戦での下村市之丞について、詳述しているので、市之丞の登場部分を抜き出して紹介しておく。
※中川史料集P15(北村清士 校注)

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一、28日暁、白井河原へ御出陣に依って付き従う人々、「老職御備頭」熊田千助資勝、池田次郎長政、森田彦市郎吉俊、森村次郎大夫正家、田近新次郎長祐、中川淵之助重定、菅杢大夫相雄、野辺弥次郎村清、森田半右衛門、辻六郎兵衛、弟同助右衛門、萱野五右衛門正利、安西弥五太兵衛、上島新左衛門正恒、弟同与兵衛、弟同理左衛門、弟同庄右衛門、弟同猪右衛門、飯田七助、丸山孫六、永田伝内、嫡子同右衛門秀盛、森市兵衛、田島伝助、右の輩を始めとして、御備えの人数押し出す。荒木方より加勢として、馳せ加わる人々、粟生兵衛尉氏晴、熊田孫七資一、下村一之丞勝重、鳥養四郎大夫、既にして打ち立たんとし給う。(中略)。卯辰(午前7時)の刻の頃には、荒木の軍勢3,000の人数、郡山より馬塚にかけ、東向きに陣を敷く。和田伊賀守は、茨木の城主、茨木佐渡守重朝を語らい、1,000余人を従えて糠塚より、西向きに備えを堅む。(中略)。太祖引き続きて隙もあらせず、突いてかかり給う。粟生兵衛尉、熊田孫七、下村市之丞、鳥養四郎大夫、中川淵之助、田近新次郎、菅杢大夫など息をもつかず突撃すれば、和田が旗本崩れて八方に逃げ走る。(中略)。二本靡きの指物この靡きは、伝助取って御供す。荒木は太祖の横合にかかり、敵の色めくを見て、先手旗本一同にかかり、自身も太刀打ちして茨木佐渡守を組み打ちにす。郡兵大夫をば山脇源大夫討ち取り、十河杭之助は下村市之丞討ち取り、永井隼人を三田伝助組み打ちにし、池田久左衛門尉は槍を合わせし時に、和田方より槍下につき伏せられたるもまた起き上がり、能く敵を組み打ちにす。その余り和田方の名ある勇士共、66人悉く討ち死にす。雑兵は数を知らず。終いに和田方総敗軍となる。既に軍散じければ、太祖は御人数をまとめ、荒木が前に御出あり、戦いの次第御披露あり。同夜、荒木は郡山村に陣取り、味方の軍労を慰めんがため、池田より諸白数十樽取り寄せ、酒宴を設く。其の席にて諸士に感状を与う。此の時下村市之丞進み出で、今日の合戦は信濃守殿軍略を以て、敵を引き掛け、前後を駆り隔てらるる故に、御勝利となる事もちろんなれども、清秀よく塩合を見定め横槍を入れて、和田勢を突き崩せしより、敵一同に崩れ立ち、伊賀守・佐渡守も討ち死にせしむ。今日の勝利全く清秀の手柄なり、御杯を始められ一番に清秀に賜れと申せば、荒木もさこそ思いつれ、某たとへ先手を切崩すとも、鬼神と呼ばるる伊賀守を旗本を以て、二の見をせば六つか然るべし、清秀横槍の働きを以て味方の勝利となる。剰え和田が首を討取らるる事、今日一番の功名紛れなし、といって杯を進ぜられんとて、太祖へさして御勲功を賞す。此の御働きに依って、呉服台500貫の地も領し給う。(後略)。
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このように、下村市之丞は、武士として大変有能であったらしい事が述べられている。また、池田家中でも重く取り立てられて事もあり、「勝重」という諱は、当主勝正からの偏諱であったのかもしれない。

しかしながら、この下村市之丞が豊嶋郡細郷出身であるかどうかは、今一度慎重に考えるべき資料があるので、それも示してみる。
※摂津国豊嶋郡熊野田村古跡見聞書(竹田市立図書館蔵)

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摂津国豊島郡熊野田村古跡見聞書
 安政4年(1857)12月15日書 下村市之丞

御咄申し上げ候口上之覚え

私儀此の度摂津国豊島郡山田之庄下村市場と申す所は先祖之旧地に付き、是れに罷り越し代々之墓にも参り、先祖市之丞旧宅且つ同姓も御座候に付き、是れに暫く滞留仕り候。(後略)。
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この『見聞書』によれば、下村市之丞の縁故地は、摂津国嶋下郡山田庄下村市場であるとしている。
 この下村市之丞の主家である中川家自体は、池田家中での活動として「春日社領垂水西牧南郷柛供米切出分注文」の給人として、天文年間(1532-55)から見られるので、古くから池田家との接点がある。
 そんな中で個人的に、中川清秀そのものの起源が、多少縁起を担いだ起源を挿し入れているのではないかと感じている。清秀自身に武士の才能があり、諸々の活躍で大身に成長した事は間違いない事ではあるが、中川家が成長しきった時代性もあったのか、派手な縁起をその成り立ちの中に求めることがあったのかもしれない。
 中川家の、池田家中時代の動きを追うと、どうも唐突に感じられる事象もあるように感じている。だからその周辺の人物についても、そういった風潮の中で謂われが形成されている可能性もあるのではないだろうか。その土台がウソという訳ではない。
 他方、下村市之丞の本拠地とする山田市場は、その名の通り「市場」がある重要な地域であり、また小野原方面からの街道と千里丘陵の南側の街道の交点でもあり、土豪として成長したり、重要な人物がそこに入っても不思議では無い。ただし、嶋下郡であるこの場所は、摂関家領垂水東牧に属する。
 後に、嶋下郡山田の下村氏も中川家の転封に従う一派と旧地に残る一派が出て、ここでも運命を分かつ出来事があったようである。
 いずれにしても、精査するためには他にも情報を集め、状況証拠をもって見る必要がある。下村市之丞については今のところ、その家系が、豊嶋郡細郷の下村氏と同じかどうかは断定できない

戦国時代の池田家中及び荒木村重に属した下村氏の動きを時系列にまとめてみると、
  • 池田城の防衛上、要所である木部村の有力者下村氏が、天文年間(1532-54)には池田氏と関係が深まっている事が確認できる。
  • 池田長正の当主時代になると、池田家の公文書に下村氏が署名する程に地位を向上させ、取り立てられている。
  • 永禄10年(1567)5月、下村重介が100名程を率いる大将として奈良へ出陣し、戦死したらしい。
  • 永禄12年1月、京都本圀寺・桂川合戦に下村市之丞が出陣しているらしい。
  • 元亀元年(1570)の池田勝正追放に、下村市之丞が加わって、勝正残党を討つ行動を取っているらしい。
  • 元亀2年8月、白井河原合戦に下村市之丞が従軍して活躍し、名のある武将十河杭之助を討ち捕ったらしい。この時は荒木村重が率いる一団に属し、中でも中川清秀と共に行動して、手柄を立てた模様。
  • その後、池田家中が再び内訌を起こし、池田一族と荒木村重が争った時には荒木方に属し、ここでも活躍していたらしい。これらの功に対して村重から下村市之丞へ「出雲道永」作の刀が贈られている模様。
  • 天正6年秋、荒木村重が織田信長から離反した時、一時的にはそれに従うも、村重から離れた清秀に同調し、織田方となった模様。下村市之丞はその後、清秀と行動を共にするようになったらしい。
となる。

摂津豊嶋郡下村家はそういった経緯を辿り、江戸時代に至って家を保ったと思われる。ただ、下村一族の全てが同一行動をとった訳ではない。豊島郡に残った一派(代々庄屋を勤める)と中川家と共に豊後国へ移った一派などがあって、その時代の求めにより、それぞれが判断し、それぞれの涯分を護ったようである。

豊島郡の下村氏について、その本拠地の様子と時代による活動を見たが、やはりこれ程に戦国領主摂津池田氏と深く関係しているからには、城を持ったであろう事は、想像に難くない。しかもその場所は、要所である。それが『日本城郭全集』や『日本城郭大系』に記述されている「木部砦」であろう。以下に再度、引用してみる。
  • 天文年間(1532-54)に池田氏が拠った所といわれている。池田市の北方にあり、阪急バスにて池田駅より約7分で行ける。ここは古くは城辺(きべ)という地名で呼ばれており、今は田圃になって見るべきものはないが、「城ヶ前」「土居」と呼ばれる高地があって、土地の人はこれを城地であったと伝えており、周囲およそ100メートルばかりの地である。【全集:木部砦】
  • 城ヶ前・土居という地名があるが、遺構は全く残っていない。『摂津志』は神田・今在家・利倉等の諸砦と共に天正6年の織田信長による荒木村重討伐と関わらせているが未詳。【大系:木部砦】
また、記述の陽松庵の項目を見ると、同庵の前身は観応2年(1351)天龍寺開山の夢想国師の開基で、その頃は今の木部町字北条にあったと伝わる。今現在、字北条には竹林山松操寺がある。ただ、「字北条」とは現在の細川小学校から南側あたり一帯も含まれ、厳密には、陽松庵の前身施設がどこにあったのか、今のところ不明である。
 一方、江戸時代の享保6年(1721)に、新築移転して陽松庵となった場所は、下村小兵衛による土地の寄進で事業が実現している事から、このあたりも下村氏に縁の場所であった事が判る。
 ここは川辺郡との境目で、戦国時代には重要な場所でもあったため、陽松庵の造営に際して、そういった経緯があったこと自体、大変興味深い。

それからまた、永興寺は、長禄2年(1458)の創建時には、大広寺末であった。大広寺は池田氏の菩提寺であるが、永興寺は下村一族の菩提寺であり、歴代の墓塔もある。永興寺創建の頃の長禄2年は、当主充正が主導して池田氏が台頭してくる年代でもあり、その頃に大広寺末として木部村に永興寺を開山した事も興味深い。
 ちなみに、永興寺は、木部天神の神宮寺であった松梅寺の本尊である十一面観音を引き継いでいるらしい。

一方で細郷の本拠の下村氏は、江戸時代にも牡丹の栽培を続け、その道で全国に名を知られるようにもなっていた。以下、資料を引用して紹介する。
※広島史話伝説(第2号)已斐の巻P148

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◎已斐園芸植物の元組 -植木屋こと下村次郎右衛門-
花を好んだ二代将軍、徳川秀忠の妹「振姫」を妻にもらった、浅野家初代広島城主長成は、当時上流社会の諸国大名たちの間に流行していた。愛花、盆栽趣味に凝ることは、当然のなりゆきで、特に江戸時代吹上御苑に花壇を造り、自らその範を示すほど園芸好きの兄秀忠に刺激された振姫が、未だ見ぬ安芸の国へ転勤するについて、荒大名福島正則の跡を受け継ぐだけに、一層「花」の事を先に考えた事は、人情の然らしめたものであろう。
 元和5年(1619)7月4日、世子光晟を伴い、海路紀州を発し、8日夕方、はやくも広島城に到着、紀州37万6千5百石から、振姫の持参金と称せられる5万石を加え、合計42万6千5百石で、広島城主となった浅野名晟は、広島に転封を前に、元和2年1月19日、家康の三女「振姫」と結婚し、一子光晟をあげた。ところが、振姫は産後の日立ちが悪かったか、どうかして、結婚の翌3年8月29日、光晟を産んで間もなく急死した。この振姫は、生前特別牡丹花を好んでいたらしく、今の大阪府池田市に居住していた、牡丹造りの名人、牡丹屋こと下村次郎右衛門を同行する事となっていた。
 しかし、結果からみると、振姫の愛した牡丹の花は広島でその開花をみたものの、振姫の死語その墓前をかざる花となってしまった。振姫は安芸国広島の城下を見ぬままに紀州の地で他界した。
 牡丹屋次郎右衛門は、予定通り新城主とともに広島城下に赴任すると、国泰寺付近に宅地をもらい、その後城主の命により直ちに牡丹造りの適地を探し歩いた結果、已斐の地に白羽の矢を立てた。
 已斐の地は旧已斐小城を囲んで、その小茶臼山を抱くように、大茶臼山、抽ノ木山などが連峰をなして、北西から吹いてくる寒風を遮り、南面して暖かい土地で牡丹のみならず、園芸植物には理想的な適地であること等報告して、ここに屋敷地の下賜を受けて牡丹造りに精だし始めた。
 その屋敷跡はもと百花園のあった小高いところ、已斐住民が住み着いた五ツ井戸のうちの一つ、松本井戸のある上堤一帯で、園芸造花には最適の地であった。
 この牡丹園下村次郎右衛門は、植木職人であるといっても、下村姓を許されている浅野候お召し抱えの人であるから、ただ単なる下級職人といった風の者ではなく、名字につきものの帯刀をも許された家柄であった。、ということであるが、その後、下村家の末裔は如何になって行ったであろうかは、極めて興味ある問題である。
 浅野長晟公に従って現在の大阪府池田市細川から広島に来た。初代植木屋次郎右衛門より数えて八代目、現当主下村卓爾氏(82歳)はいまも八十二歳の老齢ではあるが、大阪市旭区に健在であるから、その父から聞いた記憶を辿って左記「已斐植木屋元祖 下村次郎右衛門系譜覚帳」の項に述べてみよう。(後略)。
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また、細郷の下村氏は「牡丹屋」との屋号で、大東亜戦争(太平洋戦争)前には、「大日本帝国牡丹元組」なる全国的な牡丹生産振興組織を主導し、会報などを発行していた。
 『広島史話伝説(第2号)』に紹介された、初代下村次郎右衛門は、万治3年(1660)に没している。またその名も、細郷木部村の松操寺を創立(寛文2年)した下村五郎右衛門と名付けの共通性があり、兄弟や血縁の近い一族である事を想像させる。
 
上記にあげた様々な木部村と下村氏についての要素と歴史は、個々別々のものでは無く、出所としては一つであろうと思われる。現在のように、何の縁故や謂われ無く交わる事が難しい時代にあって、ここにあげた要素のそれぞれは、偶然に結ばれたものでは無いだろう。
 今後、これらに興味を持った人々が、それらを更に深く、広く研究される事を祈りつつ、この試みが、そのキッカケになれば大変嬉しい。