2021年10月30日土曜日

摂津郡山城(大阪府茨木市新郡山1丁目9付近)について考える

大阪府茨木市新郡山1丁目9のあたりにあった、摂津郡山城跡です。天正6年冬の荒木村重謀反の時、織田信長はここにも本陣を置き、対応に腐心しました。11月16日、信長はこの場所で高山右近と会見し、間もなく、茨木の中川清秀も開城。同月26日、織田信長は、この場所で、高山右近・中川清秀に黄金三十枚などの褒美を下しています。

しかし、公的な発掘などは行われていませんので、詳細は不明なままで、遺構もなく、今は地形などを見て想像することしかできません。
 かろうじて、茨木市教育委員会により、案内板が設置されていますので、以下、その内容をご紹介します。

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郡山城主郡平太夫は、摂津国高槻城主和田伊賀守惟政に仕え、この郡山の地に城を構え、近郷七ヵ村を支配していたといわれている。
 『陰徳太平記』によれば、元亀2年(1571)8月、茨木方の和田惟政と荒木村重ら池田二十一人衆との対立があり、勝尾寺川と茨木川の合流点辺りの白井河原をはさんでの合戦となった。この時平太夫は、奮戦むなしく戦死したと記されている。
 『中川氏年譜』によれば、合戦の夜、村重は酒宴を開催、翌日茨木城を攻め落としたのがこの郡山であった。
 さらに、『信長公記』によれば、織田信長に対する村重の逆心時、信長は高槻城主高山右近をこの土地に呼び、味方にしている。次いで、信長はこの城を有岡城攻めのひとつとし、津田七右衛門尉信澄が城番であった。

現在、城は残っていないが、新郡山1-9から西一帯に「城ノ内」という地名が残り、また『東摂城址図誌(明治初期 東城兎幾雄編)』に「郡山城址 在嶋下郡郡山村字城ノ内」と記されていることなどから、この城ノ内一帯が、城の中心であったことがうかがえる。
 周辺には、門口・山ドイ・物見塚・出シ・二ノ坂・西ノ谷・西ノ町・上ン町・中町・南町・東町など城に関する地名が残っており、伝承・地形・文献などから勘案すると、郡山全域がほぼ城域であったと考えられる。
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また更に、『わがまち茨木(城郭編)』では、以下のようにあります。但し、細かなところは今現在、判っている事実とは異なっています。

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【郡山城】 執筆者:田中 忠雄 刊行時

天正の頃、芥川城主和田伊賀守惟政の武将、郡平太夫宗弘城主たりき。郡家に蔵する「郡氏由緒書」の一節に、「郡平太夫は、摂津国高槻之城主和田伊賀守仕え、同国郡山之城主、郡村・中河原村・宿河原村・上野村・下井村・五ヶ市村、七ヶ村を領致申し候。天正元年7月、伊賀守は荒木摂津守と合戦有之。摂津守は馬塚に陣を取り候扁、伊賀守郡山より三町ばかり北東の方に當り箕原村と中河原村との間糠塚と云う所まで出張致し候。此所、前は川原、北は山にして(中略)平太夫先手に進み勇戦を致し候へば、伊賀守、中川瀬兵衛と戦ひ討ち死に致し候ゆえ、平太夫も陣地より二町程こなた、郡村の内において討ち死を致し候。その馬は黒毛の名馬たる由にて、彼馬に向へば、畜生も能く働き候事よと存じ申し候云々と記さる。
 また大阪府全志には、天正元年和田伊賀守、茨木佐渡守等の足利義昭の命を奉じ、三島村大字耳原の糠塚に陣して、織田信長の武将荒木摂津守村重、池田筑後守輝政と白井河原戦ふや、平太夫進みて輝政の先鉾に當りしも、遂に山脇某の手に斃る云々とあり、今や山地、田地、畠地、池と化し(大部分は浪速少年院の敷地)漸く字地域の内を有するのみ、少年院工事中ハニワ(殉死的人形焼物)掘り出づ。東城兎幾雄編の東摂城址図誌には、図53の如く見ゆ。いささか往昔を偲ぶに足らん。 ※以上の記は春日村誌刊行会編著者、内山平三郎氏の『春日村誌』より

追記:大正11年の浪速少年院工事中に、円筒埴輪が出る。この遺物は、現在も宇治少年院で保管されている。また多くの石が掘り出された中に、郡家の家紋と思われる、三ツ鱗、三ツ星印の城石が発見された。現在は浪速少年院玄関、車まわしの五葉松下に置かれている。(発見者:田中 忠雄)」

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個人的には「郡城」というのもあって、そこはそれに何らかの関係があるのではないかと思っています。若しくは、こちらが古く、新たに郡山城を作ったのかもしれません。郡神社から少年院のあたりに古い城があったのかもしれません。
 『わがまち茨木(城郭編)』に取り上げられている「郡山城」は、状況的に見れば、こちらが「郡城」ではないかと思われます。新しく城を作るには、今も昔も資金と地位が必要ですし、同じ規模のモノをつくるというのは考えられません。
 掲載されている縄張図は、郡城で、いわば旧城の形態ではないかと思われます。役割分担をし、両方共に使ったか、古い方を廃して新しい城に資力を集中させたのかまでは解りませんが、そういった流れで、同じ地域に二つの「郡山城」が存在するのだと思います。

※写真の撮影時期は、2006〜07年で、3月〜5月の春先に撮っています。



大阪府茨木市新郡山1丁目9付近にある茨木市教育委員会の案内板
 

郡山城域北側から北方向を望む眼下には西国街道が通る


郡山城跡付近から出た墓塔など


明治41・43年頃の測量地図


わがまち茨木(城郭編)に掲載の郡山城縄張図

2021年10月28日木曜日

摂津穂積城(大阪府茨木市中穂積2丁目)が存在したか否かについて

久々の更新です。いつも気まぐれですみません。

今回は、大阪府茨木市中穂積2丁目にあった、穂積城についてです。以前から気になっていたのですが、訪ねる事無く数十年が過ぎてしまったことを悔いています。しかし、今も面影は残っており、見ておいて良かったなと思います。町並みが変わる前に、今度は詳しく見たいと思います。まぁ、既にもう、変わったっぽいのですが...。

ざっと、穂積城についてまとめておきたいと思います。後日、また、詳しく調べた上で、記事を更新しますので、速報としてご覧いただければと思います。

文献は、ほぼありません。多くが『摂津志』からの引用で、山田城十三の支城の一つとしてあります。村の様子については、平凡社刊『大阪府の地名』が参考になります。城については、いつもの『日本城郭大系』では取り上げられていませんので、今現在で手に取ることのできる参考資料は、やはり茨木市教育委員会刊『わがまち茨木(城郭編)』が最も参考になると思います。地元に伝わる言い伝えを検証を交えて収録してあります。

以下、「穂積城」の項目を抜粋します。

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【穂積城】 執筆者:中村修 刊行時

古い史料(摂津志)によると、茨木市中穂積の春日神社境内になっている小高い山林一帯が、穂積城の跡として伝えられている。

  • 大阪府全志「塁堡の址、春日村中穂積、塁堡の址は字地に「城の堀」と称するあり。「摂津志」に塁堡の址ありと記せるは、是れ、その所ならんか。」
  •  松岡洲泉著「城を訪ねて(茨木市の部)」に、穂積城の頁が掲載されている。「城名:穂積、所在地:中穂積二丁目、北春日丘一丁目。形状:平山。築年・城主・興廃:不詳。所見:史料散見するも城郭確認できず。城の樋、城の堀の地名残る。」

以下「穂積城」について調査したことについて記すことにする。

  1. 松岡洲泉氏の著書をもとに、中穂積二丁目、北春日丘一丁目及び見付山一丁目周辺の地形を調べる。※「穂積城跡周辺の地形A」と「穂積城跡周辺の地形B」を参照のこと
    • 標高と高低差:亀岡海道20メートル、山ノ下30メートル、山上地60メートルで、その標高差は40メートルである。
    •  山ノ下より5〜10メートルの高さに、土塁状の平地が続いている。
    •  土塁より、更に10〜20メートルの高さで、急峻な崖になり、山上は約1200坪(4000㎡)程の広さが見られる。

  2.  中穂積二丁目、岡村俊一氏、長沢五三六氏の話
    • 「城ノ堀」の土地は、昔から湿地帯であった。
    • 春日神社の山が穂積城(塁堡)の跡であったとする話しは、今までに聞いたことが無い。
    •  弁天宗になっている山は「さんじょ山」または「さんじょう山」と読んでいたが、見付山とは言わなかった。
    •  また、今の弁天さんのある山に、昔は小野原からの杣道があって、村人は牛の背に荷をつけて山越えしていた。その道のことを「殿さん道」と言っていた。
    【注】「さんじょう」は「山城」の意にとれる。また、「見付山」は、城の見張りの番兵がいた山のことである。

  3.  穂積城(城郭)の想像図
    今回の調査によって、穂積城としての城郭跡を確認することはできなかったが、その地形や地名などからみて、何らかの塁堡が存在していたことは想定される。
    • 穂積郷(飛鳥時代・奈良時代の律令体制時代:700〜800年頃)を支配していた穂積氏の館があったとする想定。
    •  垂水東牧(平安時代・鎌倉時代:800〜1300年頃)を守護する砦があったとする想定。
    •  室町時代・戦国時代(1300〜1570年頃)における、戦略上の一時的な塁堡が作られたとする想定。
    以上のことから、この穂積の山地は茨木地方を一望できる格好の場所であるので、要地として利用されたことが考えられる。
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穂積城跡周辺の地形A   

穂積城跡周辺の地形B

標高断面図

穂積城(城郭)想像図

穂積城跡の遠望(昭和50年頃)

ここまで、『わがまち茨木』より。以下は、それぞれに引用元を記します。



大日本帝國陸地測量部(5万分1地形図) 明治41・43年頃


 

 境内ストリートビュー(筆者撮影)

 

『わがまち茨木(城郭編)』によると、城に関係すると思われる、城の樋(とい)、城ノ堀、さんじょう山、殿さん道、見付山との呼称があったと伝えています。これらの証言は、とても貴重だと思います。中でも「城の樋」との地名は気になります。
 建築史的に、現在のような家屋用の「雨樋」はありませんでしたので、土木的なものだと思います。現在でも用水作事では「樋」という概念がありますが、これもそれではないでしょうか。城や地域社会基盤としての樋があったということですね。

それらの要素を元に、明治40年代当時の地図を見ると、今の春日神社のあるところから、更に北側にもう一つのピークがあり、北側は地形が下がっています。そしてまた、上がり、今の弁天宗のある山へ続きます。
 見付山から弁天宗の山まで一連の施設となると広すぎます(何らかの関連性は持ちつつ)ので、『わがまち茨木(城郭編)』で想定されているように、城としては、丘陵の突端の二つのピークを利用した構成だったのではないでしょうか。城跡である現春日神社境内には、井戸がありますので、水の心配も無く、長期の籠城も不可能ではありません。
 一方、「さんじょう山」とは、中心的な部分の上にある山、「殿さん道」はそこに繋がる道ではありますが、一つの方向性ではなく、放射状に伸びる道の行き来を含めてそのように、地域象徴的に呼んだのではないでしょうか?拠点地域や大都市に繋がる道をそう名付けたように。例えば、大坂や京都ですね。
 また、城下は中穂積村を構成する区域が居住地域だったのかもしれません。城の樋や城の堀の地名が残るのは、そのためだったのでしょう。

ここに城があったことは、蓋然性が高いと思います。ここから真東に半里(2キロメートル)以内に、茨木城の地域拠点があります。その間に、亀岡街道も南北に通ります。
 茨木には、幕府の要人として茨木長隆の本拠地でしたので、当然ながら、城も構えて近隣を軍事・政治的に固めていました。軍事的には、茨木から真西にこの穂積城があります。ここから、千里丘陵の森となり、杣道(山の道)が縦横に走り、西国街道や各街道のショートカット的な脇道としても多く利用されていたようです。
 実際、穂積から南南東へ1里(4キロメートル)以内には、この地域の中心的な街である「山田地区」があり、山田十三支城とは、ここからの発想です。
 この環境下で、守る側としては、森からの不意打ちを防ぐために、ここに監視の城を置いておく必要がある筈です。「見付山」とはそういった意味もあると思います。また、手旗など、簡単な連絡網も構築していたことでしょう。江戸時代には、千里の丘の要所(吹田市千里山西3など)に「旗振山」を設け、大坂の米相場の上がり下がりを京都や四方に伝えていました。個人的には、通信網はそれ以前からあったと考えています。江戸時代にそれを活用したのでしょう。
※参考サイト:旗振り通信ものがたり

元亀2年(1571)8月下旬から翌9月上旬にかけての白井河原合戦では、このあたりが主要戦場となり、茨木城も落城、周辺の城は悉く池田衆の手に落ちています。この後、荒木村重がその功により、茨木城を得たとも伝わっています。
 この合戦を目撃していた宣教師ルイス・フロイスは、白井河原合戦が始まり、12時間以上銃声が聞こえ、二日二晩、茨木・高槻方面で火の手が上がっていたと証言しています。フロイスは、この時、河内国の飯盛山城(頂上部標高約300メートル)に居て、この方面の様子を観察していたようです。

この戦争により、勝った側は1年分の収穫を得、負けた側は失った訳です。白井河原合戦は旧暦の8月28日未明から始まりました。太陽暦では10月初旬にあたります。このあたりは大地が肥沃で、各村の石高も比較的大きめで、豊かな地域でした。 

ということで、結論は、穂積城は確実に存在したと考えられます。いや、無いはずが無い、戦国時代には、地域を守る重要な拠点であったと思われます。

2021年8月17日火曜日

荒木村重の末裔!?「ポツンと一軒家」の番組を見て。記事訂正です。

前記事の訂正です。この番組は、歴史番組では無いので、あまり掘り下げはなかったですね。近日に以下の要素で、訂正と補足を致します。

「ポツンと一軒家」番組の公式サイト
https://www.asahi.co.jp/potsunto/

【荒木村重の子孫と伝わるお宅】
◎本家と分家が隣接し、墓も敷地内にある
私の本家もそうですし、中国山地の奥地では、珍しくない習慣だと思いますが、地域性があるでしょうか?また、先祖の墓群も、土地の一角にあります。一方で、菩提寺は少し離れた場所にあり、隣国の旧備中国川上郡で、この領主が備中松山藩でした。なぜ、こんな遠距離に菩提寺にあり、しかも隣国なのかは聞き及んでおらず、自分の家系も少し調べて、残しておかないといけないと思っているところです。本家の伯父さんが元気な間に。
 あ、脱線しました。テレビの番組中で紹介されていた光景は、私にとっては、それ程珍しいものではなく、淡々と見ていました。
★余談
我が家の墓群には、珍しいものがあります。基本的に、明治時代以前は、一人にひとつの墓塔ですが、二人でひとつの墓に入っている先祖がいます。刻んである年月を見ると、女の子が幼くして亡くなったらしく、先にその墓を立てました。その後に、亡くなったお父さんの名が同じ墓塔の側面に刻まれています。一緒に入っているのだと思います。とても可愛がっていたのでしょう。このひとつは、非常に珍しいお墓です。


◎村重の謀反の理由
番組レギュラー出演者の林先生が「荒木村重の謀反の理由は、今もよくわかっていない。」とのコメントがありました。林先生は、「歴史」もお好きそうで、しかもマイナーなところにご興味があるのかもしれないと、ふと、好感を持ったコメントでした。
 謀反について、私なりに調べたところで、思いますに、やはり、明智光秀と同じように、黒幕は、備後国鞆の浦(現広島県福山市)に居所を構えていた「足利義昭」だったと思います。村重に前後して起きた、織田信長に対する謀反は、全てそこに繋がると思います。
 荒木村重が天正6年(1578)冬、同年2月の播磨国三木城の別所長治の離叛(織田政権への主従的関係は薄く協力者的行動)、前年10月、大和国信貴山城の松永久秀謀反が、前後して起きています。摂津国大坂に、本願寺宗が拠点を持っており、これとの連携で思いの実現を図ろうと考えていたのだと思いますが、連携が散発的で、戦略的に有効打に欠く結果となってしまいました。織田信長の統治下での躊躇いが、そのような消極的で、中途半端な行動に繋がってしまったのだと思います。
 明智光秀は、それらの経緯を知っていますので、やはりそこは頭を働かせて策を練りましたが、最終目的は達することが出来ずに終わりました。


◎日本海と太平洋の今と昔の感覚
太平洋に富の源ができたのは、明治時代以降であり、それまでは全て、日本外側に富の道がありました。太平洋戦中でも、満州・朝鮮半島・樺太以南は日本領土であり、頻繁な往来がありました。日本海側が閉ざされ、地域が衰えるのは、つい最近の戦後です。
 私の若い頃、バイクで日本一周の旅(何度かに分けて)をして、日本海側も回りました。日本海側には大きな屋敷、繁栄の跡が見られ、何も知らなかった私は、それらの光景が非常に興味深く映ったものです。
 そりゃそうです、富や恵みなどのフロンティアが、全部日本海側にあったのです。室町時代の戦国時代、日本海側の大名が成長したのは、大陸との独自貿易によるもので、近年の研究では、鉄砲は様々なルートから入っていたことが解っています。


【岡山県のオグラさん宅】
◎農民(住民一揆)
住民一揆は、江戸時代初期の島原の乱が、全国的には有名でしょうか。松倉重政が領する島原藩が、領民から年貢を過重に取り立てたために、絶えかねた領民(キリスト教徒が多かった)が、大規模な一揆を起こした歴史です。その鎮圧は凄惨を極め、その跡地で畑仕事などをしていると、今も遺物が出てくるようです。
 また、江戸時代の中頃以降、各地で大規模一揆が多発しています。それは、徳川幕府による経済政策の失敗と藩の政策の失敗で、絶えかねた関係者が国を超えて一揆を起こしていました。絞油や綿生産に携わる人々が、連動して起こすなどすると、藩は、領域を越えて対策が取れず、幕府もこういった広域の対策もしづらいため、当初は対策に苦慮したようです。
 詳しく説明できないのですが、統制経済と庶民の生産力の向上のバランスが崩れてしまい、貨幣発行の調整もうまく行かず、それ故に幕府の信用が低下していく...。これが幕末の倒幕に繋がります。今も昔も起こり得る状態が、この時代の歴史として見ることができます。
 さて、岡山県で起きた大規模一揆は、どのような背景があったのか、今のところ詳しくはわからないのですが、江戸時代も中頃以降であれば、上記のようなことがあったのでしょう。重税ということも理由としてはあると思います。島原の乱の頃、最終的には税率は、何と!10割です。全部が税金です。無茶苦茶でした。


◎木地師
現代生活では、食事の時にの器は陶器です。しかし、江戸時代でも、庶民は木の器を使う事が多くありました。陶器は贅沢品です。
 また、山は恵みをもたらす、資源の場所でした。蒔きや薪、木材、山の幸、薬、水資源などなど、社会の生活を支える無くてはならない場所でした。
 今も木曽地域では、民芸品として、伝統工芸としてこういった木工製品が製造・販売されているのは、ご存知の方も多いと思います。
 しかし、江戸時代やそれ以前の時代の需要とは、規模が違いますので、各地で木工製品を生産する拠点がありました。山仕事の合間や冬期いった、山に入ることの出来ない時期の仕事としても発達したようです。
 軽く、落としても割れないので、これはこれで重宝していたのかもしれませんが、木地に滲み込むので、漆を塗ります。
 近江商人の中でも日野商人は、漆器「日野椀」を全国に供給し、確かな製品とデザインで、全国ブランド化していました。戦国武将の蒲生氏のバックアップもあったようです。また、数ある近江商人グループの中でも日野商人は古参で、早くからこういったブランドを立ち上げることができたのも、やはり、全国各地を統治して城下町を築いた、蒲生氏郷の支援もあってのことでしょう。


【余談】
◎前近代の山の暮らし
前項の「木地師」で、書いてしまいましたが、前近代の生活、というか、近年まで山に頼る社会生活が続いていました。ですから、そこに経済要素も生まれ、そこで生活する人々も多くありました。
 しかし、今は、それらの連鎖が悉く衰退、切断されてしまっている状況です。消費地の都会では、関心も持ちません。本来は人間生活にとって、普遍の要素、命を繋ぐ源が山にはありますが、最近は、それらを忘れ、レジャーの場のような感覚に、都会人は陥っています。
 一番解りやすい要素は、「水」です。健全な山を保たなければ、日頃の飲み水、治水による作物の生産ができません。
 山が荒れています。もの凄く荒れています。だから、崩れもします。自然にしていても、山は平らになろうとしますので、崩れます。しかし、手入れをしていない林はそれを助長します。また、山が荒れているために、動物も食べるものが無く里に出てきます。動物は食べるものが無いのです。お負けに、経済原理を机の上で考え、実行します。開発をするなと言っていません。聞いて、見て、必要な事には手を打たなければ、必ず自分に不幸の種を蒔くことになるのです。一般的では、経済的ではないけども、必要なことを行うのが政治だと思います。
 こういった状況をみて欲しいと、文化財調査も兼ねて、立場ある方に声を変えたりしていたのですが、興味が無いのか実現に至らないままです。そういったことも、今後、折を見て、興味のある方をお誘いして、企画できたらと思います。


◎いわゆる限界集落
前近代の時にあった、社会生活の中で、経済的な繫がりが循環し、山の暮らしは維持されてきました。しかし、その輪が途切れ、必要な事をしないまま、取り残されているのが山の暮らしです。「限界集落」とマスコミかインテリが名付けて、カテゴリー分けしていますが、それに対策を打たないために、消滅集落が進んでいます。「ポツンと一軒家」は、それで番組が成り立っているのだと思います。
 マスコミだけではなく、政治も媒体報道にばかり意識を向けている(自分で調べる事無く)のではないかと思います。本当に100年に一度、50年に一度の雨だけが原因かというと、そうでもない事が多くあると思います。何もできない山に、太陽光発電所が乱立し、それが災害に繋がっているのではないかと、囁かれるのも、背景にはそういう現実があります。

2021年8月12日木曜日

荒木村重の末裔!?が、「ポツンと一軒家」に取り上げられる!

 今度の日曜日(15日)、ポツンと一軒家という番組で、荒木村重の子孫と伝わる旧家が取り上げられるそうです。もし興味のある方は、ご覧下さい。

「ポツンと一軒家」番組の公式サイト
https://www.asahi.co.jp/potsunto/

番組の概要(ちょっと判りづらい)によると、鳥取西 部、島根・広島・岡山の県境にあるお宅が、荒木村重の末裔と伝わる家系だそうです。
 また、もう一軒。岡山県の深い山の中にあるお宅も、戦国武将とのかかわりがあるお宅だそうです。

番組のダイジェストでは、非常に古い薬師如来を大切に護り続けているともあります。

この番組について、私がツン!、あ、ピン!と来たことをご紹介しておこうと思います。必然性があるように思えます。この地域であることと、薬師如来を祀るということが、私には少し、心当たりがあります。

★先ず、地域のこと。実は私の一族の出庄は、今の広島県神石高原町の山奥で、もの凄く山深い所です。冬には雪もかなり積もるようなところで、人里離れた場所です。そこは、島根・鳥取・岡山の境目近くです。
 また、私の一族も武士だったらしく、平家の系譜と伝わっています。家も、後ろに山があり、一段高くなった所に建てられ、出入口は鍵型になっていた(ような)、小さな館城のような感じが今も残っています。

★荒木村重の子孫と伝わる今回の旧家は、そんな環境にも似た、地域であること。そのため、戦国時代など には、落ちてきた武将などを匿うこともあったかもしれません。

★それから、岡山県の総社市というところに荒木氏・池田氏の墓が多くあるようです。実地調査は出来ていないのですが、そのような情報を出されているサイトがあって、気になっていました。この場所は、川と官道(国道)・主要道を多く通す、要衝の地でもありました。

★一方、同じく岡山県倉敷市真備町有井というところに、摂津池田家の上級者一党が、毛利輝元から領知を貰っていた史料もあります。身を寄せていたと思います。
【過去記事】摂津池田家解体後に池田紀伊守家系の人物が、毛利輝元へ客将として迎えられ
ている史料

https://ike-katsu.blogspot.com/2016/05/blog-post_44.html

★更に、池田勝正の子孫と伝わるお宅も、福山市御領にあります。ここは、総社市から東へ40キロメートル程の所です。

★極めつけは、足利義昭が鞆浦に居住していました。近年は、明智光秀の謀反の黒幕は、「義昭」との説が定着しつつあります。有力な証拠が出たためです。

★昔の備後国(現広島県東端)やその周辺は、鉱山が多く、荒木村重一派は、後年、鋳物関連の流通に関わっていたため、鉱山にも繫がりがあった可能性もある。

★そして、「薬師如来」を崇拝すること。荒木村重が、池田家中から頭角を顕し、摂津国の守護職(今の県知事のようなもの)を織田信長から任されます。その時に、手狭になった池田を出て、伊丹に首都を移す時、既存の城を拡張して有岡城を造ります。その城に村重は、守り神として日吉社を勧進していたようです。その当時の史料(天正5年8月の村重の手紙など)に現れます。また、その頃、神社もお寺も共存していましたので、日吉神社と比叡山は一体化しており、その比叡山の本尊は「薬師如来」です。

上記の要素をまとめると、池田・荒木氏の一派は毛利氏を頼り、西へ縁故を辿る動きが多くあり、それらの縁故は、荒木村重の没落を受けて、益々活用されたように思われます。
 総社市から鞆の浦までは、60キロメートル程の範囲に、池田・荒木氏の縁故地が多くあります。それらの環境から、この岡山県の山奥に暮らす、伝村重の末裔一族があっても、不自然では無いように感じます。それに、村重が崇拝していた薬師如来がそこにあること。

番組をご覧になる方は、そのような状況もあることを意識しながら視聴されると、また別の楽しみがあるかもしれません。

 

 

鞆城跡から鞆の浦の港を望む

2021年8月7日土曜日

摂津池田家と忍者について考える

 この要素(忍者)は、非常に難しい判断です。今で言う、スパイやインテリジェンスの概念にもかかるものですが、資料も証拠もほぼ無いので、あったとか、無かったとかいつまでも論争しなければいけません。書き残したものは無く「口伝」であったこと、その意味は、残せば証拠になるからです。そのくらい徹底した、超越的行動と概念だったのです。昔の日本人は、もの凄いです。推し量るには、文字や物的な残欠を集積し、分析するしかありません。

いわゆる忍者について、断片的な手がかりとして、服部半蔵などが、時代によってカタチを変えながら表現されています。これらは「萬川集海(まんせんしゅうかい)」という江戸時代後期、甲賀忍者が膨大な忍術をまとめ、幕府に献上した書物によって僅かにその痕跡を知る事のできた結果でもあります。

「隠密(おんみつ)・忍び」とは、その当代を越えて、未来永劫に渡り、痕跡を残さないという徹底ぶりです。しかしながら、それらの概念は、ほそぼそと受け継がれ、大東亜戦争当時には「陸軍中野学校」の創設につながりました。これは、近代組織組織として人材育成を始めたという意味があり、その根底に概念として、文化的に生き続けており、必要に応じて活用しようとしていたことが、事実として、中野学校在籍者から明らかにされています。
 また、同じような目的で、国家機関として、海外でも、様々なスパイ組織が存在する事から、必要の用として、今もその意義が普遍的に存在します。

さて、戦国時代のこと。摂津国池田家でもそういった概念や必要性は、当然ながら、あったと思います。なぜなら、目の前に敵が見えてから行動してからでは、一家の滅びに直結するからです。また、戦いに勝つにも、勢力を拡大するにも、事前に状況を掴む必要があるからです。その為には、対象に向けて、静かに忍び寄り、観る必要があり、そのための組織や術、時には戦う必要があります。また、最小限の労力で、目的を達成する欲求はあったでしょう。

一方で、現代においても株式投資や経済的な分野では「インサイダー」という言葉で集約された、事前(内部)情報により、不当に利益を出す行為(独占)を法的に規制しています。
 要するに、「情報」には価値があるために、それをどの段階でどのように知るべきか。それそのものを考える事は、有形無形を問わず、最大限に利益を出したいと考える時には当然ながら、発想する自然科学です。

具体的には...。といっても、曖昧でですが、戦国時代の池田城下に「甲賀伊賀守」という家老が池田城下に住んでいたという跡地の記述があります。これは、発掘調査もされず破壊(法的にも規定されていながら)されてしまったので、科学に基づく事実判断ができなくなってしまいましたが、記述としてはあります。また、その地域に古くからお住まいの方々の口伝としても存在(独自に取材)します。
 この記述要素から、一時的に現在の池田で、「忍者が居たのでは?」という話題が盛り上がりました。関連行動としての、滋賀県甲賀市との交流も、これにより実現した程です。
※その甲賀伊賀守なる人物の行動は、その後に判る範囲で調べた記事はこちら(此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察)

忍者とは日本人にとって、興味を持つ人が多くあり、今では、海外の高まりつつあります。また、その研究拠点として、三重大学に忍者の研究を行う学部が設立され、その初代の教授は、忍者の子孫です。今後に期待したいところです。

一方で、その忍者は、身の危急から逃れる為に、独自に戦う術を持っており、それは特別なものだったようです。忍者の絶対的使命は、生きて依頼主や要望者の元に戻り(目的達成)、重要な情報を伝える事ですから、得た情報を絶やす訳にはいきません。必ず持ち戻らなければいけません。

そのために、身につける道具、術、また、絶体絶命の時には、証拠を残さずに確実に死ぬことも使命でした。その中で、現代に伝わる忍びの古武道をご紹介します。

これは、死ぬことを前提としたものは一切排除した、その場を切り抜ける、最終段階の丸腰になって組み合う状況であっても、切り抜けることを考えた古武道です。

 

◎玉虎流宗家 石塚先生 的確に急所を攻める痛すぎる骨指術の世界!

2021年7月13日火曜日

えびす様の総本社、西宮神社(兵庫県西宮市)に残る荒木村重の書状

令和3年(2021)7月11日の日曜日に、西宮神社を訪ねました。西宮神社は、荒木村重との接点があります。同社は近いのに、初めて訪ねました。この日は暑かったのですが、境内は涼風が通り、藤棚の下にある休憩所に居るととても心地よく感じました。
 この西宮神社は、えびす様の総本社として全国的にも有名で、毎年、境内を疾走する福男レースは風物詩ともなっていますね。ただ、このコロナ禍では、この縁起の良い行事も中止が続いているのは残念です。

ちなみに、日本酒好きの私としては、西宮といえば呑まずには居られません。参拝を済ませた後には、南へ向かい酒蔵の運営するレストランで夕食と酒を楽しみにしていました。しかし、コロナ対策で、土日のアルコール提供は全面禁止となっていました。大阪府と同じ感覚で、よく調べずに出かけた私が悪かった。スグに大阪へ戻り、取りあえずのアルコール摂取となりました。色々大変残念でしたが、また涼しい時に、再訪したいと思います。諦めません、呑むまでは...。


さて、西宮神社と荒木村重の接点とは、戦国時代、荒木村重は摂津国の代表となりましたので、統治者として当然、これらの大社は、政治的にも重要な関係性を持ちました。また、この西宮神社の南東隅を回り込んで、数千年の間、日本の官道であった西国街道が走っています。国指定の重要文化財である表大門の前が西国街道です。また、大練塀も同じく重要文化財で、推定では室町時代の建造に遡ると考えられています。

そんな西宮神社に、かつて有った古文書(西宮神社文書:太平洋戦争で消失、写真と影写本が残る)には、荒木村重の書状が存在します。年欠文書ですが、個人的には天正3年(1575)のものではないかと推定しています。


(荒木村重書状:折紙)-----------------------
先日神事米の儀に付きて、折紙遣わし候ところ、礼の儀の為金子五両給わり候。先ず懇音候。去り乍ら此の方要らずの間返し置き候。当社造修然るべく候。向後も加様の儀気遣い有るべからず候。恐々謹言。
              荒木摂津守村重(花押)
八月十九日 西宮社家中
-----------------------

だいたいの意味は、「神事米の事、気遣いにお金を添えてもらったけども、今のところそれは必要ないから、お返しします。社殿の修復などに充てて下さい。今後も、このような気遣いはされませんように。」といったことを伝えています。なんだか、村重って結構良い奴なのかなと、思わせる史料です。
 もしかすると、大練塀はこの頃と重なる経緯があったりするかもしれません。また、この音信の頃は、村重が摂津国の統一に奔走している頃で、署名にわざわざ「摂津守」と記しているところからすると、「摂津守」を名乗り始めた頃(天正3年8月から)で、その祝い的なことも含めて、西宮神社が音信にお金を添えたのではないでしょうか。

互いに、良好な関係を築こうとしていた様子も窺えます。また、この頃は、村重が池田城から伊丹城に本拠を移し、摂津国の統治者として、名実共に権力(悪い意味ではない。今風に言えば、ガバナンス)が地域社会に浸透し始めている時でした。伊丹(有岡)城からは、西国街道を馬で駆けるとスグの距離感です。港もある重要な場所でしたので、共存を図る工夫はお互いに意識していたことでしょう。

ちなみに、太平洋戦争末期の西宮大空襲で、市街地は壊滅的な被害を被り、西宮神社も被害に遭います。三連春日造り本殿が全焼するなど、甚大な被害を受けたため、社宝や文書なども全てを失ったようです。そんな中で、荒木村重他、二通(織田信長、三好長慶)の歴史史料は影写本と写真で残っており、それにより今の私たちは知る事ができます。門と塀は、そんな時代を経て残ったものです。

 

伝豊臣秀頼公寄進で国の重要文化財「表大門」
 

表大門から望む西国街道

国の重要文化財「大練塀」


2021年6月5日土曜日

摂津池田家は、楠木正成の血統を継いでいたのか!?伊居太神社社宝の置手拭型兜鉢の意味を考える

 郷土史家の中岡嘉弘氏の蔵書の中から、久安寺に関する非売品の書籍『摂津の国 細河の莊 久安寺ものがたり』を読ませていただいたことがキッカケで、これまで繋がらなかった線が沢山、繋がりました。国の重要文化財ともなっている楼門からしても、相当な勢力と財力であったことは確かだったのですが、火災や明治維新後の混乱で資料が散逸し、詳しいことは解らないままです。公的な調査でも、断片的で、分野化されたものがあるばかりで、それらを繋ぐにはやはり、不明な点が多い状態です。
 しかしながら、同寺に伝わっていることや公的外の要素が書籍にまとめられ、また、宗教家としての形式の成り立ちの説明や社会的意義、経緯を論理立てて説明されている書籍に接し、私の中にあった蓄積と疑問が、いっぺんに繋がりました。

直接的に、久安寺のご住職は繫がりはなかったのですが、中岡さんを通じて、それを知る事ができ、私は私の何かが出来ること、得たように感じています。
 まだまだ不完全ですが、そこに繋がる思索を少し、この記事でお伝えしておきたいと思います。また、そういう状況ですので、ご指摘や情報があれば、どうぞお気軽にお寄せ下さい。

さて、そんな中で、偶然に鎧兜に関する私の蔵書ページを何気なく捲っていた時です。伊居太神社に伝わる「置手拭型兜鉢」について、それまで漠然としていたものが、急に具体的になったような気になりました。
 同社には様々な社宝があり、戦国時代の遺物として、この「置手拭型兜鉢」が伝わるのですが、これは鎧兜研究分野では全国的に有名なものです。完全なカタチではなく、損傷激しく、しかも鉄砲と思しき銃痕のある遺物(内側からの破壊との見解も)であることも、その特異さから、注目されています。池田家や池田城とも結びつきの深い同社に伝わる遺物であることで、摂津池田家との強い繫がりがあると考えられていましたが、決定的な判断材料は無く、永年に渡り、全容は不明です。
 ある日、私は『歴史群像シリーズ特別編集【決定版】図説 戦国の変わり兜:学研刊(140頁)』に出会いました。これを購入してから随分と日が経つのに、ちゃんと見ていなかったのでしょう。また、久安寺の本を読んだことから、私の感覚が敏感になっていたからでしょう。重要な一文が目に止まりました。実際のページは以下です。

 

【決定版】図説 戦国の変わり兜:学研刊


上記の絵を部分拡大
 

上記画像の文字部分を書き起こしておきます。

【楠木正成像】
江戸時代に描かれた楠木正成画像の遺品は数多く残っている。本品もそのうちのひとつで、背後に正成の着料が描かれている。その兜が正にこの置手拭形兜なのである。実物と若干の相違はあるものの、大型の並角本(ならびつのもと)や鉄鋲、眉形(まゆなり)の切鉄など特徴をよく掴んでいる。江戸時代においては楠木正成のイメージといえば、この兜であったことがよくわかる。
【置手拭型兜鉢】
本品は江戸時代には多田満仲および楠木正成所用とされ、『集古十種』などに所載された名物兜である。古様な眉庇の形状は注目に値すし、置手拭としては最古例に属すると思われる。現状鉄地に見えるが、当初の黒漆が残る。江戸時代には本品を写した兜が幾つも作られている。

この歴史的背景の中で、伊居太神社に伝わる「置手拭型兜鉢」をご覧下さい。前後左右の主要部分には、楠木正成に因んだ「菊柄」をあしらったデザインになっています。


置手拭型兜鉢(現在は朝鮮式兜として表示) 

 

摂津池田家は、元の姓が「藤原」でしたが、地域名の「伊居太(池田)」を名乗って地域を代表する存在となりました。このブランド化の過程で、楠木正成嫡子正行の遺児を貰い受け(妻は丹波国守護代家内藤氏)て、継承する系譜が伝わっています。その関係からか、同家の通字は代々「正」の字を用いています。
 また、摂津池田家は、当初、今の池田市南部(尼崎市北部地域も含む)に勢力を持ち、次第に勢力を増しながら、五月山南麓に本拠を構えるに至ります。この場所は、当初、摂津国河辺郡(現川西市など)を拠点とする多田源氏の勢力下(日本国内で最大の荘園)で、五月山の北側の細河荘を越え、五月山南麓にまで影響力を持っていたと思われます。加えて、西側の現在の宝塚市山本付近もその勢力下であったと考えられます。

時を経て、流通経済が発達するにつけ、都市型の有徳人(武士)であった、藤原系池田氏が北上し、地域の勢力図を塗り替えるように成長して行きます。
 しかしながら、全国的なブランドであり、皇室の血統を持つ多田源氏や大寺院である久安寺の影響力は依然として強く、この折り合いをつけるべく、様々な政策や手盾を講じて、時代に必要な舵取りを行いました。池田家中にも、多田源氏の血統と姻戚関係を結ぶものもあり、時代により池田家中の構成を均衡させていきます。

 

久安寺古図


そういった意味で、「置手拭型兜鉢」は、池田家中には軍旗や家紋と同じく、象徴としての重要な役割があったものと思われます。故に、この兜は、池田家の中心たる者や家が継承していたものではないかと思うようになりました。
 室町将軍の「大鎧」や天皇の地位の象徴としての「三種の神器」といった具合に、池田家中でもそのようなアイテムがあったと思われいます。

今現在、伊居太神社では、先祖伝来のこの「置手拭型兜鉢」を朝鮮式兜としていますが、これは明かな間違いです。絶対に違います。また、そのように表記し始めたのも最近のことで、それまでは戦国時代の伝来兜としていました。それが変わったキッカケは、韓国の学者が調査のために訪ねた折、その学者がこの兜について、そのように見解を述べたことから、それまでの伝承を変更したようです。

さて、話しは少し遡りまして、足利尊氏の室町幕府開幕の頃のことです。記述の『摂津の国 細河の荘 久安寺ものがたり』の中で、室町幕府開幕にあたり、足利尊氏がその策を練るため、尊氏と盟友であった伊勢国司北畠親房と久安寺にて語らい、活用もしたとの推測があります。これについて、裏付けとして考えられているのが、この頃に発行された、尊氏による禁制などが、久安寺、寿命寺、伊居太神社などに残っています。また、久安寺の本尊千手観音の両脇侍、不動明王と毘沙門天の二木像は、親房の寄進と伝わっています。

足利尊氏禁制

 
更に、寿命寺には、楠木正成公奉納と伝わる兜(これは置手拭型兜鉢ではない)と菊水旗が伝わっており、これは、楠木正行が箕面の瀬川合戦を経て兵庫湊川へ赴く時、正行が寿命寺に立ち寄って戦勝祈願して、この兜と旗を奉納したものとされています。

このような経緯、実績の積み重ねの中で、ブランド化と象徴化が醸成され、この兜にもの言わぬ価値が付加されていったのでしょう。池田家当主は、この兜を継承し、戦の時には身につけることで、全ての意志を代表する存在になっていたことと思われます。

時は下って、織田信長が活躍していた頃の時代。ご存知の様に戦国時代も最も激しい頃です。信長が戴いていた筈の上位権威である将軍義昭と不和になり、当時の日本国首都は混乱の極みに陥ります。
 その過程で、池田家もそれに呼応するように分裂します。この時、数世紀の間、池田家の中心であった「筑後守家」とそれに相当する中心的一族の「遠江守家」との間に過去の不仲に起因する不整合が再び不和の種となります。
 家中政治の中心軸が変わろうとするその時、誰がその正統の資格があるかで争い、この「置手拭型兜鉢」も右に左に引き合う事態に陥り、家中は混乱していたのでしょう。
 また、江戸時代の通念を考えれば、そんな中で、若しくは、「多田満仲」を系譜二持つ一派の象徴として、これを用いていたのかもしれません。
 結果的に、摂津池田家は元亀四年(1573)滅亡しますので、この兜の象徴性はある一面で大きく低下したのかもしれませんが、しかし、無価値になった訳ではなかったのでしょう。だからこそ残されたのだと思います。兜がこれ程までに損傷しても、現在に伝わっている意味が必ずあるのです。この先の事は、また、これから学んで調べを進めたいと思います。

歴史的遺物は、一般に「文化財」といいます。しかし、市区町村、都道府県、国の文化財になっていないものの側の方が圧倒的です。
 また一方で、「文化財」はとは何かという、漠然とした解りにくさもあるように思います。これについて、私なりに別の言葉で置き換えて、納得しています。「文化」のそれは「共有」です。
 その時代に地域や人々が共有していたものが、文化です。時間を経て、大多数が消滅する中で残った、いや、守ったものが文化財です。文化財(歴史的遺物)には、それに凝縮された時代やその時のカタチ(意味)を知り、現代社会の基礎を知るという意味では、非常に大切な手がかりなのです。
 そういう意味で、最も深刻なのは、その最前線である専門家自身が果たすべき義務を怠り、意味も理解していない事です。これは、このコロナ禍であらゆる分野で起きている事が露呈しましたね。既に文化財分野では、そのような状況でした。この現状は危機的です。国が、地域が崩壊します。

私は何事に於いても論拠の無い極端な見解を認めませんが、必要なことは見失うべきではないと考えています。何よりも、法的に規定された事は履行せねばならず、担当者は常々その役割りを負っています。当然ながら担当者は然るべき、報酬を得ています。法と組織とは、そういう事です。必要な事を、積み重ねる意味を法と予算とによって、組織化されているのです。今現在、それすらも行われておらず、無為に、不法に失われている例が急増しているのです。

先祖の歴史を消すことになるこの行為は、将来的な営みの主体性を失い、外圧(敵意のある行為以外にも、地域性を失って消失の原因を作る事になる)にも抗えなくなることは確実です。
 少々話しが逸れましたが、この「置手拭型兜鉢」を通じて、地域の文化財に対する日頃の想いも結びつき、このような記事にしようと思い立ちました。この記事をキッカケに、是非とも地域の文化財を知るキッカケ、それにまつわることも知っていただけたらと思います。
 ご縁があって、その地に暮らす事になり、過去と現在と未来をつなぐ文化財(共有財)の意味を感じていただけたらと思います。身近な歴史を気軽に学んでいただけたらと思います。

2021年5月15日土曜日

荒木村重の重臣であった宇保対馬守が在地に城を構えた可能性について

永年、気になっていた、大阪府池田市にある宇保地域について考えを深めたいと思います。
 この地域に縁(ゆかり)があると思われる「対馬守」や「彦丞」「平三郎」などの名乗りを冠した宇保氏が、史料に現れることから、侍格身分の有力者が存在したことは確実と思われます。
 また、宇保村の猪名津彦神社は、伊居太神社(現池田市綾羽)の御旅所であることから時代が近世となっても、在郷町としての池田村との結びつきも強く、節目毎に作成される村絵図(地図)にも宇保村は関連づけされて記録されています。この宇保辺りの様子を「穴織宮拾要記」には、「池田ノ町屋ハくれは田より宇保尊鉢につつく也、中新町ハ絹屋町也と有」と記録されています。
 「クレハ」は、後に荘園となりますが、それ以前は豊島郡の北半のこの地が北条地区と公称され、宇保・佐備村のような村々が分立し行政区画が組織されていました。
 荘園体制の崩れ始めた同じ頃、池田市宇保地域には、呉庭総社の天王社が興り、これに地域開発有力者の坂上・土師氏につながる倉七郎正季がその神主を勤めています。天王社とは、中世時代に急速に発展した牛頭天王のことで、京都の八坂神社を中心とする信仰です。また、正季の嫡子正弘は、天王社神主に加えて、禅城寺俗別当に就任し、更に地域の求心力を高めています。
 有力者にとって、土地の神社・寺院の支配は極めて重要で、このような例はいくつもあります。この地に牛頭天王が勧進されたのは、草創期の鎌倉幕府の支配権確保の目的があったようです。また、創建年代は不明ですが、この禅城寺も呉庭荘にとって、関係の深い寺で、この名残りが今も観音堂として同地にあります。
 池田市の歴史にとって、宇保地域は非常に重要ですので、『新修 池田市史』には大変詳しく取り上げられており、ご興味のある方はそちらをご覧下さい。第5章第1節(391頁)や第8章第1節3(609頁)などにあります。

また、宇保には猪名津彦神社があり、その境内は古墳時代後期の円墳です。この一帯は宇保段丘と呼ばれる猪名川左岸の河岸段丘の西端で、少し高くなっています。
 それから、池田のクレハトリ・アヤハトリ伝説の場所の一つ「染殿井」が、宇保の猪名津彦神社から真西に、直線距離で300メートル程の距離にあります。クレハトリ・アヤハトリは、応神天皇即位37年(西暦306年)頃のこととされています。その頃、ここに井戸があったようですが、大正時代頃の地図では、この井戸のあたりに川が南北に走り、池田郷から南へ走る神田村へ通じる道もありました。今は、区画整理されてしまい、全く面影は残っていません。

さて、室町時代末期、いわゆる戦国時代に摂津国内最有力の勢力(国人)に成長する池田氏は、当初、現池田市南部地域に勢力を保っており、時を経て次第に北上するなどして、今の池田城跡公園に本拠(城)を構えるに至ります。元は藤原姓であった摂津池田氏の起源は、池田市南部に持ち、西国街道などから得る金融・商品経済の恩恵を受けるなどして成長したと考えられています。
 少々時代が降っていますが、その一端を知るための当時の記述を上げてみましょう。『新修 池田市史 第一巻(P608)』からの引用です。

(資料1)------------------------
応仁の乱を通して、年貢・貸金などの収入は増加し、国人領主のもとに富が蓄積されていった。こえは応仁の乱以前のことであるが、文正元年(1466)春のこと、京都の相国寺蔭凉軒の季瓊真蘂が有馬の温泉に湯治に赴いた。この時、池田充政が有馬に真蘂を訪ねた。充政は自家の収入について話したのであろうか、真蘂の日記『蔭凉軒日録』に「池田の一ヶ月の子母銭は是、千貫也。然れば則ち一年一万二千貫文也。一年中の米子一万石を収むと云々」と記している。子母銭は貸し付けた金利である。金融資本家としての池田氏の一面である。
------------------------(資料1おわり)

中世池田氏が、軍事・防衛上の理由により、本拠地をより北方へ構えた事から、南部地域の出先機関的な意味合いも持っていたのかもしれませんが、宇保村は、いつの時代にも池田氏にとっては重要視されていたと思われます。平たく言えば、仕事仲間と言っても良いでしょう。その宇保村について、詳しく記述されている資料がありますので、以下に抜粋します。

【脚注】
各項目の出典は、『日本城郭全集』『日本城郭大系』『○○(県名)の地名』に紹介されている城から見てみます。なお、出典は日本城郭全集が【全集】、日本城郭大系【大系】、○○(県名)の地名【地名】、その他【書名】としておきます。

◎ご注意とお願い:
 『改 訂版 池田歴史探訪』については、著者様に了解を得て掲載をしておりますが、『池田市内の寺院・寺社摘記』については、作者が不明で連絡できておりません。ま た、『大阪府の地名(日本歴史地名大系28)』や『日本城郭大系』などは、 引用元明記を以て申請に代えさせていただいていますが、不都合はお知らせいただければ、削除などの対応を致します。
 ただ、近年、文化財の 消滅のスピードが非常に早く、この先も益々早くなる傾向となる事が想定されます。少しでも身近な文化財への理解につながればと、この一連の研究コラムを企 画した次第です。この趣旨にどうかご賛同いただき、格別な配慮をお願いいたしたく思います。しかし、法は法ですから、ご指摘いただければ従います。どうぞ 宜しくお願いいたします。

(資料2)------------------------

  • 池田村の南東部にある字名。承元2年(1208)3月19日の女清原氏田地売券案(勝尾寺文書)に「在豊嶋北条宇保十九条二里卅四坪内」とみえるのが早く、嘉禄2年(1226)11月18日の有馬淡治田地売券(同文書)・同3年10月12日の土師恒正田地売券案(同文書)にもみえる。このうち嘉禄2年の売券の端裏書に「くれはのたのけん」とあり、また同3年の売券案には売地である「宇保十九条卅四坪之内」の四至に「限南呉庭寺地」がみえ、宇保村は呉庭庄に含まれる地であった事が知られる。中世後期、池田氏の本拠地として池田に町屋ができ発展してくる頃には宇保村の名は史料に登場しなくなる。近世、池田村の中の字名としてもみえるが、宇保町・宇保村の呼称はみえない。元禄10年(1697)池田村絵図(伊居太神社蔵)では宇保に庄屋1、職業無記載(百姓と思われる)32戸で、農村地帯となっている。安永9年(1780)の書上写(小西家文書)では宇保分として139石4斗6升9合が記される。【地名:宇保村】
  • (前略)坂上氏の先祖は、この猪名津彦神社の祭神「阿知使主・都加使主」で、池田の呉織・穴織伝説の織姫を呉の国から招いて仁徳天皇に奉った人物です。この様な由来で宇保は坂上氏の拠点となって来たのでしょう。宇保にはもと坂上氏の菩提寺「禅城寺」があって、「池田の観音さん」として有名でした。
        この地には猪名津彦を葬ったと思われる横穴石室の円墳と小さい祠がありました。今も境内に巨石や300年を越える樹木の切り株が残っています。文化2年(1805)石棺が開けられると、中には朱に染まった遺物が発見されました。伊居太神社の神官がこれを持ち帰って、境内に埋葬しなおしました。
        長い年月が経過して伊居太神社に預けられていた古墳の御神体は、昭和33年(1958)髙床式本殿と拝殿が建てられて再び御神体が勧請されて祭られたのが、現在の社殿です。巨石のいくつかは石垣に利用されました。戦後伊居太神社の神輿が、建石町衆によって宇保の猪名津彦神社まで巡幸した事もありました。
        お祭りは伊居太神社の夏越祭・秋例祭に合わせて行われています。(中略)神社の再建も地車も祭りも全てが地元宇保の方々の努力によって、行事として伝承され、歴史上有重要な史跡として保存されてきました。【改訂版 池田歴史探訪:猪名津彦神社】

------------------------(資料2おわり)

また一方で、宇保地域は、地形が起伏に富み、要害姓もあります。池田城南部の防御施設としても機能させていたものと思われますし、何より、村を守るためには、有力者がその必要性を感じていたはずです。川や用水の管理と言った面もあるでしょう。
 今のところ、それらの想定が公的にはされていないために、それに関する物理的な発掘調査などは行われていませんので、私個人的な推定になるのですが、やはり、永年に渡って気になっています。

さて、宇保という地域名を名乗る宇保氏について、考えてみたいと思います。その全てを調べた訳ではないのですが、時代的に割りと早い時期から史料に現れるのは『春日社柛供料所摂州桜井郷本新田畠三帳』です。これに宇保氏が記述されています。これは、奈良春日社南郷目代(荘官)の今西家に伝わる帳簿で、永享元年(1429)8月の記録です。
※豊中市史(史料編2)P226

(資料3)------------------------
十五条六リ 一反小 作少路道久 宇保方
------------------------(資料3おわり)

非常に長い記録ですので、前後は略しています。宇保氏は、奈良春日社領である桜井郷内の土地(十五条六リ)に一反(991.74平方メートル = 300坪)と少しの耕作地を持っていたようです。その土地で実際の農作業を行うのは、少路道久で、これは宇保方と契約していたようです。宇保氏は、「給人」といって、耕作地で作物生産の権利を得ている人物で、土地所有者(奈良春日社)に毎年、年貢を払います。小作人として少路氏がここを担当していました。
 また、天正7年11月に発行された『春日社領垂水西牧南郷知行方目録』にも、宇保氏の名が見られます。
※豊中市史(史料編2)P505

(資料4)------------------------
宇保分 与(與)三二郎 田数一町六反六十歩(一所取三ヶ所) 御供四斗三升六合
------------------------(資料4おわり)

これは、荒木村重が織田信長政権から離れる直前の記録です。この時には、宇保氏は同じ春日社領の垂水南郷にも給分を持っており、かなり広い面積を得ていたことが判ります。

一方、有力者として、また、武士として活動していた記録も見られます。この文書(『湯山文書』)は短いのですが、その内容に池田家中20名が署名している文書です。6月24日付けの年記不明史料ですが、個人的には元亀2年(1571)と推定しています。
※兵庫県史(史料編・中世1)P503など

(資料5)------------------------
内容:湯山の儀、随分馳走申すべく候。聊かも疎意に存ぜず候。恐々謹言。
署名者:小河出羽守家綱(不明な人物)、池田清貧斎一狐、池田(荒木)信濃守村重、池田大夫右衛門尉正良、荒木志摩守卜清、荒木若狭守宗和、神田才右衛門尉景次、池田一郎兵衛正慶、高野源之丞一盛、池田賢物丞正遠、池田蔵人正敦、安井出雲守正房、藤井権大夫数秀、行田市介賢忠、中河瀬兵衛尉清秀、藤田橘介重綱、瓦林加介■■、萱野助大夫宗清、池田勘介正行、宇保彦丞兼家。
※■=判読不明文字。
------------------------(資料5おわり)

続いての史料も年記不明ですが、内容からすると、天正2年(1574)と思われる3月15日の文書です。池田家の解体に伴って頭角を現した荒木(この時、信濃守)村重が、織田信長方として尼崎巽・市庭の年寄中へ宛てて発行した音信です。
※兵庫県史(史料編・中世1)P432など

(資料6)------------------------
先年の御朱印旨に任せ、法華寺内之儀、拙者申し付けるべく為上使差し下し候。早々堀構え之事、申し付けられるべく儀肝要候。委細宇保対馬守・観世又三郎申し含め候。恐々謹言。
------------------------(資料6おわり)

重要な港町であった、尼崎の町を再構築するために、本興寺門前の市庭の役員へ重要事項を通達した文書です。早急に堀を構えるように通知しています。この通達の使者として宇保対馬守が尼崎に赴いています。現地では上位からの細かな指示や、現地見聞を行ったことと思われます。

一方で、上記とは別と思われる宇保氏一族の活動も見られます。

鋳物師関連史料の中に収められている史料集に、荒木村重没落後、村重の嫡子次男である荒木村基被官と思われる宇保(四郎兵衛尉)真清が、公卿の日野家雑掌真継兵庫助久直へ宛てて音信しています。また、これへの関連史料があり、同件について、村基が同じ所に宛てて音信しています。
※中世鋳物師史料(名古屋大学文学部国史研究室編)P141、144

(資料7)------------------------
◎先刻申し入れの如く候。彼の知行分之儀、荒木(弥助)村基存分に成し申し候者、知行分存知候間、重馬のかい料之儀、進められるべく申し之由、松台(松永霜台か)仰せ付けられるべく候。恐々謹言。 3月26日 宇保真清 ※宛先:眞兵 まいる御宿所
◎彼の間之儀、急度一言相澄ませ申すべく、弥(いよいよ)御入魂畏みて承るべく候。委曲宇保(四郎兵衞尉)真清申されるべく候条、巨細能わず候、恐々謹言。 4月19日 荒木(弥助)村基
------------------------(資料7おわり)

この史料は年記未詳ですが、山梨県在住の私の知人の研究によると、天正11年の説が立てられています。天正11年ですと、本能寺の変後で、中央政治も大きく変化していた頃です。また、荒木村重は、同14年に没したとされていますので、その説の通りだと、存命中でした。長男の村次が戦で重傷を負っており、家督継承が困難であったため、次男の荒木村基が、家督継承者格として行動していたという説が立てられています。また、村基は、それまで系図上でのみ見られた人物だったのですが、この史料の発見で、実在する事が判明しました。
 個人的には、この資料中に登場する「松台」なる人物が気になっており、また、宛先である真継兵庫助は、天正年間前半頃に活動していたともあって、もう少し遡るかもしれないとも感じています。

この史料は、真継氏が日本全国の鋳物師に関する元締めとなりつつある過程の動きとして注目され、名古屋大学がその研究のために資料研究を行っているものです。ちなみに、真継氏は柳原家雑掌として仕えました。柳原家は、日野家の分流で公家。真継氏は戦国期から江戸時代に諸国鋳物師御蔵職(いもじみくらしき)を継承していた家柄でした。
 荒木村重は、摂津守護として摂津全土の他に、河内国北半分、播磨国に勢力を及ぼしていた経緯もあって、各職能集団の把握も行っていたであろうことから、こういった取りまとめの便宜を図っていたようです。特に河内国内には、日本国内有数の鋳物師集団が居り、荒木氏は真継氏の求めに応じるに充分な繫がりを持っていました。それに宇保氏も関わっていた形跡がこの史料からも判明します。

『大阪府の地名』にもあるように、池田に城・町屋ができて発展してくる頃には、そこに地域中心のより大きな求心力が発生し、「宇保」はひとつの地域となっていったようです。そのため、その地域の有力者(武士)は、地名(名字)を冠するようになったのでしょう。
 また、先にも触れました、宇保村内にある猪名津彦神社は、伊居太神社(現池田市綾羽)の御旅所であること、この宇保の地域が早くから拓けて、坂上・土師氏の系譜を持つ地域の有力者の倉氏・村治氏が禅城寺及び天王社に深く関わっていたことから勘案すると、宇保氏は「猪名津彦」に関係する可能性がある「彦丞」を名乗っていることから、神職(どこかの段階で入れ替わりつつ...)であった可能性があります。鋳物師は、梵鐘などを製作する当時は「大工」と呼ばれる職能集団でもあったので、神社仏閣などの繫がりも宇保氏の神職という経歴が役だったかもしれません。地域支配には、神社・寺院の取り込みが非常に密接な関係を持っています。

さて、そういう宇保氏の根拠地である宇保村には、やはり城を構えていることが自然ではないかとも考えています。その可能性について、古地図と現地写真から蓋然要素(私の勝手な)をお伝えしたいと思います。
 ちなみに、集落(郭)が北と南に分かれて存在する例は、豊中市の原田城の例があります。それがなぜ分かれているのか、築城年代によるものか何かは不明ですが、宇保村からそう遠くない地域にもそういった例があります。
 また、この仮製図が作られた頃は、明治初年ころで、一旦、集落が縮小(経済混乱人口の減少など)しているところもあり、宇保村もそのようであったのかもしれません。南側だけ残ったとも考えられます。地形からすると、西側の地形の段差(断崖)をキッカケとして、宇保村も元々は一体化していたようにも思うのですが今のところ不明です。

 

明治初年作成 陸軍陸地測量部仮製図(1/20000)
 
陸軍陸地測量部仮製図 宇保村拡大及び撮影地点


【地点A】現在の猪名津彦神社

【地点B】伝善(禅)城寺跡観音堂(撮影:2002年)

【地点C】北集落への主要道(東西方向) ※戦国時代には某かの仕切りがあった?

【地点D】約4メートル程ある要害性を伴う断崖

【地点E】北西角の要害性を伴う断崖。ここも高低差約4メートル程。

【地点F】猪名津彦神社西側縁道と北集落東西道の交点

【地点G】北集落東縁 ※集落の終端から北は、地形が下がる。

【地点H】南集落北向き入口付近

【地点 I 】南集落北縁付近集落の様子 ※写真奥の道は、地点H家屋の蔵へ続く。

【地点J】南集落南端付近の様子

【地点K】現在は東西方向の道が通る ※道の荒廃は不明