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2016年2月28日日曜日

落語と城トーク(週風亭昇太×中井均×河内飯盛城)に参加して

摂津池田城跡に関する埋蔵文化財の破壊を、あるべきものをあるべくように向けるか。それについての思索の参考に、落語と城トーク(週風亭昇太×中井均×河内飯盛城)に参加してきました。

日時:平成28年(2016)2月28日13:30から16:00
会場:大東市民会館キラリエホール
主催:大東商工会議所 商業部会
共催:大東市・NPO法人摂河泉地域文化研究所・大東のざき観光ステーション
後援:大東市商業連合会

この催しは、大東商工会議所商業部会が飯盛城を国史跡指定推進事業を推進しており、それについて、大東市市制施行60周年プレイベントとして、飯盛城国史跡指定推進プロジェクトの位置付けて行われました。

催しの冒頭に、商工会議所の商工部会長の挨拶があり、この一連の取り組みの意図の説明があり、それによると、大東市は近年、人口の減少が見られ、それに伴う商工業の衰微もおきている為、この取り組みで、いわゆる活性化たる賑わいの核にしていきたい趣旨もあるとの事でした。もちろん、市政としての内憂外患の打破にも期待しているようです。
 細かく書くと、色々あるのですが、大東市を上げての取り組みでもあり、市長自らもそれに理解を傾けて取り組んでいるようでした。いずれにしても、地域を上げての取り組みにしていこうとの熱意は感じられました。

個人的には、大和川開削後の歴史上で非常に重要な位置付けでもあった、平野屋会所跡の保存活動に失敗し、文化不毛地帯だと思っていた大東市でしたが、市長の交代で流れが大きく変わったと感じるきっかけにもなりました。


大東市で開催の落語と城トークの会場の様子

河内飯盛城は、現在、国の史跡登録に向けて、積極的に活動しています。ここ数年で答えは出ると思いますし、多分、指定は受けることになると思います。飯盛城は随分前から、それに価する遺跡だとの評価はされており、また、このところの国の省庁移転の取り組みで、文化庁が京都へ移る可能性が高まっている事もあって、周辺環境の色々な高まりもそれには好都合となるでしょうね。

会場は満員で、定員600名を上回っていたと思います。平均年齢が高かったのが気になったところですが、文化財への理解を広げるイベントになった事は確かだと思います。
 中でも、飯盛城についての「城トーク」コーナーがあり、週風亭昇太さんのコメントがすばらしく、会場の空気を一変させたと感じました。城好きで知られた昇太さんの、ある日の出来事を上げられてのお話です。

落語会の前に地元の城を見たくて、早めに現地に入られてタクシーに乗って、そこへ向かおうとした時のやり取りで、

昇太:
「◯◯まで行ってください。ちょっとお城跡を見たいんです。」
運転手:
「あそこに行っても何も無いよ。」
昇太:
「ちょっと、行ってみたいんです。」(...そりゃあ、何も残っていないかもしれないけど、何もないという今も見たいし、普通の人には気づかれない痕跡を見たいんだけどな...。)
運転手:
「ほんとに何もないよ。本当にこの街には何もなくて、だから人も居なくなって寂れる一方なんだよ。」
昇太:
「ん〜、難しい問題ですよね。私ちょっと城が好きなので、すいませんけど、兎に角行ってください。」

みたいな事があったようなんです。しかし、これについて、昇太さんが考える、文化財や遺跡に対する想いをコメントされ、それについて、私も感動しました。

昇太:
「そのタクシーの運転手さんは、家族とか、自分の子供にもこの街には何もない。だから何もできない。っていってるのかもしれません。でも、大人が子供にそういう事を言い続けるから、その子供もそう思ってしまって、地域を知るきかっけとか、それにつながる希望とかもいっしょに無くしてしまうんです。
 だから、大人がそんな事を子供にいってはいけないんです。知らないのなら、何も言わない方がマシだと思います。そんな事よりも、自分が少しでもそういうことを知って、ここには何があった、昔、こんな偉い人がいて、みんなを助けたんだよっていう、そういう言い伝えとか、地域の事(歴史)を中心に親子がつながる方が、よっぽど日常が楽しいと思うんです。」

といった、趣旨のことを発言され、私は本当に感動しました。その通りです。
 残念ながら、昇太さんが体験されたような事が、どちらかといえば普通です。私も常にそれを体験していて、悲しいくらいに普通です。食って、寝て、遊ぶだけの都市、現代生活になりつつあるのは非常に残念です。

このコメントが会場におられる人々に響いたのか、大きく頷く方も居て、その後のコメントも心の耳でコメントを聞いている方が増えたような感じにもなったように思います。会場の雰囲気は一変したように見えました。

細かなところは色々あったのですが、全体の結果としては、企画意図は遂げられていたのではないかと思います。これを機に、文化財への理解が進めばいいなと、心から願っています。



2016年1月25日月曜日

ミニシンポジウム「天下人三好長慶と飯盛城」を聴講して、城について考えた事

去る平成28年1月24日、大東市で「天下人三好長慶と飯盛城」についてのミニシンポジウムがあり、学術的な見地から、以下の項目でお話しがありました。

◎天下人三好長慶と飯盛城 (天野 忠幸氏)
◎飯盛城跡を国史跡に (中西 裕樹氏)

飯盛山山頂から南西方面を望む
今回は私にとって特に中西氏のお話しに興味を持ちました。中西氏は、プレゼンテーションソフトのパワーポイントを使って、ビジュアル的に説明され、一般市民向けに理解しやすいように工夫されていました。
 内容は、飯盛城を中心として、それに関する近隣の城などの比較を含めて、特徴を説明し、その存在意義を説明されていました。また、レジュメには、三好長慶の永禄4年頃の支配領域図と共に、その域内にある城と、その外周にある重要な城が載せられていて、その図を元に城の説明が進んでいきました。

個人的には、こういった城の配置や大きさについて、それぞれ単体で存立しているものでは無く、連携機能を元に考えられたものだろうと感じています。また、誰(地域)と敵対するかによって、組み合わせが変わっていくものとも思います。
野崎観音寺(城跡)から北西を望む
いわゆる、本支城関係がこれにあたり、敵の居る方向によって城の配置と、本城を置く場所も変わり、それに相対して支城の連携も変わると思います。

例えば、永禄4年頃には、南河内の畠山氏勢力が、三好長慶に敵対していましたので、それに向かうための人員配置と城の置き方となります。加えて、畠山氏に連動勢力が、紀伊・大和・近江国などにあり、その後背勢力にも対応するために飯盛城・信貴山城(高安城・二上山城・立野城含む)・多聞城・鹿背山城が拠点となり、その周囲の支城と連携した地域防衛(攻撃も)体制を構築するといった感じではないかと感じています。
 他方、拠点には重要(政権中枢)人物が入っていますので、それぞれが連絡・連携できる状態で、相互補完もできるようになっていたのだろうと思います。「面」で防御するイメージというと判りやすいでしょうか。
北条集落から飯盛城跡を望む
飛行機の無い時代の戦争は、「後詰め」が非常に大きな役割を果たします。これは、「将棋」のやり方をイメージをすると判りやすいと思いますが、駒1つだけを意識しても、攻めも守りもできません。駒同士が、如何に連携しているかが駒を動かす理由になります。何重にも関連した手を打てば、相手は崩しようがありません。

私は城の配置や機能(役割分担)も、基本的にはそのように考えられていると思います。ですので、連絡を取り合うための施設が必ず城内や隣接して存在しと考えています。例えば、狼煙や鉦、鏡の光を使う、旗などを使った方法で周辺の城と連絡を取るような施設があったと思います。ですので、そういった城から視界が利く方向は、連絡を取る必要があった城と、敵を見張る事ができる方角(仮想敵の方向へ開けている)だったと思います。

それから街道は、敵の流れを止めつつ、物や人の移動など、自軍に都合良く使うために工夫をしておかないといけません。そういった事も考慮された本支城の構築だったろうし、軍勢が集まる拠点としても、本城というのは、重要であったのではないでしょうか。
個人的に考える本支城の関係と広域地域ネットワーク
戦国時代も後期になると、人の数、物資の量も飛躍的に多くなりますし、それに加えて迅速に移動させる必要が出てきます。

ですので、私の考える城の配置は、政権中枢の人物が、地域支配を行う本城を持ち、地域支配のためのグループ化が行われた人物がそれぞれの支城を持つ。そしてそれらのグループ同士が、互いに連携して、広域のネットワークを持ちながら、より広い面の軍事支援補完を行うというカタチになっていると思います。
 ですので、人の立場と役割が、そのまま城の機能と大きさになっていくのだろうと考えています。まあ、ある意味、それが自然な成り行きだとも思います。重要なところに重要人物が居て、その城も大きいというのは...。

この頃の城については、そのように考えたりしているのですが、シンポジウムの質問の時間には、それについて訊いてみなかったのですが、またいつか、専門家でもある中西氏などに訊いてみようと思います。



2016年1月18日月曜日

乱世を駆け抜けた城「若江城を探る」シンポジウムを聴講して

去る1月16日、先週の土曜日なのですが、東大阪市立男女共同参画センター・イコーラムホールで開催(主催:近畿大学 文芸学部文化・歴史学科)されたシンポジウムに参加してきました。当日は盛況で、立ち見も出る程でした。プログラムは、
  • 問題提起-歴史的拠点としての若江 網 伸也氏(近畿大学文芸学部)
  • 落葉 若江城と三好氏 -調査結果から- 菅原 章太氏(東大阪市教育委員会)
  • 城郭史から見た若江城の再評価 -戦国から織田への転換点- 中西 裕樹氏(高槻市立しろあと歴史館)
  • 若江城はどのようにイメージされてきたか 小谷 利明氏(八尾市立歴史民俗資料館)
  • シンポジウム:網、菅原、中西、小谷各氏
の内容で行われましたが、私はちょっと先約があって、シンポジウムは聴くことができず、講演会のみの参加だったのですが、内容は大変興味深かいものがありました。

個人的には、会場の参加者の様子を見ると、専門的に研究している風でも無く、興味レベルの市民が参加していたようでしたので、もう少し判りやすい比較やビジュアルを多用して説明した方が良かったのではないかと思いました。つまり、説明が詳し過ぎたように感じました。
 私自身は面白かったのですが、内容が結構アカデミックで、学術レベルが高すぎた感はあったかもしれません。難しいところですね。

さて、その中で興味があったのは、以下の要素です。
  • 重要な地域(若江地域について)は、時代が変わっても同じ。
  • 若江城の成立環境後期は、守護方としての動きの可能性がある事。
  • 三好義継は始め、河内守護職として飯盛山城に入り、永禄13年始め頃には若江城に移ったとの考えを再認識した。
これらの要素は、私の関心分野にも大きな影響があり、もう一度考え直さないといけない所も出てきました。

そう言われてみると、もう一度、自分の研究ノートを見直した時、同じ要素を載せてはあるのですが、その意味や可能性を考えずに通り過ぎて、通年や一般論を思い込んでいる所があるのです。そういった事が一カ所でもあると、それに関連する場所や出来事もつながって理解します。
 「思い込み」は禁物ですね。怖いですね。全ての前提が摂理(真実)とは全く違う方向に進んでしまいます。
 
シンポジウムに参加して良かったです。これを機に、私の研究も、該当部分を見直していきたいと思います。全体の研究も、より摂理に近付けるようになっていけばと思います。



2011年5月19日木曜日

福井県一乗谷遺跡で、鎧兜を着用してみました!

ちょっと取材に、福井県の一乗谷を訪ねました。平成17年に水害があって、どうなってしなったのか心配もあったのですが、しっかりと復興されていました。安心しました。また、研究と発掘も進んでいるようで、大変見応えのある名所になっていました。
 平成13年(2001)にもこちらを訪ねたのですが、その時は冬で、雪も積もっていたので、ひっそりとしていたのですが、今回は気候の良い5月ということもあり、観光客も見られて賑やかでした。
 復元された町並みを見学していると、室町時代の鎧兜や旅装束などを着用できるお店があって、ちょっと悩んだのですが思い切って着てみました。

写真は、着せてもらっているところから、嬉しくなってはじけている一連の写真です。やはり、ちょっと照れくさいです。最近、太ったのもあるのですが、被りモノは似合いません。小顔がいいですね。
 時代劇でも同じ様なものを使っているようです。素材は、金属のところと樹脂みたいなところがあって、鎧の胴は、樹脂のような素材なのですが、それでもずっしりと重いです。両手の篭手も小さな鎖が表面に施されていますので、ずっしりと重く、生地も分厚いので、真夏に鎧兜は大変だと思います。

意外と気づかないのが、足下です。上体が重いのに足は草履や足袋のようなものしかありませんので、歩くと痛いです。今の靴のように分厚い底や柔らかいクッションもありませんので、かかとに直接重さがかかって、石や凸凹等があると痛いのです。


下半身、特に足は力のかかるところですから、耐久力のある適当な素材がなかったのか、長い間足回りは進化していないように思います。昔の人は大変だっただろうなと思います。
 あまり、鎧兜を着用する機会には巡り会えませんので大変貴重な体験でした。しかも何と、500円(税込)という破格値です。

みなさんも一乗谷を訪ねられた時はどうぞご体験下さい。良い記念になりますし、オススメです。