2016年6月29日水曜日

戦国武将の戦い方

政治問題の解決方法の一つとして、武力による解決が日常的に行われていた戦国時代、武士は常に「戦い」の研究を行って、備えを怠りませんでした。そんな内乱の時代、摂津国豊嶋郡を本拠とする池田氏も、武士として度々戦場へ出ています。
 軍勢を出し、互いに想定した場所が合戦場になり、戦うのですが、勝敗を決めるのは「後巻き(うしろまき)」または「後詰め(ごづめ)」と呼ばれる手立て(勢力)が非常に重要でした。これによって勝敗が決まると言っても良い程です。これは不変の真理で、現代戦でも非常に重要な要素です。

「後巻き」とは、前線・本隊を支援や補完する軍勢で、これが適切な位置にあれば、敵は攻めることができません。動けば、後ろや横を取られて、挟まれたり、囲まれるからです。当然、相手も後巻きはしますが、互いに、より適切な場所に後巻きの陣を取った方が勝利します。
 実際に、池田衆が後巻きをした合戦の記述が、様々な資料に見られます。中でも有名な『信長公記』御後巻信長、御入洛の事の条に見られる例をご紹介します。
※改訂 信長公記(新人物往来社)P93
 
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1月6日、美濃国岐阜に至って飛脚参着。其の節、以外の大雪なり。時日を移さず御入洛あるべきの旨、相触れ、一騎懸けに大雪の中を凌ぎ打ち立ち、早御馬にめし候らひつるが、馬借の者ども御物を馬に負候とて、からかいを仕り候。(中略)。以ての外の大雪にて、下々夫以下の者寒死(ここえじに:凍死)も数人これある事なり。3日路の所、2日に京都へ、信長馬上10騎ならでは御伴なく、六条へ懸け入り給う。堅固の様子を御覧じ、御満足斜ならず。池田せいひん今度の手柄の様体聞こしめし及ばれ、御褒美是非に及ばず。天下の面目、此の節なり。(後略)。
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この時、当主の池田筑後守勝正を始め、池田紀伊守清貧斎、荒木弥介(村重)など主要な池田家中は出陣していますが、池田から京都へ向かう途中、高槻で敵(三好三人衆方入江春景?)に道を塞がれていました。そのため、北側の山道へ入って迂回し、西岡地域(現長岡京市あたり)へ出て、桂川西岸へ向かいました。
桂橋(西詰から南を望む)
敵の三好三人衆勢は、5,000程の軍勢で京都へ入り、仮御所(居所)として六条本圀寺に座した将軍義昭を襲います。当然、将軍を護衛する武士団はいたのですが、そう長く持ちこたえられる数と装備ではありません。
 その将軍義昭救援に、河内半国守護三好左京大夫義継が、軍勢を率いて南方向から淀あたりを経由し、本圀寺へ向かいます。この間、三好三人衆勢は、西からも池田を始めとした軍勢が、本圀寺を目指して進んでいるとの報に接して、一部を割き、七条村あたりへ置きます。
 桂川西岸から京都へ入ろうとする池田衆と、入れさせまいとする三好三人衆勢が交戦したようです。この前線に池田勝正は居たようで、他にも伊丹・茨木・細川兵部大輔藤孝なども共同で三好三人衆勢と交戦したようです。
 ちなみに、桂川は深く、流れも早いために徒渉はできず、しかもこの時は真冬ですので、川の中には入れなかったでしょう。池田衆などの軍勢は、桂川に架かる橋を使ったか、桂付近の村から徴用した舟で対岸に渡るしかありません。橋は付近に、何本かあったようです。どちらにしても、攻める側が先に動けばそれなりの犠牲が出る状況でした。
 結局、桂川と本圀寺の両所では激戦となり、三好義継が戦死したなどと噂が出る程でした。池田・伊丹衆などが川を渡って、攻めた模様です。
※当時の日本人は、殆どが泳げません。一部の武士くらいが水練をしていたようですが、池田家中はどうだったでしょうか。

桂橋西詰から北東を望む
この難しい状況でも的確な後巻きが勝敗を決したようで、池田清貧斎(正秀)が、織田信長から特別に賞されています。
 広義の後巻きとしての視点で見れば、護るべき本圀寺に対して、三好義継と桂川西岸の池田衆の双方が後巻きといえますが、本圀寺の友軍と三好義継の軍勢では、数が多い三好三人衆勢を圧倒できなかったようです。
 また一方、この時、京都周辺にも三好三人衆方に同調する勢力があって、これらが将軍義昭方にとっては、敵方の後巻きとなっていました。ですので、池田衆が桂川方面からも攻め込んだのは、本圀寺を攻囲する三好三人衆勢を更に攻める必要がある、と判断したのだと思います。後巻きは、「そこに居る」だけでも良い場合が結構あるようです。

機を逃せば、将軍義昭が討ち捕られてしまう、一刻を争う中での判断と、行動だったと思われます。難しい局面で、老練な池田清貧斎が機転を利かし、的確に後巻きを行った事で、文字通り、将軍義昭は窮地を脱する事ができたのだと思います。
 織田信長は、この池田衆(池田清貧斎)の抜群の功に対して特に賞し、その記録にも残されたのだと思われます。

この合戦で、三好三人衆方は大打撃を受け、多くの名だたる武将を亡くしたようです。三好三人衆の中心人物であった三好下野守は、この時の合戦で重傷を負ったのか、この年の5月に死亡しているようです。
※この合戦に、三好三人衆方がどんな気持ちで挑んだのかという一幕が、先にご紹介した「古典『信長記』を読んで繫がる過去と現代、そして未来!」にご紹介した記述です。

最近は機会が減ってしまいましたが、将棋を指してみればわかります。駒は攻めも守りも連携していないと全く意味が無く、戦いもそれと同じです。勝つための采配は、状況を把握し、何を、どのように使い、それをどこに置くか、が重要になるという訳です。

【追伸】この六条本圀寺・桂川の戦いについては、「研究_1569年(永禄12)正月の京都六条本圀寺・桂川合戦について」にて、詳しくご紹介する予定です。



2016年6月24日金曜日

池田知正の他にも見られる、山脇系池田氏の人物について

先日ご紹介した、「池田勝正の跡職を継いだ、知正は山脇系池田氏か!?」の項目ですが、以前から気になっていた事とも結びついて、知正の他にも、細河郷東山の山脇系池田氏らしき人物が存在する可能性に気づきました。
 この事は、近日公開予定の「細河庄内の東山村と武将山脇氏について」でも詳しくご紹介できればと思いますが、その前哨として、少し散文的に思索をしたいと思います。

最近、池田市史など、池田の歴史の中心部分を読み直すようになり、『新修池田市史 第5巻 民俗編』の「東山」についての項目を読んでいると、気になるところがありました。
※新修池田市史 第5巻 P306

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【垣内と講】
本家を「主家」、分家を「インキョ(隠居)」というが、同族による集まりや助け合いは、冠婚葬祭の場合程度であって、日常的にはみられない。
 相互扶助を求めて重要な人間関係を形成したのは、近隣集団の「カイチ(垣内)」であった。カイチは、現在でいえば隣組に相当するが、ムカインジョ、ミナミンジョ(南カイチ、ユバジョ(弓場ジョ?)ともいう)、大崎カイチ、タナカンジョ、ヤマシガイ(山新開)の五つのカイチがあり、「ジョ」の名称でよばれることが多かった。カイチの役割としては、普段の暮らしの中での助け合いのほか、葬式の手伝いが大きかった。それぞれのカイチは、主に百姓株の人々による5〜10戸からなっていたが、(近現代の)隣組ができたことによって、弱体化した。現在では、いずれも2〜3戸程度の近所づきあいにとどまっている。
 ムラの農民をひとつの百姓株にまとめ、ムラ全体で行事を行うようになったのは、戦後になってからである。かつては、百姓株が大講、喜兵衛講、角右衛門講、五左衛門講の四つに分かれ、それぞれが一反歩ほどの共有田などの財産を持ち、農業にかかわる結びつきを維持していた。昭和初期には大講が20戸ほどで最も多く、その他はいずれも10戸くらいで構成された。その後、講の機能は次第に薄れ、今では名称が残るのみである。
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この中で、村の中に4つに分かれた百姓株があって、「角右衛門講」が存在したとの事。「講」というのは、その目的(テーマ)に縁や利益を持った人々が、地域を越えて集う協働の意味合いもあり、東山にそういう集団が存在していたという事は、以下の別の私の記憶に結びつきました。

年記を欠きますが、『堺市史』の説を採りつつ、個人的にも永禄12年(1569)と比定している8月27日付けの史料があります。堺商人今井(納屋)宗久が、堺の五ヶ庄という場所の権利について、池田覚右衛門某・秋岡甚兵衛尉某へ宛てて音信したものです。
※堺市史5(続編)P906

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態と啓せしめ候。仍て堺五ヶ庄に相付き、摂津国天王寺の内に之有る善珠庵分事、度々御理り申す事に候。織田信長従り丹羽五郎左衛門尉長秀・津田(織田)掃部助一安に仰せ付けられ、勝正並びに各へ御申しの事候。様体於者、黒崎式部丞(今井宗久被官)へ往古従りの段委曲申し含め候。無事儀急度仰せ付けられ於者畏み存ずべく候。尚池田(紀伊守入道)清貧斎正秀・荒木弥介(村重)へ申し候。恐々。
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音信の内容は、五ヶ庄というところの天王寺善珠庵が持つ土地(代官請けなど)について、池田勝正が得ていたのですが、これを今井宗久へ返還せよ、と迫るものです。これは、この五ヶ庄あたりに鉄砲の生産工場を作るため、権利の集約が必要で、その動きがこの音信に見られるという訳です。
 ちなみに、この時、当主の勝正は軍勢を率いて播磨・但馬国方面に出陣中で、その留守にこのような音信を行っています。しかも、何度も同じような内容で迫っています。それに先方(池田家)の人物を呼び捨てにするなど、非礼な態度です。
 またこの件、別に一元化しなくても、権利を持っている者が協力して当たればいいのですが、政商の今井宗久がこの役を一手に任されており、バラバラになっている権利を強制的に集約し、一元化しようとしていいたようです。

さて、今井宗久が音信の宛て先にしている池田家の人物ですが、池田覚右衛門と秋岡甚兵衛尉です。あと、文中に池田紀伊守正秀と荒木弥介(村重)が見られます。これらは、勝正の側近です。
 中でも「池田覚右衛門」が気になります。そうです、東山村にあった講の名前にある、「角右衛門講」とは、「覚」の字は違いますが、この人物が関係するのではないかと考えたのです。
 それだけではありません。この今井宗久が宛てた、もう一人の人物である「秋岡甚兵衛尉」は、荒木美作守宗次という人物の奉行人(家老的重臣)です。荒木宗次は、池田家当主の池田長正の家老でした。整理すると、池田当主の家老であった荒木宗次の重臣が、秋岡甚兵衛尉というわけです。
 永禄12年当時は、当主が池田勝正に代が替わり、前当主であった長正の重臣も新たな体制の下に再編成され、秋岡甚兵衛尉もその重臣衆として活動していたようです。
 
それで、この今井宗久の音信が宛てられた池田覚右衛門と秋岡甚兵衛尉という単位(コンビ)ですが、やはり偶然ではなく、勝正の重臣衆の中でも何か近しい関係とか、同じ所属といったような共通性があったものと思われます。
 この後、元亀元年(1570)6月に池田家の内訌となり、その後間もなく、池田家中と荒木村重の内訌が起き、荒木村重の時代になりますが、ここまでの流れを池田知正と共に、池田覚右衛門と秋岡甚兵衛尉の両人は、荒木与党として活動したものと思われます。
 ただ、池田覚右衛門は、この今井宗久の音信のみで確認される人物ですので、証明するにはやや安定性を欠きますが、秋岡甚兵衛尉は荒木村重の与党として、いくつかの資料に見られます。

それから、既述の『新修池田市史 第5巻 民俗編』の「東山」についての項目に、もう一つ気になるところがありました。
※新修池田市史 第5巻 P309

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【寺院と民間の信仰】
寺院には東禅寺と円城寺があり、人々は正月には東禅寺に、盆には円城寺にお参りに行くならわしがあった。
 東禅寺は山号を黄梅山といい、つぎのような伝承がある。すなわち、今は余野川上流にある久安寺は、その昔、神亀年代(724〜29)に全国を行脚中の行基僧正が足をとめたことにより開かれ、院内塔頭49坊があった。その内のひとつに瑠璃光寺があり、薬師堂には薬師如来坐像と四天王、十二神将像が安置されていた。保延6年(1140)の山内の大火の際、焼失を免れ、その後荒廃していたが、慶長9年(1604)、この地の豪族・庄屋らの協力を得た禅僧東光により、現在地に開創されたという。ただし、これを証明する文書は無い。
 ムラの中に薬師堂があり、その前の広場を「ドウノマエ(堂の前)」という。2月8日と8月8日の年2回、百姓株で祭を行い、子供を集めてお菓子などを配る。かつては薬師講を作って堂の管理をしていたが、戦後は百姓株の管理となった。また、国道沿いの村への入口の位置に地蔵堂がある。毎年8月24日の地蔵盆には僧侶を招き、婦人会が御詠歌をあげる。村にはほかに、釈迦堂、金剛、庚申さん、辻堂がある。
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西から東山(村)を望む
上記は村に残る伝承ですが、その中に「東禅寺は、慶長9年(1604)、この地の豪族・庄屋らの協力を得た禅僧東光により、現在地に開創された。」とあります。この慶長9年は、知正が死亡した年であり、また、この年以前までに知正によって、大広寺を池田の旧地に復して本格的に池田郷が復興する時期でもありました。
 東山で昔、私が何人かにお聞きしたところによると、武士を止めて帰農した人もあったとの事も聞いていましたので、それが池田市史の記述にある「豪族・庄屋らの協力を得た」という要素に結びつくのでしょう。
 また、地名としても「ミナミンジョ」という場所は「ユバジョ」ともいい、これは「弓場ジョ」かもしれないとの推定がなされているところもあります。
 ちなみに、池田城跡にも「弓場(ユンバ)」と呼ばれた場所があります。やはり、東山の村自体が城や砦のような機能を持っていた可能性を感じます。
 
これらの要素から、東山を中心とした地域から出た山脇氏を始め、他にも武士として活動する人々が居て、その中に池田姓を名乗る一派があったのでは無いかと考えるようになった訳です。

◎参考ページ:池田氏関係の図録(池田市東山地区)

2016年6月17日金曜日

古典『信長記』を読んで繫がる過去と現代、そして未来!

古文書や古典を読んでいると、現代にも通じる出来事や感覚、言葉を随所に見かけ、ハッとすることがあります。そんな時は親近感も覚え、また、深く感じ入ります。

ちょっと一息というか、歴史研究の面白さの一端として、そういう記述を抜き出して、時々ご紹介してみようと思います。今回は、小瀬甫庵が記した『信長記』にあるフレーズをご紹介しようと思います。

「六条本圀寺の事」の条にあるものです。その状況は、永禄11年(1568)秋、それまで中央政権の構成者であった三好三人衆が、足利義昭を奉じた織田信長勢に京都を追われます。三好三人衆方は一旦都落ちをし、体制を立て直した上で、再び京都を奪還する算段を立てていました。
 三好三人衆はその年の内に、大軍で京都を奪還すべく堺方面に上陸し、京都へ攻め上るべく準備を行いました。その折に軍議を行いましたが、空転、行き詰まる事もあった場面の中で、三好三人衆方の武将奈良左近、同じく吉成勘介が、発言します。以下、その台詞です。
※信長記 上(現代思潮新社)P94

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(前略)。それ人の世の末に成って、亡ぶべき験(しるし)には、必ず軍を起こすべきに当たって起こさず、罰すべきを罰せず、賞すべきを賞せず、或いは佞人(ねいじん:こびへつらう人。)権に居り、或いは賢臣職を失し、善人は口を閉じ、陪臣のみ威を専(ほしまま)にし、唯長詮議のみに年月を過ごし、徒らに酒宴を長(とこしな)へにし、終いに善に止まり、悪を去る事もなき物と承り及び候。今又此の如く、加様の不順なる事を見んよりは、いざ京都六条に懸け入って、討ち死にせばやと思うはいかに、と憚る所もなく申しければ、各も其の言にや恥じたりけん、(後略)。
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小瀬甫庵が記した『信長記』は、その時代の最中に書かれた記録では無く、後年に書かれた、いわゆる「軍記物」ですので、内容には多少脚色があります。ですので、史料として見る場合は、その点に注意して扱うことになっています。
 しかし、そこにある感覚や部分的な記述は、証言的な示唆もあって参考になることもあります。ましてや、古典として見る分には、倫理観や人としての生の感覚は新鮮にも感じますので、楽しめます。

さて、上記にご紹介した、奈良左近・吉成勘介の発言は現代にも通じる、大変興味深い一節です。元和8年(1622)初版となるこの古典は、江戸時代を通じて改訂が繰り返され、読み続けられています。人と社会の不変のあり方も交えながら、歴史を見るというアカデミックな欲求を満たす、いわば名著として多くの人が支持し、現代に受け継がれています。
 
歴史研究では、解らないことが判る楽しさもありますが、こういった当時の人の思いや感覚に近づくこともまた、楽しさです。

また面白いネタがあれば、ご紹介していきたいと思います。



2016年6月14日火曜日

摂津池田とも接点があった加賀国豪商銭屋五兵衛の活動

栄根寺跡にある銭屋五兵衛の顕彰碑
川西市寺畑にある栄根寺廃寺遺跡史跡公園に、加賀国宮腰の豪商銭屋五兵衛の顕彰碑があります。この栄根寺跡には、銭屋五兵衛の事を知りたくて訪ねたのでは無く、荒木村重の本拠地が、この近くの栄根村でその周辺を治めていたという伝承があって、その立地を見ようと訪ねたのでした。ここは、以前にも何度か訪ねた事があったのですが、今年のゴールデンウイークに状況が調ったので、再び訪ねてみました。

荒木村重の事は、別のコラムで詳しくお伝えしたいと思います。色々と今回も感じる事がありました。やはり、現地を訪ねる事は大事だなと思いました。

ちょっと栄根寺についてご紹介します。その縁起によれば、753年(天平勝宝5)聖武天皇の夢想により行基に命じて薬師堂と薬師如来を作らせたのがはじまりと伝わり、その後、兵火にかかるなどして廃れてしまい、江戸時代には、池田の西光寺から留守の僧を置く程度に縮小していました。
 近年まで寺跡に残された薬師堂には、平安時代前期の様風を伝える硬木一材の薬師如来座像がありましたが、平成7年(1995)の兵庫県南部地震によりこの薬師堂も壊滅しました。しかし、薬師如来ほか19体は損害を免れ、市の文化財資料館に保管されています。
 震災後からの発掘調査により、栄根寺廃寺の境内から白鳳・奈良時代の瓦等が多数出土しており、奈良時代の建立が確認されました。
 詳しくは、「摂津国豊嶋郡細河郷と戦国時代の池田(池田氏の支配及び軍事に関わる周辺の村々)」の「栄根村と栄根寺跡(川西市栄根及び寺畑)」項目をご覧下さい。
 
この栄根寺は、池田とも以下の要素で関係(接点)を持ちます。
  • 栄根寺は、1631年(寛永8)から同じ浄土宗の西光寺(現池田市)の支配をうけ、留守僧を置いた。
  • 栄根寺は荒木村重系の荒木家支配地域にあった。
  • 西光寺は天文15年(1546)に池田に再建されたとの伝承を持つ。
  • 西光寺は、江戸時代になって池田に戻ってきた、荒木村重に関係する荒木家など、元池田武士であった家を檀家に持つ。
  • 在郷集落であり、商都でもあった池田の中心地に西光寺があった。
  • 栄根寺あたりの集落からすると、池田郷との経済的・文化的結びつきが強い。
  • 近世には同じ浄土宗であったらしいが、それ以前からの宗派的繋がりがあるか。
  • 池田にも来訪した儒学者広瀬旭荘(広瀬淡窓の弟)と銭屋五兵衛との交流がある。旭荘は池田で没する。
    ※参考:幕末の池田関係の図録(広瀬旭荘)
そんな栄根寺跡公園に、銭屋五兵衛の碑があることも知っていたのですが、それまでは特に調べる事も無く過ごしましたが、今回訪ねるにあたって、ちょっと気になったので、調べてみました。中でも、この本一冊を読めば、銭屋五兵衛の全てが解ります。五兵衛に興味を持った方は、一読をお勧めします。

表紙:銭屋五兵衛と北前船の時代
書名:銭屋五兵衛と北前船の時代
著者:木越 隆三(きごし りゅうぞう)
発行:2001年11月30日 第1版第1刷
発行所:北国新聞社

この銭屋の商売は、材木商を元に海運業にも手を拡げて、大変発展しますが、船に乗せる荷物もうまく扱う、多角経営のビジネススタイルだったようです。その中に、池田で集散される池田炭の取扱も一覧に見られるようです。
 私自身が銭屋五兵衛の事を調べていないので、直接的に資料に行き当たっていないのですが、手広く商品を扱っているようなので、やはり池田の主要生産品である池田酒などもあったのではないかと思います。
 銭五と西光寺や池田との関わりは、池田市の広報誌の裏表紙にある企画「わがまち歴史散歩 -市史編纂だより-」のNo.20(平成18年9月)「銭屋五兵衛の碑と池田の西光寺」に紹介されています。ここから、少し引用させていただき、詳しくは、出典をご覧下さい。
※参考:池田市公式サイト わがまち歴史散歩 「市史編纂だより」

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【三代にわたる努力】
遠地の豪商の碑がこの地に建てられた経緯を、明治41年(1908)の新聞記事では次のように紹介しています。
 池田の西光寺の住職は能登出身で、父の代から懇意であった銭屋五兵衛の死を伝え聞き、功績を伝えるべく、西光寺の住職預かりとなっていた栄根寺の境内に彼の記念碑を建てようと思い立ちます。しかし、経済的な面から、意志を継いだ次の住職の代になっても、建立は実現しませんでした。
 当初から3代目の住職のとき、ようやく転機が訪れます。阪鶴鉄道(今のJR宝塚線)の敷設による一部境内地の売却資金を元手に、栄根寺境内の整地まで進めます。
(後略)
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また、時代は違いますが、もの凄く意外なところで銭五と池田の接点があります。太平洋戦争後、池田市は世界の都市と友好関係を結び、オーストラリアのタスマニア州ローンセストン市とも結んでいます。同州は、タスマニア島にある街なのですが、この島に「かしうぜにやごへいりようち(加州銭屋五兵衛領地)」と刻まれた石があり、これについては『 幻の石碑 』(遠藤雅子氏著)という本で詳しく検証されているようです。驚きです。お互いにそれを知っていて、友好都市提携をした訳では無いと思うのですが、どこまでご縁があるのやら...。

この銭五について、どんな人物だったのか、詳しくは『銭屋五兵衛と北前船の時代』をお読みいただければと思いますが、そのダイジェストとして、同書の「はじめに」を少し紹介します。

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【伝説の銭五】
銭屋五兵衛ほど毀誉褒貶の著しい人物はいない。銭屋五兵衛の晩年は、金沢および近郊の民衆から「藩権力と結んだ政商」として批判された。銭五(銭屋五兵衛の略称)の「成功」は民衆から憎まれ、抜荷・海外密貿易の噂まで立てられ、飢饉になると騒動の標的にされた。嘉永5年(1852)の銭屋疑獄事件があれほどの大事件に発展したのも、実は当時の世評が要因であった。
 ところが、明治時代になると、銭屋五兵衛の評価は一変する。徳川幕府が墨守した鎖国体制の犠牲者として慰霊され、また検証された。つまり、銭五が密かに鎖国の国禁を犯し海外密貿易を行ったらしいという、不確かな伝承を素材に今度は賞賛した。銭五は徳川幕府の悪政である鎖国に反抗し、海外貿易を率先した偉人であり、時代遅れの加賀藩の保守政治の犠牲になったと、その悲劇性を誇張した。そして、銭五処罰の本当の理由は、河北潟への投毒容疑では無く密貿易だったと、銭屋疑獄事件の本質がすり替えられた。銭屋一族に投毒の疑いをもって罵声を浴びせた民衆は、やがて、銭屋処罰の理由は、藩首脳が密貿易の発覚を恐れての事だと合理化した。こうして明治のジャーナリズムと民衆は、銭五を海外貿易の先駆者として讃えることに熱中した。
 明治20年代は、国粋主義が台頭した時代であり、その傾向を帯びた偉人伝が多く刊行された。銭五伝も、その頃数多く刊行され、銭五の名前は全国に知られるようになった。なかでも、石川県士族の岩田以貞が、明治20年(1887)3月に東京尚書堂出版から刊行した『商人立志寒梅遺薫 -銭屋五兵衛伝-』は、数ある銭五伝の元祖といってよいもので、以後の銭五伝は、多かれ少なかれ、本書に影響された。(後略)。
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銭五の生涯は、現在にも通じる事で、決して過ぎたことではありません。現代を生きる私たちにも、これを知ることで導きになることが多くあります。
 また、この著者である木越隆三氏は、歴史の専門家でもあり、この著作を記すにあったって、歴史調査の心構えも述べられていて、この調査全体の姿勢も知ることがでます。「あとがき」を引用します。
 
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たった一人の人物伝を書くため、彼を取り巻くどれだけの人物を知らねばならぬのか、その手間と苦労を思い知った。銭屋五兵衛を総合的に理解するには、家族のほか、奥村栄実ら藩の重臣たち、(加賀国)宮越の商人集団や木谷藤右衛門など影響を受けた北前船主、娘の嫁ぎ先や息子達が作った人脈、青森の滝屋善五郎をはじめとする県外各地の取引商人など、あげたらきりがない。
 彼の生きた時代の制度・習慣・常識なども理解しなければならない。五兵衛の日記と古文書を頼りに書き始めた「銭五伝」だが、随所で暗礁に乗り上げた。文献資料でわかることは多かったが、肝心な所がわからず困った。しかし、古文書の言葉の一字一句の背景を考証する事で、少しづつ解きほぐれてきた。これが古文書を読む楽しみだ。(後略)。
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本を読み進め、この言葉に行き着いた時、なんだか救われた気持ちにもなりました。私も池田勝正の事について、永年調べていますが、全く同じ状況です。レベルは違いますが、専門家でもこのようにされているのですから、私のやっている事も間違いがなかったし、それしかないのだという摂理をも知ったように思いました。「その方法しかない。だから、できるところまでやるしかない。」と、そう感じました。
 いずれ、池田勝正の事も本にしたいと思っていたので、この本を読んで、木越さんのようでありたいと思うようになりました。

このように、人物を知る叢書としての優れた著作です。私はこれを主に仕事の移動中に読んだ本だったのですが、車中で夢中になって、乗り過ごしそうになる程でした。すばらしい本でした。銭屋五兵衛の事を知りたい方は、是非同書をお読み下さい。


2016年6月13日月曜日

池田勝正の跡職を継いだ、知正は山脇系池田氏か!?

詳しくはまた、東山町と戦国武将山脇氏でご紹介できればと思いますが、永年気になっていた、池田知正について、最近何となく解ってきたような気がしています。

以下のような点について、気になる要素がありました。

  1. 池田知正は民部丞を名乗ったか。
  2. 池田久左衛門尉と荒木久左衛門尉は同一人物か。
  3. 池田知正は、勝正の弟か。
  4. 知正は正式な池田家惣領か。

以下、上記の要素の答えです。

  1. 知正が民部丞を名乗ったとする記述は、系図に見られるが、その他の摂津池田氏に関する全てに同一の記述は見られない。また、知正の画像が大広寺に残るが、その絵の上部の賛に民部丞についての記述は見られない。
     池田家中に民部丞は史料上で確認でき、実在した事は確実ではあるが、池田久左衛門尉知正とは別人と考えられる。また、久左衛門尉と民部丞では、社会的地位も多少上下してしまうので、史料を追うと身分が上がったり下がったりするという矛盾も起きる。
  2. 池田久左衛門尉と荒木久左衛門尉は、同一人物と考えられる。史料上では、荒木村重との同僚的活動が見られ、その心安さから、村重が台頭した時にも池田家中から離れて、グループに参加したと考えられる。これはまた、この久左衛門尉が行動する基準の一つには、池田家本流の血の濃さも関係し、本流から遠い関係にあったからとも考えられる。
  3. 池田知正は、勝正の同じ母からの弟では無いと思われる。知正が勝正の弟される記述の主なものは系図で、それらの照合と資料的裏付けは未完のままではあるが、今のところ、史料上で見ると、同母で同じ系譜の兄弟である裏付けは得られていない。異母兄弟、従兄弟、義理の弟などではないかと考えられる。
  4. 元亀元年の池田勝正追放に端を発した池田家中の内部抗争(実はそれ以前にも何度か内訌はあるが、家の解体に繫がる決定的な内訌という意味で)は、天正元年の再抗争経て、荒木村重の乱で池田家は、跡形も無く消え去る事となる。
     天正年間後期から慶長年間前半にかけて、池田知正は池田地域のとりまとめ役として、池田家再興の中心となり、官位も得てそれを名乗るが、池田家惣領としての伝統である「筑後守」ではなく「備後守」である。
      この事を見ても、別系統の家系の人物である事が判る。池田家の菩提寺である大広寺の再興や梵鐘の寄進、人物の絵の奉納などの動きやこの頃の再興 の動きを合わせて見れば、別系統ではあるが、池田家の当主としての正当性を印象づけるための意図も持ちつつ、旧ブランドの再結集も意図して活動しているようにも思われる。
     知正は池田家の中心人物、すなわち、当主という事で間違い無いと思われるが、時代が変わった事も有り、「惣領」としての意味合いはそれまでとは少々違う感覚があったかもしれない。また、その当主時代の支配は、それまでの池田家とは、大きく縮小・後退している。