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2024年8月14日水曜日

丹波八上城に存在する「芥丸」(伝芥川某の持場)という気になる曲輪について

摂津池田家を見る上で、やはり、丹波国の雄「波多野氏」の観察は欠かせません。
 摂津池田郷は、多くの街道(西国街道・能勢街道・余野街道・中山道・高山道・高山道・有馬道・尼崎伊丹道・篠山街道)を通し、篠山方面を始め、複数本の主要街道が池田から北方向へ繋がっています。故に池田郷は丹波国方面とも関係が深く、「ヒト・モノ・コト」の歴史を重ねています。
 例えば、戦国時代にあっては、池田弾正忠(筑後守信正)と波多野秀忠は、血縁関係があったようです。
※細川両家記(群書類従20号:武家部)P593

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『細川両家記』大永6年条:
(前略)あくる12月1日、此の仁陣破れけり。然るに池田弾正忠は、波多野が甥なりければ、則ち彼の方へ裏帰り、河原林・塩川衆の退き口へ矢戦するなり。有馬殿道永(高国)方なるにより、此の人々有馬郡へ逃れけり。池田は我城へ帰り楯籠もり、今度伊丹は国の留守して、我が城にあり。京田舎の騒動斜めならず。然らば細川澄元方牢人摂津国欠郡中嶋へ切り入り也。三宅・須田あまり悦で、河を越し、吹田に陣取り。道永方伊丹衆・上郡衆談合して、(後略)
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とあります。しかし、『細川両家記』とは、いわゆる軍記物であり、記述の信頼性に欠くという側面があるのですが、その他の一次史料を併せ読みますと、この当時の両家(両当主)は、行動を共にする事が多い上に、危険を侵してまでも相互扶助行動が見られます。
 例えば、近年、年代比定が行われた、細川晴元方山城(西岡)国人衆が着陣を報告した中に、波多野秀忠と池田筑後守が行動を共にしている史料があります。
 細川六郎晴元方山城国人高橋与次郎頼俊・神足(代)治家・竹田左京進仲広・能勢孫太郎頼親・石原惣左衛門尉綱貞・八田勘解由左衛門尉俊兼・竹田弥七郎仲次・志水蔵人助吉種・竹田藤五郎感仲・能勢次郎兵衛尉頼次・石原孫五郎延助・小野彦二郎家盛・竹田肥後守長泰・野田(代)秀成が、同晴元方三好筑前守元長陣所に宛てて音信しています。
※長岡京市史(資料編2)P219など

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態と注進せしめ候。仍て去る5月芥川中務丞・入江藤四郎摂津国へ至り入国に付きて、山城国西岡於手合い候べく由申し越され候。殊に細川晴元方近江守護六角定頼勢京都白川へ着陣候の間、将軍義輝以下の御敵旁山城国西岡へ以って要用の由候の間、則ち罷り越し候。その以後各参陣致すべくの処、波多野孫四郎(秀忠)池田筑後守、山城国山崎口打ち明け候者、摂津国上郡之陣取り雑踏すべくの旨、申し越されに付きて今于に摂津国大沢於在陣仕り候。この旨従い両人も御意を得られの由候間、先ず延べ引き申し候。然る間京都・摂津国の御敵通路堅固に差し塞ぎ候。これ等の趣き、然るべく様御取り合い所仰せ候、恐惶謹言。
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それからまた、大永・享禄・天文年間などで摂津国内の有力勢力として行動を共にする事が多かった池田・芥川氏も、天文後半から永禄年間にあってもその傾向が続いています。
 因みに、この時は、家中一体の体制ではなく、分裂状態にある中での、権力補完関係の行動でした。史料は、将軍義晴が、細川六郎(晴元)被官寺町三郎左衛門入道・摂津国人伊丹左近将監・同池田筑後守(信正)同芥川中務丞へ宛てて感状を下しています。
※兵庫県史(資料編・中世9)P469、戦国期細川権力の研究P251など

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堺津合戦之後、尚相踏み以て、向後軍忠せしむべく旨、聞こ食しかれ了ぬ。言上之趣き、尤も比類無く、次に細川六郎出張時節、聊かも油断有るべからず、其れに就き、弥粉骨抽ず者、神妙たるべく、猶大館常興申すべく也。
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また、別の史料もご紹介します。天文8年、河内国十七箇所の代官職の要求が幕府に認められながら、細川右京大夫晴元・三好政長らの画策で不当に退けられた事に三好孫次郎(範長:長慶)が武力蜂起した時の様子です。
※摂津市史(史料編1)P379、(新)茨木市史4(史料編:古代中世)P421

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『大館常興日記』閏6月14日条:
一、未明に荒礼部(不明な人物)より書状之在り。池田筑後守・伊丹次郎・三宅出羽守・芥河豊後守、此の人数へも成され、御内書、別して三好孫次郎に対し意見加えるべく之由、之仰せ下され、何れも副状調進致すべく候由之仰せ出され也。仍って則ち之相整え、荒治(不明な人物)へ之上せ進めるべく也。
『親俊日記』閏6月13日条:
三好同名扱い破れ、既に京中騒動に付きて、三好孫次郎方へ御内書成られ、摂津国同意の輩、伊丹次郎、池田筑後守、柳本孫七郎、三宅出羽守、芥川豊後守、木沢左京亮方へ意見加えるべく之由、何れへも之下し成され了ぬ。御内書河村有林之調え進める。
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赤色三角印のあたりが「芥丸」砦跡
そのような関係性がある中で、波多野氏の居城である丹波国八上城には「芥丸」なる曲輪があり、これが芥川某の受け持ちであったと伝わる施設があります。これは非常に気になります。
 永い間の様々な関わりの中で、支配の境を接する者同士が、関係性を深める状況は当然ながら、あったと思います。しかしながら、この芥丸については、伝承での「芥川某の曲輪」とのみの情報です。それ以上の情報は、今のところありません。

今のところ筆者の直感的な要素も多く、繙くための思索でしかありませんが、「芥丸」について、全く自由な発想で、情報を集約しておきたいと思います。先ずは、『城郭大系』から「八上城」についての必要部分を抜粋してみます。
※日本城郭大系12(新人物往来社)P328

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八上城の条
(前略)さらに頂上の帯郭から東へおよそ30m下がると、周囲に古い形式の土塁で囲った東西約20m、南北7mほどの灌木の茂った郭に出る。「蔵屋敷」という一郭である。そして尾根伝いに左手に向かうと、「茶屋ノ壇」から出郭である「芥丸」「西蔵丸」に至る。また右手に下ると「上ノ番所」「下ノ番所」という郭跡に達し、野々垣口に通じており、この「下ノ番所」の一隅に内側を石積みにした直径約3mの井戸がある。「淺路池」と呼ばれているが、この一帯が井戸郭であろう。また「西蔵丸」という広さ20m × 10mほどの一郭があり、頂上の本城部分を中心にした鶴翼形に広がった郭群の東方最先端にある砦跡で、背後の「芥丸」砦と共に野々垣口・西庄口・藤ノ木口を扼(やく)する重要拠点であったものと推定できる。(後略)
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とあります。城下の街道との関係や地形から、徐々に構えが拡がったと『城郭大系』では推察しています。
 一方で、『城郭大系』での分析から約20年を経た『戦国・織豊期城郭論』では、同城の構成を以下のように分析しています。該当部分を抜粋してみます。
※戦国・織豊期城郭論(丹波国八上城遺構に関する総合研究)P35

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図5:戦国・織豊期城郭論より
2.曲輪群の構成
本節では、波多野氏段階の八上城の縄張について考察したい。城域は、基本的に1地区(八上城の中心的曲輪群)・2地区(北東尾根筋の曲輪群)・3地区(蕪丸周辺の曲輪群)という膨大な曲輪群から構成されている。(中略)
 波多野氏が戦国大名化する過程で、1地区が整備され、さらには三好長慶や織田信長との戦争によって、城域が攻撃面に当たる2地区へと拡大したと推測されるのである。
 ここでは、遺構調査に基づき、最大規模に発展した波多野氏段階の八上城の復元を試みたい。まずは、前述した3地区を除く各地区別の主要曲輪に関する調査結果を記す。なお〔 〕の中の数字は図5の曲輪番号である。(中略)
 さらに進むと、この地区最大の曲輪〔19〕がある。ここから東北の尾根上に、全長220メートル、幅9メートルで馬駆場〔20〕とよばれる細長い平坦かつ直線的な遺構が存在する。おそらく城域の東端に位置する伝芥丸や伝西蔵丸からの情報を、伝本丸へと伝えるための通路として機能していたのであろう。
 その先には、伝芥丸〔21〕がある。東西9メートル・南北11メートルの小規模な曲輪であるが、礎石が残存している。ここを北に下り、堀切を渡って鶴ヶ峰を登った地点に伝西蔵丸〔22〕とよばれる曲輪がみられる。東西12メートル・南北14メートルの規模であるが、一段下に帯曲輪があり、尾根の先にも竪堀があることから、この曲輪の自立性がうかがわれる。(中略)
 2地区は、藤木坂筋や野々垣筋といった八上城の背後を固める曲輪群であり、尾根筋に連なって築かれた小規模曲輪群に、竪堀を有機的に配して防備機能を高めている。しかしこれらは、いずれも自然地形に小規模な普請を加えたにすぎないことから、基本的に波多野氏段階の遺構と考えてよいと思われる。織豊大名在城期には、主郭にあたる1地区が改修されたのであり、2・3地区に対しては石垣を使用したり虎口を改変していないことからも、補助的な曲輪群として、ほとんど手が加えられなかったのであろう。
 以上から戦国末期の八上城は、東西800メートル・南北700メートル以上の規模を持つようになっており、他の戦国大名の城郭と同様に、縄張が肥大化・拡散化する傾向にあったことが判明する。
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八上城案内パンフレットより(部分)
『戦国・織豊期城郭論』では、『城郭大系』の説を踏襲的に詳しく分析しながらも、慎重な判断になっているように感じられます。

いずれにしても「芥丸」を含む郭群は、波多野氏段階での事と考えて間違い無く、個人的には、その可能性へ更に筆者の思いを踏み込みたいと思います。

前述の、波多野氏・池田氏・芥川氏の関係性により、この「芥丸」については、阿波・摂津国に縁の芥川氏との関連を想定できるのではないかと思います。
 摂津国方面の芥川氏拠点と八上城方面(波多野氏勢力圏)とは街道を複数通していますので、行き来が可能です。また、政治・軍事などの繫がりの中では、連動も容易です。
 特に天文年間後半の天文17年夏以降からは、摂津国池田家中の分裂で、権力が不安定となった主格の池田長正と、同様に三好長慶と一族でありながら立場の安定しなかった芥川孫十郎の政治的不安定さを外部権力(勢力)に補完を求める行動から、両者は丹波・摂津国境付近への定着が想定されます。

芥川孫十郎は、三好長慶の権力下にありながら背反常無く、権力基盤が弱いために非常に不安定な立場にありました。
 天文22年8月、長慶に対し、またも謀反を起こしましたが、この時ばかりは許されませんでした。孫十郎の居城であった芥川山城は陥落します。そして、孫十郎方の人質は皆、殺されています。この時の様子をご紹介します。

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『足利季世記』芥川落城之事条:
同19日、芥川孫十郎兵糧に詰まり色々三好方へ和睦の儀詫言有り。城を明け渡しける長慶衆同日打ち入り、芥川一味の人質を皆誅されける芥川は三好豊前守が姉聟なれば、其の好(よし)みを頼み、阿波国へ下りける。(中略)三好長慶も則ち同25日、芥川城に移り給えば、...(後略) 
『細川両家記』天文22年条:
(前略)8月22日に芥川孫十郎方兵糧之無くして噯いに成りて退城也。則ち城を長慶へ受け取られ候也。此の時の人質衆を誅され候也。(中略)8月25日に長慶入城候也。芥川孫十郎方の無念推量申し候。阿波国へ下られ候て三好豊前守方頼み、堪忍の由に候也芥川孫十郎は三好豊前守の妹聟也
『言継卿記』8月22日条:
丙申、天晴、天一天上。(中略)今日午時(午前11時〜午後1時)摂津国芥川城之渡し云々。安見美作守宗房之請け取り云々。(中略)来る25日三好筑前守長慶移るべくの由風聞。いよいよ細川右京大夫入道晴元出張される様体難しく也。(後略)
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その後、芥川孫十郎は、義理の父である三好豊前守を頼って阿波国へ下ったとありますが、その後は史料上にも見られなくなり(永禄4年末に再登場)ます。一時的に浪人した可能性もあると思います。
 この行動特性、当時の政治状況分析については、「摂津国芥川に関係の深いいくつかの系譜の芥川氏について、馬部先生のお見立て」をご覧下さい。

図録 越前朝倉氏一乗谷より

波多野氏にとっても、組織の維持・発展の様々な材料として、人材(能力)、上位権力との関係、交通や経済的要素、情報の入手経路などの観点でも、名のある人物を抱える事を積極的に行っていたと考えられます。また、波多野秀忠の娘を三好長慶に嫁がせていたものの、離縁された心情的な不穏さも何らかの作用を及ぼしていたかもしれません。
 それらの要素の中で、波多野氏と芥川氏が協調・信頼関係を結んでいた痕跡として「芥丸」が存在したとしても、決して不自然ではありません。波多野氏は、それ程の求心力を持つ勢力であった事も疑い有りません。もちろん、幕府や管領の知行地が丹波国内に多くあったという一面もあるでしょう。
 同様の例として、越前朝倉氏の城下に、近江国人浅井氏が屋敷を構えていた事とも、遠からず共通性があるように思われます。

この「芥丸」の築造年代については、不明ですがそこに存在する理由としては、前述のように阿波・摂津国の芥川氏との関係が、蓋然性高く想定できるのではないかと思われます。

それから、もうひとつ気になるのは、波多野氏の本拠である八上城とその周辺は、春日神社が多いですね。本姓が藤原である池田氏との親和性もこの点にもあるのかもしれません。

丹波八上城に関する今後の研究に期待して、新たな関連史料などの発掘を待ちたいと思います。

 

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