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2025年9月25日木曜日

摂津国欠郡中嶋にあった城について考える(大阪市淀川区編)

大正時代初期:伝法付近の大浦渡の様子
いわゆる戦国時代ころ、摂津国欠郡中嶋という所は京都を首都とした国家体制において、非常に重要な場所でした。
 現在は淀川区に東西淀川区で構成された一つの大きな島ですが、これは江戸時代からの営々と続けられた開拓の姿で、戦国時代には、大小の島が浮かぶ群島地域でした。また、大坂湾にも注ぐ、河口でもありました。同じような地形は、伊勢国長嶋にも見られますね。
 現代のように社会基盤整備は殆ど無く、自然任せですので、洪水も頻繁にあったようですが、そのお陰で土地は肥沃で、荘園も多数ありました。また、西国街道や能勢街道、横関街道、中島街道、亀山街道などの脇道も多数通す、陸上交通の視点でも重要な場所でした。街道は、ロータリー道路構造のように、これらの鳥からどちらの方向へも進めるようになっています。特に水路は、現在のように川が整備されていませんので、縦横に進むことができます。
 欠郡中嶋は、大まかには北に神崎川、南に中津川が流れて群島を形成しており、交通・経済・政治、あらゆる面で重要でした。

しかし、このような状況であるために、その地域を指す記述が曖昧で、そこに存在していたであろう城の位置も特定されないまま、心象で論が進んでいるように感じていました。
 織田信長が足利義昭を奉じて入京し、幕府を樹立した頃、「中嶋城」といえば「堀城跡」を指しているようではありますが、これがどのような実態にあったのか、実は特定されておらず、重要であるにも関わらず、研究も進んでいないように感じます。

そんな疑問を永年感じており、摂津池田家の動きを見る上でも重要であることから、自分なりにそのモヤモヤを解消しておきたく、特に城の視点から中嶋を観察してみたいと思います。

文化遺産オンライン:石山合戦配陣図(天正4年頃)
 https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/258702
株式会社Stroly:明暦元年大坂三郷町絵図 :(大阪歴史博物館所蔵)
 https://stroly.com/maps/_OP_OsakaEzu_3/
国立国会図書館デジタルコレクション:大阪町中並村々絵図(承応・寛文頃:1652-73)
 https://dl.ndl.go.jp/pid/1286224

先ずは、現大阪市淀川区地域から始めたいと思います。

◎中嶋城はどこか、との疑問の出発点
先ず、年月日共にハッキリしている当時の史料からご紹介して始めたいと思います。大坂本願寺宗の法主光教が、管領細川晴元一族(典厩)晴賢及び欠郡中嶋代官衆(松井(波多野)十兵衛尉・小河左橘兵衛尉(二郎三郎)・水尾源介・並河四郎左衛門尉:丹波国人?)へ宛てて音信します。天文16年10月1日付けです。
※石山本願寺日記(上)P558、日明勘合貿易史料P540

---(史料1)-------------------
『石山本願寺日記』10月1日条:
細川右馬頭晴賢・松井十兵衛尉・小河左橘兵衛・水尾源介・並河四郎左衛門等ヘ、今度唐船寺内へ乗り入れの儀に就き、相意を得られの間、其の礼為唐船三種(献上品脱カ)五人へ宛て之遣わし候。使い河野、下間兵庫取り次ぎ。(此の年5月13日条、松井十兵衛、水尾源介、小河左橘兵衛を中嶋三代官と称せり)
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◎城の関連資料群
上記は、対外貿易の事で問い合わせているものですが、この頃の中嶋は、細川晴賢の知行する所であったらしく、当然ながらそれは政庁としての中嶋城でもあったと思われるのですが、その場所が「堀城跡」なのかどうかが不明です。
 関係するいくつかの資料を見てみると、堀城は比較的新しい城のような記述が散見されます。その後に何度も改修的な普請を行っているところからしても、そのような状況にあったのでしょう。以下、中嶋にあった城についての資料から要素をあげてみます。
※日本城郭大系12(新人物往来社)P233

---(資料2)-------------------
堀城:
細川藤賢が永禄9年に築城。のち、元亀元年に織田信長が三好勢を攻めた時、将軍義昭を迎え入れ、義昭はそののち浦江城へ移ったという。堀之内の地名が伝わる。
三津屋城:
南北朝時代の城で、正平年間に楠木正成が築いた。天文年間に細川晴賢が居城したが、同18年に三好長慶に攻められ、その後長慶が在城した。元亀年間、織田信長に攻め落とされ、廃城となった。現在の光專寺が城跡と伝える。別称中嶋城
堀上環濠:
旧西成郡堀上村は環濠集落の一つであった。
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明治8年:掘村地籍図
それから、大阪市教育委員会による堀城伝承地(大阪市顕彰史跡198号)の掲示板によると、以下のようにあります。掲示板の場所は、武田薬品工業の工場南側にあります。
※大阪市教育委員会による堀城伝承地(大阪市顕彰史跡198号)掲示板より

---(資料3)-------------------
西国街道にあたる十三渡北岸の要地にあった城で、「西成郡史」(1915年刊)では永禄9年(1566)に細川藤賢が築城したとされる。しかし、一説に既に存在していた堀城にあてる見解もある。
 江口の戦い(天文18年(1549))の時には細川晴賢が居城とし、その後、勝者の三好長慶の直轄下に置かれた。長慶の没後には、細川藤賢が在城したが、永禄9年に三好三人衆によって無血開城させられた。元亀元年(1570)の織田信長による野田・福島攻めに際しては、将軍義昭が入城したという。廃城後も周辺の樹木は残り「堀の森」と呼ばれた。現在地南西方向にある十三公園の巨木はその名残と伝えられている。
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掲示板:淀川区十三本町2丁目
この場所については、若干の違和感があるのですが、ここが城の一部であったとしても、そこから十三公園まではかなりの距離がありますし、この場所については、若干の違和感があるのですが、ここが城の一部であったとしても、そこから十三公園まではかなりの距離がありますし、両者の間に川があった事を描く江戸時代の明暦元年(1655)作成の絵図があります。戦国時代に、それがあったのか無かったのか...。ちなみにその川の北端に堀上村があります。
 現十三公園の巨木が堀城の名残りというのは、更なる調べが必要です。私が思うのは、看板のある場所から、もっと南の位置ではないでしょうか?しかし、この場所にも何らかの要害を築き、城砦を維持していたのかもしれません。

◎現淀川区にあった集落の城跡伝承
以下は、『大阪府の地名』から、淀川区域の城跡伝承のある集落をあげてみます。先ず堀城跡の堀村からです。
※大阪府の地名1(平凡社)P589

---(資料4)-------------------
堀村(淀川区十三本町1-3丁目、十三東1丁目、十三元今里3丁目、新北野1丁目):
西流する中津川の右岸にあたる、東は小島村。北の野中村・堀上村境を西流してきた中島大水道は当村北西端で流路を南に変え、南東部で再び西流し今里村に流入。「細川両家記」に「御一家の典厩(藤賢)。中島の堀と云う処に御在城候。(中略)永禄9年8月14日に退城也」とみ、当地の城に三好三人衆に抗した細川藤賢が立籠もった、陥落し開城したことが知られる。「堀」はこの城濠に由来すると考えられる。「信長公記」には元亀元年(1570)9月3日「摂津国中島、細川典厩城迄公方様御同座」とあり、織田信長が三好勢を後略した時、将軍足利義昭をこの堀城に迎えたことがわかる(「細川両家記では9月4日晩とする」)当村南部に字名「堀之内」が残る。元和元年(1615)から5年まで大坂藩松平忠明領、続いて幕府領、宝暦12年(1762)下総国古河藩土井利里領となり幕末に至る。村高は元和初年の摂津一国高御改帳に134石余とあり、以後大幅な変化はない。中島大水道のうち小島村竹橋より当村犬ヶ辻を経て今里村に至る長さ693間の部分は水道之古書写帳(大阪市立博物館)によれば悪水排除の古水道を拡張整備したもので、その古水道の一部は旧堀城の濠を利用していたと考えられる。字村前に稲荷神社があったが明治42年(1909)神津神社に合祀された。
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赤色枠円は城跡
他にもあります。堀村からは北東方面で、中嶋という群島の、東西のちょうど中程にある西村(北方村)は、能勢街道と島内の主要街道に挟まれた場所に立地します。
※大阪府の地名1(平凡社)P590

---(資料5)-------------------
西村(淀川区木川東3-4丁目、木川西3-4丁目、西中島4-7丁目、三国本町1丁目、西宮原1丁目):
木寺村の北にある。集落は村域北東部に集中。中島大水道江ノ尻十六番杭より分岐した用水路が当村中央部を西に通り、竹橋三十三番杭で再び大水道に合流する。もとは北方村と称し山口村(現東淀川区)と一村であった。北方の名は寛正2年(1461)12月26日の中島崇禅寺領目録(崇禅寺文書)の「中島所々年貢茶目録」に「柴島北方」とみえ、半斤の年貢茶を納めている。当村が北方村から分村した時期は明らかではないが、慶長10年(1605)摂津国絵図に村名がみえる。元和初年の摂津一国高御改帳では和泉国岸和田藩小出吉英領。その後、叔父の同国陶器藩小出三尹に分知され、同藩領として元禄9年(1696)の同家断絶まで続く。のち幕府領として幕末に至る。村高は慶長10年の摂津国絵図では「惣禅寺・北方村・西村」として962石余、享保20年(1735)摂河泉石高調には当村を単独で記載し518石余、以後変化はない。村内の小字に城・城面・城東・城ノ越・中縄手などがあり、かつてこの地に城郭があったことをうかがわせる。また村内に皇大神社と西宮稲荷神社と西宮稲荷神社があったが、前者は明治41年(1908)中島惣社(現東淀川区)に、後者は翌42年神津神社に合祀された。真宗仏光寺派護国山光用寺がある。
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◎三津屋村の城は「中嶋城」と呼ばれていた
古地図内の赤色丸点●は掲示板の位置

そして私の一番気になる城が、三津屋村にあった三津屋城で、この別称が「中嶋城」です。村の規模も大きく、西国街道上にあり、島の北側の神崎川と南側の中津川の中間地点にあたります。また、三好長慶との関係性の強い寺社もこの付近に点在します。
※大阪府の地名1(平凡社)P587

---(資料6)-------------------
三津屋村(淀川区三津屋(北1-3丁目、中1-3丁目、南1-3丁目)・田川2-3丁目、多川北1-3丁目、十三元今里3丁目、新高6丁目など):
加島村の東にある。北は神崎川を隔てて豊島郡洲到止村(現豊中市)。南部村界付近に住吉社(現住吉区)の社家田川権太夫が開発したと伝える。田川集落がある。三屋(元和初年の摂津一国高御改帳など)とも書かれたが、古くは「三社」であったらしく「摂陽群談」は「此所は始に三社と書り、当郷三社の氏神あるに因れり」と記す。一説には当地開発者が三社浅右衞門なる人物であったからという(西成郡史)。属村一ヵ所があったが、「太中村」(慶長10年摂津国絵図)、「田井中村」(摂陽群談など)とみえ一定しないが前出田川のことか。南北朝時代から戦国時代にかけて当地には三津屋城があった。現在の光專寺の地がその跡地という。三津屋は楠木正行が築城し、天文年間(1532-55)には細川晴賢が居城したが、同18年三好長慶が攻め取った。同年、長慶は同城を拠点として江口城(現東淀川区)の三好宗三を攻撃したという。かつて跡地付近には城の前・馬洗の地名があった
 元和元年(1615)から大坂藩松平忠明領、同5年から幕府領、万事3年(1660)から大坂定番板倉重矩領、延宝元年(1673)板倉重種が後を継いだが、天和元年(1681)から再び幕府領となった。宝永6年(1709)側用人間部詮房領となった。享保2年(1717)幕府領となり幕末に至る(西成郡史)。村高は慶長10年(1605)の摂津国絵図では太中村と合わせ1376石余、享保20年の摂河泉石高調では1496石余。江戸中期には、当村北部から洲到止村に渡す神崎川の渡しがあり、河虎渡とよばれた。「摂陽群談」によればこの渡し名は昔この水底に河虎(河童)が住んで幼児を引き込んだので捕らえて殺し、のち川岸に河虎宮という小祠を営んだことにちなむという。当地には、浄土真宗本願寺派の光專寺・大恩寺・寿光寺・蓮正寺、真言宗系の長楽寺がある。なお、村名のもととなった三社はいずれも三好氏が武運長久を祈って創建したという八幡社であったが、現在香具波志神社に合祀されたり廃社となって存在しない
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続いて、三津屋村の東隣にある堀上村は、環濠集落で、これも三津屋城と何らかの関連性があると思われます。承応・寛文頃(1652-73)の古地図「大阪町中並村々絵図」では、中津川沿いに村が描かれています。
※大阪府の地名1(平凡社)P587

---(資料7)-------------------
堀上村(淀川区三津屋(南1丁目・中1丁目・北1丁目)・新高2丁目、野中北2丁目、野中南2丁目):
西成郡下中島の一村で、新在家村の南西にある。集落は村の南部にある。村名は、集落をつくるにあたり、四方に溝を掘り、その土を盛り上げて宅地を造成したことにちなむと伝え、当村がもと環濠集落であったことがうかがわれる。元和元年(1615)から同5年まで大坂藩松平忠明領(うち3年まで一部池田重利領)、その後享保2年(1717)までは三津屋村と同じ。一村別旧領主並びに石高では閑院宮家領。村高は慶長10年(1605)摂津国絵図では新在家村・東野中村・西野中村と合わせ865石余、元和初年の摂津一国高御改帳では「堺(堀)ノ上・新在家」として同高(野中村を含むか)。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳には堀上村単独で256石余。以後大幅な変化はない。天明元年(1781)12月、三次右衞門焼とよばれる大火があり、このとき一村ことごとく焼土と化したという。
 明和5年(1768)の堀上村・廿三ヶ村出入裁許書写(大阪市立博物館蔵「水道之古書写帳」所収)によれば、明和3年4月、中島大水道の開削に関係した北中島23ヵ村は、利権のない当村が勝手に中島大水道の堤を修復したとして大坂町奉行所に訴訟を起こした。当村は、中島大水道のうち竹橋(野中村・西村・川口新家村・小島村の境界付近)から犬ヶ辻(堀村北部)を経て今里村に至る部分は旧水道を利用したものであり、犬ヶ辻付近は当村の土地で、昔から悪水排除の樋を入れているゆえ当村で修復したまでであると主張。これに対し23ヵ村側は、旧水道ならびにその堤防は完成した年も領有村もわからぬ空地同前の地で、新水道は小島村・堀村の田地を潰して旧水路を拡大し、その費用を23ヶ村で負担したものであり、延宝7年前田安芸守より拝領の絵図にも「水道願村々」に対し「右絵図面之間尺を以已来可致堀浚修復者也」とあると主張した。明和5年12月に出された判決は、絵図には「堤」の記載がないので当村の既得権を尊重して、以後樋のある部分の堤防修復権を認めたが、修復は23ヶ村の同意を得るべきこと、当村の中島大水道への新規の樋伏を禁止するというものであった。
 村内に稲荷神社があったが、明治43年(1910)神津神社に合祀された。真宗仏光寺派西光寺は天文元年(1532)の創建という。
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灰色帯は現在の淀川流域
◎中津川の南側にもあった城群
以下は、補足情報ですが、中嶋から中津川を渡った所の集落にも城があったとの伝承があり、各村には「渡し」がありましたので、中嶋とも深い繫がりがありました。軍事的には「橋頭堡」としての概念であったのかもしれません。
※大阪府の地名1(平凡社)P575

---(資料8)-------------------
光立寺村(大淀区中津1-7丁目、大淀北1丁目など):
本庄村の西、中津川南岸にある。村域東部を能勢街道(池田道)が南北に通り、中央を大坂より十三渡に至る西国街道に通じる道がある。能勢街道沿いの村域南東部に光立寺、同じく中津川南岸に城、十三への道沿いに新家の各集落があり、寛文9年(1669)の古地図では中津川沿いのの西方に外島がみえる。城には三好党の光立寺城があったと伝え、摂津国各村草高帳に「慶長19年まで小城あり」と記す(中津町市)。慶長10年(1605)摂津国絵図では「光竜寺・城村」とみえ高493石余。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では509石余。延宝5年(1677)検地では高703石余・反別58町5反余、うち田方は628石余・51町余と多く、それも上々田・上田が半分弱を占める水田の村である(中津町史)。延享4年(1747)・宝暦8年(1758)・明和元年(1764)・弘化4年(1847)と数度の新田検地で、幕末には712石余(同書)。なお、享保20年(1735)摂河泉石高調では高703石余のほかに牛頭天王除地4石余がある。元和元年(1615)から5年まで大坂藩松平忠明領、以降幕府領(同書)。天明年間(1781-89)の村明細帳によれば、田方の50パーセント弱には稲作・麦作とともに綿作少々を行ってる。畑は80パーセントほどは夏に藍作など雑多な作物を植え麦作を行った。年貢は中期には定免となっていたが、文政10年(1827)には田方6割2分5厘9毛余となっている(中津町史)。当村は中津川南岸にあったから近世から明治にかけて度々洪水に見舞われ、とくに宝暦6年9月、村内字島ノ宮・城で中津川の堤防が決壊した時は惨事であった。これを城切れとよんでいるが、村内耕地の約19町が淵成・砂入となって再開発されている。天明8年家数109・人数551、安政5年(1858)164戸・783名、明治9年(1876)231戸・1028人と大阪の北郊として急速な人口増を示している。同29年から始まった淀川改修工事は当地に大きな影響を与え、永年の洪水禍は少なくなるが、52町3反余が買収され、222戸が移転するという変化を生じた(同書)。
 富島神社は近世牛頭天王社(祇園社)と称し、文禄3年(1594)の検地で社地を除地にされている。明治2年利島神社と改め、同43年島ノ宮の恵比須社を境内に遷し、同42年文禄検地段階から存在した新家の天満宮、成小路の鷺島神社(現淀川区)、塚本の八坂神社(現同上)を合祀し、同43年富島神社と改称、南浜の春日神社を境内に遷座した(中津町史)。寺院では浄土真宗本願寺派光徳寺がある。天正8年(1580)佐伯源助が草創、始め光立寺のち光徳寺に改めたという。画家佐伯祐三はこの寺に生まれた
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次は、本庄村についてです。ここは付近の有力村でした。埴輪も出土する程、古くからの集落ですから、もしかして、中嶋内にある「新庄」とは、この本庄に対する名付け概念だっったのかもしれないと、個人的には感じています。知らんけど。
※大阪府の地名1(平凡社)P574

---(資料9)-------------------
本庄村(大淀区本庄東1-3丁目、本庄西1-3丁目、豊崎4-7丁目、国分寺2丁目、北区天神橋6丁目、浮田1-2丁目、中崎1-3丁目、中崎西1-4丁目、黒崎町、万歳町、鶴野町、山崎町):
北長柄村・南長柄村の西にある。東部を横関街道が南北に通り、横関渡で中津川を渡って北岸の浜村(現東淀川区)へ、横関街道から北西に分岐した道が本庄(川口)渡で同川を渡って川口村(現淀川区)に至る。家形埴輪出土した長吉古墳があった「陰徳太平記」に元亀元年(1570)9月14日のこととして、「本庄の向かいなる河口の付城へ引取給う」「楼の岸・本庄へも人数をかさみ、手堅く持ち堅めたり」などとみえる。慶長10年(1605)摂津国絵図には「東本庄・本庄」とみえ高865石余。元和初年の摂津一国高御改帳では794石余、寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では829石余。元和元年(1615)から5年まで大坂藩松平忠明領。摂津国高帳で幕府領。「寛文朱印留」では大坂定番板倉重矩領で、元禄郷帳では幕府領幕末には三卿の一家田安領。天明2年(1782)当村の本庄市太輔が中島諸村の地藍一手引請を出願、藍作も行われた(大阪市史)。当村には本庄渡があるなど、付近の有力村であった。南中島18ヵ村組合に属し(西成郡史)、安永6年(1777)大坂三郷の深江屋庄兵衛に許された煮売株30株通用の村に入っている(大阪市史)。村内の葭原墓所は大坂七墓の一つで、元和元年中大坂藩主松平忠明が天満(現北区)の墓地をまとめたものという。
 豊崎神社があり、孝徳天皇を祀る。紅葉の名所として知られたという(浪花の梅)。本庄の村明細帳には慶安4年(1651)鹿島神社を創建したと記すが(西成郡史)、「摂津名所図会」は同社を当地の産土神とし、寛永の初め疫病流行の際常陸の鹿島神を勧請したとする。これは豊崎神社内にあり、このとき村内で鹿島踊を行った。明治41年(1908)豊崎神社は南長柄の八幡大神宮を合祀し、境内に東照宮を遷し、厳島神社をこれに合祀した。東照宮は徳川家康が大坂冬の陣に当地足立市兵衛方で休息したことにちなむといい、安永5年の勧請。寺院では浄土真宗本願寺派教恩寺があり、カキツバタの花が知られた(西成郡史)。
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◎中嶋内の有力な村落について
城とは直接的に関係はしていませんが、中嶋内の有力村をもう一つご紹介します。
※大阪府の地名1(平凡社)P584

---(資料10)-------------------
西国街道を通す加島村の様子
加島村(淀川区加島1-4丁目、西淀川区竹島1-5丁目、御幣島5-6丁目など):

神崎川と猪名川の合流点南岸の湾曲部に位置し、西成郡北中島では大村に属する。集落は村の中央部大島街道沿いに散在し、北西には川辺郡神崎村(現兵庫県尼崎市)への神崎渡がある。種々の俗称があり、鍛冶師の多く住した地であったことから鍛冶ヶ島、香具波志神社の鎮座するところから神島、また同社の連歌殿で盛んに連歌が行われたことから歌島ともよばれた。加島はこれらの換用と考えられるが、「続日本紀」延暦4年(785)1月14日条に「遣使堀摂津国神下・梓江・鯵生野通于三国川」とある「神下」が変化したとの説もある(「加島神社伝記」香具波志神社蔵)。
 加島は、古代はいわゆる難波八十島の一つで住吉社(現住吉区)領であったと伝え、「住吉松葉大記」は「仮島」の字をあてる。前出延暦4年の記事は、淀川と三国川(神崎川)を結ぶ水路の開削とされるが、これによって、三国川は都と西国を結ぶ交通路となり、河口に近い加島は神崎や江口(現東淀川区)などとともに港津集落として発達した。「遊女記」には「蟹島」とみて、その殷賑のさまを「到摂津国、有神崎蟹島等地、比門連戸、人家無絶、倡女成群、棹扁舟着旅履舶、以薦枕席、声遏渓雲、韻飄水風、経廻之人、莫不忘家、洲蘆浪花、釣翁商客、舳艫相連殆如無水、盖天下第一之楽地也」と記す。また源俊頼は「かしまへは遊びしにやと着きつらん戯れにても思いかけぬを」の歌を、当地の遊女の様子を記す詞書とともに「散木奇歌集」に収めている。「台記」久安4年(1148)3月10日条には「於西海乗舟入自一洲遊女群来宿賀島辺」とみえ、藤原道長が高野山参詣の帰途、当地に宿泊したことを記す。貞応2年(1223)3月日付蔵人所牒案(東洋文庫蔵弁官補任裏文書)に「賀島■(庄)内美六市」とあり、当地辺りで市立てが行われていたことが知られる。
 元和元年(1615)から5年まで大坂藩松平忠明領、翌6年から大坂御船手小浜光隆領(一部幕府領)となり、その後寛文10年(1670)まで同家領。以後幕府領となり幕末に至ったと推定される。村高は慶長10年(1605)摂津国絵図では竹島村と合わせて1187石余、元和元年の摂津一国高御改帳では加島村888石余・同出作分(竹嶋村か)398石余で1287石余、寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では941石余(うち小浜光隆領928石余・幕府領13石余)、享保20年(1735)摂河泉石高調では1203石余(除地1石余)。当地は古くから鍛冶師が多く住んだ地で「摂津名所図会」に「むかし加島鍛冶千軒とて、加島一村ことごとく鍛冶戸なり、今僅一両軒のみあり」とある。その隆盛は「曲江随筆」所収の元弘3年(1333)1月7日付大塔宮令旨の宛名に「加島鍛冶衆」とあることにうかがわれるが、さらに古くは「延喜式」(木工寮)にみえる「摂津国五十八烟」の鍛冶戸に加島の鍛冶も含まれていたと推定されている。江戸時代後期には前述のごとく衰退しているが、この加島鍛冶の伝統は元文3年(1738)当地に置かれた銭座に受け継がれた。名産として犂(すき)と莚(むしろ)があったが、「摂陽群談」は犂についてかつての加島鍛冶の伝統を記し、筵については「毎年臘月の式に用て餅莚とす。藁の穂先を打違て中に織るを以て中継莚とも云えり」と記す。
 神崎川は古来しばしば洪水を起こした。加島村堤防は寛政元年(1789)・享和元年(1801)・明治元年(1868)に決壊、近村に大きな被害を与えた。江口村の享和元年御触書之写(田中家文書)によれば大坂町奉行所は北中島の各村に対し加島村堰堤の修復ため高100石につき一人の割で3日間の人夫を出すように命じている。当地には産土神の香具波志神社、高野山真言宗の富光寺、浄土真宗本願寺派の正恩寺・定秀寺がある。
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そして、その村内にあった富光寺です。この寺は「長慶山」と号し、三好長慶との深い繫がりを持っています。
※大阪府の地名1(平凡社)P586

---(資料11)-------------------
富光寺(淀川区加島4丁目):
高野山真言宗。長慶山と号し、本尊は阿弥陀如来(藤原期作)。摂州八十八ヶ所第三十九番札所。天正19年(1591)の奥書をもつ寺蔵の富光寺縁起によると、文化年間(645-650)天竺より飛来した法道仙人が、当地の人々の懇請によって阿弥陀如来を刻み、一宇を建立したのにはじまると伝え、また法道の開創を聞いた孝徳天皇が寺領と勅願を当寺に下賜したという。法道仙人は飛来後播磨法華山(現兵庫県加西市)を中心に修行した僧で、宝鉢を持って諸国を巡歴、各地に寺院を建立したと伝える(元享釈書)が、当時当地は沼沢地と考えられることから、寺院建立をこの時に求めるのには疑問が残る。寺名について前出縁起は、四天王寺(現天王寺区)参詣途中のある比丘尼が、放光の仏舎利を発見、夢告によって当寺へ奉納したことにちなむとする。また建永2年(1207)法然が土佐に配流される途中、当寺に一泊、その夜神崎(現兵庫県尼崎市)の遊女に念仏の法話を聞かせたと伝える。天文10年(1541)頃より三好長慶が三津屋城を拠点とし、当寺をも支配したことから現山号を名乗ることになったといい、豊臣秀吉の頃には朱印地一町八反歩を有したという。慶長年間(1596-1615)実印の中興(大阪府全志)。
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◎川に囲まれた土地には多数の渡(橋)があった
更に以下、この周辺の代表的な「渡し」と「橋」を参考までに、まとめてご紹介します。
※大阪府の地名1(平凡社)P585+590

---(資料12)-------------------
十三渡し:
大正時代初期:十三大橋の様子
大坂から神崎(現兵庫県尼崎市)を経て西国街道に至る道の中津川の渡し。近世の成小路村の字十三と対岸堀村とを結んだ。「太平記」巻36(秀詮兄弟討死事)に康安元年(1361)9月、渡辺橋(淀川の橋、現天満橋付近)から南下した佐々木秀詮の北朝軍が西成郡中島で合戦、佐々木方の白江源次六騎が「中津川ノ橋爪」で討死したとみえるが、その地は当地付近とされ、当時ここに橋がかかっていたことが知られる。しかし、中世末には橋はなかったようで、「信長公記」によれば元亀元年(1570)9月23日、織田信長がこの日、野田・福島(現福島区)の砦を引払い「中島より江口通御越」とあるが、この時の様子を「細川両家記」は「中津川船橋は四国衆より夜中に切流れたり。然ば船橋渡らんもなし。昔からの橋も無し。皆々かち渡にし給ふ也」と記す。慶長10年(1605)摂津国絵図でも中津川の渡しは長柄(現大淀区)、十三、野里(現西淀川区)の3ヶ所しかなく、信長軍が「かち渡」ったのは十三渡であったと考えられる。近世、当渡の南岸にあたる小島古堤新田村には脇本陣や旅籠があり、小宿場町を形成していた。また十三には焼餅屋が多かったようで、「摂津名所図会大成」は「往還の旅人間断無し、名物として焼餅を売る家多し」と記す。ちなみに十三の焼餅は享保15年(1730)十三渡北詰で今里村(現東成区)の住人久兵衛が始めて評判をとり名物となったと伝える。明治11年(1878)成小路-堀村間の中津川に幅二間・長さ八十五間の木造有料橋が架けられたが、明治42年淀川改修により十三大橋となった。
神崎橋:
加島と神崎川対岸神崎(現兵庫県尼崎市)の間に架けられた橋。「太平記」巻36(秀詮兄弟討死事)には康安元年(1361)9月佐々木秀詮が「神崎ノ橋」を渡って和田・楠木軍と戦って敗れたことがみえ、同書巻38(和田楠与箕浦次郎左衛門軍事)には翌2年7月、この辺りの合戦で神崎橋の橋桁が焼落ちたことがみえる。この橋がいつごろ架けられたか詳らかでないが、天正19年の奥書をもつ富光寺縁起(富光寺蔵)に、建永2年(1207)春、讃岐へ配流される法然が同寺に宿泊し、訪ねて来た神崎の遊女に浄土念仏による来世救済を説いたところ、遊女は罪業を懺悔し、神崎川の橋上から入水、ところが不思議なことにその屍が水上に浮かんで逆流したので以後この橋を揺上橋と号したとの伝説を記す。この揺上橋が神崎橋と考えられている。康安2年以降神崎橋が再建されたかは不明であるが、江戸時代には大坂から神崎を経て西国街道に至る道の渡しがあり昼夜行人が絶えなかったという。「摂津名所図会大成」に「神崎橋古蹟」として「近来此川すじより橋杭を掘出せり是其古蹟なり」とある。香具波志神社にはこの橋杭の朽木で作った硯台があり、寛政9年(1797)上田秋成の歌賛を刻する。この地には大正13年(1924)新たに神崎橋が架橋された。しかし昭和25年(1950)のジェーン台風で流出、同28年再建された。昭和53年、長さ320メートル・幅10メートルの現橋に改架。
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◎中嶋の中心としての「中嶋城」とはどこか
十三公園の国道176号線東側の旧掘村
これらの資料から、中嶋群島における重要(主要)な城というのは、西国街道を擁する三津屋城ではないかと考えられます。場所としても南北両川、西国街道の押さえであり、物資輸送には欠かせない場所です。何しろ、別称が中嶋城です。
 ここに人が集まったため、環濠集落である、堀上村ができたのかもしれません。また加島村など、この周辺に三好長慶との関係が深い古蹟が多数存在しています。
 長慶は、武庫郡の越水城に拠点を構えていたことからも河辺郡の要港である尼崎にも街道を通す三津屋村に城を持つことは重要な意味を持ったと考えられます。概ね伝承通りに、天文18年の管領細川晴元失脚以降、長慶はここも重要視していたのではないかと思われます。

それで、冒頭にご紹介した、史料(1)の天文16年頃、典厩の城としての中嶋城は、伝承通りに、三津屋村にあった城を指し、細川晴賢はここで、本願寺光教の音信を受け取ったのではないでしょうか。

一方の堀村の堀城(跡)とは、時代の要請があって、構想の主軸がこちらに移って、この場所にも支城のようなものを造成したかもしれません。
 現に、天正4年と推定される、足利義昭方大坂本願寺坊官下間頼廉から紀伊国雑賀一揆方へ宛てて音信された内容には、中嶋堀城が記述されています。
※岐阜県史(史料編:古代・中世1)P1093、新修 泉佐野市史4(史料編:古代・中世1)P720

---(史料13)-------------------
態と申し下し候。仍て紀伊国に調略人之在り、密々を以って織田信長を相調え、半国引き破り、信長之人数和泉国佐野まで引き請け、紀伊国雑賀を切り取るべく由、訴訟に付き而、信長同心され、近日計らずも人数相働くべく由候。高野(山紀伊国金剛峯寺:高野山)も一味由候。右之趣き、確かに敵之内輪より申し来り候。一大事之儀候間、油断無く其の心掛け有るべく事専用候。若し其の方に於いて存知合わせられ様体も之在ら者、言上有るべく候。将又一昨日(19日)夜、中嶋堀城を忍し取り候処、中川瀬兵衛尉清秀無念かり、昨日(20日)早旦より及び晩まで、種々行に及びと雖も候。此の方人数入れ置き、一段堅固に候。又去る夜瀬兵衛尉(清秀)詰められ、一戦に及び、是れ又此の方大利を得候。心安かるべく候。堀城無類之取出(砦)に候条、味方中之大慶此の事候。次に先度仰せ出され候鉄砲300丁事、安芸国衆(毛利方)へ堅く御請け乞いなされ候間、26・27日之間に、必ず必ず上ぜ候へば待ち入り候。此れ等之旨仰せ出され候。仍て 御印拝され候。謹言。
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そんな中で、大阪市教育委員会の検証している堀城跡の位置関係は、古地図内の赤色丸点の位置です。確かに重要性としては、西国街道と能勢街道との中間地点にはあるものの、堀村や現十三公園内の巨木の名残との関係性を結びつけるには、どのようにすればいいのか解らない程の距離と地形のヒントもありません。看板のある場所よりも南側ではないでしょうか?
明暦元年大坂三郷町絵図部分
 (大阪歴史博物館所蔵)
 堀村は西国街道を通し、中津川沿いに東へも繋がっていて、途中に十三渡も抱える事から要地ではあります。城館があっても不自然ではありません。ここならば、国道176号線(一部は旧西国街道筋を踏襲)を挟んだ現十三公園は隣接しています。

摂津国欠郡にあった中嶋城とは、その名を冠するに相応しい規模と位置関係であった「三津屋城」の事で、堀村には支城としての「堀城」を、後に新設したか再利用するなどしたのではないかと、私なりに考えています。三津屋村での城の伝承では南北朝時代に遡るようです。地形上、いくつかを組み合わせて、相互に機能させなければ、島の中の城は守れないと思います。
 堀城のその活用時期は、今のところ公的な想定通り、永禄9年頃から重要度合が高まり、追々機能拡張や規模が拡大した可能性を考えています。

【補足】
このブログ記事を書いた後に気付いたのですが、大阪市立博物館から『共同研究成果報告書17 (2025)- 大阪市の中世城館 -』が刊行されており、その中でも、堀城の位置想定がなされています。それを読んできても、これまでの論から大きく進展した内容でもなく、若干補足されたような現状です。やはり、発掘調査と両輪でなければ、文書上からの特定は難しいのが実際です。
「共同研究成果報告書17 (2025)- 大阪市の中世城館 -」のダウンロードページ
 https://www.osakamushis.jp/education/publication/kyodokenkyu/kyodo-17.html

【参考記事】
淀川区の中心地である十三本町付近(十三駅周辺)は、太平洋戦争での空襲を受け、広範囲に焼失しています。ターミナル駅であることから、輸送の麻痺を企図したようです。三津屋村方面も同様に大きな被害を受けたようです。

★参考リンク
十三のいま昔を歩こう:大阪大空襲 十三が焼けた日

明治18年頃の西成郡中嶋の様子(グレー色の帯は現在の淀川)


承応・寛文頃(1652-73)大阪町中並村々絵図部分
国立国会図書館蔵


 

2024年10月5日土曜日

細川六郎と三好三人衆(元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状)

京都の中央政権を支えた阿波国に縁を持つ三好家が、三好長慶を筆頭に、歴代最大の版図を築くに至ります。しかし、永禄7年(1564)7月、その三好長慶は失意の内に亡くなります。
 その後、間もなく三好長慶を支えた一族家老・重臣同士の争いに発展し、結局は京都周辺に威勢を誇った三好氏も没落してしまいます。

その過程で、家名存続に腐心した三好三人衆(三好家家老格であり、家政中枢であった組織機構)と、伝統的権威であり室町幕府機構内の「管領」格であった細川六郎(家)について、考えてみたいと思います。

この管領(格を有する)細川家は、日本各地にあり、その細川家を担いで、地域権力とその統治機構があったようですが、今回の記事は、京都を中心とした(室町幕府直結の)細川管領家について、観察してみます。
 この京都に在所する足利将軍権威に含まれる管領職について、三好長慶を筆頭とする阿波三好家が深く関わり、支えていました。
 それらの実態については、複雑怪奇で、それらの説明は割愛します。ここでは特に、長慶の時代から元亀元年までの動きについて述べたいと思います。

例の如く、その流れについては、この記事の本文以下に、関連する出来事の一覧を掲示します。

状況からすると、阿波三好家からしても迷惑で、不可抗力的な悲劇なのですが、将軍家の同族争いと管領家の争いが連動して起こり、その権威構造の歯車が、その力で全て動いてしまうので、三好家としても引き込まれざるを得ない状況でした。それが長慶の代で概ね決着し、沈静化がある程度、進みました。

六郎(昭元)の父である管領細川晴元は、自らの失政で招いた混乱に抗いきれず、長慶という、かつての重臣に従わざるを得なくなります。

近江国(現滋賀県)朽木の将軍御所跡
天文20年(1551)12月、細川晴元方であり、近江国守護六角定頼・義賢父子と三好長慶が和睦する事となります。この時の条件について、管領晴元の嫡子である六郎を、現管領である細川氏綱の後、もしくは、然るべき時期に、晴元嫡子六郎を管領に就かせる条件で和睦を締結します。
 それにより、年が明けた天文21年1月に将軍義輝は、避難先の近江国朽木地域から京都へ戻ります。この折に、六郎も随伴していますが、その親である晴元は、剃髪して僧体(入道号永川)となり、出奔します。

この間暫く、駆け引き、争いがありますが、三好長慶が優位に状況を切り抜け、勢力を拡大していきます。
 弘治4年(1558)2月3日、細川六郎(この時、聡明丸)を摂津国芥川(山)城で、三好長慶は元服させます。この烏帽子親を晴元の敵対一族である現管領の細川氏綱が行いました。加えて、その月内に改元まで行い、元号を「永禄」として発布します。
 これは晴元の系譜を継がず、敵対する氏綱の系譜に組み込むという流れを作る事となり、この行為についての大きな反感を長慶は買いました。特に晴元擁護派の中心である、近江守護家六角氏(細川晴元の妻は六角定頼の娘で、両家は親類)が反発し、三好長慶に敵対する勢力を糾合して争う構えを見せます。

それに対抗して、三好長慶は管領の上位権力である将軍義輝に接近し、御相伴衆に取り立てられるように仕向けたりして、自らの地位を上昇させる策を講じます。また同時に、管領家も長慶の権力機構内に収めつつ、更にその上位権力との関係性を作り、自らの地位も上昇させる事で、敵の抵抗を政治戦略的に無力化する策に出ます。
 やはりこれは功を奏します。永禄2〜3年の河内南半国守護職畠山家の内紛鎮圧は、幕府の正規軍として三好長慶が行っています。しかし、それでも反抗は止まず、翌4年(1561)7月にも、長慶に対して包囲網を敷いて、近江六角承禎(義賢)が中心となって武力蜂起します。しかし、永禄7年7月、長慶はその鎮圧の半ばで死亡します。

少し時間を戻します。

京都吉田神社 
永禄6年(1563)という年は、京都周辺で疫病が発生していたとみられ、それを裏付ける史料があります。京都吉田神社の神主、兼右が、4月19日の事として記述しています。
※兼右卿記(上)P142

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上野民部大輔(信孝)、不例に就き、神道泰山府君祭事、上位(将軍)為、細川民部大輔(藤孝)以て仰せ出され了ぬ。既に急病也。諸道具5月3日中に調え難き旨申し入れ了ぬ。然者、(賀茂)在冨卿に仰せ出されるべく候云々。尤も然るべく候旨返答了ぬ。彼の病者十死一生也。若し平癒無き之時■天度く然るべく之間、此の分申し上げ了ぬ。
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この年に、細川晴元、同氏綱の両管領が死亡します。そして、長慶の跡取りであった三好義興も病没してしまい、親の長慶にとって、悲嘆に暮れる年となりました。この後、管領職は正式に承認された人物はなく、事実上「空位」となっていたと思われます。

さて、永禄7年(1564)、三好長慶亡き後、長慶実弟(十河一存)の養子先である十河家から養子を迎えて、家中政治の立て直しを図ります。
 三好家長慶跡目となった義継は、この時は(数えで15才)まだ若く、長慶を支えていた家老や重臣が同じくその新当主を支えました。しかし、司令塔であり、象徴であった当主長慶を不慮に失い、家臣団の意見が纏まらなくなります。
 永禄8年(1565)5月、三好勢は将軍義輝の暗殺を決行する暴挙に出、この年の内に三好三人衆という一族集団と新参であった松永久秀が対立し、内紛となります。もはや「天下取り」どころではなく、内紛の勝敗に明け暮れる事態に陥ります。
 このような事態は、三好家にとっては想定外であったでしょう。ですので、権力の整理や組織の象徴の奉戴など、次の段階の作業に着手する事ができず(構想はあったと思われる)に、内紛の処理に追われます。

足利義栄木像
将軍の殺害自体(主殺し)、当時でも非道な行為であり、これを実行するにあたっては、それに相当する(社会的な)行為の理由付けと準備が必要な筈です。これは思いつきではなく、構想があり、準備の上で行われたのだと思われます。また、『佐々木六角氏の系譜』では、この現役将軍の襲撃事件は近江守護六角氏家中で「(いわゆる)観音寺騒動」が起きたため、その間隙を衝いて実行されたと分析されており、やはり計画的である要素があったように思います。(阿波三好家による非道な暴挙は、これで二度目で、主君阿波国守護細川讃岐守氏之を三好長慶実弟の同名豊前守実休が天文22年(1553)6月に、殺害しています。)
 さて、この当時、将軍義輝を暗殺した直後、阿波足利家を将軍に立てるとの噂が広がっています。
※言継卿記3-P502、フロイス日本史3(中央公論社:普及版)P312、足利季世記(三好記:改定 史籍集覧13別記類)P232など

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『言継卿記』5月19日条:
辰刻(午前7時〜9時)三好人数松永右衛門佐久通等、10,000計り以て俄に武家御所へ乱入之取り巻き、暫く戦い云々。奉公衆数多討死云々。(中略)阿州の武家御上洛有るべく故云々。(後略)
『フロイス日本史(中央公論社:普及版)』都において事態が進展した次第、および三好殿と奈良の(松永)霜台の息子が、公方様とその母堂、姉妹、ならびに奥方を殺害した次第条:
彼は若者である三好殿と、公方様を殺害し、阿波国にいる(公方様)の近親者をその地位に就かせる事で相談し、その者には公方の名称だけを保たせれば、それからは両名がともに天下を統治する(ことができると考えた)。
『足利季世記』光源院殿御最後之事条:
阿波御所様、三好三人衆、松永・篠原山城守を頼りに御頼みありて御上洛の御望みあり。先年より頻りに此の事ありけれども、長慶存生の中は、当公方様御馳走申して更に御請けなかりける、今長慶一期の後、子息幼稚なれば、一族衆を一偏に御頼みありければ、皆阿波御所え御一味申しけり。
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記述の、将軍義輝殺害後の三好家分裂は、約2年間に渡る抗争となりますが、これにより三好家の家運は傾きます。
 激しい内紛の中で、最終的には、三好三人衆方が競り勝って、阿波足利家の義栄(よしひで)を、正式な第14代室町将軍に就ける事に成功します。永禄11年2月8日の事です。
※言継卿記4-P211

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(前略)今夜将軍宣下、上卿出立要脚、伝奏於いて300疋之請け取り、澤路備前守入道之遣わす。同請け取り後日之遣わす。(中略)左馬頭源朝臣義栄宜しく征夷大将軍為し、兼ねて又聴着禁色すべく、予微頌、(後略)
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この争いの間、両者は公的・正当性の主張のシンボル(象徴)として、高位の人物を味方に付けようと腐心しています。
 松永久秀は、自身の行動の象徴として、三好家当主三好義継を奉戴していました。この関係は、両者が死亡するまで続く、堅いものでした。永禄10年2月に、三好家当主の義継は、松永久秀の元へ走ります。
※言継卿記4-P122、兼右卿記(下)P121、多聞院日記2(増補 続史料大成)P9など

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『兼右卿記(下)』2月16日条:
今夜亥刻(午後9〜11時)、三好左京大夫与松永弾正少弼一味せしめ云々。(後略)
『多聞院日記』2月18日条:
(前略)一、去る16日(2月16日)三好左京大夫堺にて宿所を替え了ぬ。松永弾正少弼と同心歟と河内国雑説之由也。いかが、大坂へ行き云々。
『言継卿記』2月17日条:
(前略)三好方池田内等昨日破れ云々。又大乱に及ぶべく、笑止之儀也。三好左京大夫(義継)、同山城守、安見等、摂津国遠里小野へ打ち出し云々。三好日向守、同下野守入道、石成主税助、和泉国境に之有り云々。松永弾正少弼(久秀)衆蜂起云々。池田之内75人引き破れ云々。(後略)
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対する三好三人衆は、将軍格を立てており、天下への戦略(号令)としては、義継を擁立するよりも戦略的には大きな意味があります。ですので、この奏功で、いずれ義継の事も解決できると考えていたのかもしれません。

漸くここから、細川六郎(後の昭元)の動きについて、触れていきたいと思います。歴代最長の前置きで、新記録達成です。すみません。 m(_ _)m

そんな状況でしたので、六郎は三好家中で保護されていたものの、弘治年間の元服以来、この動きの中で、史料としては表立って見られません。また、年齢も若く(三好義継とほぼ同年代)、政治的な動きもできなかったのかもしれません。永禄10年(1567)になり、ようやく六郎が史料上で確認できるようになります。
 本願寺宗法主(顕如)の光佐が、細川六郎に宛てて音信しています。具体的には不明ですが、何か重大事項を控えているような内容です。2月3日付の音信です。
※本願寺日記-下-P578

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肇年嘉祥、逐日尽際有るべからず。彌堅意任されるべく候。抑3種5荷進め入れ候。表祝儀計りに候。猶下間上野法橋申せしめるべく候。穴賢穴賢。
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更に、同年9月28日の事として、細川六郎が山城国大原口などの山科率分の今村氏受け持ち分を違乱している旨、公卿山科言継(ときつぐ)の日記に現れます。
※言継卿記4-P172

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10月2日条:
(前略)澤路隼人佑(言継被官)来たり。内蔵領率分東口之事、細川六郎(昭元)違乱云々。折紙持ち来たり。山城国大原口・粟田口山科率分今村(慶満)分事、上使差し越され上者、役銭等先々の如く彼の代沙汰致すべく由状件の如し。永禄10年9月28日 為房判(昭元奉行人飯尾) 諸役所中。承引能わず、上使追い返し云々。重ねて来たるべくの由申し云々。(後略)
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同年、本願寺の光佐が、念入りに年の暮れと新年の挨拶を細川六郎に送っています。この頃、六郎の年齢は数えで20才になっています。永禄10年暮れと明けた新年の音信です。
※本願寺日記-下-P581+583

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12月23日条:
歳暮嘉慶、尤も以て珍重候。仍て太刀一腰之推し進め候。猶下間上野法橋申すべく候。穴賢穴賢。
1月26日条:
春の吉兆、漸く事舊(旧)しと雖も候。尚以て休盡有るべからず、多幸多幸。仍て3種5荷之推し進め候。祝詞逐日重畳申し展べるべく候。穴賢穴賢。
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これは本願寺宗にとって、六郎が重要な人物であると認識していた証拠でもあると思われます。

芥川山城(撮影:2001年2月)
永禄11年(1568)には、三好三人衆が将軍義栄政権の体制整備を行っていたようで、管領(かんれい)格であった六郎もその政権内に据えて、安定の一要因にと考えていたのかもしれません。
 しかし、この年の秋、故将軍義輝実弟である足利義昭を奉戴した織田信長により、三好三人衆方に上洛戦を挑まれ、抗いきれずに将軍義栄政権は崩壊してしまいます。
 この時、細川六郎は摂津国芥川(山)城付近で、三好三人衆筆頭の三好長逸と共に迎え撃ちましたが、衆寡敵せずに敗走しています。
※言継卿記4-P273、改訂 信長公記(新人物往来社)P86など

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『言継卿記』9月29日条:
(前略)今日武家御所天神馬場迄御進発云々。先勢芥川之麓之焼き攻め云々。(後略)
同月30日条:
(前略)今日、武家芥川へ御座移され云々。勝龍寺・芥川等之城昨夕之渡し、郡山道場今日之破れ、富田寺外之破れ、寺内調べ之有り。池田へ取り懸け云々。(後略)
『足利季世記』新公方様御上洛之事条:
(前略)同9月28日、信長は京都東福寺に着陣して石成主税助が楯籠もりし山城国西岡の勝龍寺城を攻めらるる、柴田修理亮と石成主税助終日合戦し、石成打ち負け50余人打ち取られ、叶うまじとや思いけん降参を請いければ、上意得られ一命を助けて城を請け取り、石成おば信長の手に加えらる。公方様には越水城へ御動座ありけり伊丹大和守親興は、越前国へ御使者を奉り御味方に参り御教書給わり所領3000貫給わり、兵庫頭になりければ、公方様の御手合いとて馳せ向かい、9月29日摂津国武庫郡河辺郡両郡を放火す。是れを聞きて三好方の高屋の城も飯盛城も自落しければ、畠山高政は初めより一乗院様の味方なれば、本領なればとて高屋城に打ち入りけり。同日、新公方様南方の御敵退治の為に御出張(中略)尾州(尾張国)衆、高槻・茨木へ陣取る。芥川城へは、故細川晴元一男六郎とて三好日向守籠もりけるが是れも叶わず明け渡しける。(後略)
『改訂 信長公記』信長御入洛十日余日の内に、五畿内隣国仰せ付けられ、征夷将軍に備えらるるの事条:
(前略)29日、勝龍寺表へ御馬を寄せらる。寺戸寂照に御陣取。これに依って石成主税頭降参仕る。晦日、山崎御着陣。先陣は天神の馬場に陣取る。芥川に細川六郎殿、三好日向守楯籠もる。夜に入り退散。並びに篠原右京亮居城越水、滝山、是れ又退城。然る間、芥川の城へ信長供奉なされ、公方様御座を移さる。(後略)
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細川六郎は、一旦、三好三人衆勢と共に阿波国方面へ待避していたようですが、体制を立て直し、再び上洛(京都奪還)を目指した戦いの準備を行っていました。
 ちなみに、この三好三人衆勢が京都から落ちる時、将軍義栄は、その途上で死亡します。これはあまり記録が無いのですが、それは、長慶の前例の如く、喪の秘匿によるものと思われます。

それ故に、「戦(いくさ)」をより有利に展開するためにも求心力のある人物をより多く味方に付ける事は、非常に重要な課題となります。
 三好三人衆方にとって、六郎の価値が急騰していました。そんな状況を示す史料があり、これは六郎が、丹波国人へ上洛戦のためと思われる音信を行っています。永禄12年と推定される3月20日付けで、細川六郎が、丹波国人荻野(赤井)悪右衛門尉直正へ宛てています。なお、署名は「元」の一文字のみです。また、『近世公家社会の研究』によるとこの音信は、六郎が阿波国から発したものと推定されています。
※兵庫県史(史料編・中世9)P6、近世公家社会の研究P37など

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先度染筆様体申し越し候。参着候哉。然者、行事、相催し候条、此の刻、別して忠節為るべく候。恐々謹言。
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丹波八木城跡(撮影:2201年10月)
もう一通、細川六郎と連なる動きをしている丹波国人内藤貞虎が、同国人赤井(荻野)悪右衛門尉直正宿所へ宛てて音信があります。これも同年と推定される3月23日付けの史料です。文中の「御屋形」とは、細川六郎を指していると考えられます。
※兵庫県史(史料編・中世9)P6、戦国遺文(三好氏編2)P245

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其れ以後久しく申し通さず候。仍って京表於いて、三好三人衆を始め利を失われ故、御屋形(六郎)播磨国へ至り御下向之条、我等も御共に罷り下り候。尤も切々書状以って申し承るべく候処に、遠路に付き、万事音無き迄に候。其れに就き、御使い為、同阿(不明な人物)差し遣わされ候。万ず御入魂肝要候。御屋形様対当され、数代御忠節、並び無き御家にて候条、此の砌引き立て申されるべく事専一候。拙者も不断御近所に之有る事候間、いか様之儀にても久しく仰せ越されるべく候。御文箱使い仕るべく候。次に(赤井)時家、未だ申し通さず候へ共、幸便候間、書状以って申し入れ候。苦しからず候者、御届け成られ候て給わるべく候。尚期して参拝之時を期し候条、事々懇筆に能わず候。恐々謹言。
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そして、永禄12年(1568)閏5月、三好三人衆勢は、実際に軍を動かして出陣しています。『多聞院日記』閏5月14日条に、その記述が現れます。
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P130

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(前略)一、淡路(国)於いて喧𠵅有て、(三好)為三ノ矢野ノホウキ(伯耆守)以下死に、三人衆果て云々。実否如何。
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伝摂津中嶋城跡(撮影:2006年10月)
この後暫く、六郎に関する史料は見られなくなり、元亀元年(1570)の摂津国野田・福島合戦を迎えます。この年、六郎は満22才。
 その頃には、三好三人衆方も六郎の政治・軍事的価値を再認識しており、その動くところには、必ず「六郎」の記述が見られるようになります。
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P634

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元亀元年条:
(前略)旁以て阿波国方大慶の由候也。然らば先ず淡路国へ打ち越し、安宅方相調え一味して、今度は和泉国へ、摂津国難太へ渡海有るべく也と云う。先陣衆は細川六郎(昭元)殿、同典厩(細川右馬頭晴賢)。但し次第不同。三好彦次郎殿の名代三好山城守入道咲岩斎、子息徳太郎、又三人衆と申すは三好日向守入道北斎、同息兵庫介、三好下野守、同息、同舎弟の為三入道、石成主税介。是を三人衆と申す也。三好治部少輔、同備中守、同帯刀左衛門、同久助、松山彦十郎、同舎弟伊沢、篠原玄蕃頭、加地権介、塩田若狭守、逸見、市原、矢野伯耆守、牟岐勘右衛門、三木判大夫、紀伊国雑賀の孫市。将又讃岐国十河方都合其の勢13,000と風聞也。(後略)
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この時は、細川晴元の一族同苗の典厩家(管領の分家で政賢流、右馬頭:摂津国中嶋城主)でもある晴賢の動向も記述されており、この頃の三好三人衆方はより強固に権威(権力)の利用とこだわりを見せています。この典厩家の晴賢は生没年が不詳ながら、六郎と比べると年齢がかなり上ですので、補佐的な実務への期待もあった可能性がありますね。もちろん、陣所が野田・福島ですので、中嶋はこの地域の中心地でもあります。それも意識していますね。
 また、六郎の存在を三好三人衆が活用しているのは、共闘するにあたり、近江国守護家の六角氏との関係を保つためでもあったと思われます。

このように、元亀元年頃には三好三人衆方にとって、管領格であった細川六郎は、組織の求心力を発揮し、団結の中心として、大きな役割を果たす人物となっていました。


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<天文20年から元亀元年8月の関連資料概要> =================
天文20年12月 -------------------
将軍義輝方六角義賢・定頼父子と細川氏綱方三好長慶の和睦会談が行われる
※戦国三好一族P139、三好長慶(人物叢書)P121、足利義昭(人物叢書)P87

天文21年 -------------------
 
1月28日 将軍義輝、入京
※言継卿記2-P443、群書類従20号(武家部:細川両家記)P612

弘治4年 -------------------
2月3日 細川晴元嫡子昭元、細川氏綱方三好長慶居城芥川山城にて元服
※群書類従20号(武家部:細川両家記)P615、戦国期歴代細川氏の研究P-347など
 
永禄4年 -------------------
7月 細川晴元方反三好長慶勢、各地で挙兵
※高槻市史1-P714、和泉市史1-P356、中世後期畿内近国守護の研究P222
 
永禄6年 -------------------
2月 池田長正死去
※池田市史1-P658
 
3月1日  細川晴元病没
※群書類従20(合戦部:細川両家記)P622など
 
4月19 将軍側近上野信孝、急病につき京都吉田神社神主兼右へ音信
※兼右卿記(上)P142

8月25 幕府方三好長慶嫡子義興没
 ※群書類従20(合戦部:細川両家記)P622

12月20 細川氏綱病没
※群書類従20(合戦部:細川両家記)P623

永禄7年 -------------------
5月7日 幕府方三好長慶、弟の安宅摂津守冬康を殺害
※言継卿記3-P408

7月4日 幕府方三好長慶死亡
※細川両家記 (群書類従20:合戦部)P623
 
永禄8年 -------------------
5月19日 足利義栄上洛の噂が立つ
※言継卿記3-P502、フロイス日本史3(中央公論社:普及版)P312、足利季世記(三好記:改定 史籍集覧13別記類)P232など

8月2日 幕府方三好義継衆松永長頼、丹波国で戦死
※多聞院日記1(増補 続史料大成)P422、言継卿記3-P521

永禄10年 -------------------
2月3日 本願寺光佐、細川六郎昭元へ音信
※本願寺日記-下-P578

9月28日 公卿山科言継、細川昭元の押領について音信を受け取る
※言継卿記4-P172

12月23日 本願寺光佐、細川昭元へ音信
※本願寺日記-下-P581

永禄11年 -------------------
1月26日 本願寺光佐、細川六郎昭元へ音信
※本願寺日記-下-P583

9/月29日 幕府方三好長逸勢、摂津国芥川山城などの拠点が落ちて敗走する
※言継卿記4-P273、足利季世紀(改定史籍集覧 第13冊)P246、改訂 信長公記(新人物往来社)P86など

永禄12年 -------------------
3月20日 三好三人衆方細川昭元、丹波国人赤井直正へ音信
※兵庫県史(史料編・中世9)P6、近世公家社会の研究P37

3月23日 三好三人衆方丹波国人内藤貞虎、同国人赤井直正宿所へ宛てて音信
※兵庫県史(史料編・中世9)P6、戦国遺文(三好氏編2)P245

閏5月7日 三好三人衆方細川六郎(昭元)、丹波国人赤井直正へ音信
※兵庫県史(史料編・中世9)P6、戦国期歴代細川氏の研究P127

閏5月14日 三好三人衆内で喧嘩が起きる
※ 多聞院日記2(増補 続史料大成)P130

================= <年表おわり>


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