中家住宅主屋 |
奈良多聞山城の城門の遺構と伝わる石田家住宅を見学のため、奈良県生駒郡安堵町を訪ねたのですが、その隣の中家住宅が国の重要文化財で、この一帯の歴史的遺物の中心です。
当然、中世の頃は主郭に当主の屋敷がある、統一的な構造だったと思われますが、永い歴史の中で家名保存のために養子縁組などが行われて、同じ敷地内に二つの家系が置かれるようになったようです。
江戸幕末などの社会的な大混乱の中で明確な事はわからなくなっているようで、今は、縁続きではあるけども、別々のお宅になっているようです。また、石田家住宅は現在無住で、家の痛みが目立ちます。
内堀の様子 |
現在、外堀は途切れていますが、元は二重に囲まれていたらしい水堀で、江戸期に手を加えられているものの内堀はそのまま残っています。
また、その周囲には集落があり、そのまた外側は自然の川を利用した集落の結界、即ち、堀になっていたようです。
この中家は『中家の魅力(向陽書房)』によると、南北朝時代に足利尊氏に従って伊勢国鈴鹿郡から大和国へ入り、1339年(暦応2)12月に現在の窪田に定着したと伝わっています。この時、岡崎庄・笠目庄・窪田庄を幕府から領地が認められ、窪田対馬守康秀を名乗ったようです。
敷地内の中氏菩提寺「持仏堂」 |
この中氏は、筒井順慶など、その一族の大和国統一戦のために尽力するも、筒井氏の国替えには従わず、大和国に残って、それ以来今も現在の地に在るというわけです。
凄いです。
永禄9年春から始まった三好三人衆と松永久秀との戦いの時には、池田勝正も三好方として3,000〜4,000程の兵を大和国へ入れています。この時、筒井順慶は三好方として多聞山城などを攻撃していましたので、両者は友軍として軍議などでは顔を合わせていた事でしょう。
外堀の様子 |
この時中氏は、百姓としての身分が確定(決心)し、新たな時代を歩む事になったようです。既に被官を率いる程になっているため、自分の意思だけではなく、支える人々とも話し合って、土地に残る事を決めたのでしょう。
そして、時を経て近世には、庄屋や大庄屋としての役目を江戸幕府から命じられ、現在に至っています。
重要文化財中家住宅は、永い歴史が1カ所に積み重なっています。
窪田の集落の様子 |
是非一度、訪ねてみて下さい。
※施設の維持協力金として一人500円の入館料がかかるのですが、是非ご協力下さい。また、今もお住まいの個人宅ですので、予約の上で、訪ねて下さい。
参考:奈良県生駒郡安堵町役場中家住宅のページ
ちなみに、安堵町は中々交通事情の不便なところにあるのですが、それ故にこれ程の文化財が残ったとも言えます。すばらしい文化財を目の当たりにすれば、多少の不便さも吹っ飛びます。
それから、こちらのお宅でも10年程前に先祖伝来の鎧兜一式が盗難に遭ったのだそうです。犯人は捕まったそうですが、盗られたモノは戻って来ないのだそうです。こんなお話しを聞くたびに、本当に何とも言えない、涙の出そうな激しい怒りを覚えます。