気になっていたことを、備忘録として、また、自分の頭の中の整理として記事にしておきたいと思います。
どの氏族でもそうですが、一族内に様々な系譜を持ちます。長い歴史の中で主従関係も変わりますし、政治・経済・軍事など、様々な状況により、生き残りを計るための対外的な血縁関係を結ぶようになります。
史料から過程を追う上で、こういった要素もある程度は把握しておく必要があろうかと思います。離合集散の理由として、これらの血縁関係は必ずどこかで作用しています。
摂津池田家の系図は、5種類程あり、そこに血縁の情報も書かれていますが、この一番大きなブランド要素としては、河内国の楠木正行(その遺児が教正)につながる一派が居り、その縁で「正」の通字を用いるようになった可能性があります。
これについて、摂津国能勢庄の野間城主内藤満幸の娘と縁組みしており、池田氏が能勢郡木代・山田方面に史料があったり、余野の領主とも後に縁組みしたりして、能勢郡に非常に深く関わりをもつのは、能勢内藤氏との縁組みが関係しているのではないかとも思います。これについて、いくつかの系図の内、「池田氏系図」をご紹介しておきます。
ただ、野間城は近隣と比べても規模が大きかった事は明らかですが、城主が内藤氏であった事は、他の資料類では確認できず、更なる裏付けが必要だと思われます。
※池田市史(史料編1:原始・古代・中世)P131
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◎池田氏系図(続池田家履歴略記巻之四所収 題して美濃国三洞村医師野原良庵所蔵 池田御家系池田系譜とあり)
『教正』(池田十郎・兵庫頭)条:母摂州能勢庄住内藤右兵衛尉満幸女也。満幸仁勇之誉有るに依りて故判官の命に依りて満幸の娘楠帯刀左衛門正行に嫁す。正行戦死後楠左馬頭正儀、舎兄正行の室を父満幸の家に送る。故に池田教依に再嫁す。其の時教正の母(教依妻)摂州一萬貫を持参す。依って教依摂州伊丹に取出を(砦)を構う。其の後康安2年(1362)左馬頭正儀の勢と神崎之橋爪(?:場所不明)にて教正戦之武勇を顕す。永享元年(1429)10月18日卒。法号室光寺殿月厳宗照大居士。
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また、別の池田家の一派は、丹波波多野家とも関係しているようです。『細川両家記』にその事が、触れられています。
※細川両家記(群書類従20号:武家部)P593
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大永6年(1526)条:(前略)あくる12月1日、此の仁陣破れけり。然るに池田弾正忠は、波多野が甥なりければ、則ち彼の方へ裏帰り、河原林・塩川衆の退き口へ矢戦するなり。有馬殿道永(高国)方なるにより、此の人々有馬郡へ逃れけり。池田は我城へ帰り楯籠もり、今度伊丹は国の留守して、我が城にあり。京田舎の騒動斜めならず。然らば細川澄元方牢人摂津国欠郡中嶋へ切り入り也。三宅・須田あまり悦で、河を越し、吹田に陣取り。道永方伊丹衆・上郡衆談合して、…。(後略)
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『細川両家記』では、波多野氏と池田氏が血縁である事から、当初は細川高国方として参戦していた摂津国人池田氏が、波多野氏に与す細川晴元方となった、としています。
これについて、当時の史料により『細川両家記』の正確さが証明できます。高国奉行人の薬師寺国長が、摂津国勝尾寺年行事中へ宛てて音信しています。
※箕面市史(史料編2)P334
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池田従り相懸け兵粮云々。若し其の沙汰有る於者、一段曲事為るべく旨、御下知の旨に任せ、堅く申し付けられるべく候也。仍って状件の如し。
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高野山真言宗 頂應山 勝尾寺の山門 |
それからまた、丹波国の波多野氏と摂津国の池田氏が血縁である事については、後に池田家中から頭角を顕す荒木氏との縁とも繋がっていると考えられます。
そもそも丹波国人と思われる、この荒木氏は当初、酒造関連で摂津池田郷へ縁があったとも伝わっており、池田郷での最大の酒造家であった万願寺屋は、そのような成り立ちであったようです。万願寺屋は「荒城氏」であり、その墓群が大鹿妙宣寺(現伊丹市)にあります。
大鹿妙宣寺の万願寺屋墓 |
血縁というのは、前近代社会の中では、生きる中心とも言える必須要素であり、やはりこの点も、研究を続ける上では、常に意識しておかなければいけない事と思います。
追伸:因みに、最終的に畿内をほぼ手中に収める阿波の戦国大名三好長慶も当初は丹波波多野氏から嫁取りをしており、その後に離縁し、河内国守護代格の遊佐氏から嫁を取っています。そのせいか、波多野氏は離縁以降、長慶に一貫して頑強に抵抗しています。