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2016年4月9日土曜日

戦国時代の摂津国池田城と支城の関係を考える

どこで、どのように確認すれば良いのかわからないまま、個人的には「城」というのは、軍事・政治的に展開するためには、本城と支城で構成されている事が、必要不可欠であったと考えています。更に踏み込んだ言い方をすると、「郡」単位を支配領域に持つ、いわゆる戦国領主にとっても、それは当然の原理であっただろうと思います。

上は天皇から、下は名主・諸座構成員に至るまで、日本国中隅々に下達、また、徴集、動員を行うには、制度・仕組みが無ければ維持させる事ができません。これが機能していなければ、社会の永続はあり得ません。

そして、特に戦国時代末期の頃を見てみると、地域毎の特徴はあると思いますが、その中にも組織を維持する仕組みが無ければ、生きていけません。ましてや戦国時代ですから、「軍事」という直接的に生き死にをかけた行動も必要です。
 人間は、一人では絶対に生きる事ができず、必ず帰属しなければなりません。また、組織に属していても、それ以上に大きなチカラに対する時には、共同してそれに対処しようとします。
 人間が他の動物と違うところは、それを可能にする意思疎通・伝達能力を持つ事にあります。人間の歴史は、正にそれの記録ではないかと思います。

ちょっと前置きが長くなりましたが、そういう摂理から考えて、摂津国豊嶋郡を中心とし、近隣の数郡を支配下に置く池田氏ともなれば、本拠である池田城が単体で存立していたはずが無いと考えています。永禄11年秋には摂津守護を幕府から正式に任じられているのですから、その時点では既に、そういう規模と実力を持つ家だった事は間違いありません。
 池田氏と血縁関係にあったりする氏族の本拠地や支配地にある政所はもちろんの事、軍事的に必要な要地を領内各所に置いていた、と個人的には考えています。
 特に軍事的に、池田城の支城の事について考えてみると、『日本城郭全集』『日本城郭大系』『大阪府(兵庫県)の地名』が基本的な資料になるように思います。

一方で、池田という都市そのものの維持・増殖行動にも注目すべき点があるのではないかと思います。都市そのものの生態というか、都市が活力を持ち続けるための、主導者(役)としての池田氏の立場という要素もあったように思います。
 池田は街道を多く交差させる都市でもあり、それらと共存、また、利用する行動特性もあったと考えられ、日常的には産業・商業利用もされていたでしょうから、重要拠点にあたるところは、池田氏が縁組みするなどして、特別な関係を築いていたのではないかと思います。
 
その他、見聞きしたり、個人的に考えるところも加えて、以下に思索として、まとめてみたいと思います。前述のように、何を以て本城と支城の連携機能とするか、や範囲も難しいところですが、今は感覚的な部分も含めて、取りあえず池田城の支城群として上げてみます。その他、関係の深い周辺の村々や寺社を分けてご紹介したいと思います。
 これらは、北側は細河地域全域、南側の領域感覚としては、箕面川から北側の範囲。西側は猪名川を越えて、平井の段丘のあたりを想定しています。

先ずは、『日本城郭全集』『日本城郭大系』『○○(県名)の地名』に紹介されている城から見てみます。なお、出典は日本城郭全集が【全集】、日本城郭大系【大系】、○○(県名)の地名【地名】、自己調査【俺】、その他【書名・出典名】としておきます。

◎望海亭跡(池田市綾羽)
  • 望海亭の記

    摂津池田村に寺有り。大広と云う。前の総寺祥山禅師之を主る。師、目は雲霄を視、機は仏祖を呑み、曹洞下の老尊宿なり。其の俗譜を論ずれば、則ち日本国管領畠山源君の葭莩なり。華と謂ふべし。池田筑後の守藤充正、夙に師の風を欽び攸を相て創基せるもの、此の寺是なり。山を負ひ海に瀕し、殿宇翼如たり。而して亭を山頂に置き、偏して望海と云う。先に是余等持の官寺に居り、師某人を以て介と為し、亭記を作らんことを求む。夫れ望海楼なる者は、白傅の唐に於ける、東坡の宋に於ける、惟肖の本朝に於ける文は以て賑ひ、詩は以て貼る。千古の佳話なり。余未だ嘗て身ら歴て之を目撃せず、縦い其の萬が一を髣髴すと雖も、小社の阿房を賦すや笑ふべし。求むるに随ひ辭するに随ひ、茲に年有り。庚子のの夏、師適々事以て洛に入り、一日余が小補の斗室に訪ね、話次いで又亭記及び、求めて已まず。是に於て就きて亭の望海と為せし所以を詳らかにするなり。亭南に面し、南は乃ち滄海なり。而して天王の浮圖雲間に層出し、住吉の松原波底に鼓動す。東南に跨ぐ者三州、曰く紀、曰く泉、曰く河、斯に咽喉す。呉綾蜀錦、盬鐵銜艫相逐ふ者は、商売の往来なり。官租軍給、粟麥連檣絶えざる者は、行使のの運漕なり。紅粧翠蓋、盃盤狼藉、青蒻綠蓑、煙雨勃窣、太守水嬉を張くるなり。漁翁鈎瀬を下るなり。野老謳歌して水田漠々たり。市人言語して城府潭々たり。摂人の其の楽しみを楽しむなり。沙鴎翔びて岸柳暗く、宿雁驚きて渚蓮に飛ぶ。夜潮月を吹き銀山鐵壁前に粉砕し、海市雪を映じ、珠宮貝闕、上に湧現するが若きに至っては、亭上の四時なり。亭上の朝暮なり。之を欄檻の上に翫び之を袵席の間に接するは、蓋し偉観なり。余師の説く所を聞き、寸歩を移さずして此の亭に優遊す。紅塵の萬頃の滄波と為るか、滄波の十丈の紅塵と為るか、得て知らざるのみ。余に一説あり、洞上に最上乗の禅有り。名付けて寶鏡三昧と云う。嗚呼、水天際無く一波起らず、滄海は豈一面の寶鏡に非ずや、此の亭は豈一箇の鏡臺に非ずや。海中有る所の色像、豈胡来古現、漢来漢現に非ずや。師は此の三昧に入り、機に応じ物に接し、遠くは曹山の洞水を取り、近くは永平の峨山を取り、五位功勲、三種滲漏、皆鏡中より流出し、天を蓋ひ、四来の学者をして、此の光影を弄び、同に三昧を証せしむ。亦た大ならずや。言未だ既らずして師起ちて袵を斂め、亭記成れりと云う。
     文明12年6月吉日書す。前の等持 横川の叟景三。
     
    望海亭廃せられて既に久し。記も亦た其の原本を失う。星霜再び移らば、即ち名勝復た伝ふる由無し。故に旧圖に據り故趾を求め、石を建て記を勒し、以て不朽を要むと云う。
     古の深山の庵の跡をしも 千代まで見よと残す石碑
                            邑人 山川正宣誌
                            大阪 呉策書
    【池田郷土研究 第18号 大廣寺望海亭碑文小考:吉田靖雄】

◎池田城下の家老屋敷群(池田市旧市街地)
  • 一、今の本養寺屋敷ハ池田の城伊丹へ引さる先家老池田民部屋敷也 一、家老大西与市右衛門大西垣内今ノ御蔵屋敷也 一、家老河村惣左衛門屋敷今弘誓寺のむかひ西光寺庫裡之所より南新町へ抜ル。(中略)。一、家老甲■(賀?)伊賀屋敷今ノ甲賀谷北側也 一、上月角■(右?)衛門屋敷立石町南側よりうら今畠ノ字上月かいちと云、右五人之家老町ニ住ス。
    ※■=欠字
    【穴織宮拾要記 末(抜粋)】

◎八幡城:はちまんじょう(池田市伏尾町)
  • 伏尾の北方、東野山の山頂にある。東西南の三面を久安寺川に囲まれ、北方は低地で濠渠も形をしており、これを城山という。頂上に平坦地があり、周囲870メートル余、武烈天皇崩御の際、丹波国桑田郡にあった仲哀天皇5世の孫大和彦主命を迎えようとして、迎えの武士が桑田に向かったが、王は捕り方の兵と誤解、逃れて東能勢止々呂美の渓谷を下りて、東野山に来て住んだ。その後、1世の孫猪名翁に至って、行基菩薩を迎えて久安寺を建立した。
     後、承平天慶年間(931-46)、多田源満仲の家臣藤原仲光がここに館を築いて居住した。また、元弘年間(1331-33)には、赤松播磨守則祐はこの地に砦を設けて拠った事がある。【全集:八幡城】
  • 『摂陽群談』によれば、伏尾にある古刹久安寺(聖武朝神亀2年、僧行基開創)山内に築かれた山城で、多田満仲の臣藤原仲光が在城と伝える。遺跡は東野山山頂部にあり、土壇が存在したという。【大系:八幡城】
  • 吉田村の北東にあり細郷の一村。北東は下止々呂美村(現箕面市)。村のほぼ中央を久安寺川(余野川)が南流し、並行して余野道(摂丹街道)が通る。村域のほとんどは山林で、集落は街道沿いに点在する。「摂津名所図会」には「寺尾千軒」と称したとあり、久安寺を中心に発達した村であることを伝える。慶長10年(1605)摂津国絵図には伏尾村と久安寺門前村が記される。元和初年の摂津一国高御改帳では、細郷1745石余のうちに含まれ、幕府領長谷川忠兵衛預。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では石高264石余で幕府領。以後幕府領として幕末に至る。なお享保20年(1735)摂河泉石高帳に久安寺除地17石余が記される。高野山真言宗久安寺・同善慶寺がある。善慶寺は宝暦4年(1754)播州加古川の称名寺内に創建されたが、のち現在地の久安寺宝積院の旧地に移ったものである。【地名:伏尾村】

◎東山砦(池田市東山町)
  • 中河原村の北東にあり、細郷の一村。村の西部を久安寺川が南西流し、ほぼ並行して余野道(摂丹街道)が通る。村域の東部は五月山に連なる山地で西部に耕地が広がる。慶長10年(1605)摂津国絵図に村名がみえ、元和初年の摂津一国高御改帳では、細郷1745石余の幕府領長谷川忠兵衛預に含まれる。以後幕末まで幕府領として続く。村高は寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳によると541石余。植木栽培が盛んであった。曹洞宗東禅寺は、行基創建伝承をもち、慶長9年僧東光の再興という。真宗大谷派円成寺は天文14年(1545)西念の創建という。【地名:東山村】
  • 正棟-池田民部丞、属足利義澄公、忠信篤実無二心、永正5戊辰年夏、大内義興、細川高国等、攻池田城、正棟固守数日、防之術尽城陥、于時託泰松丸、貽謀正能父子、隠同国有馬谷、5月10日正棟登城自殺、東山密葬、謚円月光山居士 ○正重-池田勘右衛門、後号監物、民部丞、生害之時、与母共父之首隠、従城裏山伝移東山村、大山谷之口山林埋葬、密請僧吊、隠住山脇源八郎。【山脇氏系図:昭和26年7月 林田良平假写】
  • 第十代城主池田知正は勝正の弟で久左衛門、のち民部丞を経て備後守となった。(中略)。知正は嗣子がなかったので、弟光重の子幼名於虎丸の三九郎を養子にしていた、知正歿後三九郎が家督を継いで豊臣秀頼に仕えたが、慶長10(1605)年7月28日僅か18才で歿した。大広寺に墓が残る。
     知正の弟光重は、弥右衛門と称した、知正、三九郎相次いで歿したので、東山村にいた光重がその家督を継ぎ、秀頼に仕えて備後守となった。(後略)。【城主池田氏略記:林田良平】
  • 東山村は、細郷六ヵ村(伏尾・吉田・東山・中河原・古江・木部)の中では最も大きな石高を持ち、集落も最も大きい。また、地理的にも、五月山の北側の斜面の守りで、山上の尾根道へ繫がる何本かの山道を持ち、ここからは比較的緩やかに上る事ができる。更に、村の眼下を走る摂丹街道、北の水平方向には妙見街道がよく見える。
     池田城の裏を固め、重要街道を押さえるためには、東山村は非常に重要であったため、ここの有力者山脇氏と池田氏は深く結びついていて、池田姓を名乗る一族扱いであった。伝承や言い伝えでは、最後の自主的な池田氏の当主知正と東山村に居た光重は兄弟であったとしている事から、知正も山脇系池田氏だったのであろう。重要な地を得るため、池田家中から血の濃い人物が山脇氏と姻戚関係を持ったのだろう。
     そんな環境にあるので、東山村自体が館城のように機能していたと思われ、村の中央には広場のような場所(クルマのすれ違いのために近年拡げられたらしいが...)もあって、独特の構造ももっているように見受けられる。村そのものも大きく、細郷の中心的な村でもあった。もっとも、村同士の交流はあまり無いらしいが...。【俺】

◎木部砦:きべとりで(池田市木部町)
  • 天文年間(1532-54)に池田氏が拠った所といわれている。池田市の北方にあり、阪急バスにて池田駅より約7分で行ける。ここは古くは城辺(きべ)という地名で呼ばれており、今は田圃になって見るべきものはないが、「城ヶ前」「土居」と呼ばれる高地があって、土地の人はこれを城地であったと伝えており、周囲およそ100メートルばかりの地である。【全集:木部砦】
  • 城ヶ前・土居という地名があるが、遺構は全く残っていない。『摂津志』は神田・今在家・利倉等の諸砦と共に天正6年の織田信長による荒木村重討伐と関わらせているが未詳。【大系:木部砦】
  • 池田村の北にあり、細郷の一村。村の東部は五月山の山麓にあたり、西部に耕地が広がる。西側を猪名川が南流し、村の西辺で北西辺を南西流してきた久安寺川を合流する。池田村より北上してきた能勢街道は村の西部ほぼ中央で余野道(摂丹街道)を分岐。集落は能勢街道沿いに点在、とくに池田村に近い地は木部新宅と称し、町場化していた。慶長10年(1605)摂津国絵図に村名がみえ、元和元年の摂津一国高御改帳では細郷1745石余の幕府領長谷川忠兵衛預に含まれる。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では村高275石余で、うち仙洞御領89石余・幕府領185石余、元禄郷帳以降はすべて幕府領。享保17年(1732)の家数63(うち屋敷持本百姓45・水呑6・借屋8・寺2・庵2)・人数329、牛12(下村家文書)。木部新宅は、宝永6年(1709)12軒の建家が認められたのに始まる。享保10年には16軒に増えていたが、4軒の取払いが命じられた。しかし、嘆願によって草履・草鞋・煮売り以外は営業しないという条件で仮小屋が認められた。寛政3年(1791)には、木部新宅の魚屋3軒が池田村の魚屋株仲間から訴えられ、廃業させられるという出入も起こっている(下村家文書)。当地は池田村への北からの入口にあたるため、池田商人との争いを繰り返しながらも町場化が進んでいった。紀部神宮・臨済宗妙心寺派超伝寺・曹洞宗永興寺・曹洞宗松操寺がある。【地名:木部村】

◎神田砦:こうだとりで(池田市神田)
  • 神田の東方、小字菅井にあり、今は田畑あるいは宅地となっている。地名は城垣内の名を残している。天正年間(1573-91)、池田城主勝正の甥池田備後守が居住していた。池田城陥落の後も備後守は当城にいたが、慶長9年(1604)3月18日、卒去してより廃城となった。【全集:神田砦】
  • 城垣内の地名を残すが、遺構は全く存しない。『摂津志』では「神田今在家に堡は倶に池田氏保之」とし、『大阪府全志』では「天正年中池田勝正の臣池田備後守の守」る所とし、備後守死去の慶長9年3月18日以降、放棄されたとする。また、『北豊島村誌』では、池田弥右衛門尉光重の拠った所とするなど、諸説あるが、なお未詳。【大系:神田砦】
  • 八坂神社は、猪名川左岸、早苗の森に鎮座。祭神は素戔嗚尊。旧神田村社。(中略)。神宮寺であった常福寺蔵の慶長16年(1611)の奥書のある清光山常福寺縁起によると天元元年(978)の創建。社伝によると、天正7年(1579)織田信長の伊丹城攻撃の兵火にかかり焼失、それ以前は不明という。慶長15年、池田豊後守光重がその嫡子の成人を祝って当社を再建、現存の本堂はその時に建立されたもので、一間社流造、檜皮葺の桃山時代の様式を伝え、国指定重要文化財。(後略)。【地名:八坂神社】
  • 常福寺は、高野山真言宗。清光山と号し、本尊は千手観音。慶長16年(1611)の奥書を持つ清光山常福寺縁起(寺蔵)によると、天平3年(731)の開創で、行基が自作の千手観音を安置したという。当寺二世の海然大徳は、真言密教を極め、種々の法験を示したといい、寺伝によるとその法験によって天元2年(979)現在の八坂神社の祭神(縁起は牛頭天王とする)が降臨したという。その後、同社の神宮寺として隆盛したようで、長徳4年(998)一条天皇は勅願所とし、現寺号を下賜。承保2年(1075)白河天皇は源頼義に命じ、正安3年(1301)には後伏見天皇が北条貞時に命じてそれぞれ堂宇を修補させたという。天正6年(1578)10月、伊丹城の城主荒木村重が織田信長にそむいた時、常福寺衆徒は荒木氏に同心し籠城との流言が広まったため、翌7年寺領没収され、堂舎も焼き払われた。その復興に尽力したのは池田備後守光重で、慶長11年本堂が再建され、以後仏供料として50石下付したという。寺蔵文書中に慶長7年3月17日付けの光重自筆除地免状がある。慶長15年の棟札(「池田市史」所引)には珠徳院・西之坊・玉蔵坊などの支院がみえるが、江戸時代には玉蔵院・珠徳院・西福院があった。玉蔵院は明治37年(1904)新潟に移り、他の二院は同41年当寺に合併された(大阪府全志)。境内北の土蔵前に「願主 右衛門尉藤原景正 正応六」と刻した花崗岩製宝篋印塔の基礎があり、当寺梵鐘は天和2年(1682)の黄檗僧高泉の銘がある。(後略)。【地名:常福寺】

◎今在家城(池田市豊島南)
  • 北今在家の西南にある。天文より天正年間(1532-91)まで、池田城の支城として池田氏の一族が守備していた。【全集:今在家城】
  • 城の内・城の淵という地名があるが、遺構はまったく残っていない。『摂津志』に「神田今在家に堡は倶に池田氏保之」とあり、天正6年の織田信長による荒木村重討伐と関わらせているが未詳。【大系:今在家城】
  • 神田村の南東にあり、東は轟木村。西は川辺郡下河原村(現兵庫県伊丹市)。村のほぼ中央を西国街道(山陽道)が東西に通り、村の西部で南西流から南流に方向を変えた箕面川と交差する。19世記初頭の山崎通分間延絵図に、この辺りの箕面川に「平日水ナシ」と記され、橋も架けられていない。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳によると村高561石余で、うち392石余が麻田藩領、259石余が旗本船越三郎四郎永景領。麻田藩領は元和年間(1615-24)以降のことで、幕末まで続く。船越領は慶長4年(1599)以来と推定され、寛文10年(1670)にはうち209石余が分家三郎四郎景通に分知され、以後当村は麻田藩・船越本分家の相級地となり、幕末に至る。なお、享保20年(1735)摂河泉石高調は、麻田藩領を東今在家村、船越本分家領を西今在家村と記す。東今在家村については「摂津名所図会」にもみえ、行政村としてではなく、東西の今在家村の区別があったと思われる。(後略)。【地名:今在家村】

◎西市場城(池田市豊島北)
  • 西市場にあって、東西180メートル、南北157メートル、周囲700メートルの地域が城址で、現在は畑地あるいは宅地となって、なんら見るべきものはない。しかし、地形やや高く、南北西の三面に水田を巡らして暗渠の状をなしている。土地の人はこれを堀と呼んでいる。当城は、観応年間(1350-51)、瓦林越後守が築いて拠った城地という。【全集:西市場城】
  • 『北豊島村誌』には「西市場の西、役場の北方、現在”濠”と呼ばれている一段低く細長き田によって囲まれている地がそれか」とあり、周濠を回した館城かと思われるが、現在ではまったく消失。『摂津志』には「瓦林越後守所拠」とあるが、その歴史については未詳。【大系:西市場砦】
  • 神田村の東にあり、村の南側を箕面川がほぼ西流。(中略)。元文元年(1736)成立の豊島郡誌(今西家文書)によると、当村にある市場古城に観応年間(1350-52)瓦林越後守が拠ったという。地名は中世の定期市に由来すると考えられるが史料上の確認は得られていない。(後略)。【地名:西市場村】

◎豊嶋中之島城?(池田市住吉)
  • 西市場村の東にあり、村の北境を箕面川が南西流する。元和年間(1615-24)以降、麻田藩領。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳によると村高70石余。溜池に寛永14年築造という丁田池があった。浄土真宗本願寺派の正光寺がある。【地名:中之島村】
  • 以前、2001年に「池田中之島城?」として記事を書いたが、その頃は核心に至らず、提起的な形で文を終えた。それを今の時点で再び取り上げてみたい。その記事の中でも触れているが、中之島村は、江戸時代の後半に村を移動して現在地にある。元あった場所は、轟木村の北側の箕面川の脇(あられのトヨス工場付近)で、ここが度々水害の被害を受けるので、より高地の現在地に村を移した。
     この場所は、待兼山の丘陵が標高を下げながら、西に張り出した台地の西端に立地する。中之島村にある正光寺は、陸軍参謀本部陸地測量部の明治18年の輯製図では、村の北側に独立的に描かれている。
     ちなみに、江戸時代になると、西国街道周辺の池田市南側にあった村は、ほとんどが麻田藩領となって、池田村と切り離されてしまい、文化的な分断が永年続いた。
     それらの事を併せて考えると、旧地に城があったかどうか検討すると、水害被害を受けやすい場所に常設の軍事的拠点を作るかどうかは若干いぶかしむところがある。また、西市場城・今在家城との位置関係が近すぎるように思える。
     しかしながら、地図をよく見ると、稜線が続く部分に人工的な方形に加工されたような50メートル四方の場所があるので、ここを少し高くして、施設などをそこに備えていたとすれば、その目的としては、北側にある才田村(出在家村)・尊鉢村からまっすぐ南へ伸びる道に対するものだったかもしれない。この道は、能勢街道から石橋村を経ずに、小坂田村や原田村へ通じる幹線でもある。
     一方、正光寺の位置に城跡があった場合は、東市場村を意識し、そこへの道に対する目的があったのではないかと思われる。
     もし、西市場・今在家・中之島に城があった場合、今在家と中之島は、箕面川の南にあって、防御力としては低くなるが、2つの城で相互補完する目的があったかもしれない。そういう観点では、城を作る理由は無くも無いだろう。また、関所や管理施設も兼ねたような、政治的な意味合いを持った、施設だったかもしれない。どちらの推定地も左程の距離は無く、東西に300メートル程の差である。どちらにあったとしても、目的は変わらないだろう。【俺】
    ※参考ページ:池田城関係の図録(池田中之島城?)

◎加茂城(川西市加茂)
  • 加茂城は旧加茂村字「上加茂」にある。一帯に「城屋敷」「城垣内」などの小字名があり、伝承では荒木義村(吉村)の居城という。義村は「荒木系図」によると、村重の父で、信濃守を称し、摂津池田六人衆の一人であった。天正6年(1578)に荒木村重が有岡城に籠もった時、織田信長がこれを攻めるため、嫡男の三位中将信忠をここに配置したと『信長公記』にある。そして信忠転戦後の翌年4月には、塩川国満・伊賀七郎・伊賀兵左衛門らがこれを守っていた。【大系:加茂城】
  •  栄根村の南、最明寺川下流域の大地上に古くから開けた上加茂村と、東部の猪名川沿い平地部の下加茂から成なる。(中略)。上加茂にある中世城館の跡は、加茂城とよばれ、付近に城屋敷・城垣内などの字が残るが、遺構は残らない。伝書では荒木義村の居城という。義村は村重の父とされる。天正6年の有岡城攻めの時に「賀茂」は織田方の付城の一つで、当初は織田信忠の陣所となるが、翌年4月には塩川国満・伊賀七郎・伊賀平左衛門らが入城している(信長公記)。【地名:賀茂村】

◎原田城(豊中市原田元町)
  • ただいま編集中。少々お待ち下さい。