2023年3月18日土曜日

江戸送り酒の産地は西宮から灘へ

より大量に、より早く、を求められる時代の到来と、幕府政策により、江戸時代後半には、江戸積酒造体制の産地構成が変化します。初期の頃は、池田郷が独占状態でしたが、次第に生産地が増えていきます。それらは生産品の輸送に都合がいい、西宮から灘地域にかけて生産地活発になっていきました。
 時代により、味の嗜好も変わりますし、社会の経済情勢、商品供給の事情など様々な変化が起こります。そしてまた、幕府の酒造統制という政策にも依りました。
 1754年(宝暦4)には、徳川幕府が「勝手造り令」を出し、酒造業の奨励を行いました。この流れで、灘や今津の酒造が発展することとなりました。下落していた米価を引き上げる事を目的としていました。

「荒牧屋」は、この流れも上手く掴み、地の利もあって、既に酒造産地となっていた西宮からもそう遠くない、新興酒造地灘・魚崎へ進出する事になったようです。
 ただし、生産場所を変えるだけでは、産業が成り立ちません。流通の整備も同時に行う必要があります。原料の調達、製造した製品の出荷のための港など、一体的な環境が必要です。1717年(享保2)の酒造家として創業(初代山邑太左衛門の名乗り)は、諸事を整えての事であったはずです。
 一方で、元禄期以降の日本経済は下降傾向にあり、コスト削減策としても輸送の利便性の高い場所を求めたという可能性もあります。

 

摂泉十二郷の江戸積入津樽数


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