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2023年11月21日火曜日

摂津国河辺郡にあった次屋城(現兵庫県尼崎市次屋)についての考察

偶然に通りかかって、それから気になって調べてみました。潮江などについては、池田勝正研究の関係で、時代的な流れだけは、ザッと知っていました。しかし、それ程の関心を持っていた訳ではありませんでした。通りかかった事で、急に思い出し、急に興味を持ちました。備忘録的にちょっと、次屋城の項目を作っておきたいと思います。引用です。
※兵庫県の地名1-P470(次屋村の項目)

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◎次屋村(尼崎市次屋1-4丁目・下坂部3丁目・浜3丁目・潮江2丁目・西川2丁目)
下坂部村の南東に位置する。天文5年(1536)3月26日、摂津中嶋(現大阪市淀川区)の一向一揆が尼崎方面の細川晴元方の軍勢を破り、「次屋の城」に籠城していた晴元方伊丹衆は、城を明け渡した(細川両家記)。慶長国絵図に村名がみえ高615石余。元和元年(1615)池田利重領、同3年尼崎藩領となる。寛永20年(1643)青山氏のとき分知により旗本青山幸通領となり明治に至る。陣屋が置かれた時期もある(尼崎市史)。元文3年(1738)代官安東茂右衞門の苛政に抗議して逃散、源十郎・佐兵衛ほか3人に過料銭100石につき10貫文が科せられた(尼崎市史・徳川禁令考)。用水は猪名川水系大井掛り(「水論裁許状」西沢家文書)。明治12年(1879)調の神社明細帳によれば次屋村・浜村立会陣屋所に伊弉諾神社がある。同15年の戸数78・人口334(県布達)。
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とあって、次屋村には、江戸時代に陣屋が置かれたこともあるらしいです。もしかして、城跡をこの時に再利用した可能性もあるでしょうね。
 そして、戦国時代の軍記物でありながら、最近は史料的価値が見直されつつある『細川両家記』を見てみます。
※群書類従第弐拾号(合戦部)『細川両家記』(天文5年の項目)

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3月26日に摂津国中嶋の一揆衆(残存抗戦派本願寺勢)富田中務 一味して、摂津国河辺郡西難波に三好伊賀守連盛・同苗久助長逸両人の人数楯籠もるを責め落とす也。長屋岸本(意味は不明。次屋?)腹切りぬ。40計り討ち死にす。然らば伊丹衆楯籠り次屋の城もあくる也。同椋橋城(現大阪府豊中市椋橋)三好伊賀守も明くる也。然らば木澤左京亮長政をたのみ大和国信貴城へ越されける也。
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この時は、管領細川晴元方の有力勢力として、池田衆も伊丹衆と共に積極的に活動していましたので、この一連の動きは、池田衆も関与していたと考えられます。
 また、この文中に出てくる「長屋岸本」とは、もしかして「次屋」ではないでしょうか?この人物が討ち死にしたために、その本拠の次屋城も落ちた可能性もあります。地元の人間が、案内役として出向いた先で戦死する事は、事例として多々見られます。
 参考までに、もう少し前の時代の事例ですが、永正年間(1504〜21)の細川澄元と細川高国の管領争いの折にも、この辺りで交戦が盛んにありました。『細川両家記』では、両軍ともに「潮江」に陣を度々取っています。潮江の集落は、次屋の西隣ですので、この頃は潮江が主たる立地だったのでしょう。ひとまとめに「潮江」としている場合もあります。
 そして、その次屋城の跡地と推定されているのが、現在は「城の後公園」となっているところです。これについて、『日本城郭大系』には短く記述があります。
※日本城郭大系12-P556

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『細川両家記』などに、その名がみられる。字「土井ノ内」の北隣が「城後」。
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さて、明治時代初期の地図(陸軍参謀本部:陸地測量部仮製図)が、精密地図としては一番古く、その後、三点測量による地図が明治時代後期にできあがります。その地図を見ると、何となく城の輪郭が見えるように思います。高低差があります。今の「城の後公園(字「土井ノ内」の北隣が「城後」(現尼崎市次屋1丁目18:城の後公園))」は、ほんの一部だけが残っていますが、現在も公園内は周辺道路よりも1メートル程高い位置にあります。多分、宅地造成の時に整地などで削ったりしたいと思いますが、その前の時代は田んぼで、その時に随分改変されたのだと思います。空襲の被害もあったかもしれませんが、復興期を経て1960年代には、宅地化されているようでう。

次屋の西側(1キロメートル程)には、神崎村があり、ここは川港で、関所も置かれていました。猪名川と神崎川の合流点で、有馬街道や大坂道とも交差していました。加えて、西国街道とは別に、中国街道も通していました。陸から川から海から人と荷物が行き交う要衝でした。
 次屋は、尼崎と塚口の中間点にあり、塚口の更に北には、大都市の伊丹・池田郷がありました。平野部から沿岸部への入口として、独特の地位を保っていたのでしょう。

 

仮製図に記された次屋村の様子(赤枠が城跡推定地)


1909年(明治42)測量時の次屋村(赤色枠内黒色長方形は公園の位置)


字「土井ノ内」の北隣が「城後」(現尼崎市次屋1丁目18:城の後公園)


字「土井ノ内」の北隣が「城後」(現尼崎市次屋1丁目18:城の後公園)


字「土井ノ内」の北隣が「城後」(現尼崎市次屋1丁目18:城の後公園)


2022年10月14日金曜日

摂津池田家惣領家(筑後守)の幼名は「太松丸」である可能性

数年間、サボっていた調べ事も、最近また、気持ちが向くようになり、このやりかけた調べ事をなんとか終わらせて、後世の役に立つカタチにしなければと思うようになりました。
 自分自身の興味を書き綴り、自分の頭の中を整理しつつ、皆さんに紹介するというスパイラルを作るのも、良いように思います。

さて、今回は、池田家惣領家系の筑後守の幼名は「太松丸」読み方が判りません。「たしょうまる」でしょうか。「たしょうがん」という薬みたいな呼び方では無かったとは思います。さて例えば、こんなシーンを想像してみましょう。
 小さな子が、何か良くないことをしようとして、その親が声をかけます。「これ、ふとまつまる(太松丸)!」...。ちょっと違う気がします。一方、「これ、たしょうまる(太松丸)!」これならシックリ来るような気がしますよね。こんなのファンタジーの世界ですが...。

近年すっかり、馬部隆弘先生のファンになり、色々と論文を読んでいます。馬部さんは凄いです。もの凄く深い。そして広い。私がこれまでに疑問に思って放置していたことが、馬部先生のお陰で、次々と解け、目が覚め、暗闇で光を見るような心地です。

そんな喜びに包まれる中で、この気付きも永年の疑問にヒントを与えてもらった要素の1つです。史料を三つご紹介します。
※以下それぞれの史料中、「太松丸」の記載は赤色文字で強調表示してあります。

--(A:永正5年(1508)8月10日)----------------------------
毎々申し遣わし候。其の方儀、油断無く相調えられるべく事肝要候。此の方の事は、別儀無く候。猶与利弥三郎(不明な人物)申すべく候。謹言。
※細川六郎澄元、摂津国人三宅出羽守、宿久若狭守、瓦林九郎左衛門、原田豊前守入道、福井三郎、池田太松丸、芥河豊後守入道宛の音信
【出典】新修広島市史6(資料編 その1:知新集)P222、戦国期細川権力の研究P207
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--(B:天文17年(1548)6月29日)----------------------------
一、大門役 波多野孫四郎・香西越後守、一、小門役 芥川孫十郎・山中橘左衛門尉、一、裏門役 池田太松丸、一、楽屋奉行 山中新佐衛門尉、一、惣奉行 塩川伯耆守・三好宗三、一、御進物奉行 飯尾上野介・茨木伊賀守、一、供物奉行 垪和道祐・高畠伊豆守・田井源介・平井丹後守・波々伯部伯耆守、一、御膳奉行 波々伯部伯耆守・中條五郎左衛門尉、一、諸衆相伴 波多野孫四郎・長塩民部丞、一、御走衆相伴 山中新左衛門尉、一、侍雑司相伴 豊田弾正忠、一、御酒奉行 安久良紀伊守・筒井神介・穂積右衛門尉、一、蝋燭奉行 吉阿、一、御折奉行 平井丹後守・飯尾越前守、一、御茶湯(御前) 伊阿、一、惣茶湯 残り同朋衆(但今度者御寺の、以下欠)、一、灯台請取 作阿・慶阿、一、年行事 長塩民部丞・柳本孫七郎、一、御成門 飯田蔵人・撫養掃部助、一、官女間 安成若狭守・秋山勘解由左衛門尉、一、兵庫間、嶋田若狭守・中村加賀守・第十加賀守、御対面所 澤田新左衛門尉・鶏冠井六介、一、十八間 波々伯部源五郎・望月太郎左衛門尉、一、三間 入江四郎左衛門尉・中村式部丞・山本与四郎、一、屏中門番 藤岡三河守・原田孫九郎・待井孫七郎・竹田六八・中澤与五郎・竹田修理亮・今井八郎左衛門尉・石柴左京進・藪田左馬允・友成与五郎。

【出典】戦国期細川権力の研究P443、続群書類従35(武家部)P221(『天文(十)七年細川御成記』「御成役者日記」条)
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--(C:天文17年(1548)8月12日)----------------------------
急度申せしめ候。仍て同名越前守入道宗三(政長)礼■次、恣に御屋形様の御前を申し掠め諸人悩まし懸け、悪行尽期無きに依り、既に度々於、上様御気遣い成られ次第淵底御存知の条、申し分るに能わず候や。都鄙静謐に及ぶべく仕立て之無く、各於併面目失い段候。今度池田内輪存分事、前筑後守(信正:宗田)覚悟、悪事段々、是非に及ばず候。然りと雖も一座御赦免成られ、程無く生涯為され儀、皆々迷惑せしめ候処、家督事相違無く仰せ付けられ太松条々跡目の儀、安堵せしめ候き。然る所彼の様体者、三好宗三(政長)相拘い渡し置かず、今度種々儀以って、城中(池田)へ執り入り、同名親類に対し一言の■及ばず、諸蔵の家財贓物(ぞうもつ:隠す・賄賂を受け取る・盗んだもの・不正手段によって得た物)相注以って、早や知行等迄進退候事驚き存じ候。此の如く時者、池田家儀我が物にせしむべく為、三好宗三掠め上げ申し儀、筑後守信正生害せしめ段、現行の儀候。歎き申すべく覚悟以って、三好宗三一味族追い退け、惣同名与力被官相談じ、城中堅固の旨申す事、将亦三好宗三父子に対し候て、子細無く共親(外舅)にて候上、相■彼れ是れ以って申し尽し難く候。然りと雖も万事堪忍せしめ、然るに自り彼の心中引き立て■■の儀、馳走せしむべく歟と、結局扶助致し随分其の意に成り来り■■今度河内国の儀も、最前彼の身を請け、粉骨致すべく旨深重に申し談、木ノ本に三好右衛門大夫政勝在陣せしめ、彼の陣を引き破り、自ら放火致して罷り退き候事、外聞後難顧みず、拙身(三好長慶)を相果たすべく造意、侍上げ於者、言語道断の働き候。所詮三好宗三・政長父子を御成敗成られ、皆出頭致し、世上静謐候様に、細川晴元方近江守護六角弾正少弼定頼為御意見預るべく旨、摂津・丹波国年寄衆(大身の国人衆)、一味の儀以って、相心得申すべくの由候。御分別成られ、然るべく様御取り合い、祝着為すべく候。恐々謹言。

【出典】戦国遺文(三好氏編1)P79など
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(A)の史料は、細川六郎澄元が、摂津国人三宅出羽守、宿久若狭守、瓦林九郎左衛門、原田豊前守入道、福井三郎、池田太松丸、芥河豊後守入道へ宛てて音信したものです。
 この時期、管領細川氏家督を巡り、激しい内部闘争を繰り広げており、細川澄元方として池田城を頼み、籠城していたのですが、池田家中の有力者で同族の遠江守正盛が、寄せ手の細川高国方に内通したため、池田城は陥落しました。城主(惣領)である筑後守貞正は、切腹して果てました。
 しかし、嫡子や妻など近親者は落ちのびています。この筑後守嫡子(太松丸)など、澄元方の摂津国人に宛てて細川澄元本人が、池田城陥落直後に音信しています。

(B)の史料は、天文17年6月に将軍義晴が、管領細川晴元邸を訪ねた時の記録です。
 この頃、管領細川晴元(澄元嫡子)が、側近の三好政長の讒言を真相確認をせずに聞き入れ、晴元の中心でもあった、この当時の池田家当主、筑後守信正を切腹させてしまいます。突然の切腹で、思い通りの後継者も育っていない中で、、急遽、惣領として立てられたのが「太松丸」でした。筑後守信正は、晴元邸で切腹させされており、その晴元邸に将軍義晴が訪問するという伝統的示威行事に、太松丸は晴元の近臣としての役目を課されていました。その時の記録です。

(C)の史料は、天文17年8月、三好筑前守長慶が、細川右京大夫晴元奉行人塀和道祐・波々伯部左衛門尉元継・高畠伊豆守長直・田井源介長次・平井丹後守直信へ宛てて音信したもので、長慶が定頼に、三好政長の排除を求めたものと考えられています。
 この一件の真相は、娘を池田信正に嫁がせており、三好政長は姻戚上の義理の父の立場にありました。それを理由に、非常に裕福であった池田家の財産を我が物にしようとする素行があり、日頃から晴元の権力を利用して、池田家の権利などを掠め盗る動きがあったようです。
 これに耐えかねた池田家中は、同じ管領格の細川氏綱(高国弟)が台頭してきた事から、そちら側に未来を見出して離叛します。自衛措置とも言えるでしょう。しかし、タイミング悪く、その行動(蜂起)は鎮圧されてしまいます。信正は、これまでの貢献も考慮して、一度は赦免されたものの、責任を問われて切腹を命じられます。
 この晴元の行動に対して、この当時から重すぎるとの批判があり、摂津国人衆の間で波紋が拡がっており、晴元権力に対する大規模な反発が起きました。これについて、三好政長の同族であった三好長慶が、細川晴元の義父である近江守護六角定頼へ訴え出た時の史料です。

これらの史料により、惣領筑後守家に家督の問題が起きた時には「太松丸」の名が見られる事がわかります。ただ、一応は嫡子での相伝ではあるのでしょうが、その基本を守れない場合には、養子での血縁維持を行っていたのかもしれません。「太松丸」の名乗りは、父母が必ずしも一致せず、その時の事情で襲名するという可能性もあるのかもしれません。
 また、父親が同じでも母親が違う、いわゆる「腹違い」といった情況もあると思います。

それはさておき、この場合の家督選定は、晴元の信頼厚い三好政長の血縁に近い人選を強要されたと考える事は、不自然では無いように思います。不本意ながらも要求された条件を受け入れたにもかかわらず、池田家からの希望を受け入れなかったと、この文面から読み取れるように思います。その後、世論の支持と三好長慶の保護もあり、池田家中は三好政長の一派を池田家から追放しています。
 更につけ加えるならば、当主と一心同体化した、官僚機構(この事態で、もう一つの権力体となった)であった池田四人衆が、家政体制護持のために、別の家督適格者(孫八郎:遠江守家系か)を立てて、「太松丸」擁立派池田長正と対立して、暫くの間、対立構図が続きます。双方に正統を名乗る勢力が並立する期間が出現します。

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上京の右京大夫・典厩屋敷付近(2017年撮影)

2013年7月12日金曜日

三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その2:池田筑後守信正(宗田)について)

池田筑後守宗田(信正)は、管領細川右京大夫晴元に重用され、その政権を支える国人の一人でした。各地の守護も政権を支える大きな力となってはいましたが、国人はそういった地域の枠を越えて、江戸幕府でいうところの「旗本」のような、守護を通さずに直接指示を受けるような事もあったようです。

ですので、宗田(信正)は京都に屋敷を持ち、管領と行動を共にしていたようです。将軍への毎月の挨拶などの行事には宗田(信正)の名前が見えます。更に信正は、将軍からも直接的に音信(指示)も受けるようにもなっており、「御内書」などをしばしば受けています。摂津・河内・山城・近江・丹波など、京都周辺の国々では特に、そのような傾向があったようです。
 また、それらの事が常態化すると、外聞的にも身分を整える必要があり、信正は天文8年6月に「毛氈鞍覆・白笠袋」を許されます。これは、格式ある大名のみに許された栄典ですが、室町末期には乱用されていたようです。しかし、社会的な効力はある程度持っていたようです。

ちなみに「宗田」とは、隠居(現代感覚とは違う)後に名乗った入道号で、それが法名ともなったようです。また、「宗」を使う所が三好宗三一統と何らかの共通性を感じます。今のところ、その理由について、はっきりはしていません。

それからまた、細川晴元は阿波国出身であったため、これを支えるために同国の武士が代々側近として取り立てられていたのですが、その大きな勢力が三好一族でした。そのリーダー的存在であったのが長慶と政長でした。
 時が経つにつれて、長慶は独自の理念を持つようになり、人望も得るようになります。それと対象的な運命を辿るのが晴元と政長です。
 こうなると両派は対立するようになり、政権内で武力衝突も起きるようになります。それが中央政権での出来事であったために、断続的に京都も戦火に包まれるようになります。
 不幸にして摂津池田家は、この闘争の中心に置かれる事となり、更に不幸だったのは、政長方につながりを強くしていた事です。
 
以下、前回のように、主な要素を抜き出してみます。

◎天文15年 9月3日
池田信正が細川晴元方から離反する。
◎天文16年 6月25日
池田信正、細川晴元に降伏。僧体となり恭順し、入道号を「宗田」と名乗る。
◎天文17年 5月6日
池田信正、細川晴元から切腹を命じられる。
◎8月12日
三好長慶、三好宗三による摂津池田家への非行を細川晴元へ訴える。
◎10月28日
三好長慶、反細川晴元方として三好宗三嫡子政勝を攻める。

池田信正は細川晴元に取り立てられ、その事もあって大いに家運が開けたのも事実です。しかも、晴元の信頼厚かった三好政長と縁続きになった事で、更に安定の裾野が広がったかに思われたのですが、時代や人自身の変化もあり、思うような繁栄の未来は見出せなかったようです。
 信正にとっても、池田家中の人々の生命と財産を託され、発展し続けるための舵取りを任されている以上、それを削がれる可能性が見えた場合には、回避せざるを得なくなります。
 それが、天文15年9月の晴元からの離反でした。それは信正一人が決めた訳では無く、家中と話し合って決めた事でしょう。
 
しかし、池田家が頼りにした細川晴元の対抗馬である同じ管領候補の同名氏綱は、その勢力があと一歩及ばず、池田家の目論みは遂げる事ができませんでした。
 池田信正は軍事制圧され、降伏します。この時、やはり縁者であった三好(宗三)政長を頼り、細川晴元に詫びを入れ、停戦となりました。しかし、一旦は赦免されたものの、切腹を命じられるまでの約1年間、様々な思惑を交錯させつつ、検討がされたようです。

この間、晴元のその処分を巡って、色々と世間を騒がせる出来事がありました。それらの要素を箇条書きにしてみます。

責めを受ける当人が、僧体となり恭順していれば、よほどの事が無い限り切腹には及ばない慣例があった中で、跡取りも正式に決めさせないまま、晴元が信正の切腹を命じた。
摂津池田家の縁者であり、晴元の側近でもあった三好宗三が、池田家の取り計らいもせず、非道な処置を黙認したどころか、その実行を望んだ。
三好宗三が、池田信正の処分保留中に、その財産を我が物にしようと介入した。
三好宗三が細川晴元と共に、池田信正の跡取りの人事について介入した。

これらの事は、当時の社会(特に京都周辺、近隣地域)にとって、非常に関心を集め、それを巡る細川晴元の処置は大変問題視されました。その事もあって、晴元政権は信用を失い、一気に傾きました。

もちろん、池田家中でもこの問題は深刻化し、内訌に発展しました。三好宗三に関する一派は、池田を追われるなどしたようです。この闘争では、池田信正を補佐する家政機関であった池田四人衆が、次期当主となる候補を立て、別の一派も独自の候補を立てるなどして対立した様子が窺えます。

この時どうも、宗三とは別の血統の孫八郎を四人衆が立て、一方では信正系譜の長正が当主の座を巡って分裂したようです。しかし、その後は和解したらしく、最終的には長正が池田家の正当な当主として「筑後守」を名乗っています。

荒木村重の世となった天正4年に発行された『春日社領垂水西牧御神供米方々算用帳』には、景寿院分として5石の割り当て分が記されています。これは奈良春日神社に納める、今でいう税のようなものです。
 その内訳けが、「二石 宗田御書出也。三石 右兵衛尉御書出也、御蔵納也」とあります。宗田とは信正、右兵衛尉は長正を指すと考えられます。この両者について、取りまとめを行っているらしい「景寿院」という寺(人物か)があったようです。この景寿院とは、信正・長正を供養する寺だったのではないかとも考えられます。また、この両者に関わる事が、景寿院を通して管理されているところを見ると、信正と長正は親子だったのではないかと思われます。

結局、池田家は時代の政治状況や色々な要因が関係して、三好宗三(政長)の血統が当主に就いたようです。しかし、これが三好長慶政権内でも良い方向に作用し、池田長正の代でも発展の基礎となります。これは、後に三好三人衆の一人となる同名下野守との関係があったためだと考えられます。

という訳で、次回は三好下野守(宗渭)について考えてみたいと思います。