2020年5月6日水曜日

戦国時代に河内国河内郡豊浦村に移住した鯰江氏一派、中村孫四郎代官屋敷跡(現東大阪市豊浦町)について

枚岡中央公園にある中村代官屋敷跡碑
前から気になっていたので、東大阪市豊浦町にある「中村孫四郎代官屋敷跡」を訪ねてみました。今は市民の憩いの場、普通の公園になっています。自転車でブラブラ、出かけてみました。行きは上り坂で息も上がり気味ですが、帰りは下り坂で、風を受けながら進めます。

今は平凡な公園となってしまった中村代官屋敷跡ですが、ここは非常に重要な場所で、村の中央部を南北に東高野街道が、東西に暗峠越奈良街道が通るという、重要な街道の交差点にあたります。平和になった江戸時代には、管理や監視のため、名族の系譜を引く人々がこの地を治めることになったようです。
 一方で、常に臨戦態勢であった戦国時代にも、そういった地勢もあって城などがあり、重要な役割を担った事でしょう。
 河内国は一時的に、近江守護の六角氏が権益を得て(若江郡の若江城)治めていた時代があるとされていますので、近江国方面の関係が結構あります。

先ずは、この代官屋敷跡について、関連資料の紹介です。東大阪市教育委員会が発行している歴史と文化財のガイドブックがあります。
※東大阪市の歴史と文化財(改訂版)- わが街再発見 -(平成15年3月版)P131

屋敷跡古図 ※東大阪市の歴史と文化財より
(資料1)-----------------------
◎徳川本陣と中村代官屋敷跡
枚岡中央公園は、徳川家康の本陣となった中村四郎右衛門の屋敷跡です。絵図によると、公園の北側、東側にも屋敷地が広がっていました。最近(昭和末期)まで公園の西南隅に隣接して、みごとな石垣を持つ周濠が残っていました。中村家は系図によると、宇多天皇より17代目を高昌と呼び、近江国愛知郡鯰江城に居城していたので鯰江氏と呼ばれていました。
 その四代の孫が中村唯正で室町時代の後半、豊浦村に浪跡して姓名を中村四郎右衛門と改め、孫にあたる正教は、慶長19年(1614)大坂冬の陣の時、徳川秀忠に、翌年の夏の陣には、家康に本陣として屋敷を提供し、自らも大坂への道案内もしました。
家康からの下賜品記錄 ※東大阪市の歴史と文化財より
これによって徳川幕府から平岡郷(豊浦村一帯)に下された制札には、平岡郷に、軍勢は狼藉、放火をするなと書かれています。河内の多くの村は戦火に遭いましたが、豊浦村一体は焼失しませんでした。夏の陣の宿陣は、5月5日菖蒲の節句であったため、正教は河内の特産木綿を「菖蒲木綿」として家康に献上したところ、「勝布」「尚武」に通じるとして家康から感謝状が下され、それ以外にも刀、盃等が家康からの拝領の品として中村家に伝えられました。屋敷内の宝庫には拝領之御品納置候と記され、例年4月17日に、これらを人々に見せたと伝えられています。
 豊浦村は天領であったため中村氏は「中村代官」と呼ばれ、村の庄屋として、奈良街道と東高野街道が交差する要衝の地を支配していました。
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続いて、お馴染みの「大阪府の地名」です。こちらは「東大阪市の歴史と文化財(改訂版)」よりも前に刊行されていますが、豊浦村に焦点を当てていますので、若干内容が違います。特に「大坂夏の陣」については、徳川家康の行動経緯が詳しく解説されています。読み比べてみて下さい。
※大阪府の地名2(平凡社)P958

(資料2)-----------------------
◎豊浦村(現東大阪市豊浦町・東豊浦町・箱殿町・新町・高殿町・鳥居町)
生駒山地西麓のかなり急な扇状地にある。北は額田村、東は暗峠で大和国に続き、西は恩智川を隔てて松原村。中央部を南北に東高野街道が、東西に暗峠越奈良街道が通る。「とよら村」とも呼ばれた(寛文10年覚「大阪府全志」所収)。字名に箱殿・髪切(こうぎり)・鳥居・宝蔵新家・峠などがあり、髪切は枝郷。古代河内郡豊浦郷(和名抄)の地。
(中略)
 慶長20年(1615)の大坂夏の陣の時、5月6日に星田(現交野市)に着陣した徳川家康は、そこで合戦の下知をしようとしたが、戦況が急速に展開したので豊浦に陣替えをし、翌日に天王寺(現天王寺区)へ出陣した(元和先鋒録)。豊浦在陣の時、宿舎の中村家が菖蒲木綿を献上したのに対し家康は「為端午之祝儀、単物二到来、喜思召候也。」と礼状(中村家旧蔵文書)を残した。正保郷帳の写しとみられる河内国一国村高控帳では高590石余で、旗本小林藤兵衛領、小物成として山年貢米3石余、山年貢銀179匁2分(幕府領)。
 元文2年(1737)河内国高帳・明治2年(1869)河内国高付帳では高591石余で小林領590石余、幕府領8斗余(小物成)。天保郷帳には枝郷髪切13石余が載る。天保11年(1840)には油稼人が3人いて、近隣の村々から菜種を買い求めていた(中西家文書)。同12年には木綿寄屋2軒があった(大阪木綿業誌)。明暦元年(1655)奈良街道に松原宿が置かれ、松原村と水走村で駅所御用を勤めていたがその負担に耐えきれず、寛文10年(1670)額田村と豊浦村にも人馬役負担が命じられた(大阪府全志)。
 産土神は枚岡神社。浄土真宗本願寺派光乗寺・融通念仏宗浄国寺がある。暗峠西口にある日蓮宗梅龍山勧成院は永正2年(1505)日証の創建(大阪府全志)。元禄7年(1694)、芭蕉が暗峠を通った際、句を残し、寛政11年(1799)芭蕉百年遠忌の追福として峠道に句碑が建立され(河内名所図絵)、現在勧成院に移築されている。
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この家康の行動についてですが、慶長年間の大坂の陣の際に、摂津池田の村役上層部の人々が暗峠へ酒や軍資金を届けて、禁制を貰い受けたということになっています。
 「元和先鋒録」など関連資料を調べれば良いのですが、慶長19年(1614)と翌年の大坂の陣では、両度とも家康は暗峠を使っておらず、京都から東高野街道を使って河内国へ入っています。

このあたり、少々検証が必要なのかもしれません。歴史を暴くという意味では無く、後年に勘違いされているところがあるのかもしれないという意味で、です。

後日また、詳しく調べて続報を出したいと思います。

2020年5月4日月曜日

摂津国池田に田地を寄進した河内国豪族恩智左近とその一族・城などについて考える

最近、池田勝正の生きた時代から少し枠(時代)を拡げて、色々な事物を見ています。その中で、摂津国池田の寿命寺へ田地寄進状を下した、恩智左近や足利尊氏について、ちょっと興味を持っています。その興味の行きつく先は、細河庄の大寺院、久安寺でもあります。

恩智城跡公園
この記事は、本格的に調べる前の、備忘録(メモ)的ですが、状況が整えば、しっかりとした、内容に拡張したいと思います。

さて、先述の恩智左近ですが、厳密に言えば、左近とは何代か続いての名乗りともなりますが、今のところ「左近」と言えば通念では一人です。この人物は、今の大阪府八尾市恩智地域で顕彰されており、その「左近」の伝墓もあります。この人物は、鎌倉時代末期から南北朝時代頃に活動した人物で、地元では諱を「満一」としています。また、左近は楠木正成に属して八臣の一人ともされている名族です。恩智氏は、恩智神社の社家の末裔で、恩智神社参道の長い石段の基を調えたのも左近と伝わっています。
 しかし、摂津池田寿命寺に伝わる寄進状の恩地左近は「政忠」で、日付も建武2年(1335)9月11日付けとなっています。活動年代に矛盾はありません。因みに、翌年7月9日付けで、足利尊氏が同寺に恩賞(感状)状を下しています。恩地左近の史料を以下にあげます。なお、この書状の形式は「直状」で、この人物が更に上位権力の意向伝達を行う形式です。
池田市史(史料編1:原始・古代・中世)P14

(史料1)-----------------------------
前置:寿命寺薬師堂仏 聖米田一所事
本文:合三段 摂津国山本庄十四条三里七坪号細間利。右の件、田三段於者、天下大平奉る為、領家安穏所、庄内豊饒願い成るに就き、寄進令め所也。万(よろず)雑公事停止、向後更に違乱有るべからず之状件の如し。
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さて、現在の八尾市恩智に目を移します。

その恩智左近が築いたとされる恩智城跡があります。今は恩地城跡公園となり、市民の憩いの場になっています。この城は、楠木正行の供をして四條畷合戦で戦死(正平3年(1348)8月)し、その戦死と共に城も落城しと伝わるようです。
 この楠木正成と摂津池田氏とも繫がりがあり、この縁で何らかの作用があったのかもしれませんが、今は調べが進んでおらず、後の項に譲ります。
日本城郭大系「恩智城」より
城の眼下には、南北に走る当時の重要道である東高野街道を通し、東には奈良へ通じる重要な道をいくつも持っていました。現地を見ると、立地は摂津池田城とも似たところがあります。
 また、今はもう変わってしまいましたが、東高野街道を更に20丁(更に500メートル)程西へ進む(坂を下る)と、大和川付け替え前は重要な水運でもあった川幅の広い恩智川が流れて(北流する)いました。
 川と丘陵で狭くなった道や平坦地を睨む好立地に城と集落がありました。後背は、山道で大和国信貴山や竜田方面など、縦横に道を交差させており、交通の要衝との結節点でもありました。

最近、八尾市史が新しくなり、また、国の史跡ともなった大発見「由義寺(弓削寺)跡」の発掘もあり、歴史に対する意識が高まりつつあるようです。故に、資料の発掘も盛んになるでしょう。
恩智神社本殿
これまでは、恩智左近のみの焦点が永年続き、史料の発掘も進みませんでしたが、左近以降の恩智氏の動向についても、少しずつ明らかになっています。
 例えば、河内国守護に仕えて上層内衆として活動していた恩智氏の史料などもあり、それらが解明されています。河内国守護畠山尚順内衆の恩智真成が、河内国南河内郡叡福寺太子僧坊年預中へ宛てて音信(直状)したものがあります。
※畿内戦国期守護と地域社会P30

(史料2)-----------------------------
羽咋庄之内、太子田段銭之事、尋ね申すと雖も、往古御免許之筋目に従り分け仰せられ之間、御判之旨に任せ、免除せしめ候。弥々相違有るべからず候者也。仍って状件の如し。
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こういった研究成果から、名族であった恩智氏は、栄枯はありながらも断絶はせず、地域権力として生き延びていたと思われます。また、先述の地政学的にも重要地域であったため、城や集落としての重要性は低下することは無かったと思われます。

また後日、このあたりのことを調べて記事にしますので、少々お待ち下さい。