2012年1月5日木曜日

宣教師ルイス・フロイスの記述に登場する、河内国讃良郡の三箇城


河内国飯盛山城に三好長慶が拠点を置いた頃、同国讃良郡内に三箇城が重要な役割を持って存在していました。

三箇城は深野池の中にある島にありました。島は主要な3つをもって名付けられ、三箇とよばれるようになったともされています。
 この付近の荘園の関係もあって、それらは九個荘や大箇、十七ヶ所などとついた地名が多くあり、どことなく異国的なネーミングのように思える三箇もそういった流れの地名のようです。

また、この三箇には、三箇伯耆守頼照(サンチョ)という有力武将が居り、活躍しています。頼照はキリシタンで、サンチョという洗礼名を持ち、この方面でも中心的役割を果たしたようです。宣教師ルイス・フロイスの記述にも頻出しています。
 ちなみに元亀2年8月28日の白井河原合戦の折、ルイス・フロイスは飯盛山城に居り、そこから高槻方面で多数の銃声音を聞き、火災を見たと書き残しています。

さて、三箇の城跡なのですが、この場所が今も特定できていません。深野池は江戸時代の大和川付け替えによって、環境が大きく変わってしまい、どこからどこまでが島だったのか。また、その島のどこに城があったのかなど、不明なところが多くあります。

ただ、江戸時代の領地境界を記した地図では、「三箇村地」として あるところを見ると、干拓が行なわれた後も所有権は三箇村民のものとして存在していた事がわかります。
 やはりその場所は3カ所あり、一番大きな三箇村地が今のJR住道駅周辺となっており、この辺りに城があった可能性もあります。

深野池は交通・漁労・水源など、重要な場所であり、もちろん、拠点飯盛山城の防衛システムを構成する要所でもあって、これが特定できれば、地域史にとって大きな前進となることでしょう。

大きな事は、今ここで直ぐに実現はできませんが、そういった事も願いつつ三箇城についてまた調べていきたいと最近気になっています。