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2023年3月18日土曜日

摂津池田城家老の存在

摂津池田の伝家老屋敷位置
摂津池田家から台頭した荒木村重が摂津国守護職として有岡城主となり、摂津国内を治めていた頃、池田城家老として、5人の名が池田に伝わっています。
※北摂池田 -町並調査報告書-(池田市教育委員会 1979年3月発行)P31(『穴織宮拾要記 末』)

---(資料2)------------------------------------
一、今の本養寺屋敷ハ池田の城伊丹へ引さる先家老池田民部屋敷也 一、家老大西与市右衛門大西垣内今ノ御蔵屋敷也 一、家老河村惣左衛門屋敷今弘誓寺のむかひ西光寺庫裡之所より南新町へ抜ル。(中略)。一、家老甲■(賀?)伊賀屋敷今ノ甲賀谷北側也 一、上月角■(右?)衛門屋敷立石町南側よりうら今畠ノ字上月かいちと云、右五人之家老町ニ住ス。
※■=欠字
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上記にある家老の家系の内の2名が、「荒牧屋」を称した山邑氏と同じ時代に生き、縁をつなぎます。
 その家老の一人は、上月角■衛門で、その系譜を持つと思われる人物が、上月十大夫政重と考えられます。この人物は、荒牧(荒蒔)出身の赤松一族です。
※池田町史 第一篇 風物詩P135

---(資料3)----------------------------------------------
【法園寺】
建石町にあり、竹原山と号し、浄土宗知恩院の末寺にして本尊は阿弥陀仏なり。創立の年月詳らかでないが、再建せしは天文7年(1538)にして、僧勝誉の檀徒と協力経営せし所なりと。(中略)。
 縁起によれば、同寺はもと、池田城主筑後守の後室阿波の三好意(宗)三の娘を葬りし所であって、池田城主の本願に依り同城羅城(郭外)内に阿波堂を建立し、其の室の冥福を祈りたる処なりと、後この阿波堂は上池田町(現在の薬師堂)に移建されしと伝わる。
 なお当寺には、赤松氏、上月十大夫政重の塔婆がある。其の文に、

【赤松氏上月十大夫政重之塔】
寛永19年午9月12日卒 法名、可定院秋覚宗卯居士
宗卯居士者、諱政重、十大夫、姓赤松氏(又号上月)蓋し村上天皇之苗裔正二位円心入道嫡子、信濃守範資、摂津国守護職補され自り以来、世々于川辺郡荒蒔(荒牧)城、範資九代之嫡孫豊後守殖範、其の子範政求縁■中三好・荒木両党、父子一族悉く殞命畢ぬ。于時政重3歳也。乳母懐抱而城中逃げ出於、豊嶋郡畑村至り、叔父石尾下野守撫育焉。22歳而又親戚を因み、池田備後守の愛顧を受け、■■池田里(今ここに旧館址有り)後、稲葉淡路守■吉朝臣、寛永17年辰、辞官而て、帰寧ここに本貫、同19年壬年9月12日75歳而卒去。則ち竹原山法園寺に葬り矣。室家妙薫大姉者船越女、歿後同於彼の寺也。
享保7年壬寅9月12日
※■=欠字
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★上記、上月氏についての詳しくは「池田市建石町の竹原山法園寺(ほうおんじ)にあった戦国武将上月十大夫政重の塔婆」の過去記事をご覧下さい。
https://ike-katsu.blogspot.com/2016/07/blog-post_3.html

資料3の伝承を読むと上月政重は、寛永19年(1642)に75歳で亡くなったとしてあるので、逆算すると1567年(永禄10)の生まれとなります。また、政重は3歳の時に、三好・荒木両党により、父子一族悉く殺害されたとあり、これは元亀元年(1570)6月の池田家中の内訌である事が判ります。この伝承は、史実をある程度正確に伝えているようです。

一方、もう一人の家老は、甲■伊賀守という人物で、その系譜を持つと見られるのは、甲賀谷又左衛門尉正長です。
※伝法 正蓮寺発行の『正蓮寺概史』より(抜粋)

---(資料4)----------------------------------------------
【正蓮寺略縁起】
寛永2年(1625)篤信の武家、甲賀谷又左衛門が、毎夜海中にて光を発するものを見つけ、網を入れたところ、お木像が上がって来たので、邸内にお祀りしていました。たまたま京都から来られた修行僧、唯性院日泉上人がこれを御覧になり、間違い無く日蓮大聖人の御尊像であることを認められました。そこで、日泉上人を開山とし又左衛門を開基として、大方の協力を得て建てた草庵が、今の正蓮寺のおこりであります。寺号の正蓮寺は、甲賀谷又左衛門の予修(よしゅ:生前に、自分の死後の冥福 (めいふく) のために仏事をすること。)、正蓮日宝禅定門より、また山号の海照山は、御尊像が海を照らした事から名付けられたものであります。(後略)
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更に、尼崎長遠寺への莫大な貢献を知る事のできる関係資料です。
※尼崎市立文化財収蔵庫(同市教育委員会 歴博・文化財係)様からのご提供資料

---(資料5)----------------------------------------------

資料名
年代
内容等
1
多宝塔棟札
慶長11年
「願主甲賀谷又左衛門尉正長敬白」
2
多宝塔棟札
慶長12年
「甲賀谷又左衛門尉正長(花押)
3
日桓曼荼羅本尊
慶長13年1月2日
裏書「授与甲賀谷又左衛門尉正長」
4
客殿棟札
慶長18年4月6日
「大願主甲賀谷又左衛門造之」
5
日蓮書状
(乙御前母御書)
元和元年9月5日
裏書「元和元乙卯暦九月五日
願主甲賀谷又左衛門法名正蓮(花押)
6
日蓮曼荼羅本尊
元和元年9月5日
裏書「元和元乙卯暦九月五日施主又左衛門(花押)
7
日桓曼荼羅本尊
元和4年11月17日
裏書「甲賀谷又左衛門尉法号正蓮日寶授与」
8
日厳曼荼羅
元和8年3月11日
裏書「摂州尼崎長遠寺常住本尊修補之施主甲賀谷又左衛門正長」
9
日聡曼荼羅
元和8年3月11日
裏書「摂州尼崎長遠寺常住本尊
修補之施主甲賀谷又左衛門正長」
10
日円題目
元和8年3月11日
裏書「摂州尼崎長遠寺常住本尊
修補之施主甲賀谷又左衛門正長」
11
本堂棟札
元和9年5月
「願主甲賀谷又左衛門尉法号正蓮日寶建之□」
12
甲賀谷正蓮書状
8月14日
長遠寺宛
13
鐘楼棟札 
寛永14年6月27日
「為正蓮日寶遺言所建立之鐘楼同也
願主大坂法華甲賀谷又左衛門尉貞勝」
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★上記、甲賀谷氏についての詳しくは「此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察(伝法(大阪市此花区)について)」の過去記事をご覧下さい。
https://ike-katsu.blogspot.com/2019/08/blog-post_20.html

上記一覧による尼崎長遠寺への篤信行動から甲賀谷正長は、1637年(寛永14)頃までには没していたようです。ちなみに同寺へは、荒木村重や池田家当主であった池田勝正なども関係を持っていました。
 また、正長は隠居し、入道号を名乗っており、その名が「正蓮」で、日蓮宗に深く帰依していました。摂津国西成郡伝法の正蓮寺は、1625年(寛永2)に、正長が開基となって創建されたお寺です。
 精神的な拠り所としての日蓮宗への帰依だけではなく、港としても重要であり、尼崎や伝法に物流の拠点を持つ意図も同時にあったのではないかと思われます。両寺は街道によって繋がっています。
 ちなみに、その後、正蓮寺は七堂伽藍が備わり、大坂二十五ヵ寺に数えられる程に栄えます。正蓮寺川もその名の通り、正蓮寺にちなんで呼ばれるようになったようです。

池田城家老の身分であったこの両名は、同時代に生きた人物でした。また、時代は太平の世となり、戦国時代に荒廃した事物が復興する中で、地域の自立、産業育成を各地が競い合いました。そんな中で、池田郷は酒造の先進地域の一つでもあり、酒造産業が急速に成長していました。

 

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2016年10月26日水曜日

元亀元年(1570)8月13日、摂津国河辺郡の猪名寺付近(現尼崎市)で行われた「猪名寺合戦」について

元亀元年(1570)6月18日、摂津守護池田家中で内訌が発生し、池田家は三好三人衆方となりました。幕府は有力勢力を失いましたが、この敵である三好三人衆にとっては、その真逆の力を得る事となりました。
 しかし、三好三人衆方の池田衆は、南への連絡路が無く、当初はこれを早急に開く必要を生じさせていました。猪名寺合戦は、この目的で画策されたと考えられます。実際の合戦時期は、微妙に目的要素の優先度が入れ替わっているですが、複合的な必要性で合戦に至ったと思われます。
 それから、永禄12年4月に伊丹氏は、幕府から河辺郡潮江庄代官職を認められている事から、同地域を三好三人衆方に侵される状況にあって、不十分ながらもこれらの排除のために出陣したとも考えられます。 加えて、猪名寺合戦直前の7月12日付けで、伊丹忠親が尼崎本興寺に宛てて禁制を下していますので、尼崎の保護・確保のために取った軍事行動でもあると思われます。
 そしてその交戦の場となった、猪名寺村についての資料を下にあげます。
※兵庫県の地名1(平凡社)P478

(資料1)---------------------------
参謀本部陸軍部測量局の地図(猪名寺部分)
【猪名寺村】
田能村の西に位置し、北は大坂道で伊丹郷町下市場村(現伊丹市)、北東部を猪名川と分かれたばかりの藻川が流れる。正和5年(1316)の作と推定される行基菩薩行状絵伝(家原寺蔵)に、奈良時代に僧行基が建立した「猪名寺給孤独園」が描かれる。明徳2年(1391)9月28日の西大寺末寺帳(極楽寺文書)に猪名寺がみえる。
 元亀元年(1570)8月13日、尼崎に在陣していた淡路の安宅勢が伊丹方面に軍勢を繰り出したのに対し、織田方の伊丹城から猪名寺に軍勢が出され、高畠(現伊丹市)で合戦が行われている(細川両家記)
 慶長国絵図に猪名寺とみえ、高432石余。元和3年(1617)の摂津一国御改帳には猪名寺村と記され高422石余、幕府領(建部与十郎預地)。寛文6年(1666)大坂定番米津田領となり、天和4年(1684)幕府領、同年2月松平乗次領、元禄6年(1693)幕府領、同7年松平乗成領となり、宝永元年(1704)幕府領となったが、延享3年(1746)三卿の田安領となり明治に至る(尼崎市史)。
真言宗 法園寺(真言宗御室派)
用水は猪名川水系三平井・猪名寺井掛り(同書)。宝永7年の村明細書(西沢家文書)によれば、文禄3年(1594)に片桐市正の奉行で検地を実施。家数83、うち高持百姓43・柄在家日用働40、人数407、寺は真言宗・一向宗各1、氏神は伊丹にある。地面取実1反につき米は、1石3、4斗より2石、木綿300目を1斤にして7、80斤より100斤余、麦1石6、7斗、小麦6、7斗。田畑合計39町4反余。馬5・牛16。耕作のほか伊丹酒屋で日用。切畑村(現宝塚市)領長尾山山子村として山手銀を納め草を刈っていた(「長尾山山子村々山手銀届」和田家文書)。
 伊丹郷町明細帳(武田家文書)によると郷町の氏神野宮(現伊丹市猪名野神社)の氏子で、神事費用を負担している。同社は延喜4年(904)当村から現在地に移されたと伝える。明治12年(1879)調の寺院明細帳によれば、真宗本願寺末法光寺、真言宗仁和寺法園寺(真言宗御室派)がある。
猪名寺廃寺跡周辺の地形の勾配差(南東辺)
法園寺は、和銅年間(708-715)行基開基と伝え、天正7年(1579)焼失により廃寺。宝暦8年(1758)定暠再興、明治6年無檀のため伊丹金剛院に廃合されたが、同15年再興。明応(1492-1501)末年頃と推定される宝篋印塔残欠(基礎)がある。西沢家は代々庄屋役を勤めた家柄で、寛永13年(1636)をはじめとする2,650余点の文書を所蔵。
藻川西岸の標高約11メートルの段丘上に猪名寺廃寺がある。昭和27年(1952)・同33年に発掘が行われ、法隆寺式の伽藍配置であることが判明。金堂は凝灰岩切石による壇上積基壇。創建瓦は川原寺式のものが含まれ白鳳期と考えられている。南方500メートルには猪名野古墳群や、瓦・緑釉土器等の出土した中ノ田遺跡などがあり、為名氏の寺院とみられている。
---------------------------(資料1おわり)

上記資料(1)によると、猪名寺村内にある法園寺は、天正6年冬からはじまった荒木村重の乱により、翌年には兵火を受けて焼失したと伝わっているようです。やはりこの時も伊丹を守るための出丸や砦のような役割りがあったのか、猪名寺村が攻められたのでしょう。元亀の猪名寺合戦の時も、同じような位置付けにあったのではないでしょうか。

猪名寺合戦を考える時に、少し周辺状況を俯瞰してみます。

池田家の内訌から10日後の6月28日、三好三人衆勢力が摂津国吹田へ上陸し、京都・大坂の水運の要所を制しました。
 これに関連のある動きとして、7月付けで、池田民部丞が山城国大山崎惣中へ宛てて禁制を下しています。これは池田勝正の後任当主かもしれないのですが、今のところ詳しくは解りません。なお、同一人物が、9月付けで摂津国河辺郡多田院に、11月5日付けで同国豊嶋郡箕面寺へ宛てて禁制を下しています。
 これらは何れも、既に池田家当主が禁制を下した実績がある場所で、また、先方から禁制を求められる程の名の通りと実力があったと考えられます。

さて、話しを猪名寺村付近の地域動静に戻します。

猪名寺廃寺段丘東側の藻川。正面は五月山。
吹田に上陸した三好三人衆勢を、幕府・織田信長勢力が攻撃し、7月6日に吹田周辺で交戦しています。その間に、摂津守護伊丹忠親は、尼崎を押さえるために動き(後巻きの意味もあったでしょう)、同月12日付けで尼崎本興寺へ宛てて禁制を下していいる事は、先にも述べたところです。
 この後、同月下旬頃からは、三好三人衆勢の動きが活発化します。27日から翌月5日までは、時系列を参照願うとしまして、9日、三好三人衆方で淡路衆の安宅信康勢は、兵庫から尼崎へ進んでいます。
 この安宅勢と池田衆が、伊丹方面へ進み、交戦となりました。この頃の伊丹城は、後に荒木村重が改修して有岡城とする前であり、基本的な防衛プランは共通していると察せられますが、中世的な、防御要素が散在する状況だったと思われます。
 そのため、街道を通し、周囲より小高い地形を成す猪名寺は重要な防衛拠点だったとも思われます。また、猪名寺の東を流れる藻川・猪名川は、川幅が広く、通常は水嵩も左程高くないために徒渉が可能です。江戸時代にも橋は架けない(防衛上の意味もあるが)方針が採られていたようです。
 
猪名川・藻川の渡河可能推定
この渡河できる地点と街道、渡しの場所などを詳しく検証しているサイトがあるので、そこから図を引用させていただきます。このサイトは、羽柴秀吉の「中国大返し」から天王山の合戦への道程と経緯を深く掘り下げられています。
【出典サイト】「少し歴史の話」へ ようこそ!:少し調べ物をしたら、「歴史」のツボに嵌ってしまった!!
※ご注意:これらの資料を引用させていただくにあたって、情報元の方にご連絡しようとサイト内を探したのですが、連絡先がなく、引用元の明記を以て、ご挨拶に代えさせていただきます。もし、不都合がありましたら、当方までご連絡いただきたく、お願い致します。

猪名寺合戦について『細川両家記』に記述があります。安宅勢が尼崎から北上し、伊丹城周辺を打ち廻りましたが、池田衆もこれに呼応して伊丹方面へ出陣した模様です。池田衆は、後巻きの役割だったのかもしれません。これを見た伊丹勢は、100名程が城から出て応戦しようとし、猪名寺辺りまで出た所で交戦となって、池田衆もこれに加わったようです。伊丹勢は劣勢となって押し返され、池田衆が高畠辺(有岡城縄張内の南部にある高畑村と関係するか)あたりで、4〜5名を打ち取り、伊丹衆は城へ退いた、としています。細川両家記の「猪名寺合戦」の模様を以下にご紹介します。
※群書類従20(合戦部:細川両家記)P634

(資料2)---------------------------
一、同8月13日淡路衆安宅勢相催し候て伊丹辺へ打ち廻る也。池田も一味して罷り出候也。然るに伊丹城より100人計り猪名寺と云う処へ出られ候。寄せ手、此の衆へ取り懸かり、高畠辺にて4〜5人池田衆が*討ち取り、打ち帰られ候也。淡路衆は、尼崎へ打ち入られ也。
※『細川両家記』での「へ」は、現代感覚の「が」としての意味合いで文中に用いる傾向があるように思われる。
---------------------------(資料2おわり)

この交戦により、三好三人衆方がこの方面では優位を確保し、伊丹の孤立化を図る事ができたと思われます。
 文中の「淡路衆は、尼崎へ打ち入られ也」とは、淡路衆の兵庫から尼崎への陣替えが、尼崎惣中の外だったという状況だったかもしれません。考えられるのは、本興寺と同じ日蓮宗ですが、より三好三人衆方に縁が深い長遠寺のある別所村でしょうか。
 伊丹方が7月12日付けで本興寺に宛てて禁制を下しているので、この時までは尼崎本興寺などに伊丹衆が居て、猪名寺の交戦で優位となった安宅衆がその勢いを借って、本興寺の伊丹衆へも攻撃し、尼崎を制圧したのかもしれません。
慶長国絵図を元に地形と街道の関係を推定復元
また、当時の伊丹と猪名寺との地形を考えるための参考になる図があるので、引用させていただきます。慶長国絵図を元に、地形と街道の関係を推定復元されています。猪名川を渡河するための道が何本かあり、それらを使って池田衆が、伊丹城攻めのために、進軍したのかもしれません。
【出典サイト】「少し歴史の話」へ ようこそ!:少し調べ物をしたら、「歴史」のツボに嵌ってしまった!!
 ちなみに、田能村出身の武士の田能村氏は、どちらかというと池田氏よりの関係だったらしく、そういう環境を利用して進軍したり陣を取ったりしたと考えられます。

一方、この頃の河内国方面では、8月17日に古橋城(現門真市)が落ちましたが、ここは兵站基地でもありました。ここに伊丹方の軍勢が150名程入っていた(三好義継方からも150名)のですが、攻撃によりほぼ全滅しています。
 これは、この10日程後の記録として史料に現れる、幕府・織田信長方勢力の陣取り場所である「天満森」への物資供給の準備だったと思われます。この時の古橋城は、兵粮の集積を行っていたとの記述があります。

さて、このように一旦は三好三人衆方が優勢となりましたが、態勢を立て直した織田信長は、決戦のために大挙して摂津国欠郡天満森へ入り、三好三人衆方の拠点である野田・福島を攻める準備を整えました。
 この動きにより、幕府・織田方勢力は勢いづき、三好三人衆勢を圧倒するかに見えましたが、9月13日に大坂の石山本願寺が蜂起し、形勢は逆転します。同月23日、信長は天満森から撤退を決めて開陣、兵の多くは防衛のために京都へ退き、近江国へも軍勢を割く必要性に迫られました。
 同月27日、三好三人衆方の篠原長房勢が兵庫へ上陸した事を機に、再び三好三人衆勢の攻勢が強まります。尼崎や西宮、堺などの大坂湾岸は三好三人衆方が実効支配するに至りました。

しかし、織田信長が禁裏を動かし、天皇による調停が呼びかけられると、三好三人衆を始めとした同盟勢力がこれに応じてしまい、信長は劣勢を仕切り直す事に成功しています。

最後に、以下、元亀元年(1570)の池田家内訌後からの猪名寺合戦に関係する要素を時系列に並べてみます。

(資料3)---------------------------
 【1570年(元亀元)】
6/18  池田家中で内訌発生
6/18  将軍義昭、近江国高島郡への出陣延期を通知する  
/19  池田勝正、将軍義昭へ状況を報告
6/19  将軍義昭、近江国高島郡への出陣再延期を通知する 
6/26  三好三人衆方三好長逸・石成友通が池田城に入ると風聞
6/26  池田勝正、将軍義昭と面会
6/27  将軍義昭、近江国高島郡への出陣を中止する
6/28  摂津守護和田惟政、同国豊嶋郡小曽根春日社へ宛てて禁制を下す
6/28  三好三人衆勢、摂津国吹田へ上陸
7       摂津国河辺郡荒蒔城を荒木村重などの池田衆が攻める?
7     三好三人衆方池田民部丞、山城国大山崎惣中へ宛てて禁制を下す
7/6   幕府・織田勢、吹田で交戦
7/12  摂津守護伊丹忠親、尼崎本興寺へ宛てて禁制を下す
7/27  三好三人衆方三好長逸、摂津国欠郡中嶋へ入る
7/29  三好三人衆方安宅信康勢、摂津国兵庫に上陸
8/2   三好三人衆など、山城国大山崎惣中へ宛てて禁制を下す
8/5   三好三人衆勢、河内国若江城の西方へ付城を構築
8/9   三好三人衆方安宅信康勢、尼崎へ陣を移す
8/13  摂津国猪名寺合戦
8/17  三好三人衆勢、河内国古橋城を落とす
8/25  織田信長、摂津国へ出陣
8/25  三好三人衆方摂津国原田城(池田氏に属す)が自焼する
8/27  池田勝正など幕府・織田信長勢、摂津国欠郡天満森へ集結
9     三好三人衆方池田民部丞、摂津国河辺郡多田院へ禁制を下す
9/3   三好三人衆方三好長逸など、池田城を出て野田・福島の陣へ入る
9/8   摂津守護伊丹忠親・和田惟政、池田領内の市場を打ち廻る
9/10  織田信長、野田・福島城を攻撃
9/11  織田勢、欠郡中嶋内の畠中城を落とす
9/12  織田勢、野田・福島城を総攻撃
9/13  本願寺宗、幕府・織田信長に対して蜂起
9/23  幕府・織田勢、摂津国方面から総退却
9/27  三好三人衆方篠原長房勢、兵庫に上陸して越水城を攻める
9/28  三好三人衆方篠原勢、尼崎へ移陣
10/8  三好三人衆方篠原勢、伊丹勢を攻撃
10/10 三好三人衆方三好長治、尼崎本興寺内貴布祢屋敷へ宛てて禁制を下す
10/10 三好三人衆方篠原実長など、尼崎本興寺西門前寺内に宛てて禁制を下す

10/15 織田信長、伊丹忠親へ守備を堅くするよう音信
10/下  三好三人衆方篠原勢、越水城を落とす
11    三好三人衆方池田衆の中川清秀など、池田周辺諸城を攻める?
11/5  三好三人衆方池田民部丞、摂津国箕面寺に宛てて禁制を下す
11/7  三好三人衆方篠原長房、堺に入る
11/21 織田信長、三好三人衆と停戦して開陣する
12/8  幕府・織田信長、三好三人衆と和睦する
12/13 幕府・織田信長、浅井・朝倉方と和睦する
12/24 幕府・織田信長、石山本願寺と和睦する
---------------------------(資料3おわり)



2016年10月22日土曜日

摂津国河辺郡の大尭山長遠寺(現尼崎市)を再建した甲賀谷正長は、摂津池田の出身者か!?

大尭山長遠寺
兵庫県尼崎市に大尭山長遠寺(ぢょうおんじ)という古刹があり、そこに甲賀谷又左衛門尉正長夫妻の、特別に顕彰された墓があります。
 今のところ不明な事が多いのですが、この人物は同寺を再建した大檀越(おおだんおつ(だんおち):寺や僧に布施をする信者や檀家の事。)として墓(正長:台上院正蓮日寳大居士、妻:清冷院妙蓮日禅大姉)と碑が祀られています。
 今のところ、判る範囲をお伝えしておきますと、長遠寺内にある多宝塔(尼崎市内唯一、国指定重要文化財)を慶長12年(1607)に、甲賀谷正長が施主となって建立し、元和元年(1615)9月5日、日蓮書状(乙御前母御書)を日蓮筆曼荼羅本尊(まんだらほんぞん)と共に長遠寺へ寄進、同9年5月、本堂を造営するなどしています。
【参考】尼崎市公式ホームページ:日蓮書状(乙御前母御書)
 また、この正長の嫡子(二男以下か)と思われる文左衛門が、現此花区伝法にある同じ日蓮宗の海照山正蓮寺を寛永年間(1624-44)に創建(寛永2年(1625)と伝わる)しており、甲賀谷氏の日蓮宗への信仰の篤さと忠誠心を知る事ができます。

「甲賀谷」という名字、「正長」という諱は何か摂津国池田郷と関係しているように感じます。また、この長遠寺は、荒木村重とも関係が深いお寺でもあります。
 という事からしても、甲賀谷夫妻と摂津池田は、浅からぬ縁があるように思うのですが、今のところその確定的な資料もありませんが、以下、筆者がそのように感じる根拠としての史料をご紹介しておきたいと思います。下記は、長遠寺についての資料です。
※兵庫県の地名1(平凡社)P446

(資料1)-----------------------
甲賀谷正長夫妻の墓
【長遠寺】
江戸時代の寺町の西部にある。日蓮宗。大尭山と号し、本尊は題目宝塔・釈迦如来・多宝如来。元和3年(1617)尼崎城築城計画のため移転させられるまでは、風呂辻町辰巳市場にあった(尼崎市史)。寺蔵の宝永2年(1705)の大尭山縁起によれば、観応元年(1350)に日恩の開基とされ、かつては七堂伽藍を備え子院16坊を数えたという。歴代住持のうち5世日了が、本山12世となるなど、京都本圀寺末の有力寺院の一つであった。
 開基の地については七ッ松で、のちに尼崎に移転したとする寺伝がある。永禄12年(1569)3月の織田信長の軍勢による尼崎4町の焼き討ちの際には、当寺と如来院だけが戦火を免れたという(細川両家記)。当時は「尼崎内市場巽」に所在しており、元亀3年(1572)に信長は、同地での当寺建立に際して、陣取りや矢銭・兵粮米賦課などの禁止を命じている(同年3月日「織田信長禁制」長遠寺文書)。
甲賀谷正長の墓の説明碑
さらに天正2年(1574)には荒木村重が、信長とほぼ同内容の禁制を与えているが(同年3月日「荒木村重禁制」同文書)、禁制の冒頭には「摂州尼崎巽市場法花寺内長遠寺建立付条々」とあり、伽藍造営だけではなく、当寺を中心とする地内町の建設工事であったことを示している。村重はさらに巽(辰巳)・市庭の年寄中に対して堀構のことを申し付けるとともに(3月15日「荒木村重書状」同文書)、尼崎惣中に対して当寺普請を油断なく沙汰するよう指示しているほか(4月3日「荒木村重書状」同文書)、貴布禰社などの諸職の進退や公事・諸物成の納入、諸役諸座などの免除、守護使不入等について定めた寺院式目条々を当寺に付与している(天正2年3月日「荒木村重定書」同文書)。同16年には勅願道場となった(同年3月25日「後陽成天皇綸旨」同文書)。
 江戸時代には長洲貴船大明神宮(現貴布禰神社)の神職も兼ねており、毎年1月7日礼祭神事を執行した(尼崎志)。境内に祖師堂・妙見堂・護法堂と僧院三房があった。
 本妙院は観応元年創立、宝泉院は文亀元年(1501)創立。開基不詳。中正院(現存)は明徳年中(1390-94)創立、開基不詳(明治12年調寺院明細帳)。慶長3年(1598)建立の本堂(付棟札2枚)と同12年建立の多宝塔(付棟札5枚)は、国指定重要文化財。鐘楼・客殿・庫裏は、県指定文化財であったが、平成7年(1995)の兵庫県南部地震のために全てが破損した。一石五輪塔として天正3年10月10日、慶長13年(基礎)・同14年銘のもの、同13年4月8日銘の石灯籠がある。
-----------------------(資料1おわり)

それから、同寺がどういう立地環境にあったのか、中世の尼崎の様子を復元している研究がありますので、抜粋してご紹介します。
※地域史研究(尼崎市立地域研究史料館紀要 -第111号-):中世都市尼崎の空間構造(藤本誉博氏)より

(資料2)--------------------
16世紀の尼崎(推定復元図):図4
3. 一六世紀の様相
(前略)
尼崎惣社である貴布祢神社(★せ)は、当該期には本興寺の西、近世尼崎城の西三の丸に立地していた。本興寺の西門前は、尼崎城建設の際に城下町へ移転したが、その町は「宮町」と呼称されていた。宮町とは貴布祢神社の門前に由来すると考えられる。貴布祢神社の門前と本興寺の西門前とが重なる立地になっており、貴布祢神社と本興寺は、ほぼ隣接する位置関係であった。本興寺は貴布祢神社の領域に寺領を広げる動きを見せていた。貴布祢神社の宮町が本興寺の門前に組み込まれた契機は、先述の本興寺による尼崎惣中への資金援助であった可能性もあろう。
 また、本興寺と同じ法華宗である長遠寺(○17)は、市庭の南東に立地し、三好氏の後に畿内に勢力を伸ばした織田権力を背景に寺内を構えた。おそらく、市庭や辰巳に挟まれた比較的開発の遅れていた所に寺地が設定されたのであろう。また、信長の配下の荒木村重は長遠寺に総社貴布祢神社の祭礼諸職を進退するよう定めている。これら三好氏、織田氏の動向を鑑みると、当該期の武家権力は、法華宗の特定の寺院を媒介して尼崎への関与を強める支配方式をとっていたと考えられる
(中略)
当該期は真宗や法華宗の勢力が拡大し、寺院の増加や寺内を構える動向が確認できた。また、法華宗寺院を介した武家権力の尼崎支配の動きも確認できる。
(中略)
長遠寺の寺内は先行して発展していた市庭・辰巳・別所の町場からはずれ、開発が遅れていたであろう場所に建設されている。
 長遠寺建設に際しては、信長(村重)権力は市庭や辰巳の「年寄中」や「尼崎惣中」に建設の指示を出しているが、これらの共同体は個々の地区、あるいは尼崎全体といった地縁的な領域で結成されていた組織であろう。これまでの考察で、尼崎の都市空間は特定の寺院に依拠して成立したのではなく、立地性や交通・流通の様相に依拠して形成されてきた側面が大きいことを指摘してきた。これらの地縁的共同体は、個々の寺院に依拠しない尼崎の都市空間を基盤にしたと考えられる
(後略)
--------------------(資料2おわり)

長遠寺は尼崎に古くからあったものの、中心部に移るにあたっては、荒木村重(織田信長政権)の支援を受けつつ実現した背景もあったようです。やや直接的とは言い難いところもありますが、この点から見ても、やはり縁としては、荒木村重を介して摂津池田とも浅からず繫がっていると言えます。
 そしてその甲賀谷という名字ですが、池田城下に「甲賀谷(甲ヶ谷):こかだに」と呼ばれた集落が古くからありますので、それについての資料をご紹介します。
※大阪府の地名1(平凡社)P316

(資料3)--------------------
【甲賀谷町(現池田市城山町)】
東本町の北裏側にあり、町の東側は池田城跡のある城山。西は米屋町。能勢街道より離れているため商人は少なかった。元禄10年(1697)池田村絵図(伊居太神社蔵)には大工5・樽屋1・日用9・糸引1・医師1・職業無記載36がみえる。酒造業が集中している東本町に近接することから大工・樽屋などの職人は酒造に関係したものと思われる。
--------------------(資料3おわり)

ちなみに、甲ヶ谷町についての言い伝えでは、「甲賀」から移り住んだ人々の町と伝わっているようで、「子どもの頃からそう言われてきた」と、古老にお話しを伺いました。私がそれを聞いたのは、西暦2000年前後だったと思います。
 また、甲賀谷町の北西500メートル程のところに、長遠寺と同じ日蓮宗本養寺があり、こちらも参考としてあげておきます。同寺も京都本圀寺の関係を持ちます。
※大阪府の地名1(平凡社)P316

(資料4)--------------------
【本養寺(現池田市綾羽2丁目)】
日蓮宗。瑞光山と号し、本尊は十界大曼荼羅。応永年中(1394-1428)の創建と伝え、寺蔵の近衛様御殿御由緒によると、関白近衛道嗣の子で、京都本圀寺の第5世日伝の嫡弟玉洞妙院日秀の創建という。当寺諸記録によると、室町時代には「近衛様御寺」とよばれ、江戸時代には6代将軍徳川家宣の御台所煕子(天英院)が、近衛基煕の女であることから、将軍家より寺領が寄進され、また煕子の妹功徳池院脩子を妃とした閑院宮直仁親王からも上田一反余を寄進されている。
 元禄4年(1691)から同8年にかけて檀越大和屋一統の援助により再建された。現在の堂宇はその時のもの。本堂安置の応永8年銘の日蓮像は、後小松天皇の帰依があったという。境内に日蓮が鎌倉松葉谷で開眼供養をしたと伝える鬼子母神を祀る鬼子母神堂、大和屋一族で酒造家西大和屋の主人でもあり、安政2年(1855)に「山陵考略」を著した山川正宣の墓がある。
 なお、当寺は「呉春の寺」と俗称されるが、天明2年(1782)文人画家で池田画壇に大きな影響を与えた四条派祖松村月渓が寄寓、呉羽の里で春を迎えた事により、呉春と改名した事に由来する。
--------------------(資料4おわり)

資料4の文中に、「近衛様御寺」との記述がありますが、荒木村重が台頭する前に、摂津国池田で勢力を誇った池田氏の本姓は「藤原」でしたので、藤原氏の筆頭の近衛家とは親密で、活動の基本をやはり「藤原家」の因縁に置いていたと言えます。
 それから、戦国時代頃の伝承記録として、先にご紹介した「甲賀谷町」に「甲賀伊賀守」なる人物が、家老として池田城下に居住していたとあります。
※北摂池田 -町並調査報告書-(池田市教育委員会 1979年3月発行)P31(『穴織宮拾要記 末』)

(資料5)--------------------
一、今の本養寺屋敷ハ池田の城伊丹へ引さる先家老池田民部屋敷也 一、家老大西与市右衛門大西垣内今ノ御蔵屋敷也 一、家老河村惣左衛門屋敷今弘誓寺のむかひ西光寺庫裡之所より南新町へ抜ル。(中略)。一、家老甲■(賀?)伊賀屋敷今ノ甲賀谷北側也 一、上月角■(右?)衛門屋敷立石町南側よりうら今畠ノ字上月かいちと云、右五人之家老町ニ住ス。
※■=欠字
--------------------(資料5おわり)

なお、甲賀谷氏の直接的な史料は見当たらず、最も原典的と思われる『穴織宮拾要記』でも、伝承資料という資料環境ではありますが、甲賀谷正長が、池田郷と関係を持っていたであろう必然性は、記述の資料群からしても非常に高いのではないかと感じています。

昭和初期の甲ヶ谷周辺の記憶復元図
それからまた、戦国時代の池田城下に「甲賀伊賀守」と思しき人物が居たとされる伝承について、家老という立場であるからには、身分の高い人物と思われ、池田家中の政治にも主要な役割りを担っていたと考えられます。
 池田家の人々は、代々「正」を通字として用い、「長」も通字として使用している人物が多く見られます。加えて、池田郷は江戸時代になると、元々あった地場産業の酒造や花卉栽培業、それから、地の利を活かして、炭などを扱う問屋が集中する商業都市に成長します。
 戦国時代に兵火で荒れ果てた郷土の復興のために、没落した池田氏も重要な役割を担っていました。先ず、旧地の回復のために、池田知正や実弟光重が尽力している様子が記述されています。これまでに池田家が領有していた地域に、祭事を復活させて神輿を繰り出し、地域住民に知らしめようとしたり、郡など境界にある社寺に寄進や奉納物を納めたりして、旧地回復につなげようとする動きを続けていました。
 しかし、皮肉なことに池田は、軍事的にも、商業的にも重要な立地にあったため、徳川幕府では、直轄地として統治する方針が打ち出されて、池田家の復興を阻みました。そのため、池田知正などの後継者による、池田家の旧地復活の目論見は果たせずに終わりました。

しかし一方で、池田氏による地域統治の復古は上位権力から否定されましたが、それに代わって、商業の振興は盛大となって、経済的な復興は遂げていきます。
 ある意味、江戸時代ともなれば、流通経済(商業)ですので、流通拠点との関係づくりが必要になります。池田から大坂を始めとした諸都市へ出荷・流通させるためには、尼崎という海への出入口は、重要な位置付けとなります。
 池田にとって、江戸時代という新たな時代を迎えるにあたり、刀を算盤に持ち替えて、時代を切り拓いた人々も多くありました。その一人が甲賀谷正長であり、家業を興し、財を成したのかもしれません。
 
尼崎市の担当部署に、この甲賀谷正長の事を尋ねてみたのですが、今のところ手がかりは得られませんでしたが、これらの事を伝え、情報があればご教示いただけるよう、お願いしている次第です。今後、何か判明した事があれば、また皆さんにお伝えしたいと思います。


追記:甲賀谷又左衛門尉正長について、詳しく調べてみました。以下の参考記事をご覧下さい。

◎参考記事:此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察