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2021年10月30日土曜日

摂津郡山城(大阪府茨木市新郡山1丁目9付近)について考える

大阪府茨木市新郡山1丁目9のあたりにあった、摂津郡山城跡です。天正6年冬の荒木村重謀反の時、織田信長はここにも本陣を置き、対応に腐心しました。11月16日、信長はこの場所で高山右近と会見し、間もなく、茨木の中川清秀も開城。同月26日、織田信長は、この場所で、高山右近・中川清秀に黄金三十枚などの褒美を下しています。

しかし、公的な発掘などは行われていませんので、詳細は不明なままで、遺構もなく、今は地形などを見て想像することしかできません。
 かろうじて、茨木市教育委員会により、案内板が設置されていますので、以下、その内容をご紹介します。

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郡山城主郡平太夫は、摂津国高槻城主和田伊賀守惟政に仕え、この郡山の地に城を構え、近郷七ヵ村を支配していたといわれている。
 『陰徳太平記』によれば、元亀2年(1571)8月、茨木方の和田惟政と荒木村重ら池田二十一人衆との対立があり、勝尾寺川と茨木川の合流点辺りの白井河原をはさんでの合戦となった。この時平太夫は、奮戦むなしく戦死したと記されている。
 『中川氏年譜』によれば、合戦の夜、村重は酒宴を開催、翌日茨木城を攻め落としたのがこの郡山であった。
 さらに、『信長公記』によれば、織田信長に対する村重の逆心時、信長は高槻城主高山右近をこの土地に呼び、味方にしている。次いで、信長はこの城を有岡城攻めのひとつとし、津田七右衛門尉信澄が城番であった。

現在、城は残っていないが、新郡山1-9から西一帯に「城ノ内」という地名が残り、また『東摂城址図誌(明治初期 東城兎幾雄編)』に「郡山城址 在嶋下郡郡山村字城ノ内」と記されていることなどから、この城ノ内一帯が、城の中心であったことがうかがえる。
 周辺には、門口・山ドイ・物見塚・出シ・二ノ坂・西ノ谷・西ノ町・上ン町・中町・南町・東町など城に関する地名が残っており、伝承・地形・文献などから勘案すると、郡山全域がほぼ城域であったと考えられる。
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また更に、『わがまち茨木(城郭編)』では、以下のようにあります。但し、細かなところは今現在、判っている事実とは異なっています。

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【郡山城】 執筆者:田中 忠雄 刊行時

天正の頃、芥川城主和田伊賀守惟政の武将、郡平太夫宗弘城主たりき。郡家に蔵する「郡氏由緒書」の一節に、「郡平太夫は、摂津国高槻之城主和田伊賀守仕え、同国郡山之城主、郡村・中河原村・宿河原村・上野村・下井村・五ヶ市村、七ヶ村を領致申し候。天正元年7月、伊賀守は荒木摂津守と合戦有之。摂津守は馬塚に陣を取り候扁、伊賀守郡山より三町ばかり北東の方に當り箕原村と中河原村との間糠塚と云う所まで出張致し候。此所、前は川原、北は山にして(中略)平太夫先手に進み勇戦を致し候へば、伊賀守、中川瀬兵衛と戦ひ討ち死に致し候ゆえ、平太夫も陣地より二町程こなた、郡村の内において討ち死を致し候。その馬は黒毛の名馬たる由にて、彼馬に向へば、畜生も能く働き候事よと存じ申し候云々と記さる。
 また大阪府全志には、天正元年和田伊賀守、茨木佐渡守等の足利義昭の命を奉じ、三島村大字耳原の糠塚に陣して、織田信長の武将荒木摂津守村重、池田筑後守輝政と白井河原戦ふや、平太夫進みて輝政の先鉾に當りしも、遂に山脇某の手に斃る云々とあり、今や山地、田地、畠地、池と化し(大部分は浪速少年院の敷地)漸く字地域の内を有するのみ、少年院工事中ハニワ(殉死的人形焼物)掘り出づ。東城兎幾雄編の東摂城址図誌には、図53の如く見ゆ。いささか往昔を偲ぶに足らん。 ※以上の記は春日村誌刊行会編著者、内山平三郎氏の『春日村誌』より

追記:大正11年の浪速少年院工事中に、円筒埴輪が出る。この遺物は、現在も宇治少年院で保管されている。また多くの石が掘り出された中に、郡家の家紋と思われる、三ツ鱗、三ツ星印の城石が発見された。現在は浪速少年院玄関、車まわしの五葉松下に置かれている。(発見者:田中 忠雄)」

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個人的には「郡城」というのもあって、そこはそれに何らかの関係があるのではないかと思っています。若しくは、こちらが古く、新たに郡山城を作ったのかもしれません。郡神社から少年院のあたりに古い城があったのかもしれません。
 『わがまち茨木(城郭編)』に取り上げられている「郡山城」は、状況的に見れば、こちらが「郡城」ではないかと思われます。新しく城を作るには、今も昔も資金と地位が必要ですし、同じ規模のモノをつくるというのは考えられません。
 掲載されている縄張図は、郡城で、いわば旧城の形態ではないかと思われます。役割分担をし、両方共に使ったか、古い方を廃して新しい城に資力を集中させたのかまでは解りませんが、そういった流れで、同じ地域に二つの「郡山城」が存在するのだと思います。

※写真の撮影時期は、2006〜07年で、3月〜5月の春先に撮っています。



大阪府茨木市新郡山1丁目9付近にある茨木市教育委員会の案内板
 

郡山城域北側から北方向を望む眼下には西国街道が通る


郡山城跡付近から出た墓塔など


明治41・43年頃の測量地図


わがまち茨木(城郭編)に掲載の郡山城縄張図

2013年12月13日金曜日

キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その5:補遺1 (和田惟政が鉄砲隊に銃撃されたのは、宿久庄村付近か))

白井河原合戦で和田惟政が池田衆の鉄砲隊に銃撃されたのは、宿久庄村付近かもしれません。

先日、高槻市しろあと歴史館で開催された「高山右近の生涯 -発掘 戦国武将伝-」を見てきました。最近は、毎年のように高山右近を取り上げた企画展を開催してもらえるので、その度に足を運んでいます。

それまでは、正直、真新しさはあまり無かったのですが、今回は素晴らしかったです。様々な可能性、角度から検討が加えられ、資料の少ない高山右近を何とか具現化しようという姿勢が伝わる企画展示になっていたと思います。ですので、図録も素晴らしいです。

その中で、白井河原合戦の折、和田惟政の重臣として参加した郡兵太夫正信についての資料群(肖像画・甲冑・陣羽織など)も公開されていました。また、同氏の家系に伝わる由緒書きも公開され、それには白井河原合戦の様子が詳しく書かれています。

図録にも収められていますが、由緒書の釈文の気になる部分を見てみますと、

-史料(1)------------------------------------------------------------
(前略)
和田伊賀守も郡山より三町(約330メートル)計り北東の方に当たり、箕原村と中河原村と之間、糠塚と云う所迄、出張致され候。此の所前者、川原の北は山にして戦の後者、郡山北白井堤という五町(約550メートル)計り堤此有り。是者、中河原と宿河原と之間、北山の南平場也。郡兵太夫、先手進み勇み戦さ致され候得共、和田伊賀守、中川瀬兵衛尉と戦い討ち死に致され候故、郡兵太夫も陣場より二町(約220メートル)程こなた、郡村の内に於いて討ち死に致され候。其の時の馬者、黒馬の名馬たる由にて、彼の馬に向かい乍ら玄星も能く働き候事と申され候。馬もうな垂れ、終いに落ち申し候に付き、所々者、此の所に埋め、印に松を植え置き申し候。其の時、討ち死に申し武士の死骸共集め、埋め候所、臼の様に二つかつぎ、是を哉、茶臼塚と申し候。兵糧を炊き候所、竈成りに残り候をへつい塚と申し候。
(後略)
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とあります。

少し細かく見てみましょう。

和田伊賀守も郡山より三町計り北東の方に当たり、箕原村と中河原村と之間、糠塚と云う所迄、出張致され候。
 若干距離感は違いますが、「糠塚と云う所」とは、幣久良山に陣を置いた事を指していると思われます。郡兵太夫は、郡村から出て幣久良山の陣へ入っていたと伝えています。

此の所前者、川原の北は山にして戦の後者、郡山北白井堤という五町計り堤此有り。
これも幣久良山の要害性を示すものです。和田惟政は、そういう場所を選んで陣を置いていた事が判ります。

中河原と宿河原と之間、北山の南平場也。郡兵太夫、先手進み勇み戦さ致され候得共
記述によると、和田惟政は郡兵太夫などを率いて幣久良山の陣を出て、茨木川を渡って西進したようです。そして早朝、この付近で『フロイス日本史』 にある、
-史料(2)------------------------------------------------------------
(前略)
そして彼ら(和田方)は見つかると忽ちにしてある丘の麓で待ち伏せて隠れていました池田衆の更に2,000名もの兵に包囲されました。最初の合戦が始まると直ぐ、池田方は真ん中に捉えた和田方に対して、一斉に300梃の銃を発射させました。和田方の200名は、自分達の総大将と一丸となって、危険が迫って来るのを見、甚だ勇猛果敢に戦いました。
(後略)
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交戦となったのでしょう。「そして彼らは見つかると...」とは、和田惟政も何かを目的として、密かに行動していたらしい様子が描かれています。しかし、池田衆は既に、宿久庄村の東側あたりの山裾に隠れていたのでしょう。

和田伊賀守、中川瀬兵衛尉と戦い討ち死に致され候故
宿久庄村の南東側あたりで交戦となり、ここで和田惟政は討ち死にしたのでしょうか。

郡兵太夫も陣場より二町程こなた、郡村の内に於いて討ち死に致され候
和田惟政が戦死したため、重臣であった郡兵太夫はその場から、更に220メートル程移動しているようです。郡村の内にまで入っていたようですので、勝尾寺川を渡って南に移動していたようです。郡村へ帰ろうとしていたようです。郡村には城があったと伝えていますので、そこに戻ろうとしていたのかもしれません。
 そしてその時に郡兵太夫の乗り馬も倒れ、それが塚として残されたとの事です。それは今も伝わる馬塚なのでしょう。また、ここには戦死者も集められて埋葬されたとの事です。
 ちなみに、城はその後、池にしたと伝わっています。

埋め候所、(中略)、兵糧を炊き候所、竈成りに残り候をへつい塚と申し候
また、馬を埋めた所は、兵糧を炊く場所だったとの事です。 その時だけの事なのか、そういう固定的な場所だったのか、これについてはよく判らないのですが、他との関連性も掴めない場所です。郡村からは少し離れているような場所ですし、郡城と関係する施設なのかどうか、ちょっと今のところ判りません。

白井河原合戦で戦死した和田惟政も郡兵太夫も勝尾寺川を越えて、南へ逃れようとしているようですので、その方向には敵が居なかったと考える方が自然なのかもしれません。
 という事は、郡村や郡山村の辺りは、合戦当日にはまだ池田衆の手に落ちていたとは考え難いのかもしれません。池田衆は宿久庄城を落とし、そこから幣久良山方面に対峙しようとしていましたが、郡方面が確保できていないために池田衆は、前進方向の右手に不安を抱えながらも決戦を挑み、和田方に打ち勝ったといえるのかもしれません。

更に考えてみると、和田惟政は宿久庄村の山際の縁を回り込み、郡村方面からの挟撃を考えていたのかもしれません。200の手勢で強行したのは、こういった作戦と、前後の判断があっての事ではなかったでしょうか。また、宿久庄方面の残党など遊軍と何らかの呼応を行おうと、惟政は考えていたのかもしれません。
 何れにしても、買って知ったる自領ですから、多少の無理は利きますし、当然ながら、発想もそうなるでしょう。それが逆に、詰めの甘さとなり、池田衆にその辺りをつけ込まれたものと思われます。

これらの伝承が、ある程度正確なものだとすると、ちょっと白井河原合戦の詳細検討で修正する部分が出てきそうです。辻褄の一致するところは多く感じます。検討し、随時行いたいと思います。

この後もちょっと白井河原合戦について、書いてみたいと思います。