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2023年10月26日木曜日

摂津国河辺郡荒牧村周辺の酒造りを見る

荒牧村の周辺でも酒造りをしている地域があるので、その資料をあげてみます。有馬街道も含め、同じ郡内で平野部の場所を偏見で選びました。兵庫県の地名からです。
※兵庫県の地名1(日本歴史地名大系29)

---(資料10)----------------------------------------------
〇鴻池村(伊丹市鴻池など)
武庫川支流の天神川と天王寺川に挟まれた村で、新田中野村の北に位置する。文禄3年(1594)9月荻野村・荒牧村と一括で宮木藤左衛門尉の検地を受けた(延享4年「荻野村書上帳」荻野部落有文書ほか)。慶長国絵図、元和3年(1617)の摂津一国御改帳では鳴池村とあるが誤写か。この段階では村切されておらず、石高は荒牧を本郷とし荻野と三ヵ村合わせて1782石余。(中略)鴻池家初代の新右衛門幸元は清酒製造に成功し、慶長4年初めて酒を馬の背に乗せて江戸に送ったという(寛政6年「新右衛門返答書」灘酒沿革史、鴻池稲荷祠碑では翌年)。幸元は大坂久宝寺(現大阪市中央区)に店を構え、寛永16年八男善右衛門正成が今橋(同中央区)の鴻池本家の祖となった。幸元は当地の邸に稲荷社を勧請、宝暦13年(1763)の台風で祠が倒れたため、天明4年(1748)中井履軒の撰で鴻池稲荷祠碑を建立した。当村の清右衛門は古来800石の酒株をもっていたが400石まで減石し、正徳4年(1714)すべて伊丹郷町米屋町六郎左衛門に譲った(「酒株譲証文」岡田家文書)。享和3年(1803)酒造家2軒、株高2770石(「酒造株石高控」四井家文書)。(後略)

〇山田村(伊丹市山田1 - 6丁目など)

寺本村の南に位置し、北西端を山陽道がかすめる。宝徳4年(1452)2月19日の与一大夫等下地預け状(稲垣文書)によると、「山田せう下村衛門三郎下地」2反は地下(村)のものとなっていたが、この時に宮内大夫に預けられた。署名している与一大夫と斎阿弥は山田庄の村落の代表者と考えられる。(中略)近世初頭から酒造業が展開、慶長後期には白井栄正の子市右衞門正次が湯山(現神戸市北区)・篠山・摂津大坂へ酒を売りに行き、万治2年(1659)・同4年には蔵が建てられたという(「白井市右衞門一代之覚」白井家文書)。明暦2年(1656)には7人の酒造家がおり、翌3年の市右衞門の酒造米高は1800石、他の3人も1000石を超え当村の酒造米高は6950石(「明暦万治酒造米高覚」岡本家文書)。しかし相次ぐ減醸令によって延宝8年(1680)には346石にまで激減、この頃から尼崎や兵庫津に株の売却が相次いだ(「村中酒作高之覚」山田部落有文書)。しかし元禄10年(1697)には新城屋五郎右衞門が江戸に酒問屋の出店を出し、正徳3年(1713)頃弟同権右衞門とともに新城屋新田(現尼崎市)の開発を始め、享保元年(1716)に146石余の検地を受けた(尼崎志)。(後略)

〇寺本村(伊丹市寺本1 - 6丁目など)
山陽道に面し、昆陽村の西に位置する。地名は昆陽寺が所在するすることによる。慶長国絵図は昆陽寺を行基堂とし村名も行基堂村だが、元和3年(1617)の摂津一国御改帳では寺本村とみえ、高438石余。正保国絵図(京都府立総合資料館蔵)には街道の東から東寺本村・中寺本村(大分県竹田市立図書館蔵正保国絵図では中寺村)・西寺本村とあり、正保郷帳によるとそれぞれ高179石余・高98石余・高160石余。(中略)酒造家は東寺本に2軒・酒造株高105石(昆陽組邑鑑)。(後略)

〇昆陽村(伊丹市昆陽1 - 8丁目など)

千僧村の西に位置する。山陽道が東西に通り、有馬(現神戸市北区)への道が交差する宿場町として発展した。小屋村(慶長国絵図)・崑陽宿村(正保郷帳)とも。「和名抄」所載の武庫郡児屋郷、古代中世の昆陽・崑陽野の遺称地で、小屋庄が成立した。文禄3年(1594)片桐且元によって検地が行われた(「法厳寺口上」法厳寺文書)。(中略)酒造業も行われ、正徳6年(1716)には江戸積み酒造家がおり(「江戸積荷樽覚」岩田家文書)、宝暦6年頃は4人で酒造株580石(昆陽組邑鑑)。酒造家や米屋を相手にする有力な米仲買商人が成長し、天保7年(1836)には賀茂屋平兵衛・石橋屋吉右衞門が川辺郡惣代として摂津七郡で在郷米穀仲買商人仲間を結成する動きも出た。(後略)

〇千僧村(伊丹市千僧1 - 6丁目など)
大鹿村の西にあり、村の東縁は同村の田畑と入り組んでいた(「千僧村絵図」大鹿土地改良区蔵)。山陽道が東西に通る。先祖村とも(中国行程記)。地名は49院造営の願が成就した行基が千僧供養をしたことにちなむという(摂陽群談)。文禄3年(1594)片桐且元によって検地が行われた(「諸色付込帳」千僧土地改良区文書)。慶長国絵図に村名がみえ、高247石余、元和3年(1617)の摂津一国御改帳では高237石余、正保郷帳によると高256石余、延宝5年(1677)検地を受け(「千僧村検地帳」千僧土地改良区文書)、享保20年(1735)の摂河泉石高調は高307石余。(中略)酒造株4人で445石(諸色付込帳)。(後略)

〇大鹿村(伊丹市大鹿1 - 7丁目など)
大志賀村とも(天正10年正月日「法華経巻釈」妙宣寺文書、慶長国絵図)。地元では「おじか」とよぶ。北村の西に位置し、山陽道が東西に通り、村の中ほどに一里塚がある。同街道に交差して伊丹郷町から中山寺(現宝塚市)、有馬(現神戸市北区)への中山道(有馬道・大坂道)が通る。村は東方と西方に分かれていた(「増補御領地雑事記」森本家文書)。文禄3年(1594)片桐且元によって検地が行われ(「奥谷池論記録」坂戸家文書)、慶長国絵図では高386石。享保20年(1735)の摂河泉石高調は高438石余と新開2石余。天保郷帳は高450石余。慶応元年(1865)の池尻村記録帳(池尻区有文書)では高503石。初め豊臣領で慶長(1596 - 1615)後期から片桐貞隆(大和小泉藩)が預かり、豊臣家滅亡後幕府領となったが、貞隆の預かりはしばらく続いた。(中略)寛文年間(1661 - 1673)頃から酒造が始まったとされ、元禄10年(1697)の株改では12人の酒造家がおり造高4010石(「酒造請高調」武田家文書)。寛延3年(1750)には「剣菱」の銘柄で知られる津国屋勘三郎が確認され、同4年の江戸積出11958樽、宝暦10年(1760)は16396樽(「酒掛之目録」伊丹酒造組合文書)。「摂陽群談」にも「甚香味なり」と紹介されている。(後略)

〇小浜町(宝塚市小浜1 - 5丁目など)
武庫川左岸に突き出して、大堀川に囲まれた台地上に位置する。川辺郡に属し、東は安倉村、北は米谷村、西は武庫川川面村、南は武庫川を挟んで同郡伊孑志村。京・山城伏見から有馬・丹波方面への有馬街道に沿った宿場町。大坂道から分岐する。(中略)江戸前期には江戸積酒造産地で小浜流という醸法が知られていた(童蒙酒造記)。井原西鶴の「日本永代蔵」は諸白の産地とする。享和3年(1803)には酒家2軒・800石、領主貸付株酒家1軒・150石があった(「摂津国酒造株石高寄帳」国立公文書館蔵)。文政10年頃には1軒・600石に減少(前掲様子大概書)、明治に至る(明治3年「酒造米高書上帳」小西家文書など)。慶長11年(1606)東は郡山(大阪府茨木市)、西は生瀬(兵庫県西宮市)の間で駄賃稼・荷物付をするよう定められた(「摂州内駄賃馬荷附所覚」大阪府全志)。(後略)

〇米谷村(宝塚市米谷1 - 2丁目など)
川辺郡に所属。有馬街道に沿って小浜町の北に位置し、西は荒神川を挟んで武庫川川面村。中世米谷庄の遺称地で、別に米谷村の村名もみられる。慶長国絵図に村名がみえ高624石余。慶長19年(1614)高423石余が大和小泉藩領となり(「片桐貞隆宛知行目録」杉原家文書)、元和3年(1617)の摂津一国御改帳によると残る高200石は幕府領(代官建部与十郎預地)。寛文2年(1662)には200石分が上総飯野藩領になり(「免状」和田家文書)、幕末に至る(宝塚市史)。(中略)元禄 - 正徳期(1688 - 1716)に8軒の酒造家がいた(正徳5年「米谷村酒造米高覚」御影町文書)。小浜が寺内町として開発される前は米谷が宿場の機能を果たしていた。本願寺蓮如の摂州有馬湯治記(広島大谷派本願寺別院文書)の文明15年(1483)9月17日条に「舞谷」を通過したことが記される。(後略)

〇川面村(宝塚市川面1 - 6丁目など)
有馬街道沿いに川辺郡米谷村の西にあり、南東は武庫郡見佐村、西は有馬郡生瀬村(現兵庫県西宮市)。古代河面牧、中世河面庄の遺称地。集落は上川面・下川面に分かれ、上川面の集落は安場村と人家・田畑とも入り組み、時代によって武庫郡と川辺郡との間で所属が変化したとみられるが、下川面は武庫郡に属して本郷とよばれていた(「川面村郡別高付分限」中野家文書)。(中略)正徳3年(1713)の酒屋六兵衛の減石届によると、六兵衛は米谷村で酒屋奉公の後に酒造高5石余で独立した。江戸廻船には積下さないとしており地売酒屋だったと思われるが、寛政9年(1797)には麹屋市左衛門が北在組酒造家24人の惣代となって、往古より西宮へ津出ししていると主張している(「北在酒造荷物口線口上」若林家文書)。明治18年(1885)安場村を合併。(後略)

〇安場村(宝塚市川面1 - 6丁目)
東は荒神川を境に武庫郡川面村下川面。同村の上川面と集落・耕地が入り組む。有馬街道に沿う。天正13年(1585)9月10日の羽柴秀吉領知判物(妙光寺文書)に「摂津河辺郡(中略)やすば村」とみえ、当村の20石などが妙光寺(現大阪市中央区)に宛がわれている。慶長国絵図では武庫郡に村名がみえるが以後は川辺郡に属する。文禄3年(1594)浅野弾正忠が検地を行い、高26石余。(中略)酒造業が行われ享和2年(1802)には1軒・300石だったが、文政期(1818 - 30)には2株・1360石となり(「一橋領村々様子大概書」一橋徳川家文書)、明治3年(1870)には2軒・4株・1446石余になった(「酒造米高書上帳」小西家文書)。(後略)

〇中筋村(宝塚市中筋1 - 9丁目など)
川辺郡に属し、米谷村の東に位置する。文禄3年(1594)浅野長吉の検地で高617石余、田方31町2反余・畠屋敷方22町4反余(同年9月日「中村御検地帳」小池家文書)。集落は南北に分かれ、慶長国絵図では北に小池村、南に中筋村の2集落が描かれる。元禄郷帳では中筋上村とみえ「古は中筋」と注記。元禄国絵図(内閣文庫蔵)では中筋下村を「中筋上村之内」とする。(中略)小池家は近世前記の酒造家で酒造米高は万治元年(1658)は2800石。その後減醸令によって規模はいったん縮小するが、元禄10年(1697)の株改では2980石、翌11年には2000石を申告、豊嶋郡尊鉢村(現大阪府池田市)に出店もあった(「酒造米減少之次第」小池家文書)。灘酒の江戸積みが行われるようになると北在郷の仲間も西宮まで運び津出しした。寛政9年に西宮駅が口銭をかけようとしたが、北在組酒造家24人惣代大行司小池治右衞門らの働きかけで認められなかった(「口上書」若林家文書)。享和3年には酒造家2軒・870石余(「摂津国酒造株石高寄帳」国立公文書館蔵)。同時期と推定される「摂州酒樽薦銘鑑」に当村三木屋彦兵衛の名がみえる。宝暦3年(1753)には小池家が銀主になって尼崎銀札(現存)が発行された。(後略)

〇加茂村(川西市加茂1 - 6丁目など)
栄根村の南、最明寺川下流域の台地上に古くから開けた上加茂と、東部の猪名川沿い平野部の下加茂からなる。式内社鴨神社が台地上に鎮座、同社を中心に弥生時代の加茂遺跡がある。当地から東は瀬川・半町(現大阪府箕面市)に通じ、西は小浜(現宝塚市)・生瀬(現西宮市)の宿駅に通じる古くからの要路(有馬街道)がある。地内に市ノ坪の地名がある。中世の加茂村・加茂庄の遺称地。正安2年(1300)7月10日の代官の代官光末寄進状(多田神社文書)に当地の「阿弥寺」がみえ、湯屋谷東谷の田地が経田として寄進されている。(中略)酒造株は持高2450石の岩田五郎左衛門など4人で造高5158石。(中略)なお享和3年(1803)当村の1株高900石の酒造家は摂津北在組(16ヵ村)に属していた(「酒造株石高数之控」四井家文書)。(後略)

〇栄根村(川西市栄根1 - 2丁目など)
小花村の南西、最明寺川下流域の左岸に位置する。壱之坪の地名がある。「住吉大社神代記」に「河辺郡猪名山」は「坂根山」とも号すると記され、東は猪名川と公田、南は公田、西は御子代国の境の山、北は公田と羽束国の境を限るという範囲であるが、河辺・豊島両郡の山をすべて為名山と称するともいう。(中略)なお天文 - 弘治年間(1532 - 58)頃に丹波八上(現丹波篠山市)の波多野一族の荒木氏が小戸庄栄根に移り、のち池田勝正に仕えるようになったという(「荒木略記」内閣文庫蔵)。(中略)小戸庄七ヵ村は初め高一所として扱われていたが、寛永3年(1626)に村切りが行われた(「寺畑村免状」尾林家文書)。宝暦6年(1756)の栄根村付込帳(栄根部落有文書)によれば、元文元年(1736)新開田畑2町2反余が本高に加えられ、百姓本人37・抱本人18・医師1、牛15、酒株100石、鉄砲3。(後略)

〇小戸村(川西市小戸1 - 3丁目など)
現川西市域の南部、池田村五月山の西方、猪名川右岸に位置する。地内に壱之坪の地名がある。中世は小戸庄に含まれた。慶長国絵図に「ヲウヘ村」とみえ、高1691石余とあるが、滝山村・出在家・萩原村・「ヲハナ村」などを含むものと考えられる。元和3年(1617)の摂津一国御改帳では「北戸庄村」と記される。寛永元年(1624)に「小戸庄」として年貢1221石余のうち168石余は大豆納とされ、庄屋・百姓中に免状が下付されているが(小戸村文書)、同3年頃には村切りが行われたらしい。正保郷帳では小戸村といて高533石余。(中略)正徳5年(1715)「小戸村」の八右衞門は高20石の酒株を今津(現西宮市)の三右衛門に譲っている(同6年「今津酒造米高書上」鷲尾家文書)。(中略)百姓本人45・地借本人2・水呑本人7、酒株高670石(猪三右衛門持)、牛14、鉄砲2。(後略)

〇出在家村(川西市出在家町など)
火打村の北東、猪名川の右岸に位置する。文禄3年(1594)10月の川辺郡小戸庄出在家村検地帳(滝井家文書)によれば田5町9反余・畠屋敷5町1反余で、分米137石余のうち荒16石余。名請人は持高30石余の北右衞門ら22人、屋敷地を登録する者8人、庵1ヵ所。慶長国絵図では「出在家」と記すが、七ヵ村一括で村高は不明。正保郷帳には「新在家村」とあり、高137石余。正保郷帳では出在家村とみえ、高142石余。領主の変遷は文禄4年片桐且元領となり、元和元年(1615)から幕府領、それ以降は小戸村と同様。(中略)宝暦5年(1755)の村明細帳(滝井家文書)によれば百姓本人19、牛7で、蔵一ヵ所、キリシタン札・火付札、威鉄砲1、酒株350石(当時は休株)。(後略)
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荒牧村の周辺では酒造を行う村もあり、以上にあげた村で行われていました。特に、山田村(明暦3年:1800石)、大鹿村(最盛期4010石)、中筋村(元禄期2980石)、加茂村(最盛期5158石)の諸村は製造量が多く、特に大鹿村は江戸積(宝暦10年16396樽)が行われていました。他に、小規模ながらも昆陽村(580石)や小浜町(950石)などもありました。
 江戸時代になると、当時は、勝手に営業もできず届出と認可が必要でしたので、製造上の技術要素だけではなく、酒造業の様々な問題も経て成せる商売でした。また、上記の資料では、時代を考え合わせたものではなく、歴史的な流れだけを繋いだものですので、「荒牧屋」の動きを中心に見た場合には、それらの条件も一致させる必要があります。

『兵庫県の地名』荒牧村条には、酒造についての記述がなく、不詳ですが、近隣にこれだけの醸造地があり、一大消費地の大坂や衛星都市の伊丹・池田(大規模生産地でもある)、城下町尼崎など大きな都市があります。
 櫻正宗の前身「荒牧屋」の当主山邑氏は、賢実に商売を拡大し、初代山邑太左衛門を名乗り、酒造家として、1717年(享保2)に創業します。その後も様々な関係性を繋いで歴史を紡いだものと想像します。

 

江戸時代後期を再現した摂津国川辺郡小浜宿(模型) ※全家屋が瓦屋根
 

 

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2023年3月18日土曜日

灘酒 櫻正宗と正蓮寺・摂津池田の関係(はじめに)

ユーチューブのコンテンツは、様々な情報があり、森羅万象何でもあるように思います。何でもない、いつもの風景から地元情報、昔の話し、陸・海・空・宇宙、世界中、時空も超え、何でもあります。そんな中で思うのは、結局、それは自分の限界に気付きます。知っているモノしか選べない。

まだAI(エー・アイ)技術は黎明期ですが、そのAIが紹介してくれるコンテンツで、思いがけない発見に繋がることもあります。これは、大変に良いことですし、私も折々助かっています。本との出会いもそうです。

そんな流れで、ユーチューブのコンテンツから、大きな発見がありました。灘酒 櫻正宗と正蓮寺・摂津池田の関係です。過去の記事「此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察」の関連記事です。以下の項目を立てて、ご紹介できればと思います。

どうぞご覧下さい。

櫻正宗と運命の出会いと驚きの偶然
摂津池田城家老の存在
摂津国河辺郡荒牧村について
荒牧屋(山邑家)と池田城家老職系譜を持つ上月政重は同郷
寛永2年に荒牧屋(櫻正宗の前身)が創業した頃を考える
摂津国河辺郡荒牧村周辺の酒造りを見る
元禄年間の全国的な好景気と江戸での下り酒のブランド化
江戸送り酒の産地は西宮から灘へ
銘酒 櫻正宗、正蓮寺、摂津池田を繋ぐ縁とその歴史
『荒牧郷土史』に記録された「酒造」と荒牧屋について

【関連記事】此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察


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荒牧屋(山邑家)と池田城家老職系譜を持つ上月政重は同郷

先述の通り、上月重政のルーツの地が荒牧村であり、そこに住まう山邑氏とは当然ながら古い縁故関係があって、元禄・寛永年間という日本国内の経済復興期に、家業飛躍の好機を甲賀谷正長に求めたのだろうと思われます。この頃、めぼしい酒造地がほとんど無く、池田郷は、江戸積の下り酒を独占していました。
 伝法の正蓮寺開基というハレ舞台で、「荒牧屋」の酒を多量に寄進できるというのは、これ程のビジネスチャンスはありません。
 伝法という地は、交通の要衝であり、多くの人々が交差する場所で、当然ながら銭も情報も集まります。そんな場所に手がかりができるのは、それだけで莫大な財産となります。
※※大阪府の地名1(平凡社)P747

---(資料8)----------------------------------------------
【伝法村】 此花区伝法1 - 6丁目
中津川が下流の中州によって伝法川と正蓮寺川に分流する地に位置し、伝法川の北岸を北伝法(伝法北組)、南岸を南伝法(伝法南組)と称した。南東側は四貫島村。地名は仏教伝来にちなむとか、鳥羽上皇が紀州高野山に伝法院を建立する時、その用材を船積みした地であるからなどの里伝がある
 当地は、中世末期には中津川河口の湊として交通の要衝となっており、伝法口とも称された。「陰徳太平記」によると石山本願寺を攻める織田信長が、「伝法」に武将を配置している。また慶長19年(1614)の大坂冬の陣では、大坂城に籠もる豊臣方が当地に砦を築いたともいわれる(大阪市史)。諸川船要用留所収の慶長8年付徳川家康の過書中宛朱印状写に過書船発着地の一つとして当地があげられている。同10年の摂津国絵図には「テンホ」とみえる。
 元和元年(1615)大坂藩松平忠明の支配下で船手加子役を賦課され、同6年には大坂御船手(小浜氏)の支配下となり、船番所も設置された。寛永11年(1634)から加子扶持7石を支給されている。寛文10年(1670)幕府領となったことにより加子役はそのままで、年貢も賦課されるようになった(西成郡史)。当地が行政的に村となったのはこれ以後のことで、それ以前は大坂に準じて幕府直轄都市の扱いを受けていたと思われる。元禄郷帳に村名がみえ、幕府領となっている。以後幕末に至る。
 享保20年(1735)摂河泉石高帳によると130石余、流作地4石余。加子役は屋敷を単位に賦課され、南北両伝法に185軒の公事屋敷があった。ところが天明年間(1781 - 89)町を単位に賦課する方法に改められ、当時、当地辺りに成立していた八か町、すなわち北伝法上之町に35役、同中之町40役、同下之町30役、南伝法上之町42役、弥右衛門開の内八軒町6役、南伝法下之町12役、五右衛門開5役、十三軒町15役が課せられた。なおこの加子役の賦課率は村小入用の割付にも適用され、享保8年以降は村小入用の6割は加子役に、4割は村高に割付られたという(西成郡史)。
 大坂市中の河川を回漕する上荷船・茶船のうち、当村上荷船は最も古い由緒をもつ七村上荷船の一つに数えられている。年次は未詳だが船極印方(「海事史料叢書」所収)によると、上荷船45艘をたばねる組頭一人が南伝法に、同45艘の組頭二人と同44艘の頭一人が北伝法にいた。
 正保期(1644-48)上方から江戸への下り酒が伝法廻船で積み出され万治元年(1658)佃田屋与治兵衛が北伝法上島町で江戸積の廻船問屋を開業、寛文年中、中島屋小左衛門・小山屋源左衛門・堂屋藤兵衛が酒樽専門の江戸積問屋を開業、元禄年中(1688 - 1704)には綿屋治兵衛・大鹿屋九兵衛・宮本弥三兵衛・薬屋新右衛門らも加わって、その数を増やした(「船法御定並諸方聞書」同書所収)。それに用いられた伝法船は従来の菱垣廻船よりも迅速に回漕したため「小早」と称され、やがて酒樽以外の商品も積み込んで菱垣廻船に対抗した。これが享保期以降、樽廻船と呼ばれるようになった(「菱垣廻船問屋規錄」同書所収)。樽廻船はとくに伊丹・池田の酒造業の発展に対応して繁栄した。しかし当地においては貞享元年(1684)安治川の開削によって河港としの繁栄を順次安治川沿岸に奪われ、当時船数700余・家数800余・人数3500余と栄えていたのに対し、天明年間には船数200余・家数400・人数1900余に減少したといわれる(西成郡史)。
 もっともその頃当地には廻船業の他に酒株37・醤油造株3・樽屋26・運送屋3・寒天曝屋4・籠屋2・竹屋2・畳屋2・家および船大工9・紺屋4・質屋4・寺子屋4・商人73・医師4・按摩17・社人3・僧尼道心者35などがあり、小都市の景観を呈していた。また、伝法川に設けられた船渡しは「伝法の渡し」とよばれ、尼崎に至る街道に通じて、大名参勤の通路となっていた
 当地には鴉宮(からすのみや)・澪標(みおつくし)住吉神社、浄土真宗本願寺派浄泉寺・西光寺、真宗大谷派慶善寺、浄土宗宝泉寺・西念寺、日蓮宗正蓮寺、単立(浄土真宗系)安楽寺がある。鴉宮はもと伝法の船問屋が祀った「伝母頭神社」といい、豊臣秀吉の朝鮮出兵の時、三羽の鴉が水先案内をしたことから現社名に改称したと伝える。
 川名の由来ともなった正蓮寺では8月26日に川施餓鬼を行う。「伝法の施餓鬼」とよばれ、天神祭とともに浪速の夏の二大行事とされている。明治10年(1877)当村は南伝法村・北伝法村に分村した。なお、天保郷帳に弥右衛門開18石余と「助太夫・五右衛門開」77石余がみえるが、うち弥右衛門開と五右衛門開は当村に近い伝法川上流中州に開かれた地で、助太夫開は大野村(現西淀川区)に接して開かれた新田である。
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池田から江戸までの輸送経路と運賃



それからまた、正蓮寺について、縁起を紹介しておきます。
※伝法 正蓮寺発行の『正蓮寺概史』より

---(資料9)----------------------------------------------
【正蓮寺略縁起】
寛永2年(1625)篤信の武家、甲賀谷又左衛門が、毎夜海中にて光を発するものを見つけ、網を入れたところ、お木像が上がって来たので、邸内にお祀りしていました。たまたま京都から来られた修行僧、唯性院日泉上人がこれを御覧になり、間違い無く日蓮大聖人の御尊像であることを認められました。そこで、日泉上人を開山とし又左衛門を開基として、大方の協力を得て建てた草庵が、今の正蓮寺のおこりであります。寺号の正蓮寺は、甲賀谷又左衛門の予修(よしゅ:生前に、自分の死後の冥福 (めいふく)のために仏事をすること。)、正蓮日宝禅定門より、また山号の海照山は、御尊像が海を照らした事から名付けられたものであります。
 大阪の代表寺院25ヶ寺の内に数えられた正蓮寺は、惟うに権門の庇護に依り建立された寺ではなく、土着の一無名人の発願にて創立された庶民的な寺院であります。創建以来来伝燈絶えずして信徒参集し、寺門興隆して現在は第26世を踏襲するに至っております。
【伝法の川施餓鬼】


享保6年(1721)、当山第7世、寂行院日解上人は、日蓮大聖人が海中にて衆生済度せられた功徳を継承せんとて、川供養の行事をはじめられたのが、いまの伝法の川施餓鬼であります。創始以来、正蓮寺川に棚を作り色々な供物をして、有無両縁の万霊を供養して参りました。摂津名所図絵に記されている様に、数百曳の船団で参拝者が群集したしました。地元の伝法・高見・四貫島の各家では、遠近より親類縁者を招いて精霊をお祀りし、法要の後は各船団は棚を片付けて船遊びに興じてお祭り騒ぎになるのが常でした。陸では数百の露店が賑わい、名物の枝豆・竹ごま・焼鳥屋などが繁昌し、全く天神祭をしのぐ程の盛大な大阪の夏を締めくくる行事でした。夕刻、船団も引き揚げ露店も終わる頃には涼風も吹く時期でもあり、「暑い夏には天神祭、あついあついも施餓鬼まで」と、今日までの夏の風物詩として語り継がれ親しまれて参りました。古来より仏法経典の渡来した最初の浜とも云われる伝法の地であります。仏事が盛大に行われて来たのも当然のことと思われます。昭和46年には、川施餓鬼創始250年の記念大法要を厳修いたしました。殊に現在は、区内に奉賛会が組織され、更には浪速全般に亘る参拝会の活躍は、誠に有り難いことでもあります。ただ、昭和42年頃より正蓮寺川の汚濁が甚だしくなった為、川渡御は新淀川に移すことになりました。平成26年度に「正蓮寺の川施餓鬼」として大阪市指定無形民俗文化財に指定されました。
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縁起では、「甲賀谷又左衛門正長が篤信の武家」であったこと、「寛永2年(1625)、正長を開基として、大方の協力を得て建てた草庵が、今の正蓮寺のおこり」であること、「甲賀谷正長(正蓮日宝禅定門)が生きている間に、予修として寺の開基を行った」ことが伝わっています。

 

施餓鬼当日の様子 ※2019年撮影 

 

施餓鬼当日の様子 ※2019年撮影

 

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寛永2年に荒牧屋(櫻正宗の前身)が創業した頃を考える

1625年に山邑家は、酒造業界へ新たな参入をした画期だったのかもしれません。創醸とはいえ、正蓮寺とのエピソードを考えると、それ以前から酒造りは行われており、品質と量の確保ができるレベルであったからこそ、正蓮寺開創に多量の酒を提供できたものと思われます。
 元禄年間過ぎ頃まで、酒造については、池田郷が酒の大規模生産地でした。その後は次第に生産地が増えますが、それまでにはかなりの時間を経ています。池田郷を中心として、関連要素の年譜をあげてみます。

荒木村重が織田政権から離叛した事により、織田勢に攻められ、池田の町は大きな被害を被ります。その荒廃から復興までの流れと、池田の町と周辺の人・事・物に関する出来事を一覧にしてみます。 

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1578年 荒木村重領内池田郷へ織田信長勢が池田城下へ攻め入り打ち廻る
1579年 池田の町の再建が始まる
1582年 織田信長暗殺される
1584年 尾張小牧・長久手の戦いに池田知正が従軍
1584年 伊居太神社の神輿が再び出る
1589年 上月十大夫政重、池田備後守知正へ仕官
1592年 小坂前町を境に二分して、新たに中之町を作る
1595年 池田の町に大火が起こる
1600年 関ヶ原合戦、池田知正が徳川家康に従軍する
1604年 池田知正死亡
1605年 池田三九郎死亡(その父である光重が知正の跡を継ぐ)
1609年 池田備後守光重、摂津池田大広寺へ知正などの肖像画、釣鐘、10石の寺領を寄進
1613年 関弥八郎の不祥事に連座して、池田光重が失脚(駿河国法命寺へ蟄居)
1614年 大坂冬の陣、池田光重が有馬豊氏客将として参陣
1615年 大坂冬の陣
1616年 徳川家康没
1624年 大坂の町割りが概ね調い、人口は28万人と推定される
1625年 摂津国西成郡伝法の正蓮寺開創
1625年 摂津国河辺郡荒牧の「荒牧屋」創業
1628年 甲賀谷正長没か
1642年 上月政重没
1644-48  伝法から江戸への下り酒が積み出される(正保年間)
1658年  佃田屋が、江戸摘みの廻船問屋開業
1661-73  大坂の町づくりが概ね完成(河口整備含む)(寛文年間)
1661-73  摂津国西成郡伝法にて酒樽専門の江戸積問屋を開業(寛文年間)
1670年 伝法が幕府領となる
1684年 安治川開削により、伝法の輸送環境が不利となる
1688-1704 大鹿屋などが加わり、輸送業者の数が増加。(元禄年間)
1697年 池田の町絵図が作成される
1696年 摂津池田郷に、本養寺再建される(池田の主要な寺院が随時復興)
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創醸からの間、荒牧屋は、池田郷との関係を強くしていたのだろうと思われます。池田酒は、江戸へも出荷する程の量ですから、提携関係を保ち、製造から輸送まで、協働していたのではないでしょうか。

池田の酒造業は、次第に衰退するとはいえ、元禄年間をピークとして、その後も暫く、池田酒は北摂地域で独占的に江戸積入津樽数を維持しますので、莫大な稼ぎであったと思われます。
 池田郷は幕府の直轄地でもあり、様々な政治的便宜を得たりするなど、他地域には無い優位性があったと思われます。
 このピーク時の元禄10年(1697)に作成された、その当時の町の様子を記録した絵図が残っています。戦乱で失ったものを次々と取り戻し、寺社などは、この頃に再建されます。復興にとどまらず、町は拡大もしていた事と思われます。

元禄時代よりも少し前、正保元年(1644)に、愛宕火が、池田の町で興ります。これは民間から発生したもので、これに対して京都の愛宕神社から苦情が寄せられて訴訟となりますが、池田郷は幕府領でもあり、これを京都所司代板倉勝重が事を収めます。
 このエピソードは、町に活気があり、社会的上位の苦情も覆す程の勢いも感じさせる事から、やはり酒造業を中心とする産業の活況を挫かない配慮があったのかもしれません。
 「摂泉十二郷の江戸積入津樽数」の内訳を見れば、確かに、徐々に池田の酒造生産高は衰えています。しかし、元禄10年の池田郷の独占状態から、次の統計年である天明6年までは、100年近く時差があります。一世代20年として、5世代程の期間が空いていますので、その間に何があったのかは、精査する必要があります。池田郷の酒の生産量自体は6割以上減少していますので、それは、気になるところです。

その過程で、荒牧屋は、1717年に新たな取り組みで、更に時代に対応する決断に至ったのでしょう。この時、池田郷の優位性が崩れており、新天地を求めたのかもしれません。
 もう、この頃になると、人も世も変わり、それまでとは違う価値判断を余儀なくされていたのでしょう。池田との関係性も薄れつつあったのかもしれません。

池田酒史の中で、櫻正宗の前身である「荒牧屋」の名は見られませんが、どこかに未知の資料があるのかもしれません。

 

1911年頃の荒牧周辺地図 ※赤丸印が荒牧村

 

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元禄年間の全国的な好景気と江戸での下り酒のブランド化

元禄時代は、全国的に好景気に沸き、文化面でも復興期でした。当時の日本の政都であった江戸では、関西で醸造される酒の旨さからブランド化し、「下り酒」がもてはやされました。池田や伊丹の酒が銘酒として、引く手数多でした。
 「摂泉十二郷の江戸積入津樽数」によると、元禄10年(1697)の記録では、池田だけで江戸への総入津高の8.8%(56,476)にもなっていました。この頃、摂津国内で他に主要な酒造産地は無く、池田郷が独占状態でした。
 これは、元々池田で酒造りが行われていたという伝承を、ある程度裏付けるものではないかと思います。現在のように、科学の行き渡らない社会では、そう簡単に酒造業(他の生業も)を始める事ができません。もちろん、幕府の届出と許可が必要です。これもそう簡単ではありません。

その頃、池田郷では「万願寺屋」が筆頭酒造家でした。この万願寺屋は、荒木村重の系譜を持つと伝わります。他にも(東西)大和屋や鍵屋が、荒木一門でした。
 池田や伊丹は「在郷町」といわれ、徳川幕府直轄の地でもあったため、様々な特権があって、酒という嗜好品作りには有利な面もあったようです。こういった時代の流れをうまく取り込んで、荒牧屋も賢実に商売を拡大し、1717年(享保2)に初代山邑太左衛門を名乗り、酒造家として創業したのでしょう。
 もしかすると、1717年の発起は、諸事が調い、改元をキッカケとして実行したのかもしれませんね。

 

江戸時代・池田酒の商標


万願寺屋古写真 大正時代頃



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江戸送り酒の産地は西宮から灘へ

より大量に、より早く、を求められる時代の到来と、幕府政策により、江戸時代後半には、江戸積酒造体制の産地構成が変化します。初期の頃は、池田郷が独占状態でしたが、次第に生産地が増えていきます。それらは生産品の輸送に都合がいい、西宮から灘地域にかけて生産地活発になっていきました。
 時代により、味の嗜好も変わりますし、社会の経済情勢、商品供給の事情など様々な変化が起こります。そしてまた、幕府の酒造統制という政策にも依りました。
 1754年(宝暦4)には、徳川幕府が「勝手造り令」を出し、酒造業の奨励を行いました。この流れで、灘や今津の酒造が発展することとなりました。下落していた米価を引き上げる事を目的としていました。

「荒牧屋」は、この流れも上手く掴み、地の利もあって、既に酒造産地となっていた西宮からもそう遠くない、新興酒造地灘・魚崎へ進出する事になったようです。
 ただし、生産場所を変えるだけでは、産業が成り立ちません。流通の整備も同時に行う必要があります。原料の調達、製造した製品の出荷のための港など、一体的な環境が必要です。1717年(享保2)の酒造家として創業(初代山邑太左衛門の名乗り)は、諸事を整えての事であったはずです。
 一方で、元禄期以降の日本経済は下降傾向にあり、コスト削減策としても輸送の利便性の高い場所を求めたという可能性もあります。

 

摂泉十二郷の江戸積入津樽数


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銘酒 櫻正宗、正蓮寺、摂津池田を繋ぐ縁とその歴史

今回、全く予測もしていなかった事が、動画コンテンツのクリックから結びついたのは、偶然としかいいようがありません。この出会いの中で改めて思うことが色々あります。

前近代という時代は、特に縁故関係により信用を繋ぐという社会でしたので、無関係から接点になる事は、現代社会と比べれば、その可能性は非常に低かったでしょう。今でも無くはありませんが、経済的な面以外は、縁故関係での結びつきは、嘗てに比べると、小さくなっているのではないでしょうか。しかし、一方でそれは、社会の信用度が安定しているとも言えるかもしれません。
 それ故に、昔は、歴史を大切にし、正確に伝えることで、未来を拓くという習慣があったと思います。近年、科学的な研究が進み、非常に古い記録であっても、ある程度の正確性があると、証明されつつあります。私自身の研究からも、それは言えます。同時に、その時代の日本人の精神を語るものにもなっています。
 未来のため、子孫のために、自身が過去を引き継ぎ、今を真面目に生きるという営みを、淡々と続けてきた事が、今、科学的にも証明されつつあるように思います。それらの記録により、昔と習慣が変わった現代社会に、バラバラに存在しているかの要素(櫻正宗・正蓮寺・摂津池田城家老)が、全て繋がっている事例をまた一つ発見できました。今後、もっと詳しい資料が見つかるかもしれません。他へも拡大するかもしれません。今後が楽しみです。この温故知新で、疎遠だったものが絆になるのかもしれません。
 同じ時代に生き、また、新たな時代の為に、それぞれが真面目に生きれば、未来へ繋ぐことができるというのは、代々の先祖が証明してくれている事です。間違いはありません。

 

施餓鬼当日の様子 ※2019年撮影


施餓鬼当日の様子 ※2019年撮影
 

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