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2019年8月24日土曜日

此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察(伝法(大阪市此花区)について)

正長自身が法名を「正蓮」と名乗り、それが寺号となっている正蓮寺は、現在此花区伝法にありますが、正長とは何の関係も無いところに建てられるはずがありません。これ程までに経済的に、心情的に支援できるからには、相当に強い結びつきがあったのではないかと考えられます。その「伝法」という場所について、引用してみます。
※大阪府の地名1(平凡社)P747

(資料4)-----------------------
現在の正蓮寺の様子(2019年撮影)
【伝法村】 此花区伝法1 - 6丁目
中津川が下流の中州によって伝法川と正蓮寺川に分流する地に位置し、伝法川の北岸を北伝法(伝法北組)、南岸を南伝法(伝法南組)と称した。南東側は四貫島村。地名は仏教伝来にちなむとか、鳥羽上皇が紀州高野山に伝法院を建立する時、その用材を船積みした地であるからなどの里伝がある。
 当地は、中世末期には中津川河口の湊として交通の要衝となっており、伝法口とも称された。「陰徳太平記」によると石山本願寺を攻める織田信長が、「伝法」に武将を配置している。また慶長19年(1614)の大坂冬の陣では、大坂城に籠もる豊臣方が当地に砦を築いたともいわれる(大阪市史)。諸川船要用留所収の慶長8年付徳川家康の過書中宛朱印状写に過書船発着地の一つとして当地があげられている。同10年の摂津国絵図には「テンホ」とみえる。元和元年(1615)大坂藩松平忠明の支配下で船手加子役を賦課され、同6年には大坂御船手(小浜氏)の支配下となり、船番所も設置された。寛永11年(1634)から加子扶持7石を支給されている。寛文10年(1670)幕府領となったことにより加子役はそのままで、年貢も賦課されるようになった(西成郡史)。当地が行政的に村となったのはこれ以後のことで、それ以前は大坂に準じて幕府直轄都市の扱いを受けていたと思われる。元禄郷帳に村名がみえ、幕府領となっている。以後幕末に至る。享保20年(1735)摂河泉石高帳によると130石余、流作地4石余。加子役は屋敷を単位に賦課され、南北両伝法に185軒の公事屋敷があった。ところが天明年間(1781 - 89)町を単位に賦課する方法に改められ、当時、当地辺りに成立していた八か町、すなわち北伝法上之町に35役、同中之町40役、同下之町30役、南伝法上之町42役、弥右衛門開の内八軒町6役、南伝法下之町12役、五右衛門開5役、十三軒町15役が課せられた。なおこの加子役の賦課率は村小入用の割付にも適用され、享保8年以降は村小入用の6割は加子役に、4割は村高に割付られたという(西成郡史)。
埋め立てられている正蓮寺川(2019年撮影)
大坂市中の河川を回漕する上荷船・茶船のうち、当村上荷船は最も古い由緒をもつ七村上荷船の一つに数えられている。年次は未詳だが船極印方(「海事史料叢書」所収)によると、上荷船45艘をたばねる組頭一人が南伝法に、同45艘の組頭二人と同44艘の頭一人が北伝法にいた。正保期(1644-48)上方から江戸への下り酒が伝法廻船で積み出され、万治元年(1658)佃田屋与治兵衛が北伝法上島町で江戸積の廻船問屋を開業、寛文年中、中島屋小左衛門・小山屋源左衛門・堂屋藤兵衛が酒樽専門の江戸積問屋を開業、元禄年中(1688 - 1704)には綿屋治兵衛・大鹿屋九兵衛・宮本弥三兵衛・薬屋新右衛門らも加わって、その数を増やした(「船法御定並諸方聞書」同書所収)。それに用いられた伝法船は従来の菱垣廻船よりも迅速に回漕したため「小早」と称され、やがて酒樽以外の商品も積み込んで菱垣廻船に対抗した。これが享保期以降、樽廻船と呼ばれるようになった(「菱垣廻船問屋規錄」同書所収)。樽廻船はとくに伊丹・池田の酒造業の発展に対応して繁栄した。しかし当地においては貞享元年(1684)安治川の開削によって河港としの繁栄を順次安治川沿岸に奪われ、当時船数700余・家数800余・人数3500余と栄えていたのに対し、天明年間には船数200余・家数400・人数1900余に減少したといわれる(西成郡史)。もっともその頃当地には廻船業の他に酒株37・醤油造株3・樽屋26・運送屋3・寒天曝屋4・籠屋2・竹屋2・畳屋2・家および船大工9・紺屋4・質屋4・寺子屋4・商人73・医師4・按摩17・社人3・僧尼道心者35などがあり、小都市の景観を呈していた。また、伝法川に設けられた船渡しは「伝法の渡し」とよばれ、尼崎に至る街道に通じて、大名参勤の通路となっていた。
 当地には鴉宮(からすのみや)・澪標(みおつくし)住吉神社、浄土真宗本願寺派浄泉寺・西光寺、真宗大谷派慶善寺、浄土宗宝泉寺・西念寺、日蓮宗正蓮寺、単立(浄土真宗系)安楽寺がある。鴉宮はもと伝法の船問屋が祀った「伝母頭神社」といい、豊臣秀吉の朝鮮出兵の時、三羽の鴉が水先案内をしたことから現社名に改称したと伝える。川名の由来ともなった正蓮寺では8月26日に川施餓鬼を行う。「伝法の施餓鬼」とよばれ、天神祭とともに浪速の夏の二大行事とされている。明治10年(1877)当村は南伝法村・北伝法村に分村した。なお、天保郷帳に弥右衛門開18石余と「助太夫・五右衛門開」77石余がみえるが、うち弥右衛門開と五右衛門開は当村に近い伝法川上流中州に開かれた地で、助太夫開は大野村(現西淀川区)に接して開かれた新田である。
-----------------------(資料4おわり)

上記のように伝法は、交通の要衝で、古くから開けていた場所であるようです。当然、その地勢環境(素質)は、長い間受け継がれ、戦国時代にも重視された場所で、伝法から北側に2〜3キロメートルのところには、大和田城があって、それぞれ尼崎街道でつながっていました。
 また、港の機能として、近代時代まで尼崎あたりが大型船の出入りに向いており、大坂よりも尼崎が港として賑わいがあったようです。大坂は、土砂の堆積で海底が浅く、大型の船の航行には不便だったようです。
 それ故に尼崎は古くから港として機能しており、人や物が集まって、それらの活動に相対して古刹も多くあるようです。その内のひとつ、甲賀谷長正長と関係の深い尼崎の大尭山 長遠寺について資料を引用します。
※兵庫県の地名1(平凡社)P446

(資料5)-----------------------
大尭山 長遠寺
【長遠寺】
江戸時代の寺町の西部にある。日蓮宗。大尭山と号し、本尊は題目宝塔・釈迦如来・多宝如来。元和3年(1617)尼崎城築城計画のため移転させられるまでは、風呂辻町辰巳市場にあった(尼崎市史)。寺蔵の宝永2年(1705)の大尭山縁起によれば、観応元年(1350)に日恩の開基とされ、かつては七堂伽藍を備え子院16坊を数えたという。歴代住持のうち5世日了が、本山12世となるなど、京都本圀寺末の有力寺院の一つであった
 開基の地については七ッ松で、のちに尼崎に移転したとする寺伝がある。永禄12年(1569)3月の織田信長の軍勢による尼崎4町の焼き討ちの際には、当寺と如来院だけが戦火を免れたという(細川両家記)。当時は「尼崎内市場巽」に所在しており、元亀3年(1572)に信長は、同地での当寺建立に際して、陣取りや矢銭・兵粮米賦課などの禁止を命じている(同年3月日「織田信長禁制」長遠寺文書)。
16世紀の尼崎(尼崎市立地域研究史料館紀要 -第111号-)
さらに天正2年(1574)には荒木村重が、信長とほぼ同内容の禁制を与えているが(同年3月日「荒木村重禁制」同文書)、禁制の冒頭には「摂州尼崎巽市場法花寺内長遠寺建立付条々」とあり、伽藍造営だけではなく、当寺を中心とする地内町の建設工事であったことを示している。村重はさらに巽(辰巳)・市庭の年寄中に対して堀構のことを申し付けるとともに(3月15日「荒木村重書状」同文書)、尼崎惣中に対して当寺普請を油断なく沙汰するよう指示しているほか(4月3日「荒木村重書状」同文書)、貴布禰社などの諸職の進退や公事・諸物成の納入、諸役諸座などの免除、守護使不入等について定めた寺院式目条々を当寺に付与している(天正2年3月日「荒木村重定書」同文書)。同16年には勅願道場となった(同年3月25日「後陽成天皇綸旨」同文書)。
 江戸時代には長洲貴船大明神宮(現貴布禰神社)の神職も兼ねており、毎年1月7日礼祭神事を執行した(尼崎志)。境内に祖師堂・妙見堂・護法堂と僧院三房があった。
 本妙院は観応元年創立、宝泉院は文亀元年(1501)創立。開基不詳。中正院(現存)は明徳年中(1390-94)創立、開基不詳(明治12年調寺院明細帳)。慶長3年(1598)建立の本堂(付棟札2枚)と同12年建立の多宝塔(付棟札5枚)は、国指定重要文化財。鐘楼・客殿・庫裏は、県指定文化財であったが、平成7年(1995)の兵庫県南部地震のために全てが破損した。一石五輪塔として天正3年10月10日、慶長13年(基礎)・同14年銘のもの、同13年4月8日銘の石灯籠がある。
-----------------------(資料5おわり)

また、正長の信仰の篤さを知る事ができる、長遠寺へ寄進するなどした関係資料一覧を以下にあげます。
※尼崎市立文化財収蔵庫(同市教育委員会 歴博・文化財係)様からのご提供資料

(資料6)-----------------------
資料名
年代
内容等
1
多宝塔棟札
慶長11年
「願主甲賀谷又左衛門尉正長敬白」
2
多宝塔棟札
慶長12年
「甲賀谷又左衛門尉正長(花押)
3
日桓曼荼羅本尊
慶長13年1月2日
裏書「授与甲賀谷又左衛門尉正長」
4
客殿棟札
慶長18年4月6日
「大願主甲賀谷又左衛門造之」
5
日蓮書状
(乙御前母御書)
元和元年9月5日
裏書「元和元乙卯暦九月五日
願主甲賀谷又左衛門法名正蓮(花押)
6
日蓮曼荼羅本尊
元和元年9月5日
裏書「元和元乙卯暦九月五日施主又左衛門(花押)
7
日桓曼荼羅本尊
元和4年11月17日
裏書「甲賀谷又左衛門尉法号正蓮日寶授与」
8
日厳曼荼羅
元和8年3月11日
裏書「摂州尼崎長遠寺常住本尊修補之施主甲賀谷又左衛門正長」
9
日聡曼荼羅
元和8年3月11日
裏書「摂州尼崎長遠寺常住本尊
修補之施主甲賀谷又左衛門正長」
10
日円題目
元和8年3月11日
裏書「摂州尼崎長遠寺常住本尊
修補之施主甲賀谷又左衛門正長」
11
本堂棟札
元和9年5月
「願主甲賀谷又左衛門尉法号正蓮日寶建之□」
12
甲賀谷正蓮書状
8月14日
長遠寺宛
13
鐘楼棟札 
寛永14年6月27日
「為正蓮日寶遺言所建立之鐘楼同也
願主大坂法華甲賀谷又左衛門尉貞勝」
-----------------------(資料6おわり)

尼崎は、軍事的・経済的にも重要でしたので、時の大名は尼崎を重要視していました。池田家中から成長した荒木村重も織田信長政権下で地域勢力として伸張し、尼崎も支配下に置きます。村重は、摂津国全域と河内国の北半分を担い、統治しました。





此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察(瑞光山 本養寺(大阪府池田市)について)

日蓮宗(法華)の特徴は、主に町屋と町衆を布教対象としていたため、周辺地域の拠点的特徴も持っていた池田に、日蓮宗の布教拠点(寺院)があったのも、それは自然なことと言えるのかもしれません。以下、池田の本養寺について、ご紹介します。
※大阪府の地名1(平凡社)P316

(資料2)--------------------
瑞光山 本養寺(2001年頃撮影)
【本養寺(現池田市綾羽2丁目)】
日蓮宗。瑞光山と号し、本尊は十界大曼荼羅。応永年中(1394-1428)の創建と伝え、寺蔵の近衛様御殿御由緒によると、関白近衛道嗣の子で、京都本圀寺の第5世日伝の嫡弟玉洞妙院日秀の創建という。当寺諸記録によると、室町時代には「近衛様御寺」とよばれ、江戸時代には6代将軍徳川家宣の御台所煕子(天英院)が、近衛基煕の女であることから、将軍家より寺領が寄進され、また煕子の妹功徳池院脩子を妃とした閑院宮直仁親王からも上田一反余を寄進されている。
 元禄4年(1691)から同8年にかけて檀越大和屋一統の援助により再建された。現在の堂宇はその時のもの。本堂安置の応永8年銘の日蓮像は、後小松天皇の帰依があったという。境内に日蓮が鎌倉松葉谷で開眼供養をしたと伝える鬼子母神を祀る鬼子母神堂、大和屋一族で酒造家西大和屋の主人でもあり、安政2年(1855)に「山陵考略」を著した山川正宣の墓がある。
 なお、当寺は「呉春の寺」と俗称されるが、天明2年(1782)文人画家で池田画壇に大きな影響を与えた四条派祖松村月渓が寄寓、呉羽の里で春を迎えた事により、呉春と改名した事に由来する。
--------------------(資料2おわり)

また、池田での『穴織宮拾要記 末』による伝承では、荒木村重が池田城を畳み、本拠機能を伊丹へ移したときに、本養寺も伊丹へ移したとしています。しかし、場所など伊丹での実態状況が不明です。江戸時代に再び池田へ戻ったとされるまでの間はよくわかっていません。
 町衆と深く結びつく宗教で、歴史も永く、池田では大きな寺院でもあったことから、本拠を移すにあたって行動を伴にすることは、何ら不自然ではありません。
 ちなみに、法華宗も日蓮宗も日蓮上人を宗祖としています。本山の違いがあって、宗派が別れています。時代を経る中で、考え方の違いで派生していきました。元々は法華宗と呼ばれていたようです。

また、天正3年頃に池田から伊丹へ本拠機能を移した時の伝承記錄に、本養寺のことが記述されています。『町並調査報告書』など、いくつかの資料からの引用です。
※(1)北摂池田 -町並調査報告書-(池田市教育委員会 1979年3月発行)P32(『穴織宮拾要記 末』)、(2)荒木村重史料(伊丹史料叢書4)P136(『穴織宮拾要記 本』)

(資料3)-----------------------
(1)しかし荒木村重は間もなく、本養寺・大広寺を伊丹へ移し、町人も「城之用聞五軒伊丹へ引き」「池田之城をたたみ百姓二歩せ」(以上『末』)、本拠を伊丹へ移した。
(2)一、今ノ本養寺屋敷ハ池田ノ城伊丹へ引さるさき家老池田民部屋敷也。(中略)一、大広寺・本養寺二箇寺伊丹へ引跡二も小寺建置、旦那ノ内身体よろしき人死候時ハ伊丹へ和尚呼二行也。本養寺ハ元円住坊山二有、留守坊主ノ名円住坊と云候故、今畠ノ字円住坊山と云、伊丹崩候後池田二二ヶ寺被帰候。秀吉公・秀頼公之御時より池田ハ御代官所成ル、片桐市正御預り牧治右衛門池田支配ノ時、右之屋敷本養寺へ寄付せられ候。町人も城之用聞五軒伊丹へ引、又帰り候
-----------------------(資料3おわり)

このような伝承記錄があるのですが、伊丹市側では本養寺のこの動きについて把握されてされておらず、詳細は不明です。場所なども判っていません。もしかすると伊丹にある日蓮宗滋霔山 本泉寺に何らかの関係があるのかもしれませんが、それも不明です。






◎参考記事:摂津国河辺郡の大尭山長遠寺(現尼崎市)を再建した甲賀谷正長は、摂津池田の出身者か!?

此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察(海照山 正蓮寺(此花区伝法)について)

前回は、大尭山長遠寺(現尼崎市)を中心に、甲賀谷正長と池田のつながりについて、考えてみたのですが、今回は特に、日蓮(法華)宗系の池田やその周辺の関係寺院に範囲を拡げて調べてみました。先ずは、大阪市此花区にある正蓮寺についてです。
※伝法 正蓮寺発行の『正蓮寺概史』より

(資料1)-----------------------
【正蓮寺略縁起】
寛永2年(1625)篤信の武家、甲賀谷又左衛門が、毎夜海中にて光を発するものを見つけ、網を入れたところ、お木像が上がって来たので、邸内にお祀りしていました。たまたま京都から来られた修行僧、唯性院日泉上人がこれを御覧になり、間違い無く日蓮大聖人の御尊像であることを認められました。そこで、日泉上人を開山とし又左衛門を開基として、大方の協力を得て建てた草庵が、今の正蓮寺のおこりであります。寺号の正蓮寺は、甲賀谷又左衛門の予修(よしゅ:生前に、自分の死後の冥福 (めいふく) のために仏事をすること。)、正蓮日宝禅定門より、また山号の海照山は、御尊像が海を照らした事から名付けられたものであります。
 大阪の代表寺院25ヶ寺の内に数えられた正蓮寺は、惟うに権門の庇護に依り建立された寺ではなく、土着の一無名人の発願にて創立された庶民的な寺院であります。創建以来来伝燈絶えずして信徒参集し、寺門興隆して現在は第26世を踏襲するに至っております。
第7世 寂行院 日解上人墓
【伝法の川施餓鬼】
享保6年(1721)、当山第7世、寂行院日解上人は、日蓮大聖人が海中にて衆生済度せられた功徳を継承せんとて、川供養の行事をはじめられたのが、いまの伝法の川施餓鬼であります。創始以来、正蓮寺川に棚を作り色々な供物をして、有無両縁の万霊を供養して参りました。摂津名所図絵に記されている様に、数百曳の船団で参拝者が群集したしました。地元の伝法・高見・四貫島の各家では、遠近より親類縁者を招いて精霊をお祀りし、法要の後は各船団は棚を片付けて船遊びに興じてお祭り騒ぎになるのが常でした。陸では数百の露店が賑わい、名物の枝豆・竹ごま・焼鳥屋などが繁昌し、全く天神祭をしのぐ程の盛大な大阪の夏を締めくくる行事でした。夕刻、船団も引き揚げ露店も終わる頃には涼風も吹く時期でもあり、「暑い夏には天神祭、あついあついも施餓鬼まで」と、今日までの夏の風物詩として語り継がれ親しまれて参りました。古来より仏法経典の渡来した最初の浜とも云われる伝法の地であります。仏事が盛大に行われて来たのも当然のことと思われます。昭和46年には、川施餓鬼創始250年の記念大法要を厳修いたしました。殊に現在は、区内に奉賛会が組織され、更には浪速全般に亘る参拝会の活躍は、誠に有り難いことでもあります。ただ、昭和42年頃より正蓮寺川の汚濁が甚だしくなった為、川渡御は新淀川に移すことになりました。平成26年度に「正蓮寺の川施餓鬼」として大阪市指定無形民俗文化財に指定されました。
-----------------------(資料1おわり)

正蓮寺さんに直接尋ねたところ、水害などで寺の文書などが流出してしまい、石仏など一部の遺物や口伝しか残っていないとの事で、今のところ、これ以上の直接的な手がかりはありません。

さて、上記の略縁起中の記述について、少し注目しておきたいと思います。甲賀谷正長は「武家」と伝わっており、やはり池田での伝承記述『穴織宮拾要記 末』にある甲賀伊賀守に系譜を持つ人物の可能性が高いように思われます。
摂津池田の伝家老屋敷位置(道路は元禄10年絵図による)
また、「たまたま京都から来られた修行僧、唯性院日泉上人がこれを御覧になり、間違い無く日蓮大聖人の御尊像であることを認められました。」との件について、池田城下には本養寺という日蓮(法華)宗のお寺があります。室町時代の創建で、近衛家ともつながり、京都の大寺院である本圀寺から開山の住持を迎えています。
 甲賀谷正長が、池田の本養寺を通じて日蓮(法華)宗に接していたのなら、京都から来た唯性院日泉上人とも接点はあるでしょう。ですので、この正蓮寺縁起中の話しの環境は、時代の事実に沿って、概ね整っています。
 それから、「毎夜海中にて光を発するものを見つけ、網を入れたところ、お木像が上がって来たので、邸内にお祀りしていました。」の記述は、池田に海はありませんので、他のどこかでの出来事でしょう。邸内とは、池田の屋敷かもしれませんが、判別不明です。しかし、いつも身近なところに海があり、夜に起こる現象を度々見ることができるのですから、その辺りに定住するなどしていた可能性が窺えます。いくつかの屋敷を持っていたのかもしれません。
 後に延べますが、甲賀谷正長は、武士としての経験を活かした政治的活動や運送、酒造に関わる生業で、移動することが多かったのではないかと今のところ推定しています。


海照山 正蓮寺
〒554-0002 大阪府大阪市此花区伝法6丁目4−4





此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察(はじめに)

摂津国河辺郡の大尭山長遠寺(現尼崎市)を再建した甲賀谷正長は、摂津池田の出身者か!?」の記事に続いて、同じテーマでもう少し調べを深くしてみました。この記事の中心である、甲賀谷又左衛門尉正長についてですが、その行動からして、日蓮宗(法華)への信仰を深くしている人物である事がわかります。要素を区切って、深く掘り下げていきたいと思います。

詳しくは、以下の記事をご覧下さい。

はじめに
海照山 正蓮寺について
瑞光山 本養寺について
伝法(大阪市此花区)について
摂津出身の甲賀谷氏の出自が武士であったであった可能性
戦いの無い平和な時代の池田と甲賀谷氏を考える
戦国武将甲賀谷長正という人物像の輪郭

【参考記事】摂津国河辺郡の大尭山長遠寺(現尼崎市)を再建した甲賀谷正長は、摂津池田の出身者か!?
【参考記事】『荒牧郷土史』に記録された「酒造」と荒牧屋について