近年、自国の歴史や他国と関わる歴史、特に明治時代以降の近代史について、関心が高まっているように思います。
確かに、私自身の過去を振り返って、学校ではどのように教えられていたかというと、近代史に入る頃には年末年始頃の3学期で、学ぶ方も教える方も、非常に怠惰だったと思います。ですので、歴史に興味を持つ者は、耳学問で、自分の見聞きする範囲、また、実際にその時代を生きた人の経験談か、伝聞で主に知る事になっていたと感じます。
ですので、非常に主観的、且つ、憶測や不正確な環境の中で、近代史を「学んでいたつもり」になっていたと思います。
これは私だけの経験では無く、割と多くの人がそういった環境だったのではないかと思います。それに加えて、メディアに関わる人々もそのような状況の中で番組を作り、それを見てまた、私たちが学ぶというサイクルになっていたように思います。
一概にそうもいえない立派なコンテンツ(番組や映画、出版物)もあり、よく調べ、真実を伝えようとする視点もありますが、マスメディアとは少し性質が違うようにも思います。
しかし、歴史とは、個人の経験が全てでもなければ、組織の理由が全てでもない事もあります。また、その最中には見えず、後になって気付く事もあります。それから、立場によっても、性別、年齢によっても当然違ってきます。
感情や感覚だけでは説明できない事が、特に近代史の難しいところだと思います。組織の単位、利益の単位、スピードなどが、近世以前とは比べものにならない規模になっているからです。
同時にその環境の中で個人は豊かになり、自由が拡大した事も視点の中心に置かないといけないと思います。国民が同意していた要素も見なければいけません。それは、中央集権が成された近代という時代の中心であった「国家」の産物です。全ての国民は、その中に居たのです。
よく決まり文句のように言われる、情報統制されていたとか、教育でそう思い込まされていた、だけでは説明の出来ない状況があります。これは思考と責任の放棄以外の何者でもありません。社会と人間は、民族自決の上で国家を立てるためには、共有しなければいけないものがあります。また、自国と国際社会の関係も視野に入れて考える必要がります。
さて、私は全くの素人から中世時代の摂津国豊嶋郡池田の、特にその城主であった池田勝正という人物について調べていますが、その中で学んだ事があります。歴史を調べる時には、
◎現代の感覚で過去を見ない。
◎織田信長のような史上の人物を特別視しない。
◎「if」を考えない。(結果が歴史であり、絶対にその他はあり得ない事だから。)
◎当時の感覚に近づくよう心がける。(環境を理解する。)
◎対象を、できるだけ多くの情報を元に見る。
◎自分の先入観を無くす。
◎見解は言葉を慎重に選び、客観性を心がける。
◎証拠(史料)が無ければ、結論は出さない。
◎推定をする時も、その根拠をできるだけ多く用意する。
◎反論は、史料を以て行う。
◎機会を見つけて、なるべく自分の考えを他に問うこと。
◎議論で喧嘩をしないこと。喧嘩になる相手は、相手にしないこと。
そういった心がけ(条件)が必要だと思っています。これは日常の生活でも、完璧では無くても、そういう心がけは要りますよね。
私も最初は、主観的な思い込みが強く、あるべき事実が見えていなかったように思います。今も学びの途上で、いつ終わるのかわかりませんが、兎に角ひたすら、情報に接する、史料を読む事だけは心がけています。
できるだけ、客観的な判断をするためにそれが必要で、その結果として、真実が見えるようになるのだと思います。見えないのは、自分自身でそれが出来ていないのだろうとも感じています。
確かに、私自身の過去を振り返って、学校ではどのように教えられていたかというと、近代史に入る頃には年末年始頃の3学期で、学ぶ方も教える方も、非常に怠惰だったと思います。ですので、歴史に興味を持つ者は、耳学問で、自分の見聞きする範囲、また、実際にその時代を生きた人の経験談か、伝聞で主に知る事になっていたと感じます。
ですので、非常に主観的、且つ、憶測や不正確な環境の中で、近代史を「学んでいたつもり」になっていたと思います。
これは私だけの経験では無く、割と多くの人がそういった環境だったのではないかと思います。それに加えて、メディアに関わる人々もそのような状況の中で番組を作り、それを見てまた、私たちが学ぶというサイクルになっていたように思います。
一概にそうもいえない立派なコンテンツ(番組や映画、出版物)もあり、よく調べ、真実を伝えようとする視点もありますが、マスメディアとは少し性質が違うようにも思います。
しかし、歴史とは、個人の経験が全てでもなければ、組織の理由が全てでもない事もあります。また、その最中には見えず、後になって気付く事もあります。それから、立場によっても、性別、年齢によっても当然違ってきます。
感情や感覚だけでは説明できない事が、特に近代史の難しいところだと思います。組織の単位、利益の単位、スピードなどが、近世以前とは比べものにならない規模になっているからです。
同時にその環境の中で個人は豊かになり、自由が拡大した事も視点の中心に置かないといけないと思います。国民が同意していた要素も見なければいけません。それは、中央集権が成された近代という時代の中心であった「国家」の産物です。全ての国民は、その中に居たのです。
よく決まり文句のように言われる、情報統制されていたとか、教育でそう思い込まされていた、だけでは説明の出来ない状況があります。これは思考と責任の放棄以外の何者でもありません。社会と人間は、民族自決の上で国家を立てるためには、共有しなければいけないものがあります。また、自国と国際社会の関係も視野に入れて考える必要がります。
さて、私は全くの素人から中世時代の摂津国豊嶋郡池田の、特にその城主であった池田勝正という人物について調べていますが、その中で学んだ事があります。歴史を調べる時には、
◎現代の感覚で過去を見ない。
◎織田信長のような史上の人物を特別視しない。
◎「if」を考えない。(結果が歴史であり、絶対にその他はあり得ない事だから。)
◎当時の感覚に近づくよう心がける。(環境を理解する。)
◎対象を、できるだけ多くの情報を元に見る。
◎自分の先入観を無くす。
◎見解は言葉を慎重に選び、客観性を心がける。
◎証拠(史料)が無ければ、結論は出さない。
◎推定をする時も、その根拠をできるだけ多く用意する。
◎反論は、史料を以て行う。
◎機会を見つけて、なるべく自分の考えを他に問うこと。
◎議論で喧嘩をしないこと。喧嘩になる相手は、相手にしないこと。
そういった心がけ(条件)が必要だと思っています。これは日常の生活でも、完璧では無くても、そういう心がけは要りますよね。
私も最初は、主観的な思い込みが強く、あるべき事実が見えていなかったように思います。今も学びの途上で、いつ終わるのかわかりませんが、兎に角ひたすら、情報に接する、史料を読む事だけは心がけています。
できるだけ、客観的な判断をするためにそれが必要で、その結果として、真実が見えるようになるのだと思います。見えないのは、自分自身でそれが出来ていないのだろうとも感じています。