2022年8月20日土曜日

彼ら在地領主達は、なぜ室町時代になって「国人」と呼ばれるようになったのであろうか。『備後の山城と戦国武士』に大きな気付きがありました。

 私が続けている、摂津国人池田筑後守勝正について、関係史料を追い続けています。しかし、在野でもあり、いわゆる素人ですので、その道の勉強をされた方とは、まだまだ知識量の足りないところが多々あります。また、基本的な知識も無い場合があります。あるのは、情熱だけです。
 そういうところを補うためには、やはり学ばなければなりません。その道の先生に教えを請う。先行する諸先輩方に教えを請う。既刊の書物から学ぶ。それらから知識を得るしかありません。

リンゴが落ちて、重力に気付いたように、自分自身が、そのレベルに無ければ、リンゴが落ちたとしても、何も気付きません。自分自身が学んでいなければ、何を見ても、言われても気付きません。だから、知りたければ、学ぶしかありません。

さて、私が史料を読む中で、そういうこともあると思います。知識がないために、気付いていないこと。理解していない事。それをできるだけ小さくしたいと思っています。
 時々は、業界の先生方の論文を読んだり、地域の資料館などで行われる企画展の関連出版物などで、専門家の解説を参考にさせていただき、その意味に気付く事も多々あります。

やはり、当時の法・習慣・宗教などについて、もっと学ばなければと感じます。法によって人々は活動し、宗教によって、精神的な営みを続けているからには、文書の意味、建築物の意匠の意味、生活道具の意味が正確に読み取れません。
 その意味で、今回手に入れた『備後の山城と戦国武士 - 田口 義之著 -』は、私にとって大変気付きの多い著作でした。
 私の一族は、備後国神石郡の出莊で、備後国のことについても興味を持っており、その意味で、購入しました。また、田口氏は憧れの先生でもあるため、どうしても欲しい本でした。(残念ながらこの本は絶版で、今は入手が困難になっています。)

その中で、私の研究にも非常に有用で重要な一節があり、それを改めて意識する論稿がありましたので、忘れないように、該当部分を引用させていただき、ご紹介したいと思います。国人領主の誕生と法について、非常に端的に分かりやすくまとめられています。
 私の中では、当時の法的な分野は、関心が中途半端になっていた要素でした。大切な要素だと思います。

以下、部分引用させていただきます。少し長めです。
※『備後の山城と戦国武士』 備陽史探訪の会 会長 田口 義之著 葦陽文庫刊 平成九年初版発行(現在在庫無し)

---(引用部分)---------------------------
第二章 室町時代の備後
 備後の国人 - 国人領主制の成立と室町幕府 - 
より

◎国人
室町、戦国時代でよく使われた言葉に、「国人」「国衆」がある。国人とは在地の有力武士のことで、守護等外来の支配者と違い、その国生え抜きであることを示したもの。戦国大名毛利氏も英雄元就以前は、安芸国人の一人に過ぎなかったことは有名である。
 むろん、国人は室町時代に入って突然現れたものではない。鎌倉時代の「地頭」「下司」等が南北朝の内乱を戦い抜く中で、一段と強力な在地領主として姿を現したものである。
 だがなぜ、彼ら在地領主達は、室町時代になって「国人」と呼ばれるようになったのであろうか。在地領主という点では、前代の地頭達と似たような存在に思えるのだが、実はこの点に深い意味があるのである。

◎相続法の変化
このことを明らかにするためには、「南北朝の内乱」を一つの節目とした、武士団の変質を理解する必要がある。
 一つは相続法の変化である。鎌倉時代の典型的相続法は「分割相続法」と呼ばれるものであった。これは兄弟にまんべんなく所領を譲与するもので、所領を分与された一族は、惣領(本家)である嫡子の指揮のもと、団結して事にあたった。いわゆる「惣領制」である。
 しかし、代々分割相続によって所領が細分されて行くと、一族を束ねるべき惣領の手元に残される所領は非常に狭いものになってしまい、持続が困難になって来た。又、土地を分与された庶家(分家)も惣領の力が弱まれば、その桎梏(しっこく)から逃れ、独立しようとした。
 そこで、惣領家の力を強め、惣領制を再編するために採られたのが「嫡子単独相続法」であった
 備後地毘莊(じびのしょう:比婆郡高野町から庄原市北部にかけて存在した荘園)を本拠とした山内首藤氏の例では、鎌倉末期の元徳2年(1330)3月、惣領山内通資(みちすけ)は、嫡子通時(みちとき)に「譲状」を与え「庶子等に(所領を)相い分つべしと雖も、分限狭小の間、相分せしめるに於ては上の御大事に逢うべからざるに依って通時一人に所領を譲るものである」と述べ、嫡子単独相続制を断行している。
 この場合、「分限狭小」がその理由に挙げられているが、その真のねらいは、惣領の力を強化し、自立しつつある庶家を再び自己の支配下に収めようとしたものに他ならない。
 この結果、現れたのが庶家の「被官化」、庶家が惣領家の家臣となって行く現象である。

◎庶家の被官化

田総莊(たぶさ:甲奴郡総領町一帯に存在した荘園)の地頭、田総長井氏の場合を眺めてみよう。
 田総氏は鎌倉幕府創業の功臣大江広元の嫡流長井氏の一族で、鎌倉中期に、その祖長井重広が備後国田総莊地頭職を獲得し、在名を取って「田総」を号した。重広から四代目の直干(なおひろ)の代には、備後に本拠を移し、以後戦国時代末までの在地の有力武士として活躍している。
 『田総文書』によると、貞和2年(1346)の「田総重継譲状」では、すでに嫡子単独相続法を採っており、以後代々本領は嫡子一人に相伝されている。そして、重継の曾孫広里は、室町時代初期の応永34年(1427)正月、嫡子時里に「置文」を認(したた)め、一族に対する惣領の権限を定めている。この中で広里は、
 「一、おとと共之事、一所にても候へ ゆつりせす候。その器量によんて扶持あるへく候。」
 と述べ、嫡子(時里)以外の子息には所領を分与せず、能力(器量)に応じて給分を与えるようにせよと言っている。この場合、庶家達の地位は、明らかに惣領の被官の立場に転落している
 又、以前に分家した庶家に対しても、惣領の支配権は強化されている。
 「一、親類共之中ニ格別之譲をもんて、惣領之衆儀ニちかい候ハバ、その支證立ましく候。身の扶持にて候間、中(仲)をたかわれ候ハバ、給分の事にて候間、御計たるへく候。」
 つまり、所領を分与された庶家も、惣領の命令に違背する場合は、遠慮無く所領を没収せよ、庶家の所領も惣領から「給分」として与えられているに過ぎない、というのである。「給分」とは、主君が家臣に対して与える給与のことである。
 ということはどういうことか、田総氏の場合、室町時代初期には庶子や庶家をそれまでの対等に近い存在から、給分を与える被官(家臣)の地位に引きずり降ろし、総領権を著しく強めていることがわかるのである
 この惣領制の変質と強化は、周辺の弱小武士をも巻き込んだ地域再編成となって現れた

◎一円所領の形式
土豪の被官化と一円所領の形式がそれである。
 土豪(地侍)は、地頭クラスより一まわり小規模な在地領主達で、「名字」を持ち、荘園の下級荘官、或いは有力百姓を指す言葉である。土豪は元々独立して荘園領主と結んでいたのであるが、先に述べたように有力在地領主惣領家が権力を強化すると、その武力に押され、彼等の被官となって行った。
 戦国時代、田総氏の被官森戸弾正忠実泰(さねやす)は、田総莊内井原城(甲奴郡惣領町下領家)に拠って主君田総氏の一翼を担ったが、この森戸氏なども田総莊内森戸村を名字の地とした土豪に相違無く、田総氏惣領家の勢力伸張にともなってその支配下に入った者に違いない
 もちろん、これらのことに対しては、荘園領主側の抵抗もあったが、有力在地領主達は武力を背景に土豪を手なづけると共に、「地頭請」「下地中分(したじちゅうぶん)」等様々な方法によって荘園の土地そのものも自己の支配下に収めていった。
 田総氏が採ったのは下地中分である。下地中分とは、荘園の土地を領家の支配下とし地頭の支配下に二分し、互いに干渉しないようにするもの。田総氏は嘉元3年(1305)領家と「和与状」をとりかわし、田総莊の主に西半分を地頭分として、排他的な一円所領とすることに成功した。

◎国人領主
田総氏のように庶家や土豪を自己の被官として所領を排他的に支配する在地領主のことを「国人領主」という
 そして、彼等がその領主制を確立したのが南北朝の内乱期であった
 山内首藤氏や田総氏の場合、国人領主化は鎌倉時代末期には達成されているが、彼等の場合はやや特殊な例である。山内首藤氏が備後に本拠を移した原因は東国の本領が余りにも狭小だったためで、田総氏の場合も、同氏自身の所領は備後国内に限定されており、いわば備後が本拠だったからである。
 では、一般の武士達はどうだったのか。彼等は全国各地に分散して所領を持ち、王朝国家(京都の公家政権)、鎌倉幕府という中央権力によってその権利を保障され、所領を維持してきた。しかし、南北朝の内乱はそれを不可能にした。王朝国家は分裂し、鎌倉幕府は滅亡してしまい、武士達は自己の所領を守るのは自分の力だけ、という厳しい現実に直面したのである。
 こうなると力の分散は致命的である。生きんがためにはどこか一ヵ所の所領に一族の力が集中し、その確保に全力をあげる必要があった。むろん、本拠地以外の所領は放置する以外にすべはない。山内首藤氏もこの内乱で、備後以外の所領は他の武士に押領され「不知行」となっている。
 又、この内乱は、南朝(公家一統)か、北朝(幕府の復興)か、というイデオロギーの対立でもあったが、このことは独立を目指す庶家達に絶好の口実を与えた。惣領家に不満を持つ庶家は、惣領が北朝方ならば南朝方に走るというように、堂々と自立を宣言できたのである。このため惣領家は自己の力を強化する必要に迫られ、分割相続制をやめ、単独相続制を採用したのである。いきおい、庶家は惣領家の被官と化し、土豪もその下に系列化された
 一円所領の形成も内乱のため、比較的容易に達成された。荘園領主の力が著しく弱体化していたからである。

そこで元に戻って、有力在地領主はなぜ「国人」と呼ばれたのか、考えてみよう。
 原因は、彼等の所領が備後なら備後一円内に限定されるようになったからである。つまり、前代鎌倉時代までは、全国各地に所領を持ち、「御家人(将軍の家来)」、或いは「非御家人(御家人以外の武士)」としか呼びようがなかった武士(在地領主の意)達も、自らの所領が一国内に限られるに従って、某国の住人、「国人」、或いは「国衆」と呼ばれるようになったのである。
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『備後の山城と戦国武士』 備陽史探訪の会 会長 田口 義之著


2022年8月15日月曜日

摂津国池田の地域権力と社寺などの宗教勢力について、あれこれ思索(備忘録)

 自分の中の考えの整理、備忘録として、あれこれと雑感を書いてみます。

先月、20年ぶりくらいに、勝竜寺城(京都府長岡京市)を訪ねました。新たな発掘成果などを元に、復元遺構などがあって、大変興味深く見学させていただきました。中でも、長岡京市の市制50周年事業(2020年)として、勝竜寺城の関係資料集(『勝龍寺城関係資料集 -長岡京市歴史資料集成1-』:長岡京市教育委員会)があり、買い求めました。資料中に仁木・馬部両先生の論稿が収められており、私にとっては多くの気づきがありました。

その中の仁木先生の論稿中、「守護方拠点としての勝龍寺」章に、「諸国において、この時代の守護所が固有の建物ではなく、寺院の間借りである事例が多いことは既に論じられている。勝龍寺は、山城一国の守護所ではもちろんないが、守護方の郡レベルの支配拠点であったことは確かであろう。この時点では臨時的なものである可能性も高いが、のちに勝龍寺が帯びる「公的な性格」を既に孕んでいたともいえるだろう。」との一節があり、これには私の疑問に対する、非常なヒントがありました。

摂津池田家が、箕面寺(大阪府箕面市)に対して、惣領の代替わり、地域争乱時(禁制)、何らかの地域関係の通達、等々を出す場合、時代を経ても定型文であったり、宛先が箕面寺(豊嶋郡・政所宛なども)である事が多いのは、箕面寺に郡役所的な性格もあったのではないかと考えました。
 前述の仁木氏の論稿中の「寺院の間借り」の概念を知る前から、摂津国豊嶋郡を治めていたと思われる動きを感じており、摂津池田家と箕面寺の関係が非常に深い事に注目はしていました。しかし、それがどんな関係なのかは、理解していませんでした。それが、『勝龍寺城関係資料集』によって、認識のメドが立ちました。

古代寺院や山岳寺院と地域権力の関係や城郭の発展過程は、多くの研究がありますので、これからは、それらを読み進めて、摂津池田での、その動きについても考えてみたいと思います。

現代社会と中世社会の宗教の社会的役割りは全く違います。現代感覚で宗教を見ることはできませんし、通信事情や政治権力、協働関係は、考慮するべき必須要素だと感じます。
 勝尾寺・箕面寺の他、摂津池田家の膝元としての大寺院は、久安寺(池田市伏尾)があります。また、時代により盛衰はあるものの、他に大広寺(池田市綾羽)・弘誓寺(同市綾羽)・寿命寺(同市西本町)・常福寺(同市神田)・禅城寺(同市宇保)などの関係も、地域権力としては良好を保つ必要があったと思われますし、一体化的な協働宇関係もあったのではないかと思われます。池田一族の中には、僧も居り、これらとの関係維持も目的化(双方の調整役的な)していたところもあるのではないかと思います。

これらの組織と良好な関係を築く事に、権力は腐心していたと考えるのが自然で、このいかんで、勢力の拡大縮小の趨勢が決まったと感じています。
 今後は、こちらの方面も調べを深めたいと思います。

2022年8月13日土曜日

摂津原田城についてのご紹介(城主(土豪)とともに城館の変遷がわかる遺構としては大変貴重)

16世紀後半の推定復元図
16世紀後半の推定復元図
摂津国豊嶋郡内にあった、原田城について、詳しく取り上げていなかった事に今さら気付き、先ずは記事を作った次第です。
 それについて、豊中市教育委員会発行の『原田城跡(豊中市指定史跡)・旧羽室家住宅(国登録有形文化財)』という案内パンフレットが、非常に端的に、簡潔にまとめられて分かりやすいので、こちらから抜粋してご紹介できればと思います。

摂津原田氏とその城について考える」という、特集も中途半端に終わっており、これを機に、完成させたいと思います。

原田氏は、能勢一帯に君臨した多田院御家人の一員として、はじめて記録(『多田神社文書』)に登場するのが、1279年(弘安元)のようで、池田氏とほぼ同時期に頭角を表して来るようです。原田氏は北から南下、池田氏は南から北上して、最終地に定着するという、イメージです。また、応仁の乱を経て、次第に経済・軍事力の差がつき、池田勝正が池田家の惣領となる1563年(永禄6)頃には、池田家の被官的情況に変化しています。また、池田勝正も原田城に度々入っていて、池田とは一心同体の存在であったようです。姻戚関係なども持っていていたのかもしれません。非常に親密な行動を互いに取っており、池田城が攻められたり、落城する時には、運命を共にすることも多くありました。

個人的に思うのは、推定復元図は印象的ですが、私が史料を見ていく中では、若干違和感も感じなくは無いです。しかし、どこかの情況で、このような視覚化は必要ですから、その均衡を保つのは至難とも言えますね。それもこれも、科学の継続が答えを出してくれることでしょう。兎に角、今後に期待です。

さて、そんな原田城について、以下、案内パンフレットの内容です。
※文章・絵・写真の全ては、案内パンフレットからです。

◎はじめに
原田城跡(北城)は、1963年(昭和38)、当時の豊中市文化財保護規則により市史跡に指定され、1987年(昭和62)の豊中市文化財保護条例の施行にともなって、あらためて市史跡に指定された中世城館です。
 「城」というと、天守閣がそびえ立つ江戸時代の城郭、あるいは山そのものを要塞にする戦国時代の山城をイメージすることでしょう。しかし、原田城跡はそうした大規模な城郭ではなく、原田・曽根一帯を中心に活動した土豪原田氏の居城で、いわゆる「小規模城館」と呼ばれるものです。


◎北城と南城

原田村には、北城と南城という二つの城がありました。江戸時代末期に作成された絵図(『文政七年原田村絵図』)を見ると、原田村の中に南城跡を示す四角形の堀跡が描かれています。南城は、発掘調査によって16世紀後半に内堀と外堀が掘削されたことが確認され、その範囲と位置が推定されています。
 一方、北城については「北城跡」と記され、その一帯には松林が描かれています。北城についても発掘調査によって鎌倉時代に築かれたことがわかってきました。

◎北城の構造

北城は、豊中台地南西端の丘陵にあり、南西に広がる平野を一望できる絶好の位置に立地します。その丘陵の東側には、南北140m・東西120mの城域を示すように、「ヨ」字状の外堀が巡らされています。丘陵先端にある約50m四方の主郭部は、荒木村重の乱が起きた16世紀後半に、幅15m・深さ5mもある内堀を巡らすなど、大規模な改修を行って守りを固めています。
出土した巨大な堀跡
 主郭部の内側には、現在でも高さ1.5m〜2.8m・幅5〜10mの土塁が残っているほか、東側と南側にもその痕跡が確認されています。
 主郭内部の発掘調査では、数多くの柱穴や疎石痕が確認されており、土豪の居宅に相応しい家屋が建てられていた可能性があります。また、焼けた壁土や廃棄された土坑、3層にわたる焼土層があることから、数回の火災があったと考えられます。
16世紀後半:荒木村重の乱の頃

◎北城の築城と原田氏

原田氏は、1279年(弘安元)に能勢一帯に君臨した多田院御家人の一員として、はじめて記録(『多田神社文書』)に登場します。一方、北城は13世紀後半から14世紀初頭のうちに築かれたことが、発掘調査で出土した遺物から推定されています。
 1344年(康永3)に、原田氏は大炊寮(おおいりょう)の所領である六車御稲(むぐるまみいな)の年貢を押領するなど、徐々にその力を蓄えていきます。15世紀中頃には原田一帯を支配する土豪に成長すると共に、室町幕府の管領(将軍の補佐役)で、摂津守護である細川氏の家臣団に組み込まれ、戦乱の世に巻き込まれていくことになります。
16世紀中葉から後半頃の勢力図

◎北城の廃城とその後の原田氏

1547年(天文16)、細川氏の内紛で細川氏綱側についた原田氏は、その敵である細川晴元の大軍に攻められ、北城は落城しました。これにより北城は廃城し、興廃していったことが推測されます。16世紀後半には南城の堀が掘削されていることから、これ以降、原田氏は南城を中心に活動していたとみられます。
 また、荒木村重の乱では、織田信長方の古田織部と中川清秀が北城に陣を構えたようです。1994年(平成6)に行われた発掘調査からは、16世紀後半に大改修が行われ、一時的に城として使われたことが明らかとなっています。
 慶長年間(1596〜1615)には、北城・南城とも廃城し、原田氏の多くは豊後国直入(なおいり:大分県竹田市)などへ移り、現地には土塁や堀跡、伝承だけが残されました。

◎原田城跡のもつ意義
戦国時代には、織田信長のように華々しい活躍が伝えられる武将が多くいます。それら戦国武将の活躍を支えた人々の中には、中世の村を基盤に活動する土豪たちがいました。原田氏も、戦乱の世に生きた土豪の一人でした。
 このような土豪たちは記録の中に数多く見出され、豊中市内では芝原(柴原)・熊田(熊野田)・利倉など、村の名前を冠した土豪が知られています。彼らが活動の拠点とした城館で、堀の配置が復元できる事例は、大阪府内では原田城跡以外にはあまりなく、さらに城主である土豪とともに城館の変遷がわかるものは、今のところ他に見られないことから、原田城跡は非常に貴重な史跡であると言えます。


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