2018年10月19日金曜日

【貴重な資料映像】日本陸軍 最前線の中隊本部の様子

ユーチューブを見ていて見つけました。中国大陸での実際の中隊本部の様子です。この映像の解説には、「中支那派遣軍第11軍。最前線の中隊本部の様子。生々しいドキュメンタリー。」と短くあります。

 刻々と変わる様子を把握しながら、必要な手立てを講じるために、控えている将校に次々と指示を与えています。また、現場から状況を伝えに来る伝令。それを聞き、地図を見、立体的に状況を把握していく中隊長。

出入口の外には、馬や犬、忙しく動く兵。大砲と機関銃の音は、四六時中聞こえています。また、小隊長なのか、担架で運ばれて来て、中隊長以下、将校がその様子を見に行きます。戦死したのかもしれません。

場面の最後は、本部を移動させます。後退では無く、戦況が好転したのか、前進させるようです。

戦国時代の本陣もこれに近い感じだったかもしれません。もっとも、大砲や機関銃を主体にした戦い方ではなかったので、高いとこから見下ろして、状況を把握していたのでしょう。鉄砲玉もそんなに遠くまで飛びませんので、もっとオープンな空間で指揮をしていたのかもしれません。
 しかし、伝令が来たり、出したり、という状況は同じで、そういう連絡や状況把握の仕方は、そんなに変わらないでしょう。

いずれにしても、実際の指揮所の様子が映像で残っていたのは、大変貴重だと思います。




2018年10月17日水曜日

明智光秀・池田勝正・荒木村重の接点(エピソード)を探る(越前朝倉氏攻めと「金ケ崎の退き口」)

元亀元年(1570)春、幕府・織田信長の軍勢は、天皇からも勅許をもらい、官軍(皇軍)として越前朝倉氏を攻めたのは、大変有名です。
 実際の攻める目的は、以下の複合的な要素を一気に解決する、非常に考え抜かれた行動でした。
 
 (1)若狭武藤氏討伐
 (2)若狭武田氏の守護家正常化支援
 (3)湖西地域の支配強化
 (4)比叡山に対する牽制
 (5)山陰地域の山名氏に対する示威行動
 (6)浅井氏の動向確認
 (7)天皇・公家領の回復
 
一応の表向きとしては、(1)(2)による、越前朝倉氏の討伐でしたが、実は、(6)の浅井氏の動向確認も大きな目的でした。
 この朝倉氏攻めの前年から、浅井氏が織田氏から離れた旨の噂(『多聞院日記』)が出ており、織田信長の義理の弟である浅井長政の行動が本当に噂通りなのか、確認する意味もあったようです。将軍義昭政権を支える織田家の身内から、そのような事が起きれば外聞も悪く、政権にも良い材料にはならないからです。

越前朝倉氏攻めは、そのような複合的な目的を一気に解決するため、大変用意周到に計画され、軍勢に公家も同行していました。行軍中に改元も行われています。また、予備の軍勢も用意し、京都にも準備(更に各地の武将にも準備をさせていた)していました。状況不利になった場合に、総崩れにならない工夫もされていました。
 現在の通説では、越前朝倉氏攻めと「姉川の合戦」は別々のものと考えられていますが、作戦からすれば、これは一体化したものです。作戦の筋書きとしては、
 
”浅井方に離叛の動きが見られる場合、戦況が悪ければ躊躇いなく撤退を行う。速やかに体制を立て直し、敵の本隊に決戦を挑み、殲滅する。”

といった流れであったと考えられます。そのための「姉川合戦」であり、そのための予備兵力の用意であった訳です。
 姉川合戦では、将軍義昭の出陣が計画されており、京都に集められた予備の軍勢を高嶋郡へ出し、決戦場(姉川)の「後詰め」を行う計画(将軍義昭御内書・細川藤孝奉書などにより)でした。
 それが、軍事行動の一連の計画であり、ストーリーでしたが、結果的にはその通りに進まず、誤算を生じてしまいます。それは歴史が示しているところです。

池田勝正は、この動きの中心的人物でもありました。幕府方を支える中心勢力で、越前朝倉氏攻めでは、3,000の兵を出していました。
 当時の政治制度上、将軍(幕府)が天皇を護っていますので、幕府を支える一勢力であった織田家は、有力な支援者という立場ではあるものの、池田家と制度上は同列です。実際の当時の社会的な見方としては、少し違うと思いますが...。
 そして、その幕府組織の中心で活動していたのが明智光秀で、朝倉氏攻めでは将軍義昭の代わりに従軍していたのでした。その将軍が朝倉方に身を寄せていた時から随行して、事情をよく知っていたからでしょう。他にも何人かの同僚も出陣していましたが、一団を成す程の軍勢ではなく、小規模であり、政治的な立場での従軍だったと思われます。
 ですので、池田勝正と明智光秀は、同じ幕府方の人物として、意思疎通も蜜に行っていたと思われます。また、公家衆一行を警固するための厳重な手配もされていたことでしょう。
 
そんな中で起きた「金ケ崎の退き口」でした。警戒しながらの行軍でしたが、織田信長は、情報に接すると直ぐに、公家衆を警固しながら、京都へ向かいます。これも予定されていた道程を辿りましたが、有力幕臣の朽木氏の領内とはいえ、不測の事態に備える緊張感はあったと思います。
 撤退の追撃を阻むため、幕府勢の主力である池田衆が「殿軍」を努めることになったのは、自然な流れであったと思われます。光秀は幕府方、将軍義昭の側近としてこれに従い、また、織田方からは木下秀吉が手勢を率いてこれを支援しています。この数は、その時の秀吉の経済力からして、池田衆程では無いでしょう。

撤退戦は、緊張感が走ったようですが、実際はそれほど厳しい追撃は無く、被害事態は少なかったようです。5月の上旬までには京都を経て、池田衆は帰城したようですが、次の出陣に直ぐさま備えなければなりませんでした。

6月28日、姉川で合戦が行われ、織田・徳川連合軍は、朝倉・浅井連合軍に苦戦の末に勝利します。その苦戦の理由は、将軍義昭の高嶋郡への出陣ができず、後詰めを欠いたためです。幕府勢の主力であった池田衆が、出陣できなかったためです。
 三好三人衆が、池田家に調略を行い、池田家中で内紛が起きたことによるもので、当時の池田家は、それ程の影響力がありました。
 この時、一方の明智光秀は、将軍出陣のため、高嶋郡や若狭国方面への調整を行っていました。将軍が出陣した際には、再び池田勝正と明智光秀は、行動を共にしていたかもしれません。

池田家中は、6月18日に分裂し、勝正は居城である池田城を追われます。間もなく、一族的な存在であった原田氏の城、原田城も内紛が起きています。この頃、各地の勝正派は、勝正を頼って集まったと考えられ、この一団が京都などにしばらく留まって、幕府方として活動していたと考えられます。
 勝正と光秀も、元亀争乱の難局を乗り越えるため、互いに協力して、活動する場面もあったことでしょう。

越前朝倉氏攻めの詳しくは、以下の記事をご覧下さい。

池田勝正も従軍した、元亀元年の幕府・織田信長による越前朝倉攻め(はじめに)