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2023年11月25日土曜日

池田勝正が敵前逃亡したとされる、永禄12年(1569)正月の京都六条本圀寺合戦の真実

ネットや歴史系の書籍を見ても未だに、永禄12年(1569)正月の京都本圀寺合戦時の池田勝正について、コピーペーストが後を絶えません。後世の伝記『荒木略記』や『中川氏御年譜撰集』などを元にした一次史料を元にしないものを参考にしているからです。

ネットでは、コピーペーストの量産で、いつまで経っても想像ですし、近年はそこから尾ヒレが付いて更にファンタジーです。それらの中にある池田勝正は、「合戦中に他の者を捨て置いて、自分だけが池田城に逃げ帰った。」というものです。

当然、これは、事実とは全く違います。

私が、池田勝正を知りたくなったのは、「こんなバカな人物が当主になれるのか?しかもその後も暫く当主の座にある。」という疑問が、今に至る研究の発端です。
 加えて、私は、池田勝正の信奉者ではありません。善人であって欲しいというファンではなく、事実がどうであったかという、その事だけを知りたくて探求しています。1998年頃からです。

さて、本圀寺合戦における池田勝正の行動をご紹介します。これが事実です。核心部分だけを記述します。

先ずは、『言継卿記』永禄12年条を見てみます。

(関連記述)---------------------
【1月6日条】
内侍所簀子にて遠見、南方所所々放火、人数4・500如意寺の嶽之越え、志賀少し放火云々。晩頭帰り了ぬ。南方の儀之聞き、方々敗北云々。内侍所於予、四辻宰相中将、白川侍従、薄等一戔之有り。双六之有り。三好日向守長逸以下悉く七条へ越し云々。西自り池田・伊丹衆、北奉公衆、南三好左京大夫義継取り懸け、左京兆之鑓入れ、三方従り切り掛かり、三人衆以下申刻(午後3時〜5時)敗軍、多分討死云々。黄昏れに及びの間を沙汰殊無く。
【1月7日条】
七条於(桂川自り東寺の西に至る)昨日討死の衆1,000余人云々。但し名字共慥かに知られず云々。石成北野の松梅院へ逃げ入り云々。各打ち入り破却云々。又落ち行き云々。但し三好左京大夫義継討死云々。久我入道愚庵、細川兵部大輔藤孝池田筑後守勝正見ずの由之有り。三好日向守入道以下各八幡へ落ち行き云々。
【1月8日条】
(前略)三好左京大夫義継細川兵部大輔藤孝池田筑後守勝正等西岡勝龍寺之城へ去る夜(7日)入りの由雑談了ぬ
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次に『多聞院日記』は奈良興福寺の一乗院坊官多聞院英俊の日記です。

(1月7日条)---------------------
(前略)一、昨日6日酉刻(午後5時〜7時)、京六条に上意御座へ三好三人衆打ち寄せ、散々打ち負け悉く果て了ぬと奈良多聞山へ注進と、実否は知らず。事の様は審らかならず也。但し如何。桂川にて一戦に及び、一番に池田衆打ち果て了ぬ処へ、三好左京大夫義継寄り合わせ、三人衆悉く打ち果たし、則ち敗軍了ぬ。(ウソ也。)石成討死、釣閑、笑岩は苦しからず歟。但し行方知れずと之沙汰。
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次は、『細川両家記』です。これは、軍記物といわれるものですが、近年は非常に史料的価値が高いと評価されています。

(永禄12年条)---------------------
(前略)然る間、明る7日に池田衆は池田城へ引き退かれの由候也。一、伊丹衆は阿波国衆と合戦して、上下80人計り討ち死するといえ共、勝軍して上鳥羽辺迄追討ち打ち帰り、勝竜寺の城へ入り陣取り也。伊丹衆勝利を得らるる由風聞也。阿波国衆は、陣床も不足して淀・八幡・伏見・木幡、散在して、負に成りよし候也。此の合戦双方800人死すと申し候。
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『信長公記』です。これも、軍記物といわれるものですが、近年は『細川両家記』同様に非常に史料的価値が高いと評価されています。

(御後巻信長、御入洛の事条)---------------------
(前略)3日路の所2日に京都へ、信長馬上10騎ならでは御伴無く、六条へ懸け入り給う。堅固の様子御覧じ、御満足斜ならず池田清貧斎正秀今度の手柄の様体聞こ召し及ばれ、御褒美是非に及ばず。天下の面目、此の節なり
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この『二條宴乗記』は奈良興福寺の大乗院坊官二條宴乗の日記です。

(1月12日条)---------------------
(前略)三好左京大夫義継討死の由申し候へ共、細川中務大輔輝経と(一緒に)池田へ御退き候て、是れも公方様へ礼に御参り由
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本圀寺合戦について、京都の公家山科言継(言継卿記)、奈良の古刹興福寺大乗院(二條宴乗記)、一乗院(多聞院日記)へ伝わっています。しかし、乱戦・混戦であったため、一次情報が混乱しています。三好義継が討死したとも伝わっています。死んでません。

これらの史料(資料)群の動きを池田勝正を中心にまとめてみます。摂津守護になったばかりの池田勝正は、将軍の危急とあっては、当然ながら駆け付けなければいけません。また、この当時は、摂津国内最大の勢力を誇っていましたので、伊丹氏よりも数倍の軍勢動員力を保持していました。

この物語を表面的に見てはいけません。京都に三好三人衆の軍勢が入ってから慌てて対抗措置を取ったのではありません。敵対勢力の動きは把握しており、その時点で準備をしています。
 とはいえ、新体制の中で高名を上げなければならない実情もあって、池田勝正が率いた一群が、伊丹よりも前に出て一番槍を努めます。これは戦後処理の中では池田家が不利な立場にもあったからですが、兎に角、動員力の上でも前衛を厚く、多勢に当たります。
 急遽ではありましたが、これは共同歩調を採っており、三方から敵の三好三人衆勢を攻めています。

しかし、敵である三好三人衆勢も手強い相手で、乱戦・混戦となったようです。この時は依然として三好三人衆方に味方する勢力が多かった。その為に、思い込み等で、当時の伝聞も混乱と錯綜をしていた事が伺えます。

さて、池田勝正が負けて、池田城へ逃げ帰ったという想像伝記が、なぜ起きたのかを考えてみます。
 この一節は、江戸時代に家名を継いで、幕藩体制の中で大名となった中川家と江戸時代にも家名の残った荒木村重系統の家系の思惑もあったと思います。
 そしてまた、当時の史料をたどる事情にもよって、部分的な情報から想像する贔屓で、答えを出してしまうという事もあったと思います。摂津池田家は滅亡していますから、それらの間違いを糺すキッカケもありません。
 冷静に考えて、現代社会を生きる私たちは、『多聞院日記』『二條宴乗記』『言継卿記』『信長公記』『細川両家記』を読みたいと思えば読めます。しかしその環境は、いつ調ったでしょうか。そんな中で編纂されています。

その上で、後世の私たちが先人の苦労を克服した状況にあって、様々な史料を読む事ができる訳です。池田勝正が永禄12年正月の本圀寺合戦で何をしていたかというと、

  • 池田勝正は逃げずに戦場で戦っていた。
  • 混戦・乱戦であり、確かに池田勝正や三好義継の消息が一時的に不明になっていた。
  • 三好三人衆勢に対する第2波攻撃である伊丹勢によって、敵を破った。
  • 一時的に消息の掴めなかった池田衆(逃げたと思われたのはこの部分)一団(別の?)は、幕府重要人物である細川中務大輔輝経を摂津池田城へ護衛付きで避難させていた。12日に京都へ戻って将軍義昭に無事であった事の面会をしている。
  • 本圀寺の戦いが収まった後(1/7夜)、池田勝正は将軍義昭側近細川藤孝と共に、勝龍寺城に入っていた。
  • 池田衆の活躍に、織田信長から手柄を特に賞されている。
  • 三好義継は戦死したと噂されていた。

といった要素が史料から上げられます。

これらの史料から判る事実として、池田勝正は本圀寺合戦の最前線に居て、指揮を執っていました。状況が落ち着いた時点で、拠点城の一つであった、勝龍寺城に池田勝正が入っています。
 この約2日後の10日、織田信長が急遽上洛し、この危急に対する処置として、池田衆の貢献を特に評しています。その時に讃された筆頭家老の池田清貪斎正秀の名が見えます。
 この事件で池田衆が大きな貢献を出来たのには、池田家は、元々京都に屋敷を持っており、その活動実績も長い事から、様々な人脈などによって策を立てる事ができたところにあったように思います。多分、池田正秀は、京都に居たと思われます。

池田勝正を惣領(当主)とする勢力が勝手な戦線離脱をしていたなら、このような記録は残る筈がありません。これが事実の全てです。

 【参考記事】
京都六条本圀寺跡を訪ねる

 

京都本圀寺寺地南側境にある碑


五条通を越えて北側にある本圀寺寺地境の碑


六條御境の石碑(聞法会館東側の六条通交点)


今は京都市伏見区にある日蓮宗 大光山 本圀寺


八条通りの様子

2016年6月29日水曜日

戦国武将の戦い方

政治問題の解決方法の一つとして、武力による解決が日常的に行われていた戦国時代、武士は常に「戦い」の研究を行って、備えを怠りませんでした。そんな内乱の時代、摂津国豊嶋郡を本拠とする池田氏も、武士として度々戦場へ出ています。
 軍勢を出し、互いに想定した場所が合戦場になり、戦うのですが、勝敗を決めるのは「後巻き(うしろまき)」または「後詰め(ごづめ)」と呼ばれる手立て(勢力)が非常に重要でした。これによって勝敗が決まると言っても良い程です。これは不変の真理で、現代戦でも非常に重要な要素です。

「後巻き」とは、前線・本隊を支援や補完する軍勢で、これが適切な位置にあれば、敵は攻めることができません。動けば、後ろや横を取られて、挟まれたり、囲まれるからです。当然、相手も後巻きはしますが、互いに、より適切な場所に後巻きの陣を取った方が勝利します。
 実際に、池田衆が後巻きをした合戦の記述が、様々な資料に見られます。中でも有名な『信長公記』御後巻信長、御入洛の事の条に見られる例をご紹介します。
※改訂 信長公記(新人物往来社)P93
 
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1月6日、美濃国岐阜に至って飛脚参着。其の節、以外の大雪なり。時日を移さず御入洛あるべきの旨、相触れ、一騎懸けに大雪の中を凌ぎ打ち立ち、早御馬にめし候らひつるが、馬借の者ども御物を馬に負候とて、からかいを仕り候。(中略)。以ての外の大雪にて、下々夫以下の者寒死(ここえじに:凍死)も数人これある事なり。3日路の所、2日に京都へ、信長馬上10騎ならでは御伴なく、六条へ懸け入り給う。堅固の様子を御覧じ、御満足斜ならず。池田せいひん今度の手柄の様体聞こしめし及ばれ、御褒美是非に及ばず。天下の面目、此の節なり。(後略)。
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この時、当主の池田筑後守勝正を始め、池田紀伊守清貧斎、荒木弥介(村重)など主要な池田家中は出陣していますが、池田から京都へ向かう途中、高槻で敵(三好三人衆方入江春景?)に道を塞がれていました。そのため、北側の山道へ入って迂回し、西岡地域(現長岡京市あたり)へ出て、桂川西岸へ向かいました。
桂橋(西詰から南を望む)
敵の三好三人衆勢は、5,000程の軍勢で京都へ入り、仮御所(居所)として六条本圀寺に座した将軍義昭を襲います。当然、将軍を護衛する武士団はいたのですが、そう長く持ちこたえられる数と装備ではありません。
 その将軍義昭救援に、河内半国守護三好左京大夫義継が、軍勢を率いて南方向から淀あたりを経由し、本圀寺へ向かいます。この間、三好三人衆勢は、西からも池田を始めとした軍勢が、本圀寺を目指して進んでいるとの報に接して、一部を割き、七条村あたりへ置きます。
 桂川西岸から京都へ入ろうとする池田衆と、入れさせまいとする三好三人衆勢が交戦したようです。この前線に池田勝正は居たようで、他にも伊丹・茨木・細川兵部大輔藤孝なども共同で三好三人衆勢と交戦したようです。
 ちなみに、桂川は深く、流れも早いために徒渉はできず、しかもこの時は真冬ですので、川の中には入れなかったでしょう。池田衆などの軍勢は、桂川に架かる橋を使ったか、桂付近の村から徴用した舟で対岸に渡るしかありません。橋は付近に、何本かあったようです。どちらにしても、攻める側が先に動けばそれなりの犠牲が出る状況でした。
 結局、桂川と本圀寺の両所では激戦となり、三好義継が戦死したなどと噂が出る程でした。池田・伊丹衆などが川を渡って、攻めた模様です。
※当時の日本人は、殆どが泳げません。一部の武士くらいが水練をしていたようですが、池田家中はどうだったでしょうか。

桂橋西詰から北東を望む
この難しい状況でも的確な後巻きが勝敗を決したようで、池田清貧斎(正秀)が、織田信長から特別に賞されています。
 広義の後巻きとしての視点で見れば、護るべき本圀寺に対して、三好義継と桂川西岸の池田衆の双方が後巻きといえますが、本圀寺の友軍と三好義継の軍勢では、数が多い三好三人衆勢を圧倒できなかったようです。
 また一方、この時、京都周辺にも三好三人衆方に同調する勢力があって、これらが将軍義昭方にとっては、敵方の後巻きとなっていました。ですので、池田衆が桂川方面からも攻め込んだのは、本圀寺を攻囲する三好三人衆勢を更に攻める必要がある、と判断したのだと思います。後巻きは、「そこに居る」だけでも良い場合が結構あるようです。

機を逃せば、将軍義昭が討ち捕られてしまう、一刻を争う中での判断と、行動だったと思われます。難しい局面で、老練な池田清貧斎が機転を利かし、的確に後巻きを行った事で、文字通り、将軍義昭は窮地を脱する事ができたのだと思います。
 織田信長は、この池田衆(池田清貧斎)の抜群の功に対して特に賞し、その記録にも残されたのだと思われます。

この合戦で、三好三人衆方は大打撃を受け、多くの名だたる武将を亡くしたようです。三好三人衆の中心人物であった三好下野守は、この時の合戦で重傷を負ったのか、この年の5月に死亡しているようです。
※この合戦に、三好三人衆方がどんな気持ちで挑んだのかという一幕が、先にご紹介した「古典『信長記』を読んで繫がる過去と現代、そして未来!」にご紹介した記述です。

最近は機会が減ってしまいましたが、将棋を指してみればわかります。駒は攻めも守りも連携していないと全く意味が無く、戦いもそれと同じです。勝つための采配は、状況を把握し、何を、どのように使い、それをどこに置くか、が重要になるという訳です。

【追伸】この六条本圀寺・桂川の戦いについては、「研究_1569年(永禄12)正月の京都六条本圀寺・桂川合戦について」にて、詳しくご紹介する予定です。



2014年9月30日火曜日

永禄12年正月の京都六条本圀寺・桂川合戦について(はじめに)

永禄12年正月に行われた京都六条本圀寺・桂川合戦は、織田信長が足利義昭を奉じて上洛し、中央政権にを樹立して最初の試練でした。また、この合戦は日本史上でも有名な合戦です。
 これに池田勝正も積極的に参戦し、重要な役割を果たしているのですが、家が滅んでいるだけに、記録的に滅茶苦茶な伝わり方をしており、そこには事実無根な要素も多数見られます。通説のまま、今も真実が正される事も無く伝わっています。意外と業界でもそれを詳しく見直すような動きは無いようで、そういった研究や著作を見たことがありません。
 日本史上でも重要な戦いであるだけに、それは正しておくべきだと思います。池田勝正を調べる上で、この六条本圀寺・桂川合戦の真実について、判った事をいくつかに分けて説明したいと思います。

またこの事で、勝正についての汚名挽回にもつながるでしょう。私は彼の信奉者で、絶対に善人であって欲しいという偏った思い入れはありません。ひとりの人間の生き方に興味があるだけです。
 しかし、事実では無い、明らかな間違いは正しておく必要があると思います。正確にその人生を理解するためにもです。

それらの説明を以下の視点からしていきたいと思います。

 (1)六条本圀寺へ至る三好三人衆の行動
 (2)幕府方池田衆などの行動
 (3)合戦の様子
 (4)合戦の背景
 (5)六条本圀寺・桂川合戦における嘘だらけの池田勝正像
 (6)この合戦から判った、防衛面での京都の脆さ
   ※本圀寺、本能寺、旧二条城など。
   ※京都を守り続ける必要性と意味。
   ※池田衆は京都にも屋敷を持っていた。

 (参考)現在の六条本圀寺跡の様子
 (参考)戦国武将の戦い方


2014年8月15日金曜日

京都六条本圀寺跡を訪ねる

永禄12年(1569)正月、就任したばかりの将軍義昭居所で起きた京都六条本圀寺・桂川合戦は、池田勝正にとっても大きな出来事でした。

このテーマについても何れ詳しく取り上げたいと思います。このエピソードは、諸家の伝承で取り上げられていますが、多くが間違えて取り上げられており、それが勝正の名誉を損なっている元になっています。もちろん、事実とは違います。

さて、詳しい事は後日としまして、先日、その舞台となった京都六条本圀寺跡を訪ねてきました。今回は、簡単に写真でご紹介します。
 また、この歴史探訪にあたって、湘南情報数理化学研究所の主宰藤田眞作様のサイトにある「第20回 六条本圀寺はどこへ」を主に参考に下調べをさせていただきました。流石に学者さんだけあり、非常に詳しく調べられています。すばらしい資料です。
 また、「六条の地に於ける終竟の本圀寺」「京都六条本圀寺(本文)」というインターネットサイト(ページ)もありこちらも大変参考になります。こちらに写真や地図、見取図もあります。

本圀寺は現在、同じ京都市の山科区に存在するのですが、1971年(昭和46)まで、今回探訪した場所にありました。 本当に信じられないくらい、そこに本圀寺があったとは思えない景色でしたが、実際に歩いてみるとその大きさもですが、いくつかの名残があり、想像を助けてくれました。
 歩いてみると感じるのは、広大な寺地です。今は五条通りがありますが、これが寺地を東西に分断するカタチになってしまいました。その本圀寺の領域の広さを示すために、碑が南北に1つずつ建てられています。また、五条通りの周辺に塔頭寺院も残っていて、今もその永い歴史の縁を繋いでいます。また、1つだけ本圀寺の門も残っています。
 もちろん、創建当初からこの規模という事では無く、時代による変遷があり、最終的な大きさとしての名残だと思います。
 それから、永禄12年当時は、本願寺の施設はありませんので、この六条あたりではこの本圀寺が最大級の施設だったようです。

京都の神社仏閣はどこもそうですが、歴史深く、様々な有名なエピソードがあります。しかし、それら1つずつに触れていては、特定の視点を深める事はできませんので、永禄12年正月に起きた、三好三人衆勢による京都本圀寺襲撃事件に視点を絞っていきたいと思います。
 京都本圀寺を実際に歩いてみて思うのは「広大な寺地」です。これ程の寺地規模自体が、将軍義昭を守ったのはよく理解できます。臨時の幕府拠点となっていた事もよく解ります。当時の京都は、永年の戦乱で将軍の居所たる城や適当な屋敷も無く、一時的に寺を利用せざるを得なかった事も三好三人衆側への弱点ともなっていました。
 しかし、「将軍は京都に留まる」という、本来の職務を重視した将軍義昭政権は、そのためにいざという時の防御も考えて本圀寺にその居所を定めた訳です。
※義昭の前の将軍義栄は、京都に防御を満たす適当な場所が無いために、摂津国冨田に御座所を置いていました。

この三好三人衆による本圀寺襲撃事件をきっかけに、京都市中に急遽、将軍居所たる城の重要性が取沙汰され、二条城の建設となります。ちなみに、この時の二条城は、今の二条城とは違う位置に建設され、これに池田衆も役負担を命じられています。

詳しくはまた後日の特集でご紹介するとして、以下、歴史探訪の時に撮った写真をご紹介致します。

京都本圀寺寺地南側境にある碑


五条通を越えて北側にある本圀寺寺地境の碑

旧境内内にあたる猪熊通から北を望む

五条通北側にある智了院から南を望む

今も残る本圀寺の墓地

真如院(写真左)など今も塔頭が通りに並ぶ