摂津佐保城と同佐保栗栖山城について詳しく見る中で、その調査報告書には、非常に気になる指摘がされていました。個人的にも永年興味を持っていた中世の民俗学的なところであり、発掘調査報告書にも述べられている「人質」や、14ある曲輪の内、主たる構成要素であるものの曲輪1のみが火災を被った跡が確認された事には、注目しています。この、全体ではなく、一部の火災であるという状況は、「自焼」では、ないでしょうか?
【過去記事】佐保城と佐保栗栖山城と白井河原合戦の関係性を考える
これらについては、『戦国の作法』(藤木久志著:平凡社)に、興味深い研究成果がみられ、上記の調査報告書にある要素を補うものになるように感じています。
例えば、「人質」について。織田信長に擁立された将軍義昭政権は、朝倉・浅井氏攻めから戻った後、事態の深刻度から、五畿内の主立った武家から人質を取っています。元亀元年5月上旬のことです。この時点に於いて発足して間もない将軍義昭政権は、なおの事、権威を基にした「人質」政策を打ち出す事が度々あったと思われます。
※信長公記(新人物往来社)P102
------------------------------
◎越前手筒山攻め落とさるるの事
(前略)4月晦日 朽木越えをさせられ、朽木信濃守馳走申し、京都に至って御人数打ち納められ、是れより、明智十兵衛尉光秀、丹羽五郎左衛門尉長秀両人、若狭国へ遣わされ、武藤上野介友益人質執り候て参るべきの旨、御諚候。武藤友益母儀を人質として召し置き、其の上、武藤構え破却させ。5月6日(中略)さて、京表面々等の人質執り固め、公方様へ御進上なされ、天下御大事これあるに於いては、時日を移さず御入洛あるべきの旨、仰せ上げらる。(後略)
------------------------------
また、織田信長から毛利元就への音信の中で、習いに則りそれぞれ人質を取ったと述べています。
※織田信長文書の研究-上-P409
------------------------------
(前略)一、在洛中畿内の面々人質相取られ、天下に意儀無き趣き候条(後略)
------------------------------
これらの記述は、民俗学的観点で藤木久志氏が、中世の「人質」について、研究成果を示されています。
※戦国の作法P54
中世の町の復元例(三重県四日市市) |
◎身代わりの作法・わびごとの作法
中世の村は、破壊的な暴力の回帰や反復を避けるために、いったいどのような主体的な能力や作法を備えていたか。中世を通じて様々な紛争の庭で、そのはじめの段階にみられた「言葉戦い」という挑戦の作法(武装に先行する言技)も、その一つであったが、ここでは更に、紛争の解決の過程に特徴的に見られる「身代わり」や「人質」の作法、その最後の段階によくみられる「わびごと」や「降参」の作法、などについて調べてみよう。
少なくとも15〜16世紀を通じて、中世の村が次第に自前の紛争解決能力を高めていたことは確実で、例えば、村という共同体のために払われる個人の犠牲に対して、村が集団として補償や褒美などを与える慣行を成立させていた事実は、よい例である。近世で「村請」の母体となる、自立した村の確かな原型がここにある。
さて、中世の犠牲と言えば、私たちは服従や講話を誓う契約の証しに、しばしば童子が人質に取られ、童女が政略結婚の犠牲になったという話しを、歴史の悲劇や戦国ロマンとして、よく知っている。また、現代のハイジャック事件のような、荒っぽい人質取りも、ごく日常的に行われていた。
更に、殺人事件の処理にさいし、被害者側に加害者 = 下手人本人ではなく、加害者の所属する集団メンバーの誰かを、解死人(げしにん)として引き渡し、被害者側はその謝罪の意思に免じて、原則として処刑しないという習慣があり、この解死人にも、よく子どもや集団内部の弱者が選ばれた、という興味ある事実も知られるようになっている。
こうして様々な紛争解決の庭で、人質や身代わりに子どもや集団内部の弱者を立てる習わしは、その根本で一つにつながっていたのではあるまいか。いったい「質取りや「身代わり」の習俗は、中世後期の社会にどのような特徴をもって広がり、その底にはどのような意味が秘められていたか。
------------------------------
この前提を基にして、個別の事例が紹介されており、関連する文節を上げてみます。
※戦国の作法P61
------------------------------
(前略)つまり武家も寺家・公家も村人も、ともに質取り行為をしていたいのである。質取りというのは、この荘園の世界 - おそらくは広く中世の社会で、ごく普通に行われる紛争解決の一手段であったに違いない。
質取りされた人々はふつう「人質」「囚人」などといわれ、質取り行為は「留置」「搦取」「質取」「生取」「召取」「召籠」など様々に呼ばれている。まさにその言葉通り、人質にされる村人は武力で無理やり生け捕られ、既出の例のように縄でしばりあげられ、警固をつけて召し籠められる囚人で、例Gでは、要求をいれなければ斬り殺すぞと脅迫されている。
だが、逃げ出して捕まり、殺されそうになった場合を除けば、人質があっさり殺されてしまった例は一つも見られない。このことは重要である。しかも、ただ身代金が目当てらしい、例Fを除けば、男女の区別もなしに無差別に質取りされるわけではなく、また、例B・Hのように、人質の資格なしとして釈放された例もある。この野蛮な中世の質取りにも、どうやらそれなりの作法 = ルールがあったらしいのである。(中略)
これらの事例は、武家などによる質取りといっても、全く無差別に強行されたわけではなく、その背後には、目的に適った質取りの作法がひそんでいた、という事実をよくうかがわせてくれる。(後略)
------------------------------
詳しくは、『戦国の作法』をご覧いただきたいのですが、紛争解決の手段として、人質を取るという事は、交渉の保証であり、当時の社会感覚として普通の習慣であった事が、解かれています。
一方、「自焼」についても、非常に興味深い視点で藤木氏が解き明かしています。例えば、1515年(永正12)播磨国鵤庄の平方村での事件を紹介して説明しています。
※戦国の作法P83
------------------------------
(前略)永正12年(1515)播磨鵤庄の平方村で、この庄の衆が不慮の喧嘩から守護方の衆一人を殺すという事件となった時にも、円満な解決を願うこの庄では、「解死人ヲヒカセ、在処ニ煙ヲ立、...礼ニ出」るという、一連の手順を踏んで詫びを入れた。たんに解死人一人を出せば済んだわけではない。
摂津原田城の古写真 |
「礼儀」に出頭する名主の全員が、まず名主の家格のシンボルであった家門を焼き、ついで本人自身も人格のシンボルである髷を剃り(おそらく名前も変え)、「黒衣・入道」の法体になって、村の神社に趣き鳥居の前で、相手方の名主たちに謝罪の礼をとるというからには、この作法にも、刑罰や処分というよりは、むしろケガレをはらう儀礼の色が濃厚である。
また、百姓の家を「年老次第」に30軒選んで放火するという処分も、おそらくは「家」を基準として、年齢階梯の形で編成された「村」の、百姓たちの正規の成員たる資格 = 家格のシンボルであったに違いない。その意味で、この「村のわびごと」の作法は、解死人の儀礼とも深いつながりを持っていたといえよう。(後略)
------------------------------
そして更に、次のような史料があります。1570年(元亀元)6月の摂津池田家内訌に連動して、非常に関係の深かった同国原田氏の家中でも内訌が起きました。その折、原田城を「自焼」という記述が見られます。
※言継卿記4-P440
------------------------------
(前略)一、原田の城自焼せしめ、池田へ加わり云々。
------------------------------
原田右衛門尉銘一石五輪塔 |
詳細は不明ではありますが、摂津原田家中での内訌の結果、自らの城を焼いて、三好三人衆方の池田家へ加担したようです。この前々月の6月、池田家中で内訌後に城を出た、惣領の池田筑後守勝正は、一旦、原田城に入っています。その重大事態に、原田城に入るのですから、相当に深い関係です。そしてその直後に、その原田城で、この状況に至ったのですから、原田氏の大半は三好三人衆方の池田家へ加担することを決めたという事態から起きた、「自焼せしめ、池田へ加わり云々」だったと思われます。
それから、補足として、宣教師ルイス・フロイスの当時の上司への報告書や晩年にそれらの出来事を回想し、日本についての叢書をまとめた『フロイス日本史』の中から、関連する記述をご紹介します。
※耶蘇会士日本通信 下
------------------------------
◎1571年(元亀2)9月28日付、都発、パードレ・ルイス・フロイスより印度地方区長パードレ・アントニオ・デ・クワドロスに贈りし書簡
(前略)彼の200の武士は悉く総督と共に死し、彼の兄弟の一子16歳の甥(註:茨木重朝)も亦池田より出でたる3,000人の敵の間に斃れたり。
和田殿の子は高槻の城に引返せしが、総督死したるを聞き部下の多数は四方に離散し、彼に随従せる者は甚だ少数なりき。
此の不幸なる戦争の当日、予は同所より4レグワの河内国讃良郡三箇の会堂に在りしが、同朝住院の一僕をダリオの許に遣わし、途中危険なるが故に、我等の為に総督より護衛兵を請い受けん事を依頼せり。聖祭終わりて12時間小銃の音を聞き、又周囲の各地悉く延焼せるを見しが、何事なるか知らざりき。僕は午後に至り、此の不幸の報せをもたらして帰り、我等に総督及び都の高貴なる武士悉く彼と共に死したる事、並びに高槻の城に着きし時、其の子敗戦して退き来たりしを見たる事を告げたり。(後略)
------------------------------
また以下は、フロイスの晩年の編纂による叢書『フロイス日本史』です。これは『耶蘇会士日本通信』の発信当時には知り得なかった事、理解できなかったことを補足してあります。
※フロイス日本史(中央公論社刊)
------------------------------
◎第1部94章 和田殿が司祭とキリシタンに示した寵愛並びにその不運な死去について
(前略)和田殿は、大胆且つ、極めて勇敢でした。彼は城中、側近に200名もの殿を擁していましたが、彼らは全五畿内における最良の槍手であり、最も勇猛な戦士達でありました。しかしその報せはあまりにも突然の事でしたので、彼は当時城内に居ました700名あるかなしかの兵卒を率いて、直ちに出陣する他はありませんでした。なぜならば他の家臣は全て、そこから3〜5、乃至8里も遠く離れた所に居たからでした。(中略)
和田殿の子息は、父の破局に接しますと、後戻りをし、僅かばかりの家臣を率い、急遽高槻城に帰ってしまいました。なぜなら、残りの兵卒達は、奉行、並びに最も身分の高い人々が彼と共に戦死した事を耳にすると、早速あちらこちらへ分散してしまい、彼に伴った者達も同じく分散してしまいました。
------------------------------
このように『佐保佐保栗栖山砦跡- 国際公園都市特定土地区画整理事業に伴う調査報告書 -』での見解は、私の中では、以前からの興味とも接点があり、非常に示唆に富んだ内容でした。
藤木氏の研究などにより、『佐保佐保栗栖山砦跡- 国際公園都市特定土地区画整理事業に伴う調査報告書 -』にあるところの、「建物の礎石や床面は火熱を受けており、火災を被ったことが確認された。また、建物に使用されたと考えられる焼けた土壁も多量に出土している。(後略)」とは、儀礼的な「自焼」であり、「このことから本城全体の性格を問うと、人質曲輪の可能性のある謎の曲輪5を秘匿=重用することを任務の一つに負わされて、改修されたのではないだろうか。」とは、その想定通りに「人質を収容する曲輪」だったのではないでしょうか。
宣教師ルイス・フロイスの記録のように、和田惟政は統治の日が浅く、また、他国人でも有り、地域とのつながりも、信頼関係も構築し得なかった。それ故に、権力による統治を並存させなければならなかった。
更に言えば、これらの条件が揃う時期、発掘調査から導き出された時期を考慮すれば、佐保来栖山城は、1571年(元亀2)8月の白井河原合戦に関わる経緯を持った、幕府方の地域拠点城であったように思われます。
民俗学の分野は、私のこれまでの記事には取り上げていませんでしたが、事象を理解するには、非常に有用であり、改めて民俗学の重要さを認識した次第です。今後とも民俗学を含め、様々な見聞を拡げていきたいと思います。