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2013年12月14日土曜日

キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その6:補遺2 (最近の研究結果から白井河原合戦に関する情報を拾い上げてみる))

先日、高槻市立しろあと歴史館にて開催された企画展「高山右近の生涯 -発掘 戦国武将伝-」が開催され、その企画展用に発行された図録は大変価値のある一冊になっています。最新研究では様々な可能性が示唆され、高山右近の研究も更に進展した印象を受けます。

この企画展は、高山右近の生涯が対象になっていますので、期間が長く、地域も広いのですが、その中で特に、白井河原合戦の頃の素材に注目してみたいと思います。
 高槻市立しろあと歴史館の学芸員中西裕樹氏が、「高槻城主 高山右近の家臣と地域支配 -織田政権下の茨木城主中川清秀との比較から-」(以下「図録」と表記)で、研究成果を詳しく発表されています。他にも「しろあとだより」(以下「たより」と表記)など色々と小考を発表されており、それらを含めて、気になった要素を以下に抜き出してみます。

「里城」が「佐保城」との説を打ち出す (出典:たより第7号)
「(前略)「里」地名は未確認だが、北西約3キロメートルの山間部に位置する佐保村には複数の城郭遺構が存在し、「サホ」に「里」の字を当てたとも推測される。(後略)」との見解が示されています。
 この事は、これまでご紹介した白井河原合戦の分析にも合致するところがあります。池田衆は、決戦を意図し多数の兵を動員、また、隠密行動を取っていた事が判明している中で、それを更に裏付ける推定でもあるように思います。
 「里」の記述が「佐保」の誤記であれば、佐保は宿久庄の裏側でもあり、また更に、池田方面からの街道伝いに進めます。そしてまた、同地域に城跡が多くあるということは、要地であった証拠でもあるのでしょう。
 この時、池田衆にとっても重要な地域と捉えられ、制圧目標となっていたと考えられます。ここを手に入れる事ができれば、宿久庄の裏を確保し、街道を押さえ、連絡と補給を安全に行えると同時に、敵の同じ動きを封じる事ができます。敵の情報経路を絶つことは、隠密行動にも必要な要素かもしれません。
 また、池田方は、佐保から福井方面を経て向かう一隊と、宿久庄からの一隊が、2つの方向から白井河原の決戦場に向かう作戦を立てたのかもしれません。
 ちなみに、「余野氏」は、池田の一族衆でもあり、その拠点である余野から山道を伝って南下すれば2里(8キロメートル)程で到着します。また、止々呂美方面からもほぼ同じ距離です。

郡氏の由緒書(他に甲冑なども)の白井河原合戦部分を公表 (出典:図録)
系図の関連では取り上げられていたのかもしれませんが、まとまって紹介され、分析されたのは、今回の「高山右近の生涯」が初めてではないでしょうか。大変興味深い記述があります。
 一連の資料の中に郡宗保公の肖像画があり、この宗保は、伊丹親保の子が郡兵太夫正信の養子に入り、白井河原合戦で郡兵太夫の戦死後、宗保が郡氏の跡を継いで、荒木村重に仕えたと伝わっています。
 確かに元亀2年から天正元年の春頃にかけて、和田惟長と伊丹氏は同じ幕府方として親密な行動を取っています。ですので、この言い伝え部分に矛盾はありません。
 但し、白井河原合戦に勝った池田衆は、千里丘陵の東側にも勢力を伸ばしたと考えられ、茨木城までも手に入れていたのでしょう。そうすると、郡氏の本拠地は、当然池田方に接収される事となりますので、高槻・伊丹などで再興を図ったり、また、別の郡一族が池田衆方となって、郡村などの本貫地を守ったのでしょう。そのあたりの所は不明です。

由緒書には、白井河原合戦の時の郡兵太夫の行動が記され、フロイス日本史の記述を補う状況を見ることができます。これらは追々紹介していきたいと思います。

郡村周辺にある、2つの「馬塚」について (出典:図録)
旧郡村付近に「馬塚」と呼ばれる場所が2カ所あります。その内の一つに池田衆が陣を取り、白井河原合戦に臨んだとする逸話もあります。
 1つは、現在の国道171号線の下井町交差点から郡村方面に入る道に「馬塚」とされるところがあり、コンモリとした古墳のようになっています。少し小高い所にあり、陣跡とされるのですが、それにも適した場所です。
 もう一つは、その「馬塚」の前の道を更に郡村方面に進みます。郡小学校の東側にもう一つの「馬塚」があります。こちらは、人工的な小さな山で、木が一本生えています。墓石もその上にいくつかあります。こちらはこの地域が開発されるまでは、田んぼの中にあり、前者の「馬塚」とは趣が少し違います。

事情としては、命からがら逃げてきた郡兵大夫一行が、村の内に入った所で力尽きたのでは無いかとも思える、「下井町交差点」に近い馬塚がそれのような気がします。
 この馬塚は、郡氏の子孫の方々が今も決まった日に供養を行っているそうで、双方の馬塚で行われているそうです。
 また、この馬塚付近は、兵糧を炊き出す場所でもあったと伝わっています。白井河原の時だけの事なのか、定位置の作業場だったのかわは判りませんが、城に付随するのか、公的な場所でもあったようです。

「どちらが本当の馬塚か」という、二者択一的な事では無く、どちらも人や馬などの遺体を葬った場所なのかもしれません。由緒書が描く状況から見ると、郡兵太夫が自分の村に戻る行動をしているため、この辺りは、白井河原合戦の当日はまだ、池田衆の勢力が及んでいなかったと考えた方が自然だと思います。そしてまた、郡村には城もあったようです。

ですので、伝承として伝わっている、池田衆が馬塚に陣を取り、和田方が糠塚に陣を取った事で、「馬は糠を食うから我らの勝利だ」と縁起を担いだ逸話は、事実とは違うような感じが強くなってしまうように思います。
 池田衆は、郡村の北を流れる勝尾寺川を越えておらず、制圧地域は宿久庄城を制圧し、福井村あたりの平地が最前線になった可能性が高くなります。

高山右近と中川清秀が対立していたとの説を打ち出す (出典:図録)
 中々複雑な経緯がありますので、詳しくは『高山右近の生涯』をご覧いただければと思います。同書の研究発表では、(前略) 高山氏と中川氏との間には上郡西部の山間〜千里丘陵〜淀川沿岸地域にかけての緊張が継続し、右近の地域支配にも影響が及んだと考えられる。(後略) 、としています。
 中々興味深い論考だと思います。それが賤ヶ岳の合戦の行動に繋がるのかもしれませんね。この観点でも自分自身の研究ノートをじっくり見てみたいと思います。

松永久秀の出身地の一つとして、五百住説が浮上 (出典:たより第5号)
学芸員の中西裕樹氏が、松永久秀の出自について小考をまとめられています。久秀の出自は不明な事が今も多いのですが、高槻市の東五百住にその言い伝えがある事を資料と共に紹介されています。こちらも興味深い視点です。

白井河原合戦の時にも、松永久秀が高槻方面へ頻繁に出陣していますし、気になる動きをしています。三好義継も関係して動いています。また、戦後の高槻城を巡る交渉では、高槻城に義継が入るといった条件も出されていた程です。
 一連の資料には、ちょっと不自然に思えるような動きもあったので、この五百住に久秀が縁を持つとの説は、大変注目しています。

合戦以前に、中川清秀が新庄城に入っていたとの説を採用 (出典:たより第7号)
元亀2年5月に、池田方で三好三人衆に加担していた吹田城が和田惟政によって落とされた頃、中川清秀は神崎川対岸の新庄城に入っていたとする説を採用して取り上げています。この出典は、日本城郭体系・中川氏御年譜のようですが、これはどうも今のところ信じがたい説です。
 私の研究ノートではこの頃、池田衆は分が悪く、防戦姿勢で、池田から勢力を伸張させる余裕は無かったように思います。ですので、池田衆が元亀元年から翌年夏にかけて、新庄方面へ勢力を伸張・維持できるような動きを示す資料も見たことはありません。 またもし、元亀2年時点で、新庄城を確保していたのなら、吹田が攻撃されている時点やその後に反撃するなり、和田方の交戦地域が吹田から南へ広がっていくなり、何かとその痕跡は見られるはずですが、それはありません。

中川清秀が、池田から出て利益の一端を守っていたとするなら、それなりの立場を得ていたでしょうし、と言うことは、それなりの署名資料があっても良いと思いますが見られません。
 年記未詳で、池田二十一人衆の署名とされる史料『中之坊文書』には、中川清秀が署名していますが、今のところ天正以前ではその一通のみ見られます。

池田衆は、白井河原合戦後に支配地域が過去最大となりますが、それ以前は神崎川など、川を越えない範囲での豊嶋郡を中心とする支配地域(川辺郡・豊能郡など越境していく部分もあった)だったと思われます。






2013年10月25日金曜日

キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その4:完結)

高山右近の参加した白井河原合戦について、筆者記述の「キリシタン武将高山右近と白井河原合戦」その1〜3をまとめてみたいと思います。
 まとめ方をどうするか、悩んだのですが、少し趣向を凝らして、『スロイス日本史』を当時の事実に沿うように書き直してみたいと思います。
 原文は『フロイス日本史-第1部94章(和田殿が司祭とキリシタンに示した寵愛並びにその不運な死去について)-』の抜粋部分を使用します。


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(前略)
私(ルイス・フロイス)が、最後に和田殿にお目にかかりましたのは、去る邦暦7月の事で、時に私は戦争で殺された高山ダリオ殿の一子を埋葬するために、ロレンソ修道士と共に都から津の国に赴いていました。
 私達は、高槻城の一方から四分の一里離れたところまで来ました時に、ロレンソ修道士を遣わして和田殿にこう申させました。
(中略)
和田殿は戦の最中でありましたが、大勢の武士達、また、刻々として殿の諸城などから届けられる色々の書状に返書をしたためる自分の2人の秘書との協議で多忙を極めていました。
(中略)
此れ以前、和田殿は攻撃の足がかりとするために、多数の甚だ好戦的な家臣を有する池田殿の領地との境に近いところで、新たに2つの城を築いていました。池田殿はそれらの城が築かれた事にひどく激昂していました。和田殿は、早速自分に対して出陣するのは確実であると思いましたので、その機も利用して、決着をつけようと考えていました。
 和田殿はその後、都の公方様とも相談を重ね、池田殿を攻める体制を整え、細川殿や三淵殿の援助を得て、池田領へ攻め入りました。
 邦暦の6月10日、和田殿は池田方の吹田城を攻めて、これを落城させました。吹田は水陸の要衝で、ここを手に入れた和田殿は、その後の戦いを有利に導きました。それから更に和田殿は、細川・三淵殿の助けを借りて、池田領内深く進み、原田城をも手に入れました。そしてここに、今は幕府に身を寄せている、旧領主であった池田勝正殿が入城しました。彼は、池田の元の領主に戻るために、和田殿に力を貸していました。
 また、この辺り一帯は、敵である池田殿の主たる収入源でもある土地で、またそれは百年以上に渡り続けられていた、非常に重要な場所でした。これに対する池田殿は、この事態を大いに嘆き、これらを取り戻すため、和田殿に反撃する機会を窺い、準備を進めました。

しかし一方で和田殿は、五畿内での幕府方の不利を補うために東奔西走しなければなりませんでした。また、彼は京都の防衛も受け持ち、非常に苦しい状態が続いてもいました。
 そして7月には、山城国南部や大和国へも出陣し、筒井殿の支援も行いました。兵や物資の調達も困難を極めました。そのため和田殿は、姻戚関係でもある友軍の伊丹殿を頼み、池田殿を攻める事を計画し、準備を進めました。

一方の池田殿も、領内を和田殿など幕府方に激しく攻められながらも、反撃の体制を整えました。池田殿の友軍である三好三人衆や大坂本願寺の援護も受けつつ、邦暦8月には準備を整えたようです。
 邦暦8月18日、和田殿は伊丹殿と連合して、池田領を攻めましたが、池田殿の反撃激しく失敗し、200名もの戦死者を出して後退しました。池田殿は、和田殿への反撃を始めました。
 和田殿は、戦の経験も豊富であり、予め要所に家臣を置き、予期せぬ敵の動きを掴むために工夫をしていましたが、もしも池田殿が多数の兵で攻撃してくるような事になれば、それを防ぐのは難しい状態でした。

先の合戦で勝利していた池田方は、活気に満ちていました。邦暦8月21日、池田殿は全ての高位の武士が連署した一通の布告を発し、たとえ身分がいかに低かろうとも、此の度の戦いにおいて、和田殿の首級を挙げた者には、何人であれ1,500クルザードの禄を授けるであろうと知らせました。
 その翌日早暁、池田殿は和田殿との決戦のために、精選した兵士3,000を、3名の高位の武士が3隊に分ち、出陣しました。

高山ダリオ殿は、子息を戦死させた後、元に居た場所から移り、別の任務に就いていました。彼は、和田殿の築いた萱野の城に城主として入っており、彼の息子ジュスト右近殿と共に、幾ばくかの家臣と共に居ました。そこで哨兵達から敵が来襲したとの報せに接しますと、ダリオは直ちにそこから3里の所に居た奉行に通報しました。
 和田殿の懸念は現実となりました。和田殿は、池田殿との合戦に敗退し、次なる前進のために態勢を立て直す協議を行っていた時、高山ダリオからの通報が届きました。和田殿は急いで吹田を経て高槻城に戻り、敵の軍勢を防ぐ手楯を考えました。敵は西国街道といくつかの街道を使い、一計を案じて東進していました。

和田殿は、大胆且つ、極めて勇敢な武将でした。彼は城中、側近に200名もの殿を擁していましたが、彼らは全五畿内における最良の槍手であり、最も勇猛な士官級の戦士達でありました。
 しかしその報せはあまりにも突然の事でしたので、彼は当時城内に残しておいた控えや予備の兵卒700名あるかなしかを率いて、兎に角も出陣する他はありませんでした。なぜならば他の家臣は全て、そこから3〜5、乃至8里も遠く離れた所に居たため、直ぐには兵を増やす事ができない状態でした。和田殿は、増援の通知をするため、遣いを急派させました。

幣久良山
高山ダリオ殿に通報を受けてから、刻々と入る戦況は、和田殿にとって、思わしくありませんでした。宿久・里など、いくつかの城は落ちたり、敵に包囲される等していました。敵の動きが思いの外早かったため、また、詳しくも判らず、和田殿はその対応に苦慮しました。
 和田殿は準備が整わない中でも、手持ちの兵数を以て領地を守るには、どの場所が適しているかを考えました。間もなく和田殿は、去る邦暦5月に落した安威城の近くにある幣久良山に陣を置き、ここで敵を防ぐ事に決しました。ここなら複数の川もあり、天然の要害性もあって、更に背後を憂える事も無く戦えると考えたからでした。
 和田殿は、城内の高位の貴人へ通達した後、先駆けとして手筈を整え、高槻城を出陣しました。
(中略)
幣久良山から南を望む
彼は先ず前記の200名の貴人だけを伴って幣久良山に入りました。他方500名の兵士は、16歳くらいと思われる奉行の1人の息子(太郎丸)と共に後衛として後に続く手筈になっていました。
 和田殿は1,500名の兵を用意できる見通しを立てていましたので、敵が率いてくるかも知れぬ軍勢の数を恐れてはいませんでした。和田殿は、これまでの状況を見て、池田殿は多数の兵を用意する事はできないと考えていました。
 和田殿は池田殿との決戦を予定し、幣久良山の城で敵を迎え撃つ準備を整えました。また、夜襲に備えて兵卒に注意を促していましたが、何事もなく夜が明け始めました。
 しかし夜が明けると、その準備が整わない間に、その城から半里ばかりのところに敵勢を認めました。こちらへ対陣する敵方は、1,000名の兵の外は目視できなかった事から、和田殿は一計を案じ、間もなく息子と共にやって来る軍勢を待つ事なく、その敵に攻撃する事を決しました。和田殿は武術に長じた自分の家臣を大いに信用して、勇敢に戦おうとしました。
 そして出陣した和田殿は、前衛として先頭を騎行し、間もなく彼は一同を下馬させ(交戦の際には徒歩で戦うのが日本の習慣だから)、かの200名だけを率いて敵を攻撃しました。
 しかし、彼らはある丘の麓で待ち伏せて、隠れていました更に2,000名もの敵兵に包囲されました。最初の合戦が始まると直ぐ、敵方は真ん中に捉えた和田殿の軍勢に対して、一斉に300梃の銃を発射させました。和田方の200名は、自分達の総大将と一丸となって、危険が迫って来るのを見、甚だ勇猛果敢に戦いました。
(中略)

イメージ写真:鉄砲隊
しかし、和田殿と共に、かの200名の貴人も全員討死にし、殿の兄弟の息子である16歳の甥(茨木重朝)も同様に、かの3,000の敵の真只中で戦死しました。と申しますのは、和田殿の予想に反して、池田からはそれ程多くが出陣したのでした。また、敵は秘密裏に行動し、和田殿に悟られないようにも注意を払っていました。

和田殿の子息は、父の破局に接しますと、後戻りをし、僅かばかりの家臣を率い、急遽高槻城に帰ってしまいました。なぜなら、残りの兵卒達は、和田殿並びに最も身分の高い人々が彼と共に戦死した事を耳にすると、早速あちらこちらへ分散してしまい、彼に伴った者達も同じく分散してしまいました。また、幣久良山の城で決戦を迎えるために、各地からそこへ向かっていた和田殿の家臣達も同様に、それぞれの場所に戻ってしまいました。

この不幸な合戦の当日、私はそこから4里離れた河内国讃良郡三箇の教会にいました。私はそこへは堺から来ており、そして都に戻る途上にありました。
 そしてその朝方、家僕を一人、高山ダリオのところに遣わして、道中が危険なので、和田殿から私達のため護衛の者をつけてくれるようにしてもらえまいかとお願いさせたのでした。
 ミサが終わった時、私達はそこから銃声を聞き、長い間、高槻辺り一帯が燃え上がるのを見ましたが、私達にはそれが何であるかは知る由もありませんでした。
 ところが、午後に前記の家僕がこの悲報を持ち帰って、和田殿が戦死し、彼と共に五畿内の彼の全く高貴な武士達が運命を共にした事、そして彼(家僕)が高槻城に達した時には、そこに奉行の息子が敗北し、退去して入城していた事を私達に報告しました。

後になって判明した事ですが、この合戦にあたって、新城に籠っていた高山ダリオ殿とその息子ジュスト達は逃げ延び、共に殪れなかった事は、我らの主(デウス)のお取計らいでありました。 
(後略)
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いかがでしょうか。こういった感じになろうかと思います。白井河原合戦についての実際の時間の区切り、要素の連続性と切れ目が判り易くなったのではないかと思います。






2011年9月7日水曜日

白井河原合戦に至るまで(その1:合戦中の戦況とその直前の摂津中部地域の状況)

元亀2年(1571)8月28日、摂津池田家は幕府方和田勢に対し、摂津国郡山付近にて決戦(白井河原合戦)を挑んで見事に勝利を納めます。総大将である和田伊賀守惟政は、この合戦で戦死し、池田衆にその首を取られてしまいます。惟政の首は彼の拠点である高槻城に晒され、池田衆は勝利に歓喜しました。
 しかし、この戦いに至るには、その前段階があります。実は池田衆は幕府方から当面の集中的攻撃対象となっており、長期の攻防で池田衆が劣勢に立たされていました。
 この池田衆は、三好三人衆方で、元亀2年5月頃に幕府方から離れて、同じく三好方へ復帰した松永久秀・三好義継と恊働関係にありました。加えて、大坂本願寺勢、和泉国衆の一部が三好三人衆方で、淡路国方面などからも本国と連なる三好勢が、随時五畿内に軍事的侵攻を行っていました。その目的は京都の奪還、則ち織田信長・将軍義昭の駆逐です。
この過程については、いくつかに分けてご紹介しますが、白井河原合戦を中心として、それをひも解いて行きたいと思います。
 『フロイス日本史』や『耶蘇会士日本通信』では、池田領の境近くに2つの城を築いたと記述があります。同書では、これが白井河原合戦の原因であるとの見解が示されていますが、私はこの事だけが和田方と決戦を行う直接的な理由になったのでは無く、それらの城の築造が、複数の要素の重なりの発火点になったのだと考えています。
 それから同書は、記憶違いだとは思うのですが、若干の矛盾があるように思います。外国人である事と、連続した状況を全て把握している訳ではありませんので、当然の事です。この点に注意しながら、記述を理解する必要があると思います。

さて、この池田領境界近くに築いた2つの城の場所とはどこなのか。フロイスの記述中の距離の単位には、「レグワ」とあるのですが、どうも1レグワとは、1里(約4キロメートル)にあたるようで、その事から推察すると、城の1つは、今の萱野(現箕面市萱野)あたりではないかと考えられます。
 仮に池田領を、同方面の西国街道と勝尾寺川の交差するあたりから西側と考えるなら、様々な池田方に関する構成要素と符合するように思います。この事は、今解っている事実と矛盾しないように思います。

8月22日、池田衆は3,000の兵を率いて池田城を出陣します。この頃、和田方の築いた新城を守っていた高山飛騨守が、3里離れたところに居た和田惟政に急報した、とあります。実は、フロイスはこれについて「高槻」とは書いていません。
 他の史料を見ると、この時の惟政は高槻から離れ、出陣中でした。ですので高山飛騨守は、萱野の新城からその場所に急報した事になります。
 それを考慮に入れてみると、もう一つの城があった場所とは、千里丘陵の南側の池田・和田領の境を想定できるのかもしれません。そこであれば、他の史料等からわかる池田衆の動きとフロイスの記述要素、そしてそれらの時間との一致が見られて、矛盾しません。
ちょっとフロイスの記述からは判断しがたいところもあるのですが、7月(下旬頃か)に白井河原合戦につながる一連の闘争で、高山飛騨守の息子(三男で右近の弟)が戦死しているようです。この葬儀のために、フロイスが摂津国に入っている事を記述しています。
 その高山飛騨守の息子、則ち右近の兄弟が、池田衆との一連の闘争で戦死した7月頃とは、千里丘陵の北側で話しを組み立てると、矛盾があるように思えます。更に、同丘陵の南側にこだわってみると、7月中頃から三好義継・松永久秀が軍勢を仕立てて、河内国から淀川を渡って、高槻方面に進んで、交戦しています。高槻から吹田へ繋がる線を切って、勢力の弱体化を図った行動と思われます。また、それによる、吹田などの淀川縁の確保も視野に入れていたのでしょう。
 更に同月23日、幕府衆三淵藤英・細川藤孝は、高槻方面から吹田を経て、池田の南側へ進んできます。

さて、こういった軍事行動の場合、攻める敵に対しては必ず最低2つの方向から攻めます。その事を考慮に入れると、千里丘陵の北側と南側に1ヶ所ずつ池田領との境に、和田惟政が橋頭堡的な新城を築いたのかもしれません。
 この頃、茨木・郡山は和田方として機能していましたので、千里丘陵の南北に新城を築けば補完関係も強固に維持できますし、補給も十分です。同時に、防禦的体制も兼ねる事ができます。

この事から、7月に行われた千里丘陵の南側の攻防戦で、高山飛騨守の息子が戦死したために、一旦、東へ後退。その後、池田衆が出陣する8月22日には、萱野付近の城に入っていたものと思われます。
 それから間もなく、高山衆は東進してくる池田衆と対峙しながら、東へ後退(時間稼ぎもしていたのだろう)していったものと思われます。この時池田衆は『多聞院日記』『尋憲記』にある、池田方が落とした4つの城(里(佐保)・宿久・茨木・高槻)の内、里や宿久を落とすか、攻囲して進んだのかもしれません。
 そしてまた、フロイスの記述をよく読んでみると、和田惟政が突撃前に陣を取ったらしき場所は、高山衆の入る城の近くだったと思われ、それは多分「福井」辺りの城に入っていたと考えられます。

さて、白井河原方面へ進んだ惟政は、幣久良山(てくらやま:現茨木市耳原)に陣を置きました。ここは山の直ぐ西側に佐保川がある天然の要害で、また、その北側半里(2キロメートル)程のところには、幕府衆である安威氏の本拠があります。そして南にも郡山・茨木の城があります。
 一説には、8月27日に惟政は、幣久良山(糠塚)に入ったとあります。白井河原合戦は、28日の午前中に行われたようですので、惟政が前日に入って状況を把握していたとすれば、それは史料と照合しても矛盾しません。ここは適度に広い平地もありますが、基本的には丘陵地帯で小さな丘や山が多く、しかも切り立った起伏のある地形ですので、伏兵を置くにも適した場所でした。当然、草木も茂っていた事でしょう。また、夜明けと同時に戦いを始める準備をしていたのでしょう。
 フロイスが記したように、和田方が兵を進めようと決断した環境を考えると、池田衆は和田方にそうさせるように、おびき寄せるための隙を態と作っていたと考えられます。
 この時池田衆は、下井付近に陣を取ったようです。今の郡小学校付近に2ヶ所、その跡とされる場所がありますが、どちらも陣跡だったのではないかと思います。

少し話しが前後しますが、高山飛騨守と和田惟政の動きをまとめておきたいと思います。

千里丘陵の南側の和田方新城で高山飛騨守は、交戦により息子を戦死させたために、東へ一旦後退。それが7月(下旬か)頃だったのではないかと思われます。その後、幕府勢は吹田方面を経て、池田を攻めるようになります。また、原田城に池田勝正が入る等、拠点も置き始めます。
 幕府方は三好三人衆方の拠点ともなっている池田城を制圧するため、積極的に攻め、伊丹と和田は池田を挟撃しようと出陣しましたが、8月18日の交戦で、伊丹と和田は、200余名を戦死させる敗北を喫します。そして、この時の合戦に惟政も出陣し、高槻を離れていたと考えられます。

これに合わせて高山衆は、西国街道を通す千里丘陵の北側の押さえとして、萱野に入っていたと考えられます。
 池田衆は、惟政が考える以上に力を蓄えており、8月18日の交戦では、200余名の戦死者を出すとされる、小さくない被害を受けています。重要な家臣も失ったのではないかと思います。
 その日から数日間、和田惟政は猪名川を渡って川辺郡(猪名寺・尼崎方面など)や吹田方面(庄内や江坂など)にとどまって、立て直しを図っていたと考えられます。
 一方、池田衆は池田周辺の交戦で勝利を得た事で勢いがつき、間髪を入れずに高槻を陥れるべく東進を始めたのでしょう。そして間もなく、萱野で池田衆の東進を確認した高山飛騨守は、そこから3里の距離に居た(尼崎・庄内あたりなら萱野から約3里の距離です)惟政に急報。惟政は急遽、高槻に戻り、出せるだけの兵をまとめて郡山方面に向かったのではないかと考えられます。

8月22日、池田を出陣した池田衆に対し高山衆は、郡山付近での決戦体制を整えるまでに5日間の時間を稼ぎ、要害性の高い郡山辺りで和田惟政と合流。そこで決戦し、事態を打開しようとしていたのでしょう。
 同時に惟政は兵を増強しようと各地に連絡もしていたと思われます。フロイスの記述に「惟政の家臣は高槻から3〜5里乃至8里の場所に居た」との旨の下りがありますが、その要素の指向性は、家臣の招集(動員)を描くものだったのではなかと思います。
 惟政が陣を取った場所を考えても、その事を感じさせる絶妙な場所です。幣久良山の北側には佐保・泉原・忍頂寺・千提寺・車作・音羽などに通じる街道があり、その方面の家臣の白井河原方面への着陣を予定していたのでしょうが、実際には8月28日に間に合わなかったようです。
 フロイスの記述にある、「惟政とその重臣が戦死したとの報が伝わると、家臣が散々に逃げてしまった」の旨の記述は、その事も指しているのだろうと思います。

フロイスの記述した内容の文字の間を観るならば、そのような想定もできるのではないかと思います。