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2025年9月25日木曜日

摂津国欠郡中嶋にあった城について考える(大阪市淀川区編)

大正時代初期:伝法付近の大浦渡の様子
いわゆる戦国時代ころ、摂津国欠郡中嶋という所は京都を首都とした国家体制において、非常に重要な場所でした。
 現在は淀川区に東西淀川区で構成された一つの大きな島ですが、これは江戸時代からの営々と続けられた開拓の姿で、戦国時代には、大小の島が浮かぶ群島地域でした。また、大坂湾にも注ぐ、河口でもありました。同じような地形は、伊勢国長嶋にも見られますね。
 現代のように社会基盤整備は殆ど無く、自然任せですので、洪水も頻繁にあったようですが、そのお陰で土地は肥沃で、荘園も多数ありました。また、西国街道や能勢街道、横関街道、中島街道、亀山街道などの脇道も多数通す、陸上交通の視点でも重要な場所でした。街道は、ロータリー道路構造のように、これらの鳥からどちらの方向へも進めるようになっています。特に水路は、現在のように川が整備されていませんので、縦横に進むことができます。
 欠郡中嶋は、大まかには北に神崎川、南に中津川が流れて群島を形成しており、交通・経済・政治、あらゆる面で重要でした。

しかし、このような状況であるために、その地域を指す記述が曖昧で、そこに存在していたであろう城の位置も特定されないまま、心象で論が進んでいるように感じていました。
 織田信長が足利義昭を奉じて入京し、幕府を樹立した頃、「中嶋城」といえば「堀城跡」を指しているようではありますが、これがどのような実態にあったのか、実は特定されておらず、重要であるにも関わらず、研究も進んでいないように感じます。

そんな疑問を永年感じており、摂津池田家の動きを見る上でも重要であることから、自分なりにそのモヤモヤを解消しておきたく、特に城の視点から中嶋を観察してみたいと思います。

文化遺産オンライン:石山合戦配陣図(天正4年頃)
 https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/258702
株式会社Stroly:明暦元年大坂三郷町絵図 :(大阪歴史博物館所蔵)
 https://stroly.com/maps/_OP_OsakaEzu_3/
国立国会図書館デジタルコレクション:大阪町中並村々絵図(承応・寛文頃:1652-73)
 https://dl.ndl.go.jp/pid/1286224

先ずは、現大阪市淀川区地域から始めたいと思います。

◎中嶋城はどこか、との疑問の出発点
先ず、年月日共にハッキリしている当時の史料からご紹介して始めたいと思います。大坂本願寺宗の法主光教が、管領細川晴元一族(典厩)晴賢及び欠郡中嶋代官衆(松井(波多野)十兵衛尉・小河左橘兵衛尉(二郎三郎)・水尾源介・並河四郎左衛門尉:丹波国人?)へ宛てて音信します。天文16年10月1日付けです。
※石山本願寺日記(上)P558、日明勘合貿易史料P540

---(史料1)-------------------
『石山本願寺日記』10月1日条:
細川右馬頭晴賢・松井十兵衛尉・小河左橘兵衛・水尾源介・並河四郎左衛門等ヘ、今度唐船寺内へ乗り入れの儀に就き、相意を得られの間、其の礼為唐船三種(献上品脱カ)五人へ宛て之遣わし候。使い河野、下間兵庫取り次ぎ。(此の年5月13日条、松井十兵衛、水尾源介、小河左橘兵衛を中嶋三代官と称せり)
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◎城の関連資料群
上記は、対外貿易の事で問い合わせているものですが、この頃の中嶋は、細川晴賢の知行する所であったらしく、当然ながらそれは政庁としての中嶋城でもあったと思われるのですが、その場所が「堀城跡」なのかどうかが不明です。
 関係するいくつかの資料を見てみると、堀城は比較的新しい城のような記述が散見されます。その後に何度も改修的な普請を行っているところからしても、そのような状況にあったのでしょう。以下、中嶋にあった城についての資料から要素をあげてみます。
※日本城郭大系12(新人物往来社)P233

---(資料2)-------------------
堀城:
細川藤賢が永禄9年に築城。のち、元亀元年に織田信長が三好勢を攻めた時、将軍義昭を迎え入れ、義昭はそののち浦江城へ移ったという。堀之内の地名が伝わる。
三津屋城:
南北朝時代の城で、正平年間に楠木正成が築いた。天文年間に細川晴賢が居城したが、同18年に三好長慶に攻められ、その後長慶が在城した。元亀年間、織田信長に攻め落とされ、廃城となった。現在の光專寺が城跡と伝える。別称中嶋城
堀上環濠:
旧西成郡堀上村は環濠集落の一つであった。
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明治8年:掘村地籍図
それから、大阪市教育委員会による堀城伝承地(大阪市顕彰史跡198号)の掲示板によると、以下のようにあります。掲示板の場所は、武田薬品工業の工場南側にあります。
※大阪市教育委員会による堀城伝承地(大阪市顕彰史跡198号)掲示板より

---(資料3)-------------------
西国街道にあたる十三渡北岸の要地にあった城で、「西成郡史」(1915年刊)では永禄9年(1566)に細川藤賢が築城したとされる。しかし、一説に既に存在していた堀城にあてる見解もある。
 江口の戦い(天文18年(1549))の時には細川晴賢が居城とし、その後、勝者の三好長慶の直轄下に置かれた。長慶の没後には、細川藤賢が在城したが、永禄9年に三好三人衆によって無血開城させられた。元亀元年(1570)の織田信長による野田・福島攻めに際しては、将軍義昭が入城したという。廃城後も周辺の樹木は残り「堀の森」と呼ばれた。現在地南西方向にある十三公園の巨木はその名残と伝えられている。
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掲示板:淀川区十三本町2丁目
この場所については、若干の違和感があるのですが、ここが城の一部であったとしても、そこから十三公園まではかなりの距離がありますし、この場所については、若干の違和感があるのですが、ここが城の一部であったとしても、そこから十三公園まではかなりの距離がありますし、両者の間に川があった事を描く江戸時代の明暦元年(1655)作成の絵図があります。戦国時代に、それがあったのか無かったのか...。ちなみにその川の北端に堀上村があります。
 現十三公園の巨木が堀城の名残りというのは、更なる調べが必要です。私が思うのは、看板のある場所から、もっと南の位置ではないでしょうか?しかし、この場所にも何らかの要害を築き、城砦を維持していたのかもしれません。

◎現淀川区にあった集落の城跡伝承
以下は、『大阪府の地名』から、淀川区域の城跡伝承のある集落をあげてみます。先ず堀城跡の堀村からです。
※大阪府の地名1(平凡社)P589

---(資料4)-------------------
堀村(淀川区十三本町1-3丁目、十三東1丁目、十三元今里3丁目、新北野1丁目):
西流する中津川の右岸にあたる、東は小島村。北の野中村・堀上村境を西流してきた中島大水道は当村北西端で流路を南に変え、南東部で再び西流し今里村に流入。「細川両家記」に「御一家の典厩(藤賢)。中島の堀と云う処に御在城候。(中略)永禄9年8月14日に退城也」とみ、当地の城に三好三人衆に抗した細川藤賢が立籠もった、陥落し開城したことが知られる。「堀」はこの城濠に由来すると考えられる。「信長公記」には元亀元年(1570)9月3日「摂津国中島、細川典厩城迄公方様御同座」とあり、織田信長が三好勢を後略した時、将軍足利義昭をこの堀城に迎えたことがわかる(「細川両家記では9月4日晩とする」)当村南部に字名「堀之内」が残る。元和元年(1615)から5年まで大坂藩松平忠明領、続いて幕府領、宝暦12年(1762)下総国古河藩土井利里領となり幕末に至る。村高は元和初年の摂津一国高御改帳に134石余とあり、以後大幅な変化はない。中島大水道のうち小島村竹橋より当村犬ヶ辻を経て今里村に至る長さ693間の部分は水道之古書写帳(大阪市立博物館)によれば悪水排除の古水道を拡張整備したもので、その古水道の一部は旧堀城の濠を利用していたと考えられる。字村前に稲荷神社があったが明治42年(1909)神津神社に合祀された。
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赤色枠円は城跡
他にもあります。堀村からは北東方面で、中嶋という群島の、東西のちょうど中程にある西村(北方村)は、能勢街道と島内の主要街道に挟まれた場所に立地します。
※大阪府の地名1(平凡社)P590

---(資料5)-------------------
西村(淀川区木川東3-4丁目、木川西3-4丁目、西中島4-7丁目、三国本町1丁目、西宮原1丁目):
木寺村の北にある。集落は村域北東部に集中。中島大水道江ノ尻十六番杭より分岐した用水路が当村中央部を西に通り、竹橋三十三番杭で再び大水道に合流する。もとは北方村と称し山口村(現東淀川区)と一村であった。北方の名は寛正2年(1461)12月26日の中島崇禅寺領目録(崇禅寺文書)の「中島所々年貢茶目録」に「柴島北方」とみえ、半斤の年貢茶を納めている。当村が北方村から分村した時期は明らかではないが、慶長10年(1605)摂津国絵図に村名がみえる。元和初年の摂津一国高御改帳では和泉国岸和田藩小出吉英領。その後、叔父の同国陶器藩小出三尹に分知され、同藩領として元禄9年(1696)の同家断絶まで続く。のち幕府領として幕末に至る。村高は慶長10年の摂津国絵図では「惣禅寺・北方村・西村」として962石余、享保20年(1735)摂河泉石高調には当村を単独で記載し518石余、以後変化はない。村内の小字に城・城面・城東・城ノ越・中縄手などがあり、かつてこの地に城郭があったことをうかがわせる。また村内に皇大神社と西宮稲荷神社と西宮稲荷神社があったが、前者は明治41年(1908)中島惣社(現東淀川区)に、後者は翌42年神津神社に合祀された。真宗仏光寺派護国山光用寺がある。
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◎三津屋村の城は「中嶋城」と呼ばれていた
古地図内の赤色丸点●は掲示板の位置

そして私の一番気になる城が、三津屋村にあった三津屋城で、この別称が「中嶋城」です。村の規模も大きく、西国街道上にあり、島の北側の神崎川と南側の中津川の中間地点にあたります。また、三好長慶との関係性の強い寺社もこの付近に点在します。
※大阪府の地名1(平凡社)P587

---(資料6)-------------------
三津屋村(淀川区三津屋(北1-3丁目、中1-3丁目、南1-3丁目)・田川2-3丁目、多川北1-3丁目、十三元今里3丁目、新高6丁目など):
加島村の東にある。北は神崎川を隔てて豊島郡洲到止村(現豊中市)。南部村界付近に住吉社(現住吉区)の社家田川権太夫が開発したと伝える。田川集落がある。三屋(元和初年の摂津一国高御改帳など)とも書かれたが、古くは「三社」であったらしく「摂陽群談」は「此所は始に三社と書り、当郷三社の氏神あるに因れり」と記す。一説には当地開発者が三社浅右衞門なる人物であったからという(西成郡史)。属村一ヵ所があったが、「太中村」(慶長10年摂津国絵図)、「田井中村」(摂陽群談など)とみえ一定しないが前出田川のことか。南北朝時代から戦国時代にかけて当地には三津屋城があった。現在の光專寺の地がその跡地という。三津屋は楠木正行が築城し、天文年間(1532-55)には細川晴賢が居城したが、同18年三好長慶が攻め取った。同年、長慶は同城を拠点として江口城(現東淀川区)の三好宗三を攻撃したという。かつて跡地付近には城の前・馬洗の地名があった
 元和元年(1615)から大坂藩松平忠明領、同5年から幕府領、万事3年(1660)から大坂定番板倉重矩領、延宝元年(1673)板倉重種が後を継いだが、天和元年(1681)から再び幕府領となった。宝永6年(1709)側用人間部詮房領となった。享保2年(1717)幕府領となり幕末に至る(西成郡史)。村高は慶長10年(1605)の摂津国絵図では太中村と合わせ1376石余、享保20年の摂河泉石高調では1496石余。江戸中期には、当村北部から洲到止村に渡す神崎川の渡しがあり、河虎渡とよばれた。「摂陽群談」によればこの渡し名は昔この水底に河虎(河童)が住んで幼児を引き込んだので捕らえて殺し、のち川岸に河虎宮という小祠を営んだことにちなむという。当地には、浄土真宗本願寺派の光專寺・大恩寺・寿光寺・蓮正寺、真言宗系の長楽寺がある。なお、村名のもととなった三社はいずれも三好氏が武運長久を祈って創建したという八幡社であったが、現在香具波志神社に合祀されたり廃社となって存在しない
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続いて、三津屋村の東隣にある堀上村は、環濠集落で、これも三津屋城と何らかの関連性があると思われます。承応・寛文頃(1652-73)の古地図「大阪町中並村々絵図」では、中津川沿いに村が描かれています。
※大阪府の地名1(平凡社)P587

---(資料7)-------------------
堀上村(淀川区三津屋(南1丁目・中1丁目・北1丁目)・新高2丁目、野中北2丁目、野中南2丁目):
西成郡下中島の一村で、新在家村の南西にある。集落は村の南部にある。村名は、集落をつくるにあたり、四方に溝を掘り、その土を盛り上げて宅地を造成したことにちなむと伝え、当村がもと環濠集落であったことがうかがわれる。元和元年(1615)から同5年まで大坂藩松平忠明領(うち3年まで一部池田重利領)、その後享保2年(1717)までは三津屋村と同じ。一村別旧領主並びに石高では閑院宮家領。村高は慶長10年(1605)摂津国絵図では新在家村・東野中村・西野中村と合わせ865石余、元和初年の摂津一国高御改帳では「堺(堀)ノ上・新在家」として同高(野中村を含むか)。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳には堀上村単独で256石余。以後大幅な変化はない。天明元年(1781)12月、三次右衞門焼とよばれる大火があり、このとき一村ことごとく焼土と化したという。
 明和5年(1768)の堀上村・廿三ヶ村出入裁許書写(大阪市立博物館蔵「水道之古書写帳」所収)によれば、明和3年4月、中島大水道の開削に関係した北中島23ヵ村は、利権のない当村が勝手に中島大水道の堤を修復したとして大坂町奉行所に訴訟を起こした。当村は、中島大水道のうち竹橋(野中村・西村・川口新家村・小島村の境界付近)から犬ヶ辻(堀村北部)を経て今里村に至る部分は旧水道を利用したものであり、犬ヶ辻付近は当村の土地で、昔から悪水排除の樋を入れているゆえ当村で修復したまでであると主張。これに対し23ヵ村側は、旧水道ならびにその堤防は完成した年も領有村もわからぬ空地同前の地で、新水道は小島村・堀村の田地を潰して旧水路を拡大し、その費用を23ヶ村で負担したものであり、延宝7年前田安芸守より拝領の絵図にも「水道願村々」に対し「右絵図面之間尺を以已来可致堀浚修復者也」とあると主張した。明和5年12月に出された判決は、絵図には「堤」の記載がないので当村の既得権を尊重して、以後樋のある部分の堤防修復権を認めたが、修復は23ヶ村の同意を得るべきこと、当村の中島大水道への新規の樋伏を禁止するというものであった。
 村内に稲荷神社があったが、明治43年(1910)神津神社に合祀された。真宗仏光寺派西光寺は天文元年(1532)の創建という。
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灰色帯は現在の淀川流域
◎中津川の南側にもあった城群
以下は、補足情報ですが、中嶋から中津川を渡った所の集落にも城があったとの伝承があり、各村には「渡し」がありましたので、中嶋とも深い繫がりがありました。軍事的には「橋頭堡」としての概念であったのかもしれません。
※大阪府の地名1(平凡社)P575

---(資料8)-------------------
光立寺村(大淀区中津1-7丁目、大淀北1丁目など):
本庄村の西、中津川南岸にある。村域東部を能勢街道(池田道)が南北に通り、中央を大坂より十三渡に至る西国街道に通じる道がある。能勢街道沿いの村域南東部に光立寺、同じく中津川南岸に城、十三への道沿いに新家の各集落があり、寛文9年(1669)の古地図では中津川沿いのの西方に外島がみえる。城には三好党の光立寺城があったと伝え、摂津国各村草高帳に「慶長19年まで小城あり」と記す(中津町市)。慶長10年(1605)摂津国絵図では「光竜寺・城村」とみえ高493石余。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では509石余。延宝5年(1677)検地では高703石余・反別58町5反余、うち田方は628石余・51町余と多く、それも上々田・上田が半分弱を占める水田の村である(中津町史)。延享4年(1747)・宝暦8年(1758)・明和元年(1764)・弘化4年(1847)と数度の新田検地で、幕末には712石余(同書)。なお、享保20年(1735)摂河泉石高調では高703石余のほかに牛頭天王除地4石余がある。元和元年(1615)から5年まで大坂藩松平忠明領、以降幕府領(同書)。天明年間(1781-89)の村明細帳によれば、田方の50パーセント弱には稲作・麦作とともに綿作少々を行ってる。畑は80パーセントほどは夏に藍作など雑多な作物を植え麦作を行った。年貢は中期には定免となっていたが、文政10年(1827)には田方6割2分5厘9毛余となっている(中津町史)。当村は中津川南岸にあったから近世から明治にかけて度々洪水に見舞われ、とくに宝暦6年9月、村内字島ノ宮・城で中津川の堤防が決壊した時は惨事であった。これを城切れとよんでいるが、村内耕地の約19町が淵成・砂入となって再開発されている。天明8年家数109・人数551、安政5年(1858)164戸・783名、明治9年(1876)231戸・1028人と大阪の北郊として急速な人口増を示している。同29年から始まった淀川改修工事は当地に大きな影響を与え、永年の洪水禍は少なくなるが、52町3反余が買収され、222戸が移転するという変化を生じた(同書)。
 富島神社は近世牛頭天王社(祇園社)と称し、文禄3年(1594)の検地で社地を除地にされている。明治2年利島神社と改め、同43年島ノ宮の恵比須社を境内に遷し、同42年文禄検地段階から存在した新家の天満宮、成小路の鷺島神社(現淀川区)、塚本の八坂神社(現同上)を合祀し、同43年富島神社と改称、南浜の春日神社を境内に遷座した(中津町史)。寺院では浄土真宗本願寺派光徳寺がある。天正8年(1580)佐伯源助が草創、始め光立寺のち光徳寺に改めたという。画家佐伯祐三はこの寺に生まれた
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次は、本庄村についてです。ここは付近の有力村でした。埴輪も出土する程、古くからの集落ですから、もしかして、中嶋内にある「新庄」とは、この本庄に対する名付け概念だっったのかもしれないと、個人的には感じています。知らんけど。
※大阪府の地名1(平凡社)P574

---(資料9)-------------------
本庄村(大淀区本庄東1-3丁目、本庄西1-3丁目、豊崎4-7丁目、国分寺2丁目、北区天神橋6丁目、浮田1-2丁目、中崎1-3丁目、中崎西1-4丁目、黒崎町、万歳町、鶴野町、山崎町):
北長柄村・南長柄村の西にある。東部を横関街道が南北に通り、横関渡で中津川を渡って北岸の浜村(現東淀川区)へ、横関街道から北西に分岐した道が本庄(川口)渡で同川を渡って川口村(現淀川区)に至る。家形埴輪出土した長吉古墳があった「陰徳太平記」に元亀元年(1570)9月14日のこととして、「本庄の向かいなる河口の付城へ引取給う」「楼の岸・本庄へも人数をかさみ、手堅く持ち堅めたり」などとみえる。慶長10年(1605)摂津国絵図には「東本庄・本庄」とみえ高865石余。元和初年の摂津一国高御改帳では794石余、寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では829石余。元和元年(1615)から5年まで大坂藩松平忠明領。摂津国高帳で幕府領。「寛文朱印留」では大坂定番板倉重矩領で、元禄郷帳では幕府領幕末には三卿の一家田安領。天明2年(1782)当村の本庄市太輔が中島諸村の地藍一手引請を出願、藍作も行われた(大阪市史)。当村には本庄渡があるなど、付近の有力村であった。南中島18ヵ村組合に属し(西成郡史)、安永6年(1777)大坂三郷の深江屋庄兵衛に許された煮売株30株通用の村に入っている(大阪市史)。村内の葭原墓所は大坂七墓の一つで、元和元年中大坂藩主松平忠明が天満(現北区)の墓地をまとめたものという。
 豊崎神社があり、孝徳天皇を祀る。紅葉の名所として知られたという(浪花の梅)。本庄の村明細帳には慶安4年(1651)鹿島神社を創建したと記すが(西成郡史)、「摂津名所図会」は同社を当地の産土神とし、寛永の初め疫病流行の際常陸の鹿島神を勧請したとする。これは豊崎神社内にあり、このとき村内で鹿島踊を行った。明治41年(1908)豊崎神社は南長柄の八幡大神宮を合祀し、境内に東照宮を遷し、厳島神社をこれに合祀した。東照宮は徳川家康が大坂冬の陣に当地足立市兵衛方で休息したことにちなむといい、安永5年の勧請。寺院では浄土真宗本願寺派教恩寺があり、カキツバタの花が知られた(西成郡史)。
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◎中嶋内の有力な村落について
城とは直接的に関係はしていませんが、中嶋内の有力村をもう一つご紹介します。
※大阪府の地名1(平凡社)P584

---(資料10)-------------------
西国街道を通す加島村の様子
加島村(淀川区加島1-4丁目、西淀川区竹島1-5丁目、御幣島5-6丁目など):

神崎川と猪名川の合流点南岸の湾曲部に位置し、西成郡北中島では大村に属する。集落は村の中央部大島街道沿いに散在し、北西には川辺郡神崎村(現兵庫県尼崎市)への神崎渡がある。種々の俗称があり、鍛冶師の多く住した地であったことから鍛冶ヶ島、香具波志神社の鎮座するところから神島、また同社の連歌殿で盛んに連歌が行われたことから歌島ともよばれた。加島はこれらの換用と考えられるが、「続日本紀」延暦4年(785)1月14日条に「遣使堀摂津国神下・梓江・鯵生野通于三国川」とある「神下」が変化したとの説もある(「加島神社伝記」香具波志神社蔵)。
 加島は、古代はいわゆる難波八十島の一つで住吉社(現住吉区)領であったと伝え、「住吉松葉大記」は「仮島」の字をあてる。前出延暦4年の記事は、淀川と三国川(神崎川)を結ぶ水路の開削とされるが、これによって、三国川は都と西国を結ぶ交通路となり、河口に近い加島は神崎や江口(現東淀川区)などとともに港津集落として発達した。「遊女記」には「蟹島」とみて、その殷賑のさまを「到摂津国、有神崎蟹島等地、比門連戸、人家無絶、倡女成群、棹扁舟着旅履舶、以薦枕席、声遏渓雲、韻飄水風、経廻之人、莫不忘家、洲蘆浪花、釣翁商客、舳艫相連殆如無水、盖天下第一之楽地也」と記す。また源俊頼は「かしまへは遊びしにやと着きつらん戯れにても思いかけぬを」の歌を、当地の遊女の様子を記す詞書とともに「散木奇歌集」に収めている。「台記」久安4年(1148)3月10日条には「於西海乗舟入自一洲遊女群来宿賀島辺」とみえ、藤原道長が高野山参詣の帰途、当地に宿泊したことを記す。貞応2年(1223)3月日付蔵人所牒案(東洋文庫蔵弁官補任裏文書)に「賀島■(庄)内美六市」とあり、当地辺りで市立てが行われていたことが知られる。
 元和元年(1615)から5年まで大坂藩松平忠明領、翌6年から大坂御船手小浜光隆領(一部幕府領)となり、その後寛文10年(1670)まで同家領。以後幕府領となり幕末に至ったと推定される。村高は慶長10年(1605)摂津国絵図では竹島村と合わせて1187石余、元和元年の摂津一国高御改帳では加島村888石余・同出作分(竹嶋村か)398石余で1287石余、寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では941石余(うち小浜光隆領928石余・幕府領13石余)、享保20年(1735)摂河泉石高調では1203石余(除地1石余)。当地は古くから鍛冶師が多く住んだ地で「摂津名所図会」に「むかし加島鍛冶千軒とて、加島一村ことごとく鍛冶戸なり、今僅一両軒のみあり」とある。その隆盛は「曲江随筆」所収の元弘3年(1333)1月7日付大塔宮令旨の宛名に「加島鍛冶衆」とあることにうかがわれるが、さらに古くは「延喜式」(木工寮)にみえる「摂津国五十八烟」の鍛冶戸に加島の鍛冶も含まれていたと推定されている。江戸時代後期には前述のごとく衰退しているが、この加島鍛冶の伝統は元文3年(1738)当地に置かれた銭座に受け継がれた。名産として犂(すき)と莚(むしろ)があったが、「摂陽群談」は犂についてかつての加島鍛冶の伝統を記し、筵については「毎年臘月の式に用て餅莚とす。藁の穂先を打違て中に織るを以て中継莚とも云えり」と記す。
 神崎川は古来しばしば洪水を起こした。加島村堤防は寛政元年(1789)・享和元年(1801)・明治元年(1868)に決壊、近村に大きな被害を与えた。江口村の享和元年御触書之写(田中家文書)によれば大坂町奉行所は北中島の各村に対し加島村堰堤の修復ため高100石につき一人の割で3日間の人夫を出すように命じている。当地には産土神の香具波志神社、高野山真言宗の富光寺、浄土真宗本願寺派の正恩寺・定秀寺がある。
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そして、その村内にあった富光寺です。この寺は「長慶山」と号し、三好長慶との深い繫がりを持っています。
※大阪府の地名1(平凡社)P586

---(資料11)-------------------
富光寺(淀川区加島4丁目):
高野山真言宗。長慶山と号し、本尊は阿弥陀如来(藤原期作)。摂州八十八ヶ所第三十九番札所。天正19年(1591)の奥書をもつ寺蔵の富光寺縁起によると、文化年間(645-650)天竺より飛来した法道仙人が、当地の人々の懇請によって阿弥陀如来を刻み、一宇を建立したのにはじまると伝え、また法道の開創を聞いた孝徳天皇が寺領と勅願を当寺に下賜したという。法道仙人は飛来後播磨法華山(現兵庫県加西市)を中心に修行した僧で、宝鉢を持って諸国を巡歴、各地に寺院を建立したと伝える(元享釈書)が、当時当地は沼沢地と考えられることから、寺院建立をこの時に求めるのには疑問が残る。寺名について前出縁起は、四天王寺(現天王寺区)参詣途中のある比丘尼が、放光の仏舎利を発見、夢告によって当寺へ奉納したことにちなむとする。また建永2年(1207)法然が土佐に配流される途中、当寺に一泊、その夜神崎(現兵庫県尼崎市)の遊女に念仏の法話を聞かせたと伝える。天文10年(1541)頃より三好長慶が三津屋城を拠点とし、当寺をも支配したことから現山号を名乗ることになったといい、豊臣秀吉の頃には朱印地一町八反歩を有したという。慶長年間(1596-1615)実印の中興(大阪府全志)。
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◎川に囲まれた土地には多数の渡(橋)があった
更に以下、この周辺の代表的な「渡し」と「橋」を参考までに、まとめてご紹介します。
※大阪府の地名1(平凡社)P585+590

---(資料12)-------------------
十三渡し:
大正時代初期:十三大橋の様子
大坂から神崎(現兵庫県尼崎市)を経て西国街道に至る道の中津川の渡し。近世の成小路村の字十三と対岸堀村とを結んだ。「太平記」巻36(秀詮兄弟討死事)に康安元年(1361)9月、渡辺橋(淀川の橋、現天満橋付近)から南下した佐々木秀詮の北朝軍が西成郡中島で合戦、佐々木方の白江源次六騎が「中津川ノ橋爪」で討死したとみえるが、その地は当地付近とされ、当時ここに橋がかかっていたことが知られる。しかし、中世末には橋はなかったようで、「信長公記」によれば元亀元年(1570)9月23日、織田信長がこの日、野田・福島(現福島区)の砦を引払い「中島より江口通御越」とあるが、この時の様子を「細川両家記」は「中津川船橋は四国衆より夜中に切流れたり。然ば船橋渡らんもなし。昔からの橋も無し。皆々かち渡にし給ふ也」と記す。慶長10年(1605)摂津国絵図でも中津川の渡しは長柄(現大淀区)、十三、野里(現西淀川区)の3ヶ所しかなく、信長軍が「かち渡」ったのは十三渡であったと考えられる。近世、当渡の南岸にあたる小島古堤新田村には脇本陣や旅籠があり、小宿場町を形成していた。また十三には焼餅屋が多かったようで、「摂津名所図会大成」は「往還の旅人間断無し、名物として焼餅を売る家多し」と記す。ちなみに十三の焼餅は享保15年(1730)十三渡北詰で今里村(現東成区)の住人久兵衛が始めて評判をとり名物となったと伝える。明治11年(1878)成小路-堀村間の中津川に幅二間・長さ八十五間の木造有料橋が架けられたが、明治42年淀川改修により十三大橋となった。
神崎橋:
加島と神崎川対岸神崎(現兵庫県尼崎市)の間に架けられた橋。「太平記」巻36(秀詮兄弟討死事)には康安元年(1361)9月佐々木秀詮が「神崎ノ橋」を渡って和田・楠木軍と戦って敗れたことがみえ、同書巻38(和田楠与箕浦次郎左衛門軍事)には翌2年7月、この辺りの合戦で神崎橋の橋桁が焼落ちたことがみえる。この橋がいつごろ架けられたか詳らかでないが、天正19年の奥書をもつ富光寺縁起(富光寺蔵)に、建永2年(1207)春、讃岐へ配流される法然が同寺に宿泊し、訪ねて来た神崎の遊女に浄土念仏による来世救済を説いたところ、遊女は罪業を懺悔し、神崎川の橋上から入水、ところが不思議なことにその屍が水上に浮かんで逆流したので以後この橋を揺上橋と号したとの伝説を記す。この揺上橋が神崎橋と考えられている。康安2年以降神崎橋が再建されたかは不明であるが、江戸時代には大坂から神崎を経て西国街道に至る道の渡しがあり昼夜行人が絶えなかったという。「摂津名所図会大成」に「神崎橋古蹟」として「近来此川すじより橋杭を掘出せり是其古蹟なり」とある。香具波志神社にはこの橋杭の朽木で作った硯台があり、寛政9年(1797)上田秋成の歌賛を刻する。この地には大正13年(1924)新たに神崎橋が架橋された。しかし昭和25年(1950)のジェーン台風で流出、同28年再建された。昭和53年、長さ320メートル・幅10メートルの現橋に改架。
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◎中嶋の中心としての「中嶋城」とはどこか
十三公園の国道176号線東側の旧掘村
これらの資料から、中嶋群島における重要(主要)な城というのは、西国街道を擁する三津屋城ではないかと考えられます。場所としても南北両川、西国街道の押さえであり、物資輸送には欠かせない場所です。何しろ、別称が中嶋城です。
 ここに人が集まったため、環濠集落である、堀上村ができたのかもしれません。また加島村など、この周辺に三好長慶との関係が深い古蹟が多数存在しています。
 長慶は、武庫郡の越水城に拠点を構えていたことからも河辺郡の要港である尼崎にも街道を通す三津屋村に城を持つことは重要な意味を持ったと考えられます。概ね伝承通りに、天文18年の管領細川晴元失脚以降、長慶はここも重要視していたのではないかと思われます。

それで、冒頭にご紹介した、史料(1)の天文16年頃、典厩の城としての中嶋城は、伝承通りに、三津屋村にあった城を指し、細川晴賢はここで、本願寺光教の音信を受け取ったのではないでしょうか。

一方の堀村の堀城(跡)とは、時代の要請があって、構想の主軸がこちらに移って、この場所にも支城のようなものを造成したかもしれません。
 現に、天正4年と推定される、足利義昭方大坂本願寺坊官下間頼廉から紀伊国雑賀一揆方へ宛てて音信された内容には、中嶋堀城が記述されています。
※岐阜県史(史料編:古代・中世1)P1093、新修 泉佐野市史4(史料編:古代・中世1)P720

---(史料13)-------------------
態と申し下し候。仍て紀伊国に調略人之在り、密々を以って織田信長を相調え、半国引き破り、信長之人数和泉国佐野まで引き請け、紀伊国雑賀を切り取るべく由、訴訟に付き而、信長同心され、近日計らずも人数相働くべく由候。高野(山紀伊国金剛峯寺:高野山)も一味由候。右之趣き、確かに敵之内輪より申し来り候。一大事之儀候間、油断無く其の心掛け有るべく事専用候。若し其の方に於いて存知合わせられ様体も之在ら者、言上有るべく候。将又一昨日(19日)夜、中嶋堀城を忍し取り候処、中川瀬兵衛尉清秀無念かり、昨日(20日)早旦より及び晩まで、種々行に及びと雖も候。此の方人数入れ置き、一段堅固に候。又去る夜瀬兵衛尉(清秀)詰められ、一戦に及び、是れ又此の方大利を得候。心安かるべく候。堀城無類之取出(砦)に候条、味方中之大慶此の事候。次に先度仰せ出され候鉄砲300丁事、安芸国衆(毛利方)へ堅く御請け乞いなされ候間、26・27日之間に、必ず必ず上ぜ候へば待ち入り候。此れ等之旨仰せ出され候。仍て 御印拝され候。謹言。
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そんな中で、大阪市教育委員会の検証している堀城跡の位置関係は、古地図内の赤色丸点の位置です。確かに重要性としては、西国街道と能勢街道との中間地点にはあるものの、堀村や現十三公園内の巨木の名残との関係性を結びつけるには、どのようにすればいいのか解らない程の距離と地形のヒントもありません。看板のある場所よりも南側ではないでしょうか?
明暦元年大坂三郷町絵図部分
 (大阪歴史博物館所蔵)
 堀村は西国街道を通し、中津川沿いに東へも繋がっていて、途中に十三渡も抱える事から要地ではあります。城館があっても不自然ではありません。ここならば、国道176号線(一部は旧西国街道筋を踏襲)を挟んだ現十三公園は隣接しています。

摂津国欠郡にあった中嶋城とは、その名を冠するに相応しい規模と位置関係であった「三津屋城」の事で、堀村には支城としての「堀城」を、後に新設したか再利用するなどしたのではないかと、私なりに考えています。三津屋村での城の伝承では南北朝時代に遡るようです。地形上、いくつかを組み合わせて、相互に機能させなければ、島の中の城は守れないと思います。
 堀城のその活用時期は、今のところ公的な想定通り、永禄9年頃から重要度合が高まり、追々機能拡張や規模が拡大した可能性を考えています。

【補足】
このブログ記事を書いた後に気付いたのですが、大阪市立博物館から『共同研究成果報告書17 (2025)- 大阪市の中世城館 -』が刊行されており、その中でも、堀城の位置想定がなされています。それを読んできても、これまでの論から大きく進展した内容でもなく、若干補足されたような現状です。やはり、発掘調査と両輪でなければ、文書上からの特定は難しいのが実際です。
「共同研究成果報告書17 (2025)- 大阪市の中世城館 -」のダウンロードページ
 https://www.osakamushis.jp/education/publication/kyodokenkyu/kyodo-17.html

【参考記事】
淀川区の中心地である十三本町付近(十三駅周辺)は、太平洋戦争での空襲を受け、広範囲に焼失しています。ターミナル駅であることから、輸送の麻痺を企図したようです。三津屋村方面も同様に大きな被害を受けたようです。

★参考リンク
十三のいま昔を歩こう:大阪大空襲 十三が焼けた日

明治18年頃の西成郡中嶋の様子(グレー色の帯は現在の淀川)


承応・寛文頃(1652-73)大阪町中並村々絵図部分
国立国会図書館蔵


 

2025年9月18日木曜日

元亀2年に細川(典厩)藤賢が、摂津国島下郡の戦国武将野辺(部)弥次郎へ下した感状について

摂津堀城跡伝承地
摂津国欠郡に存在したと考えられる中嶋城について調べる内に、気になる史料もありますので、取り上げたいと思います。
 先ず郡名なのですが、ここは元々西成郡でしたが、戦国時代には欠郡(かけのこおり、けつぐん)と呼ばれていました。江戸時代になると、神崎川以南のこの地域は元の名称に戻ります。ここでは統一的に欠郡とします。

この中嶋城は、欠郡中嶋という「島」の内にあった事から「そこにある主要な城」という曖昧な記述がされている事も多く、場所の特定もできていないようです。時代により、必要性に応じて、また要所に軍事施設としての城が造られて、機能していたようです。
 中嶋城と呼ばれたのは、三津屋村にあったとされる「三津屋城」で、別称が中嶋城だったようです。こちらは三好長慶に縁のある城で、その後は、織田信長に攻め落とされ、廃城になったと伝わります。

中でも「堀城」は、水陸交通の要所でもあり、ここに拠点としての城を構えていたのが、細川典厩家でした。この典厩家も例外なく分裂し、時代によってその主体的人物が入れ替わりますので、見極めが難しい所です。

◎新修 茨木市史第2巻(通史2)の気になる史料
さて、気になっていた史料が「堀城」を調べる内に、その輪郭(特に年代比定について)が見えましたので、ご紹介したいと思います。
 新修 茨木市史第2巻(通史2)に取り上げられている、摂津国島下郡味舌上村を名字の地とする野辺弥次郎が、細川右馬頭藤賢から下された感状についてです。
 これは豊後中川家中の「諸系譜14巻」にあるものとの事で、その家の経緯をまとめた家臣の履歴集です。以下、野辺(野部)家に伝わる2通の中世文書をあげてみます。(元亀2年)6月3日付、右馬頭藤賢が、野部(辺)弥次郎へ下した感状です。
※新修 茨木市史第2巻(通史2)P27

---(史料1)-------------------
去る朔日(6月1日)摂津国西成郡長堂口(成小路村付近)に於いて、一戦に及び、粉骨抽ぜられ、比類無き働き神妙に候。弥忠節肝要に候。謹言。
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更に他の一通。(元亀2年)8月3日付、右馬頭藤賢が、野部(辺)弥次郎へ下した感状です。
※新修 茨木市史第2巻(通史2)P29

---(史料2)-------------------
去る朔日(8月1日)大仁(現大阪市北区大淀付近)堤に於いて、多勢に無勢を以て一戦に及び、前代未聞比類無き働き神妙に候。弥忠節肝要に候。謹言。
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これら2通には「元亀2年」との記入があるのですが、これは後年に書き入れられたものと(市史筆者により)推定され、史料(1)を永禄9年史料(2)を元亀元年のものであろうとしています。

◎「長堂」は堀城跡近くにもある
明暦元年大坂三郷町絵図部分
 (大阪歴史博物館所蔵)
この筆者である馬部先生のお見立てでも、確かに両通はその年代比定でも可能性はあると思われますが、私が調べている内に見つけたのは、摂津国西成郡成小路村内(付近)にも「長堂」という場所があり、史料(1)の文中にある「長堂口」とは、河内国では無い可能性が高いと考えられます。
※西成郡史(大阪府西成郡役所)P289

---(史料3)-------------------
大字成小路の条
大字光立寺・小島古堤の西に続きて中津川に沿へり。もと鷺島荘(其の名遣りて此の村の産土神を指し鷺島神社と呼びき)の地なりしが、後数箇村に分かれしものの一村即是れ也(摂津志は成小路・塚本・海老江(属邑一)・浦江・大仁(塚本以下鷺島荘)として本村を鷺島の地となさす)。而して本村の一部なる畑四町貳反壹畝壱四歩は、中津川の北岸に河流を隔てて存し、即木寺村(此の村後川口新家と合わせし、木川と云う)・堀村の堤外地となりたりき。(中略)又村内字地に長堂(ちょうどう:東西参町・南北壹町、元鷺島神社の東西に沿うてあり)・田堂(でんどう:東西貳町・南北参拾間、本村元八幡神社東方にあり)と云うあり。而して其の神社地辺にあると其の名称とに由て考うるに、古へ天台宗或いは真言宗の古刹ありし地なるべきか。(後略)
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【参考リンク】
国立国会図書館デジタルコレクション(石山古城図:天正4年頃) 

◎元亀2年の史料であるかを更に考える
その可能性を更に具体化するために、他の史料も見てみます。元亀2年6月4日付、織田信長が、将軍義昭側近の細川藤孝へ音信しています。
※信長文書の研究(上)P458

---(史料4)-------------------
細川右馬頭藤賢身上之儀に付き、御内書之旨、頂戴致し候。連々公儀に対し奉り疎略無く候。然る間信長に於いても等閑存ぜず候。此の節領知以下前々如く、相違無き之様に上意加えられるべく之事、肝要存じ候。此れ等之趣き御披露有るべく候。恐々謹言。
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摂津堀城跡伝承地の掲示板 
細川(典厩)藤賢の知行や扱いについて音信しています。これは(典厩)藤賢の働きに対して目に見える保証を用意して、味方として繋ぎとめる事の考えであるように思われ、(典厩)藤賢の弥次郎への感状と関連するものと考えられます。
 元亀2年のこの時期、6月は幕府方が再び勢いをつけ、摂津守護和田惟政・同守護伊丹忠親が、敵対する三好三人衆方となった池田氏を攻めています。和田勢は高槻から吹田を経て西進。伊丹勢は東進して、東西から池田城方面を攻めて挟撃体制にありました。和田勢は6月中頃に摂津国豊嶋郡の池田方の城である原田城を落としています。

このように堀城(中嶋)の北部で激しい交戦がありました。中嶋の北を流れる神崎川で池田領の豊嶋郡と境を接しています。(典厩)藤賢は、その南側を守備する事になっていたのでしょう。

摂津池田城跡公園
7月になると、三好三人衆方の松永久秀勢が、高槻方面へも出陣してきます。和田惟政を牽制するためと思われます。また、同じく三好方であった本願寺宗は、中嶋一帯に配下の寺衆を各地に維持し、その影響力の強い地域でした。「堀城」のあたりは、水陸の要地でもあり、争奪戦が繰り広げられていたようです。
 8月になる頃、その動きは敵味方共に活発化し、幕府衆三淵藤英は、7月26日付で南郷春日社(豊嶋郡)に宛てて禁制を下します。
※豊中市史(史料編1)P122

---(史料5)-------------------
一、軍勢甲乙人乱妨狼藉之事。一、竹木剪り採り之事、付きたり立毛(農作物)苅り取り事。一、非分課役相懸け事、付きたり寄宿免除の事、放火事。右堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯之輩於者、厳科に処すべく者也。仍って件の如し。
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原田神社(現豊中市)
続いて、三淵は、更に禁制を発行します。8月1日付で、同郡桜塚善光寺内牛頭天王に宛てられています。ちなみに、この禁制は同年6月23日付で和田惟政が、同所へ宛てて下した禁制と関連します。
※豊中市史(史料編1)P122

---(史料6)-------------------
一、軍勢甲乙人乱入。一、狼藉之事。一、竹木剪り採り之事。一、陣取り付きたり殺生之事。一、矢銭・兵粮米以下非分課役相懸け事。一、国質・所質請け取り沙汰事。一、敵味方撰らずべからず事。右条々堅く停止され了ぬ。若し違犯の輩於者、厳科に処すべく者也。仍而件の如し。
----------------------

8月2日、亡命中の池田家惣領池田筑後守勝正は、幕府方として同郡原田城へ入り、付城として池田城の動向を監視します。
※大日本史料第十編之六P701(元亀2年記)

---(史料7)-------------------
『元亀2年記』8月2日条
晴、晩雨、細川兵部大輔藤孝帰陣、池田表相働き押し詰め放火云々。相城原田表に付けられ、池田筑後守勝正入城。
----------------------

このような周辺状況の中で、細川(典厩)藤賢は要所の堀城を堅持し、作戦遂行を支えたのが史料(1)と(2)の状況だったのだろうと思われます。それに対して(典厩)藤賢への恩賞を用意する動きが史料(4)だった。

◎元亀2年の細川(典厩)藤賢の立場
この(典厩)藤賢は、前管領であった細川右京大夫氏綱を支える典厩としての立場でしたが、その後の三好家分裂の中で、松永久秀について行動したようです。
 その流れで、将軍義昭政権樹立に加わっていたのですが、元亀2年春頃から松永久秀は、三好三人衆方に復帰して、幕府と敵対する行動を取っていました。
 (典厩)藤賢にとっては、拠り所的な人物を失い、不安定な立場に置かれ、また、所領や知行も拠る所が元々少ない状況にありました。

元亀2年は、幕府にとって非常に苦しい年で、そのような中でも(典厩)藤賢は、忠義を見せ、苦しい中でも役務を懸命に果たそうとしていました。既述のように、中嶋内は本願寺の影響地で、周囲は敵だらけでした。

◎幕府が繋ぎとめたい求心力のある人々の例
幕府が立場ある人物や求心力のある人物を繋ぎとめようとしている動きが他にもあります。
 前年晩夏に三好三人衆方から幕府方に投降してきた有力武将三好為三へ所領安堵の御内書を、元亀2年7月31日付で下しています。
※戦国遺文(三好氏編3)P16

---(史料8)-------------------
舎兄三好下野守(三好)跡職並びに分け自り当知行事、織田信長執り申し旨に任せ、存知すべく事肝要候。猶明智十兵衛尉光秀申すべく候也。
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これは、同年(推定)6月16日付の信長から幕府衆明智光秀に音信された動きに関連しています。
※信長文書の研究(上)P392

---(史料9)-------------------
三好為三摂津国東成郡榎並表へ執り出でに付きては、彼の本知之旨に任せ、榎並之事、為三申し付け候様にあり度く候。然者伊丹兵庫頭忠親近所に、為三へ遣し候領知在り之条、相博(そうはく:交換)然るべく候。異儀なき之様に、伊丹へ了簡されるべく事肝要候。恐々謹言。
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三好為三にもめぼしい所領・知行はなく、幕府方として関係を繋ぎとめるべく、対策を進めていた事が判ります。
 為三は、三好三人衆方に擁された管領格の細川六郎(後の昭元)の重臣でした。これについては、近年発掘された新出史料と関係しているようです。元亀元年8月付の、信長による細川六郎への翻意を促す音信による動きであると考えられます。
※泰厳歴史美術館所蔵史料(令和6年8月14日頃報道)

---(史料10)-------------------
条目
一、池田当知行分、并前々与力申談候、
  但此内貮万石別ニ及理、同寺社本所奉公衆領知方、除之事。
一、播州之儀、赤松下野守、別所知行分、并寺社本所奉公衆領知方、除之、
  其躰之儀、申談事。
一、四国以御調略於一途者、可被加御異見之事。
  右参ヶ条聊不可有相違之状、如件。
 元亀元       弾正忠
   八月 日       信長 (朱印 天下布武)
細川六郎殿
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◎私の考える気になる史料の年代比定
史料(1)と(2)の年記について、この史料内容と関連すると考えられる一次史料が多くあります。そこにある「元亀2年」の記入は後証であったとしても、それは当時の事情を知っており、正確に伝えた可能性が高いと思われます。幕府方が池田城を攻めるにあたり、その一端を(典厩)藤賢が支えていた状況を示す史料ではないかと思われます。

この2通の史料は、元亀2年の史料として間違い無いように思います。 

【補足】
天正4年頃の「石山古城図」では、この頃の群島の様子がわかります。随分、大まかに描いてありますので、細かく見るとその違いに途惑う程ですが、この絵図から元亀2年の典厩藤賢(野辺(部)氏)の行動を辿ってみます。「御幣島」とあるのは、堀城であろうと思います。文字を書き込むために川幅を大きくしてあるのでしょう。実際の川幅はもっと狭いはずです。
 この地形環境の中、当時、橋が架かっていなかった中津川を渡り、対岸の島に上陸(成小路か)。この辺りにあった長堂口で、敵を攻撃。多分、先手を打ったのでしょう。感状では、それを6月1日としています。
 その2ヶ月後、8月1日、同じく中津川を渡って、浦江村至近の「大仁」で合戦しています。これも何かの予防措置かもしれません。堀城側に寄せ付けない行動だったと思います。島は取られると、取り返すにはそれ以上に労力がかかり、サッカーの先手得点のような感覚があると思います。優位に戻すには、2点取る必要がありますから。

 

明治17・18年頃の様子


石山合戦配陣図部分(天正4年頃)
(文化遺産オンラインより)


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2025年6月25日水曜日

新出の「織田信長から細川六郎(昭元)へ宛てられた朱印状」が発行された、摂津池田家と細川六郎と三好為三の動き

永禄7年の三好長慶没後、まだ若年だった後継者義継を支える目的で、「三好三人衆」なる家中の有力者が官僚機構を中心として家を支える方策を打ち出しました。それまでにも、内政機関のようなものは、あったようですが、長慶の巨大な存在感と求心力を維持するために、特に意識して組織されたようです。
 当初は、そこに松永久秀も加わっていましたが、思いの違いから、三好一族衆と久秀の外様衆の闘争に発展します。
 外敵に備えるどころか、内部抗争に陥ってしまい、敵の付け入る隙を与えてしまいます。時が経ち、その抗争で劣勢に立たされた久秀勢は、外部勢力と手を組むようになります。これまでの敵であった勢力とも交わるようになり、争いはドロ沼化してしまいます。

さて、そんな「三好三人衆」と言われる一団にも変遷があり、当初は、三好長逸、石成友通、三好下野守であったのが、永禄12年5月に、下野守が死亡したことにより、その弟である為三が補充される事となったようです。
 しかし、その頃には三好家そのものも衰退の徴候が現れ、且つ、織田信長が戴く将軍義昭の京都中央政権が勢いを増していた時期でした。
 もはや三好家は団結の中心ではなく、集団の一翼的な立場になってしまいました。ブランド力を維持しているだけの集団です。そんな後期三好三人衆とも呼ぶべくその中に、三好為三は兄の後継者として、名を連ねていたようです。
 それ知る史料として、元亀元年8月2日のものと思われる、三好三人衆方三好日向守入道宗功(長逸)石成主税助長信・塩田若狭守長隆・奈良但馬守入道宗保・加地権介久勝・三好一任斎為三が、山城国大山崎惣中へ宛てた音信があります。
※島本町史(史料編)P435

---史料(1)------------------------
当所制札の儀申され候。何れも停止の条、之進めず候。前々御制札旨、聊かも相違在るべからずの間、其の意を得られるべく候。恐々謹言。
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大山崎の摂津・山城国境(2014年撮影)
しかし、そこに署名している人々は、3名以上で、名のある人物も見られますが、「三人衆」の枠内ではあるものの、集団に象徴的、また、強権保持者はいなくなりつつあったのかもしれません。三好方の当主は、あくまで河内半国守護に任ぜられた三好義継で、義継は幕府方の立場でした。
 一方で「三好三人衆」という集団は、比較的長期の活動実績もある事から広域に認知されてもおり、この集団の知名度を利用していた事も、この時期に認められるように思います。連名に見られる、奈良氏は奉行人のような立場の人物で、過去の文書履歴を管理して、新たな体制内で間違いの無い判断ができるように、重要な相手にはアピールの意味もあって、このような構成になっているのかもしれません。
 その他、後期三好三人衆によると思われる史料がありますので、ご紹介しておきます。今のところ、元亀元年4月22日の史料と推定され、石成友通と三好為三が、大和西大寺の関係者へ宛てて音信した史料です。大和国はこの時に敵対していた松永久秀の根拠地でもあります。
※戦国遺文(三好氏編2)P259

---史料(2)------------------------
◎石成主税助友通が、大和国西大寺綱維房へ宛てて音信(返報)
此の表在陣之儀に就き、御音信為御折紙殊に御巻数並びに鳥目弐拾疋語御意懸けられ候。御懇ろ儀畏み入り候。将亦其の表手遣い之刻、御寺中並びに在所之儀、疎略存ずべからず。恐々謹言。
◎三好一任斎為三が、大和国西大寺同宿中へ宛てて音信
御音信為巻数並びに鳥目20疋御意懸けられ候。御懇之至り畏み入り候。積もり参らせ御札申し入れるべく候。猶御使者へ申し候。恐々謹言。
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摂津国野田城跡(2013年撮影)
三好為三は既述の通り、三好下野守の跡を継ぐべく補充されたと考えられます。兄の下野守と管領格の細川六郎(昭元)とは直結した最側近の関係性でした。加えて、「三好三人衆」という三好家の政治中枢でもありました。

三好三人衆という組織の代替わりは、その主体を見失っていたと、その歴史から知ることができます。家を支える視点から離れ、個々人の利益のための「三好三人衆」ブランドの利用に陥ります。
 元々、この三好為三という人物は、その父である三好越前守政長(宗三)の遺志を継ぎ、「摂津池田家の財産は自分のものだ。」との主張を生涯に渡って続けています。
 この三好為三については、このブログで過去記事がありますので、そちらをご覧下さい。

三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その4:三好右衛門大夫政勝(為三)について)
https://ike-katsu.blogspot.com/2013/08/4.html

さて、そんな三好三人衆方の状況を知ってか、知らずか、織田信長はそ中の立場ある人物に調略を仕掛けます。それが、元亀元年8月付、織田信長による細川六郎宛の朱印状でした。
※泰厳歴史美術館蔵 元亀元年8月付、細川六郎宛の織田信長朱印状

---史料(3)------------------------
条目
一、池田当知行分并前々与力申談候
  但此内貮万石別ニ及理、同寺社本所奉公衆領知方、除之事。
一、播州之儀、赤松下野守、別所知行分、并寺社本所奉公衆領知方、除之、
  其躰之儀、申談事。
一、四国以御調略於一途者可被加御異見之事
  右参ヶ条聊不可有相違之状、如件。
---------------------------

この時、準備が調わなかったのか、状況許さず、六郎は直ぐに動きませんでしたが、しかし、その配下の中心的人物である、三好為三が香西佳清などを伴って、将軍義昭・織田信長方に投降します。
※改訂 信長公記(新人物往来社)P109、細川両家記(群書類従20:合戦部)P636、多聞院日記2(増補 続史料大成)P206、言継卿記4-P441など

---史料(4)------------------------
『細川両家記』元亀元年条:
(前略)一、同8月30日に三好下野守の舎弟為三入道は信長へ降参して野田より出、御所様へ出仕申され候なり。
『信長公記』野田福島御陣の事条:
(前略)8月28日夜に、三好為三香西、摂津国天王寺へ参らせられ候。
『言継卿記』8月29日条:明日武家摂津国へ御動座云々。奉公衆・公家衆、御迎え為御上洛、御成り次第責めるべくの士云々。三好為三(300計り)降参の由風聞。
『多聞院日記』9月1日条:
(前略)三好為三香西以下帰参云々。実否如何。
---------------------------

続いて、三好為三の重臣(馬廻り?)と思われる三木某などが、幕府方に投降します。
※言継卿記4-P442

---史料(5)------------------------
敵方自り三木■■■、麦井勘衛門両人、一昨日(9月1日)松永山城守久秀手へ出云々。
---------------------------

これは、史料(3)にある「池田当知行分、并せて前々与力申し談じ候。」に相当する動きであろうと考えられます。六郎の一団の関係者へ包括的に恩賞を用意し(唆す)、調略を実行していたのでしょう。故に、先に六郎の取り巻きから続々と投降したと考えられます。
 この深刻な事態を受け、三好三人衆の筆頭構成員である三好長逸が、池田城から野田・福島方面へ入ります。
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P636

---史料(6)------------------------
元亀元年条:
一、同9月3日に三好日向守長逸、同息兵庫介も摂津国池田より出、同国福嶋へ入城由候也。
---------------------------

この重要情報を得たのか、幕府方和田惟政は、池田領内の市場を打ち廻るなどして、攻撃をしています。連絡線を絶つ目的があったのでしょう。
※言継卿記4-P443

---史料(7)------------------------
9月9日条:
池田衆取り出で、摂津国川辺郡伊丹へ取り懸かり、伊丹兵庫助忠親取り出で、同和田伊賀守惟政出合い、池田へ迎え入り、市場焼き云々。
---------------------------

三好為三など、敵勢力(組織)中枢の人物が投降した事により、その内部情報が、幕府・織田信長方に漏れてしまいました。そのためと思われますが、その約2週間後、幕府・織田勢は、野田・福島城の三好勢に対して総攻撃を行いました。
 しかし、それを機に、大坂本願寺が三好方として大挙加勢し、攻守の形勢が逆転してしまいます。幕府・織田勢は、京都を守備するために退却を余儀無くされました。

これは、広域に見ると、反幕府・織田勢力が、京都周辺で一斉に反撃を始め、京都を占領すべく動き始めた狼煙でもありました。

三好為三などは早速、軍事動員され、比叡山へも参陣しています。しかし、状況不利となり、信長は戦略的手段を用いて朝廷を動かし、朝倉・浅井・本願寺・三好など諸勢と和睦を結びます。元亀元年も暮れる、12月の事です。

この和睦が成立した事で、本願寺門主光佐は、細川六郎へ年末年始の音信を行っています。池田郷土史学会会員の荒木幹雄氏によると、両者は姻戚関係(義理の兄弟)であったようです。
 さて、細川六郎(後に右京大夫昭元)について、宣教師ルイス・フロイスは次のように記しています。
※耶蘇会日本通信(下)P232

---史料(8)------------------------
1573年4月20日(元亀4年3月19日)付、都発、パードレ・ルイス・フロイスよりパードレ・フランシスコ・カブラルに贈りし書簡:
(前略)細川殿(昭元)御屋形は公方様に次いで日本の重立ちたる領主なるが、攻囲の中に6ヶ月間中島の城に在り、之を囲めるは三人衆、霜台三好殿及び大坂の坊主並びに多勢の兵にして、城内には御屋形の家中重立ちたる武士のキリシタン2人在りき。城は決して武力を以て陥すこと能わず、屢(次)戦争あり双方共に常に士卒を亡いたり。終いに悉く通路を断ち飢餓に依りて之を陥落せしめたるが、細川殿は信長遠方に居り之を救うこと能わざりしが故に士卒と共に堺に赴きたり。
---------------------------

とあります。フロイスは、キリスト教の布教にあたり、権力構造やそれに関わる人物について、分析を行っており、それらの立場ある人物を教化する事で、更に情報も入手するという構図を作り上げていました。
 ですので、フロイスのこの記述も、概ね当時の認識を忠実に記していると考えられます。本願寺光佐と昭元は、義理の兄弟ではありますが、このように「攻守」全く逆の立場に身を置く事もありました。

元亀2年頃から幕府・織田勢と三好・本願寺など反幕府勢は再び交戦を始めます。この6月頃から幕府勢は、三好方であった池田衆を積極的に攻めたため、三好三人衆方であった池田衆は劣勢に立たされます。
 しかし、池田衆は起死回生の決戦を宿河原(白井河原)に挑み、見事に大勝利を得、敵大将の和田惟政とその重臣を多数を討ち捕るという、壊滅的な損害を与えます。惟政は、幕府の中枢を担う人物でもあり、その勢力を失う事で再び京都陥落の危険性が高まりました。この大合戦は、8月28日に行われ、その余波たる小競り合いは、同年11月頃まで続いています。

再び三好方が京都周辺で勢いを増した事から朝倉・浅井勢は、六角勢も加わって、比叡山方面まで迫ります。信長は、この窮地に朝倉・浅井を匿う比叡山を焼き討つという強行手段を取ります。この前年の同じ時期にも同様の行動があり、三度同じ事を繰り返さないという措置でもありました。門跡といえども、朝廷の意向にに随わない者は、武力行使を厭わない姿勢を内外に示しました。
 この間、白井河原合戦に勝利した池田衆は、支配領域を拡げ、歴代最大の版図を得るに至り、政治主導者の交替時の習わしである「摂津国豊嶋郡所々散在」へ宛てた禁制を下します。
摂津国箕面寺岩本坊(2022年撮影)
 三好三人衆方摂津国池田三人衆と見られる池田十郎次郎正朝・荒木信濃守村重・池田紀伊守正秀が、摂津国豊嶋郡中所々散在に宛てて禁制を下しています。
※箕面市史(資料編2)P411

---史料(9)------------------------
摂津国箕面寺山林自り所々散在盗み取り由候。言語道断曲事候。宗田(故池田筑後守信正)御時筋目以って彼の寺へ制札出され間、向後堅く停止せしむべく旨候。若し此の旨背き輩之在り於者、則ち成敗加えられるべく由候也。仍件の如し。
---------------------------

このように、幕府・織田勢が窮地に立つ中、細川六郎は、三好方から離れて投降します。続いて、三好三人衆の中心人物である石成友通も投降します。それは元亀3年1月のことでした。
※兼見卿記:第一(続群書類従完成会)P24

---史料(10)------------------------
17日条:
細川六郎(昭元)出頭也。見物了ぬ。騎馬薬師(寺)三宅香西三騎也。馬廻り打籠也。七百計り之在り。祗侯の砌、官途右京大夫、又名乗り御字遣わされ、秋(昭)元云々。
---------------------------

細川六郎が投降すると、直ぐ「右京大夫」を叙任し、正式な管領の地位に就きます。また、将軍義昭から偏諱を受けて「昭元」と名乗ります。

元亀3年3月24日、細川昭元は、石成友通を伴い、京都二条妙覚寺の織田信長に参候します。
※改訂 信長公記(新人物往来社)P123

---史料(11)------------------------
むしゃの小路御普請の事条:
3月24日、(中略)細川六郎殿石成主税助始めて、今度、信長公へ御礼仰せられ、御在洛候なり。今般大坂門跡より万里江山の一軸、並びに、白天目、信長公へ進上なり。
---------------------------

同じ頃、甲斐守護武田信玄の周旋により、織田信長と本願寺との和睦もなされています。史料(11)にある、「今般大坂門跡より万里江山の一軸、並びに、白天目、信長公へ進上なり。」とは、こういった本願寺方との和睦が成った事と、昭元が光佐と義理の兄弟であったという関係もあったためでしょう。

その後、今度は将軍義昭と織田信長の不和が深刻化してしまいます。(元亀3年)5月13日付、将軍義昭の武田信玄への内書を経て、信玄が反織田信長方松永久秀側近岡国高へ音信した内容から、将軍は信長の打倒を決意していたものとみられます。
 当時の通信事情から考えて、リアルタイムの意思疎通は不可能ですが、合意形成は既に整っていたと考えられます。
※戦国遺文(三好氏編3)P42

---史料(12)------------------------
珍札披見快然候。如来の意、今度遠江国・三河国へ発向、過半本意に属し候。御心安かるべく候。抑て公方様(将軍義昭)織田信長に対され御遺恨重畳故、御追伐為、御色立てられ之由候条、此の時無二の忠功励まれるべく事肝要候。公儀御威光以て武田信玄も上洛せしめ者、異于に他申し談ずべく候。仍て寒野川弓(十三張)到来、珍重候。委曲附しと彼の口上候之間、具さに能わず候。恐々謹言。
---------------------------

この頃になると、三好三人衆は、本国阿波・讃岐・淡路国方面の外へ出る程の余裕がなくなり、内部抗争などを伴って、弱体化していきます。
 そのため、将軍が反信長勢を糾合し始めると、そちらへ靡く勢力が現れ、求心力は将軍義昭方向へ向かい始めます。
 将軍と織田信長は、互いに反目しながら、名だたる人物の取り合いになっていました。その過程で、摂津池田衆もその影響を受けて、どちら側に加担するのかで内部で争い始めます。他の国人、例えば塩川氏などでも同じ状況でした。
 そして、管領昭元も両陣営から誘いを受けていました。この流れで、将軍側近であった明智光秀や細川藤孝なども信長の傘下に入ったりしています。
摂津国中嶋城跡(2006年撮影)
 昭元は、どうも信長についたようで、記述の史料(8)にあるように、非常に苦しい場面でも、持ち場を守り抜く姿勢を示しています。昭元は、若年であった事や時代性もあって、その伝統的権威に陰りもみられ、経済基盤も弱かった事もそこに至る一因でした。そのため、先ずはその足がかりとなる中嶋(城)の持ち場を守る事に注力したのかもしれません。
 この余談を許さない状況の中で、政治・経済の中心となる中央政権(将軍義昭・織田信長)が分裂したために、細川昭元傘下として寝返った三好為三にとっても、判断の難しい局面に陥りました。
 元々、将軍義昭政権下で交渉はしていたものの、為三の要求が非現実的で莫大であったため、折り合いがつかずに、交渉が纏まらなかったようです。

年が明けた元亀4年、早々から将軍義昭と織田信長は、もはや武力衝突不可避となり、両陣営は、その準備を急ぎました。
 この流れで、摂津池田家中も分裂となり、池田一族衆は幕府方へ、荒木村重一党は織田方へ加担する事となって、袂を分かちます。
 2月になると。両陣営は動きを活発化させ、将軍義昭の拠点である京都二条城へ続々と友軍が集結し、幕府方池田衆も2000騎を率いて入城しました。
※耶蘇会士日本通信(下)P248

---史料(13)------------------------
1573年4月20日(元亀4年3月19日)付、都発、パードレ・ルイス・フロイスよりパードレ・フランシスコ・カブラルに贈りし書簡:
ジョアン(内藤如安)の都に着きたる日、池田殿兵士2000人を率いて公方様を訪問せり。此の兵士の到着に依り都は少しく鎮静せり。
---------------------------

同月26日、摂津国中嶋城が落ち、ここを守っていた細川昭元と典厩家(管領家の分家)の細川藤賢は、堺に逃れました。
※織田信長文書の研究(上)P611

---史料(14)------------------------
猶以て朱印遣わし候はんかた候者、承るべく候。只今丹波国人内藤方への折紙之遣わし候。さてもさても此の如く体たらく不慮の次第に候。今般聞こ召し直され候へば、天下再興候歟。毎事御油断有るべからず候。替わる趣きも候者、追々承るべく候。京都の模様其の外具さに承り候。満足せしめ候。今度松井友閑・嶋田秀満を以て御理り申し半ばに候。之依り条々仰せ下さりに付きて、何れも御請け申し候。然ら者奉公衆の内聞き分けざる仁体、質物之事下され候様にと申し候。此の内に其方之名をも書き付け候。其の意を得られるべく候。此の一儀相済まず候者、其の上意に随うべく、何れも以て背き難く候間、領掌仕り候。此の上者信長不届きにて、之有るべからず候。此方隙き開き候間、不図(ふと)上洛を遂げ、存分に属すべく候。其の方無二之御覚悟、連々等閑無く入魂せしめ処、相見え候。荒木(信濃守)村重池田其の外何れも此の方に対して疎略無く、一味の衆へ才覚肝要に候。恐々謹言。
---------------------------

しかし、この中嶋城は、信長方により、直ぐに取り戻されたようです。ここは水運の要であり、非常に重要な場所でもありました。非常に長い音信なので、細川昭元(中嶋城)関連を抜粋します。
※織田信長文書の研究(上)P614

---史料(15)------------------------
五畿内・同京都之体、一々行き届け候。度々御精に入れられ候段、寔に以て満足せしめ候。(中略)一、中嶋之儀、去る27日(2/27)に退城之由、さてもさても惜しき事に候。公方所為(せい)故に候。右京兆(細川昭元)御心中察しせしめ候。質物(人質)出しに付きては進上候て尤も候。(中略)一、中嶋之事、執々(とりどり)承りに及び候処、堅固之由尤も候。則ち書状以て申し候間、御届け専用に候。然ら者、鉄砲玉薬・兵糧以下之儀者、金子百枚・二百枚程の事余に安き事に候。上洛之刻、猶以て其の擬(検討をつける)仕るべく候。弥々荒木(信濃守)村重と相談有り、御馳走専一候。(後略)
---------------------------

4月、遂に両者は衝突し、信長勢は洛中・洛外を大規模に放火します。これに将軍義昭方はなす術もなく、同月7日に和睦が成立します。そして、京都へ入る予定であった武田信玄が、同12日、進軍途中で死亡してしまいます。
 この事は、当時の通信事情から、また、京都周辺を封鎖している事もあり、信玄の死亡は、直ぐに将軍の元には届かず、将軍に加担する勢力との協働を計るべく、二条城防備を更に強化するなどしています。

山城国槙島城跡(2009年撮影)
7月5日、二条城を側近の三淵藤英に守らせ、将軍自らは山城国宇治郡槙島城に入って、再度の挙兵を行います。しかしながら、長くは続かず、同月18日、将軍が信長に降伏し、京都から追放となります。信長は間髪入れず、槙島城に細川昭元を入れ、周辺の残党を一掃するべく、拠点とします。
※改訂 信長公記(新人物往来社)P142

---史料(16)------------------------
真木島にて御降参、公方様御牢人の事条:
7月18日巳の刻、両口一度に、其の手其の手を争い、中島へ西へ向かって噇っと打ち渡され候。(中略)真木島には信長より細川六郎(右京大夫昭元)を入れ置き申され、諸勢南方表打ち出し、在々所々焼き払う。
---------------------------

この掃討作戦で、将軍義昭方となって戦っていた、元三好三人衆の一人、石成友通は、山城国の淀城にて戦いましたが戦死しています。7月27から29日頃の事とされています。
※改訂 信長公記(新人物往来社)P143

---史料(17)------------------------
岩成討ち果たされ候事条:
去る程に、公方様より仰せ付けられ、淀の城に、岩成主税頭・番頭大炊頭・諏訪飛騨守両3人楯籠り候。羽柴筑前守秀吉、調略を以て、番頭大炊・諏訪飛騨守両人を引き付け、御忠節仕るべき旨、御請け申す。然る間、長岡兵部大輔藤孝に仰せ付けられ、淀へ手遣い候ところ、岩成主税頭、城中を懸け出で候。則ち、両人として、たて出だし候。切って廻り候を、長岡兵部大輔臣下、下津権内と申す者、組討ちに頸を取り近江国高嶋へ持参候て、頸を御目に懸け、高名比類無きの旨、御感じなされ、忝くも、召されたる御道服を下され、面目の至り、冥加の次第也。何方も御存分に属せらる。
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7月28日、元号が「天正」と改まり、ひとつの時代は終わり、新たな時代の幕開けを迎えました。

 

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<元亀元年から元亀4年までの動き> =================

◎元亀元年 --------------------
4/22 反幕府・織田信長方三好三人衆派石成友通、大和国西大寺綱維房へ宛てて音信(返信)
※戦国遺文(三好氏編2)P259

4/22 反幕府・織田信長方三好三人衆派三好為三、大和国西大寺同宿中へ宛てて音信
※戦国遺文(三好氏編2)P259

4/28 越前国金ヶ崎からの撤退戦始まる
※改訂 信長公記(新人物往来社)P103

5/上 織田信長、五畿内の主立った武家から人質を取る
※改訂 信長公記(新人物往来社)P102

6/9 将軍義昭一族同苗藤賢、某(幕府関係者)へ音信
※新修 茨木市史(通史2)P28、戦国摂津の下剋上(高山右近と中川清秀)P153 

6/18 幕府衆細川藤孝など、畿内御家人中へ宛てて音信
※大日本史料10-4-P525(武徳編年集成)、朝倉義景のすべてP66

6/18 摂津池田城内で内訌が起こる
※言継卿記4-P424、多聞院日記2(増補 続史料大成)P194、細川両家記(群書類従20:合戦部)P634

6/19 反幕府・織田信長方摂津池田衆、三好三人衆方へ使者を派遣
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P634

6/26 反幕府・織田信長方三好三人衆三好長逸・石成友通など、摂津国池田へ入城との風聞が立つ
※言継卿記4-P425

6/26 摂津守護池田筑後守勝正、将軍義昭に面会
※言継卿記4-P425

6/27 将軍義昭、近江国出陣を延期(中止)
※言継卿記4-P425

6/28 摂津守護和田惟政、小曽根春日社に宛てて禁制を下す(直状形式)
※豊中市史(史料編1)P121

7 反幕府・織田信長方三好三人衆派池田民部丞、山城国大山崎惣中へ禁制を下す(直状形式)
※島本町史(史料編)P443

7/5 反幕府・織田信長方三好三人衆派池田某、池田家の家督を相続?
※大日本史料10-4-P522(荒木略記)、池田町史P137

7/21 反幕府・織田信長方三好三人衆勢、摂津国中嶋へ上陸
※足利義昭(人物叢書)P168、言継卿記4-P432、近世公家社会の研究P23

7/27 反幕府・織田信長方三好三人衆三好長逸、摂津国欠郡天満森方面へ入る
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P634、陰徳太平記4(東洋書院)P54

8/2 反幕府・織田信長方三好三人衆三好為三など、禁制発給について山城国大山崎惣中へ宛てて音信
※島本町史(史料編)P435、戦国遺文(三好氏編2)P261

8/3 幕府衆細川藤賢(典厩)、摂津国人野部(辺)弥次郎へ音信
※新修 茨木市史(通史2)P29

8/13 摂津守護伊丹忠親、反幕府・織田信長方三好三人衆派池田勢等と摂津国猪名寺附近で交戦
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P634、陰徳太平記4(東洋書院)P54

8/25 摂津国豊島郡原田城が焼ける
※言継卿記4-P440

8/27 摂津守護池田勝正、摂津国欠郡天満森へ着陣
※ビブリア53号P155(二條宴乗記)、言継卿記4-P440、陰徳太平記4-P54

8/28 反幕府・織田信長方三好三人衆三好為三など、幕府・織田信長方に投降
※改訂 信長公記(新人物往来社)P109、細川両家記(群書類従20:合戦部)P636、多聞院日記2(増補 続史料大成)P206、言継卿記4-P441

9 反幕府・織田信長方三好三人衆派池田民部丞、摂津国多田院に禁制を下す (直状形式)
※川西市史(資料編1)P456

9/1 阿波足利家擁立派三好三人衆方三木某など、幕府・織田信長方松永久秀に投降
※言継卿記4-P442

9/3 将軍義昭、摂津国欠郡中嶋へ着陣
※ビブリア52号P157+62号P66(二條宴乗記)、細川両家記(群書類従20:合戦部)P636、改訂 信長公記(新人物往来社)P109、言継卿記4-P442

9/3 反幕府・織田信長方三好三人衆三好長逸など、摂津池田城を出て摂津野田・福島城へ入る
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P636、戦国歴代細川氏の研究P383

9/8 摂津守護伊丹忠親・和田惟政勢、反幕府・織田信長方三好三人衆派池田領内の市場などを打ち廻る
※言継卿記4-P443、高槻市史1-P738

9/12 幕府・織田信長勢、摂津国野田・福島城の総攻撃を行う
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P637、改訂 信長公記(新人物往来社)P109

9/20 織田信長、三好為三へ摂津国豊島郡の知行について音信(朱印状)
※池田市史(史料編1)P28、織田信長文書の研究-上-P417、戦国遺文(三好氏編2)P267

9/23 幕府・織田信長勢、摂津国方面から撤退
※言継卿記4-P448、細川両家記(群書類従20:合戦部)P638、改訂 信長公記(新人物往来社)P112

9/25 幕府・織田信長(為三含む)勢、比叡山の麓へ陣を取る
※改訂 信長公記(新人物往来社)P113

11 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津池田知正衆中川清秀、池田周辺諸城を攻める?
※伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P92

11/5 反幕府・織田信長方三好三人衆派池田民部丞、摂津国箕面寺に禁制を下す(直状形式)
※箕面市史(資料編2)P414

12/8 幕府・織田信長、三好三人衆方の和睦を成立させる
※ビブリア53号P164(二條宴乗記)、戦国期歴代細川氏の研究P128

12/25 反幕府・織田信長方本願寺光佐、細川六郎(昭元)に音信
※本願寺日記-下-P595

12/27 反幕府・織田信長方本願寺光佐、細川六郎(昭元)に音信
※本願寺日記-下-P596


◎元亀2年 --------------------
1/16 反幕府・織田信長方本願寺光佐、細川昭元へ音信
※本願寺日記-下-P596

1/16 反幕府・織田信長方本願寺光佐、細川昭元へ音信
※本願寺日記-下-P596

2/5 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津国人池田正秀荒木弥介石成友通、堺商人天王寺屋宗及の茶席に出席
※茶道古典全集8-P160

3/19 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津国人池田正秀、堺商人天王寺屋宗及の茶席に招かれる
※茶道古典全集8-P160

6/4 織田信長、幕府衆細川藤賢(典厩)の知行地について細川藤孝へ音信
※織田信長文書の研究-上-P458

6/中 摂津守護和田惟政、摂津国豊嶋郡原田城を落とす
※言継卿記4-P502、豊中市史(史料編1)P121

6/10 摂津守護和田惟政、摂津国吹田城を落とす
※言継卿記4-P502、高山右近(人物叢書)P29

6/12 織田信長、将軍義昭側近細川藤孝へ音信
※織田信長文書の研究-上-P459

6/16 織田信長、幕府衆明智光秀に三好為三の処遇について音信
※大阪編年史1-P406、織田信長文書の研究-上-P392、改訂 信長公記(新人物往来社)P109

6/23 摂津守護和田惟政、摂津国豊嶋郡牛頭天王へ宛てて禁制を下す
※豊中市史(史料編1)P122、高槻市史1-P739+3(史料編1)P432

6/24 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津国池田衆、摂津国有馬湯山年寄中へ宛てて音信
※兵庫県史(史料編・中世1)P503、池田市史1-P662

7/2 反幕府・織田信長方本願寺光佐、同細川昭元へ音信
※本願寺日記-下-P598

7/下 摂津守護池田勝正・幕府衆細川藤孝勢、摂津国池田城を攻める
※池田市史1-P668、吹田市史2-P10

7/26 幕府衆三淵藤英、摂津国豊島郡春日社目代に宛てて音信
※豊中市史(史料編1)P123

7/31 将軍義昭、三好為三に所領安堵の御内書を下す
※大日本史料10-6-P685、明智光秀(人物叢書)P61

8/2 摂津守護池田勝正、摂津国原田城へ入る
※池田市史1(史料編1)P82、大日本史料10編之6-P701(元亀2年記)、戦国期歴代細川氏の研究P223

8/18 摂津守護和田惟政・同伊丹忠親勢、反幕府・織田信長方三好三人衆勢と摂津国内で交戦
※高槻市史3(史料編1)P433、陰徳太平記3-P268

8/22 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津国池田勢、兵を率いて出陣
※耶蘇会士日本通信-下-P137、フロイス日本史4(中央公論社:普及版)P268

8/28 摂津国白井河原合戦
※高槻市史3(史料編1)P433+438、多聞院日記2(増補 続史料大成)P256、言継卿記4-P523、耶蘇会士日本通信-下-P137、フロイス日本史4(中央公論社:普及版)P268、陰徳太平記3-P268、ビブリア54号-P39(二條宴乗記)、大日本史料10-6(尋憲記)、中川史料集P15

9/1 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津国池田勢、摂津国茨木城とその領内を攻撃
※伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P144、陰徳太平記3-P270、中川史料集P21

9/5 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津国池田勢、摂津国高槻城を攻める
※中川史料集P22

9/6 反幕府・織田信長方三好三人衆派池田勢、戦闘に敗北
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P257

9/9 摂津国高槻の攻防について交渉が整い、一時的に停戦となる
※大日本史料10-6(尋憲記)、高槻市史3(史料編1)P439

10 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津国池田家内の中川清秀、摂津国欠郡新庄城へ入る
※よみがえる茨木城P17+67+130

10/21 織田信長、三好一任斎為三へ音信
※泰厳歴史美術館所蔵資料 2025年4月12日報道の新出史料

11/8 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津国池田三人衆、摂津国豊島郡中所々散在へ宛てて禁制を下す
※箕面市史(資料編2)P411、伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P17

12/13 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津国人池田正行、奈良春日大社南郷目代今西橘五郎へ音信
※春日大社南郷目代今西家文書P456、豊中市史(史料編1)P128

12/17 細川昭元、幕府へ出仕
※兼見卿記:第一(続群書類従完成会)P24


◎元亀3年 --------------------
1/26 織田信長、石成友通へ音信(朱印状)
※織田信長文書の研究(補遺・索引)P127、戦国遺文(三好氏編3)P22

3 織田信長、幕府方甲斐守護武田信玄の仲介により本願寺と和睦
※御坊市史1(通史編)P478、本願寺(井上鋭夫)P222

3/14 反織田信長方三好三人衆派摂津池田三人衆荒木村重、京都吉田神社神官吉田兼見からの音信を受ける
※兼見卿記:第一(続群書類従完成会)P37、伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P41

3/24 細川昭元、織田信長へ参侯
※改訂 信長公記(新人物往来社)P123、戦国史研究76号-P13

4/13 幕府方摂津国中嶋城細川昭元、反幕府・織田信長方三好義継と和睦
※明智光秀(人物叢書)P92

4/14 反幕府・織田信長方本願寺坊官下間正秀、近江国北部十ヶ寺惣衆中へ宛てて音信
※近江国古文書志1(東浅井郡編)P89、戦国遺文(三好氏編3)P30、本願寺教団史料(京都・滋賀編)P247

4/16 摂津守護池田勝正勢、河内国交野方面へ出陣
※兼見卿記:第一(続群書類従完成会)P38、改訂 信長公記(新人物往来社)P124

4/18 反幕府・織田信長方本願寺坊官下間正秀、近江国北部十ヶ寺衆惣中へ宛てて音信(返信)
※近江国古文書志1(東浅井郡編)P90、戦国遺文(三好氏編3)P31、本願寺教団史料(京都・滋賀編)P248

5/10 反織田信長方将軍義昭派本願寺坊官下間正秀、近江国十ヶ寺惣衆中へ宛てて音信
※近江国古文書志1(東浅井郡編)P90

6/2 幕府方将軍義昭派細川昭元、讃岐国人香西玄蕃助某へ音信
※瀬戸内海地域社会と織田権力P208

6/12 反織田信長方三好三人衆派荒木村重、摂津国豊嶋郡春日社南郷目代今西宮内少輔へ音信
※豊中市史(史料編1)P125、伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P13

8/25 幕府方細川昭元、美濃国常在寺へ音信
※岐阜県史(史料編:古代・中世編1)P60

8/28 反織田信長方将軍義昭派本願寺勢、幕府方織田信長派摂津国中嶋城を攻める
※中川史料集P14、戦国期歴代細川氏の研究P128、元亀信長戦記P53

9/2 反織田信長方将軍義昭派本願寺光佐、細川昭元に音信
※本願寺日記-下-P602

10/7 反織田信長方将軍義昭派三好三人衆方三好為三、上御宿所へ宛てて音信
※箕面市史(史料編6)P438

10/13 反織田信長方将軍義昭派三好三人衆方三好為三、聞咲(所属不明)へ音信
※大阪編年史1-P459、戦国遺文(三好氏編2)P272

11/6 将軍義昭、同側近上野秀政へ池田民部丞召しだしについて内書を下す
※高知県史(古代中世史料)P652

11/13 織田信長、細川昭元衆薬師寺弥太郎へ音信(朱印状)
※織田信長文書の研究-上-P585

11/19 織田信長衆木下秀吉、将軍義昭側近曾我助乗へ音信
※兵庫県史(史料編・中世9)P432、豊臣秀吉文書1-P16、細川家文書(中世編)P151

12/10 将軍義昭、側近一色藤長へ細川典厩藤賢について内書を下す
※福井県史(資料編2)P686

12/20 反織田信長方三好三人衆・三好義継・松永久秀・本願寺勢など、摂津国中嶋城を攻撃
※大阪編年史1-P492


◎元亀4年 --------------------
2 織田信長方摂津国人荒木村重、佐久間信盛などへ使者を遣わす
※陰徳太平記4(東洋書院)P134

2/15 摂津池田衆など将軍義昭勢、京都二条城へ集結
※亀岡市史(資料編1) P1168、耶蘇会士日本通信-下-P248、永禄以来年代記(続群書類従29-下)P268

2/23 織田信長、荒木村重の「無二之忠節」の約束に喜ぶ
※織田信長文書の研究-上-P606、兵庫県史(史料編・中世9) P432、伊丹史料叢書4(荒木村重史料)P23

2/26 織田信長、摂津池田衆荒木村重の扱いについて細川藤孝に音信
※織田信長文書の研究-上-P611、綿考輯録1-P65

2/27 摂津国中島城が落ち、細川昭元が堺へ逃れる
※細川両家記(群書類従20号:武家部)P639、耶蘇会士日本通信-下-P232、織田信長文書の研究-上-P614

3/7 織田信長、摂津国中嶋城について細川藤孝に音信
※亀岡市史(資料編2)P1168、織田信長文書の研究-上-P614、兵庫県史(史料編・中世9)P434、伊丹史料叢書4(荒木村重史料)P24

3/11 足利義昭方池田衆、京都八条へ陣を取る
※戦国期室町幕府と在地領主P298、大日本史料10-14(東寺執行日記)P246

3/12 将軍義昭方池田衆及び内藤如安忠俊、兵を率いて将軍義昭へ参侯
亀岡市史(資料編1)P1171、耶蘇会士日本通信-下-P248、イエズス会日本報告集(第3期第4巻)P198、フロイス日本史(中央公論社刊)4-P290

3/13 足利義昭方池田衆、京都八条方面で東寺衆と陣取りを巡って喧嘩
※東寺執行日記3(思文閣出版)P173、耶蘇会士日本通信-下-P249「註」、フロイス日本史(中央公論社刊)4-P292

3/14 将軍義昭、摂津国人池田遠江守某へ内書を下す
※高知県史(古代中世史料)P651

3/27 織田信長派荒木村重・細川藤孝、近江国逢阪で織田信長を迎える
※フロイス日本史(中央公論社刊初版)4-P299、イエズス会日本報告集(第3期第4巻)P206、陰徳太平記4-P134

3/27 将軍義昭、兵を城に入れて防備を固める
耶蘇会士日本通信-下-P259(異年年代記抄節)、イエズス会日本報告集(第3期第4巻)P205

3/29 織田信長派荒木村重、細川藤孝と共に織田信長と知恩院で会見
※改訂 信長公記(新人物往来社)P 137、耶蘇会士日本通信-下-P262、イエズス会日本報告集(第3期第4巻)P206

4/4 将軍義昭方本願寺光佐から越前守護朝倉義景への音信に池田遠江守が登場
※本願寺日記-下-P611

4/7 将軍義昭・織田信長の和睦が成立する
※大日本史料10-15-P81、福井県史(資料編2)P726、図説丹波八木の歴史2(古代・中世編)P169

4/27 織田信長衆林秀貞など、将軍義昭方奉行人池田清貪斎正秀などへ起請文を提出
※織田信長文書の研究-上-P629、足利義昭(人物叢書)P207

4/28 将軍義昭方池田清貪斎正秀など、織田信長衆塙(原田)直政などへ起請文を提出
※織田信長文書の研究-上-P630、足利義昭(人物叢書)P207

7/5 将軍義昭、織田信長に対して再度挙兵
※改訂 信長公記(新人物往来社)P139、長岡京市史(資料編2)P650

7/18 将軍義昭、織田信長に降伏
※ビブリア54号(二條宴乗記)P59、改訂 信長公記(新人物往来社)P141、信長記-上(現代思潮新社)P172

7/20 織田信長方細川昭元、山城国槙島城へ入る
※改訂 信長公記(新人物往来社)P142、信長記-上(現代思潮新社)P174

7/20 織田信長方細川昭元、山城国槙島城へ入る

※改訂 信長公記(新人物往来社)P142、信長記-上(現代思潮新社)P174

7/27 足利義昭方石成友通、戦死
※改訂 信長公記(新人物往来社)P143、足利義昭(人物叢書)P219

8 荒木村重、摂津国一職を約される?
※織田政権の基礎構造(織豊政権の分析1)P109、陰徳太平記4(東洋書院)P135

8/4 足利義昭方池田某自刃?
※池田市史(資料編1)P82、伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P134、陰徳太平記4(東洋書院)P135

 ================= <年表おわり>

 

2024年10月5日土曜日

細川六郎と三好三人衆(元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状)

京都の中央政権を支えた阿波国に縁を持つ三好家が、三好長慶を筆頭に、歴代最大の版図を築くに至ります。しかし、永禄7年(1564)7月、その三好長慶は失意の内に亡くなります。
 その後、間もなく三好長慶を支えた一族家老・重臣同士の争いに発展し、結局は京都周辺に威勢を誇った三好氏も没落してしまいます。

その過程で、家名存続に腐心した三好三人衆(三好家家老格であり、家政中枢であった組織機構)と、伝統的権威であり室町幕府機構内の「管領」格であった細川六郎(家)について、考えてみたいと思います。

この管領(格を有する)細川家は、日本各地にあり、その細川家を担いで、地域権力とその統治機構があったようですが、今回の記事は、京都を中心とした(室町幕府直結の)細川管領家について、観察してみます。
 この京都に在所する足利将軍権威に含まれる管領職について、三好長慶を筆頭とする阿波三好家が深く関わり、支えていました。
 それらの実態については、複雑怪奇で、それらの説明は割愛します。ここでは特に、長慶の時代から元亀元年までの動きについて述べたいと思います。

例の如く、その流れについては、この記事の本文以下に、関連する出来事の一覧を掲示します。

状況からすると、阿波三好家からしても迷惑で、不可抗力的な悲劇なのですが、将軍家の同族争いと管領家の争いが連動して起こり、その権威構造の歯車が、その力で全て動いてしまうので、三好家としても引き込まれざるを得ない状況でした。それが長慶の代で概ね決着し、沈静化がある程度、進みました。

六郎(昭元)の父である管領細川晴元は、自らの失政で招いた混乱に抗いきれず、長慶という、かつての重臣に従わざるを得なくなります。

近江国(現滋賀県)朽木の将軍御所跡
天文20年(1551)12月、細川晴元方であり、近江国守護六角定頼・義賢父子と三好長慶が和睦する事となります。この時の条件について、管領晴元の嫡子である六郎を、現管領である細川氏綱の後、もしくは、然るべき時期に、晴元嫡子六郎を管領に就かせる条件で和睦を締結します。
 それにより、年が明けた天文21年1月に将軍義輝は、避難先の近江国朽木地域から京都へ戻ります。この折に、六郎も随伴していますが、その親である晴元は、剃髪して僧体(入道号永川)となり、出奔します。

この間暫く、駆け引き、争いがありますが、三好長慶が優位に状況を切り抜け、勢力を拡大していきます。
 弘治4年(1558)2月3日、細川六郎(この時、聡明丸)を摂津国芥川(山)城で、三好長慶は元服させます。この烏帽子親を晴元の敵対一族である現管領の細川氏綱が行いました。加えて、その月内に改元まで行い、元号を「永禄」として発布します。
 これは晴元の系譜を継がず、敵対する氏綱の系譜に組み込むという流れを作る事となり、この行為についての大きな反感を長慶は買いました。特に晴元擁護派の中心である、近江守護家六角氏(細川晴元の妻は六角定頼の娘で、両家は親類)が反発し、三好長慶に敵対する勢力を糾合して争う構えを見せます。

それに対抗して、三好長慶は管領の上位権力である将軍義輝に接近し、御相伴衆に取り立てられるように仕向けたりして、自らの地位を上昇させる策を講じます。また同時に、管領家も長慶の権力機構内に収めつつ、更にその上位権力との関係性を作り、自らの地位も上昇させる事で、敵の抵抗を政治戦略的に無力化する策に出ます。
 やはりこれは功を奏します。永禄2〜3年の河内南半国守護職畠山家の内紛鎮圧は、幕府の正規軍として三好長慶が行っています。しかし、それでも反抗は止まず、翌4年(1561)7月にも、長慶に対して包囲網を敷いて、近江六角承禎(義賢)が中心となって武力蜂起します。しかし、永禄7年7月、長慶はその鎮圧の半ばで死亡します。

少し時間を戻します。

京都吉田神社 
永禄6年(1563)という年は、京都周辺で疫病が発生していたとみられ、それを裏付ける史料があります。京都吉田神社の神主、兼右が、4月19日の事として記述しています。
※兼右卿記(上)P142

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上野民部大輔(信孝)、不例に就き、神道泰山府君祭事、上位(将軍)為、細川民部大輔(藤孝)以て仰せ出され了ぬ。既に急病也。諸道具5月3日中に調え難き旨申し入れ了ぬ。然者、(賀茂)在冨卿に仰せ出されるべく候云々。尤も然るべく候旨返答了ぬ。彼の病者十死一生也。若し平癒無き之時■天度く然るべく之間、此の分申し上げ了ぬ。
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この年に、細川晴元、同氏綱の両管領が死亡します。そして、長慶の跡取りであった三好義興も病没してしまい、親の長慶にとって、悲嘆に暮れる年となりました。この後、管領職は正式に承認された人物はなく、事実上「空位」となっていたと思われます。

さて、永禄7年(1564)、三好長慶亡き後、長慶実弟(十河一存)の養子先である十河家から養子を迎えて、家中政治の立て直しを図ります。
 三好家長慶跡目となった義継は、この時は(数えで15才)まだ若く、長慶を支えていた家老や重臣が同じくその新当主を支えました。しかし、司令塔であり、象徴であった当主長慶を不慮に失い、家臣団の意見が纏まらなくなります。
 永禄8年(1565)5月、三好勢は将軍義輝の暗殺を決行する暴挙に出、この年の内に三好三人衆という一族集団と新参であった松永久秀が対立し、内紛となります。もはや「天下取り」どころではなく、内紛の勝敗に明け暮れる事態に陥ります。
 このような事態は、三好家にとっては想定外であったでしょう。ですので、権力の整理や組織の象徴の奉戴など、次の段階の作業に着手する事ができず(構想はあったと思われる)に、内紛の処理に追われます。

足利義栄木像
将軍の殺害自体(主殺し)、当時でも非道な行為であり、これを実行するにあたっては、それに相当する(社会的な)行為の理由付けと準備が必要な筈です。これは思いつきではなく、構想があり、準備の上で行われたのだと思われます。また、『佐々木六角氏の系譜』では、この現役将軍の襲撃事件は近江守護六角氏家中で「(いわゆる)観音寺騒動」が起きたため、その間隙を衝いて実行されたと分析されており、やはり計画的である要素があったように思います。(阿波三好家による非道な暴挙は、これで二度目で、主君阿波国守護細川讃岐守氏之を三好長慶実弟の同名豊前守実休が天文22年(1553)6月に、殺害しています。)
 さて、この当時、将軍義輝を暗殺した直後、阿波足利家を将軍に立てるとの噂が広がっています。
※言継卿記3-P502、フロイス日本史3(中央公論社:普及版)P312、足利季世記(三好記:改定 史籍集覧13別記類)P232など

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『言継卿記』5月19日条:
辰刻(午前7時〜9時)三好人数松永右衛門佐久通等、10,000計り以て俄に武家御所へ乱入之取り巻き、暫く戦い云々。奉公衆数多討死云々。(中略)阿州の武家御上洛有るべく故云々。(後略)
『フロイス日本史(中央公論社:普及版)』都において事態が進展した次第、および三好殿と奈良の(松永)霜台の息子が、公方様とその母堂、姉妹、ならびに奥方を殺害した次第条:
彼は若者である三好殿と、公方様を殺害し、阿波国にいる(公方様)の近親者をその地位に就かせる事で相談し、その者には公方の名称だけを保たせれば、それからは両名がともに天下を統治する(ことができると考えた)。
『足利季世記』光源院殿御最後之事条:
阿波御所様、三好三人衆、松永・篠原山城守を頼りに御頼みありて御上洛の御望みあり。先年より頻りに此の事ありけれども、長慶存生の中は、当公方様御馳走申して更に御請けなかりける、今長慶一期の後、子息幼稚なれば、一族衆を一偏に御頼みありければ、皆阿波御所え御一味申しけり。
----------------------------

記述の、将軍義輝殺害後の三好家分裂は、約2年間に渡る抗争となりますが、これにより三好家の家運は傾きます。
 激しい内紛の中で、最終的には、三好三人衆方が競り勝って、阿波足利家の義栄(よしひで)を、正式な第14代室町将軍に就ける事に成功します。永禄11年2月8日の事です。
※言継卿記4-P211

----------------------------
(前略)今夜将軍宣下、上卿出立要脚、伝奏於いて300疋之請け取り、澤路備前守入道之遣わす。同請け取り後日之遣わす。(中略)左馬頭源朝臣義栄宜しく征夷大将軍為し、兼ねて又聴着禁色すべく、予微頌、(後略)
----------------------------

この争いの間、両者は公的・正当性の主張のシンボル(象徴)として、高位の人物を味方に付けようと腐心しています。
 松永久秀は、自身の行動の象徴として、三好家当主三好義継を奉戴していました。この関係は、両者が死亡するまで続く、堅いものでした。永禄10年2月に、三好家当主の義継は、松永久秀の元へ走ります。
※言継卿記4-P122、兼右卿記(下)P121、多聞院日記2(増補 続史料大成)P9など

----------------------------
『兼右卿記(下)』2月16日条:
今夜亥刻(午後9〜11時)、三好左京大夫与松永弾正少弼一味せしめ云々。(後略)
『多聞院日記』2月18日条:
(前略)一、去る16日(2月16日)三好左京大夫堺にて宿所を替え了ぬ。松永弾正少弼と同心歟と河内国雑説之由也。いかが、大坂へ行き云々。
『言継卿記』2月17日条:
(前略)三好方池田内等昨日破れ云々。又大乱に及ぶべく、笑止之儀也。三好左京大夫(義継)、同山城守、安見等、摂津国遠里小野へ打ち出し云々。三好日向守、同下野守入道、石成主税助、和泉国境に之有り云々。松永弾正少弼(久秀)衆蜂起云々。池田之内75人引き破れ云々。(後略)
----------------------------

対する三好三人衆は、将軍格を立てており、天下への戦略(号令)としては、義継を擁立するよりも戦略的には大きな意味があります。ですので、この奏功で、いずれ義継の事も解決できると考えていたのかもしれません。

漸くここから、細川六郎(後の昭元)の動きについて、触れていきたいと思います。歴代最長の前置きで、新記録達成です。すみません。 m(_ _)m

そんな状況でしたので、六郎は三好家中で保護されていたものの、弘治年間の元服以来、この動きの中で、史料としては表立って見られません。また、年齢も若く(三好義継とほぼ同年代)、政治的な動きもできなかったのかもしれません。永禄10年(1567)になり、ようやく六郎が史料上で確認できるようになります。
 本願寺宗法主(顕如)の光佐が、細川六郎に宛てて音信しています。具体的には不明ですが、何か重大事項を控えているような内容です。2月3日付の音信です。
※本願寺日記-下-P578

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肇年嘉祥、逐日尽際有るべからず。彌堅意任されるべく候。抑3種5荷進め入れ候。表祝儀計りに候。猶下間上野法橋申せしめるべく候。穴賢穴賢。
----------------------------

更に、同年9月28日の事として、細川六郎が山城国大原口などの山科率分の今村氏受け持ち分を違乱している旨、公卿山科言継(ときつぐ)の日記に現れます。
※言継卿記4-P172

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10月2日条:
(前略)澤路隼人佑(言継被官)来たり。内蔵領率分東口之事、細川六郎(昭元)違乱云々。折紙持ち来たり。山城国大原口・粟田口山科率分今村(慶満)分事、上使差し越され上者、役銭等先々の如く彼の代沙汰致すべく由状件の如し。永禄10年9月28日 為房判(昭元奉行人飯尾) 諸役所中。承引能わず、上使追い返し云々。重ねて来たるべくの由申し云々。(後略)
----------------------------

同年、本願寺の光佐が、念入りに年の暮れと新年の挨拶を細川六郎に送っています。この頃、六郎の年齢は数えで20才になっています。永禄10年暮れと明けた新年の音信です。
※本願寺日記-下-P581+583

----------------------------
12月23日条:
歳暮嘉慶、尤も以て珍重候。仍て太刀一腰之推し進め候。猶下間上野法橋申すべく候。穴賢穴賢。
1月26日条:
春の吉兆、漸く事舊(旧)しと雖も候。尚以て休盡有るべからず、多幸多幸。仍て3種5荷之推し進め候。祝詞逐日重畳申し展べるべく候。穴賢穴賢。
----------------------------

これは本願寺宗にとって、六郎が重要な人物であると認識していた証拠でもあると思われます。

芥川山城(撮影:2001年2月)
永禄11年(1568)には、三好三人衆が将軍義栄政権の体制整備を行っていたようで、管領(かんれい)格であった六郎もその政権内に据えて、安定の一要因にと考えていたのかもしれません。
 しかし、この年の秋、故将軍義輝実弟である足利義昭を奉戴した織田信長により、三好三人衆方に上洛戦を挑まれ、抗いきれずに将軍義栄政権は崩壊してしまいます。
 この時、細川六郎は摂津国芥川(山)城付近で、三好三人衆筆頭の三好長逸と共に迎え撃ちましたが、衆寡敵せずに敗走しています。
※言継卿記4-P273、改訂 信長公記(新人物往来社)P86など

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『言継卿記』9月29日条:
(前略)今日武家御所天神馬場迄御進発云々。先勢芥川之麓之焼き攻め云々。(後略)
同月30日条:
(前略)今日、武家芥川へ御座移され云々。勝龍寺・芥川等之城昨夕之渡し、郡山道場今日之破れ、富田寺外之破れ、寺内調べ之有り。池田へ取り懸け云々。(後略)
『足利季世記』新公方様御上洛之事条:
(前略)同9月28日、信長は京都東福寺に着陣して石成主税助が楯籠もりし山城国西岡の勝龍寺城を攻めらるる、柴田修理亮と石成主税助終日合戦し、石成打ち負け50余人打ち取られ、叶うまじとや思いけん降参を請いければ、上意得られ一命を助けて城を請け取り、石成おば信長の手に加えらる。公方様には越水城へ御動座ありけり伊丹大和守親興は、越前国へ御使者を奉り御味方に参り御教書給わり所領3000貫給わり、兵庫頭になりければ、公方様の御手合いとて馳せ向かい、9月29日摂津国武庫郡河辺郡両郡を放火す。是れを聞きて三好方の高屋の城も飯盛城も自落しければ、畠山高政は初めより一乗院様の味方なれば、本領なればとて高屋城に打ち入りけり。同日、新公方様南方の御敵退治の為に御出張(中略)尾州(尾張国)衆、高槻・茨木へ陣取る。芥川城へは、故細川晴元一男六郎とて三好日向守籠もりけるが是れも叶わず明け渡しける。(後略)
『改訂 信長公記』信長御入洛十日余日の内に、五畿内隣国仰せ付けられ、征夷将軍に備えらるるの事条:
(前略)29日、勝龍寺表へ御馬を寄せらる。寺戸寂照に御陣取。これに依って石成主税頭降参仕る。晦日、山崎御着陣。先陣は天神の馬場に陣取る。芥川に細川六郎殿、三好日向守楯籠もる。夜に入り退散。並びに篠原右京亮居城越水、滝山、是れ又退城。然る間、芥川の城へ信長供奉なされ、公方様御座を移さる。(後略)
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細川六郎は、一旦、三好三人衆勢と共に阿波国方面へ待避していたようですが、体制を立て直し、再び上洛(京都奪還)を目指した戦いの準備を行っていました。
 ちなみに、この三好三人衆勢が京都から落ちる時、将軍義栄は、その途上で死亡します。これはあまり記録が無いのですが、それは、長慶の前例の如く、喪の秘匿によるものと思われます。

それ故に、「戦(いくさ)」をより有利に展開するためにも求心力のある人物をより多く味方に付ける事は、非常に重要な課題となります。
 三好三人衆方にとって、六郎の価値が急騰していました。そんな状況を示す史料があり、これは六郎が、丹波国人へ上洛戦のためと思われる音信を行っています。永禄12年と推定される3月20日付けで、細川六郎が、丹波国人荻野(赤井)悪右衛門尉直正へ宛てています。なお、署名は「元」の一文字のみです。また、『近世公家社会の研究』によるとこの音信は、六郎が阿波国から発したものと推定されています。
※兵庫県史(史料編・中世9)P6、近世公家社会の研究P37など

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先度染筆様体申し越し候。参着候哉。然者、行事、相催し候条、此の刻、別して忠節為るべく候。恐々謹言。
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丹波八木城跡(撮影:2201年10月)
もう一通、細川六郎と連なる動きをしている丹波国人内藤貞虎が、同国人赤井(荻野)悪右衛門尉直正宿所へ宛てて音信があります。これも同年と推定される3月23日付けの史料です。文中の「御屋形」とは、細川六郎を指していると考えられます。
※兵庫県史(史料編・中世9)P6、戦国遺文(三好氏編2)P245

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其れ以後久しく申し通さず候。仍って京表於いて、三好三人衆を始め利を失われ故、御屋形(六郎)播磨国へ至り御下向之条、我等も御共に罷り下り候。尤も切々書状以って申し承るべく候処に、遠路に付き、万事音無き迄に候。其れに就き、御使い為、同阿(不明な人物)差し遣わされ候。万ず御入魂肝要候。御屋形様対当され、数代御忠節、並び無き御家にて候条、此の砌引き立て申されるべく事専一候。拙者も不断御近所に之有る事候間、いか様之儀にても久しく仰せ越されるべく候。御文箱使い仕るべく候。次に(赤井)時家、未だ申し通さず候へ共、幸便候間、書状以って申し入れ候。苦しからず候者、御届け成られ候て給わるべく候。尚期して参拝之時を期し候条、事々懇筆に能わず候。恐々謹言。
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そして、永禄12年(1568)閏5月、三好三人衆勢は、実際に軍を動かして出陣しています。『多聞院日記』閏5月14日条に、その記述が現れます。
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P130

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(前略)一、淡路(国)於いて喧𠵅有て、(三好)為三ノ矢野ノホウキ(伯耆守)以下死に、三人衆果て云々。実否如何。
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伝摂津中嶋城跡(撮影:2006年10月)
この後暫く、六郎に関する史料は見られなくなり、元亀元年(1570)の摂津国野田・福島合戦を迎えます。この年、六郎は満22才。
 その頃には、三好三人衆方も六郎の政治・軍事的価値を再認識しており、その動くところには、必ず「六郎」の記述が見られるようになります。
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P634

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元亀元年条:
(前略)旁以て阿波国方大慶の由候也。然らば先ず淡路国へ打ち越し、安宅方相調え一味して、今度は和泉国へ、摂津国難太へ渡海有るべく也と云う。先陣衆は細川六郎(昭元)殿、同典厩(細川右馬頭晴賢)。但し次第不同。三好彦次郎殿の名代三好山城守入道咲岩斎、子息徳太郎、又三人衆と申すは三好日向守入道北斎、同息兵庫介、三好下野守、同息、同舎弟の為三入道、石成主税介。是を三人衆と申す也。三好治部少輔、同備中守、同帯刀左衛門、同久助、松山彦十郎、同舎弟伊沢、篠原玄蕃頭、加地権介、塩田若狭守、逸見、市原、矢野伯耆守、牟岐勘右衛門、三木判大夫、紀伊国雑賀の孫市。将又讃岐国十河方都合其の勢13,000と風聞也。(後略)
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この時は、細川晴元の一族同苗の典厩家(管領の分家で政賢流、右馬頭:摂津国中嶋城主)でもある晴賢の動向も記述されており、この頃の三好三人衆方はより強固に権威(権力)の利用とこだわりを見せています。この典厩家の晴賢は生没年が不詳ながら、六郎と比べると年齢がかなり上ですので、補佐的な実務への期待もあった可能性がありますね。もちろん、陣所が野田・福島ですので、中嶋はこの地域の中心地でもあります。それも意識していますね。
 また、六郎の存在を三好三人衆が活用しているのは、共闘するにあたり、近江国守護家の六角氏との関係を保つためでもあったと思われます。

このように、元亀元年頃には三好三人衆方にとって、管領格であった細川六郎は、組織の求心力を発揮し、団結の中心として、大きな役割を果たす人物となっていました。


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<天文20年から元亀元年8月の関連資料概要> =================
天文20年12月 -------------------
将軍義輝方六角義賢・定頼父子と細川氏綱方三好長慶の和睦会談が行われる
※戦国三好一族P139、三好長慶(人物叢書)P121、足利義昭(人物叢書)P87

天文21年 -------------------
 
1月28日 将軍義輝、入京
※言継卿記2-P443、群書類従20号(武家部:細川両家記)P612

弘治4年 -------------------
2月3日 細川晴元嫡子昭元、細川氏綱方三好長慶居城芥川山城にて元服
※群書類従20号(武家部:細川両家記)P615、戦国期歴代細川氏の研究P-347など
 
永禄4年 -------------------
7月 細川晴元方反三好長慶勢、各地で挙兵
※高槻市史1-P714、和泉市史1-P356、中世後期畿内近国守護の研究P222
 
永禄6年 -------------------
2月 池田長正死去
※池田市史1-P658
 
3月1日  細川晴元病没
※群書類従20(合戦部:細川両家記)P622など
 
4月19 将軍側近上野信孝、急病につき京都吉田神社神主兼右へ音信
※兼右卿記(上)P142

8月25 幕府方三好長慶嫡子義興没
 ※群書類従20(合戦部:細川両家記)P622

12月20 細川氏綱病没
※群書類従20(合戦部:細川両家記)P623

永禄7年 -------------------
5月7日 幕府方三好長慶、弟の安宅摂津守冬康を殺害
※言継卿記3-P408

7月4日 幕府方三好長慶死亡
※細川両家記 (群書類従20:合戦部)P623
 
永禄8年 -------------------
5月19日 足利義栄上洛の噂が立つ
※言継卿記3-P502、フロイス日本史3(中央公論社:普及版)P312、足利季世記(三好記:改定 史籍集覧13別記類)P232など

8月2日 幕府方三好義継衆松永長頼、丹波国で戦死
※多聞院日記1(増補 続史料大成)P422、言継卿記3-P521

永禄10年 -------------------
2月3日 本願寺光佐、細川六郎昭元へ音信
※本願寺日記-下-P578

9月28日 公卿山科言継、細川昭元の押領について音信を受け取る
※言継卿記4-P172

12月23日 本願寺光佐、細川昭元へ音信
※本願寺日記-下-P581

永禄11年 -------------------
1月26日 本願寺光佐、細川六郎昭元へ音信
※本願寺日記-下-P583

9/月29日 幕府方三好長逸勢、摂津国芥川山城などの拠点が落ちて敗走する
※言継卿記4-P273、足利季世紀(改定史籍集覧 第13冊)P246、改訂 信長公記(新人物往来社)P86など

永禄12年 -------------------
3月20日 三好三人衆方細川昭元、丹波国人赤井直正へ音信
※兵庫県史(史料編・中世9)P6、近世公家社会の研究P37

3月23日 三好三人衆方丹波国人内藤貞虎、同国人赤井直正宿所へ宛てて音信
※兵庫県史(史料編・中世9)P6、戦国遺文(三好氏編2)P245

閏5月7日 三好三人衆方細川六郎(昭元)、丹波国人赤井直正へ音信
※兵庫県史(史料編・中世9)P6、戦国期歴代細川氏の研究P127

閏5月14日 三好三人衆内で喧嘩が起きる
※ 多聞院日記2(増補 続史料大成)P130

================= <年表おわり>


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2024年9月23日月曜日

併せて見るべき関連性の高い史料(元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状)

令和6年(2024)8月14日頃に報道された、新出の歴史史料、織田信長から細川六郎(昭元)へ宛てられた朱印状(以下、元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状)について、その史料と併せて見るべき関連史料群をご紹介したいと思います。

これにより、元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状の理解を深める事になればと思います。前項目の「元亀元年当時の戦況」と重なる部分もありますが、視点が違いますので、併せてご覧いただければと思います。

また、前項目と同じく、この記事の本文下に関連する出来事の一覧を掲示します。

結果から言うと、元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状の意図するところの調略が成功していますので、この史料はその「指示書」という、証拠になろうかと思います。

さて、今回見る関連史料群は、調略が行われた事の実態を示しているとも言える集合体であり、細川六郎を支える人々や体制(構造)などの変化を見ることが出来るように思います。
 元亀元年8月、反幕府・織田信長方の中枢勢力である三好三人衆勢は、京都奪還を目論見、決戦を挑みます。摂津国野田・福島方面へ大挙上陸し、陣を展開します。
 しかし、両勢力が睨み合う最前線で、何と、中枢を担う人物が、幕府・織田信長方に投降します。

大坂石山本願寺推定地
8月28日、三好為三が投降し、その3日後の9月朔日、為三に近しい三木某なども投降しています。その翌日の2日には、三好三人衆方の陣中で喧嘩が起きています。

同月10日、幕府・織田勢は、三好三人衆勢に攻撃を開始し、次々と敵を圧倒していきますが、同12日、旗色を鮮明にした大坂本願寺勢が武力蜂起します。次いで、これに呼応した京都東側の同盟勢力(朝倉・浅井・六角氏)が、京都を目指して進みます。
※改訂 信長公記(新人物往来社)P111

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志賀御陣の事条:
9月16日越前国の朝倉義景・浅井備前守長政、30,000計り近江国坂本口へ相働くなり。森三左衛門尉、同国宇佐山の坂を下々(おりくだり)懸け向かい、坂本の町はづれにて取り合い、纔千(わずか)の内にて足軽合戦に少々首を取り、勝利を得る。(後略)
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近江坂本城跡
同月16日、本願寺方は幕府方と停戦しますが、再び交戦が行われています。多分これは、この時に近畿地域に接近した台風によるものと思われます。台風が過ぎ去ると、再び戦闘は始まっています。その間、幕府・織田方は京都防衛を優先する策を打ち出し、野田・福島の戦線から後退して、その本陣としていた摂津中嶋城も放棄。京都に戻ります。
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P638

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元亀元年条:
(前略)一、同16・17日(9月)に鉄砲止められ候て和睦の噯い候へ共、相調わず由申し候。
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そんな最中の9月20日、寝返ってきた三好三人衆勢の中心人物である三好為三の知行地の暫定方針を信長は伝えています。一方でまた、これは細川六郎へ信長より提示された「池田領内二万石」の概念に含まれる要素だったのかもしれません
※池田市史(史料編1)P28

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摂津国豊嶋郡の事、扶助せしめ候。追って糺明遂げ、申し談ずべく候。疎意有るべからず候。
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実際、将軍義昭政権は、知行地の配分どころでは無く、政権崩壊に繫がりかねない軍事的危機にあり、その対応に追われます。それは軍事面だけでは無く、徳政令(経済政策)や朝廷を動かした和睦対応などで、この年の暮れには、一時的な全面停戦を実現して、窮地を脱します。
 その頃の12月25日及び27日、三好三人衆方の同盟勢力である本願寺光佐が、それらの求心的人物である細川六郎に、歳末の挨拶を行っています。
※本願寺日記-下-P596

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27日付音信:
芳墨披閲本望此の事候。就中太刀一腰、馬一疋贈り給い候。悦びの至り為候。猶下間丹後法印頼総申し入れるべく候条、先ず省略せしめ候。穴賢。
----------------------------

年が明けた元亀2年、その春から両陣の動きがあり、夏頃にはまた、双方で大規模な交戦が始まります。
 5月6日、幕府方に身を置いていた松永久秀が、旧誼の三好三人衆方へ寝返り、同時に三好義継も三好方へ復帰します。これは、三人衆方にとっては、同族分裂の終息を遂げた事となり、新たな求心力を得たカタチになります。
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P237、二條宴乗記(ビブリア54号)P33

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『多聞院日記』5月6日条:
(前略)一、奈良多聞山従り陣立て之在り。松永山城守久秀嫡子同苗金吾(久通)・竹内下総守秀勝立ち了ぬ。
『二條宴乗記』5月6日条:
天晴。陣立て、松永久通・竹内秀勝計り也。知れず者也。
----------------------------

一方、幕府・織田方は、重要地域である摂津中嶋城を治めていた伝統的権威であった細川典厩家、藤賢の処遇について検討しています。6月4日、信長はその事を音信しています。
※織田信長文書の研究-上-P458

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細川右馬頭藤賢身上の儀に付き、御内書の旨、頂戴致し候。連々公儀に対し奉り疎略無く候。然る間信長於も等閑存ぜず候。此の節領知以下前々如く、相違無きの様に上意加えられるべくの事、肝要存じ候。此れ等の趣き御披露有るべく候。恐々謹言。
----------------------------

また、同月16日、三好為三の処遇についても検討を行っており、これについて暫定的な方針として、7月31日付けで、将軍義昭が内書を下して、為三の希望する所領について認めています。しかし、最初の要求よりは規模を小さくして、より具体的な内容になっています。
※織田信長文書の研究-上-P392、大日本史料10-6-P685

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6月16日付:
三好為三摂津国東成郡榎並表へ執り出でに付きては、彼の本知の旨に任せ、榎並の事、為三申し付け候様にあり度く候。然者(摂津守護)伊丹兵庫頭(忠親)近所に、為三へ遣し候領知在りの条、相博(そうはく:交換)然るべく候。異儀なきの様に、兵庫頭忠親へ了簡される事肝要候。
7月31日付:
舎兄三好下野守跡職並びに分に自り当知行事、織田信長執り申し旨に任せ、存知すべく事肝要候。猶明智十兵衛尉光秀申すべく候也。
----------------------------

摂津白井河原古戦場跡

8月28日、摂津国島下郡宿河原付近で大合戦(いわゆる白井河原合戦)があり、これに三好三人衆方池田勢が勝利しました。幕府方中心人物の一人であった和田惟政を始め、主要人物は戦死。茨木城など付近一帯は悉く池田勢が落として勢力下に収めました。これにより、山城国勝龍寺城付近が最前線となる状況にまで、幕府方は軍事的緊張を強いられます。
※言継卿記4-P523など

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『言継卿記』8月28日条:
戌午、天晴、時正、(前略)摂津国■郡山於軍之有り。和田伊賀守惟政討死云々。武家辺以ての外騒動云々。茨木兄弟以下300人討ち死に。池田衆数多打ち死に云々。三淵大和守藤英夜半■■城入り云々。
----------------------------

摂津池田勢は、この合戦により、歴代の最大版図を得、同時に、三好三人衆方は池田勢の奮戦で、京都奪還が現実味を帯びる状況に好転します。

しかし、そんな中で、その年も暮れかかる12月17日、細川六郎(昭元)は配下を伴って、幕府・織田方に投降します。
※兼見卿記:第一(続群書類従完成会)P24

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十七日条:
細川六郎(昭元)出頭也。見物了ぬ。騎馬薬師(寺)・三宅・香西三騎也。馬廻り打籠也。七百計り之在り。祗侯の砌、官途右京大夫、又名乗り御字遣わされ、秋(昭)元云々。
----------------------------

元亀3年が明けて、三好三人衆の中心人物である石成友通も幕府・織田方に投降してきます。細川昭元(六郎)が投降したことで、その周辺の人物が次々と連なって、付いてきました。織田信長が、石成主税助友通へ音信(朱印状)しています。
※織田信長文書の研究(補遺・索引)P127

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領中方目録:
一、山城国の内普賢寺・皆一職、一、同山田郷(現京都府相楽郡精華町内)皆一職、一、同上々野(現東寺領荘園のひとつ)三分の一、一、同富野郷御料所方・小笠原分除き之、一、同内野代官職、一、同壬生縄内、一、山城郡司、以上、右御下知の旨に任せ、領知全う相違有るべからずの状、件の如し。
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軍事的には、三好三人衆方が有利な状況でしたが、昭元を始めとする、この不調和は政治的な内部事情があっての事と考えられます。後の項目で、これについて示しますが、三好三人衆方は、いくつかの求心的要素(人物)をかかえており、その時々で、その重要度に偏りを見せたために、その扱いへの不満が表出したのではないかと思われます。

さて、幕府・織田方に迎えられた管領格の細川昭元(六郎:この時は右京大夫)は、3月24日に配下を引き連れて、信長に参候して挨拶を行います。
※改訂 信長公記(新人物往来社)P123

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むしゃの小路御普請の事条:
(前略)3月24日、(中略)細川六郎(昭元)殿・石成主税助始めて、今度、信長公へ御礼仰せられ、御在洛候なり。今般大坂門跡より万里江山の一軸、並びに、白天目、信長公へ進上なり。
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この後、幕府方として、軍事的には不安定ではあったものの、伝統的な細川典厩家の城である中嶋城に、元の城主であった藤賢に加えて細川昭元も入れ、守らせたようです。
 しかし、三好三人衆方は、ここを再び攻撃します。中嶋城の細川藤賢・昭元は持ちこたえられずに和睦します。これについて、いくつかの記述や解説では、昭元が再び三好方になったとしているのですが、その後も、昭元と藤賢は、明らかに幕府方の立場です。

そんな中、この5月頃には、将軍義昭と織田信長の不和が表面化、両派が分かれ始めます。しかし、完全には乖離しておらず、付かず離れずの行動から心理的には葛藤があったと思われますが、それらは史料上から読み取るには複雑です。
 史料があっても、その人物の立場が把握できなければ、書いてある意味が全て実態の真逆の意味になりますので、人物の所属把握は非常に重要です。難しいのですが、行動の結果からすれば、それらの誤差は読み取る事ができるかもしれません。

6月2日付けの史料は、欠年ではあるものの元亀3年の状況を示していると考えられ、同じく欠年6月12日付の荒木村重の音信は、関連性があるものと考えられます。以下は、6月2日付け、幕府方細川昭元が、讃岐国人香西玄蕃助某へ音信したもの。
※瀬戸内海地域社会と織田権力P208

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昨日者見廻り悦び入り候。仍て摂津国池田の人数、才覚を以て相越すべく旨、談合相申し由、一段祝着の至り候。明日上嶋(中嶋?豊嶋?)に至り、敵相動き由の条、尚以て馳走肝要候。恐々謹言。
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これらの史料から窺える状況からすると、摂津池田衆も三好三人衆方から少し距離を置き始めていたようです。昭元や石成友通が三好三人衆方から離れた事で、微妙な求心力の衰えが影響を及ぼしていたのかもしれません。

つい先日、令和6年9月6日に報道されました、熊本大学(永青文庫)による、織田信長から細川藤孝への書簡(元亀3年8月15日と推定)では、山城・摂津・河内国方面の有力国人を味方に引き入れるよう信長が依頼しています。
 この時点では決定的に将軍義昭と織田信長は決別しているようで、両者は、体制固めに動いています。
※熊本大学・永青文庫記者発表資料など
https://www.kumamoto-u.ac.jp/daigakujouhou/kouhou/pressrelease/2024-file-1/release240906.pdf

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八朔之祝儀為、(猶具一ト二ニ申し渉り候)委細承り候。殊に帷子ニ送り給わり候。懇切祝着之至り候。当年京衆何れも無音之処、初春も太刀・馬之給わり候間、例年表され之条、大慶候。仍って鹿毛之馬之進め候。乗心形の如く候歟。方々御辛労之由、併せて此の節候。南方辺之衆誰々寄らず、忠節抽んずべくに付きては、召し出され然るべく候。馳走簡要候。恐々謹言。
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この流れで、8月28日の事とする中嶋城をめぐる合戦(中川史料集:内容からしてこれは元亀3年の誤りであること確実)では、摂津池田勢が中嶋城の支援を行っていたらしい様子が浮かんできます。
※中川史料集P14

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太祖清秀公の条の元亀3年条:
8月28日夜、摂津国中嶋細川右馬頭藤賢が城中に出火あり。城の内外大いに騒動しければ、石山本願寺の砦より人数出して、中嶋の城を攻める。藤賢兼ねて将軍に昵近して、御所に相詰めける故、城中無勢にして、防戦に術を失い、城兵四方に散乱す。太祖(中川清秀)その頃、新庄に御在城故、早速御出馬ありしに、藤賢勢いは落ち散りて、本願寺の兵、早や城中に入れ替わりたるを、御手勢を以て即時に城を取り返さる。此の時石火矢を打ちけるに筒損じ中川淵兵衛重正(重継の子)面を焼きて、その痛み甚だしく程なく死す。太祖も側らにおはせしが御顔を損ぜらる。荒木村重も乗り付け御武勇を感じ、中嶋の城を預け参らせ、直ちに御入城有って藤賢が一跡御知行となる。
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そして、これを裏付ける様な、元亀3年9月2日付、本願寺光佐による細川昭元への音信内容は、実際に争うような事があり、何らかの交渉の実態を示していると考えられます。
※本願寺日記-下-P602

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芳墨披覧遂げ候。今度御城中於て不慮之次第、旨趣き具さに承り候。其れに就き軈て誓詞以て預け示し候。相応之儀如在有るべからず候。猶坊官下間頼廉申し入れるべく候。
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一方この頃、背反常無い三好為三は、将軍義昭派三好三人衆方に復帰したらしく、欠年10月13日付けで、聞咲なる人物に音信し、三人衆方の動向を伝える連絡を取っています。また為三は、同月7日付けで、将軍義昭からの内書を根拠にしたと思われる領知を獲得していたらしく、「代官之事」として、刀根分・茨木分を書き出しています。三好為三が、上御宿所(意味は不明)に宛てて音信しています。
※箕面市史(史料編6)P438

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代官之事:
一、刀根分、一、茨木分、以上。
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復元された安宅船
欠年11月13日付けの信長による将軍義昭側近曽我助乗への音信で、これも三好三人衆勢力の中心人物である安宅信康の扱いを検討しています。幕府・織田方へ投降する動きがあったようです。
※織田信長文書の研究-上-P584

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淡路国人安宅神太郎(信康)事仰せ聞かせられ候。尤も以て然るべく存じ候。去春以来之儀、其の聞こえ無く存ずる之由、一旦者余儀無く候。但し彼の雑掌共申し候趣き、一向難題之模様候し、其の分に至りては、果たして入眼不実に存じ候ける、万端を抛ち、此の節忠節抽んずべく之由、寔に神妙之至りに候。然る間領知方の儀、彼の方申し様聞き召し合わされ仰せ付けられるべく候。信長に於いては疎略存ずべからず候。此れ等之旨御披露有るべく候。恐々謹言。
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安宅氏は、淡路国の有力者を束ね、海上輸送も担う勢力であって、この離反は、三好方の衰退の大きな要因になったと考えられます。

12月頃、そんな中での摂津国中嶋城の奪還闘争は、将軍義昭方三好義継などが中心となって攻撃をしています。これは時期的には、甲斐守護武田信玄の京都を目指した西進が始まっており、将軍義昭がこれに呼応するための連絡路確保を行ったためと思われます。
 細川昭元は、三好義継と人質の交換を行い、誓詞も交わしていましたが、その和も破れて、再び交戦となっていました。

元亀2年12月の昭元の幕府・織田方への投降以来、その後も一族の苦境や上位権力である幕府の権力分裂などが起きて、多難ではありましたが、昭元は、その時の必要な事を実行し、分限を守って淡々と行動しているように見えます。
 この行動が、信長に信用され、信長の娘を娶り、加えて偏諱も得て、一族扱いを受けるまでになります。
 また、元亀3年3月以降、同族の典厩家である藤賢とも行動を共に(主に中嶋城の守備)させられますが、この藤賢は、永年に渡る管領争いを続けてきた宿敵でもある細川氏綱の家系であり、その人物とも違うこと無く折り合いをつけていた事は、この時代の非常に希な事であったかもしれません。勿論、一方の細川藤賢も、昭元をよく助け、行動したことも史料から伺えます。

しかし、そんな藤賢にも、将軍義昭から誘いがあったようです。甲斐武田の上洛に備えて、体制を強固にすべく、伝統的な幕府関係者を自らの味方になってもらうように、様々な手を講じていた事が判ります。12月10日付けで、将軍義昭が、側近の一色藤長へ内書を下しています。状況的に、この時の藤賢は昭元と行動している筈ですので、この調略は当然ながら昭元の耳にも入るでしょう。求心力を発揮する権威は、争うにあたっては必須条件です。
※福井県史(資料編2)P686

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前置き:
なおなお来春は朝倉義景礼に来るべく之由申し候。其れ以前に養生すべく用立てる事肝要候。将又来春右馬頭(細川藤賢)も相越し候やうに大坂(本願寺)へ申し調えるべく候。猶延広(不明な人物)申すべく候也。
本文:
諸労未だ験を得ず候由、一入心元無く候。急度養生加え、然るべく候。此の間之様、一向に油断候。分別せしむべく事肝要候。
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<元亀元年8月から元亀3年暮の京都周辺の戦況> =================
8/28 三好三人衆方三好為三など、幕府・織田信長方に投降
※改訂 信長公記(新人物往来社)P109、細川両家記(群書類従20:合戦部)P636、多聞院日記2(増補 続史料大成)P206、言継卿記4-P441など

9/1 三好三人衆方三木某など、幕府・織田信長方松永久秀に投降
※言継卿記4-P442

9/2 三好三人衆方の摂津国野田・福嶋陣所などで内紛発生
※言継卿記4-P442

9/10 幕府・織田信長勢、摂津国野田・福島城を攻撃開始
※改訂 信長公記(新人物往来社)P109、細川両家記(群書類従20:合戦部)P636

9/16 幕府・織田信長方、大坂本願寺と停戦
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P638

9/20 織田信長、三好為三へ摂津国豊島郡の知行について音信(朱印状)
※池田市史(史料編1)P28、織田信長文書の研究-上-P417など

9/23 幕府・織田信長勢、摂津国方面から撤退
※言継卿記4-P448、細川両家記(群書類従20:合戦部)P638、改訂 信長公記(新人物往来社)P112

12/27 反幕府・織田信長方本願寺光佐、細川六郎(昭元)に音信
※本願寺日記-下-P596


【元亀2年】----------------
1/16 三好三人衆方本願寺光佐、細川昭元へ音信
※本願寺日記-下-P596

2/17 某永雄(所属不明)、近江国永源郷宿中へ宛てた音信で摂津の情勢を伝える
※戦国遺文(佐々木六角氏編)P318

5/6 松永久秀衆同名金吾・竹内秀勝勢、三好三人衆方として大和国多聞山城を出陣
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P237、二條宴乗記 (ビブリア54号) P33

6/4 織田信長、幕府衆細川藤賢(典厩)の知行地について細川藤孝へ音信
※織田信長文書の研究-上-P458

6/16 織田信長、幕府衆明智光秀に三好為三の処遇について音信
※大阪編年史1-P406、織田信長文書の研究-上-P392、織田政権の基礎構造(織豊政権分析1)P63

7/31 将軍義昭、三好為三に所領安堵の御内書を下す
※大日本史料10-6-P685 ←狩野文書

8/28 摂津国白井河原合戦
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P256、言継卿記4-P523、耶蘇会士日本通信-下-P137など

12/17 細川昭元、幕府へ出仕
※兼見卿記:第一(続群書類従完成会)P24


【元亀3年】----------------
1/26 織田信長、石成友通へ音信(朱印状)
※織田信長文書の研究(補遺・索引)P127、戦国遺文(三好氏編3)P22

3/24 細川昭元、織田信長へ参侯

※改訂 信長公記(新人物往来社)P123、戦国史研究76号-P13

4/14 反幕府・織田信長方本願寺坊官下間正秀、近江国北部十ヶ寺惣衆中へ宛てて音信
※近江国古文書志1(東浅井郡編)P89、戦国遺文(三好氏編3)P30、本願寺教団史料(京都・滋賀編)P247


4/18 反幕府・織田信長方本願寺坊官下間正秀、近江国北部十ヶ寺衆惣中へ宛てて音信(返信)
※近江国古文書志1(東浅井郡編)P90、戦国遺文(三好氏編3)P31、本願寺教団史料(京都・滋賀編)P248

6/2 幕府方細川昭元、讃岐国人香西玄蕃助某へ音信
※瀬戸内海地域社会と織田権力P208

6/12 反幕府方三好三人衆派荒木村重、摂津国豊嶋郡春日社南郷目代今西宮内少輔へ音信
※豊中市史(史料編1)P125、伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P13

8/28 将軍義昭方本願寺勢、幕府方摂津国中嶋城を攻める
※中川史料集P14


9/2 将軍義昭方本願寺光佐、細川昭元に音信
※本願寺日記-下-P602

10/7 将軍義昭方三好為三、上御宿所へ宛てて音信
※箕面市史(史料編6)P438

10/13 将軍義昭方三好為三、聞咲(所属不明)へ音信
※大阪編年史1-P459、戦国遺文(三好氏編2)P272

11/2 織田信長衆木下秀吉など、京都大徳寺各中に宛てて石成友通について音信(折紙)
※大徳寺文書1(大日本古文書:家わけ17)P54、豊臣秀吉文書集1-P19

11/13 織田信長、将軍義昭側近曽我助乗へ安宅信康について音信
※織田信長文書の研究-上-P584

================= <年表おわり>


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