2019年2月26日火曜日

新撰組屯所となった京都壬生の八木家は、但馬国守護代八木氏の系譜!?

先日、梅を見に京都へ行ってきました。その日、壬生の新撰組関連の旧蹟も巡ってきました。昔、幕末に興味を持っていた頃、新撰組の史跡を巡っていましたが、京都の壬生寺周辺には行っていませんでした。大阪の生まれ育ちですので、隣県の京都はスグに行けますが、今回初めての訪問となりました。

新撰組について、色々な本を読んていましたが、司馬遼太郎の小説も読んでいました。「燃えよ剣」は、映画やテレビドラマにもなって、司馬氏の代表作でもありますね。

その舞台ともなった八木邸は、新撰組隊士が寝起きしていた頃と同じ場所、同じ造りの状態です。永年、実際に人も住んでいましたので、部分的に改修などはされていますが、ほぼ当時のままです。刀傷や文机も今に伝わっていて、実際にそれらを見ると大変感慨深かったです。




さて、この八木家なのですが、越前朝倉家の縁がある名家と伝わり、この壬生のあたりの取り仕切り役の家柄だったそうです。八木家の家紋も三盛木瓜紋です。

しかし、私が思いますに、室町末期の戦国時代、朝倉家の有力家臣に八木姓はありませんので、それは但馬守護家の山名氏の重臣八木氏の流れを持つのではないかと思いました。
 元亀元年(1570)の朝倉攻めの頃、朝倉氏は若狭国や丹後国、その西の山名氏とも関係を持っていたのではないかと調べていたのですが、この地域の資料に、それを裏付ける有力な証拠が無く、ちょっと調べの手が止まっていたのですが、この八木邸を訪問し思わぬ接点の可能性も見つかりました。但馬山名氏には、四人の有力者「近世の家老ともいうべく守護代(しゅごだい)」が居り、室町時代末期には、守護を凌ぐほどの勢いを持っていました。
 一方で、但馬・因幡・伯耆国を治めた山名氏は、没落しつつあったとはいえ、名家でしたので、豊臣秀吉のお伽衆となり、家は存続します。ですので、この流れで山名氏の有力家臣であった八木氏も京都に出てきたのではないかとも、今は想像しています。
 しかし、実は越前国守護となった朝倉氏の出莊が、実は「但馬国朝倉」であり、その時代からの繫がりである可能性もあります。また、朝倉氏は、平安時代から大武士団を形成し栄えていた日下部氏の流れをくむ氏族のひとつで、実は八木氏もこれに同じ系譜を持っています。
 確証はいまのところ無いのですが、何れにしても、何の縁も無いのであれば、当時であっても公言することは難しい筈です。単純に、知っている人の数が多いからです。ですので、何らかの接点がある事は、間違い無いと思います。

「京都鶴屋 鶴寿庵」の栞には、
当店は、御菓子司”京都鶴屋”と名乗ります。当家「八木家」は天正年間中(室町時代)に、京・洛西壬生村に居を構え当代まで十五代。幕末には新撰組発祥の地、壬生屯所でありました。  (後略)
とあります。

天正年間は20年間ありました。朝倉家が滅びたのは、天正元年です。本能寺の変で織田信長が斃れたのが天正10年。そのほとぼりが醒めた頃に八木家は京都に出てこられたのでしょう。

【参考】播磨屋 但馬八木氏