2024年9月23日月曜日

併せて見るべき関連性の高い史料(元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状)

令和6年(2024)8月14日頃に報道された、新出の歴史史料、織田信長から細川六郎(昭元)へ宛てられた朱印状(以下、元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状)について、その史料と併せて見るべき関連史料群をご紹介したいと思います。

これにより、元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状の理解を深める事になればと思います。前項目の「元亀元年当時の戦況」と重なる部分もありますが、視点が違いますので、併せてご覧いただければと思います。

また、前項目と同じく、この記事の本文下に関連する出来事の一覧を掲示します。

結果から言うと、元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状の意図するところの調略が成功していますので、この史料はその「指示書」という、証拠になろうかと思います。

さて、今回見る関連史料群は、調略が行われた事の実態を示しているとも言える集合体であり、細川六郎を支える人々や体制(構造)などの変化を見ることが出来るように思います。
 元亀元年8月、反幕府・織田信長方の中枢勢力である三好三人衆勢は、京都奪還を目論見、決戦を挑みます。摂津国野田・福島方面へ大挙上陸し、陣を展開します。
 しかし、両勢力が睨み合う最前線で、何と、中枢を担う人物が、幕府・織田信長方に投降します。

大坂石山本願寺推定地
8月28日、三好為三が投降し、その3日後の9月朔日、為三に近しい三木某なども投降しています。その翌日の2日には、三好三人衆方の陣中で喧嘩が起きています。

同月10日、幕府・織田勢は、三好三人衆勢に攻撃を開始し、次々と敵を圧倒していきますが、同12日、旗色を鮮明にした大坂本願寺勢が武力蜂起します。次いで、これに呼応した京都東側の同盟勢力(朝倉・浅井・六角氏)が、京都を目指して進みます。
※改訂 信長公記(新人物往来社)P111

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志賀御陣の事条:
9月16日越前国の朝倉義景・浅井備前守長政、30,000計り近江国坂本口へ相働くなり。森三左衛門尉、同国宇佐山の坂を下々(おりくだり)懸け向かい、坂本の町はづれにて取り合い、纔千(わずか)の内にて足軽合戦に少々首を取り、勝利を得る。(後略)
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近江坂本城跡
同月16日、本願寺方は幕府方と停戦しますが、再び交戦が行われています。多分これは、この時に近畿地域に接近した台風によるものと思われます。台風が過ぎ去ると、再び戦闘は始まっています。その間、幕府・織田方は京都防衛を優先する策を打ち出し、野田・福島の戦線から後退して、その本陣としていた摂津中嶋城も放棄。京都に戻ります。
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P638

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元亀元年条:
(前略)一、同16・17日(9月)に鉄砲止められ候て和睦の噯い候へ共、相調わず由申し候。
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そんな最中の9月20日、寝返ってきた三好三人衆勢の中心人物である三好為三の知行地の暫定方針を信長は伝えています。一方でまた、これは細川六郎へ信長より提示された「池田領内二万石」の概念に含まれる要素だったのかもしれません
※池田市史(史料編1)P28

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摂津国豊嶋郡の事、扶助せしめ候。追って糺明遂げ、申し談ずべく候。疎意有るべからず候。
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実際、将軍義昭政権は、知行地の配分どころでは無く、政権崩壊に繫がりかねない軍事的危機にあり、その対応に追われます。それは軍事面だけでは無く、徳政令(経済政策)や朝廷を動かした和睦対応などで、この年の暮れには、一時的な全面停戦を実現して、窮地を脱します。
 その頃の12月25日及び27日、三好三人衆方の同盟勢力である本願寺光佐が、それらの求心的人物である細川六郎に、歳末の挨拶を行っています。
※本願寺日記-下-P596

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27日付音信:
芳墨披閲本望此の事候。就中太刀一腰、馬一疋贈り給い候。悦びの至り為候。猶下間丹後法印頼総申し入れるべく候条、先ず省略せしめ候。穴賢。
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年が明けた元亀2年、その春から両陣の動きがあり、夏頃にはまた、双方で大規模な交戦が始まります。
 5月6日、幕府方に身を置いていた松永久秀が、旧誼の三好三人衆方へ寝返り、同時に三好義継も三好方へ復帰します。これは、三人衆方にとっては、同族分裂の終息を遂げた事となり、新たな求心力を得たカタチになります。
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P237、二條宴乗記(ビブリア54号)P33

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『多聞院日記』5月6日条:
(前略)一、奈良多聞山従り陣立て之在り。松永山城守久秀嫡子同苗金吾(久通)・竹内下総守秀勝立ち了ぬ。
『二條宴乗記』5月6日条:
天晴。陣立て、松永久通・竹内秀勝計り也。知れず者也。
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一方、幕府・織田方は、重要地域である摂津中嶋城を治めていた伝統的権威であった細川典厩家、藤賢の処遇について検討しています。6月4日、信長はその事を音信しています。
※織田信長文書の研究-上-P458

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細川右馬頭藤賢身上の儀に付き、御内書の旨、頂戴致し候。連々公儀に対し奉り疎略無く候。然る間信長於も等閑存ぜず候。此の節領知以下前々如く、相違無きの様に上意加えられるべくの事、肝要存じ候。此れ等の趣き御披露有るべく候。恐々謹言。
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また、同月16日、三好為三の処遇についても検討を行っており、これについて暫定的な方針として、7月31日付けで、将軍義昭が内書を下して、為三の希望する所領について認めています。しかし、最初の要求よりは規模を小さくして、より具体的な内容になっています。
※織田信長文書の研究-上-P392、大日本史料10-6-P685

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6月16日付:
三好為三摂津国東成郡榎並表へ執り出でに付きては、彼の本知の旨に任せ、榎並の事、為三申し付け候様にあり度く候。然者(摂津守護)伊丹兵庫頭(忠親)近所に、為三へ遣し候領知在りの条、相博(そうはく:交換)然るべく候。異儀なきの様に、兵庫頭忠親へ了簡される事肝要候。
7月31日付:
舎兄三好下野守跡職並びに分に自り当知行事、織田信長執り申し旨に任せ、存知すべく事肝要候。猶明智十兵衛尉光秀申すべく候也。
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摂津白井河原古戦場跡

8月28日、摂津国島下郡宿河原付近で大合戦(いわゆる白井河原合戦)があり、これに三好三人衆方池田勢が勝利しました。幕府方中心人物の一人であった和田惟政を始め、主要人物は戦死。茨木城など付近一帯は悉く池田勢が落として勢力下に収めました。これにより、山城国勝龍寺城付近が最前線となる状況にまで、幕府方は軍事的緊張を強いられます。
※言継卿記4-P523など

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『言継卿記』8月28日条:
戌午、天晴、時正、(前略)摂津国■郡山於軍之有り。和田伊賀守惟政討死云々。武家辺以ての外騒動云々。茨木兄弟以下300人討ち死に。池田衆数多打ち死に云々。三淵大和守藤英夜半■■城入り云々。
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摂津池田勢は、この合戦により、歴代の最大版図を得、同時に、三好三人衆方は池田勢の奮戦で、京都奪還が現実味を帯びる状況に好転します。

しかし、そんな中で、その年も暮れかかる12月17日、細川六郎(昭元)は配下を伴って、幕府・織田方に投降します。
※兼見卿記:第一(続群書類従完成会)P24

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十七日条:
細川六郎(昭元)出頭也。見物了ぬ。騎馬薬師(寺)・三宅・香西三騎也。馬廻り打籠也。七百計り之在り。祗侯の砌、官途右京大夫、又名乗り御字遣わされ、秋(昭)元云々。
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元亀3年が明けて、三好三人衆の中心人物である石成友通も幕府・織田方に投降してきます。細川昭元(六郎)が投降したことで、その周辺の人物が次々と連なって、付いてきました。織田信長が、石成主税助友通へ音信(朱印状)しています。
※織田信長文書の研究(補遺・索引)P127

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領中方目録:
一、山城国の内普賢寺・皆一職、一、同山田郷(現京都府相楽郡精華町内)皆一職、一、同上々野(現東寺領荘園のひとつ)三分の一、一、同富野郷御料所方・小笠原分除き之、一、同内野代官職、一、同壬生縄内、一、山城郡司、以上、右御下知の旨に任せ、領知全う相違有るべからずの状、件の如し。
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軍事的には、三好三人衆方が有利な状況でしたが、昭元を始めとする、この不調和は政治的な内部事情があっての事と考えられます。後の項目で、これについて示しますが、三好三人衆方は、いくつかの求心的要素(人物)をかかえており、その時々で、その重要度に偏りを見せたために、その扱いへの不満が表出したのではないかと思われます。

さて、幕府・織田方に迎えられた管領格の細川昭元(六郎:この時は右京大夫)は、3月24日に配下を引き連れて、信長に参候して挨拶を行います。
※改訂 信長公記(新人物往来社)P123

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むしゃの小路御普請の事条:
(前略)3月24日、(中略)細川六郎(昭元)殿・石成主税助始めて、今度、信長公へ御礼仰せられ、御在洛候なり。今般大坂門跡より万里江山の一軸、並びに、白天目、信長公へ進上なり。
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この後、幕府方として、軍事的には不安定ではあったものの、伝統的な細川典厩家の城である中嶋城に、元の城主であった藤賢に加えて細川昭元も入れ、守らせたようです。
 しかし、三好三人衆方は、ここを再び攻撃します。中嶋城の細川藤賢・昭元は持ちこたえられずに和睦します。これについて、いくつかの記述や解説では、昭元が再び三好方になったとしているのですが、その後も、昭元と藤賢は、明らかに幕府方の立場です。

そんな中、この5月頃には、将軍義昭と織田信長の不和が表面化、両派が分かれ始めます。しかし、完全には乖離しておらず、付かず離れずの行動から心理的には葛藤があったと思われますが、それらは史料上から読み取るには複雑です。
 史料があっても、その人物の立場が把握できなければ、書いてある意味が全て実態の真逆の意味になりますので、人物の所属把握は非常に重要です。難しいのですが、行動の結果からすれば、それらの誤差は読み取る事ができるかもしれません。

6月2日付けの史料は、欠年ではあるものの元亀3年の状況を示していると考えられ、同じく欠年6月12日付の荒木村重の音信は、関連性があるものと考えられます。以下は、6月2日付け、幕府方細川昭元が、讃岐国人香西玄蕃助某へ音信したもの。
※瀬戸内海地域社会と織田権力P208

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昨日者見廻り悦び入り候。仍て摂津国池田の人数、才覚を以て相越すべく旨、談合相申し由、一段祝着の至り候。明日上嶋(中嶋?豊嶋?)に至り、敵相動き由の条、尚以て馳走肝要候。恐々謹言。
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これらの史料から窺える状況からすると、摂津池田衆も三好三人衆方から少し距離を置き始めていたようです。昭元や石成友通が三好三人衆方から離れた事で、微妙な求心力の衰えが影響を及ぼしていたのかもしれません。

つい先日、令和6年9月6日に報道されました、熊本大学(永青文庫)による、織田信長から細川藤孝への書簡(元亀3年8月15日と推定)では、山城・摂津・河内国方面の有力国人を味方に引き入れるよう信長が依頼しています。
 この時点では決定的に将軍義昭と織田信長は決別しているようで、両者は、体制固めに動いています。
※熊本大学・永青文庫記者発表資料など
https://www.kumamoto-u.ac.jp/daigakujouhou/kouhou/pressrelease/2024-file-1/release240906.pdf

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八朔之祝儀為、(猶具一ト二ニ申し渉り候)委細承り候。殊に帷子ニ送り給わり候。懇切祝着之至り候。当年京衆何れも無音之処、初春も太刀・馬之給わり候間、例年表され之条、大慶候。仍って鹿毛之馬之進め候。乗心形の如く候歟。方々御辛労之由、併せて此の節候。南方辺之衆誰々寄らず、忠節抽んずべくに付きては、召し出され然るべく候。馳走簡要候。恐々謹言。
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この流れで、8月28日の事とする中嶋城をめぐる合戦(中川史料集:内容からしてこれは元亀3年の誤りであること確実)では、摂津池田勢が中嶋城の支援を行っていたらしい様子が浮かんできます。
※中川史料集P14

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太祖清秀公の条の元亀3年条:
8月28日夜、摂津国中嶋細川右馬頭藤賢が城中に出火あり。城の内外大いに騒動しければ、石山本願寺の砦より人数出して、中嶋の城を攻める。藤賢兼ねて将軍に昵近して、御所に相詰めける故、城中無勢にして、防戦に術を失い、城兵四方に散乱す。太祖(中川清秀)その頃、新庄に御在城故、早速御出馬ありしに、藤賢勢いは落ち散りて、本願寺の兵、早や城中に入れ替わりたるを、御手勢を以て即時に城を取り返さる。此の時石火矢を打ちけるに筒損じ中川淵兵衛重正(重継の子)面を焼きて、その痛み甚だしく程なく死す。太祖も側らにおはせしが御顔を損ぜらる。荒木村重も乗り付け御武勇を感じ、中嶋の城を預け参らせ、直ちに御入城有って藤賢が一跡御知行となる。
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そして、これを裏付ける様な、元亀3年9月2日付、本願寺光佐による細川昭元への音信内容は、実際に争うような事があり、何らかの交渉の実態を示していると考えられます。
※本願寺日記-下-P602

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芳墨披覧遂げ候。今度御城中於て不慮之次第、旨趣き具さに承り候。其れに就き軈て誓詞以て預け示し候。相応之儀如在有るべからず候。猶坊官下間頼廉申し入れるべく候。
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一方この頃、背反常無い三好為三は、将軍義昭派三好三人衆方に復帰したらしく、欠年10月13日付けで、聞咲なる人物に音信し、三人衆方の動向を伝える連絡を取っています。また為三は、同月7日付けで、将軍義昭からの内書を根拠にしたと思われる領知を獲得していたらしく、「代官之事」として、刀根分・茨木分を書き出しています。三好為三が、上御宿所(意味は不明)に宛てて音信しています。
※箕面市史(史料編6)P438

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代官之事:
一、刀根分、一、茨木分、以上。
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復元された安宅船
欠年11月13日付けの信長による将軍義昭側近曽我助乗への音信で、これも三好三人衆勢力の中心人物である安宅信康の扱いを検討しています。幕府・織田方へ投降する動きがあったようです。
※織田信長文書の研究-上-P584

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淡路国人安宅神太郎(信康)事仰せ聞かせられ候。尤も以て然るべく存じ候。去春以来之儀、其の聞こえ無く存ずる之由、一旦者余儀無く候。但し彼の雑掌共申し候趣き、一向難題之模様候し、其の分に至りては、果たして入眼不実に存じ候ける、万端を抛ち、此の節忠節抽んずべく之由、寔に神妙之至りに候。然る間領知方の儀、彼の方申し様聞き召し合わされ仰せ付けられるべく候。信長に於いては疎略存ずべからず候。此れ等之旨御披露有るべく候。恐々謹言。
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安宅氏は、淡路国の有力者を束ね、海上輸送も担う勢力であって、この離反は、三好方の衰退の大きな要因になったと考えられます。

12月頃、そんな中での摂津国中嶋城の奪還闘争は、将軍義昭方三好義継などが中心となって攻撃をしています。これは時期的には、甲斐守護武田信玄の京都を目指した西進が始まっており、将軍義昭がこれに呼応するための連絡路確保を行ったためと思われます。
 細川昭元は、三好義継と人質の交換を行い、誓詞も交わしていましたが、その和も破れて、再び交戦となっていました。

元亀2年12月の昭元の幕府・織田方への投降以来、その後も一族の苦境や上位権力である幕府の権力分裂などが起きて、多難ではありましたが、昭元は、その時の必要な事を実行し、分限を守って淡々と行動しているように見えます。
 この行動が、信長に信用され、信長の娘を娶り、加えて偏諱も得て、一族扱いを受けるまでになります。
 また、元亀3年3月以降、同族の典厩家である藤賢とも行動を共に(主に中嶋城の守備)させられますが、この藤賢は、永年に渡る管領争いを続けてきた宿敵でもある細川氏綱の家系であり、その人物とも違うこと無く折り合いをつけていた事は、この時代の非常に希な事であったかもしれません。勿論、一方の細川藤賢も、昭元をよく助け、行動したことも史料から伺えます。

しかし、そんな藤賢にも、将軍義昭から誘いがあったようです。甲斐武田の上洛に備えて、体制を強固にすべく、伝統的な幕府関係者を自らの味方になってもらうように、様々な手を講じていた事が判ります。12月10日付けで、将軍義昭が、側近の一色藤長へ内書を下しています。状況的に、この時の藤賢は昭元と行動している筈ですので、この調略は当然ながら昭元の耳にも入るでしょう。求心力を発揮する権威は、争うにあたっては必須条件です。
※福井県史(資料編2)P686

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前置き:
なおなお来春は朝倉義景礼に来るべく之由申し候。其れ以前に養生すべく用立てる事肝要候。将又来春右馬頭(細川藤賢)も相越し候やうに大坂(本願寺)へ申し調えるべく候。猶延広(不明な人物)申すべく候也。
本文:
諸労未だ験を得ず候由、一入心元無く候。急度養生加え、然るべく候。此の間之様、一向に油断候。分別せしむべく事肝要候。
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<元亀元年8月から元亀3年暮の京都周辺の戦況> =================
8/28 三好三人衆方三好為三など、幕府・織田信長方に投降
※改訂 信長公記(新人物往来社)P109、細川両家記(群書類従20:合戦部)P636、多聞院日記2(増補 続史料大成)P206、言継卿記4-P441など

9/1 三好三人衆方三木某など、幕府・織田信長方松永久秀に投降
※言継卿記4-P442

9/2 三好三人衆方の摂津国野田・福嶋陣所などで内紛発生
※言継卿記4-P442

9/10 幕府・織田信長勢、摂津国野田・福島城を攻撃開始
※改訂 信長公記(新人物往来社)P109、細川両家記(群書類従20:合戦部)P636

9/16 幕府・織田信長方、大坂本願寺と停戦
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P638

9/20 織田信長、三好為三へ摂津国豊島郡の知行について音信(朱印状)
※池田市史(史料編1)P28、織田信長文書の研究-上-P417など

9/23 幕府・織田信長勢、摂津国方面から撤退
※言継卿記4-P448、細川両家記(群書類従20:合戦部)P638、改訂 信長公記(新人物往来社)P112

12/27 反幕府・織田信長方本願寺光佐、細川六郎(昭元)に音信
※本願寺日記-下-P596


【元亀2年】----------------
1/16 三好三人衆方本願寺光佐、細川昭元へ音信
※本願寺日記-下-P596

2/17 某永雄(所属不明)、近江国永源郷宿中へ宛てた音信で摂津の情勢を伝える
※戦国遺文(佐々木六角氏編)P318

5/6 松永久秀衆同名金吾・竹内秀勝勢、三好三人衆方として大和国多聞山城を出陣
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P237、二條宴乗記 (ビブリア54号) P33

6/4 織田信長、幕府衆細川藤賢(典厩)の知行地について細川藤孝へ音信
※織田信長文書の研究-上-P458

6/16 織田信長、幕府衆明智光秀に三好為三の処遇について音信
※大阪編年史1-P406、織田信長文書の研究-上-P392、織田政権の基礎構造(織豊政権分析1)P63

7/31 将軍義昭、三好為三に所領安堵の御内書を下す
※大日本史料10-6-P685 ←狩野文書

8/28 摂津国白井河原合戦
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P256、言継卿記4-P523、耶蘇会士日本通信-下-P137など

12/17 細川昭元、幕府へ出仕
※兼見卿記:第一(続群書類従完成会)P24


【元亀3年】----------------
1/26 織田信長、石成友通へ音信(朱印状)
※織田信長文書の研究(補遺・索引)P127、戦国遺文(三好氏編3)P22

3/24 細川昭元、織田信長へ参侯

※改訂 信長公記(新人物往来社)P123、戦国史研究76号-P13

4/14 反幕府・織田信長方本願寺坊官下間正秀、近江国北部十ヶ寺惣衆中へ宛てて音信
※近江国古文書志1(東浅井郡編)P89、戦国遺文(三好氏編3)P30、本願寺教団史料(京都・滋賀編)P247


4/18 反幕府・織田信長方本願寺坊官下間正秀、近江国北部十ヶ寺衆惣中へ宛てて音信(返信)
※近江国古文書志1(東浅井郡編)P90、戦国遺文(三好氏編3)P31、本願寺教団史料(京都・滋賀編)P248

6/2 幕府方細川昭元、讃岐国人香西玄蕃助某へ音信
※瀬戸内海地域社会と織田権力P208

6/12 反幕府方三好三人衆派荒木村重、摂津国豊嶋郡春日社南郷目代今西宮内少輔へ音信
※豊中市史(史料編1)P125、伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P13

8/28 将軍義昭方本願寺勢、幕府方摂津国中嶋城を攻める
※中川史料集P14


9/2 将軍義昭方本願寺光佐、細川昭元に音信
※本願寺日記-下-P602

10/7 将軍義昭方三好為三、上御宿所へ宛てて音信
※箕面市史(史料編6)P438

10/13 将軍義昭方三好為三、聞咲(所属不明)へ音信
※大阪編年史1-P459、戦国遺文(三好氏編2)P272

11/2 織田信長衆木下秀吉など、京都大徳寺各中に宛てて石成友通について音信(折紙)
※大徳寺文書1(大日本古文書:家わけ17)P54、豊臣秀吉文書集1-P19

11/13 織田信長、将軍義昭側近曽我助乗へ安宅信康について音信
※織田信長文書の研究-上-P584

================= <年表おわり>


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2024年9月14日土曜日

新出の「織田信長から細川六郎(昭元)へ宛てられた朱印状」が発行された、元亀元年当時の戦況

元亀元年8月付で発行された、織田信長から細川六郎(昭元)宛の新発見史料が、どんな状況で作成されたのかを見てみます。元亀元年は、西暦にすると1570年ですが、同年4月23日に改元があり、「元亀」と改まりました。
 また、この改元は、有名な越前朝倉・近江浅井氏攻めの最中に行われ、また計らずも元亀年間は激しい近畿地域争乱の幕開けとなりました。

この記事(項目)では、その年の6月以降から歳末にかけ、順に追ってみます。この本文以下に、関連する出来事の一覧を掲示します。

越前国一乗谷朝倉氏遺跡
幕府・織田信長方は、四国の三好氏本拠を攻める計画が当初にありましたが、急遽、越前朝倉氏を攻める事となりました。

若干、この理由を考えてみますと、この前年、永禄12年に但馬・因幡国の山名祐豊を幕府方が攻め、生野銀山を手に入れようとしましたが、この達成が難航していました。朝倉氏の発祥は但馬国にあるため、日本海側の勢力が連携していたものと思われます。織田信長は、この連携を断ち切るために朝倉攻めを先に実行した可能性があります。
 この準備として、永禄12年に連歌師里村紹巴を丹後国に入れて、内情偵察を行っています。7月4日に紹巴は、同国天橋立を訪ねています。紹巴は堺商人とも親密な関係にあり、これは、単なる文化活動ではないと考えられます。

話しを元に戻します。

御存知の通り、越前朝倉氏攻めの過程で織田信長の縁戚であった近江国人浅井氏の離反が確定した事から、これへの根本対応を行う事となりました。
 私はそれが、いわゆる「姉川合戦」だと考えています。その6月以降からの京都とその周辺地域を中心に戦況を見たいと思います。

既述のように、元々幕府・織田方は、四国阿波の三好氏本拠を攻める計画でしたので、堺商人などを通じて、状況把握や監視を行っていました。この音信は、その一例です。
 堺商人今井(納屋)宗久が、将軍義昭側近上野中務大輔秀政・同一色式部少輔藤長・玄浄院・金山駿河守信貞(三好義継重臣)・河内国高屋・和田伊賀守惟政・朝山日乗上人・明智十兵衛尉光秀・野村越中守・御局様・木下藤吉郎秀吉・森三郎左衛門尉可成・松永山城守久秀・畠山尾張守高政・佐久間右得門尉信盛・柴田修理亮勝家・中川八郎右衛門尉重政・蜂屋兵庫頭頼隆・丹羽五郎左衛門尉長秀・金森長近・河尻与兵衛尉秀隆・武井夕庵・一角好斎・御長・雲松軒・布施式部丞某へ各々へ宛てたものです。
※堺市史5(続編)P927

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急度啓上せしめ候。淡路国へ早舟押し申し候処、一昨日辰刻(午前7時〜9時)、阿波国衆不慮雑説候て、引き退かれ候。然る処、安宅神太郎信康手の衆、相慕われ候処、阿波国衆手負い死人200計り之在りの由候。敵方時刻相見られ申し候。恐々謹言。
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近江国姉川古戦場
繰り返しになりますが、その上で、越前朝倉氏攻めに変更し、苦境に陥るのですが、しかし同時に、この事で潜んでいた将軍義昭政権にとっての悪材料が一気に露顕(永禄13年正月に諸大名へ幕府から発した触状を元にした敵味方の確認)します。戦略に長けた織田信長は、事前にこの連合包囲を察知していたようです。
 そのため、京都の西側から三好三人衆勢が、朝倉・浅井勢と呼応した動きをすると、信長は考えていたようです。その対策として、拠点整備を行っています。6月9日付けで、幕府方細川右馬頭(典厩)藤賢が、某(幕府関係者)へ音信しています。
※新修 茨木市史(通史2)P28:狩野文書

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今度近江国於いて大利を得られ、六角承禎父子近江国伊賀に至り退かれ候由、慥かに承り珍重候。尤も罷り上りと雖も申し上げるべく候。普請毎日申し付け候間、取り乱し自由に非ず候。形の如く(慣例に従って)申し付け候者罷り上り、毎事上意得るべく候。先日申す如く伊丹兵庫頭忠親は摂津国東成郡榎並へ人夫3日申し付け、普請合力池田筑後守(勝正は、一昨日1日摂津国欠郡へ人夫2〜300人合力為馳走仕り候。並びに上意堅く仰せ出され候故と忝く存じ候。然るべく様御取り成し頼み入り候。近日者、牢人雑談相静め申し候。此の分に候者、都鄙大慶せしめと存じ候。近江国へは、織田信長定めて罷り出られるべく候。然ら者御動座為るべく候哉、承り度く存じ候。猶々伊丹・池田へは、私城(中嶋城)の普請合力仕り候由神妙に思召され候由、仰せ出され様に御取り成し頼み入り存じ候。旁様体承り度く候間、先ず以て飛脚申し候。何れも図らず罷り上り申すべく候。かしく。
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一方この時、堺に牢人が集まり、不穏な動きが始まっていました。これは随時に、信長にも情報が入っていたと思われます。
 しかしながら、細川藤賢の音信中にもあるように、朝倉氏、特に浅井氏に決戦を挑むべく準備(姉川合戦)を進めており、これについて、計画では将軍義昭勢の後詰めを繰り出す予定でした。その中心勢力が、摂津守護池田勝正でした。
 ところが、幕府・織田方にとって深刻な想定外だったのは、この摂津池田家中で内紛が起きて、敵の三好三人衆方になってしまった事でした。
 姉川合戦で幕府・織田方が苦戦したのは、将軍義昭が自ら出陣(移座)し、後詰めに出る事ができなかったのが原因です。加えて、摂津国内最大の勢力であり、守護職であった当主池田勝正とその家が分裂し、その主勢力が三好三人衆方になった事で、京都を西側から脅かす緊張感が高まりました。

摂津池田城跡公園
6月18日に池田城内で内紛が起き、当主池田勝正は池田城を出ます。その後、諸方の情報収集を行って、同月26日、河内国守護三好義継を伴って将軍義昭に状況報告を行います。
 これを受けて幕府は、翌27日、近江国出陣を断念し、各所に通達を出します。そして翌28日の姉川合戦を迎えています。
 将軍義昭は、ギリギリまで希望を繋いでいたようですが、無理強いはせずに中止し、他へ資力を振り分ける判断になったようです。

この状況で、姉川合戦に負ければ、将軍義昭政権は総崩れとなります。だから、必ず勝たなければならなかったし、結果として勝ちました。辛勝でしたが、敵を怯ませる事には成功した訳です。
 この合戦後、直ぐに付(相)城を構築して、朝倉・浅井方の動きを封じ、今度は軍勢を西に向け集中させます。
 7月4日、信長は入京。東西主戦場の真中に居て、双方の動きに目を配ります。信長は、必要な所に次々と移動していたようで、翌月23日に再び京都へ入っています。

摂津国野田城跡推定地
この頃、京都西側の三好勢に対する目途が立ったようで、8月25日に信長は摂津国へ向けて、京都を出ています。摂津国野田・福島方面へ大挙上陸していた三好三人衆勢に対するためです。
 この時も将軍義昭の出陣を計画し、幕府の公的な戦いである事を誇示しました。その効果もあってか、この征討は有利に、比較的順調に進んでいました。

この時の幕府・織田勢の本拠は、摂津国欠郡中嶋で、そこには中嶋城がありました。ここは伝統的に細川典厩家の城で、この時には細川右馬頭藤賢が守っていました。8月1日には合戦があり、藤賢は摂津国人野辺弥次郎なる人物へ感状を下しています。
※新修 茨木市史(通史2)P29

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去る朔日(8月1日)大仁(現大阪市北区大淀付近)堤に於いて、多勢に無勢を以て一戦に及び、前代未聞比類無き働き神妙に候。弥忠節肝要に候。謹言。
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将軍義昭の出陣により、この中嶋城が本陣となって、その他の勢力は天満森などに陣を構えて三好三人衆方に対します。信長は当初、天王寺の陣へ入っています。
 三好三人衆勢は、その西側の野田・福島方面へ陣を取っていました。8,000程の軍勢だったようです。
 8月には、その周辺、尼崎や原田、河内国内で交戦が行われており、18日には本願寺勢も中嶋城周辺を焼き討つなどしていました。

摂津国中嶋(堀)城跡
9月3日、将軍義昭は中嶋城に入り、幕府・織田方が三好三人衆方へ総攻撃を開始し、同月10日には、三好三人衆方の本陣である野田・福島城へ攻撃を始めています。
 そして12日、同城へ総攻撃を始めたところで、その横(南側から)を衝くように本願寺宗が幕府・織田方に対して武力蜂起を行い、戦況は逆転してしまいます。
 そして、これに呼応して、近江国方面の朝倉・浅井勢も京都へ迫る動きをしています。この事態を収拾するため、幕府・織田勢は野田・福島城の攻撃を中止して、京都防衛のために撤退します。各勢力も本拠地に戻って、防御態勢を取り、同時に次の手のための再編成を行いました。
 信長は、この窮地を挽回するために、軍事力だけでなく、様々な手を講じて、時間を稼ぐための休戦に持ち込もうと動きます。京都やその周辺で徳政令を発布、朝廷を動かして停戦を図ります。
 三好三人衆など、反幕府・織田勢力は、圧倒的な武力を持ちながら、驚くことに、次々とこの和睦に応じて、この年の暮れには全面的な休戦を実現しています。

今回、新たに発見された、8月付の信長による管領格の細川六郎(昭元)へ宛てた朱印状ですが、そのような戦況の中で企図された六郎の調略です。
 戦況だけを見ていると、反幕府・織田方の勢力が非常に巨大に感じますが、この流れの中に「不安の種」も見受けられます。
 三好三人衆方の中心人物である三好為三などが、幕府方に投降します。これから両軍がぶつかろうとする直前です。
※改訂 信長公記(新人物往来社)P109、細川両家記(群書類従20:合戦部)P636、多聞院日記2(増補 続史料大成)P206、言継卿記4-P441など

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『信長公記』野田福島御陣の事条
(前略)8月28日夜に、三好為三・香西、摂津国天王寺へ参らせられ候。
『細川両家記』元亀元年条
(前略)一、同8月30日に三好下野守の舎弟為三入道は信長へ降参して野田より出、御所様へ出仕申され候なり。
『言継卿記』8月29日条
明日武家摂津国へ御動座云々。奉公衆・公家衆、御迎え為御上洛、御成り次第責めるべくの士云々。三好為三(300計り)降参の由風聞。
『多聞院日記』9月1日条
(前略)三好為三・香西以下帰参云々。実否如何。(後略)
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続いて、月が変わった朔日、これも三好三人衆家中の歴々衆である三木某などが、幕府方の松永久秀に投降します。
※言継卿記4-P442

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『言継卿記』9月3日条
(前略)敵方自り三木■■■、麦井勘衛門両人、一昨日(9月1日)松永山城守久秀手へ出云々。
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更に、同月3日、将軍義昭が中嶋城に入った前の日、野田・福島陣所などで大きな喧嘩が発生しています。
※言継卿記4-P442

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『言継卿記』9月2日条
武家明日中嶋の細川右馬頭城へ移座され云々。敵方香西、三宅雑談故、各為生害せしめ云々。(後略)
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この事態収拾を図る目的なのか、もう一人の三好三人衆家中の中心人物である三好長逸が、摂津国池田城から、野田・福島城へ入ります。
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P636

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『細川両家記』元亀元年条
(前略)一、同9月3日に三好日向守長逸、同息兵庫介も摂津国池田より出、同国福嶋へ入城由候也。
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信長は、このような敵の内情を知っており、結束が固くない事の情報を得ていたのだろうと思われます。

この時から遡る事21年前。この中嶋城のすぐ東にある江口での大合戦(天文17年の江口合戦)も、敵方の陣中で喧嘩が始まった乱れを衝いて攻め込み、三好長慶が勝利を得た事と、状況の共通性があります。
 人間の結束の乱れを戦時・平時を問わず、冷静に見るという、別次元の格の違いが、そもそも存在していたのかもしれません。実際に、時系列で戦況を見ても、敵方の喧嘩の情報を知ったのか、そのあたりで幕府・織田勢が攻撃を始めていると見えなくもありません。

一方で、別の見方をすれば、全てが計画されていた訳ではないと思いますが、もしかすると、信長はこの窮地を逆手にとって、三好三人衆勢を本拠地から誘い出して、それを叩くという事も考えたかもしれません。攻め込むよりも、負のリスクを軽減でき、既知の地の利を活かした戦術を駆使できます。

元亀元年の夏以降、織田信長から細川六郎(昭元)宛の新発見史料は、このような戦況で発行されました。


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<元亀元年6月以降の京都周辺の戦況> =================

6/1 池田勝正、守護役として摂津国中嶋城の普請を行う
※新修 茨木市史(通史2)P28、戦国摂津の下剋上(高山右近と中川清秀)P153 ※狩野文書

6/2 反幕府方三好三人衆加担の牢人衆、堺へ集まる
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P189

6/17 将軍義昭、近江国人佐々木(田中)下野守へ御内書を下す
※大日本史料10-4-P526、近江国古文書志1(東浅井郡誌編)P524

6/18 摂津池田城内で内訌が起こる
※池田市史(史料編1)P81、言継卿記4-P424、多聞院日記2(増補 続史料大成)P194、群書類従20(合戦部:細川両家記)P634

6/18 幕府衆細川藤孝など、畿内御家人中へ宛てて音信
※大日本史料10-4-P525(武徳編年集成)、朝倉義景のすべてP66

6/19 摂津国池田衆、三好三人衆方へ使者を派遣
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P634、戦国期三好政権の研究P263、大日本史料10-4-P522

6/19 将軍義昭、摂津国池田家内訌の深刻化で再び近江国出陣を延期
※言継卿記4-P424、戦国摂津の下剋上(高山右近と中川清秀)

6/20 幕府・織田信長勢、京都から摂津国山崎方面などへ出陣
※言継卿記4-P424

6/26 反幕府方三好三人衆内三好長逸・石成友通など、摂津国池田へ入城との風聞が立つ
※言継卿記4-P425

6/26 摂津守護池田筑後守勝正、将軍義昭に面会
※言継卿記4-P425、戦国期歴代細川氏の研究P219

6/27 将軍義昭、近江国出陣を延期(中止)
※言継卿記4-P425

6/28 近江国姉川合戦

6/28 摂津守護和田惟政、小曽根春日社に宛てて禁制を下す (直状形式)
※豊中市史(史料編1)P121、大日本史料10-4-P554

6/28 反幕府方三好三人衆勢、摂津国吹田へ上陸
※言継卿記4-P426

6/29 幕府奉行衆勢、摂津国に出陣
※言継卿記4-P426

7 反幕府方池田民部丞、山城国大山崎惣中へ禁制を下す(直状形式)
※島本町史(史料編)P443

7 幕府方摂津守護格池田勝正派摂津国河辺郡荒蒔城主上月範政、三好三人衆方池田衆・荒木村重などに攻められる
※池田町史P135

7/4 信長入京
※足利義昭(人物叢書)P167、言継卿記4-P427

7/6 幕府・織田信長勢、摂津国吹田で交戦
※言継卿記4-P428

7/12 摂津守護伊丹忠親、摂津国尼崎本興寺に禁制を下す
※伊丹資料叢書2(伊丹中世史料)P115

7/21 反幕府方三好三人衆勢、摂津国野田・福島方面へ上陸
※言継卿記4-P432、足利義昭(人物叢書)P168

7/26 幕府方松永久秀、河内国へ出陣
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P200

7/27 反幕府方三好三人衆内三好長逸、摂津国野田・福島方面へ入る
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P634

7/29 反幕府方三好三人衆内安宅信康勢、後巻きとして摂津国兵庫に上陸
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P634

8/2 反幕府方三好三人衆内三好為三など、禁制発給につき山城国大山崎惣中へ宛てて音信
※島本町史(史料編)P435、戦国遺文(三好氏編2)P261

8/2 将軍義昭、河内南半国守護畠山昭高に摂津国内等の守備を命ずる
※泉大津市史2(史料編1)P435

8/3 幕府衆細川藤賢(典厩)、摂津国人野部(辺)弥次郎へ音信
※新修 茨木市史(通史2)P29

8/5 反幕府方三好三人衆勢、河内国若江城の西方へ築城
※ビブリア52号P154(二條宴乗記)

8/9 反幕府方三好三人衆内安宅信康勢、摂津国尼崎に移陣
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P635

8/13 摂津守護伊丹忠親、反幕府方三好三人衆派池田勢等と摂津国猪名寺附近で交戦
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P634

8/17 反幕府方三好三人衆勢、河内国古橋城を落とす
※言継卿記4-P439、多聞院日記2(増補 続史料大成)P204

8/23 織田信長、入京
※言継卿記4-P440、ビブリア53号P155(二條宴乗記)

8/23 幕府・織田信長勢、摂津国へ出陣
※言継卿記4-P440

8/25 織田信長、摂津国へ出陣
※言継卿記4-P440

8/25 摂津国豊島郡原田城が焼ける
※言継卿記4-P440、宝塚市史2-P191、三田市史-下-P241

8/26 幕府・織田信長勢、摂津国野田・福島城を包囲
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P635、多聞院日記2(増補 続史料大成)P205、言継卿記4-P440

8/18 反幕府方本願寺勢、摂津国中嶋城周辺を打ち廻る
※近江国古文書志1(東浅井郡編)P519、(新)大阪市史5(史料編)P178

8/27 摂津守護池田勝正、摂津国欠郡天満森へ着陣
※ビブリア53号P155(二條宴乗記)、言継卿記4-P440

8/28 反幕府方三好三人衆内三好為三など、幕府・織田信長方に投降
※改訂 信長公記(新人物往来社)P109、細川両家記(群書類従20:合戦部)P636、多聞院日記2(増補 続史料大成)P206、言継卿記4-P441

8/30 将軍義昭、2,000余の軍勢で摂津国へ出陣
※言継卿記4-P441、多聞院日記2(増補 続史料大成)P206

9 反幕府方池田民部丞某、摂津国多田院に禁制を下す (直状形式)
※川西市史(資料編1)P456

9/1 反幕府方三好三人衆方三木某など、幕府・織田信長方松永久秀に投降
※言継卿記4-P442

9/2 反幕府方三好三人衆勢の摂津国野田・福嶋陣所で内紛発生
※言継卿記4-P442

9/2 将軍義昭、山城国西岡の勝龍寺城を出る
※言継卿記4-P442

9/3 将軍義昭、摂津国欠郡中嶋へ着陣
※ビブリア52号P157+62号P66(二條宴乗記)、細川両家記(群書類従20:合戦部)P636、改訂 信長公記(新人物往来社)P109、言継卿記4-P442

9/3 反幕府方三好三人衆内三好長逸など、摂津池田城を出て摂津野田・福島城へ入る
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P636

9/4 幕府・織田信長方紀伊国根来寺衆・播磨国人別所右得門尉など、摂津国天王寺方面に陣を進める
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P636

9/8 幕府・織田信長勢、摂津国楼の岸・川口砦へ新手を配置
※改訂 信長公記(新人物往来社)P109

9/8 河内北半国守護三好義継・松永久秀、摂津国海老江砦を落とす
※言継卿記4-P443

9/8 摂津守護伊丹忠親・和田惟政勢、反幕府方三好三人衆派池田領内の市場などを打ち廻る
※言継卿記4-P443

9/9 織田信長、摂津国天満森に陣を進める
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P636、言継卿記4-P443

9/10 幕府・織田信長勢、摂津国野田・福島城を攻撃開始
※改訂 信長公記(新人物往来社)P109、細川両家記(群書類従20:合戦部)P636

9/11 幕府・織田信長勢、摂津国中嶋の内にある畠中城を落とす
※言継卿記4-P445

9/12 将軍義昭、摂津国中嶋の内の浦江に入る
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P637

9/12 幕府・織田信長勢、摂津国野田・福島城の総攻撃を行う
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P637、改訂 信長公記(新人物往来社)P109

9/13 反幕府方本願寺勢、幕府・織田信長方に対して蜂起する
※言継卿記4-P445、細川両家記(群書類従20:合戦部)P638、改訂 信長公記(新人物往来社)P110

9/14 反幕府方本願寺勢、摂津国天満森で交戦
※改訂 信長公記(新人物往来社)P110

9/20 織田信長、三好為三へ摂津国豊島郡の知行について音信(朱印状)
※織田信長文書の研究-上-P417、戦国遺文(三好氏編2)P267

9/22 将軍義昭、摂津国中嶋の陣から天満森へ後退する
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P638、改訂 信長公記(新人物往来社)P112

9/23 幕府・織田信長勢、摂津国方面から撤退
※言継卿記4-P448、群書類従20(合戦部:細川両家記)P638

9/23 河内南半国守護畠山昭高勢など、河内国内を打ち廻る
※言継卿記4-P448

9/24 河内北半国守護三好義継など、河内国若江城へ帰城
※言継卿記4-P449

9/25 幕府・織田信長勢、比叡山の麓へ陣を取る
※改訂 信長公記(新人物往来社)P113

9/27 反幕府方三好三人衆内篠原長房勢、摂津国兵庫に上陸
※尼崎市史2-P5、細川両家記(群書類従20:合戦部)P639

9/28 反幕府方三好三人衆内篠原長房勢、摂津国越水城を落として尼崎へ移陣
※尼崎市史2-P5、群書類従20(合戦部:細川両家記)P639

11/5 反幕府方三好三人衆派池田民部丞、摂津国箕面寺に禁制を下す(直状形式)
※箕面市史(資料編2)P414

11/12 播磨国人赤松政秀死亡
※姫路市史8(史料編:古代・中世1)P592

12 幕府、徳政令を発布
※高槻市史1-P739、島本町史(史料編)P445

12/8 幕府・織田信長、三好三人衆方の和睦を成立させる
※ビブリア53号P164(二條宴乗記)

12/13 幕府・織田信長、近江国人浅井長政・越前守護朝倉義景などとの和睦を成立させる
※改訂 信長公記(新人物往来社)P116

12/24 幕府・織田信長、三好三人衆方大坂本願寺の和睦を成立させる
※足利義昭(人物叢書)P177

12/25 反幕府方本願寺光佐、細川六郎(昭元)に音信
※本願寺日記-下-P595

================= <年表おわり>


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2024年9月11日水曜日

令和6年(2024)8月14日頃に報道された、新出の「織田信長から細川六郎(昭元)へ宛てられた朱印状」について

 はじめに

令和6年(2024)8月14日頃に報道されました、新出の歴史史料、織田信長から細川六郎(昭元)へ宛てられた朱印状について、そこに摂津池田家の事も記述がありました。
 この史料の意味やこの時の状況について検討してみたいと思います。以下の翻刻から、いくつかの要素ごとに説明をしたいと思います。

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条目
一、池田当知行分、并前々与力申談候、
  但此内貮万石別ニ及理、同寺社本所奉公衆領知方、除之事。
一、播州之儀、赤松下野守、別所知行分、并寺社本所奉公衆領知方、除之、
  其躰之儀、申談事。
一、四国以御調略於一途者、可被加御異見之事。
  右参ヶ条聊不可有相違之状、如件。
 元亀元       弾正忠
   八月 日       信長 (朱印 天下布武)

細川六郎殿

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なお、翻刻については、山梨県在住のAさんや兵庫県在住のNさんに助けていただきました。大変ありがたく、感謝致します。私は崩し字が未だ、ほぼ読めないため、無理をお願いしました。Aさん、Nさん、ありがとうございました。

上記の史料について、以下の要素から、その意図や意義について、考えてみたいと思います。

  1. 元亀元年当時の戦況
  2. 併せて見るべき関連性の高い史料
  3. 細川六郎と三好三人衆 ← NEW(2024.10.5)
  4. 摂津池田家の動き
  5. 元亀元年頃の播磨国方面の事
  6. 敵方(組織)の求心力を削ぐ目的があった
    ※三好方の世代交代期だった
    ※四国攻めの準備もしていた経緯から内情は概ね把握していた
  7. 結果的に目標が達成されて、細川六郎が降る

 

天下布武の印章(出典:wikipedia