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2017年3月20日月曜日

荒木村重の父、若しくは村重の先代にあたる人物(信濃守勝重)の史料が実在する可能性について

近年、知名度も高くなってきた摂津国の戦国大名荒木村重ですが、それはやはり、織田信長方の武将としての活躍が大きな要因でしょう。もちろん、大河ドラマで取り上げられたり、ゲームや漫画などへの露出もあるでしょう。ここ最近は、加速度的です。
 しかし一方で、この荒木村重という人物は、不明なところも多くあって「謎の武将」といったイメージも強いようです。特に、織田方の武将として名前が知られる前の活動については、殆ど知られていません。
 
筆者はどちらかというと、その前の摂津国の国人大名であった池田勝正の動きを研究している事もあって、その重なりが、この村重(家系)の黎明期から成長期にあたり、自然と並列研究のようになっています。
 それらも追々、お伝えしていきたいと考えているのですが、今回は以前から個人的に気になっていた、村重の父の可能性がある荒木信濃守勝重なる人物が、摂津国人らしき「北與」なる人物に宛てた史料がありますので、ご紹介したいと思います。年記未詳の2月14日の音信(返報)です。
※豊中市史(史料編1)P126

(史料1)-------------------------------
前置き:尚々善へも以別帋可申入候へ共、御意得候て御演説所仰候。
本文:如仰久敷不申承不断御床敷令存候。折節御懇御状本望之至候。随而此間者弥介方に長々逗留仕候。内々に我等も可参心中之候処難去用所共候て不参御残多存候。此由北右へも被仰候て可給候。次以前承候南郷(摂津国垂水西牧)知行分事、勝正折帋之儀も可相調候へ共、無紛儀候者、可為有様候之絛可御心安候。殊に彼庄之事者同美存知之由にて候之間、被仰様体委可申聞候。其方之儀不苦候者、北右善へ被成御同道、ふと御出奉待候。我等もやかて可参候。急申候間此外不申候。恐々謹言。
-------------------------------(史料1 終わり)

先ず、この史料の年代比定をしないといけないのですが、結論から言いますと、永禄8年(1565)かその前年ではないかと考えています。以下、その理由を述べます。

この音信の宛先である「北与」とは、北河原氏と考えられ、同氏は摂津国川辺・豊島郡境付近の豪族とされています。また、文中の「弥介(やすけ)」とは、荒木村重を指すと考えられる事から、弥介を名乗っていたらしい元亀2年(1571)以前から永禄6年(1563)頃までの期間が想定されます。
 他方、「勝正折帋之儀」とは、荒木勝重の上位者である事が伺え、永禄6年2月の当主長正死亡後から元亀元年6月19日の勝正追放までの間が想定できます。なお、永禄4年9月9日には、南郷目代の今西家によって、勝正に対する特別な祝儀が贈られているため、その頃から勝正に代替わりとなったか、南郷の特別(主要)な管理を行うようになった可能性もあります。

更に文中の「同美」とは、荒木美作守宗次を指すと考えられ、その活動時期を見ると、永禄5年4月に荒木美作守が摂津国箕面寺に宛てた禁制の副状(池田長正に対する)を発行し、同年2月23日に南郷に関する問題解決のための音信を受けたりもしています。宗次の史料は、永禄8年2月以降は見られなくなります。当主の交代と共に、荒木美作守にも地位に変化を生じさせたものと思われます。

それらの状況を考え併せると、この史料は、宗次の史料上の活動が見られなくなる頃(池田長正の死亡による当主交代)に近い時期、永禄7年の池田家と今西橘五郎・宮内少輔(春房?)とのやり取りに関係のある史料と想定しています。

さて、文中に登場する人物名の補足をしておきたいと思います。文中には北河原一族の人物名が複数人出てきます。「北與=与右衛門?」「善=善右衛門?」「北右=右衛門?」「北右善=右衛門?と善右衛門?の両者をまとめて書いた」といった具合に、人物名を略して書いています。この件について、何度もやり取りしているためです。

文の内容を見ますと、「荒木信濃守は北河原方へ向かうつもりで、弥介方に長々逗留しており、やがて北与・右・善の3名とも合流し、南郷知行分の懸案解決を図る予定である。これについては、荒木美作守がよく知っているので、委しく申し聞き、事の次第がハッキリすれば、現当主池田勝正から証文を発行してもらうつもりなので安心するように。」との旨を伝えており、信濃守勝重は、当主勝正の奉行人のような行動をしていた事が判ります。
 前当主池田長正の家老荒木美作守から同名信濃守勝重が役を引き継ぎ、活動をしていた一端がこの史料から読み取れるように思います。

そして、折紙発給者の荒木信濃守勝重とは、その名から考えて、「弥介」の後に「信濃守」を名乗る村重に関係が深い人物と思われ、その名の一字に「重」の字を持っています。また更に、勝正と関わると考えられる「勝」の字も持ち、両者に深い関係を持つ人物と推定できます。
 この事から「弥介」すなわち後の村重は、当主勝正から見ると系図的には一世代下であろうことも判明します。この時点で村重は官名を持たず、その父と考えられる勝重が「信濃守」を名乗っているからです。また、概ね「紀伊守」「遠江守」などの官名は、それを代々継ぐ家系があって、当主がその官名を名乗ります。

ただ、荒木信濃守勝重についての史料は、今のところ、この1点のみで、他の活動については不明です。どの時点、どういう理由で勝重が、その地位を譲る事になったのかは、今後も見ていきたいと思います。