ラベル 研究_戦国時代の摂津池田家の経済 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 研究_戦国時代の摂津池田家の経済 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2016年2月11日木曜日

1570年(元亀元)6月の摂津池田家内訌は織田信長の経済政策失敗も一因するか。

近頃の日本の株価平均の急速な下落とか、中国の経済状態やヨーロッパの事などの世界的な経済・金融の動きについて、討論番組を見ていてふと、気づいた事があります。

これまでにご紹介した「荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第一章 天正三年頃までの織田信長の政治:三 経済政策)」にも自分が書いた事なのですが、将軍義昭政権の初期の段階で、織田信長は経済政策に失敗しています。
 日本の歴史としては、織田信長の執った政策は、日本の政治史発展に大きな貢献をした事は明かですが、しかし、当時を生きる人にとっては、大波乱の時代でもあった訳です。

写真1:池田市細川地域から出土した古銭
詳しくは、上記のページをご覧いただければと思いますが、言いたい事の核として部分的に取り上げると、「それからまた、石高制と貫高制を考える上で重要な、織田信長による「撰銭令」がある。この政策は、市場の悪銭(ニセ銭も含む価値の著しく低い銭。国内私鋳銭等。)の整理と規定であるが、信長は永禄12年2月28日に本令、翌月16日に追加を京都で施行。この時、貨幣の代りとして米を用いる事を禁止し、悪銭の価値基準をも設けていた。また、金・銀の比価も示した。」と記述しているところがあります。
 池田家の内訌は、この翌年の6月ですから、加担する政権の経済的な失敗が見えてくる時期でもあったと思います。もちろん、池田家内訌の理由がこの一つの要素だけでは無く、他にも色々あるのですが、経済的な要因は、今も昔も変わらず、判断するための大きな要素になります。

こう言う背景要素もあって、先鋭的で、性急な判断に迫られるような事が起きた場合、議論は紛糾し、刃傷沙汰に至りやすくなるものと思われます。そういった中で、1570年(元亀元)6月の池田家内訌に至ったのでは無いかと、ふと、思いつきました。

写真2:出土した古銭の代表例
この、気づきというか、ヒントはまた広い視点持をちつつ、深く掘り下げてみたいと思います。

【写真1】昭和46年4月2日に、吉田町310番地で市道の拡張工事中に出土した古銭で、写真のような状態で発見された。古銭は、年号による種類では48種類、書体による選別では93種類で、分類不能なものは555枚。総合計18,317枚。発見された古銭の年代の開きは約800年。
※出典はグラフいけだNo.18 (1972年2月) より。
【写真2】開元通宝は、西暦621年に初鋳された唐銭で、この発見の中では最も古い。永楽通宝は、西暦1411年に鋳造され始めた明銭で、室町時代の日明貿易によって大量に入り始め、江戸時代初頭まで流通した。織田信長はこの永楽通宝を旗印にもしている。
※出典は同上。



2015年2月11日水曜日

摂津池田家の領域支配(元亀2年の白井河原合戦についての動きから見る)

今も戦国時代も「お金」です。それのみで社会は構成されていませんが、やっぱりお金は、生活する上で重要な要素である事は、現代社会と同じです。ただ、戦国時代と現代との違いは、問題解決に武力行使を含めて解決するかどうか、です。
 そんなお金の事について、摂津池田家が、どのように収入を得ていたのかを考えてみたいと思います。ちょっとした経済学みたいなものですので、全てを網羅するのは難しいですが、少しずつ記事にしてご紹介するつもりです。

元亀2年(1571)の8月28日に、摂津池田家と和田伊賀守惟政が白井河原合戦(現茨木市郡付近)を行います。これに関連して興味深い動きがあります。
 白井河原合戦に至るまでには伏線があり、幕府方の和田惟政が同伊丹忠親と共に池田領へ侵攻します。特に和田勢は幕府からの支援も得て(というか幕府として)、千里丘陵の南北から攻め込んでいます。5月から8月上旬にかけて、特に南に力を割いて侵攻し、豊嶋郡の中南部を占領し、瀬川の南側辺りまで進みます。
豊中市小曽根に残る今西家
豊嶋郡中南部には、春日社の目代今西家があり、その管理地がある所です。ここは摂津池田家にとっても代官請けを任されている場所であり、重要な収入源のひとつです。
 元亀2年5月から8月の動きは、攻められる三好三人衆方池田家にとっては、重要な地域が切り取られる深刻な事態です。これは解りやすい明確な状況です。
 しかし一方で、元の摂津池田家当主で、幕府方武将としての池田勝正が、7月から8月にかけて、この地域に入っている事は明らかです。細川藤孝・三淵藤英と共に池田城周辺をも攻撃しています。
 そんな中、三淵藤英が春日社目代今西家へ宛てて禁制を下しています。永年の池田家との関係がありながらも、前年まで池田家当主であった池田勝正に禁制を求める事なく、南郷社家目代(今西家)は、7月26日付けで三淵から禁制を受けています。
※新修豊中市史(古文書・古記録)P273、豊中市史(史料編1)P122

-(史料1)-------------------------
一、軍勢甲乙人乱妨狼藉之事、一、竹木剪り採り之事、付き立ち毛(農作物)苅り取り事、一、非分課役相懸け事、付き寄宿免除事、放火事、右堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯之輩於者、厳科に処すべく者也。仍って件の如し。
-------------------------

そして、それには副状というか、附則のような補足の約束が付けられ、今西家に対して特別な配慮がされています。今西氏も判断に迷い、護るべきものへの憂慮を深めて、苦渋した事でしょう。7月26日付けで、三淵が春日社目代へ宛てて判物を下しています。
※豊中市史(史料編1)P123

-(史料2)-------------------------
御土居屋敷(今西屋敷)の儀、往古従り陣無きの由候。只今の儀者日暮れの間、向後之引き懸け成すべからず候。恐々謹言。
-------------------------

三淵が、禁制と判物を今西家に下す前、和田惟政が「摂州豊嶋郡桜塚善光寺内牛頭天王(現原田神社)」に宛てて、禁制を6月23日付けで下しています。今西家への禁制と内容(項目)は同じです。
 ちなみに、和田から三淵にこの地域の主将が変わっているのは、和田は大和方面への対応も行っていたためで、7月頃は奈良へも出陣して、筒井順慶などの支援を行っています。
※豊中市史(史料編1)P122、高槻市史3(史料編1)P432

-(史料3)-------------------------
一、当手軍勢甲乙人乱妨狼藉事、一、陣取り放火事、一、山林竹木剪り採り事、右條々堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯輩於者、厳科に処すべく者也。仍って件の如し。
-------------------------

現在の原田神社
さてしかし、これらの規範概念に附則を加えて、三淵は今西家に配慮している訳です。今西家にとっては、これまで永い間に渡って代官請の契約をしていた池田家が分裂し、敵味方となって争っているのですから、判断に迷うのは当然でしょう。しかも、それが自分の管理地内で起きている訳です。
 そして三淵が7月26日に禁制を発行した僅か6日後の8月1日付けで、新項目を加えて、三淵が新たな禁制を摂津豊嶋郡牛頭天王(現原田神社:大阪府豊中市中桜塚)へ宛てて発行しています。
 陣取りについての不測の事態を警戒しているようで、これらを正式に条文に入れるよう、今西家の周辺地域からも要望が出されていた事が判ります。
※豊中市史(史料編1)P122、新修豊中市史(古文書・古記録)P273

-(史料4)-------------------------
一、軍勢甲乙人乱入、一、狼藉事、一、竹木剪り採り事、一、陣取りに付き殺生の事、一、矢銭・兵糧米相懸け以下非分課役事、一、国質・所質請け取り沙汰事、一、敵味方選らずべく事、右条々堅く停止され了ぬ。若し違犯の輩於者、厳科に処すべく者也。仍て件の如し。
-------------------------

史料4の最後の条文、一、敵味方選らずべく事、とは、戦争に巻き込まれる事を何としても避けたいとの意思が伝わってきます。

一方、この場に確実に居た池田勝正についてですが、今西家はなぜ勝正に禁制を求めなかったかというと、一般的には、実効性が低いと見たためという方向性で考えるでしょう。
 しかし、その一番の原因は、この時の幕府(織田信長)による、地域利権の整理(経済政策)の動きが大きく作用しているとも考えられます。多分これは、幕府が一旦、池田家の領地を接収したものと考えられます。
 幕府が制圧し、その地域を欠所として接収し、その後に幕府が認めた権利というカタチで給分を然るべき者に下します。これは複雑で不安定な権利の整理を行い、中央集権的に管理を強化する政策です。

もし、白井河原合戦が和田惟政の勝利となり、垂水庄が幕府方に占領されていれば、勝正が再びこの地を幕府より与えられていた事でしょう。
 8月2日、池田城に対する相城(原田城などを再利用か)へ池田勝正が入ったのは、そういう意味があったと思われます。
※大日本史料10編之6-P701(元亀2年記)

-(史料5)-------------------------
『元亀2年記』8月2日条:
晴、晩雨、細川兵部大輔藤孝帰陣、池田表相働き押し詰め放火云々。相城原田表に付けられ、池田筑後守勝正入城。
-------------------------

明治時代頃の原田城跡の様子
原田地域は、伊丹・吹田との連絡のために非常に重要な場所で、伊丹城へは手旗や光(鏡)、狼煙などで連絡が可能です。目視も十分にでき、戦前の軍事演習では、原田の丘陵から手旗で伊丹方面の友軍に連絡をしていたようです。幕府方は地縁のある勝正がここを守るのは適任と考えたのでしょう。もちろん、原田地域の有力者であった、原田氏とその関係者もそこには多く居ます。
 勝正と行動を共にしていた細川藤孝は、事態を楽観的に捉えていたようで、勝正と別れて勝龍寺城に戻り、翌日には歌会に出座したりしています。史料を見ても、確かに幕府方が有利で、そういう判断をしたのも無理はありません。
 しかし、三好三人衆方池田家は、この頃に着々と反撃の準備を行っていた事もまた、事実です。
 
さて、この時期の池田家は、どちらにしても、上位権力の体制内での勢力となってしまいますから、その上位政権の政策や意思に従う事になります。
 将軍義昭・織田信長政権についての政策研究は、脇田修氏や橋本政信氏の研究をお読み頂ければと思います。大変詳細に分析されていて、興味深い概念提示がされています。私はその説に大いに影響を受けています。

摂津池田家に対する領地の接収は、この時が始めてではありません。それらは追々ご紹介しますが、池田家が将軍義昭政権下に入ってから度々あり、それに耐えきれなくなった池田家中が、当主勝正に不満を抱き、内訌に至ったものと考えられます。
 尤も、その一点では無く、いくつかの要素があっての内訌理由ですが、不満の火種は経済問題であった割合が大きかったと思われます。生活が圧迫される、景気が悪くなる事は、解りやすい大きな問題である事は、今も昔も変わりませんから。