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2016年5月21日土曜日

摂津池田城下にあった万願寺屋は荒木村重と関係する!?

大正時代頃の酒造家の万願寺屋跡(池田町史より)
満願寺屋は池田の歴史を語る上では、避けて通れない要素で、その歴史は広くて深いので、これだけを取り上げても相当なボリュームになります。詳しくはまた後日に譲るとしまして、戦国時代と万願寺屋の関係についてご紹介したいと思います。

この万願寺屋は、荒木村重とも関係するとされているのですが、その詳しい事はわかっていません。伝えによると、応仁年間(1467-69)頃から池田郷で酒造業を営み始めたと伝わっています。

この万願寺屋の当主は「荒城」を名乗り、このあたりがやはり荒木村重との系譜を連想させる主因となっているようです。また、万願寺屋当主の代々の墓が池田では無く、現在の伊丹市大鹿の妙宣寺にあって、このあたりのところも何だかミステリアスな要素です。

荒城九郎右衛門の銘
満願寺屋は、池田郷の酒造業では最も多く生産していました。池田酒の最盛期(醸造家38軒)でもある元禄10年(1697)の記録によれば、1135石を醸造しています。
 しかし、江戸時代に酒造家同士の訴訟に負け、没落していきます。その最後の姿が、写真に残されています。取り壊される前の様子だそうです。以下、昭和14年(1939)4月1日に発行された、池田町史にある「満願寺屋九郎右衛門の旧址」についての記述をご紹介します。
※池田町史(第一篇:風物詩)P113

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慶長以来、近畿に並ぶものなき我が郷土の酒造王、満願寺屋九郎右衛門の旧址は、池田町東本町池田警察署東隣の一角であって、其の旧址は西は警察曙より東溝(小蟹川)に限り、南部は本町より北は甲ヶ谷町に亘る広大な屋敷であった。現今は我が郷の素封家北村元一郎氏の所有地となって居て、数年前その旧址荒廃を極めし為、取り壊ちて借家と化って仕舞った。取り壊たれるまでは、永い間荒倉のまま風惨雨蝕に委して居たけれども、池田名物の一として八ツ棟造りの昔の遺影を存して居た。
 満願寺屋は荒城九郎右衛門と呼んだ。されど其の伝は詳らかでない。其の名の示す如く、古く川辺郡満願寺村より移住したものと伝えられて居る。そして我が郷土で酒造業を営んだのは遠く戦国の初期(応仁時代)に在りと伝えられて居る。世々醸造業を以て天下に知られた当地の旧家である。

『摂陽落穂集』
東武将軍家御前酒は、満願寺屋九郎右衛門より送り出せるなり。熊野田村の米を以て元米となし、水を清め道具を改め造り出せるなり。江戸表にて「満願寺」と呼ぶ酒之なり。

と記して居る。当時、一商人の分限を以て将軍の臺命を蒙り、破格の恩命に浴したものである。そして当時我が郷土の清酒醸造業者には一大特権を付与せられ、期年より運上、冥加銀、御免は勿論且つ、御朱印を下附され、また犯罪其の他其の業を継承すべきものなき以上休業を命ぜられざる特典があった。(後略)。
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妙宣寺にある歴代万願寺屋の墓群
万願寺屋は、池田城があった頃にもう既に城下にあったのかもしれません。発掘などは行われていませんので、定かではありませんが、戦国時代には大きな都市に成長していましたので、あったと想定した方が自然だと思います。池田は交通の要衝でもあったため、戦国時代にも宿場であり、やはり酒の需要もありました。
 ちなみにこの万願寺屋の系譜は、今の「剣菱」ブランドで全国的に有名な剣菱酒造株式会社に引き継がれているようです。
 
この万願寺屋については、近年、研究の進展無く、旧来のフレーズを繰り返すだけになっているのですが、城という狭い要素だけでも万願寺屋の関係を深めてみたいとは考えていますので、何れまた詳しくご紹介できればと思います。


2016年5月20日金曜日

摂津池田城の縄張り概念は、五月山山上にまで及んでいた!?

戦国大名池田筑後守勝正研究の核心である、勝正そのものの事実や家の事、また、その本拠たる池田城の事をしっかりとご紹介する事をそろそろしないといけません。
 摂津池田氏については、滅びた家だけに、総合的な検証もなければ、史料も無いため、これまでは、史料集めを兼ねたその外郭部分を見てきたのですが、少しずつ中心部分のことも見えるようになってきています。かといって、今日明日にご紹介いただけるような状態でもないのですが、兎に角、池田勝正についての細部をご紹介できる段階に入りつつあります。
 
それらは、このブログで先ず紹介し、ゆくゆくは、本にでもまとめられたらと考えています。ご興味のある方は、お楽しみにお待ち下さい。

それで、最近、池田城の支城について考えていますが、肝心の池田城そのもののテーマを立てていないことに気づき、それもやらなければならないと考えている次第です。
 それで今回は、ちょっと古い資料にある池田城の口伝・記述をご紹介して、後便に精を入れるための吉書はじめにしておきたいと思います。
 宇保町の荒木藤市郎氏を中心として池田町史編纂室を設け、昭和14年(1939)4月1日に、発行された池田町史にある、「池田城址」についての記述です。
※池田町史(第一篇:風物詩)P21

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昭和14年以前の様子(左奥の森が伊居太神社か)
一、城址
城址は五月山の南麓にあって、俚俗は城山と呼んで居る。周囲十余町歩に亘り、回字形をなして居る。近時城址の高台に2・3住宅等が造られて居るが、一度■(日の下に邛)を曳いて荒城の址に立てば、千古を語る老樹松鬱に和し、なんとなく在りし昔の偲ばれて荒城の歌でも唱いたくなる。
 廃墟の中央に一段高い平面の台地がある。俚俗は天守閣の跡だと呼んで居る。其前面東南下に谷の様に凹んだ所は堀と字して居る。濠址であろう。城は世々土豪池田氏の拠りし処であるが、池田氏の伝は詳らかでない。

一、城下町
今池田町の町の辻々を見るとひとつとして直線をなすものはない。悉く中途で屈折した枡形の町並みである。近時市街整理の為め其の2・3主要路線は屈折を除かれたが...。この屈曲した町並みが池田城を繞城下町として発達した遺址である。そうして伝へらるる池田城の遺墟を見るに、当時は未だ自然の険を恃んで造られた山城制の時代であって、現在の池田城址より稍々(やや)山上の大広寺付近か其の遺址の一部の様に思われる、と某将軍(元37連隊長)は話された
 知性は、西は猪名川の断崖に臨み、北は峻嶺の五月山を負い、東南部は杉ヶ谷川の自然濠を控え、南部は恵那堀の第2次濠があった様である。今この堀は林口町と田中町両界の溝渠となって居るが『細川両家記』を見ると、永正5年5月10日、細川高国の為に埋められた様である。そして山脚は城山より南東部の高台、附属小学校より建石町法園寺に至り、其れより東部に屈曲して、上池田町に亘る一帯の高台は羅城(外郭)を廻らして居た様である。

『永禄記』
 永禄11年10月2日池田へ御手遣い、大軍を以て外構放火せられ云々
 
又建石町回生病院付近では『弓場』の地名を存し、又陽春寺登山路の下より小阪前に至る区域は『的場』と呼んで居る。思うに当時武道教練に設けられた射場の地であろう。当時は常備の武士を城内の館舎に置いて、非常に備えしと謂えば其の地勢より見て、建石町及び上池田町の高台の地は屋敷町の地であって、下町方面は主として商業地区として発達したものの様である、かの俚謡に

山家なれども池田は名所。月に十二の市が立つ。

と謡われた場所は下町に当たる、東西本町より仲之町方面に亘れる地区に限定されて居た様である。
(後略)
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ちなみに、同月29日に池田市が誕生しています。市に昇格するにあたって、これまでの基礎になる要素をまとめて、今後に役立てようとしたのでしょう。そうだとすれば、大変賢実で、立派な考えだと思います。

昭和40年代初期頃の写真(池田市史 史料編より)
さて、町史にある上記の記述で興味深いのは、この町史が発行された時代は大東亜(太平洋)戦争前で、軍人が日常的に多数おり、その軍人に池田城についての所見を聞いて、城の縄張りの概念復元を試みている点です。全国の村や町に帝国在郷軍人会が必ずあって、活動をしていました。
 この記述を見た事もきっかけの一つだと感じていますが、私自身が色々調べる内に、やはり池田城防備の概念は、五月山山上にも及び、大広寺もその一部を担っていたと考えるようになっています。現在山上にある「五月山愛宕神社」もその関係地だと思います。ここに立つと、北東方面以外は全て俯瞰できます。いわゆる270度の視野です。河内飯盛山城もそうですが、山城の立地はだいたいこういう条件のところに造られています。
 池田城は山城ではなく、その中腹に造られていますが、池田城は時代時代の中で重要な拠点の地位でもあり、こういった事から考えても、視野を確保して備える要素は、不可欠であり、必ず求められただろうと考えています。同時に、五月山北側の細川地域との連絡や通路接続についても、頂上は結節点として機能していたと思われます。
 
詳しくはまた、池田城の項目で考えてみたいと思います。では、また。


2013年8月28日水曜日

荒木村重と池田城

荒木村重が摂津国伊丹城を落し、同城を有岡城と改名して拠点とするまでは、池田城を根城に活動していました。
 天正2年11月15日、村重は伊丹城を攻め落とします。そして、その後直ぐに村重は、拠点機能を伊丹へ移します。その頃、池田城は無傷であったため、この資材を伊丹へ移動して、改修を行ったようです。
 
脇田修氏の研究等によると、事実上摂津国守護職としての立場にあった村重ですので、この伊丹(有岡)城は、その国の中心であり、政庁でもあった訳です。

さて、城を解体して資材を移設した後の池田城はどうなったかというと、私は、支配領域が広がったための再編の必要性があり、役割分担が変わったカタチで存続したと考えています。多数の街道を束ねる池田は依然として重要です。
 実際、荒木村重を攻める織田信長は、池田をいち早く落し、丹波方面との連絡と補給を断つ事を最優先に軍事行動を行っていました。
 攻められる村重の側もこの時に激しく抵抗し、この時の事であろう伝承が神社仏閣などに多く残っています。『中川氏御年譜』には、「池田ハ伊丹同然ノ根城ナレバ...」とあり、村重の嫡子新五郎を池田に入れて備えていたとも記述されている程です。しかし、残念ながら池田市内とその周辺の神社仏閣の多くが消失しています。
 
そんな池田城は、伊丹に居城を移す頃、荒木村重によって色々な改修が行われた事を窺わせる記述があります。伊居太神社の宮司が記した日記『穴織宮拾要記 末』に、池田城についての興味深い伝承記録があります。
 
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一、杉か谷川ハ池田ニ城有時ハ甲賀谷ノ方へ流れ本丁大坂ノ下ヘ行、田端町ヘ出宇保村西ヘリヘ流神田宮ノ森ノ所ヘ流大川ヘ流ル、荒木摂津守池田城たたみ伊丹へ引候後下ニ田ヲ可拵時今ノことく川付かヘ候。それ迄ハ小坂前橋ノ坂なし、吟上山ノ小みぞ斗也。十右衛門やしき・喜兵衛やしき其後築上ル也、むかし(天正乱より先ハ)宮の地也。
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五月山公園入口付近の様子
今も池田城跡公園の北側に杉ヶ谷川があり、それが猪名川へ向かって西進しています。しかし、これは村重が付け替えたものとの伝承があります。田を作る目的だったようですが、城と町を守る北側の堀のような役割を果たすようにも考えた改修だったのでしょう。
 付け替え前は、池田本町の大坂の下を通って、田端町へ出て、更に南の宇保村の西縁へ流れ、神田の森から猪名川へ注いでいたようです。
 文中の本町の大阪とは、今の栄本町から建石町の阪を指しています。田端町は、戦前の荒木町を経て今の大和町です。

城の西側から杉ヶ谷川を見る
この川の跡が、小蟹川として伝わっており、今もその跡があります。確かに伝承で書かれている通りに川筋が残っています。
 今では暗渠となっていますが、今も水路として使われています。池田城のある段丘の地形に沿うように、自然と南へ向かう川が出来ていたのでしょう。




<参考写真>
(1)小蟹川跡(白い帯状の所が暗渠)
(2)旧小坂前町
(3)建石町との堺にある阪

<写真の補足説明>
写真(1):黒色のお宅は満願寺屋の酒造家跡。その東側に近接して川が流れていた。
写真(2):伊居太神社前にできた町。道の奥は阪になっている。
写真(3):かつて、栄本町と建石町の堺は急阪で階段があった。大正時代に削平。