キリシタン武将高山右近と白井河原合戦についての補足を「補遺」としていくつかご紹介しています。今までの資料に加えて、最近、新たな研究成果が公的に発表されたりしていますので、それらを全体の流れに組み入れて考える必要があります。
可能性を再度精査し、精度を上げる事で、その時何があったのかを論理的に検証・復元することが可能になると考えています。
さて、最近『わがまち茨木』の「水利編」と「街道編」を手に入れ、読んでみました。同じシリーズで「城郭編」は持っていたのですが、それらを併せ読んでちょっと新たに気づいた事がありますので、ご紹介してみようと思います。
「城郭編」に「耳原城(砦)」の事は紹介してあって、知ってはいたのですが、広域図が無く、城跡見取り図だけでは、関連性に気づきませんでした。
最近購入した「水利編」に幣久良山の事とそこに関連する耳原大池の紹介が詳しくされていて、記事の中に耳原城の事も紹介されていました。城郭編と同じ方が記事を書いているのですが、発行時期が違うので、また違う書き方になっています。地図も「水利」についての視点になっています。それが、読む私の視点とちょうど一致しました。
幣久良山のすぐ東側に「鼻摺古墳(反正天皇陵)」という小さな古墳があって、それには東側から南をぐるりと回り込むような、半円形の濠跡も昭和51年時点まであったようです。それは西国街道に面しています。 100メートル以内の至近距離です。しかも、幣久良山へ南北に通じる道(福井街道)を挟むように立地もして、幣久良山に陣を置くには大変都合の良い環境を自然に作っています。
要するに、街道の交差点にある要害のような環境が、自然に出来ているという訳です。
そして、そこから西国街道を東へ300メートル以内のところに耳原城跡があったと伝わっているようです。現在の法華寺の裏というか、接するようにして直ぐ北側にあったと伝わっているのですが、現在は帝人大阪研究センターの敷地となり、駐車場の一部になっています。発掘がされたかどうかは今のところ確認できていません。
そこは法華寺よりも少し地面が高く、東側にすぐ段差があって、砦や城を置くには適しています。この場所は、庄屋であった市兵衛という人の屋敷で、「市兵衛屋敷」と呼ばれていたようです。そこには北と西側を守る堀の跡もあったようです。
ちなみに、市兵衛さんのお墓が、法華寺内にあるようですので、両者の関係は密接にあるようです。
また、『武城旧記』という資料には、「手鞍山(幣久良山)也 天正年中、明智日向守在城、其の後織田辰之助耳原に在城す」とあるようです。「織田辰之助」とは不明ですが、これは荒木村重の謀反の時に近くの太田に陣を置いて合戦などがあったようですので、その頃のことを指しているのかもしれません。
そして、元亀2年の白井河原合戦の時も明智光秀は9月24日に京都を出陣して摂津国方面へ入っている事から、断定はできませんが、何か関係しているのかもしれません。同月中旬には一時的に双方とも、停戦しています。
もっとも、その頃に池田衆は高槻方面まで侵攻していますから、幕府(和田)方である明智勢が耳原まで進駐することは難しいかもしれません。ちなみにこの合戦で総持寺は焼失しています。
全容は不明ですが、耳原城が元亀2年頃も何らかのカタチで機能していたとすれば、幣久良山の陣と安威城との軍事的補完関係も考慮されたでしょう。耳原の城は、街道の監視などに使われたのかもしれません。
鼻摺古墳と耳原城の存在が、幣久良山に陣を取った和田惟政の戦術にどう影響したか、再度見直してみる必要もあると思います。まあ、この二つの要素は、全体に大きな影響を与えるというよりは、幣久良山の陣をより堅固に保持・支援するための要素なのかもしれません。
可能性を再度精査し、精度を上げる事で、その時何があったのかを論理的に検証・復元することが可能になると考えています。
さて、最近『わがまち茨木』の「水利編」と「街道編」を手に入れ、読んでみました。同じシリーズで「城郭編」は持っていたのですが、それらを併せ読んでちょっと新たに気づいた事がありますので、ご紹介してみようと思います。
耳原大池 |
最近購入した「水利編」に幣久良山の事とそこに関連する耳原大池の紹介が詳しくされていて、記事の中に耳原城の事も紹介されていました。城郭編と同じ方が記事を書いているのですが、発行時期が違うので、また違う書き方になっています。地図も「水利」についての視点になっています。それが、読む私の視点とちょうど一致しました。
幣久良山のすぐ東側に「鼻摺古墳(反正天皇陵)」という小さな古墳があって、それには東側から南をぐるりと回り込むような、半円形の濠跡も昭和51年時点まであったようです。それは西国街道に面しています。 100メートル以内の至近距離です。しかも、幣久良山へ南北に通じる道(福井街道)を挟むように立地もして、幣久良山に陣を置くには大変都合の良い環境を自然に作っています。
要するに、街道の交差点にある要害のような環境が、自然に出来ているという訳です。
現在の西国街道の様子 |
そこは法華寺よりも少し地面が高く、東側にすぐ段差があって、砦や城を置くには適しています。この場所は、庄屋であった市兵衛という人の屋敷で、「市兵衛屋敷」と呼ばれていたようです。そこには北と西側を守る堀の跡もあったようです。
ちなみに、市兵衛さんのお墓が、法華寺内にあるようですので、両者の関係は密接にあるようです。
また、『武城旧記』という資料には、「手鞍山(幣久良山)也 天正年中、明智日向守在城、其の後織田辰之助耳原に在城す」とあるようです。「織田辰之助」とは不明ですが、これは荒木村重の謀反の時に近くの太田に陣を置いて合戦などがあったようですので、その頃のことを指しているのかもしれません。
そして、元亀2年の白井河原合戦の時も明智光秀は9月24日に京都を出陣して摂津国方面へ入っている事から、断定はできませんが、何か関係しているのかもしれません。同月中旬には一時的に双方とも、停戦しています。
もっとも、その頃に池田衆は高槻方面まで侵攻していますから、幕府(和田)方である明智勢が耳原まで進駐することは難しいかもしれません。ちなみにこの合戦で総持寺は焼失しています。
全容は不明ですが、耳原城が元亀2年頃も何らかのカタチで機能していたとすれば、幣久良山の陣と安威城との軍事的補完関係も考慮されたでしょう。耳原の城は、街道の監視などに使われたのかもしれません。
鼻摺古墳と耳原城の存在が、幣久良山に陣を取った和田惟政の戦術にどう影響したか、再度見直してみる必要もあると思います。まあ、この二つの要素は、全体に大きな影響を与えるというよりは、幣久良山の陣をより堅固に保持・支援するための要素なのかもしれません。