2020年3月8日日曜日

明智光秀も度々利用した余野街道上に存在した、池田市伏尾町の八幡城が巨大であった可能性について

現在の池田市伏尾町にあった八幡城について、詳細は判っていないのですが、その城が巨大であった可能性を考えている方がいます。
 池田郷土史学会会員の岩垣 正氏による調査で、縄張り図が描かれ、それによる全容想定図も描かれています。氏は学生時代に日本画を専攻され、それ故にこのような図を描くことも可能でした。
※図の制作者様には許可をいただいて掲載しております。

摂津八幡城想定復元図:岩垣 正氏

摂津八幡城縄張想定図:岩垣 正氏

調査時の現地の状況

池田郷土史学会による数度の踏査と、業界でも有名な専門家による実地見聞も行われています。八幡城は現在も調査中ですが、その専門家の判断によると、今のところ城なのかどうか判断がつかないとのことです。もう少し詳しく必要要素の発掘と現地調査が必要なようです。ただ、一部は寺の施設ではないかと判断されていました。

そういうった現状ですが、個人的には、ここにこのような城があっても不思議では無いと感じています。
 というのは、享禄年間から天正年間始めまでの摂津国池田周辺の動きを見ていますが、池田家が隆盛した天文年間から永禄の三好長慶政権時代特に、丹波国方面から池田へ敵が南下する例があまりありません。河辺郡あたりに南下する例が集中していることに、違和感を持ていました。もっとも、池田家は「余野街道(池田道、亀岡道とも)」沿いに影響力を拡げ、止々呂美、余野、木代などの地に婚姻、代官地などを持っていた影響もあったと思われます。
 それに比べて芥川や西岡方面は、丹波方面から敵方勢力が度々降りてきて、山城・摂津国で打ち廻りました。池田方面の、このような動きが少ないのはどうしてなのか、永年に渡って疑問に感じていました。
※三好長慶が京都防衛のため、芥川山城に拠点を構えるようになると、この地域への南下は無くなる。
 しかしながら、こういった城があるならば、それは私の疑問を解いてくれます。これ程の城があるならば、軍勢が丹波国(余野)方面から南下することは不可能です。

また、摂津池田衆の主体が滅び、代わって荒木村重の統治下に移ると、丹波国方面へは池田を通って入ることも多くなるようです。それもやはり、このような施設が途上にあれば、軍事・政治的に大きな意味と利便性があるからです。
 明智光秀の丹波攻めでは、度々池田を通路に使っています。また、天正三年の丹波国撤退の折、池田を通って退却しています。

それからもう一つの大きな要素は、久安寺という大寺院の存在です。このお寺は、戦国の争乱で荒れ、また、忌まわしい明治の廃仏毀釈によってそれまでの宝物や資料の大多数を毀損してしまい、残った遺物が殆どありません。それ故に、口伝と仏像などの遺物、僅かに残った形跡から再生・復元推定するしかありません。しかし、状況証拠から必然は見えてくるものと思われます。その久安寺についても、近日、詳しく検証したいと思います。

この久安寺は、行基の創建から天皇の勅願寺としての由緒を持ちます。ですので、巨大な宗教組織、施設が豊島郡(池田)の北部に存在したことは確実です。当然これに、池田氏も対処する必要があり、地域政治を執る上で、協調なり上下関係なりが存在したことは想定できます。
 それがどういったものだったのか、当時の必然性は、今のところ不明ですが、非常に興味深い要素が細河郷い存在していたことだけは確かです。これまでにあまり、これへの思索が行われていないようですので、少しこだわって掘り下げてみたいと思っています。

最後に、以下、「八幡城」について、先行する研究資料を上げておきます。

◎八幡城:はちまんじょう(池田市伏尾町)
  • 伏尾の北方、東野山の山頂にある。東西南の三面を久安寺川に囲まれ、北方は低地で濠渠も形をしており、これを城山という。頂上に平坦地があり、周囲870メートル余、武烈天皇崩御の際、丹波国桑田郡にあった仲哀天皇5世の孫大和彦主命を迎えようとして、迎えの武士が桑田に向かったが、王は捕り方の兵と誤解、逃れて東能勢止々呂美の渓谷を下りて、東野山に来て住んだ。その後、1世の孫猪名翁に至って、行基菩薩を迎えて久安寺を建立した。
     後、承平天慶年間(931-46)、多田源満仲の家臣藤原仲光がここに館を築いて居住した。また、元弘年間(1331-33)には、赤松播磨守則祐はこの地に砦を設けて拠った事がある。【全集:八幡城】
  • 『摂陽群談』によれば、伏尾にある古刹久安寺(聖武朝神亀2年、僧行基開創)山内に築かれた山城で、多田満仲の臣藤原仲光が在城と伝える。遺跡は東野山山頂部にあり、土壇が存在したという。【大系:八幡城】
  • 吉田村の北東にあり細郷の一村。北東は下止々呂美村(現箕面市)。村のほぼ中央を久安寺川(余野川)が南流し、並行して余野道(摂丹街道)が通る。村域のほとんどは山林で、集落は街道沿いに点在する。「摂津名所図会」には「寺尾千軒」と称したとあり、久安寺を中心に発達した村であることを伝える。慶長10年(1605)摂津国絵図には伏尾村と久安寺門前村が記される。元和初年の摂津一国高御改帳では、細郷1745石余のうちに含まれ、幕府領長谷川忠兵衛預。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では石高264石余で幕府領。以後幕府領として幕末に至る。なお享保20年(1735)摂河泉石高帳に久安寺除地17石余が記される。高野山真言宗久安寺・同善慶寺がある。善慶寺は宝暦4年(1754)播州加古川の称名寺内に創建されたが、のち現在地の久安寺宝積院の旧地に移ったものである。【地名:伏尾村】
  • 八幡城址は北方東野山にあり、楕円形をなし、周囲大凡八丁の地にして、東西南の三面は久安寺川之を囲繞(いじょう)し、北方は低地にして壕渠の形を為せり。土壇は今も尚存して、俚俗は之を城山と呼び、多田満仲の家臣藤原仲光此に居り、後播磨守と称する者の籠もりし所なりと伝うれども、其の氏名年紀などは詳らかならず。また廃絶の年月の如きも知るに由なし。山に麗水あり、城兵の用いしものなりという。
     本地は延宝年間より徳川氏代官の支配となり、同代官継承して斎藤六蔵に至る。其の後の管轄及び区画の変遷は、大字吉田に同じ。【大阪府全志】
  • 同郡伏尾村久安寺山内にあり。多田満仲公の家臣藤原仲光在城後に播磨守在城と云へり。氏年歴所伝未詳。山の原に麗水あり。井水の部に記す。是即ち城郭の用水也と云へり。【摂陽群談】

 

※念のため、これらの出典は、後で付け加えたものではなく、公開当初からあるものです。そのような卑怯な事は絶対にしません。私は常に、論拠を以て話す姿勢は崩しません。分からないことは、想定として記述しています。