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2025年10月19日日曜日

元亀元年(1570)、摂津国大坂本願寺一揆の理由

浜口誠至氏の研究などによると、公卿三条公頼(転法輪流)の3人の娘が、細川右京大夫晴元(永禄6年3月没)、本願寺顕如光佐、甲斐守護武田晴信へ嫁いだとしている。
 これにより、元亀元年の大坂本願寺一揆は、管領格細川晴元の嫡子六郎の窮地を救う目的、すなわち血族の救済を理由に起こしたのではないかとの推定をする研究者もある。同年、三好三人衆は、大挙京都の奪還を目指して軍勢を摂津国中嶋内の野田・福島へ進めたが、幕府・織田信長勢に圧されて軍事的に劣勢となっていた。
 しかし、9月12日夜、大坂本願寺が教団をあげて一斉蜂起し、結果的には、その窮地を救うと共に旧中央政権である三好三人衆方の復権に加担するなった。

この大坂本願寺宗の武力蜂起に至る理由は、複合的であろうと思われるが、筆者は「教団の自衛」が第一義であり、その達成のために味方としての縁故をたぐり寄せた結果であったのが、実際であるようにみえる。以下、それに関する動きを史料をあげつつ考えてみたい。

この頃の本願寺宗(法主は光佐)は、三好三人衆方との交流を持っていないと思われる。少なくとも「顕如上人文案」集には見あたらない。

第十四代室町将軍義栄
永禄11年(1568)秋、足利義昭を奉じた織田信長が、京都へ大挙攻め上り、その時の中央政権であった三好三人衆の奉じる将軍義栄を駆逐してしまった。
 その後、危なげながらも信長の推す将軍義昭政権が幕府の体を保ち続けて、京都での政権を維持していた。これが元亀年間の激しい争いを経て、幕府の内紛を治めた信長が、「天正」と改元して、永年の闘争を終わらせた。

元亀元年(1570)9月12日夜、大坂の本願寺宗は、それまでの中央政権との融和方針を覆し、一斉武装蜂起に踏み切る。

時を少し遡る。

◎将軍義昭政権樹立当初の本願寺宗は、融和的な方針だった
永禄12年(1569)11月20日、本願寺光佐が、幕府奉行人明智光秀へ音信している。これは阿波国の本願寺宗門徒が、三好三人衆方に加担しない旨、その方針を伝えている。
※本願寺日記(下)P588

---史料(1)----------------
【本文】
御内書之趣き拝見致し候。仍て阿波国表之儀、門下之族此之方依り申し付け為、馳走致す之由、曾(すなわ)ち分別以て能わず候。惣別此の如く之段、双方合力助言之儀、一切之無き事候。此れ等之旨然るべく様申し入れせしむべく給い候。恐々謹言。
【注釈】
此の時之御使梅咲軒也。表書彼の御使よりこのみによって此の如く沙汰外…。
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また、同年12月28日付けの光佐の音信は、正親町三条公兄へ宛てられており、幕府からの命令による加賀国軽海郷(現石川県小松市軽海町)の領知(返還?)について伝えている。
※本願寺日記(下)P588

---史料(2)----------------
(鳥)寔に未だ申し通さず処、御札本懐之至り候。抑も御家領加賀国軽海郷事、 綸旨並びに武家御下知之旨蒙り仰せ候。此の方に於いて更に疎略無く候間、御心安かるべく候。随而三種三荷送り給わり候。恐悦之至りに候。是れ従り又三色三荷推し之進め候。猶下間丹後法印申し入れるべく候。恐々謹言。
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史料の(1)と(2)は、時の本願寺法主が、阿波国三好家の奉じる管領細川家と公卿三条家(転法輪流)との血縁があることを既知で、それに幕府が対策を行っていると思われる。
 それ故に、本願寺光佐の書札集には、管領格細川六郎への音信が、一揆直後の暮れ(元亀元年)の挨拶まで確認できない。
 一方、元亀元年(永禄13)1月内までは、織田信長や幕府要人に新年の挨拶を行い、友好の絆の維持に気を配っている。
※本願寺日記(下)P590

---史料(3)----------------
1月7日付:(織田信長宛て)
新春之嘉祥、更に休尽有るべからず候。仍って太刀一腰(金)馬一疋之推し進め候。表祝儀計りに候。猶下間丹後法印申せしむべく候也。穴賢。
1月16日付:(三淵伊賀守入道宛て)
(鳥)新暦之祝儀為、御太刀一腰(金)並びに御折十合、柳十荷之献じ候。宜しく洩れ申し入れせしめ給わり候。恐々。
【注釈】三淵へ樽代百疋。飯尾大和守、諏訪信濃守二人へ百疋づつ。伊勢守へ一腰、以上例年之儀也。下間丹後法印書状之遣わす。
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現大阪城内にある本願寺跡顕彰碑
◎織田信長が、本願寺宗へ大坂本拠からの退居を要求した

しかし、この頃、信長が本願寺宗に対して、大坂からの退居を要請したという。この史料の現存は確認できないものの、それを裏付ける複数の一次史料が複数現存しているため、退居要請は事実であろうと考えられている。これに関する史料をいくつかあげてみる。元亀元年8月22日付、光佐が紀伊国坊主衆中・門徒中へ宛てた音信みてみる。
※本願寺日記(下)P623

---史料(4)----------------
今般、越前国へ敵乱入之由候。此の上者、当寺之一大事籠城きはまり(究まり)無く候。然れば、何方(いずかた)もたのむべき様体無きにつきて、此の度懇志を励み、一途に籠城候べき心懸け之衆申し合わせ参上候はば、誠に以て難有り。弥々たのもしき次第為るべく候。就中珍からず候へ共、法儀の談合候て、安心決定の上には、弥々油断無く嗜み候べく候。不信の面々は、片時も急い而信をとられ候はば、有り難かるべく候。猶端坊(不明な人物)申し伝えるべく候。穴賢。穴賢。
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◎本願寺宗、一斉武力蜂起の準備行動
本願寺宗の武力蜂起は、9月12日とされる。それよりも1ヶ月前に、準備のためもあり、紀伊国方面の有力者へ決意表明をしている。
 続けて、本願寺宗の越中国瑞泉寺顕秀が、坪坂伯耆守入道(越前朝倉氏被官か)へ摂津国方面の様子を伝えている。
※近江国古文書志1(東浅井郡編)P519

---史料(5)----------------
前置き:
猶々京都へ御着き、慥かに示し下し候。有り難く存じ奉り候。将亦新五郎殿(不明な人物)御所労ハ、御本復の儀候哉。御心之無く存じ候。尤も書状以て申し上げるべく候共、此の由伝達頼み入り候。態と示し預け候。本望候。
本文:
態と本望示し預かり候。一、大様(意味は不明)19日之立ち、御着き御無事。殊更御門跡様御健気御座候儀、有り難く存じ候。一、去る18日(8月18日)上野法橋父子・刑法・筑法・按法、摂津国中嶋迄三好供候て御出馬、所々放火候て、納馬の儀、いよいよ御張りの段、珍重候。一、京表の儀、上意御用心の由、併せて当方いよいよ堅固之故候哉。重而之御一着候。示し給うべく候。一、此の口の儀、先ず以て異儀無く候。昨日者敵相働き、今夜者頻りに鉄砲戦に及びの事候き。相替り事候ハバ、申されるべく候。一、近江国北部の儀、如何聞き得申し候哉。越前朝倉(左衛門督)義景一段手強きの由申し候間、然るべく候。一着候者、後使承るべく候。楮以て追而申し述べるべく候。恐々謹言。
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この音信によると、8月18日には本願寺勢が、摂津国中嶋で三好三人衆勢と共に放火などの武力行使を既に行っている。

◎法主光佐が武力蜂起を決意した事について、関係者への表明
そして、9月2日付、光佐が美濃国郡上惣門徒中へ宛てて音信し、織田信長に対して武力抵抗を行う旨を伝えている。
※岐阜県史(史料編:古代・中世1)P898

---史料(6)----------------
織田信長上洛に就き、此の方迷惑せしめ候。去々年以来、難渋懸け申し付けて、随分扱い成りと雖も彼の方へ応じ候。其の詮無く破却すべく由慥かに告げ来たり候。此の上は力及ばず候。然ら者、開山之一流、此の時退転無き様、各不顧身命(不惜身命)、忠節抽んずべく事有り難く候。若し沙汰無き輩者、長に門徒為るべからず候。併せて馳走頼み入り候。穴賢。
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◎武力蜂起実行の檄文を各地へ発送
同月6日付、光佐は近江国中郡門徒中へ宛てて武力蜂起の檄文を送る。当時の一次史料『尋憲記』でもそれは触れられている。
※本願寺教団史料(京都・滋賀編)P13、八尾市史(史料編)P181

---史料(7)----------------
『本願寺教団史料』:
織田信長上洛に就き、此の方迷惑せしめ候。去々年以来、難題懸け申し付けて、随分扱い成り。彼方(向こう・あちら)応じと雖も候。其の專(何よりも大切なこと)無く、破却すべく由、慥かに告げ来たり候。此の上、力及ばず。然れば、此の時開山之一流退転無き様、各身命を顧みず、忠節抽んぜられるべき事、有り難く候。併せて馳走頼み入り候。若し無沙汰輩者、長に門徒為るべからず候也。穴賢。穴賢。
『尋憲記』9月6日条:
一、世上之説大坂より諸国へ悉く一揆起り候へと申し触れ候由沙汰候。
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この音信では、開戦の理由を具体的に述べられており、信長が大坂本願寺の居所退居を迫った事実を伺わせるのである。

宣教師筆とされる信長像
◎織田信長の軍事的攻撃目標は、三好三人衆ではなく本願寺だった

一方、軍記物ではあるが、『陰徳太平記』に興味深い記述がある。
※陰徳太平記(東洋書院)P54

---史料(8)----------------
信長大坂出張並びに所々合戦条:
(前略)9月4日、播磨国三木の別所孫右衛門尉、百五十騎、紀伊国畠山方玉置、湯河よりも軍兵一千余騎信長へ加勢す、同日の晩(くれ)に至りて公方義昭卿御下向有りて、欠郡中嶋の内、堀と云う所、細川右馬頭藤賢の城へ入り御有りて、旗本二千計りにて御座す。かかれは都合寄せ手の勢六万余騎に成りけり。抑(そもそも)今度信長大坂出張り指し当たる所は、三好退治たりと雖も、実は石山本願寺を攻められるべく謀計とぞ聞こえける
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織田信長は、三好三人衆を主たる敵とはしておらず、実は大坂本願寺を討つ目的があったというのである。これは、越前朝倉氏攻めでも同じ手を使っており、表向きは若狭国の「武藤氏討伐」を謳っていた。

◎大坂本願寺城下に近衛前久が身を寄せる
一方この頃、大坂本願寺内に公卿の関白近衛前久が身を寄せており、前久は将軍義栄政権樹立に貢献していた。この為に処刑される事を恐れ、丹波国黒井城を経て、本願寺方に逃げ込んでいた。9月10日、二條宴乗が、大坂にて前久に面会している。
※ビブリア53号P157(二條宴乗記)

---史料(9)----------------
9月10日条:
天晴。下■へ朝飯に参られるべく由伝え之有り。河伊同道候て参る。其の前に中路へ参る。朝飯色々罷り帰る。河伊にて又酒有り。其れより摂津国大坂へ参る。関白(近衛前久)殿様へ油煙三丁。一、上臈へ一丁。進左へ一丁。明日、河内国枚方へ参るべく由仰せ出され、御請け申す。
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前久は、将軍義昭や信長に対して敵愾心を抱いており、大坂から日本全国各地の有力者に工作を行っていた。
 そんな中、光佐は、前久と関係の深い公卿西洞院殿へも9月29日付で音信している。しかしこの頃、西洞院家は、永禄9年に無嗣による中断中であったらしいが、家人は活動していたらしい。
※本願寺日記(下)P591

---史料(10)----------------
【本文】
(引)尊書拝見せしめ候。抑当山御滞留之段、御忍びに依り只今承り様候。驚き存じせしめ候。仍て仰せ蒙り如く都鄙錯乱旧ハ事と雖も候。当寺へ織田信長恣に之所行且つ堪え難き次第候。随而条々御意之通り過当(当たり前では無い事)之至りに候。向後に於いて相応之儀疎意に存ずべからず候。就中御太刀一腰、御馬一疋拝領尤も珍重に存じ候。弥御本意之上重畳貴意を得るべく候。比れ等之旨宜しく洩れ(発し)せしむ宜(べ)く申し入れ給い候。恐惶謹言。
【注釈】
近衛殿へ御返礼 、御牢人にて当所に御逗留。
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内裏の正殿建築「紫宸殿
◎幕府方と一時的な停戦の動き

それからまた、光佐は、京都青蓮院関係者に10月付で音信している。これは9月20日頃、朝廷で正親町天皇の勅書を本願寺方へ下す用意をし、停戦の動きがあった事と関係するらしい。
※朝倉氏と織田信長(第8回企画展)P42

---史料(11)----------------
初めて染筆候。仍って南北総劇、今于に休まず候。其の和談之儀に就き、門跡為相調えられ候様入魂候者、一天大慶為るべく候。前々申し通し候条、内々細川兵部大輔藤孝自り試し由申すべく候。巨細庁務(鳥居小路経存)へ申し含め候間、詳らかに能わず候。
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青蓮院は門跡寺院であり、本願寺宗中興とされる蓮如は、ここで得度を受けた。その頃の本願寺宗は、この青蓮院の末寺であったという繫がりの深い関係ではあるが、元亀元年頃には、疎遠になっていたらしい。11月13日付で、光佐は、再び京都青蓮院垂髪中へ宛てて音信している。
※本願寺日記(下)P592

---史料(12)----------------
【本文】
(引)尊翰始め而拝披、尤も恐悦至極候。仍って今般不慮総劇是非無き次第に候。爰許之儀先ず以て異儀無く候。就中五明一本、杉原十帖拝受、路次等不輙之処、芳信謝し申し難く存ず計りに候。是れ従り綿三把、十帖之献上候。猶庁務申し入れられるべく之趣き宜しく申し入れ給わるべく候。誠恐。
【注釈】
「これは青門(青蓮院宮)へ御返札也。あなたよりの御礼節閣筆候。恐々謹言。本願寺殿、尊朝、此の時の御使は鳥居少路、于時庁務大蔵卿経存と云う歟。」
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ここへの音信も「始めて」と記している。杉原(紙)10帖が贈られており、今後は頻繁にやり取りする合意が図られている。

後年に描かれた光佐像(部分)
(石川県立歴史博物館所蔵)
◎本願寺光佐が三好三人衆方へ連絡する

大坂本願寺宗は、前久という人物を手の内に保持していた事も、武力抵抗に自信を持たせた一つかもしれない。
 上述の9月12日夜の本願寺宗一斉蜂起後、各有力者や組織と急速に結び付くようになる。9月19日付、光佐は、三好三人衆方の有力者である篠原長房へ音信し始める。
※本願寺日記(下)P591

---史料(13)----------------
態と一翰染め候。仍て今度渡海事早速同心有り、既に淡路国に至り着岸之由、欣悦之過ぐべからず候。弥以て相急がれ此の表着陣之儀、希(こいねが)う所に候。猶下間丹後法印頼総申し越すべく候条、詳らかに及ばず候也。
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10月1日付、光佐は再度、篠原長房へ音信する。

---史料(14)----------------
【本文】
(鳥)渡海之儀■■■■■■ 随而誓詞到来、■■■■■■ 是れ従り下間頼総法印誓詞之申し付け候。本願寺光佐同前之事候。猶教行寺(摂津国富田)演説有るべく候也。、としている。同日付で、同じ宛先の音信もある。(鳥)一、今度渡海之儀尤も珍重■■■■■■。仍て太刀一腰、小袖五、馬一疋■■■■■■。猶下間丹後法印頼総申すべく候也。
【注釈】
大かた文章同前に、篠原孫四郎一腰、一疋、小袖三、篠原弾正忠一腰、一疋、小袖三、細川讃岐守真之殿太刀一腰、馬一疋、三好彦二郎長治殿太刀一腰、馬一疋、此の両所へは初め而御書遣わされ之間、祝儀迄也。
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◎本願寺光佐、管領格細川六郎へ音信を再開する
そして、この年も暮れる12月25日・27日付で、光佐が三好三人衆方の大将と目される管領格細川六郎に音信している。これは、永禄11年1月26日以来、約3年ぶりの事である。
※本願寺日記(下)P595

---史料(15)----------------
25日条:
暦軸の嘉佳、珍重候。仍て太刀一腰之進め入れ候。猶明春(不明な人物)早々申し展べるべく候。委細下間丹後法印頼総申し入れるべく候。穴賢。
27日条:
芳墨披閲本望此の事候。就中太刀一腰、馬一疋贈り給い候。悦びの至り為候。猶下間丹後法印頼総申し入れるべく候条、先ず省略せしめ候。穴賢。
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 天正4年頃の石山合戦配陣図(部分)
◎本願寺宗の経済基盤を守る行動でもあった

こういった動き、また、時間の流れから、やはり本願寺宗の元亀元年の一揆は、織田信長が大坂から本願寺宗本拠を立ち退かせようとした事と、その勢力を武力で削ごうとした事により、本願寺宗は「教団自衛」のために武力蜂起したと考えられる。ちなみに、永禄11年秋の将軍義昭政権樹立後に、本願寺方へ5000貫の差出を課してもいる。
 また一方で、本願寺宗は独自に対外貿易も行っており、以下のような動きが、史料から判明する。天文16年10月1日付けです。
※石山本願寺日記(上)P558

---史料(16)----------------
細川右馬頭晴賢・松井十兵衛尉・小河左橘兵衛・水尾源介・並河四郎左衛門等ヘ、今度唐船寺内へ乗り入れの儀に就き、相意を得られの間、其の礼為唐船三種(献上品脱カ)五人へ宛て之遣わし候。使い河野、下間兵庫取り次ぎ。(此の年5月13日条、松井十兵衛、水尾源介、小河左橘兵衛を中嶋三代官と称せり)
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唐船の寺内乗り入れを幕府方へ申請している。
 海と川を直接的に支配できる立地から経済的な利便性、軍事面ともに非常に重要な地であった。それは本願寺宗が武力蜂起してから10年も戦い抜いた事が証明にもなるであろう。

◎本願寺宗の門跡寺院に列しているプライド
加えて本願寺宗は、永禄2年(1559)に朝廷の許可によって門跡寺院に列し、同4年に光佐は、僧正に任じられている。光佐の時代、同宗は畿内地域を中心に寺院を配し、大名に比する権力に成長して、最盛期となっていた。その自負心も、信長の態度への反発となっていたのかもしれない。

◎本願寺宗の武装蜂起は、「教団の自衛」が第一義の目的
血縁を頼るようになったのは、蜂起後の事であり、三好三人衆勢が、摂津国中嶋内で窮地に追い込まれた状況を救う為とは、行動の附属のように思われるのである。
 しかしながら、血族結合も当時の社会には根強い欲求があり、近衛前久が、同族である日野家出身の藤原氏系譜である出自を持つ、大坂本願寺を頼ったのは、他宗にはない血縁組織であった面もあったのかもしれない。要不要やその時の欲求の濃淡は、当然ながら存在する。
 管領格細川六郎と本願寺光佐の音信が、重要な期間中に見られないのは、大坂本願寺の元亀元年の武装蜂起は、管領格細川六郎の窮地を救う目的、すなわち血族の救済を理由に起こしたのではない。今のところ、そう判断をせざるを得ない。


2025年8月27日水曜日

永禄12年頃の播磨国方面の事(元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状)

元亀元年(1570)8月付で、織田信長から管領格(家)である細川六郎に送られたであろう朱印状、第二番目の条項、

一、播州之儀、赤松下野守、別所知行分、并寺社本所奉公衆領知方、除之、其躰之儀、申談事。
とは、播磨国がどのような状況であったか。それについて、摂津池田家を通した目線でご紹介したいと思います。この朱印状が発行されるに至る、その前年を中心に見ていきます。

刀田山 鶴林寺(撮影2004年12月)
永禄12年正月付で、池田勝正は、播磨国鶴林寺並びに境内へ宛てて禁制を下します。幕府(将軍義昭政権)として播磨国へ勢力が及ぶ最初が、この池田勝正による禁制です。
※兵庫県史(史料編・中世2)P432

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一、当手軍勢甲乙人濫妨狼藉之事、一、陣取之事付きたり放火之事、一、竹木剪り採り之事。右条々堅く堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯之輩於者、速やかに厳科に処すべく者也。仍て件の如し。
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しかし、この矢先、前年秋に都落ちをした前中央政権(将軍義栄)中枢である、阿波・讃岐国を拠点とする三好三人衆勢が、大挙京都に攻め上ります。
 これは既に前年暮れから再攻勢の体制を整えた三好三人衆方が、和泉国を中心に上陸し、各地で合戦に至るなどしていました。
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P105

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永禄12年1月5日条:
(前略)一、去る二十八日歟。和泉国家原の城松永より池田丹後守・寺町以下百余入れ置き処、三人衆より攻め、八十日余討死落居了ぬ。則ち池田丹後守・寺町玄蕃討死了ぬと云々。実否知らず。近日牢人衆打ち出しの旨とりとり之沙汰。松永弾正少弼留守故歟。帰城あらば申す事止むべく哉。(後略)
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したがって、永禄12年早々の池田勝正の播磨国出兵は不可能となり、京都の将軍居所(六条本圀寺)急襲の救援に全力をあげる事となります。
※改訂 信長公記(新人物往来社)P92など

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京都六条本圀寺跡(撮影2014年8月)
『信長公記』六条合戦の事条:

正月四日、三好三人衆並びに斎藤右兵衛大輔龍興・長井隼人等、南方の諸牢人を相催し、先懸けの大将、薬師寺九郎右得門尉、公方様六条に御座候を取り詰め、門前を焼き払い、既に寺中へ乗り入るべきの行なり。爾(しかり)処、六条に楯籠る御人数、細川典厩藤賢・織田左近・野村越中守・赤座七郎右衛門・赤座助六・津田左馬丞・渡辺勝左衛門・坂井与右衛門・明智十兵衛尉・森弥五八・内藤備中守・山県源内・宇野弥七。若狭衆、山県源内・宇野弥七両人は隠れなき勇士なり。御敵薬師寺九郎左衛門尉、旗本へ切ってかかり、切り崩し、散々に相戦い、数多に手を負わせ、鑓下にて両人討死候なり。襲い懸かれば追い立て、火花をちらし相戦い、矢庭に三十騎計り射倒す。手負・死人算を乱すに異ならず。乗り入れるべき事、思い懸けも寄らざるところに、三好左京大夫義継・細川兵部大輔藤孝・池田筑後守勝正各々後巻きにこれあるの由、承る。薬師寺九郎左衛門尉小口(虎口)を甘(くつろ)げ候。是れは後巻き桂川表の事、細川兵部大輔藤孝・三好左京大夫義継・池田筑後守勝正同清貪斎正秀・伊丹・荒木、茨木へ懸け向かい、桂川辺にて御敵に取合い、則ち一戦に及び、推しつおされつ、黒煙を立てて相戦い、鑓下にて討取る首の注文、高安権頭・吉成勘介・同弟石成弥介・林源太郎・市田鹿目介・是れ等を始めとして、歴々の討ち捕り、右の趣き、信長へ御注進。
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この時の交戦は、三好三人衆方にも勢いがあり、乱戦となります。池田勝正や細川藤孝は行方不明、幕府方河内若江城主三好義継は戦死という第一報が駆け巡ります。
※言継卿記4(国書刊行会)P300

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『言継卿記』1月7日条:
七条於昨日討死之衆(桂川自り東寺之西に至る)千余人云々。但し名字共其れ慥かに知られず云々。石成北野之松梅院へ逃入り云々。各打ち入り破却云々。又落ち行き云々。但し三好左京大夫義継討死云々。久我入道愚庵、細川兵部大輔藤孝、池田筑後守勝正之見ず由之有り。三好日向守入道以下各八幡へ落ち行き云々。(後略)
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結果的にこれらの情報は誤報で、幕府方が将軍義昭を守り抜き、新生幕府は存続となりました。この事態を受けて、急遽根本対応を行い、再発防止策を講じます。

  • 将軍居城の建設
  • 三好三人衆方に加担する勢力の討伐
  • 将軍など中央組織の行動規範策定
  • 首都経済の把握(堺の接収、徴税の取り決め、ニセ銭の選別、徳政の執行)
  • 京都を中心とした社寺の把握
  • 公家領知の調査

旧二条城石垣跡(撮影2014年8月)
これらの重要要素を固め、最低限の中央政権機能を維持と発展ができる状況を作り、改めて軍事・経済共に攻勢を図ります。
 3日付で織田信長は、再度播磨国方面に目を向け、池田勝正が下した内容と全く同じ禁制を鶴林寺(現加古川市)へ下します。
※織田信長文書の研究(上)P267

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一、軍勢甲乙人濫妨狼藉之事、一、陣取り放火事、一、山林竹木伐り採り之事。右条々違背之輩於者、速やかに厳科に処すべく者也。仍って執達件の如し。
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信長は、担当の勝正を交替させたのかというと、そうでは無く、播磨国への街道を複数持ち、同国に対応するための拠点(守護所)を固めさせる事を優先させていたようで、信長は、その補完を行ったようです。京都の将軍居城と同じく、池田城も防御力を高めるなどの普請も行ったと考えられます。信長は、先遣隊(斥候としての)を送るなどしたのかもしれません。

永禄12年当時、播磨国やその周辺の情勢は、複雑を極め、止むことの無い闘争が繰り広げられていました。以下のような要素があります。

  1. 播磨守護家赤松氏の分裂・弱体化
  2. 備前国守護代浦上氏の分裂
  3. 因幡・但馬国守護山名氏の分裂・弱体化
  4. 阿波・讃岐国攻め計画
  5. 毛利氏の戦略手詰まり(大友氏対策に苦戦)
  6. 出雲国など尼子氏の最挙兵
  7. 伊勢国への侵攻

これらの中で、(1)と(3)の状況から、生野銀山を手に入れるため、山名氏の弱体化に付けいり、8月と10月に幕府勢は、先ず播磨国へ侵攻します。龍野城の赤松下野守政秀は、幕府勢の後巻き且つ、自らの優位性確保の攻勢に出ました。池田家もこれに幕府勢として動員されて、多数の兵を出します。幕府・織田信長方僧侶朝山日乗が、8月19日付で毛利元就などに状況を報告しています。
※益田家文書1(大日本古文書:家わけ第22)P259、細川両家記(群書類従20号:武家部)P633

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益田家文書:(前置き)
猶々趣き於者、弥々切々申し入れるべく候。又御内用濃々と仰せ蒙るべく候。御存分如く之調え之儀行等、上意を経て、(織田)信長へも御取り分申し候て、御たのみ如く調法致すべく候。信長事、如何様とも申し談ずべく之由申され候。何とぞ御縁辺申し談じ度く之由候。御分別候て仰せ越され候。急度申し入れ候。
本文:
一、白紙九郎左(不明な人物)仰せ上げられ候信長への御返事、則ち京着候。一々申し渡し、其の心得られ、御合力申され候。「両口行之事」として、一、雲(出雲)伯(伯耆)因(因幡)三ヶ国合力、則ち木下秀吉・坂井右近(政尚)両人に五畿内衆二万計り相副えられ、日乗検史為罷り出、但馬国於銀山始め為、子盗(此隅山城)、垣屋城、十日之内十八落居候。一合戦にて此の如く候。山下迄も罷り下らず、近日一途(意味=決着)為たるべく候。御心安かるべく候。一、備前美作両国御合力為、木下助右衞門尉・同助左衛門尉定利・福島両三人、池田勝正相副えられ、別所長治仰せ出され、是れも日乗検史為罷り出、二万計りにて罷り出て合戦に及び、増井・地蔵院両城、大塩・高砂・庄山、以上城5ヶ所落居候。置塩・御着・曽禰懇望半ば候。急度一途為るべく間、御心安かるべく候。今于に小寺政職相拘り候条、重ね而柴田勝家・織田掃部助・中川重政・丹羽五郎左衛門尉長秀四頭、申し付けられ候。一万五千之有るべく候。近日着陣為るべく候間、即時に播磨国人小寺・同宇野申し付け、野州(赤松下野守政秀)一統候て、備前国三ツ石に在陣仕り、宇喜多直家・備中国人三村と申し談じ、天神山根切り仰せ付けられるべく候。只今者、播磨国庄山に陣取り候。一、信長者、三河・遠江・尾張・美濃・江州・北伊勢之衆十万計りにて、国司(北畠具教)へ取り懸けられ候。十日之内に一国平均たる由候間、直ぐに伊賀・大和に打ち通し、九月十日頃、直ぐに在京為べく候。左候而、五畿内・紀州・播磨・丹波・淡路・丹後・但馬・若狭、右十二ヶ国一統に相〆め、阿波・讃岐か又は越前かへ、両方に一方申し付けられるべく体候。但し在京計りにて、当年は遊覧有るべくも存ぜず候。一、豊(豊前)芸(安芸)事和睦有り、信長弥々深重仰せ談ぜられ、阿讃根切り頼み思し召されと候て、京都相国寺之光琳院・東福寺之見西堂上使に仰せ出され候。信長取り持ちにて候。我等御使い申し上げ候。猶追々申し上げるべく候。又切々御用仰せ上げられるべく候。馳走御心に任せ候。恐惶謹言。
『細川両家記』永禄12年条:
(前略)一、同十月二十六日伊丹衆・池田衆・和田衆を御所様より赤松下野守へ御合力か為、播磨国へ加勢仰せ出され候て、陣立てにて浦上内蔵介城を攻め落とし、則ち皆々打ち帰られ候也。城主討死也。(後略)
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播磨庄山城跡(撮影2001年10月)
内容にやや誇張がありますが、池田衆は但馬国の山名攻めの支援もあり、「備前・美作両国御合力為、木下助右衞門尉・同助左衛門尉定利・福島両三人」に池田勝正と別所長治が加えられて、従軍していたようです。その数、20,000の兵とされています。「増井・地蔵院両城、大塩・高砂・庄山、以上城5ヶ所落居候」と伝えており、この辺りを主に攻撃対象にしていたようです。龍野赤松氏の後巻きを兼ね、通路を確保する行動だったと思われます。
 一方、幕府方の龍野赤松氏は、3,000の兵で三好三人衆方守護赤松氏配下小寺(黒田)氏などを攻めるため東進します。姫路の小寺(黒田)官兵衛尉孝高が、これに300程の兵で応じ、撃退します。青山合戦として、官兵衛孝高の名を知らしめた戦いでした。

これにより、退路を断たれる恐れがあった但馬国攻めの一隊は、播磨国へ急遽撤退したようで、庄山城を橋頭堡ついて維持し、毛利氏への対外的な面目を保ちました。
 播磨国内では一定の軍事的な優勢を保ちましたが、思惑は外れて、幕府の目的は達成されたとは言い難い結果となりました。幕府は、これらの取りまとめと調整に堺商人の今井宗久を起用しています。

この時、播磨国内はどのようになっていたのかというと、守護家の赤松氏は、国内の東西に分居し、西側(現たつの市周辺)には赤松下野守政秀が勢力を保ちました。幕府は、この内部闘争にも介入し、赤松政秀側に加担します。
 更にまた、(5)の状況により、毛利氏支配域の東側を(幕府方から)牽制してほしいとの要請もあり、これに応じるための播磨国対策(攻め)でもありました。
 地域情勢は非常に複雑ですので、大まかに地域大名を以下の地図に示します。

在地大名概念図


また、同国内の比較的大きな勢力として、三木の別所氏があります。同氏は三好三人衆方でしたが、新政権誕生と共に幕府方に加わりました。
 播磨国は非常に豊かな地であり、「大国」でしたので、各地に地域勢力が割拠し、それぞれの思惑で動いていました。永禄12年当時は、前中央政権の崩壊と共に、同国内は更に複雑な動きを見せていました。

一方の幕府方も正攻法ばかりでは無く、裏でも動いており、影で敵方牽制を行っていました。

播磨三木城跡(撮影2021年10月)
備前国の守護代浦上遠江守宗景の配下であった宇喜多河内守直家が、堺商人今井宗久を通じて、幕府に誼を通じてきた事から、浦上氏は背後を脅かされて、行動ができなくなります。この頃、浦上氏は瀬戸内海の南岸の三好三人衆方と連携していました。宗景は、同年11月には、軍事行動を一旦諦め、今井氏を通じて、幕府に連絡をしてきます。
 またこの時の宇喜多氏は、備中国人三村氏や毛利氏に滅ぼされた尼子氏の残党と各地で連携し、浦上氏を圧迫する構えを見せていました。

元亀元年8月付けで、細川六郎への調略を行った時の、信長による知行宛て行いの条件は、この時の状況に沿うものだったと思われます。ハッキリとした味方である、赤松政秀と別所長治の所領、また保護対象の社寺、幕府関係者の領知を除いて知行するとは、そういう意味です。

永禄12年の、二度の播磨国討伐で、一応の沈静化に成功したとみて、次なる目標に意識が向かいます。三好三人衆勢の本拠地を攻めるべく、情報収集を行っていたようです。
 永禄13年2月19日付、堺商人今井宗久が、将軍義昭側近上野中務大輔秀政・和田伊賀守惟政・木下藤吉郎秀吉・松永山城守久秀などへ音信しています。
※堺市史5(続編)P927

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急度啓上せしめ候。淡路国へ早舟押し申し候処、一昨日辰刻(午前7時〜9時)、阿波国衆不慮雑説候て、引き退かれ候。然る処、安宅神太郎信康手の衆、相慕われ候処、阿波国衆手負い死人二百計り之在りの由候。敵方時刻相見られ申し候。恐々謹言。
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これは、永禄12年8月付で幕府方朝山日乗が、毛利方に伝えた連絡の中にある要素を具現化したもので、時期は遅れたものの実際に、情報収集を行って準備を進めていました。
※益田家文書1(大日本古文書:家わけ第22)P259

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(前略)九月十日頃、直ぐに在京為べく候。左候而、五畿内・紀州・播磨・丹波・淡路・丹後・但馬・若狭、右十二ヶ国一統に相〆め、阿波・讃岐か又は越前かへ、両方に一方申し付けられるべく体候。但し在京計りにて、当年は遊覧有るべくも存ぜず候。(後略)
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翌永禄13年(4月23日に「元亀」に改元)、朝倉・浅井氏討伐の最中に、幕府方の軍事的な中核でもあった摂津池田家の内紛が起こり、三好三人衆方に復帰してしまいます。これが号砲となり、五畿内を中心に広範囲に反幕府・織田信長の勢力が勢いを増します。
 幕府・織田方は、一旦、持ち直したものの、9月に入ると、これまで中立的であった本願寺宗までもが反幕府・織田方として武力蜂起に至り、京都の維持も困難になる程、窮地となります。一難去って、また一難。
 橋本政宣氏によると、この反織田戦線の取りまとめは、近衛前久であったとしています。史料は、元亀元年8月10日付、関白近衛前久が、薩摩国守護島津陸奥守入道貴久へ音信したものです。
※島津家文書2(大日本古文書:家わけ第16)P24、近世公家社会の研究P22+73

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旧大坂本願寺跡地(現大阪城内)
遥かに久しく申し通さず疎遠の処、芳札殊に唐鐘(金)・台(銀)、上せられ候。懇志の至り、尤も喜悦秘蔵候。別して御疎意無き由、本望此の事候。誠に思いも寄らず倭人の所行依り、京都退座せしめ、無念の至りに候。然れ共、織田信長分別せしめ、将軍義昭御存分謂われず、是非無く候。早々帰洛せしむべくの由、再三申し越しと雖も候。一旦面目失い候間、今于に至者、覚悟及ばず由申し放ち候。然者、近江国南北・越前国・四国衆(三好三人衆)悉く一味せしめ候て、近日拙者も出張せしめ候。則ち本意遂げるべく候。御心安かるべく候。猶進藤左衛門大夫長治(諸大夫)申し下すべく候也。状件の如し。
【近世公家社会の研究の解説】
第一部 第一章 二 出奔中の動向(反信長戦線と前久):
島津氏はもと薩摩島津庄が近衛家領であった由縁もあり、とくに前久の曾祖父尚通の頃から交誼を深くしていたが、この文書も貴久から久方ぶりに音信があり物を贈られたことに答謝し、近況を述べたものである。(中略)ここで注目すべきは、前久が六角、浅井、朝倉、三好三人衆と「一味」し、近日は「出張」し、本意を遂げるはずであるから安心してほしい、と述べていることである。本意を遂げる云々というのは、いわば常套語で確信性はともかくとして、「一味」「出張」云々と見え、前久が反信長戦線の一環として軍事行動をとっていたことが知られるのである。
第三章 近衛前久の薩摩下向(はじめに):
永禄11年(1568)、織田信長に擁され上洛した足利義昭と隙を生じ、京都を出奔した関白近衛前久は、7年間にわたり在国し、天正3年(1575)6月末に帰洛した。その間、摂津大坂、ついで丹波に移り、六角、浅井、朝倉、三好三人衆等と「一味」し、また本願寺と結び、反信長戦線の一環として行動した。丹波では、黒井城に拠り信長に怨敵の色を顕わしていた赤井直正の許に寄寓していたが、天正3年6月、信長の命を受けた明智光秀により丹波の経略が着手されるに及び、たぶん信長から働きかけがなされたのであろう、前久は丹波より帰洛するのである。長く在国していて朝廷への勤仕を怠っていた前久の前譴を免じられるよう執奏したのも、信長であった。(後略)
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引用が長くなりました。

結果を知る、現代の私達からすれば、後付けの考えに陥りがちですが、信長から細川六郎への朱印状は、政治・軍事的に求心力を持つ、管領格の六郎の離反を画策して、一気に三好三人衆勢力の殲滅を考えたのではないかと思われます。こちらから海を渡る手間が省けた訳ですから、野田・福島で総攻撃を行って討つ方が労力はかかりません。

丹波八木城跡(撮影2001年10月)
そして、三好三人衆方の内外へ向けた軍の中心(核)である六郎は「御屋形様」と呼ばれており、いち勢力の大将としての認識があった事が判ります。
 丹波国人内藤貞虎が、同国人赤井直正宿所へ宛てた音信(永禄12年(推定)3月23日付)にその記述が現れます。
※兵庫県史(史料編:中世・古代補遺9)P6

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其れ以後久しく申し通さず候。仍って京表於いて、三好三人衆を始め利を失われ故、御屋形(六郎)播磨国へ至り御下向之条、我等も御共に罷り下り候。尤も切々書状以って申し承るべく候処に、遠路に付き、万事音無き迄に候。其れに就き、御使い為、同阿(不明な人物)差し遣わされ候。万ず御入魂肝要候。御屋形様対当され、数代御忠節、並び無き御家にて候条、此の砌引き立て申されるべく事専一候。拙者も不断御近所に之有る事候間、いか様之儀にても久しく仰せ越されるべく候。御文箱使い仕るべく候。次に赤井時家、未だ申し通さず候へ共、幸便候間、書状以って申し入れ候。苦しからず候者、御届け成られ候て給わるべく候。尚期して参拝之時を期し候条、事々懇筆に能わず候。恐々謹言。
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この音信内容に少し触れると、永禄11年秋に将軍義栄が都落ちの折、細川六郎は播磨国を通って、本拠地讃岐・阿波国へ戻った事が判ります。この事から六郎は、芥川山城に居たようですので、丹波・播磨国経由で本国、阿波に戻ったと思われます。

摂津野田城跡(撮影2013年4月)
また、この信長からの朱印状は、実際に六郎へ届けられたと考えられ、元亀元年8月の摂津国野田・福島城へ陣を取った六郎の重臣は、先行して次々と幕府方へ投降します。
※改訂 信長公記(新人物往来社)P109、言継卿記(国書刊行会)P442

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『信長公記』野田福島御陣の事条:
(前略)二十六日、御敵楯籠もる野田・福島へ成らる。(中略)さる程に、三好為三・香西両人は、御味方に調略に参じ仕るべきの旨、粗々申し合わせられ候と雖も、近陣に用心きびしく、なりがたく存知す。(中略)八月二十八日夜に、三好為三・香西、摂津国天王寺へ参らせられ候。『言継卿記』9月3日条:
(前略)敵方自り三木■■■、麦井勘衛門両人、一昨日(9月1日)松永山城守久秀手へ出云々。
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摂津池田家の寝返りを受けて、一旦は崩れかけたものの立て直し、この時点まで、信長の思惑通りに進んでいました。三好三人衆勢を圧倒して、壊滅を目前にしながら、本願寺宗が武力蜂起を行い、これを合図に京都周辺で一斉蜂起が起きます。間一髪、三好三人衆方は窮地を脱して、反転攻勢に構え直します。それもあってか、細川六郎の幕府方への投降は実現せず、翌元亀2年暮れを待つ事になります。
 それからまた、幕府方赤松政秀(播磨国龍野)は、この年11月に毒殺されてしまい、地域の均衡が崩れます。敵対する浦上氏が播磨国内へ侵攻する事となりました。

六郎に示した調略条件が、数ヶ月後に状況が変わるというめまぐるしさです。この時点では、三好三人衆方は再び勢いを得て、六郎も態度を決めかねていたのかもしれません。調略条件としての条文にある播磨国内は、このような状況にありました。

 

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2025年6月25日水曜日

新出の「織田信長から細川六郎(昭元)へ宛てられた朱印状」が発行された、摂津池田家と細川六郎と三好為三の動き

永禄7年の三好長慶没後、まだ若年だった後継者義継を支える目的で、「三好三人衆」なる家中の有力者が官僚機構を中心として家を支える方策を打ち出しました。それまでにも、内政機関のようなものは、あったようですが、長慶の巨大な存在感と求心力を維持するために、特に意識して組織されたようです。
 当初は、そこに松永久秀も加わっていましたが、思いの違いから、三好一族衆と久秀の外様衆の闘争に発展します。
 外敵に備えるどころか、内部抗争に陥ってしまい、敵の付け入る隙を与えてしまいます。時が経ち、その抗争で劣勢に立たされた久秀勢は、外部勢力と手を組むようになります。これまでの敵であった勢力とも交わるようになり、争いはドロ沼化してしまいます。

さて、そんな「三好三人衆」と言われる一団にも変遷があり、当初は、三好長逸、石成友通、三好下野守であったのが、永禄12年5月に、下野守が死亡したことにより、その弟である為三が補充される事となったようです。
 しかし、その頃には三好家そのものも衰退の徴候が現れ、且つ、織田信長が戴く将軍義昭の京都中央政権が勢いを増していた時期でした。
 もはや三好家は団結の中心ではなく、集団の一翼的な立場になってしまいました。ブランド力を維持しているだけの集団です。そんな後期三好三人衆とも呼ぶべくその中に、三好為三は兄の後継者として、名を連ねていたようです。
 それ知る史料として、元亀元年8月2日のものと思われる、三好三人衆方三好日向守入道宗功(長逸)石成主税助長信・塩田若狭守長隆・奈良但馬守入道宗保・加地権介久勝・三好一任斎為三が、山城国大山崎惣中へ宛てた音信があります。
※島本町史(史料編)P435

---史料(1)------------------------
当所制札の儀申され候。何れも停止の条、之進めず候。前々御制札旨、聊かも相違在るべからずの間、其の意を得られるべく候。恐々謹言。
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大山崎の摂津・山城国境(2014年撮影)
しかし、そこに署名している人々は、3名以上で、名のある人物も見られますが、「三人衆」の枠内ではあるものの、集団に象徴的、また、強権保持者はいなくなりつつあったのかもしれません。三好方の当主は、あくまで河内半国守護に任ぜられた三好義継で、義継は幕府方の立場でした。
 一方で「三好三人衆」という集団は、比較的長期の活動実績もある事から広域に認知されてもおり、この集団の知名度を利用していた事も、この時期に認められるように思います。連名に見られる、奈良氏は奉行人のような立場の人物で、過去の文書履歴を管理して、新たな体制内で間違いの無い判断ができるように、重要な相手にはアピールの意味もあって、このような構成になっているのかもしれません。
 その他、後期三好三人衆によると思われる史料がありますので、ご紹介しておきます。今のところ、元亀元年4月22日の史料と推定され、石成友通と三好為三が、大和西大寺の関係者へ宛てて音信した史料です。大和国はこの時に敵対していた松永久秀の根拠地でもあります。
※戦国遺文(三好氏編2)P259

---史料(2)------------------------
◎石成主税助友通が、大和国西大寺綱維房へ宛てて音信(返報)
此の表在陣之儀に就き、御音信為御折紙殊に御巻数並びに鳥目弐拾疋語御意懸けられ候。御懇ろ儀畏み入り候。将亦其の表手遣い之刻、御寺中並びに在所之儀、疎略存ずべからず。恐々謹言。
◎三好一任斎為三が、大和国西大寺同宿中へ宛てて音信
御音信為巻数並びに鳥目20疋御意懸けられ候。御懇之至り畏み入り候。積もり参らせ御札申し入れるべく候。猶御使者へ申し候。恐々謹言。
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摂津国野田城跡(2013年撮影)
三好為三は既述の通り、三好下野守の跡を継ぐべく補充されたと考えられます。兄の下野守と管領格の細川六郎(昭元)とは直結した最側近の関係性でした。加えて、「三好三人衆」という三好家の政治中枢でもありました。

三好三人衆という組織の代替わりは、その主体を見失っていたと、その歴史から知ることができます。家を支える視点から離れ、個々人の利益のための「三好三人衆」ブランドの利用に陥ります。
 元々、この三好為三という人物は、その父である三好越前守政長(宗三)の遺志を継ぎ、「摂津池田家の財産は自分のものだ。」との主張を生涯に渡って続けています。
 この三好為三については、このブログで過去記事がありますので、そちらをご覧下さい。

三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その4:三好右衛門大夫政勝(為三)について)
https://ike-katsu.blogspot.com/2013/08/4.html

さて、そんな三好三人衆方の状況を知ってか、知らずか、織田信長はそ中の立場ある人物に調略を仕掛けます。それが、元亀元年8月付、織田信長による細川六郎宛の朱印状でした。
※泰厳歴史美術館蔵 元亀元年8月付、細川六郎宛の織田信長朱印状

---史料(3)------------------------
条目
一、池田当知行分并前々与力申談候
  但此内貮万石別ニ及理、同寺社本所奉公衆領知方、除之事。
一、播州之儀、赤松下野守、別所知行分、并寺社本所奉公衆領知方、除之、
  其躰之儀、申談事。
一、四国以御調略於一途者可被加御異見之事
  右参ヶ条聊不可有相違之状、如件。
---------------------------

この時、準備が調わなかったのか、状況許さず、六郎は直ぐに動きませんでしたが、しかし、その配下の中心的人物である、三好為三が香西佳清などを伴って、将軍義昭・織田信長方に投降します。
※改訂 信長公記(新人物往来社)P109、細川両家記(群書類従20:合戦部)P636、多聞院日記2(増補 続史料大成)P206、言継卿記4-P441など

---史料(4)------------------------
『細川両家記』元亀元年条:
(前略)一、同8月30日に三好下野守の舎弟為三入道は信長へ降参して野田より出、御所様へ出仕申され候なり。
『信長公記』野田福島御陣の事条:
(前略)8月28日夜に、三好為三香西、摂津国天王寺へ参らせられ候。
『言継卿記』8月29日条:明日武家摂津国へ御動座云々。奉公衆・公家衆、御迎え為御上洛、御成り次第責めるべくの士云々。三好為三(300計り)降参の由風聞。
『多聞院日記』9月1日条:
(前略)三好為三香西以下帰参云々。実否如何。
---------------------------

続いて、三好為三の重臣(馬廻り?)と思われる三木某などが、幕府方に投降します。
※言継卿記4-P442

---史料(5)------------------------
敵方自り三木■■■、麦井勘衛門両人、一昨日(9月1日)松永山城守久秀手へ出云々。
---------------------------

これは、史料(3)にある「池田当知行分、并せて前々与力申し談じ候。」に相当する動きであろうと考えられます。六郎の一団の関係者へ包括的に恩賞を用意し(唆す)、調略を実行していたのでしょう。故に、先に六郎の取り巻きから続々と投降したと考えられます。
 この深刻な事態を受け、三好三人衆の筆頭構成員である三好長逸が、池田城から野田・福島方面へ入ります。
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P636

---史料(6)------------------------
元亀元年条:
一、同9月3日に三好日向守長逸、同息兵庫介も摂津国池田より出、同国福嶋へ入城由候也。
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この重要情報を得たのか、幕府方和田惟政は、池田領内の市場を打ち廻るなどして、攻撃をしています。連絡線を絶つ目的があったのでしょう。
※言継卿記4-P443

---史料(7)------------------------
9月9日条:
池田衆取り出で、摂津国川辺郡伊丹へ取り懸かり、伊丹兵庫助忠親取り出で、同和田伊賀守惟政出合い、池田へ迎え入り、市場焼き云々。
---------------------------

三好為三など、敵勢力(組織)中枢の人物が投降した事により、その内部情報が、幕府・織田信長方に漏れてしまいました。そのためと思われますが、その約2週間後、幕府・織田勢は、野田・福島城の三好勢に対して総攻撃を行いました。
 しかし、それを機に、大坂本願寺が三好方として大挙加勢し、攻守の形勢が逆転してしまいます。幕府・織田勢は、京都を守備するために退却を余儀無くされました。

これは、広域に見ると、反幕府・織田勢力が、京都周辺で一斉に反撃を始め、京都を占領すべく動き始めた狼煙でもありました。

三好為三などは早速、軍事動員され、比叡山へも参陣しています。しかし、状況不利となり、信長は戦略的手段を用いて朝廷を動かし、朝倉・浅井・本願寺・三好など諸勢と和睦を結びます。元亀元年も暮れる、12月の事です。

この和睦が成立した事で、本願寺門主光佐は、細川六郎へ年末年始の音信を行っています。池田郷土史学会会員の荒木幹雄氏によると、両者は姻戚関係(義理の兄弟)であったようです。
 さて、細川六郎(後に右京大夫昭元)について、宣教師ルイス・フロイスは次のように記しています。
※耶蘇会日本通信(下)P232

---史料(8)------------------------
1573年4月20日(元亀4年3月19日)付、都発、パードレ・ルイス・フロイスよりパードレ・フランシスコ・カブラルに贈りし書簡:
(前略)細川殿(昭元)御屋形は公方様に次いで日本の重立ちたる領主なるが、攻囲の中に6ヶ月間中島の城に在り、之を囲めるは三人衆、霜台三好殿及び大坂の坊主並びに多勢の兵にして、城内には御屋形の家中重立ちたる武士のキリシタン2人在りき。城は決して武力を以て陥すこと能わず、屢(次)戦争あり双方共に常に士卒を亡いたり。終いに悉く通路を断ち飢餓に依りて之を陥落せしめたるが、細川殿は信長遠方に居り之を救うこと能わざりしが故に士卒と共に堺に赴きたり。
---------------------------

とあります。フロイスは、キリスト教の布教にあたり、権力構造やそれに関わる人物について、分析を行っており、それらの立場ある人物を教化する事で、更に情報も入手するという構図を作り上げていました。
 ですので、フロイスのこの記述も、概ね当時の認識を忠実に記していると考えられます。本願寺光佐と昭元は、義理の兄弟ではありますが、このように「攻守」全く逆の立場に身を置く事もありました。

元亀2年頃から幕府・織田勢と三好・本願寺など反幕府勢は再び交戦を始めます。この6月頃から幕府勢は、三好方であった池田衆を積極的に攻めたため、三好三人衆方であった池田衆は劣勢に立たされます。
 しかし、池田衆は起死回生の決戦を宿河原(白井河原)に挑み、見事に大勝利を得、敵大将の和田惟政とその重臣を多数を討ち捕るという、壊滅的な損害を与えます。惟政は、幕府の中枢を担う人物でもあり、その勢力を失う事で再び京都陥落の危険性が高まりました。この大合戦は、8月28日に行われ、その余波たる小競り合いは、同年11月頃まで続いています。

再び三好方が京都周辺で勢いを増した事から朝倉・浅井勢は、六角勢も加わって、比叡山方面まで迫ります。信長は、この窮地に朝倉・浅井を匿う比叡山を焼き討つという強行手段を取ります。この前年の同じ時期にも同様の行動があり、三度同じ事を繰り返さないという措置でもありました。門跡といえども、朝廷の意向にに随わない者は、武力行使を厭わない姿勢を内外に示しました。
 この間、白井河原合戦に勝利した池田衆は、支配領域を拡げ、歴代最大の版図を得るに至り、政治主導者の交替時の習わしである「摂津国豊嶋郡所々散在」へ宛てた禁制を下します。
摂津国箕面寺岩本坊(2022年撮影)
 三好三人衆方摂津国池田三人衆と見られる池田十郎次郎正朝・荒木信濃守村重・池田紀伊守正秀が、摂津国豊嶋郡中所々散在に宛てて禁制を下しています。
※箕面市史(資料編2)P411

---史料(9)------------------------
摂津国箕面寺山林自り所々散在盗み取り由候。言語道断曲事候。宗田(故池田筑後守信正)御時筋目以って彼の寺へ制札出され間、向後堅く停止せしむべく旨候。若し此の旨背き輩之在り於者、則ち成敗加えられるべく由候也。仍件の如し。
---------------------------

このように、幕府・織田勢が窮地に立つ中、細川六郎は、三好方から離れて投降します。続いて、三好三人衆の中心人物である石成友通も投降します。それは元亀3年1月のことでした。
※兼見卿記:第一(続群書類従完成会)P24

---史料(10)------------------------
17日条:
細川六郎(昭元)出頭也。見物了ぬ。騎馬薬師(寺)三宅香西三騎也。馬廻り打籠也。七百計り之在り。祗侯の砌、官途右京大夫、又名乗り御字遣わされ、秋(昭)元云々。
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細川六郎が投降すると、直ぐ「右京大夫」を叙任し、正式な管領の地位に就きます。また、将軍義昭から偏諱を受けて「昭元」と名乗ります。

元亀3年3月24日、細川昭元は、石成友通を伴い、京都二条妙覚寺の織田信長に参候します。
※改訂 信長公記(新人物往来社)P123

---史料(11)------------------------
むしゃの小路御普請の事条:
3月24日、(中略)細川六郎殿石成主税助始めて、今度、信長公へ御礼仰せられ、御在洛候なり。今般大坂門跡より万里江山の一軸、並びに、白天目、信長公へ進上なり。
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同じ頃、甲斐守護武田信玄の周旋により、織田信長と本願寺との和睦もなされています。史料(11)にある、「今般大坂門跡より万里江山の一軸、並びに、白天目、信長公へ進上なり。」とは、こういった本願寺方との和睦が成った事と、昭元が光佐と義理の兄弟であったという関係もあったためでしょう。

その後、今度は将軍義昭と織田信長の不和が深刻化してしまいます。(元亀3年)5月13日付、将軍義昭の武田信玄への内書を経て、信玄が反織田信長方松永久秀側近岡国高へ音信した内容から、将軍は信長の打倒を決意していたものとみられます。
 当時の通信事情から考えて、リアルタイムの意思疎通は不可能ですが、合意形成は既に整っていたと考えられます。
※戦国遺文(三好氏編3)P42

---史料(12)------------------------
珍札披見快然候。如来の意、今度遠江国・三河国へ発向、過半本意に属し候。御心安かるべく候。抑て公方様(将軍義昭)織田信長に対され御遺恨重畳故、御追伐為、御色立てられ之由候条、此の時無二の忠功励まれるべく事肝要候。公儀御威光以て武田信玄も上洛せしめ者、異于に他申し談ずべく候。仍て寒野川弓(十三張)到来、珍重候。委曲附しと彼の口上候之間、具さに能わず候。恐々謹言。
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この頃になると、三好三人衆は、本国阿波・讃岐・淡路国方面の外へ出る程の余裕がなくなり、内部抗争などを伴って、弱体化していきます。
 そのため、将軍が反信長勢を糾合し始めると、そちらへ靡く勢力が現れ、求心力は将軍義昭方向へ向かい始めます。
 将軍と織田信長は、互いに反目しながら、名だたる人物の取り合いになっていました。その過程で、摂津池田衆もその影響を受けて、どちら側に加担するのかで内部で争い始めます。他の国人、例えば塩川氏などでも同じ状況でした。
 そして、管領昭元も両陣営から誘いを受けていました。この流れで、将軍側近であった明智光秀や細川藤孝なども信長の傘下に入ったりしています。
摂津国中嶋城跡(2006年撮影)
 昭元は、どうも信長についたようで、記述の史料(8)にあるように、非常に苦しい場面でも、持ち場を守り抜く姿勢を示しています。昭元は、若年であった事や時代性もあって、その伝統的権威に陰りもみられ、経済基盤も弱かった事もそこに至る一因でした。そのため、先ずはその足がかりとなる中嶋(城)の持ち場を守る事に注力したのかもしれません。
 この余談を許さない状況の中で、政治・経済の中心となる中央政権(将軍義昭・織田信長)が分裂したために、細川昭元傘下として寝返った三好為三にとっても、判断の難しい局面に陥りました。
 元々、将軍義昭政権下で交渉はしていたものの、為三の要求が非現実的で莫大であったため、折り合いがつかずに、交渉が纏まらなかったようです。

年が明けた元亀4年、早々から将軍義昭と織田信長は、もはや武力衝突不可避となり、両陣営は、その準備を急ぎました。
 この流れで、摂津池田家中も分裂となり、池田一族衆は幕府方へ、荒木村重一党は織田方へ加担する事となって、袂を分かちます。
 2月になると。両陣営は動きを活発化させ、将軍義昭の拠点である京都二条城へ続々と友軍が集結し、幕府方池田衆も2000騎を率いて入城しました。
※耶蘇会士日本通信(下)P248

---史料(13)------------------------
1573年4月20日(元亀4年3月19日)付、都発、パードレ・ルイス・フロイスよりパードレ・フランシスコ・カブラルに贈りし書簡:
ジョアン(内藤如安)の都に着きたる日、池田殿兵士2000人を率いて公方様を訪問せり。此の兵士の到着に依り都は少しく鎮静せり。
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同月26日、摂津国中嶋城が落ち、ここを守っていた細川昭元と典厩家(管領家の分家)の細川藤賢は、堺に逃れました。
※織田信長文書の研究(上)P611

---史料(14)------------------------
猶以て朱印遣わし候はんかた候者、承るべく候。只今丹波国人内藤方への折紙之遣わし候。さてもさても此の如く体たらく不慮の次第に候。今般聞こ召し直され候へば、天下再興候歟。毎事御油断有るべからず候。替わる趣きも候者、追々承るべく候。京都の模様其の外具さに承り候。満足せしめ候。今度松井友閑・嶋田秀満を以て御理り申し半ばに候。之依り条々仰せ下さりに付きて、何れも御請け申し候。然ら者奉公衆の内聞き分けざる仁体、質物之事下され候様にと申し候。此の内に其方之名をも書き付け候。其の意を得られるべく候。此の一儀相済まず候者、其の上意に随うべく、何れも以て背き難く候間、領掌仕り候。此の上者信長不届きにて、之有るべからず候。此方隙き開き候間、不図(ふと)上洛を遂げ、存分に属すべく候。其の方無二之御覚悟、連々等閑無く入魂せしめ処、相見え候。荒木(信濃守)村重池田其の外何れも此の方に対して疎略無く、一味の衆へ才覚肝要に候。恐々謹言。
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しかし、この中嶋城は、信長方により、直ぐに取り戻されたようです。ここは水運の要であり、非常に重要な場所でもありました。非常に長い音信なので、細川昭元(中嶋城)関連を抜粋します。
※織田信長文書の研究(上)P614

---史料(15)------------------------
五畿内・同京都之体、一々行き届け候。度々御精に入れられ候段、寔に以て満足せしめ候。(中略)一、中嶋之儀、去る27日(2/27)に退城之由、さてもさても惜しき事に候。公方所為(せい)故に候。右京兆(細川昭元)御心中察しせしめ候。質物(人質)出しに付きては進上候て尤も候。(中略)一、中嶋之事、執々(とりどり)承りに及び候処、堅固之由尤も候。則ち書状以て申し候間、御届け専用に候。然ら者、鉄砲玉薬・兵糧以下之儀者、金子百枚・二百枚程の事余に安き事に候。上洛之刻、猶以て其の擬(検討をつける)仕るべく候。弥々荒木(信濃守)村重と相談有り、御馳走専一候。(後略)
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4月、遂に両者は衝突し、信長勢は洛中・洛外を大規模に放火します。これに将軍義昭方はなす術もなく、同月7日に和睦が成立します。そして、京都へ入る予定であった武田信玄が、同12日、進軍途中で死亡してしまいます。
 この事は、当時の通信事情から、また、京都周辺を封鎖している事もあり、信玄の死亡は、直ぐに将軍の元には届かず、将軍に加担する勢力との協働を計るべく、二条城防備を更に強化するなどしています。

山城国槙島城跡(2009年撮影)
7月5日、二条城を側近の三淵藤英に守らせ、将軍自らは山城国宇治郡槙島城に入って、再度の挙兵を行います。しかしながら、長くは続かず、同月18日、将軍が信長に降伏し、京都から追放となります。信長は間髪入れず、槙島城に細川昭元を入れ、周辺の残党を一掃するべく、拠点とします。
※改訂 信長公記(新人物往来社)P142

---史料(16)------------------------
真木島にて御降参、公方様御牢人の事条:
7月18日巳の刻、両口一度に、其の手其の手を争い、中島へ西へ向かって噇っと打ち渡され候。(中略)真木島には信長より細川六郎(右京大夫昭元)を入れ置き申され、諸勢南方表打ち出し、在々所々焼き払う。
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この掃討作戦で、将軍義昭方となって戦っていた、元三好三人衆の一人、石成友通は、山城国の淀城にて戦いましたが戦死しています。7月27から29日頃の事とされています。
※改訂 信長公記(新人物往来社)P143

---史料(17)------------------------
岩成討ち果たされ候事条:
去る程に、公方様より仰せ付けられ、淀の城に、岩成主税頭・番頭大炊頭・諏訪飛騨守両3人楯籠り候。羽柴筑前守秀吉、調略を以て、番頭大炊・諏訪飛騨守両人を引き付け、御忠節仕るべき旨、御請け申す。然る間、長岡兵部大輔藤孝に仰せ付けられ、淀へ手遣い候ところ、岩成主税頭、城中を懸け出で候。則ち、両人として、たて出だし候。切って廻り候を、長岡兵部大輔臣下、下津権内と申す者、組討ちに頸を取り近江国高嶋へ持参候て、頸を御目に懸け、高名比類無きの旨、御感じなされ、忝くも、召されたる御道服を下され、面目の至り、冥加の次第也。何方も御存分に属せらる。
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7月28日、元号が「天正」と改まり、ひとつの時代は終わり、新たな時代の幕開けを迎えました。

 

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<元亀元年から元亀4年までの動き> =================

◎元亀元年 --------------------
4/22 反幕府・織田信長方三好三人衆派石成友通、大和国西大寺綱維房へ宛てて音信(返信)
※戦国遺文(三好氏編2)P259

4/22 反幕府・織田信長方三好三人衆派三好為三、大和国西大寺同宿中へ宛てて音信
※戦国遺文(三好氏編2)P259

4/28 越前国金ヶ崎からの撤退戦始まる
※改訂 信長公記(新人物往来社)P103

5/上 織田信長、五畿内の主立った武家から人質を取る
※改訂 信長公記(新人物往来社)P102

6/9 将軍義昭一族同苗藤賢、某(幕府関係者)へ音信
※新修 茨木市史(通史2)P28、戦国摂津の下剋上(高山右近と中川清秀)P153 

6/18 幕府衆細川藤孝など、畿内御家人中へ宛てて音信
※大日本史料10-4-P525(武徳編年集成)、朝倉義景のすべてP66

6/18 摂津池田城内で内訌が起こる
※言継卿記4-P424、多聞院日記2(増補 続史料大成)P194、細川両家記(群書類従20:合戦部)P634

6/19 反幕府・織田信長方摂津池田衆、三好三人衆方へ使者を派遣
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P634

6/26 反幕府・織田信長方三好三人衆三好長逸・石成友通など、摂津国池田へ入城との風聞が立つ
※言継卿記4-P425

6/26 摂津守護池田筑後守勝正、将軍義昭に面会
※言継卿記4-P425

6/27 将軍義昭、近江国出陣を延期(中止)
※言継卿記4-P425

6/28 摂津守護和田惟政、小曽根春日社に宛てて禁制を下す(直状形式)
※豊中市史(史料編1)P121

7 反幕府・織田信長方三好三人衆派池田民部丞、山城国大山崎惣中へ禁制を下す(直状形式)
※島本町史(史料編)P443

7/5 反幕府・織田信長方三好三人衆派池田某、池田家の家督を相続?
※大日本史料10-4-P522(荒木略記)、池田町史P137

7/21 反幕府・織田信長方三好三人衆勢、摂津国中嶋へ上陸
※足利義昭(人物叢書)P168、言継卿記4-P432、近世公家社会の研究P23

7/27 反幕府・織田信長方三好三人衆三好長逸、摂津国欠郡天満森方面へ入る
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P634、陰徳太平記4(東洋書院)P54

8/2 反幕府・織田信長方三好三人衆三好為三など、禁制発給について山城国大山崎惣中へ宛てて音信
※島本町史(史料編)P435、戦国遺文(三好氏編2)P261

8/3 幕府衆細川藤賢(典厩)、摂津国人野部(辺)弥次郎へ音信
※新修 茨木市史(通史2)P29

8/13 摂津守護伊丹忠親、反幕府・織田信長方三好三人衆派池田勢等と摂津国猪名寺附近で交戦
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P634、陰徳太平記4(東洋書院)P54

8/25 摂津国豊島郡原田城が焼ける
※言継卿記4-P440

8/27 摂津守護池田勝正、摂津国欠郡天満森へ着陣
※ビブリア53号P155(二條宴乗記)、言継卿記4-P440、陰徳太平記4-P54

8/28 反幕府・織田信長方三好三人衆三好為三など、幕府・織田信長方に投降
※改訂 信長公記(新人物往来社)P109、細川両家記(群書類従20:合戦部)P636、多聞院日記2(増補 続史料大成)P206、言継卿記4-P441

9 反幕府・織田信長方三好三人衆派池田民部丞、摂津国多田院に禁制を下す (直状形式)
※川西市史(資料編1)P456

9/1 阿波足利家擁立派三好三人衆方三木某など、幕府・織田信長方松永久秀に投降
※言継卿記4-P442

9/3 将軍義昭、摂津国欠郡中嶋へ着陣
※ビブリア52号P157+62号P66(二條宴乗記)、細川両家記(群書類従20:合戦部)P636、改訂 信長公記(新人物往来社)P109、言継卿記4-P442

9/3 反幕府・織田信長方三好三人衆三好長逸など、摂津池田城を出て摂津野田・福島城へ入る
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P636、戦国歴代細川氏の研究P383

9/8 摂津守護伊丹忠親・和田惟政勢、反幕府・織田信長方三好三人衆派池田領内の市場などを打ち廻る
※言継卿記4-P443、高槻市史1-P738

9/12 幕府・織田信長勢、摂津国野田・福島城の総攻撃を行う
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P637、改訂 信長公記(新人物往来社)P109

9/20 織田信長、三好為三へ摂津国豊島郡の知行について音信(朱印状)
※池田市史(史料編1)P28、織田信長文書の研究-上-P417、戦国遺文(三好氏編2)P267

9/23 幕府・織田信長勢、摂津国方面から撤退
※言継卿記4-P448、細川両家記(群書類従20:合戦部)P638、改訂 信長公記(新人物往来社)P112

9/25 幕府・織田信長(為三含む)勢、比叡山の麓へ陣を取る
※改訂 信長公記(新人物往来社)P113

11 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津池田知正衆中川清秀、池田周辺諸城を攻める?
※伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P92

11/5 反幕府・織田信長方三好三人衆派池田民部丞、摂津国箕面寺に禁制を下す(直状形式)
※箕面市史(資料編2)P414

12/8 幕府・織田信長、三好三人衆方の和睦を成立させる
※ビブリア53号P164(二條宴乗記)、戦国期歴代細川氏の研究P128

12/25 反幕府・織田信長方本願寺光佐、細川六郎(昭元)に音信
※本願寺日記-下-P595

12/27 反幕府・織田信長方本願寺光佐、細川六郎(昭元)に音信
※本願寺日記-下-P596


◎元亀2年 --------------------
1/16 反幕府・織田信長方本願寺光佐、細川昭元へ音信
※本願寺日記-下-P596

1/16 反幕府・織田信長方本願寺光佐、細川昭元へ音信
※本願寺日記-下-P596

2/5 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津国人池田正秀荒木弥介石成友通、堺商人天王寺屋宗及の茶席に出席
※茶道古典全集8-P160

3/19 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津国人池田正秀、堺商人天王寺屋宗及の茶席に招かれる
※茶道古典全集8-P160

6/4 織田信長、幕府衆細川藤賢(典厩)の知行地について細川藤孝へ音信
※織田信長文書の研究-上-P458

6/中 摂津守護和田惟政、摂津国豊嶋郡原田城を落とす
※言継卿記4-P502、豊中市史(史料編1)P121

6/10 摂津守護和田惟政、摂津国吹田城を落とす
※言継卿記4-P502、高山右近(人物叢書)P29

6/12 織田信長、将軍義昭側近細川藤孝へ音信
※織田信長文書の研究-上-P459

6/16 織田信長、幕府衆明智光秀に三好為三の処遇について音信
※大阪編年史1-P406、織田信長文書の研究-上-P392、改訂 信長公記(新人物往来社)P109

6/23 摂津守護和田惟政、摂津国豊嶋郡牛頭天王へ宛てて禁制を下す
※豊中市史(史料編1)P122、高槻市史1-P739+3(史料編1)P432

6/24 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津国池田衆、摂津国有馬湯山年寄中へ宛てて音信
※兵庫県史(史料編・中世1)P503、池田市史1-P662

7/2 反幕府・織田信長方本願寺光佐、同細川昭元へ音信
※本願寺日記-下-P598

7/下 摂津守護池田勝正・幕府衆細川藤孝勢、摂津国池田城を攻める
※池田市史1-P668、吹田市史2-P10

7/26 幕府衆三淵藤英、摂津国豊島郡春日社目代に宛てて音信
※豊中市史(史料編1)P123

7/31 将軍義昭、三好為三に所領安堵の御内書を下す
※大日本史料10-6-P685、明智光秀(人物叢書)P61

8/2 摂津守護池田勝正、摂津国原田城へ入る
※池田市史1(史料編1)P82、大日本史料10編之6-P701(元亀2年記)、戦国期歴代細川氏の研究P223

8/18 摂津守護和田惟政・同伊丹忠親勢、反幕府・織田信長方三好三人衆勢と摂津国内で交戦
※高槻市史3(史料編1)P433、陰徳太平記3-P268

8/22 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津国池田勢、兵を率いて出陣
※耶蘇会士日本通信-下-P137、フロイス日本史4(中央公論社:普及版)P268

8/28 摂津国白井河原合戦
※高槻市史3(史料編1)P433+438、多聞院日記2(増補 続史料大成)P256、言継卿記4-P523、耶蘇会士日本通信-下-P137、フロイス日本史4(中央公論社:普及版)P268、陰徳太平記3-P268、ビブリア54号-P39(二條宴乗記)、大日本史料10-6(尋憲記)、中川史料集P15

9/1 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津国池田勢、摂津国茨木城とその領内を攻撃
※伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P144、陰徳太平記3-P270、中川史料集P21

9/5 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津国池田勢、摂津国高槻城を攻める
※中川史料集P22

9/6 反幕府・織田信長方三好三人衆派池田勢、戦闘に敗北
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P257

9/9 摂津国高槻の攻防について交渉が整い、一時的に停戦となる
※大日本史料10-6(尋憲記)、高槻市史3(史料編1)P439

10 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津国池田家内の中川清秀、摂津国欠郡新庄城へ入る
※よみがえる茨木城P17+67+130

10/21 織田信長、三好一任斎為三へ音信
※泰厳歴史美術館所蔵資料 2025年4月12日報道の新出史料

11/8 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津国池田三人衆、摂津国豊島郡中所々散在へ宛てて禁制を下す
※箕面市史(資料編2)P411、伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P17

12/13 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津国人池田正行、奈良春日大社南郷目代今西橘五郎へ音信
※春日大社南郷目代今西家文書P456、豊中市史(史料編1)P128

12/17 細川昭元、幕府へ出仕
※兼見卿記:第一(続群書類従完成会)P24


◎元亀3年 --------------------
1/26 織田信長、石成友通へ音信(朱印状)
※織田信長文書の研究(補遺・索引)P127、戦国遺文(三好氏編3)P22

3 織田信長、幕府方甲斐守護武田信玄の仲介により本願寺と和睦
※御坊市史1(通史編)P478、本願寺(井上鋭夫)P222

3/14 反織田信長方三好三人衆派摂津池田三人衆荒木村重、京都吉田神社神官吉田兼見からの音信を受ける
※兼見卿記:第一(続群書類従完成会)P37、伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P41

3/24 細川昭元、織田信長へ参侯
※改訂 信長公記(新人物往来社)P123、戦国史研究76号-P13

4/13 幕府方摂津国中嶋城細川昭元、反幕府・織田信長方三好義継と和睦
※明智光秀(人物叢書)P92

4/14 反幕府・織田信長方本願寺坊官下間正秀、近江国北部十ヶ寺惣衆中へ宛てて音信
※近江国古文書志1(東浅井郡編)P89、戦国遺文(三好氏編3)P30、本願寺教団史料(京都・滋賀編)P247

4/16 摂津守護池田勝正勢、河内国交野方面へ出陣
※兼見卿記:第一(続群書類従完成会)P38、改訂 信長公記(新人物往来社)P124

4/18 反幕府・織田信長方本願寺坊官下間正秀、近江国北部十ヶ寺衆惣中へ宛てて音信(返信)
※近江国古文書志1(東浅井郡編)P90、戦国遺文(三好氏編3)P31、本願寺教団史料(京都・滋賀編)P248

5/10 反織田信長方将軍義昭派本願寺坊官下間正秀、近江国十ヶ寺惣衆中へ宛てて音信
※近江国古文書志1(東浅井郡編)P90

6/2 幕府方将軍義昭派細川昭元、讃岐国人香西玄蕃助某へ音信
※瀬戸内海地域社会と織田権力P208

6/12 反織田信長方三好三人衆派荒木村重、摂津国豊嶋郡春日社南郷目代今西宮内少輔へ音信
※豊中市史(史料編1)P125、伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P13

8/25 幕府方細川昭元、美濃国常在寺へ音信
※岐阜県史(史料編:古代・中世編1)P60

8/28 反織田信長方将軍義昭派本願寺勢、幕府方織田信長派摂津国中嶋城を攻める
※中川史料集P14、戦国期歴代細川氏の研究P128、元亀信長戦記P53

9/2 反織田信長方将軍義昭派本願寺光佐、細川昭元に音信
※本願寺日記-下-P602

10/7 反織田信長方将軍義昭派三好三人衆方三好為三、上御宿所へ宛てて音信
※箕面市史(史料編6)P438

10/13 反織田信長方将軍義昭派三好三人衆方三好為三、聞咲(所属不明)へ音信
※大阪編年史1-P459、戦国遺文(三好氏編2)P272

11/6 将軍義昭、同側近上野秀政へ池田民部丞召しだしについて内書を下す
※高知県史(古代中世史料)P652

11/13 織田信長、細川昭元衆薬師寺弥太郎へ音信(朱印状)
※織田信長文書の研究-上-P585

11/19 織田信長衆木下秀吉、将軍義昭側近曾我助乗へ音信
※兵庫県史(史料編・中世9)P432、豊臣秀吉文書1-P16、細川家文書(中世編)P151

12/10 将軍義昭、側近一色藤長へ細川典厩藤賢について内書を下す
※福井県史(資料編2)P686

12/20 反織田信長方三好三人衆・三好義継・松永久秀・本願寺勢など、摂津国中嶋城を攻撃
※大阪編年史1-P492


◎元亀4年 --------------------
2 織田信長方摂津国人荒木村重、佐久間信盛などへ使者を遣わす
※陰徳太平記4(東洋書院)P134

2/15 摂津池田衆など将軍義昭勢、京都二条城へ集結
※亀岡市史(資料編1) P1168、耶蘇会士日本通信-下-P248、永禄以来年代記(続群書類従29-下)P268

2/23 織田信長、荒木村重の「無二之忠節」の約束に喜ぶ
※織田信長文書の研究-上-P606、兵庫県史(史料編・中世9) P432、伊丹史料叢書4(荒木村重史料)P23

2/26 織田信長、摂津池田衆荒木村重の扱いについて細川藤孝に音信
※織田信長文書の研究-上-P611、綿考輯録1-P65

2/27 摂津国中島城が落ち、細川昭元が堺へ逃れる
※細川両家記(群書類従20号:武家部)P639、耶蘇会士日本通信-下-P232、織田信長文書の研究-上-P614

3/7 織田信長、摂津国中嶋城について細川藤孝に音信
※亀岡市史(資料編2)P1168、織田信長文書の研究-上-P614、兵庫県史(史料編・中世9)P434、伊丹史料叢書4(荒木村重史料)P24

3/11 足利義昭方池田衆、京都八条へ陣を取る
※戦国期室町幕府と在地領主P298、大日本史料10-14(東寺執行日記)P246

3/12 将軍義昭方池田衆及び内藤如安忠俊、兵を率いて将軍義昭へ参侯
亀岡市史(資料編1)P1171、耶蘇会士日本通信-下-P248、イエズス会日本報告集(第3期第4巻)P198、フロイス日本史(中央公論社刊)4-P290

3/13 足利義昭方池田衆、京都八条方面で東寺衆と陣取りを巡って喧嘩
※東寺執行日記3(思文閣出版)P173、耶蘇会士日本通信-下-P249「註」、フロイス日本史(中央公論社刊)4-P292

3/14 将軍義昭、摂津国人池田遠江守某へ内書を下す
※高知県史(古代中世史料)P651

3/27 織田信長派荒木村重・細川藤孝、近江国逢阪で織田信長を迎える
※フロイス日本史(中央公論社刊初版)4-P299、イエズス会日本報告集(第3期第4巻)P206、陰徳太平記4-P134

3/27 将軍義昭、兵を城に入れて防備を固める
耶蘇会士日本通信-下-P259(異年年代記抄節)、イエズス会日本報告集(第3期第4巻)P205

3/29 織田信長派荒木村重、細川藤孝と共に織田信長と知恩院で会見
※改訂 信長公記(新人物往来社)P 137、耶蘇会士日本通信-下-P262、イエズス会日本報告集(第3期第4巻)P206

4/4 将軍義昭方本願寺光佐から越前守護朝倉義景への音信に池田遠江守が登場
※本願寺日記-下-P611

4/7 将軍義昭・織田信長の和睦が成立する
※大日本史料10-15-P81、福井県史(資料編2)P726、図説丹波八木の歴史2(古代・中世編)P169

4/27 織田信長衆林秀貞など、将軍義昭方奉行人池田清貪斎正秀などへ起請文を提出
※織田信長文書の研究-上-P629、足利義昭(人物叢書)P207

4/28 将軍義昭方池田清貪斎正秀など、織田信長衆塙(原田)直政などへ起請文を提出
※織田信長文書の研究-上-P630、足利義昭(人物叢書)P207

7/5 将軍義昭、織田信長に対して再度挙兵
※改訂 信長公記(新人物往来社)P139、長岡京市史(資料編2)P650

7/18 将軍義昭、織田信長に降伏
※ビブリア54号(二條宴乗記)P59、改訂 信長公記(新人物往来社)P141、信長記-上(現代思潮新社)P172

7/20 織田信長方細川昭元、山城国槙島城へ入る
※改訂 信長公記(新人物往来社)P142、信長記-上(現代思潮新社)P174

7/20 織田信長方細川昭元、山城国槙島城へ入る

※改訂 信長公記(新人物往来社)P142、信長記-上(現代思潮新社)P174

7/27 足利義昭方石成友通、戦死
※改訂 信長公記(新人物往来社)P143、足利義昭(人物叢書)P219

8 荒木村重、摂津国一職を約される?
※織田政権の基礎構造(織豊政権の分析1)P109、陰徳太平記4(東洋書院)P135

8/4 足利義昭方池田某自刃?
※池田市史(資料編1)P82、伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P134、陰徳太平記4(東洋書院)P135

 ================= <年表おわり>

 

2024年10月5日土曜日

細川六郎と三好三人衆(元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状)

京都の中央政権を支えた阿波国に縁を持つ三好家が、三好長慶を筆頭に、歴代最大の版図を築くに至ります。しかし、永禄7年(1564)7月、その三好長慶は失意の内に亡くなります。
 その後、間もなく三好長慶を支えた一族家老・重臣同士の争いに発展し、結局は京都周辺に威勢を誇った三好氏も没落してしまいます。

その過程で、家名存続に腐心した三好三人衆(三好家家老格であり、家政中枢であった組織機構)と、伝統的権威であり室町幕府機構内の「管領」格であった細川六郎(家)について、考えてみたいと思います。

この管領(格を有する)細川家は、日本各地にあり、その細川家を担いで、地域権力とその統治機構があったようですが、今回の記事は、京都を中心とした(室町幕府直結の)細川管領家について、観察してみます。
 この京都に在所する足利将軍権威に含まれる管領職について、三好長慶を筆頭とする阿波三好家が深く関わり、支えていました。
 それらの実態については、複雑怪奇で、それらの説明は割愛します。ここでは特に、長慶の時代から元亀元年までの動きについて述べたいと思います。

例の如く、その流れについては、この記事の本文以下に、関連する出来事の一覧を掲示します。

状況からすると、阿波三好家からしても迷惑で、不可抗力的な悲劇なのですが、将軍家の同族争いと管領家の争いが連動して起こり、その権威構造の歯車が、その力で全て動いてしまうので、三好家としても引き込まれざるを得ない状況でした。それが長慶の代で概ね決着し、沈静化がある程度、進みました。

六郎(昭元)の父である管領細川晴元は、自らの失政で招いた混乱に抗いきれず、長慶という、かつての重臣に従わざるを得なくなります。

近江国(現滋賀県)朽木の将軍御所跡
天文20年(1551)12月、細川晴元方であり、近江国守護六角定頼・義賢父子と三好長慶が和睦する事となります。この時の条件について、管領晴元の嫡子である六郎を、現管領である細川氏綱の後、もしくは、然るべき時期に、晴元嫡子六郎を管領に就かせる条件で和睦を締結します。
 それにより、年が明けた天文21年1月に将軍義輝は、避難先の近江国朽木地域から京都へ戻ります。この折に、六郎も随伴していますが、その親である晴元は、剃髪して僧体(入道号永川)となり、出奔します。

この間暫く、駆け引き、争いがありますが、三好長慶が優位に状況を切り抜け、勢力を拡大していきます。
 弘治4年(1558)2月3日、細川六郎(この時、聡明丸)を摂津国芥川(山)城で、三好長慶は元服させます。この烏帽子親を晴元の敵対一族である現管領の細川氏綱が行いました。加えて、その月内に改元まで行い、元号を「永禄」として発布します。
 これは晴元の系譜を継がず、敵対する氏綱の系譜に組み込むという流れを作る事となり、この行為についての大きな反感を長慶は買いました。特に晴元擁護派の中心である、近江守護家六角氏(細川晴元の妻は六角定頼の娘で、両家は親類)が反発し、三好長慶に敵対する勢力を糾合して争う構えを見せます。

それに対抗して、三好長慶は管領の上位権力である将軍義輝に接近し、御相伴衆に取り立てられるように仕向けたりして、自らの地位を上昇させる策を講じます。また同時に、管領家も長慶の権力機構内に収めつつ、更にその上位権力との関係性を作り、自らの地位も上昇させる事で、敵の抵抗を政治戦略的に無力化する策に出ます。
 やはりこれは功を奏します。永禄2〜3年の河内南半国守護職畠山家の内紛鎮圧は、幕府の正規軍として三好長慶が行っています。しかし、それでも反抗は止まず、翌4年(1561)7月にも、長慶に対して包囲網を敷いて、近江六角承禎(義賢)が中心となって武力蜂起します。しかし、永禄7年7月、長慶はその鎮圧の半ばで死亡します。

少し時間を戻します。

京都吉田神社 
永禄6年(1563)という年は、京都周辺で疫病が発生していたとみられ、それを裏付ける史料があります。京都吉田神社の神主、兼右が、4月19日の事として記述しています。
※兼右卿記(上)P142

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上野民部大輔(信孝)、不例に就き、神道泰山府君祭事、上位(将軍)為、細川民部大輔(藤孝)以て仰せ出され了ぬ。既に急病也。諸道具5月3日中に調え難き旨申し入れ了ぬ。然者、(賀茂)在冨卿に仰せ出されるべく候云々。尤も然るべく候旨返答了ぬ。彼の病者十死一生也。若し平癒無き之時■天度く然るべく之間、此の分申し上げ了ぬ。
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この年に、細川晴元、同氏綱の両管領が死亡します。そして、長慶の跡取りであった三好義興も病没してしまい、親の長慶にとって、悲嘆に暮れる年となりました。この後、管領職は正式に承認された人物はなく、事実上「空位」となっていたと思われます。

さて、永禄7年(1564)、三好長慶亡き後、長慶実弟(十河一存)の養子先である十河家から養子を迎えて、家中政治の立て直しを図ります。
 三好家長慶跡目となった義継は、この時は(数えで15才)まだ若く、長慶を支えていた家老や重臣が同じくその新当主を支えました。しかし、司令塔であり、象徴であった当主長慶を不慮に失い、家臣団の意見が纏まらなくなります。
 永禄8年(1565)5月、三好勢は将軍義輝の暗殺を決行する暴挙に出、この年の内に三好三人衆という一族集団と新参であった松永久秀が対立し、内紛となります。もはや「天下取り」どころではなく、内紛の勝敗に明け暮れる事態に陥ります。
 このような事態は、三好家にとっては想定外であったでしょう。ですので、権力の整理や組織の象徴の奉戴など、次の段階の作業に着手する事ができず(構想はあったと思われる)に、内紛の処理に追われます。

足利義栄木像
将軍の殺害自体(主殺し)、当時でも非道な行為であり、これを実行するにあたっては、それに相当する(社会的な)行為の理由付けと準備が必要な筈です。これは思いつきではなく、構想があり、準備の上で行われたのだと思われます。また、『佐々木六角氏の系譜』では、この現役将軍の襲撃事件は近江守護六角氏家中で「(いわゆる)観音寺騒動」が起きたため、その間隙を衝いて実行されたと分析されており、やはり計画的である要素があったように思います。(阿波三好家による非道な暴挙は、これで二度目で、主君阿波国守護細川讃岐守氏之を三好長慶実弟の同名豊前守実休が天文22年(1553)6月に、殺害しています。)
 さて、この当時、将軍義輝を暗殺した直後、阿波足利家を将軍に立てるとの噂が広がっています。
※言継卿記3-P502、フロイス日本史3(中央公論社:普及版)P312、足利季世記(三好記:改定 史籍集覧13別記類)P232など

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『言継卿記』5月19日条:
辰刻(午前7時〜9時)三好人数松永右衛門佐久通等、10,000計り以て俄に武家御所へ乱入之取り巻き、暫く戦い云々。奉公衆数多討死云々。(中略)阿州の武家御上洛有るべく故云々。(後略)
『フロイス日本史(中央公論社:普及版)』都において事態が進展した次第、および三好殿と奈良の(松永)霜台の息子が、公方様とその母堂、姉妹、ならびに奥方を殺害した次第条:
彼は若者である三好殿と、公方様を殺害し、阿波国にいる(公方様)の近親者をその地位に就かせる事で相談し、その者には公方の名称だけを保たせれば、それからは両名がともに天下を統治する(ことができると考えた)。
『足利季世記』光源院殿御最後之事条:
阿波御所様、三好三人衆、松永・篠原山城守を頼りに御頼みありて御上洛の御望みあり。先年より頻りに此の事ありけれども、長慶存生の中は、当公方様御馳走申して更に御請けなかりける、今長慶一期の後、子息幼稚なれば、一族衆を一偏に御頼みありければ、皆阿波御所え御一味申しけり。
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記述の、将軍義輝殺害後の三好家分裂は、約2年間に渡る抗争となりますが、これにより三好家の家運は傾きます。
 激しい内紛の中で、最終的には、三好三人衆方が競り勝って、阿波足利家の義栄(よしひで)を、正式な第14代室町将軍に就ける事に成功します。永禄11年2月8日の事です。
※言継卿記4-P211

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(前略)今夜将軍宣下、上卿出立要脚、伝奏於いて300疋之請け取り、澤路備前守入道之遣わす。同請け取り後日之遣わす。(中略)左馬頭源朝臣義栄宜しく征夷大将軍為し、兼ねて又聴着禁色すべく、予微頌、(後略)
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この争いの間、両者は公的・正当性の主張のシンボル(象徴)として、高位の人物を味方に付けようと腐心しています。
 松永久秀は、自身の行動の象徴として、三好家当主三好義継を奉戴していました。この関係は、両者が死亡するまで続く、堅いものでした。永禄10年2月に、三好家当主の義継は、松永久秀の元へ走ります。
※言継卿記4-P122、兼右卿記(下)P121、多聞院日記2(増補 続史料大成)P9など

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『兼右卿記(下)』2月16日条:
今夜亥刻(午後9〜11時)、三好左京大夫与松永弾正少弼一味せしめ云々。(後略)
『多聞院日記』2月18日条:
(前略)一、去る16日(2月16日)三好左京大夫堺にて宿所を替え了ぬ。松永弾正少弼と同心歟と河内国雑説之由也。いかが、大坂へ行き云々。
『言継卿記』2月17日条:
(前略)三好方池田内等昨日破れ云々。又大乱に及ぶべく、笑止之儀也。三好左京大夫(義継)、同山城守、安見等、摂津国遠里小野へ打ち出し云々。三好日向守、同下野守入道、石成主税助、和泉国境に之有り云々。松永弾正少弼(久秀)衆蜂起云々。池田之内75人引き破れ云々。(後略)
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対する三好三人衆は、将軍格を立てており、天下への戦略(号令)としては、義継を擁立するよりも戦略的には大きな意味があります。ですので、この奏功で、いずれ義継の事も解決できると考えていたのかもしれません。

漸くここから、細川六郎(後の昭元)の動きについて、触れていきたいと思います。歴代最長の前置きで、新記録達成です。すみません。 m(_ _)m

そんな状況でしたので、六郎は三好家中で保護されていたものの、弘治年間の元服以来、この動きの中で、史料としては表立って見られません。また、年齢も若く(三好義継とほぼ同年代)、政治的な動きもできなかったのかもしれません。永禄10年(1567)になり、ようやく六郎が史料上で確認できるようになります。
 本願寺宗法主(顕如)の光佐が、細川六郎に宛てて音信しています。具体的には不明ですが、何か重大事項を控えているような内容です。2月3日付の音信です。
※本願寺日記-下-P578

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肇年嘉祥、逐日尽際有るべからず。彌堅意任されるべく候。抑3種5荷進め入れ候。表祝儀計りに候。猶下間上野法橋申せしめるべく候。穴賢穴賢。
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更に、同年9月28日の事として、細川六郎が山城国大原口などの山科率分の今村氏受け持ち分を違乱している旨、公卿山科言継(ときつぐ)の日記に現れます。
※言継卿記4-P172

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10月2日条:
(前略)澤路隼人佑(言継被官)来たり。内蔵領率分東口之事、細川六郎(昭元)違乱云々。折紙持ち来たり。山城国大原口・粟田口山科率分今村(慶満)分事、上使差し越され上者、役銭等先々の如く彼の代沙汰致すべく由状件の如し。永禄10年9月28日 為房判(昭元奉行人飯尾) 諸役所中。承引能わず、上使追い返し云々。重ねて来たるべくの由申し云々。(後略)
----------------------------

同年、本願寺の光佐が、念入りに年の暮れと新年の挨拶を細川六郎に送っています。この頃、六郎の年齢は数えで20才になっています。永禄10年暮れと明けた新年の音信です。
※本願寺日記-下-P581+583

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12月23日条:
歳暮嘉慶、尤も以て珍重候。仍て太刀一腰之推し進め候。猶下間上野法橋申すべく候。穴賢穴賢。
1月26日条:
春の吉兆、漸く事舊(旧)しと雖も候。尚以て休盡有るべからず、多幸多幸。仍て3種5荷之推し進め候。祝詞逐日重畳申し展べるべく候。穴賢穴賢。
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これは本願寺宗にとって、六郎が重要な人物であると認識していた証拠でもあると思われます。

芥川山城(撮影:2001年2月)
永禄11年(1568)には、三好三人衆が将軍義栄政権の体制整備を行っていたようで、管領(かんれい)格であった六郎もその政権内に据えて、安定の一要因にと考えていたのかもしれません。
 しかし、この年の秋、故将軍義輝実弟である足利義昭を奉戴した織田信長により、三好三人衆方に上洛戦を挑まれ、抗いきれずに将軍義栄政権は崩壊してしまいます。
 この時、細川六郎は摂津国芥川(山)城付近で、三好三人衆筆頭の三好長逸と共に迎え撃ちましたが、衆寡敵せずに敗走しています。
※言継卿記4-P273、改訂 信長公記(新人物往来社)P86など

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『言継卿記』9月29日条:
(前略)今日武家御所天神馬場迄御進発云々。先勢芥川之麓之焼き攻め云々。(後略)
同月30日条:
(前略)今日、武家芥川へ御座移され云々。勝龍寺・芥川等之城昨夕之渡し、郡山道場今日之破れ、富田寺外之破れ、寺内調べ之有り。池田へ取り懸け云々。(後略)
『足利季世記』新公方様御上洛之事条:
(前略)同9月28日、信長は京都東福寺に着陣して石成主税助が楯籠もりし山城国西岡の勝龍寺城を攻めらるる、柴田修理亮と石成主税助終日合戦し、石成打ち負け50余人打ち取られ、叶うまじとや思いけん降参を請いければ、上意得られ一命を助けて城を請け取り、石成おば信長の手に加えらる。公方様には越水城へ御動座ありけり伊丹大和守親興は、越前国へ御使者を奉り御味方に参り御教書給わり所領3000貫給わり、兵庫頭になりければ、公方様の御手合いとて馳せ向かい、9月29日摂津国武庫郡河辺郡両郡を放火す。是れを聞きて三好方の高屋の城も飯盛城も自落しければ、畠山高政は初めより一乗院様の味方なれば、本領なればとて高屋城に打ち入りけり。同日、新公方様南方の御敵退治の為に御出張(中略)尾州(尾張国)衆、高槻・茨木へ陣取る。芥川城へは、故細川晴元一男六郎とて三好日向守籠もりけるが是れも叶わず明け渡しける。(後略)
『改訂 信長公記』信長御入洛十日余日の内に、五畿内隣国仰せ付けられ、征夷将軍に備えらるるの事条:
(前略)29日、勝龍寺表へ御馬を寄せらる。寺戸寂照に御陣取。これに依って石成主税頭降参仕る。晦日、山崎御着陣。先陣は天神の馬場に陣取る。芥川に細川六郎殿、三好日向守楯籠もる。夜に入り退散。並びに篠原右京亮居城越水、滝山、是れ又退城。然る間、芥川の城へ信長供奉なされ、公方様御座を移さる。(後略)
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細川六郎は、一旦、三好三人衆勢と共に阿波国方面へ待避していたようですが、体制を立て直し、再び上洛(京都奪還)を目指した戦いの準備を行っていました。
 ちなみに、この三好三人衆勢が京都から落ちる時、将軍義栄は、その途上で死亡します。これはあまり記録が無いのですが、それは、長慶の前例の如く、喪の秘匿によるものと思われます。

それ故に、「戦(いくさ)」をより有利に展開するためにも求心力のある人物をより多く味方に付ける事は、非常に重要な課題となります。
 三好三人衆方にとって、六郎の価値が急騰していました。そんな状況を示す史料があり、これは六郎が、丹波国人へ上洛戦のためと思われる音信を行っています。永禄12年と推定される3月20日付けで、細川六郎が、丹波国人荻野(赤井)悪右衛門尉直正へ宛てています。なお、署名は「元」の一文字のみです。また、『近世公家社会の研究』によるとこの音信は、六郎が阿波国から発したものと推定されています。
※兵庫県史(史料編・中世9)P6、近世公家社会の研究P37など

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先度染筆様体申し越し候。参着候哉。然者、行事、相催し候条、此の刻、別して忠節為るべく候。恐々謹言。
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丹波八木城跡(撮影:2201年10月)
もう一通、細川六郎と連なる動きをしている丹波国人内藤貞虎が、同国人赤井(荻野)悪右衛門尉直正宿所へ宛てて音信があります。これも同年と推定される3月23日付けの史料です。文中の「御屋形」とは、細川六郎を指していると考えられます。
※兵庫県史(史料編・中世9)P6、戦国遺文(三好氏編2)P245

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其れ以後久しく申し通さず候。仍って京表於いて、三好三人衆を始め利を失われ故、御屋形(六郎)播磨国へ至り御下向之条、我等も御共に罷り下り候。尤も切々書状以って申し承るべく候処に、遠路に付き、万事音無き迄に候。其れに就き、御使い為、同阿(不明な人物)差し遣わされ候。万ず御入魂肝要候。御屋形様対当され、数代御忠節、並び無き御家にて候条、此の砌引き立て申されるべく事専一候。拙者も不断御近所に之有る事候間、いか様之儀にても久しく仰せ越されるべく候。御文箱使い仕るべく候。次に(赤井)時家、未だ申し通さず候へ共、幸便候間、書状以って申し入れ候。苦しからず候者、御届け成られ候て給わるべく候。尚期して参拝之時を期し候条、事々懇筆に能わず候。恐々謹言。
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そして、永禄12年(1568)閏5月、三好三人衆勢は、実際に軍を動かして出陣しています。『多聞院日記』閏5月14日条に、その記述が現れます。
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P130

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(前略)一、淡路(国)於いて喧𠵅有て、(三好)為三ノ矢野ノホウキ(伯耆守)以下死に、三人衆果て云々。実否如何。
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伝摂津中嶋城跡(撮影:2006年10月)
この後暫く、六郎に関する史料は見られなくなり、元亀元年(1570)の摂津国野田・福島合戦を迎えます。この年、六郎は満22才。
 その頃には、三好三人衆方も六郎の政治・軍事的価値を再認識しており、その動くところには、必ず「六郎」の記述が見られるようになります。
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P634

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元亀元年条:
(前略)旁以て阿波国方大慶の由候也。然らば先ず淡路国へ打ち越し、安宅方相調え一味して、今度は和泉国へ、摂津国難太へ渡海有るべく也と云う。先陣衆は細川六郎(昭元)殿、同典厩(細川右馬頭晴賢)。但し次第不同。三好彦次郎殿の名代三好山城守入道咲岩斎、子息徳太郎、又三人衆と申すは三好日向守入道北斎、同息兵庫介、三好下野守、同息、同舎弟の為三入道、石成主税介。是を三人衆と申す也。三好治部少輔、同備中守、同帯刀左衛門、同久助、松山彦十郎、同舎弟伊沢、篠原玄蕃頭、加地権介、塩田若狭守、逸見、市原、矢野伯耆守、牟岐勘右衛門、三木判大夫、紀伊国雑賀の孫市。将又讃岐国十河方都合其の勢13,000と風聞也。(後略)
----------------------------

この時は、細川晴元の一族同苗の典厩家(管領の分家で政賢流、右馬頭:摂津国中嶋城主)でもある晴賢の動向も記述されており、この頃の三好三人衆方はより強固に権威(権力)の利用とこだわりを見せています。この典厩家の晴賢は生没年が不詳ながら、六郎と比べると年齢がかなり上ですので、補佐的な実務への期待もあった可能性がありますね。もちろん、陣所が野田・福島ですので、中嶋はこの地域の中心地でもあります。それも意識していますね。
 また、六郎の存在を三好三人衆が活用しているのは、共闘するにあたり、近江国守護家の六角氏との関係を保つためでもあったと思われます。

このように、元亀元年頃には三好三人衆方にとって、管領格であった細川六郎は、組織の求心力を発揮し、団結の中心として、大きな役割を果たす人物となっていました。


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<天文20年から元亀元年8月の関連資料概要> =================
天文20年12月 -------------------
将軍義輝方六角義賢・定頼父子と細川氏綱方三好長慶の和睦会談が行われる
※戦国三好一族P139、三好長慶(人物叢書)P121、足利義昭(人物叢書)P87

天文21年 -------------------
 
1月28日 将軍義輝、入京
※言継卿記2-P443、群書類従20号(武家部:細川両家記)P612

弘治4年 -------------------
2月3日 細川晴元嫡子昭元、細川氏綱方三好長慶居城芥川山城にて元服
※群書類従20号(武家部:細川両家記)P615、戦国期歴代細川氏の研究P-347など
 
永禄4年 -------------------
7月 細川晴元方反三好長慶勢、各地で挙兵
※高槻市史1-P714、和泉市史1-P356、中世後期畿内近国守護の研究P222
 
永禄6年 -------------------
2月 池田長正死去
※池田市史1-P658
 
3月1日  細川晴元病没
※群書類従20(合戦部:細川両家記)P622など
 
4月19 将軍側近上野信孝、急病につき京都吉田神社神主兼右へ音信
※兼右卿記(上)P142

8月25 幕府方三好長慶嫡子義興没
 ※群書類従20(合戦部:細川両家記)P622

12月20 細川氏綱病没
※群書類従20(合戦部:細川両家記)P623

永禄7年 -------------------
5月7日 幕府方三好長慶、弟の安宅摂津守冬康を殺害
※言継卿記3-P408

7月4日 幕府方三好長慶死亡
※細川両家記 (群書類従20:合戦部)P623
 
永禄8年 -------------------
5月19日 足利義栄上洛の噂が立つ
※言継卿記3-P502、フロイス日本史3(中央公論社:普及版)P312、足利季世記(三好記:改定 史籍集覧13別記類)P232など

8月2日 幕府方三好義継衆松永長頼、丹波国で戦死
※多聞院日記1(増補 続史料大成)P422、言継卿記3-P521

永禄10年 -------------------
2月3日 本願寺光佐、細川六郎昭元へ音信
※本願寺日記-下-P578

9月28日 公卿山科言継、細川昭元の押領について音信を受け取る
※言継卿記4-P172

12月23日 本願寺光佐、細川昭元へ音信
※本願寺日記-下-P581

永禄11年 -------------------
1月26日 本願寺光佐、細川六郎昭元へ音信
※本願寺日記-下-P583

9/月29日 幕府方三好長逸勢、摂津国芥川山城などの拠点が落ちて敗走する
※言継卿記4-P273、足利季世紀(改定史籍集覧 第13冊)P246、改訂 信長公記(新人物往来社)P86など

永禄12年 -------------------
3月20日 三好三人衆方細川昭元、丹波国人赤井直正へ音信
※兵庫県史(史料編・中世9)P6、近世公家社会の研究P37

3月23日 三好三人衆方丹波国人内藤貞虎、同国人赤井直正宿所へ宛てて音信
※兵庫県史(史料編・中世9)P6、戦国遺文(三好氏編2)P245

閏5月7日 三好三人衆方細川六郎(昭元)、丹波国人赤井直正へ音信
※兵庫県史(史料編・中世9)P6、戦国期歴代細川氏の研究P127

閏5月14日 三好三人衆内で喧嘩が起きる
※ 多聞院日記2(増補 続史料大成)P130

================= <年表おわり>


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2024年9月23日月曜日

併せて見るべき関連性の高い史料(元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状)

令和6年(2024)8月14日頃に報道された、新出の歴史史料、織田信長から細川六郎(昭元)へ宛てられた朱印状(以下、元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状)について、その史料と併せて見るべき関連史料群をご紹介したいと思います。

これにより、元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状の理解を深める事になればと思います。前項目の「元亀元年当時の戦況」と重なる部分もありますが、視点が違いますので、併せてご覧いただければと思います。

また、前項目と同じく、この記事の本文下に関連する出来事の一覧を掲示します。

結果から言うと、元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状の意図するところの調略が成功していますので、この史料はその「指示書」という、証拠になろうかと思います。

さて、今回見る関連史料群は、調略が行われた事の実態を示しているとも言える集合体であり、細川六郎を支える人々や体制(構造)などの変化を見ることが出来るように思います。
 元亀元年8月、反幕府・織田信長方の中枢勢力である三好三人衆勢は、京都奪還を目論見、決戦を挑みます。摂津国野田・福島方面へ大挙上陸し、陣を展開します。
 しかし、両勢力が睨み合う最前線で、何と、中枢を担う人物が、幕府・織田信長方に投降します。

大坂石山本願寺推定地
8月28日、三好為三が投降し、その3日後の9月朔日、為三に近しい三木某なども投降しています。その翌日の2日には、三好三人衆方の陣中で喧嘩が起きています。

同月10日、幕府・織田勢は、三好三人衆勢に攻撃を開始し、次々と敵を圧倒していきますが、同12日、旗色を鮮明にした大坂本願寺勢が武力蜂起します。次いで、これに呼応した京都東側の同盟勢力(朝倉・浅井・六角氏)が、京都を目指して進みます。
※改訂 信長公記(新人物往来社)P111

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志賀御陣の事条:
9月16日越前国の朝倉義景・浅井備前守長政、30,000計り近江国坂本口へ相働くなり。森三左衛門尉、同国宇佐山の坂を下々(おりくだり)懸け向かい、坂本の町はづれにて取り合い、纔千(わずか)の内にて足軽合戦に少々首を取り、勝利を得る。(後略)
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近江坂本城跡
同月16日、本願寺方は幕府方と停戦しますが、再び交戦が行われています。多分これは、この時に近畿地域に接近した台風によるものと思われます。台風が過ぎ去ると、再び戦闘は始まっています。その間、幕府・織田方は京都防衛を優先する策を打ち出し、野田・福島の戦線から後退して、その本陣としていた摂津中嶋城も放棄。京都に戻ります。
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P638

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元亀元年条:
(前略)一、同16・17日(9月)に鉄砲止められ候て和睦の噯い候へ共、相調わず由申し候。
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そんな最中の9月20日、寝返ってきた三好三人衆勢の中心人物である三好為三の知行地の暫定方針を信長は伝えています。一方でまた、これは細川六郎へ信長より提示された「池田領内二万石」の概念に含まれる要素だったのかもしれません
※池田市史(史料編1)P28

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摂津国豊嶋郡の事、扶助せしめ候。追って糺明遂げ、申し談ずべく候。疎意有るべからず候。
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実際、将軍義昭政権は、知行地の配分どころでは無く、政権崩壊に繫がりかねない軍事的危機にあり、その対応に追われます。それは軍事面だけでは無く、徳政令(経済政策)や朝廷を動かした和睦対応などで、この年の暮れには、一時的な全面停戦を実現して、窮地を脱します。
 その頃の12月25日及び27日、三好三人衆方の同盟勢力である本願寺光佐が、それらの求心的人物である細川六郎に、歳末の挨拶を行っています。
※本願寺日記-下-P596

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27日付音信:
芳墨披閲本望此の事候。就中太刀一腰、馬一疋贈り給い候。悦びの至り為候。猶下間丹後法印頼総申し入れるべく候条、先ず省略せしめ候。穴賢。
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年が明けた元亀2年、その春から両陣の動きがあり、夏頃にはまた、双方で大規模な交戦が始まります。
 5月6日、幕府方に身を置いていた松永久秀が、旧誼の三好三人衆方へ寝返り、同時に三好義継も三好方へ復帰します。これは、三人衆方にとっては、同族分裂の終息を遂げた事となり、新たな求心力を得たカタチになります。
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P237、二條宴乗記(ビブリア54号)P33

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『多聞院日記』5月6日条:
(前略)一、奈良多聞山従り陣立て之在り。松永山城守久秀嫡子同苗金吾(久通)・竹内下総守秀勝立ち了ぬ。
『二條宴乗記』5月6日条:
天晴。陣立て、松永久通・竹内秀勝計り也。知れず者也。
----------------------------

一方、幕府・織田方は、重要地域である摂津中嶋城を治めていた伝統的権威であった細川典厩家、藤賢の処遇について検討しています。6月4日、信長はその事を音信しています。
※織田信長文書の研究-上-P458

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細川右馬頭藤賢身上の儀に付き、御内書の旨、頂戴致し候。連々公儀に対し奉り疎略無く候。然る間信長於も等閑存ぜず候。此の節領知以下前々如く、相違無きの様に上意加えられるべくの事、肝要存じ候。此れ等の趣き御披露有るべく候。恐々謹言。
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また、同月16日、三好為三の処遇についても検討を行っており、これについて暫定的な方針として、7月31日付けで、将軍義昭が内書を下して、為三の希望する所領について認めています。しかし、最初の要求よりは規模を小さくして、より具体的な内容になっています。
※織田信長文書の研究-上-P392、大日本史料10-6-P685

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6月16日付:
三好為三摂津国東成郡榎並表へ執り出でに付きては、彼の本知の旨に任せ、榎並の事、為三申し付け候様にあり度く候。然者(摂津守護)伊丹兵庫頭(忠親)近所に、為三へ遣し候領知在りの条、相博(そうはく:交換)然るべく候。異儀なきの様に、兵庫頭忠親へ了簡される事肝要候。
7月31日付:
舎兄三好下野守跡職並びに分に自り当知行事、織田信長執り申し旨に任せ、存知すべく事肝要候。猶明智十兵衛尉光秀申すべく候也。
----------------------------

摂津白井河原古戦場跡

8月28日、摂津国島下郡宿河原付近で大合戦(いわゆる白井河原合戦)があり、これに三好三人衆方池田勢が勝利しました。幕府方中心人物の一人であった和田惟政を始め、主要人物は戦死。茨木城など付近一帯は悉く池田勢が落として勢力下に収めました。これにより、山城国勝龍寺城付近が最前線となる状況にまで、幕府方は軍事的緊張を強いられます。
※言継卿記4-P523など

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『言継卿記』8月28日条:
戌午、天晴、時正、(前略)摂津国■郡山於軍之有り。和田伊賀守惟政討死云々。武家辺以ての外騒動云々。茨木兄弟以下300人討ち死に。池田衆数多打ち死に云々。三淵大和守藤英夜半■■城入り云々。
----------------------------

摂津池田勢は、この合戦により、歴代の最大版図を得、同時に、三好三人衆方は池田勢の奮戦で、京都奪還が現実味を帯びる状況に好転します。

しかし、そんな中で、その年も暮れかかる12月17日、細川六郎(昭元)は配下を伴って、幕府・織田方に投降します。
※兼見卿記:第一(続群書類従完成会)P24

----------------------------
十七日条:
細川六郎(昭元)出頭也。見物了ぬ。騎馬薬師(寺)・三宅・香西三騎也。馬廻り打籠也。七百計り之在り。祗侯の砌、官途右京大夫、又名乗り御字遣わされ、秋(昭)元云々。
----------------------------

元亀3年が明けて、三好三人衆の中心人物である石成友通も幕府・織田方に投降してきます。細川昭元(六郎)が投降したことで、その周辺の人物が次々と連なって、付いてきました。織田信長が、石成主税助友通へ音信(朱印状)しています。
※織田信長文書の研究(補遺・索引)P127

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領中方目録:
一、山城国の内普賢寺・皆一職、一、同山田郷(現京都府相楽郡精華町内)皆一職、一、同上々野(現東寺領荘園のひとつ)三分の一、一、同富野郷御料所方・小笠原分除き之、一、同内野代官職、一、同壬生縄内、一、山城郡司、以上、右御下知の旨に任せ、領知全う相違有るべからずの状、件の如し。
----------------------------

軍事的には、三好三人衆方が有利な状況でしたが、昭元を始めとする、この不調和は政治的な内部事情があっての事と考えられます。後の項目で、これについて示しますが、三好三人衆方は、いくつかの求心的要素(人物)をかかえており、その時々で、その重要度に偏りを見せたために、その扱いへの不満が表出したのではないかと思われます。

さて、幕府・織田方に迎えられた管領格の細川昭元(六郎:この時は右京大夫)は、3月24日に配下を引き連れて、信長に参候して挨拶を行います。
※改訂 信長公記(新人物往来社)P123

----------------------------
むしゃの小路御普請の事条:
(前略)3月24日、(中略)細川六郎(昭元)殿・石成主税助始めて、今度、信長公へ御礼仰せられ、御在洛候なり。今般大坂門跡より万里江山の一軸、並びに、白天目、信長公へ進上なり。
----------------------------

この後、幕府方として、軍事的には不安定ではあったものの、伝統的な細川典厩家の城である中嶋城に、元の城主であった藤賢に加えて細川昭元も入れ、守らせたようです。
 しかし、三好三人衆方は、ここを再び攻撃します。中嶋城の細川藤賢・昭元は持ちこたえられずに和睦します。これについて、いくつかの記述や解説では、昭元が再び三好方になったとしているのですが、その後も、昭元と藤賢は、明らかに幕府方の立場です。

そんな中、この5月頃には、将軍義昭と織田信長の不和が表面化、両派が分かれ始めます。しかし、完全には乖離しておらず、付かず離れずの行動から心理的には葛藤があったと思われますが、それらは史料上から読み取るには複雑です。
 史料があっても、その人物の立場が把握できなければ、書いてある意味が全て実態の真逆の意味になりますので、人物の所属把握は非常に重要です。難しいのですが、行動の結果からすれば、それらの誤差は読み取る事ができるかもしれません。

6月2日付けの史料は、欠年ではあるものの元亀3年の状況を示していると考えられ、同じく欠年6月12日付の荒木村重の音信は、関連性があるものと考えられます。以下は、6月2日付け、幕府方細川昭元が、讃岐国人香西玄蕃助某へ音信したもの。
※瀬戸内海地域社会と織田権力P208

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昨日者見廻り悦び入り候。仍て摂津国池田の人数、才覚を以て相越すべく旨、談合相申し由、一段祝着の至り候。明日上嶋(中嶋?豊嶋?)に至り、敵相動き由の条、尚以て馳走肝要候。恐々謹言。
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これらの史料から窺える状況からすると、摂津池田衆も三好三人衆方から少し距離を置き始めていたようです。昭元や石成友通が三好三人衆方から離れた事で、微妙な求心力の衰えが影響を及ぼしていたのかもしれません。

つい先日、令和6年9月6日に報道されました、熊本大学(永青文庫)による、織田信長から細川藤孝への書簡(元亀3年8月15日と推定)では、山城・摂津・河内国方面の有力国人を味方に引き入れるよう信長が依頼しています。
 この時点では決定的に将軍義昭と織田信長は決別しているようで、両者は、体制固めに動いています。
※熊本大学・永青文庫記者発表資料など
https://www.kumamoto-u.ac.jp/daigakujouhou/kouhou/pressrelease/2024-file-1/release240906.pdf

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八朔之祝儀為、(猶具一ト二ニ申し渉り候)委細承り候。殊に帷子ニ送り給わり候。懇切祝着之至り候。当年京衆何れも無音之処、初春も太刀・馬之給わり候間、例年表され之条、大慶候。仍って鹿毛之馬之進め候。乗心形の如く候歟。方々御辛労之由、併せて此の節候。南方辺之衆誰々寄らず、忠節抽んずべくに付きては、召し出され然るべく候。馳走簡要候。恐々謹言。
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この流れで、8月28日の事とする中嶋城をめぐる合戦(中川史料集:内容からしてこれは元亀3年の誤りであること確実)では、摂津池田勢が中嶋城の支援を行っていたらしい様子が浮かんできます。
※中川史料集P14

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太祖清秀公の条の元亀3年条:
8月28日夜、摂津国中嶋細川右馬頭藤賢が城中に出火あり。城の内外大いに騒動しければ、石山本願寺の砦より人数出して、中嶋の城を攻める。藤賢兼ねて将軍に昵近して、御所に相詰めける故、城中無勢にして、防戦に術を失い、城兵四方に散乱す。太祖(中川清秀)その頃、新庄に御在城故、早速御出馬ありしに、藤賢勢いは落ち散りて、本願寺の兵、早や城中に入れ替わりたるを、御手勢を以て即時に城を取り返さる。此の時石火矢を打ちけるに筒損じ中川淵兵衛重正(重継の子)面を焼きて、その痛み甚だしく程なく死す。太祖も側らにおはせしが御顔を損ぜらる。荒木村重も乗り付け御武勇を感じ、中嶋の城を預け参らせ、直ちに御入城有って藤賢が一跡御知行となる。
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そして、これを裏付ける様な、元亀3年9月2日付、本願寺光佐による細川昭元への音信内容は、実際に争うような事があり、何らかの交渉の実態を示していると考えられます。
※本願寺日記-下-P602

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芳墨披覧遂げ候。今度御城中於て不慮之次第、旨趣き具さに承り候。其れに就き軈て誓詞以て預け示し候。相応之儀如在有るべからず候。猶坊官下間頼廉申し入れるべく候。
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一方この頃、背反常無い三好為三は、将軍義昭派三好三人衆方に復帰したらしく、欠年10月13日付けで、聞咲なる人物に音信し、三人衆方の動向を伝える連絡を取っています。また為三は、同月7日付けで、将軍義昭からの内書を根拠にしたと思われる領知を獲得していたらしく、「代官之事」として、刀根分・茨木分を書き出しています。三好為三が、上御宿所(意味は不明)に宛てて音信しています。
※箕面市史(史料編6)P438

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代官之事:
一、刀根分、一、茨木分、以上。
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復元された安宅船
欠年11月13日付けの信長による将軍義昭側近曽我助乗への音信で、これも三好三人衆勢力の中心人物である安宅信康の扱いを検討しています。幕府・織田方へ投降する動きがあったようです。
※織田信長文書の研究-上-P584

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淡路国人安宅神太郎(信康)事仰せ聞かせられ候。尤も以て然るべく存じ候。去春以来之儀、其の聞こえ無く存ずる之由、一旦者余儀無く候。但し彼の雑掌共申し候趣き、一向難題之模様候し、其の分に至りては、果たして入眼不実に存じ候ける、万端を抛ち、此の節忠節抽んずべく之由、寔に神妙之至りに候。然る間領知方の儀、彼の方申し様聞き召し合わされ仰せ付けられるべく候。信長に於いては疎略存ずべからず候。此れ等之旨御披露有るべく候。恐々謹言。
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安宅氏は、淡路国の有力者を束ね、海上輸送も担う勢力であって、この離反は、三好方の衰退の大きな要因になったと考えられます。

12月頃、そんな中での摂津国中嶋城の奪還闘争は、将軍義昭方三好義継などが中心となって攻撃をしています。これは時期的には、甲斐守護武田信玄の京都を目指した西進が始まっており、将軍義昭がこれに呼応するための連絡路確保を行ったためと思われます。
 細川昭元は、三好義継と人質の交換を行い、誓詞も交わしていましたが、その和も破れて、再び交戦となっていました。

元亀2年12月の昭元の幕府・織田方への投降以来、その後も一族の苦境や上位権力である幕府の権力分裂などが起きて、多難ではありましたが、昭元は、その時の必要な事を実行し、分限を守って淡々と行動しているように見えます。
 この行動が、信長に信用され、信長の娘を娶り、加えて偏諱も得て、一族扱いを受けるまでになります。
 また、元亀3年3月以降、同族の典厩家である藤賢とも行動を共に(主に中嶋城の守備)させられますが、この藤賢は、永年に渡る管領争いを続けてきた宿敵でもある細川氏綱の家系であり、その人物とも違うこと無く折り合いをつけていた事は、この時代の非常に希な事であったかもしれません。勿論、一方の細川藤賢も、昭元をよく助け、行動したことも史料から伺えます。

しかし、そんな藤賢にも、将軍義昭から誘いがあったようです。甲斐武田の上洛に備えて、体制を強固にすべく、伝統的な幕府関係者を自らの味方になってもらうように、様々な手を講じていた事が判ります。12月10日付けで、将軍義昭が、側近の一色藤長へ内書を下しています。状況的に、この時の藤賢は昭元と行動している筈ですので、この調略は当然ながら昭元の耳にも入るでしょう。求心力を発揮する権威は、争うにあたっては必須条件です。
※福井県史(資料編2)P686

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前置き:
なおなお来春は朝倉義景礼に来るべく之由申し候。其れ以前に養生すべく用立てる事肝要候。将又来春右馬頭(細川藤賢)も相越し候やうに大坂(本願寺)へ申し調えるべく候。猶延広(不明な人物)申すべく候也。
本文:
諸労未だ験を得ず候由、一入心元無く候。急度養生加え、然るべく候。此の間之様、一向に油断候。分別せしむべく事肝要候。
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<元亀元年8月から元亀3年暮の京都周辺の戦況> =================
8/28 三好三人衆方三好為三など、幕府・織田信長方に投降
※改訂 信長公記(新人物往来社)P109、細川両家記(群書類従20:合戦部)P636、多聞院日記2(増補 続史料大成)P206、言継卿記4-P441など

9/1 三好三人衆方三木某など、幕府・織田信長方松永久秀に投降
※言継卿記4-P442

9/2 三好三人衆方の摂津国野田・福嶋陣所などで内紛発生
※言継卿記4-P442

9/10 幕府・織田信長勢、摂津国野田・福島城を攻撃開始
※改訂 信長公記(新人物往来社)P109、細川両家記(群書類従20:合戦部)P636

9/16 幕府・織田信長方、大坂本願寺と停戦
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P638

9/20 織田信長、三好為三へ摂津国豊島郡の知行について音信(朱印状)
※池田市史(史料編1)P28、織田信長文書の研究-上-P417など

9/23 幕府・織田信長勢、摂津国方面から撤退
※言継卿記4-P448、細川両家記(群書類従20:合戦部)P638、改訂 信長公記(新人物往来社)P112

12/27 反幕府・織田信長方本願寺光佐、細川六郎(昭元)に音信
※本願寺日記-下-P596


【元亀2年】----------------
1/16 三好三人衆方本願寺光佐、細川昭元へ音信
※本願寺日記-下-P596

2/17 某永雄(所属不明)、近江国永源郷宿中へ宛てた音信で摂津の情勢を伝える
※戦国遺文(佐々木六角氏編)P318

5/6 松永久秀衆同名金吾・竹内秀勝勢、三好三人衆方として大和国多聞山城を出陣
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P237、二條宴乗記 (ビブリア54号) P33

6/4 織田信長、幕府衆細川藤賢(典厩)の知行地について細川藤孝へ音信
※織田信長文書の研究-上-P458

6/16 織田信長、幕府衆明智光秀に三好為三の処遇について音信
※大阪編年史1-P406、織田信長文書の研究-上-P392、織田政権の基礎構造(織豊政権分析1)P63

7/31 将軍義昭、三好為三に所領安堵の御内書を下す
※大日本史料10-6-P685 ←狩野文書

8/28 摂津国白井河原合戦
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P256、言継卿記4-P523、耶蘇会士日本通信-下-P137など

12/17 細川昭元、幕府へ出仕
※兼見卿記:第一(続群書類従完成会)P24


【元亀3年】----------------
1/26 織田信長、石成友通へ音信(朱印状)
※織田信長文書の研究(補遺・索引)P127、戦国遺文(三好氏編3)P22

3/24 細川昭元、織田信長へ参侯

※改訂 信長公記(新人物往来社)P123、戦国史研究76号-P13

4/14 反幕府・織田信長方本願寺坊官下間正秀、近江国北部十ヶ寺惣衆中へ宛てて音信
※近江国古文書志1(東浅井郡編)P89、戦国遺文(三好氏編3)P30、本願寺教団史料(京都・滋賀編)P247


4/18 反幕府・織田信長方本願寺坊官下間正秀、近江国北部十ヶ寺衆惣中へ宛てて音信(返信)
※近江国古文書志1(東浅井郡編)P90、戦国遺文(三好氏編3)P31、本願寺教団史料(京都・滋賀編)P248

6/2 幕府方細川昭元、讃岐国人香西玄蕃助某へ音信
※瀬戸内海地域社会と織田権力P208

6/12 反幕府方三好三人衆派荒木村重、摂津国豊嶋郡春日社南郷目代今西宮内少輔へ音信
※豊中市史(史料編1)P125、伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P13

8/28 将軍義昭方本願寺勢、幕府方摂津国中嶋城を攻める
※中川史料集P14


9/2 将軍義昭方本願寺光佐、細川昭元に音信
※本願寺日記-下-P602

10/7 将軍義昭方三好為三、上御宿所へ宛てて音信
※箕面市史(史料編6)P438

10/13 将軍義昭方三好為三、聞咲(所属不明)へ音信
※大阪編年史1-P459、戦国遺文(三好氏編2)P272

11/2 織田信長衆木下秀吉など、京都大徳寺各中に宛てて石成友通について音信(折紙)
※大徳寺文書1(大日本古文書:家わけ17)P54、豊臣秀吉文書集1-P19

11/13 織田信長、将軍義昭側近曽我助乗へ安宅信康について音信
※織田信長文書の研究-上-P584

================= <年表おわり>


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