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2024年10月5日土曜日

細川六郎と三好三人衆(元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状)

京都の中央政権を支えた阿波国に縁を持つ三好家が、三好長慶を筆頭に、歴代最大の版図を築くに至ります。しかし、永禄7年(1564)7月、その三好長慶は失意の内に亡くなります。
 その後、間もなく三好長慶を支えた一族家老・重臣同士の争いに発展し、結局は京都周辺に威勢を誇った三好氏も没落してしまいます。

その過程で、家名存続に腐心した三好三人衆(三好家家老格であり、家政中枢であった組織機構)と、伝統的権威であり室町幕府機構内の「管領」格であった細川六郎(家)について、考えてみたいと思います。

この管領(格を有する)細川家は、日本各地にあり、その細川家を担いで、地域権力とその統治機構があったようですが、今回の記事は、京都を中心とした(室町幕府直結の)細川管領家について、観察してみます。
 この京都に在所する足利将軍権威に含まれる管領職について、三好長慶を筆頭とする阿波三好家が深く関わり、支えていました。
 それらの実態については、複雑怪奇で、それらの説明は割愛します。ここでは特に、長慶の時代から元亀元年までの動きについて述べたいと思います。

例の如く、その流れについては、この記事の本文以下に、関連する出来事の一覧を掲示します。

状況からすると、阿波三好家からしても迷惑で、不可抗力的な悲劇なのですが、将軍家の同族争いと管領家の争いが連動して起こり、その権威構造の歯車が、その力で全て動いてしまうので、三好家としても引き込まれざるを得ない状況でした。それが長慶の代で概ね決着し、沈静化がある程度、進みました。

六郎(昭元)の父である管領細川晴元は、自らの失政で招いた混乱に抗いきれず、長慶という、かつての重臣に従わざるを得なくなります。

近江国(現滋賀県)朽木の将軍御所跡
天文20年(1551)12月、細川晴元方であり、近江国守護六角定頼・義賢父子と三好長慶が和睦する事となります。この時の条件について、管領晴元の嫡子である六郎を、現管領である細川氏綱の後、もしくは、然るべき時期に、晴元嫡子六郎を管領に就かせる条件で和睦を締結します。
 それにより、年が明けた天文21年1月に将軍義輝は、避難先の近江国朽木地域から京都へ戻ります。この折に、六郎も随伴していますが、その親である晴元は、剃髪して僧体(入道号永川)となり、出奔します。

この間暫く、駆け引き、争いがありますが、三好長慶が優位に状況を切り抜け、勢力を拡大していきます。
 弘治4年(1558)2月3日、細川六郎(この時、聡明丸)を摂津国芥川(山)城で、三好長慶は元服させます。この烏帽子親を晴元の敵対一族である現管領の細川氏綱が行いました。加えて、その月内に改元まで行い、元号を「永禄」として発布します。
 これは晴元の系譜を継がず、敵対する氏綱の系譜に組み込むという流れを作る事となり、この行為についての大きな反感を長慶は買いました。特に晴元擁護派の中心である、近江守護家六角氏(細川晴元の妻は六角定頼の娘で、両家は親類)が反発し、三好長慶に敵対する勢力を糾合して争う構えを見せます。

それに対抗して、三好長慶は管領の上位権力である将軍義輝に接近し、御相伴衆に取り立てられるように仕向けたりして、自らの地位を上昇させる策を講じます。また同時に、管領家も長慶の権力機構内に収めつつ、更にその上位権力との関係性を作り、自らの地位も上昇させる事で、敵の抵抗を政治戦略的に無力化する策に出ます。
 やはりこれは功を奏します。永禄2〜3年の河内南半国守護職畠山家の内紛鎮圧は、幕府の正規軍として三好長慶が行っています。しかし、それでも反抗は止まず、翌4年(1561)7月にも、長慶に対して包囲網を敷いて、近江六角承禎(義賢)が中心となって武力蜂起します。しかし、永禄7年7月、長慶はその鎮圧の半ばで死亡します。

少し時間を戻します。

京都吉田神社 
永禄6年(1563)という年は、京都周辺で疫病が発生していたとみられ、それを裏付ける史料があります。京都吉田神社の神主、兼右が、4月19日の事として記述しています。
※兼右卿記(上)P142

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上野民部大輔(信孝)、不例に就き、神道泰山府君祭事、上位(将軍)為、細川民部大輔(藤孝)以て仰せ出され了ぬ。既に急病也。諸道具5月3日中に調え難き旨申し入れ了ぬ。然者、(賀茂)在冨卿に仰せ出されるべく候云々。尤も然るべく候旨返答了ぬ。彼の病者十死一生也。若し平癒無き之時■天度く然るべく之間、此の分申し上げ了ぬ。
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この年に、細川晴元、同氏綱の両管領が死亡します。そして、長慶の跡取りであった三好義興も病没してしまい、親の長慶にとって、悲嘆に暮れる年となりました。この後、管領職は正式に承認された人物はなく、事実上「空位」となっていたと思われます。

さて、永禄7年(1564)、三好長慶亡き後、長慶実弟(十河一存)の養子先である十河家から養子を迎えて、家中政治の立て直しを図ります。
 三好家長慶跡目となった義継は、この時は(数えで15才)まだ若く、長慶を支えていた家老や重臣が同じくその新当主を支えました。しかし、司令塔であり、象徴であった当主長慶を不慮に失い、家臣団の意見が纏まらなくなります。
 永禄8年(1565)5月、三好勢は将軍義輝の暗殺を決行する暴挙に出、この年の内に三好三人衆という一族集団と新参であった松永久秀が対立し、内紛となります。もはや「天下取り」どころではなく、内紛の勝敗に明け暮れる事態に陥ります。
 このような事態は、三好家にとっては想定外であったでしょう。ですので、権力の整理や組織の象徴の奉戴など、次の段階の作業に着手する事ができず(構想はあったと思われる)に、内紛の処理に追われます。

足利義栄木像
将軍の殺害自体(主殺し)、当時でも非道な行為であり、これを実行するにあたっては、それに相当する(社会的な)行為の理由付けと準備が必要な筈です。これは思いつきではなく、構想があり、準備の上で行われたのだと思われます。また、『佐々木六角氏の系譜』では、この現役将軍の襲撃事件は近江守護六角氏家中で「(いわゆる)観音寺騒動」が起きたため、その間隙を衝いて実行されたと分析されており、やはり計画的である要素があったように思います。(阿波三好家による非道な暴挙は、これで二度目で、主君阿波国守護細川讃岐守氏之を三好長慶実弟の同名豊前守実休が天文22年(1553)6月に、殺害しています。)
 さて、この当時、将軍義輝を暗殺した直後、阿波足利家を将軍に立てるとの噂が広がっています。
※言継卿記3-P502、フロイス日本史3(中央公論社:普及版)P312、足利季世記(三好記:改定 史籍集覧13別記類)P232など

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『言継卿記』5月19日条:
辰刻(午前7時〜9時)三好人数松永右衛門佐久通等、10,000計り以て俄に武家御所へ乱入之取り巻き、暫く戦い云々。奉公衆数多討死云々。(中略)阿州の武家御上洛有るべく故云々。(後略)
『フロイス日本史(中央公論社:普及版)』都において事態が進展した次第、および三好殿と奈良の(松永)霜台の息子が、公方様とその母堂、姉妹、ならびに奥方を殺害した次第条:
彼は若者である三好殿と、公方様を殺害し、阿波国にいる(公方様)の近親者をその地位に就かせる事で相談し、その者には公方の名称だけを保たせれば、それからは両名がともに天下を統治する(ことができると考えた)。
『足利季世記』光源院殿御最後之事条:
阿波御所様、三好三人衆、松永・篠原山城守を頼りに御頼みありて御上洛の御望みあり。先年より頻りに此の事ありけれども、長慶存生の中は、当公方様御馳走申して更に御請けなかりける、今長慶一期の後、子息幼稚なれば、一族衆を一偏に御頼みありければ、皆阿波御所え御一味申しけり。
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記述の、将軍義輝殺害後の三好家分裂は、約2年間に渡る抗争となりますが、これにより三好家の家運は傾きます。
 激しい内紛の中で、最終的には、三好三人衆方が競り勝って、阿波足利家の義栄(よしひで)を、正式な第14代室町将軍に就ける事に成功します。永禄11年2月8日の事です。
※言継卿記4-P211

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(前略)今夜将軍宣下、上卿出立要脚、伝奏於いて300疋之請け取り、澤路備前守入道之遣わす。同請け取り後日之遣わす。(中略)左馬頭源朝臣義栄宜しく征夷大将軍為し、兼ねて又聴着禁色すべく、予微頌、(後略)
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この争いの間、両者は公的・正当性の主張のシンボル(象徴)として、高位の人物を味方に付けようと腐心しています。
 松永久秀は、自身の行動の象徴として、三好家当主三好義継を奉戴していました。この関係は、両者が死亡するまで続く、堅いものでした。永禄10年2月に、三好家当主の義継は、松永久秀の元へ走ります。
※言継卿記4-P122、兼右卿記(下)P121、多聞院日記2(増補 続史料大成)P9など

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『兼右卿記(下)』2月16日条:
今夜亥刻(午後9〜11時)、三好左京大夫与松永弾正少弼一味せしめ云々。(後略)
『多聞院日記』2月18日条:
(前略)一、去る16日(2月16日)三好左京大夫堺にて宿所を替え了ぬ。松永弾正少弼と同心歟と河内国雑説之由也。いかが、大坂へ行き云々。
『言継卿記』2月17日条:
(前略)三好方池田内等昨日破れ云々。又大乱に及ぶべく、笑止之儀也。三好左京大夫(義継)、同山城守、安見等、摂津国遠里小野へ打ち出し云々。三好日向守、同下野守入道、石成主税助、和泉国境に之有り云々。松永弾正少弼(久秀)衆蜂起云々。池田之内75人引き破れ云々。(後略)
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対する三好三人衆は、将軍格を立てており、天下への戦略(号令)としては、義継を擁立するよりも戦略的には大きな意味があります。ですので、この奏功で、いずれ義継の事も解決できると考えていたのかもしれません。

漸くここから、細川六郎(後の昭元)の動きについて、触れていきたいと思います。歴代最長の前置きで、新記録達成です。すみません。 m(_ _)m

そんな状況でしたので、六郎は三好家中で保護されていたものの、弘治年間の元服以来、この動きの中で、史料としては表立って見られません。また、年齢も若く(三好義継とほぼ同年代)、政治的な動きもできなかったのかもしれません。永禄10年(1567)になり、ようやく六郎が史料上で確認できるようになります。
 本願寺宗法主(顕如)の光佐が、細川六郎に宛てて音信しています。具体的には不明ですが、何か重大事項を控えているような内容です。2月3日付の音信です。
※本願寺日記-下-P578

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肇年嘉祥、逐日尽際有るべからず。彌堅意任されるべく候。抑3種5荷進め入れ候。表祝儀計りに候。猶下間上野法橋申せしめるべく候。穴賢穴賢。
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更に、同年9月28日の事として、細川六郎が山城国大原口などの山科率分の今村氏受け持ち分を違乱している旨、公卿山科言継(ときつぐ)の日記に現れます。
※言継卿記4-P172

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10月2日条:
(前略)澤路隼人佑(言継被官)来たり。内蔵領率分東口之事、細川六郎(昭元)違乱云々。折紙持ち来たり。山城国大原口・粟田口山科率分今村(慶満)分事、上使差し越され上者、役銭等先々の如く彼の代沙汰致すべく由状件の如し。永禄10年9月28日 為房判(昭元奉行人飯尾) 諸役所中。承引能わず、上使追い返し云々。重ねて来たるべくの由申し云々。(後略)
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同年、本願寺の光佐が、念入りに年の暮れと新年の挨拶を細川六郎に送っています。この頃、六郎の年齢は数えで20才になっています。永禄10年暮れと明けた新年の音信です。
※本願寺日記-下-P581+583

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12月23日条:
歳暮嘉慶、尤も以て珍重候。仍て太刀一腰之推し進め候。猶下間上野法橋申すべく候。穴賢穴賢。
1月26日条:
春の吉兆、漸く事舊(旧)しと雖も候。尚以て休盡有るべからず、多幸多幸。仍て3種5荷之推し進め候。祝詞逐日重畳申し展べるべく候。穴賢穴賢。
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これは本願寺宗にとって、六郎が重要な人物であると認識していた証拠でもあると思われます。

芥川山城(撮影:2001年2月)
永禄11年(1568)には、三好三人衆が将軍義栄政権の体制整備を行っていたようで、管領(かんれい)格であった六郎もその政権内に据えて、安定の一要因にと考えていたのかもしれません。
 しかし、この年の秋、故将軍義輝実弟である足利義昭を奉戴した織田信長により、三好三人衆方に上洛戦を挑まれ、抗いきれずに将軍義栄政権は崩壊してしまいます。
 この時、細川六郎は摂津国芥川(山)城付近で、三好三人衆筆頭の三好長逸と共に迎え撃ちましたが、衆寡敵せずに敗走しています。
※言継卿記4-P273、改訂 信長公記(新人物往来社)P86など

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『言継卿記』9月29日条:
(前略)今日武家御所天神馬場迄御進発云々。先勢芥川之麓之焼き攻め云々。(後略)とある。
同月30日条:
(前略)今日、武家芥川へ御座移され云々。勝龍寺・芥川等之城昨夕之渡し、郡山道場今日之破れ、富田寺外之破れ、寺内調べ之有り。池田へ取り懸け云々。(後略)
『足利季世記』新公方様御上洛之事条:
(前略)同9月28日、信長は京都東福寺に着陣して石成主税助が楯籠もりし山城国西岡の勝龍寺城を攻めらるる、柴田修理亮と石成主税助終日合戦し、石成打ち負け50余人打ち取られ、叶うまじとや思いけん降参を請いければ、上意得られ一命を助けて城を請け取り、石成おば信長の手に加えらる。公方様には越水城へ御動座ありけり伊丹大和守親興は、越前国へ御使者を奉り御味方に参り御教書給わり所領3000貫給わり、兵庫頭になりければ、公方様の御手合いとて馳せ向かい、9月29日摂津国武庫郡河辺郡両郡を放火す。是れを聞きて三好方の高屋の城も飯盛城も自落しければ、畠山高政は初めより一乗院様の味方なれば、本領なればとて高屋城に打ち入りけり。同日、新公方様南方の御敵退治の為に御出張(中略)尾州(尾張国)衆、高槻・茨木へ陣取る。芥川城へは、故細川晴元一男六郎とて三好日向守籠もりけるが是れも叶わず明け渡しける。(後略)
『改訂 信長公記』信長御入洛十日余日の内に、五畿内隣国仰せ付けられ、征夷将軍に備えらるるの事条:
(前略)29日、勝龍寺表へ御馬を寄せらる。寺戸寂照に御陣取。これに依って石成主税頭降参仕る。晦日、山崎御着陣。先陣は天神の馬場に陣取る。芥川に細川六郎殿、三好日向守楯籠もる。夜に入り退散。並びに篠原右京亮居城越水、滝山、是れ又退城。然る間、芥川の城へ信長供奉なされ、公方様御座を移さる。(後略)
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細川六郎は、一旦、三好三人衆勢と共に阿波国方面へ待避していたようですが、体制を立て直し、再び上洛(京都奪還)を目指した戦いの準備を行っていました。
 ちなみに、この三好三人衆勢が京都から落ちる時、将軍義栄は、その途上で死亡します。これはあまり記録が無いのですが、それは、長慶の前例の如く、喪の秘匿によるものと思われます。

それ故に、「戦(いくさ)」をより有利に展開するためにも求心力のある人物をより多く味方に付ける事は、非常に重要な課題となります。
 三好三人衆方にとって、六郎の価値が急騰していました。そんな状況を示す史料があり、これは六郎が、丹波国人へ上洛戦のためと思われる音信を行っています。永禄12年と推定される3月20日付けで、細川六郎が、丹波国人荻野(赤井)悪右衛門尉直正へ宛てています。なお、署名は「元」の一文字のみです。また、『近世公家社会の研究』によるとこの音信は、六郎が阿波国から発したものと推定されています。
※兵庫県史(史料編・中世9)P6、近世公家社会の研究P37など

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先度染筆様体申し越し候。参着候哉。然者、行事、相催し候条、此の刻、別して忠節為るべく候。恐々謹言。
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丹波八木城跡(撮影:2201年10月)
もう一通、細川六郎と連なる動きをしている丹波国人内藤貞虎が、同国人赤井(荻野)悪右衛門尉直正宿所へ宛てて音信があります。これも同年と推定される3月23日付けの史料です。文中の「御屋形」とは、細川六郎を指していると考えられます。
※兵庫県史(史料編・中世9)P6、戦国遺文(三好氏編2)P245

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其れ以後久しく申し通さず候。仍って京表於いて、三好三人衆を始め利を失われ故、御屋形(六郎)播磨国へ至り御下向之条、我等も御共に罷り下り候。尤も切々書状以って申し承るべく候処に、遠路に付き、万事音無き迄に候。其れに就き、御使い為、同阿(不明な人物)差し遣わされ候。万ず御入魂肝要候。御屋形様対当され、数代御忠節、並び無き御家にて候条、此の砌引き立て申されるべく事専一候。拙者も不断御近所に之有る事候間、いか様之儀にても久しく仰せ越されるべく候。御文箱使い仕るべく候。次に(赤井)時家、未だ申し通さず候へ共、幸便候間、書状以って申し入れ候。苦しからず候者、御届け成られ候て給わるべく候。尚期して参拝之時を期し候条、事々懇筆に能わず候。恐々謹言。
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そして、永禄12年(1568)閏5月、三好三人衆勢は、実際に軍を動かして出陣しています。『多聞院日記』閏5月14日条に、その記述が現れます。
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P130

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(前略)一、淡路(国)於いて喧𠵅有て、(三好)為三ノ矢野ノホウキ(伯耆守)以下死に、三人衆果て云々。実否如何。
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伝摂津中嶋城跡(撮影:2006年10月)
この後暫く、六郎に関する史料は見られなくなり、元亀元年(1570)の摂津国野田・福島合戦を迎えます。この年、六郎は満22才。
 その頃には、三好三人衆方も六郎の政治・軍事的価値を再認識しており、その動くところには、必ず「六郎」の記述が見られるようになります。
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P634

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元亀元年条:
(前略)旁以て阿波国方大慶の由候也。然らば先ず淡路国へ打ち越し、安宅方相調え一味して、今度は和泉国へ、摂津国難太へ渡海有るべく也と云う。先陣衆は細川六郎(昭元)殿、同典厩(細川右馬頭晴賢)。但し次第不同。三好彦次郎殿の名代三好山城守入道咲岩斎、子息徳太郎、又三人衆と申すは三好日向守入道北斎、同息兵庫介、三好下野守、同息、同舎弟の為三入道、石成主税介。是を三人衆と申す也。三好治部少輔、同備中守、同帯刀左衛門、同久助、松山彦十郎、同舎弟伊沢、篠原玄蕃頭、加地権介、塩田若狭守、逸見、市原、矢野伯耆守、牟岐勘右衛門、三木判大夫、紀伊国雑賀の孫市。将又讃岐国十河方都合其の勢13,000と風聞也。(後略)
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この時は、細川晴元の一族同苗の典厩家(管領の分家で政賢流、右馬頭:摂津国中嶋城主)でもある晴賢の動向も記述されており、この頃の三好三人衆方はより強固に権威(権力)の利用とこだわりを見せています。この典厩家の晴賢は生没年が不詳ながら、六郎と比べると年齢がかなり上ですので、補佐的な実務への期待もあった可能性がありますね。もちろん、陣所が野田・福島ですので、中嶋はこの地域の中心地でもあります。それも意識していますね。
 また、六郎の存在を三好三人衆が活用しているのは、共闘するにあたり、近江国守護家の六角氏との関係を保つためでもあったと思われます。

このように、元亀元年頃には三好三人衆方にとって、管領格であった細川六郎は、組織の求心力を発揮し、団結の中心として、大きな役割を果たす人物となっていました。


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<天文20年から元亀元年8月の関連資料概要> =================
天文20年12月 -------------------
将軍義輝方六角義賢・定頼父子と細川氏綱方三好長慶の和睦会談が行われる
※戦国三好一族P139、三好長慶(人物叢書)P121、足利義昭(人物叢書)P87

天文21年 -------------------
 
1月28日 将軍義輝、入京
※言継卿記2-P443、群書類従20号(武家部:細川両家記)P612

弘治4年 -------------------
2月3日 細川晴元嫡子昭元、細川氏綱方三好長慶居城芥川山城にて元服
※群書類従20号(武家部:細川両家記)P615、戦国期歴代細川氏の研究P-347など
 
永禄4年 -------------------
7月 細川晴元方反三好長慶勢、各地で挙兵
※高槻市史1-P714、和泉市史1-P356、中世後期畿内近国守護の研究P222
 
永禄6年 -------------------
2月 池田長正死去
※池田市史1-P658
 
3月1日  細川晴元病没
※群書類従20(合戦部:細川両家記)P622など
 
4月19 将軍側近上野信孝、急病につき京都吉田神社神主兼右へ音信
※兼右卿記(上)P142

8月25 幕府方三好長慶嫡子義興没
 ※群書類従20(合戦部:細川両家記)P622

12月20 細川氏綱病没
※群書類従20(合戦部:細川両家記)P623

永禄7年 -------------------
5月7日 幕府方三好長慶、弟の安宅摂津守冬康を殺害
※言継卿記3-P408

7月4日 幕府方三好長慶死亡
※細川両家記 (群書類従20:合戦部)P623
 
永禄8年 -------------------
5月19日 足利義栄上洛の噂が立つ
※言継卿記3-P502、フロイス日本史3(中央公論社:普及版)P312、足利季世記(三好記:改定 史籍集覧13別記類)P232など

8月2日 幕府方三好義継衆松永長頼、丹波国で戦死
※多聞院日記1(増補 続史料大成)P422、言継卿記3-P521

永禄10年 -------------------
2月3日 本願寺光佐、細川六郎昭元へ音信
※本願寺日記-下-P578

9月28日 公卿山科言継、細川昭元の押領について音信を受け取る
※言継卿記4-P172

12月23日 本願寺光佐、細川昭元へ音信
※本願寺日記-下-P581

永禄11年 -------------------
1月26日 本願寺光佐、細川六郎昭元へ音信
※本願寺日記-下-P583

9/月29日 幕府方三好長逸勢、摂津国芥川山城などの拠点が落ちて敗走する
※言継卿記4-P273、足利季世紀(改定史籍集覧 第13冊)P246、改訂 信長公記(新人物往来社)P86など

永禄12年 -------------------
3月20日 三好三人衆方細川昭元、丹波国人赤井直正へ音信
※兵庫県史(史料編・中世9)P6、近世公家社会の研究P37

3月23日 三好三人衆方丹波国人内藤貞虎、同国人赤井直正宿所へ宛てて音信
※兵庫県史(史料編・中世9)P6、戦国遺文(三好氏編2)P245

閏5月7日 三好三人衆方細川六郎(昭元)、丹波国人赤井直正へ音信
※兵庫県史(史料編・中世9)P6、戦国期歴代細川氏の研究P127

閏5月14日 三好三人衆内で喧嘩が起きる
※ 多聞院日記2(増補 続史料大成)P130

================= <年表おわり>


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2024年9月23日月曜日

併せて見るべき関連性の高い史料(元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状)

令和6年(2024)8月14日頃に報道された、新出の歴史史料、織田信長から細川六郎(昭元)へ宛てられた朱印状(以下、元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状)について、その史料と併せて見るべき関連史料群をご紹介したいと思います。

これにより、元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状の理解を深める事になればと思います。前項目の「元亀元年当時の戦況」と重なる部分もありますが、視点が違いますので、併せてご覧いただければと思います。

また、前項目と同じく、この記事の本文下に関連する出来事の一覧を掲示します。

結果から言うと、元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状の意図するところの調略が成功していますので、この史料はその「指示書」という、証拠になろうかと思います。

さて、今回見る関連史料群は、調略が行われた事の実態を示しているとも言える集合体であり、細川六郎を支える人々や体制(構造)などの変化を見ることが出来るように思います。
 元亀元年8月、反幕府・織田信長方の中枢勢力である三好三人衆勢は、京都奪還を目論見、決戦を挑みます。摂津国野田・福島方面へ大挙上陸し、陣を展開します。
 しかし、両勢力が睨み合う最前線で、何と、中枢を担う人物が、幕府・織田信長方に投降します。

大坂石山本願寺推定地
8月28日、三好為三が投降し、その3日後の9月朔日、為三に近しい三木某なども投降しています。その翌日の2日には、三好三人衆方の陣中で喧嘩が起きています。

同月10日、幕府・織田勢は、三好三人衆勢に攻撃を開始し、次々と敵を圧倒していきますが、同12日、旗色を鮮明にした大坂本願寺勢が武力蜂起します。次いで、これに呼応した京都東側の同盟勢力(朝倉・浅井・六角氏)が、京都を目指して進みます。
※改訂 信長公記(新人物往来社)P111

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志賀御陣の事条:
9月16日越前国の朝倉義景・浅井備前守長政、30,000計り近江国坂本口へ相働くなり。森三左衛門尉、同国宇佐山の坂を下々(おりくだり)懸け向かい、坂本の町はづれにて取り合い、纔千(わずか)の内にて足軽合戦に少々首を取り、勝利を得る。(後略)
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近江坂本城跡
同月16日、本願寺方は幕府方と停戦しますが、再び交戦が行われています。多分これは、この時に近畿地域に接近した台風によるものと思われます。台風が過ぎ去ると、再び戦闘は始まっています。その間、幕府・織田方は京都防衛を優先する策を打ち出し、野田・福島の戦線から後退して、その本陣としていた摂津中嶋城も放棄。京都に戻ります。
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P638

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元亀元年条:
(前略)一、同16・17日(9月)に鉄砲止められ候て和睦の噯い候へ共、相調わず由申し候。
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そんな最中の9月20日、寝返ってきた三好三人衆勢の中心人物である三好為三の知行地の暫定方針を信長は伝えています。一方でまた、これは細川六郎へ信長より提示された「池田領内二万石」の概念に含まれる要素だったのかもしれません
※池田市史(史料編1)P28

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摂津国豊嶋郡の事、扶助せしめ候。追って糺明遂げ、申し談ずべく候。疎意有るべからず候。
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実際、将軍義昭政権は、知行地の配分どころでは無く、政権崩壊に繫がりかねない軍事的危機にあり、その対応に追われます。それは軍事面だけでは無く、徳政令(経済政策)や朝廷を動かした和睦対応などで、この年の暮れには、一時的な全面停戦を実現して、窮地を脱します。
 その頃の12月25日及び27日、三好三人衆方の同盟勢力である本願寺光佐が、それらの求心的人物である細川六郎に、歳末の挨拶を行っています。
※本願寺日記-下-P596

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27日付音信:
芳墨披閲本望此の事候。就中太刀一腰、馬一疋贈り給い候。悦びの至り為候。猶下間丹後法印頼総申し入れるべく候条、先ず省略せしめ候。穴賢。
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年が明けた元亀2年、その春から両陣の動きがあり、夏頃にはまた、双方で大規模な交戦が始まります。
 5月6日、幕府方に身を置いていた松永久秀が、旧誼の三好三人衆方へ寝返り、同時に三好義継も三好方へ復帰します。これは、三人衆方にとっては、同族分裂の終息を遂げた事となり、新たな求心力を得たカタチになります。
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P237、二條宴乗記(ビブリア54号)P33

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『多聞院日記』5月6日条:
(前略)一、奈良多聞山従り陣立て之在り。松永山城守久秀嫡子同苗金吾(久通)・竹内下総守秀勝立ち了ぬ。
『二條宴乗記』5月6日条:
天晴。陣立て、松永久通・竹内秀勝計り也。知れず者也。
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一方、幕府・織田方は、重要地域である摂津中嶋城を治めていた伝統的権威であった細川典厩家、藤賢の処遇について検討しています。6月4日、信長はその事を音信しています。
※織田信長文書の研究-上-P458

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細川右馬頭藤賢身上の儀に付き、御内書の旨、頂戴致し候。連々公儀に対し奉り疎略無く候。然る間信長於も等閑存ぜず候。此の節領知以下前々如く、相違無きの様に上意加えられるべくの事、肝要存じ候。此れ等の趣き御披露有るべく候。恐々謹言。
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また、同月16日、三好為三の処遇についても検討を行っており、これについて暫定的な方針として、7月31日付けで、将軍義昭が内書を下して、為三の希望する所領について認めています。しかし、最初の要求よりは規模を小さくして、より具体的な内容になっています。
※織田信長文書の研究-上-P392、大日本史料10-6-P685

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6月16日付:
三好為三摂津国東成郡榎並表へ執り出でに付きては、彼の本知の旨に任せ、榎並の事、為三申し付け候様にあり度く候。然者(摂津守護)伊丹兵庫頭(忠親)近所に、為三へ遣し候領知在りの条、相博(そうはく:交換)然るべく候。異儀なきの様に、兵庫頭忠親へ了簡される事肝要候。
7月31日付:
舎兄三好下野守跡職並びに分に自り当知行事、織田信長執り申し旨に任せ、存知すべく事肝要候。猶明智十兵衛尉光秀申すべく候也。
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摂津白井河原古戦場跡

8月28日、摂津国島下郡宿河原付近で大合戦(いわゆる白井河原合戦)があり、これに三好三人衆方池田勢が勝利しました。幕府方中心人物の一人であった和田惟政を始め、主要人物は戦死。茨木城など付近一帯は悉く池田勢が落として勢力下に収めました。これにより、山城国勝龍寺城付近が最前線となる状況にまで、幕府方は軍事的緊張を強いられます。
※言継卿記4-P523など

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『言継卿記』8月28日条:
戌午、天晴、時正、(前略)摂津国■郡山於軍之有り。和田伊賀守惟政討死云々。武家辺以ての外騒動云々。茨木兄弟以下300人討ち死に。池田衆数多打ち死に云々。三淵大和守藤英夜半■■城入り云々。
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摂津池田勢は、この合戦により、歴代の最大版図を得、同時に、三好三人衆方は池田勢の奮戦で、京都奪還が現実味を帯びる状況に好転します。

しかし、そんな中で、その年も暮れかかる12月17日、細川六郎(昭元)は配下を伴って、幕府・織田方に投降します。
※兼見卿記:第一(続群書類従完成会)P24

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十七日条:
細川六郎(昭元)出頭也。見物了ぬ。騎馬薬師(寺)・三宅・香西三騎也。馬廻り打籠也。七百計り之在り。祗侯の砌、官途右京大夫、又名乗り御字遣わされ、秋(昭)元云々。
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元亀3年が明けて、三好三人衆の中心人物である石成友通も幕府・織田方に投降してきます。細川昭元(六郎)が投降したことで、その周辺の人物が次々と連なって、付いてきました。織田信長が、石成主税助友通へ音信(朱印状)しています。
※織田信長文書の研究(補遺・索引)P127

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領中方目録:
一、山城国の内普賢寺・皆一職、一、同山田郷(現京都府相楽郡精華町内)皆一職、一、同上々野(現東寺領荘園のひとつ)三分の一、一、同富野郷御料所方・小笠原分除き之、一、同内野代官職、一、同壬生縄内、一、山城郡司、以上、右御下知の旨に任せ、領知全う相違有るべからずの状、件の如し。
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軍事的には、三好三人衆方が有利な状況でしたが、昭元を始めとする、この不調和は政治的な内部事情があっての事と考えられます。後の項目で、これについて示しますが、三好三人衆方は、いくつかの求心的要素(人物)をかかえており、その時々で、その重要度に偏りを見せたために、その扱いへの不満が表出したのではないかと思われます。

さて、幕府・織田方に迎えられた管領格の細川昭元(六郎:この時は右京大夫)は、3月24日に配下を引き連れて、信長に参候して挨拶を行います。
※改訂 信長公記(新人物往来社)P123

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むしゃの小路御普請の事条:
(前略)3月24日、(中略)細川六郎(昭元)殿・石成主税助始めて、今度、信長公へ御礼仰せられ、御在洛候なり。今般大坂門跡より万里江山の一軸、並びに、白天目、信長公へ進上なり。
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この後、幕府方として、軍事的には不安定ではあったものの、伝統的な細川典厩家の城である中嶋城に、元の城主であった藤賢に加えて細川昭元も入れ、守らせたようです。
 しかし、三好三人衆方は、ここを再び攻撃します。中嶋城の細川藤賢・昭元は持ちこたえられずに和睦します。これについて、いくつかの記述や解説では、昭元が再び三好方になったとしているのですが、その後も、昭元と藤賢は、明らかに幕府方の立場です。

そんな中、この5月頃には、将軍義昭と織田信長の不和が表面化、両派が分かれ始めます。しかし、完全には乖離しておらず、付かず離れずの行動から心理的には葛藤があったと思われますが、それらは史料上から読み取るには複雑です。
 史料があっても、その人物の立場が把握できなければ、書いてある意味が全て実態の真逆の意味になりますので、人物の所属把握は非常に重要です。難しいのですが、行動の結果からすれば、それらの誤差は読み取る事ができるかもしれません。

6月2日付けの史料は、欠年ではあるものの元亀3年の状況を示していると考えられ、同じく欠年6月12日付の荒木村重の音信は、関連性があるものと考えられます。以下は、6月2日付け、幕府方細川昭元が、讃岐国人香西玄蕃助某へ音信したもの。
※瀬戸内海地域社会と織田権力P208

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昨日者見廻り悦び入り候。仍て摂津国池田の人数、才覚を以て相越すべく旨、談合相申し由、一段祝着の至り候。明日上嶋(中嶋?豊嶋?)に至り、敵相動き由の条、尚以て馳走肝要候。恐々謹言。
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これらの史料から窺える状況からすると、摂津池田衆も三好三人衆方から少し距離を置き始めていたようです。昭元や石成友通が三好三人衆方から離れた事で、微妙な求心力の衰えが影響を及ぼしていたのかもしれません。

つい先日、令和6年9月6日に報道されました、熊本大学(永青文庫)による、織田信長から細川藤孝への書簡(元亀3年8月15日と推定)では、山城・摂津・河内国方面の有力国人を味方に引き入れるよう信長が依頼しています。
 この時点では決定的に将軍義昭と織田信長は決別しているようで、両者は、体制固めに動いています。
※熊本大学・永青文庫記者発表資料など
https://www.kumamoto-u.ac.jp/daigakujouhou/kouhou/pressrelease/2024-file-1/release240906.pdf

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八朔之祝儀為、(猶具一ト二ニ申し渉り候)委細承り候。殊に帷子ニ送り給わり候。懇切祝着之至り候。当年京衆何れも無音之処、初春も太刀・馬之給わり候間、例年表され之条、大慶候。仍って鹿毛之馬之進め候。乗心形の如く候歟。方々御辛労之由、併せて此の節候。南方辺之衆誰々寄らず、忠節抽んずべくに付きては、召し出され然るべく候。馳走簡要候。恐々謹言。
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この流れで、8月28日の事とする中嶋城をめぐる合戦(中川史料集:内容からしてこれは元亀3年の誤りであること確実)では、摂津池田勢が中嶋城の支援を行っていたらしい様子が浮かんできます。
※中川史料集P14

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太祖清秀公の条の元亀3年条:
8月28日夜、摂津国中嶋細川右馬頭藤賢が城中に出火あり。城の内外大いに騒動しければ、石山本願寺の砦より人数出して、中嶋の城を攻める。藤賢兼ねて将軍に昵近して、御所に相詰めける故、城中無勢にして、防戦に術を失い、城兵四方に散乱す。太祖(中川清秀)その頃、新庄に御在城故、早速御出馬ありしに、藤賢勢いは落ち散りて、本願寺の兵、早や城中に入れ替わりたるを、御手勢を以て即時に城を取り返さる。此の時石火矢を打ちけるに筒損じ中川淵兵衛重正(重継の子)面を焼きて、その痛み甚だしく程なく死す。太祖も側らにおはせしが御顔を損ぜらる。荒木村重も乗り付け御武勇を感じ、中嶋の城を預け参らせ、直ちに御入城有って藤賢が一跡御知行となる。
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そして、これを裏付ける様な、元亀3年9月2日付、本願寺光佐による細川昭元への音信内容は、実際に争うような事があり、何らかの交渉の実態を示していると考えられます。
※本願寺日記-下-P602

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芳墨披覧遂げ候。今度御城中於て不慮之次第、旨趣き具さに承り候。其れに就き軈て誓詞以て預け示し候。相応之儀如在有るべからず候。猶坊官下間頼廉申し入れるべく候。
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一方この頃、背反常無い三好為三は、将軍義昭派三好三人衆方に復帰したらしく、欠年10月13日付けで、聞咲なる人物に音信し、三人衆方の動向を伝える連絡を取っています。また為三は、同月7日付けで、将軍義昭からの内書を根拠にしたと思われる領知を獲得していたらしく、「代官之事」として、刀根分・茨木分を書き出しています。三好為三が、上御宿所(意味は不明)に宛てて音信しています。
※箕面市史(史料編6)P438

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代官之事:
一、刀根分、一、茨木分、以上。
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復元された安宅船
欠年11月13日付けの信長による将軍義昭側近曽我助乗への音信で、これも三好三人衆勢力の中心人物である安宅信康の扱いを検討しています。幕府・織田方へ投降する動きがあったようです。
※織田信長文書の研究-上-P584

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淡路国人安宅神太郎(信康)事仰せ聞かせられ候。尤も以て然るべく存じ候。去春以来之儀、其の聞こえ無く存ずる之由、一旦者余儀無く候。但し彼の雑掌共申し候趣き、一向難題之模様候し、其の分に至りては、果たして入眼不実に存じ候ける、万端を抛ち、此の節忠節抽んずべく之由、寔に神妙之至りに候。然る間領知方の儀、彼の方申し様聞き召し合わされ仰せ付けられるべく候。信長に於いては疎略存ずべからず候。此れ等之旨御披露有るべく候。恐々謹言。
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安宅氏は、淡路国の有力者を束ね、海上輸送も担う勢力であって、この離反は、三好方の衰退の大きな要因になったと考えられます。

12月頃、そんな中での摂津国中嶋城の奪還闘争は、将軍義昭方三好義継などが中心となって攻撃をしています。これは時期的には、甲斐守護武田信玄の京都を目指した西進が始まっており、将軍義昭がこれに呼応するための連絡路確保を行ったためと思われます。
 細川昭元は、三好義継と人質の交換を行い、誓詞も交わしていましたが、その和も破れて、再び交戦となっていました。

元亀2年12月の昭元の幕府・織田方への投降以来、その後も一族の苦境や上位権力である幕府の権力分裂などが起きて、多難ではありましたが、昭元は、その時の必要な事を実行し、分限を守って淡々と行動しているように見えます。
 この行動が、信長に信用され、信長の娘を娶り、加えて偏諱も得て、一族扱いを受けるまでになります。
 また、元亀3年3月以降、同族の典厩家である藤賢とも行動を共に(主に中嶋城の守備)させられますが、この藤賢は、永年に渡る管領争いを続けてきた宿敵でもある細川氏綱の家系であり、その人物とも違うこと無く折り合いをつけていた事は、この時代の非常に希な事であったかもしれません。勿論、一方の細川藤賢も、昭元をよく助け、行動したことも史料から伺えます。

しかし、そんな藤賢にも、将軍義昭から誘いがあったようです。甲斐武田の上洛に備えて、体制を強固にすべく、伝統的な幕府関係者を自らの味方になってもらうように、様々な手を講じていた事が判ります。12月10日付けで、将軍義昭が、側近の一色藤長へ内書を下しています。状況的に、この時の藤賢は昭元と行動している筈ですので、この調略は当然ながら昭元の耳にも入るでしょう。求心力を発揮する権威は、争うにあたっては必須条件です。
※福井県史(資料編2)P686

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前置き:
なおなお来春は朝倉義景礼に来るべく之由申し候。其れ以前に養生すべく用立てる事肝要候。将又来春右馬頭(細川藤賢)も相越し候やうに大坂(本願寺)へ申し調えるべく候。猶延広(不明な人物)申すべく候也。
本文:
諸労未だ験を得ず候由、一入心元無く候。急度養生加え、然るべく候。此の間之様、一向に油断候。分別せしむべく事肝要候。
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<元亀元年8月から元亀3年暮の京都周辺の戦況> =================
8/28 三好三人衆方三好為三など、幕府・織田信長方に投降
※改訂 信長公記(新人物往来社)P109、細川両家記(群書類従20:合戦部)P636、多聞院日記2(増補 続史料大成)P206、言継卿記4-P441など

9/1 三好三人衆方三木某など、幕府・織田信長方松永久秀に投降
※言継卿記4-P442

9/2 三好三人衆方の摂津国野田・福嶋陣所などで内紛発生
※言継卿記4-P442

9/10 幕府・織田信長勢、摂津国野田・福島城を攻撃開始
※改訂 信長公記(新人物往来社)P109、細川両家記(群書類従20:合戦部)P636

9/16 幕府・織田信長方、大坂本願寺と停戦
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P638

9/20 織田信長、三好為三へ摂津国豊島郡の知行について音信(朱印状)
※池田市史(史料編1)P28、織田信長文書の研究-上-P417など

9/23 幕府・織田信長勢、摂津国方面から撤退
※言継卿記4-P448、細川両家記(群書類従20:合戦部)P638、改訂 信長公記(新人物往来社)P112

12/27 反幕府・織田信長方本願寺光佐、細川六郎(昭元)に音信
※本願寺日記-下-P596


【元亀2年】----------------
1/16 三好三人衆方本願寺光佐、細川昭元へ音信
※本願寺日記-下-P596

2/17 某永雄(所属不明)、近江国永源郷宿中へ宛てた音信で摂津の情勢を伝える
※戦国遺文(佐々木六角氏編)P318

5/6 松永久秀衆同名金吾・竹内秀勝勢、三好三人衆方として大和国多聞山城を出陣
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P237、二條宴乗記 (ビブリア54号) P33

6/4 織田信長、幕府衆細川藤賢(典厩)の知行地について細川藤孝へ音信
※織田信長文書の研究-上-P458

6/16 織田信長、幕府衆明智光秀に三好為三の処遇について音信
※大阪編年史1-P406、織田信長文書の研究-上-P392、織田政権の基礎構造(織豊政権分析1)P63

7/31 将軍義昭、三好為三に所領安堵の御内書を下す
※大日本史料10-6-P685 ←狩野文書

8/28 摂津国白井河原合戦
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P256、言継卿記4-P523、耶蘇会士日本通信-下-P137など

12/17 細川昭元、幕府へ出仕
※兼見卿記:第一(続群書類従完成会)P24


【元亀3年】----------------
1/26 織田信長、石成友通へ音信(朱印状)
※織田信長文書の研究(補遺・索引)P127、戦国遺文(三好氏編3)P22

3/24 細川昭元、織田信長へ参侯

※改訂 信長公記(新人物往来社)P123、戦国史研究76号-P13

4/14 反幕府・織田信長方本願寺坊官下間正秀、近江国北部十ヶ寺惣衆中へ宛てて音信
※近江国古文書志1(東浅井郡編)P89、戦国遺文(三好氏編3)P30、本願寺教団史料(京都・滋賀編)P247


4/18 反幕府・織田信長方本願寺坊官下間正秀、近江国北部十ヶ寺衆惣中へ宛てて音信(返信)
※近江国古文書志1(東浅井郡編)P90、戦国遺文(三好氏編3)P31、本願寺教団史料(京都・滋賀編)P248

6/2 幕府方細川昭元、讃岐国人香西玄蕃助某へ音信
※瀬戸内海地域社会と織田権力P208

6/12 反幕府方三好三人衆派荒木村重、摂津国豊嶋郡春日社南郷目代今西宮内少輔へ音信
※豊中市史(史料編1)P125、伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P13

8/28 将軍義昭方本願寺勢、幕府方摂津国中嶋城を攻める
※中川史料集P14


9/2 将軍義昭方本願寺光佐、細川昭元に音信
※本願寺日記-下-P602

10/7 将軍義昭方三好為三、上御宿所へ宛てて音信
※箕面市史(史料編6)P438

10/13 将軍義昭方三好為三、聞咲(所属不明)へ音信
※大阪編年史1-P459、戦国遺文(三好氏編2)P272

11/2 織田信長衆木下秀吉など、京都大徳寺各中に宛てて石成友通について音信(折紙)
※大徳寺文書1(大日本古文書:家わけ17)P54、豊臣秀吉文書集1-P19

11/13 織田信長、将軍義昭側近曽我助乗へ安宅信康について音信
※織田信長文書の研究-上-P584

================= <年表おわり>


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2024年9月14日土曜日

新出の「織田信長から細川六郎(昭元)へ宛てられた朱印状」が発行された、元亀元年当時の戦況

元亀元年8月付で発行された、織田信長から細川六郎(昭元)宛の新発見史料が、どんな状況で作成されたのかを見てみます。元亀元年は、西暦にすると1570年ですが、同年4月23日に改元があり、「元亀」と改まりました。
 また、この改元は、有名な越前朝倉・近江浅井氏攻めの最中に行われ、また計らずも元亀年間は激しい近畿地域争乱の幕開けとなりました。

この記事(項目)では、その年の6月以降から歳末にかけ、順に追ってみます。この本文以下に、関連する出来事の一覧を掲示します。

越前国一乗谷朝倉氏遺跡
幕府・織田信長方は、四国の三好氏本拠を攻める計画が当初にありましたが、急遽、越前朝倉氏を攻める事となりました。

若干、この理由を考えてみますと、この前年、永禄12年に但馬・因幡国の山名祐豊を幕府方が攻め、生野銀山を手に入れようとしましたが、この達成が難航していました。朝倉氏の発祥は但馬国にあるため、日本海側の勢力が連携していたものと思われます。織田信長は、この連携を断ち切るために朝倉攻めを先に実行した可能性があります。
 この準備として、永禄12年に連歌師里村紹巴を丹後国に入れて、内情偵察を行っています。7月4日に紹巴は、同国天橋立を訪ねています。紹巴は堺商人とも親密な関係にあり、これは、単なる文化活動ではないと考えられます。

話しを元に戻します。

御存知の通り、越前朝倉氏攻めの過程で織田信長の縁戚であった近江国人浅井氏の離反が確定した事から、これへの根本対応を行う事となりました。
 私はそれが、いわゆる「姉川合戦」だと考えています。その6月以降からの京都とその周辺地域を中心に戦況を見たいと思います。

既述のように、元々幕府・織田方は、四国阿波の三好氏本拠を攻める計画でしたので、堺商人などを通じて、状況把握や監視を行っていました。この音信は、その一例です。
 堺商人今井(納屋)宗久が、将軍義昭側近上野中務大輔秀政・同一色式部少輔藤長・玄浄院・金山駿河守信貞(三好義継重臣)・河内国高屋・和田伊賀守惟政・朝山日乗上人・明智十兵衛尉光秀・野村越中守・御局様・木下藤吉郎秀吉・森三郎左衛門尉可成・松永山城守久秀・畠山尾張守高政・佐久間右得門尉信盛・柴田修理亮勝家・中川八郎右衛門尉重政・蜂屋兵庫頭頼隆・丹羽五郎左衛門尉長秀・金森長近・河尻与兵衛尉秀隆・武井夕庵・一角好斎・御長・雲松軒・布施式部丞某へ各々へ宛てたものです。
※堺市史5(続編)P927

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急度啓上せしめ候。淡路国へ早舟押し申し候処、一昨日辰刻(午前7時〜9時)、阿波国衆不慮雑説候て、引き退かれ候。然る処、安宅神太郎信康手の衆、相慕われ候処、阿波国衆手負い死人200計り之在りの由候。敵方時刻相見られ申し候。恐々謹言。
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近江国姉川古戦場
繰り返しになりますが、その上で、越前朝倉氏攻めに変更し、苦境に陥るのですが、しかし同時に、この事で潜んでいた将軍義昭政権にとっての悪材料が一気に露顕(永禄13年正月に諸大名へ幕府から発した触状を元にした敵味方の確認)します。戦略に長けた織田信長は、事前にこの連合包囲を察知していたようです。
 そのため、京都の西側から三好三人衆勢が、朝倉・浅井勢と呼応した動きをすると、信長は考えていたようです。その対策として、拠点整備を行っています。6月9日付けで、幕府方細川右馬頭(典厩)藤賢が、某(幕府関係者)へ音信しています。
※新修 茨木市史(通史2)P28:狩野文書

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今度近江国於いて大利を得られ、六角承禎父子近江国伊賀に至り退かれ候由、慥かに承り珍重候。尤も罷り上りと雖も申し上げるべく候。普請毎日申し付け候間、取り乱し自由に非ず候。形の如く(慣例に従って)申し付け候者罷り上り、毎事上意得るべく候。先日申す如く伊丹兵庫頭忠親は摂津国東成郡榎並へ人夫3日申し付け、普請合力池田筑後守(勝正は、一昨日1日摂津国欠郡へ人夫2〜300人合力為馳走仕り候。並びに上意堅く仰せ出され候故と忝く存じ候。然るべく様御取り成し頼み入り候。近日者、牢人雑談相静め申し候。此の分に候者、都鄙大慶せしめと存じ候。近江国へは、織田信長定めて罷り出られるべく候。然ら者御動座為るべく候哉、承り度く存じ候。猶々伊丹・池田へは、私城(中嶋城)の普請合力仕り候由神妙に思召され候由、仰せ出され様に御取り成し頼み入り存じ候。旁様体承り度く候間、先ず以て飛脚申し候。何れも図らず罷り上り申すべく候。かしく。
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一方この時、堺に牢人が集まり、不穏な動きが始まっていました。これは随時に、信長にも情報が入っていたと思われます。
 しかしながら、細川藤賢の音信中にもあるように、朝倉氏、特に浅井氏に決戦を挑むべく準備(姉川合戦)を進めており、これについて、計画では将軍義昭勢の後詰めを繰り出す予定でした。その中心勢力が、摂津守護池田勝正でした。
 ところが、幕府・織田方にとって深刻な想定外だったのは、この摂津池田家中で内紛が起きて、敵の三好三人衆方になってしまった事でした。
 姉川合戦で幕府・織田方が苦戦したのは、将軍義昭が自ら出陣(移座)し、後詰めに出る事ができなかったのが原因です。加えて、摂津国内最大の勢力であり、守護職であった当主池田勝正とその家が分裂し、その主勢力が三好三人衆方になった事で、京都を西側から脅かす緊張感が高まりました。

摂津池田城跡公園
6月18日に池田城内で内紛が起き、当主池田勝正は池田城を出ます。その後、諸方の情報収集を行って、同月26日、河内国守護三好義継を伴って将軍義昭に状況報告を行います。
 これを受けて幕府は、翌27日、近江国出陣を断念し、各所に通達を出します。そして翌28日の姉川合戦を迎えています。
 将軍義昭は、ギリギリまで希望を繋いでいたようですが、無理強いはせずに中止し、他へ資力を振り分ける判断になったようです。

この状況で、姉川合戦に負ければ、将軍義昭政権は総崩れとなります。だから、必ず勝たなければならなかったし、結果として勝ちました。辛勝でしたが、敵を怯ませる事には成功した訳です。
 この合戦後、直ぐに付(相)城を構築して、朝倉・浅井方の動きを封じ、今度は軍勢を西に向け集中させます。
 7月4日、信長は入京。東西主戦場の真中に居て、双方の動きに目を配ります。信長は、必要な所に次々と移動していたようで、翌月23日に再び京都へ入っています。

摂津国野田城跡推定地
この頃、京都西側の三好勢に対する目途が立ったようで、8月25日に信長は摂津国へ向けて、京都を出ています。摂津国野田・福島方面へ大挙上陸していた三好三人衆勢に対するためです。
 この時も将軍義昭の出陣を計画し、幕府の公的な戦いである事を誇示しました。その効果もあってか、この征討は有利に、比較的順調に進んでいました。

この時の幕府・織田勢の本拠は、摂津国欠郡中嶋で、そこには中嶋城がありました。ここは伝統的に細川典厩家の城で、この時には細川右馬頭藤賢が守っていました。8月1日には合戦があり、藤賢は摂津国人野辺弥次郎なる人物へ感状を下しています。
※新修 茨木市史(通史2)P29

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去る朔日(8月1日)大仁(現大阪市北区大淀付近)堤に於いて、多勢に無勢を以て一戦に及び、前代未聞比類無き働き神妙に候。弥忠節肝要に候。謹言。
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将軍義昭の出陣により、この中嶋城が本陣となって、その他の勢力は天満森などに陣を構えて三好三人衆方に対します。信長は当初、天王寺の陣へ入っています。
 三好三人衆勢は、その西側の野田・福島方面へ陣を取っていました。8,000程の軍勢だったようです。
 8月には、その周辺、尼崎や原田、河内国内で交戦が行われており、18日には本願寺勢も中嶋城周辺を焼き討つなどしていました。

摂津国中嶋(堀)城跡
9月3日、将軍義昭は中嶋城に入り、幕府・織田方が三好三人衆方へ総攻撃を開始し、同月10日には、三好三人衆方の本陣である野田・福島城へ攻撃を始めています。
 そして12日、同城へ総攻撃を始めたところで、その横(南側から)を衝くように本願寺宗が幕府・織田方に対して武力蜂起を行い、戦況は逆転してしまいます。
 そして、これに呼応して、近江国方面の朝倉・浅井勢も京都へ迫る動きをしています。この事態を収拾するため、幕府・織田勢は野田・福島城の攻撃を中止して、京都防衛のために撤退します。各勢力も本拠地に戻って、防御態勢を取り、同時に次の手のための再編成を行いました。
 信長は、この窮地を挽回するために、軍事力だけでなく、様々な手を講じて、時間を稼ぐための休戦に持ち込もうと動きます。京都やその周辺で徳政令を発布、朝廷を動かして停戦を図ります。
 三好三人衆など、反幕府・織田勢力は、圧倒的な武力を持ちながら、驚くことに、次々とこの和睦に応じて、この年の暮れには全面的な休戦を実現しています。

今回、新たに発見された、8月付の信長による管領格の細川六郎(昭元)へ宛てた朱印状ですが、そのような戦況の中で企図された六郎の調略です。
 戦況だけを見ていると、反幕府・織田方の勢力が非常に巨大に感じますが、この流れの中に「不安の種」も見受けられます。
 三好三人衆方の中心人物である三好為三などが、幕府方に投降します。これから両軍がぶつかろうとする直前です。
※改訂 信長公記(新人物往来社)P109、細川両家記(群書類従20:合戦部)P636、多聞院日記2(増補 続史料大成)P206、言継卿記4-P441など

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『信長公記』野田福島御陣の事条
(前略)8月28日夜に、三好為三・香西、摂津国天王寺へ参らせられ候。
『細川両家記』元亀元年条
(前略)一、同8月30日に三好下野守の舎弟為三入道は信長へ降参して野田より出、御所様へ出仕申され候なり。
『言継卿記』8月29日条
明日武家摂津国へ御動座云々。奉公衆・公家衆、御迎え為御上洛、御成り次第責めるべくの士云々。三好為三(300計り)降参の由風聞。
『多聞院日記』9月1日条
(前略)三好為三・香西以下帰参云々。実否如何。(後略)
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続いて、月が変わった朔日、これも三好三人衆家中の歴々衆である三木某などが、幕府方の松永久秀に投降します。
※言継卿記4-P442

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『言継卿記』9月3日条
(前略)敵方自り三木■■■、麦井勘衛門両人、一昨日(9月1日)松永山城守久秀手へ出云々。
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更に、同月3日、将軍義昭が中嶋城に入った前の日、野田・福島陣所などで大きな喧嘩が発生しています。
※言継卿記4-P442

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『言継卿記』9月2日条
武家明日中嶋の細川右馬頭城へ移座され云々。敵方香西、三宅雑談故、各為生害せしめ云々。(後略)
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この事態収拾を図る目的なのか、もう一人の三好三人衆家中の中心人物である三好長逸が、摂津国池田城から、野田・福島城へ入ります。
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P636

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『細川両家記』元亀元年条
(前略)一、同9月3日に三好日向守長逸、同息兵庫介も摂津国池田より出、同国福嶋へ入城由候也。
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信長は、このような敵の内情を知っており、結束が固くない事の情報を得ていたのだろうと思われます。

この時から遡る事21年前。この中嶋城のすぐ東にある江口での大合戦(天文17年の江口合戦)も、敵方の陣中で喧嘩が始まった乱れを衝いて攻め込み、三好長慶が勝利を得た事と、状況の共通性があります。
 人間の結束の乱れを戦時・平時を問わず、冷静に見るという、別次元の格の違いが、そもそも存在していたのかもしれません。実際に、時系列で戦況を見ても、敵方の喧嘩の情報を知ったのか、そのあたりで幕府・織田勢が攻撃を始めていると見えなくもありません。

一方で、別の見方をすれば、全てが計画されていた訳ではないと思いますが、もしかすると、信長はこの窮地を逆手にとって、三好三人衆勢を本拠地から誘い出して、それを叩くという事も考えたかもしれません。攻め込むよりも、負のリスクを軽減でき、既知の地の利を活かした戦術を駆使できます。

元亀元年の夏以降、織田信長から細川六郎(昭元)宛の新発見史料は、このような戦況で発行されました。


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<元亀元年6月以降の京都周辺の戦況> =================

6/1 池田勝正、守護役として摂津国中嶋城の普請を行う
※新修 茨木市史(通史2)P28、戦国摂津の下剋上(高山右近と中川清秀)P153 ※狩野文書

6/2 反幕府方三好三人衆加担の牢人衆、堺へ集まる
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P189

6/17 将軍義昭、近江国人佐々木(田中)下野守へ御内書を下す
※大日本史料10-4-P526、近江国古文書志1(東浅井郡誌編)P524

6/18 摂津池田城内で内訌が起こる
※池田市史(史料編1)P81、言継卿記4-P424、多聞院日記2(増補 続史料大成)P194、群書類従20(合戦部:細川両家記)P634

6/18 幕府衆細川藤孝など、畿内御家人中へ宛てて音信
※大日本史料10-4-P525(武徳編年集成)、朝倉義景のすべてP66

6/19 摂津国池田衆、三好三人衆方へ使者を派遣
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P634、戦国期三好政権の研究P263、大日本史料10-4-P522

6/19 将軍義昭、摂津国池田家内訌の深刻化で再び近江国出陣を延期
※言継卿記4-P424、戦国摂津の下剋上(高山右近と中川清秀)

6/20 幕府・織田信長勢、京都から摂津国山崎方面などへ出陣
※言継卿記4-P424

6/26 反幕府方三好三人衆内三好長逸・石成友通など、摂津国池田へ入城との風聞が立つ
※言継卿記4-P425

6/26 摂津守護池田筑後守勝正、将軍義昭に面会
※言継卿記4-P425、戦国期歴代細川氏の研究P219

6/27 将軍義昭、近江国出陣を延期(中止)
※言継卿記4-P425

6/28 近江国姉川合戦

6/28 摂津守護和田惟政、小曽根春日社に宛てて禁制を下す (直状形式)
※豊中市史(史料編1)P121、大日本史料10-4-P554

6/28 反幕府方三好三人衆勢、摂津国吹田へ上陸
※言継卿記4-P426

6/29 幕府奉行衆勢、摂津国に出陣
※言継卿記4-P426

7 反幕府方池田民部丞、山城国大山崎惣中へ禁制を下す(直状形式)
※島本町史(史料編)P443

7 幕府方摂津守護格池田勝正派摂津国河辺郡荒蒔城主上月範政、三好三人衆方池田衆・荒木村重などに攻められる
※池田町史P135

7/4 信長入京
※足利義昭(人物叢書)P167、言継卿記4-P427

7/6 幕府・織田信長勢、摂津国吹田で交戦
※言継卿記4-P428

7/12 摂津守護伊丹忠親、摂津国尼崎本興寺に禁制を下す
※伊丹資料叢書2(伊丹中世史料)P115

7/21 反幕府方三好三人衆勢、摂津国野田・福島方面へ上陸
※言継卿記4-P432、足利義昭(人物叢書)P168

7/26 幕府方松永久秀、河内国へ出陣
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P200

7/27 反幕府方三好三人衆内三好長逸、摂津国野田・福島方面へ入る
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P634

7/29 反幕府方三好三人衆内安宅信康勢、後巻きとして摂津国兵庫に上陸
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P634

8/2 反幕府方三好三人衆内三好為三など、禁制発給につき山城国大山崎惣中へ宛てて音信
※島本町史(史料編)P435、戦国遺文(三好氏編2)P261

8/2 将軍義昭、河内南半国守護畠山昭高に摂津国内等の守備を命ずる
※泉大津市史2(史料編1)P435

8/3 幕府衆細川藤賢(典厩)、摂津国人野部(辺)弥次郎へ音信
※新修 茨木市史(通史2)P29

8/5 反幕府方三好三人衆勢、河内国若江城の西方へ築城
※ビブリア52号P154(二條宴乗記)

8/9 反幕府方三好三人衆内安宅信康勢、摂津国尼崎に移陣
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P635

8/13 摂津守護伊丹忠親、反幕府方三好三人衆派池田勢等と摂津国猪名寺附近で交戦
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P634

8/17 反幕府方三好三人衆勢、河内国古橋城を落とす
※言継卿記4-P439、多聞院日記2(増補 続史料大成)P204

8/23 織田信長、入京
※言継卿記4-P440、ビブリア53号P155(二條宴乗記)

8/23 幕府・織田信長勢、摂津国へ出陣
※言継卿記4-P440

8/25 織田信長、摂津国へ出陣
※言継卿記4-P440

8/25 摂津国豊島郡原田城が焼ける
※言継卿記4-P440、宝塚市史2-P191、三田市史-下-P241

8/26 幕府・織田信長勢、摂津国野田・福島城を包囲
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P635、多聞院日記2(増補 続史料大成)P205、言継卿記4-P440

8/18 反幕府方本願寺勢、摂津国中嶋城周辺を打ち廻る
※近江国古文書志1(東浅井郡編)P519、(新)大阪市史5(史料編)P178

8/27 摂津守護池田勝正、摂津国欠郡天満森へ着陣
※ビブリア53号P155(二條宴乗記)、言継卿記4-P440

8/28 反幕府方三好三人衆内三好為三など、幕府・織田信長方に投降
※改訂 信長公記(新人物往来社)P109、細川両家記(群書類従20:合戦部)P636、多聞院日記2(増補 続史料大成)P206、言継卿記4-P441

8/30 将軍義昭、2,000余の軍勢で摂津国へ出陣
※言継卿記4-P441、多聞院日記2(増補 続史料大成)P206

9 反幕府方池田民部丞某、摂津国多田院に禁制を下す (直状形式)
※川西市史(資料編1)P456

9/1 反幕府方三好三人衆方三木某など、幕府・織田信長方松永久秀に投降
※言継卿記4-P442

9/2 反幕府方三好三人衆勢の摂津国野田・福嶋陣所で内紛発生
※言継卿記4-P442

9/2 将軍義昭、山城国西岡の勝龍寺城を出る
※言継卿記4-P442

9/3 将軍義昭、摂津国欠郡中嶋へ着陣
※ビブリア52号P157+62号P66(二條宴乗記)、細川両家記(群書類従20:合戦部)P636、改訂 信長公記(新人物往来社)P109、言継卿記4-P442

9/3 反幕府方三好三人衆内三好長逸など、摂津池田城を出て摂津野田・福島城へ入る
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P636

9/4 幕府・織田信長方紀伊国根来寺衆・播磨国人別所右得門尉など、摂津国天王寺方面に陣を進める
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P636

9/8 幕府・織田信長勢、摂津国楼の岸・川口砦へ新手を配置
※改訂 信長公記(新人物往来社)P109

9/8 河内北半国守護三好義継・松永久秀、摂津国海老江砦を落とす
※言継卿記4-P443

9/8 摂津守護伊丹忠親・和田惟政勢、反幕府方三好三人衆派池田領内の市場などを打ち廻る
※言継卿記4-P443

9/9 織田信長、摂津国天満森に陣を進める
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P636、言継卿記4-P443

9/10 幕府・織田信長勢、摂津国野田・福島城を攻撃開始
※改訂 信長公記(新人物往来社)P109、細川両家記(群書類従20:合戦部)P636

9/11 幕府・織田信長勢、摂津国中嶋の内にある畠中城を落とす
※言継卿記4-P445

9/12 将軍義昭、摂津国中嶋の内の浦江に入る
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P637

9/12 幕府・織田信長勢、摂津国野田・福島城の総攻撃を行う
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P637、改訂 信長公記(新人物往来社)P109

9/13 反幕府方本願寺勢、幕府・織田信長方に対して蜂起する
※言継卿記4-P445、細川両家記(群書類従20:合戦部)P638、改訂 信長公記(新人物往来社)P110

9/14 反幕府方本願寺勢、摂津国天満森で交戦
※改訂 信長公記(新人物往来社)P110

9/20 織田信長、三好為三へ摂津国豊島郡の知行について音信(朱印状)
※織田信長文書の研究-上-P417、戦国遺文(三好氏編2)P267

9/22 将軍義昭、摂津国中嶋の陣から天満森へ後退する
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P638、改訂 信長公記(新人物往来社)P112

9/23 幕府・織田信長勢、摂津国方面から撤退
※言継卿記4-P448、群書類従20(合戦部:細川両家記)P638

9/23 河内南半国守護畠山昭高勢など、河内国内を打ち廻る
※言継卿記4-P448

9/24 河内北半国守護三好義継など、河内国若江城へ帰城
※言継卿記4-P449

9/25 幕府・織田信長勢、比叡山の麓へ陣を取る
※改訂 信長公記(新人物往来社)P113

9/27 反幕府方三好三人衆内篠原長房勢、摂津国兵庫に上陸
※尼崎市史2-P5、細川両家記(群書類従20:合戦部)P639

9/28 反幕府方三好三人衆内篠原長房勢、摂津国越水城を落として尼崎へ移陣
※尼崎市史2-P5、群書類従20(合戦部:細川両家記)P639

11/5 反幕府方三好三人衆派池田民部丞、摂津国箕面寺に禁制を下す(直状形式)
※箕面市史(資料編2)P414

11/12 播磨国人赤松政秀死亡
※姫路市史8(史料編:古代・中世1)P592

12 幕府、徳政令を発布
※高槻市史1-P739、島本町史(史料編)P445

12/8 幕府・織田信長、三好三人衆方の和睦を成立させる
※ビブリア53号P164(二條宴乗記)

12/13 幕府・織田信長、近江国人浅井長政・越前守護朝倉義景などとの和睦を成立させる
※改訂 信長公記(新人物往来社)P116

12/24 幕府・織田信長、三好三人衆方大坂本願寺の和睦を成立させる
※足利義昭(人物叢書)P177

12/25 反幕府方本願寺光佐、細川六郎(昭元)に音信
※本願寺日記-下-P595

================= <年表おわり>


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2024年9月11日水曜日

令和6年(2024)8月14日頃に報道された、新出の「織田信長から細川六郎(昭元)へ宛てられた朱印状」について

 はじめに

令和6年(2024)8月14日頃に報道されました、新出の歴史史料、織田信長から細川六郎(昭元)へ宛てられた朱印状について、そこに摂津池田家の事も記述がありました。
 この史料の意味やこの時の状況について検討してみたいと思います。以下の翻刻から、いくつかの要素ごとに説明をしたいと思います。

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条目
一、池田当知行分、并前々与力申談候、
  但此内貮万石別ニ及理、同寺社本所奉公衆領知方、除之事。
一、播州之儀、赤松下野守、別所知行分、并寺社本所奉公衆領知方、除之、
  其躰之儀、申談事。
一、四国以御調略於一途者、可被加御異見之事。
  右参ヶ条聊不可有相違之状、如件。
 元亀元       弾正忠
   八月 日       信長 (朱印 天下布武)

細川六郎殿

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なお、翻刻については、山梨県在住のAさんや兵庫県在住のNさんに助けていただきました。大変ありがたく、感謝致します。私は崩し字が未だ、ほぼ読めないため、無理をお願いしました。Aさん、Nさん、ありがとうございました。

上記の史料について、以下の要素から、その意図や意義について、考えてみたいと思います。

  1. 元亀元年当時の戦況
  2. 併せて見るべき関連性の高い史料
  3. 細川六郎と三好三人衆 ← NEW(2024.10.5)
  4. 摂津池田家の動き
  5. 元亀元年頃の播磨国方面の事
  6. 敵方(組織)の求心力を削ぐ目的があった
    ※三好方の世代交代期だった
    ※四国攻めの準備もしていた経緯から内情は概ね把握していた
  7. 結果的に目標が達成されて、細川六郎が降る

 

天下布武の印章(出典:wikipedia