明治時代中頃の地図 |
この「森河内」は、前近代時代頃まで交通の要衝で、陸路・水運が交差する地域でした。また、戦国時代末期には大坂石山本願寺(城)にも近く、本願寺宗の影響力の強いところでした。そんな立地から、戦国時代には度々この森河内が拠点として利用され、争奪戦も繰り広げられています。
摂津国の戦国大名荒木摂津守村重も三好義継が自刃した天正元年(1573)以降、中河内地域から北側を領有している事から、村重と森河内地域も村重と何らかの関連を持っているかもしれません。
さて、いつものように、先ずは、大阪府の地名2(平凡社)にある「東大阪市」の森河内村の記述を抜粋してみます。
※大阪府の地名2-P981
(資料1)-------------------------------
森河内村(現東大阪市森河内:本通1-3丁目、西1-2丁目、東1-2丁目、森河内、古川町、島町)
森河内村域東部に見られる旧家 |
慶長19年(1614)の大坂冬の陣では徳川方の本多忠朝が布陣した(譜牒余録)。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳・延宝年間(1673-81)河内国支配帳・天和元年(1681)河州各郡御給人村高付帳いずれも高582石余で幕府領。
宝永2年(1705)から、大和川付替えで水量の減少した長瀬川の川床に新喜多新田が開発され、村域が二分された。元文2年(1737)河内国高帳では高438石余、幕府領。宝暦10年(1760)には幕府領(瀬川家文書)。幕末にも幕府領。
楠根川の在郷剣先船を元禄5年(1692)には1艘所有していたが、享保5年(1720)には既に手放していた(布施市史)。産土神は八幡神社、真宗仏光寺派竜華山称光寺・同派宝樹山法林寺・融通念仏宗寿量山圓通寺がある。
-------------------------------(資料1おわり)
それから、森河内村の産土神は八幡神社のようですが、その社伝によると、本殿は室町時代末期まで遡るとの事で、村人は勿論、村に陣取った明智光秀など、武将も武運を祈願して詣でたかもしれません。
また、上記(資料1)に見られる「私心記(ししんき)」とは、本願寺宗の中核的な寺であった順興寺(じゅんきょうじ:現枚方市)の実従(さねみち)の日記で、その実従は、蓮如上人の末子にあたる人物です。
この私心記に、森河内方面であった合戦の様子が記述されているのですが、天文年間(1532-55)の始めの頃は、時の管領(将軍の執政職)細川晴元が、法華宗徒や本願寺宗徒と戦いを繰り広げ、「天文法華の乱」などとも呼ばれる、京都とその周辺で政治と宗教の集団が武力で争い合うという、大変な混乱があった時期でした。
軍事的劣勢を補うために、管領細川晴元が本願寺宗を味方につけて、敵を制圧したのですが、今度はその本願寺宗と晴元が対立し、それに対抗するために晴元は、法華宗と手を結んで制圧しようとします。
そして何と、それから間もなく、その法華宗とも晴元は対立し、弾圧するという、もの凄い歴史です。
そんな中、森河内方面の記述が「私心記」に見られます。それらは天文3年(1534)の記事として記録してあります。
※石山本願寺日記-下-P227、232
(史料1)-------------------------------
3月10日:
御厨屋・森河内攻め落とし候。又、やがて摂津国天王寺へ廻り候。(同国)高津展渡辺焼き候。
10月11日:
河内(註:丹下備後守)森河内へ陣取り候。早々也。見物する也。
10月20日:
早々より河内国へ敵出張候。此の方より民部少輔打ち出し候。玄蕃頭同前。仍って森河内之南方於合戦。利運也。敵数輩打ち取り候也。(後略)。
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森河内村の東側に通る南北の道 |
ただ、戦国時代は国境や郡境が、勢力の強弱などにより動きますので、もしかするとこの頃の左専道は河内国に含まれていたかもしれません。天王寺領新開庄に含まれ、一体化していれば、国境の判断は迷うところですね。
※石山本願寺日記-下-P232
(史料2)-------------------------------
上野玄蕃頭・太融寺より河内サセ堂(左専道)へ陣取。薬師寺二郎左衛門(下文中断)。同朝、周防主計汁振る舞い。
-------------------------------(史料2おわり)
左専道村を東西に走る道 |
しかしながら、『地名』にある、詳しい歴史の流れについて、小さな頃から知っていた訳でもありませんので、近年になって知り得た事もあります。
私が聞いた話しとして、両親が結婚した昭和39年(1964)頃、上記にある明治時代の地図のように、まだ多くが田畑だったようです。その後の経済成長で、この地域も急速に街の様子が変わった事が窺えます。
さて、上記の古地図からも判るように、森河内村と左専道村は接するように集落があるのですが、その間を割るように街道があり、それが中高野街道(放出街道)で、この道が摂津・河内の国境にあたります。
中高野街道(放出街道) |
ちなみに、森河内村と関係が深い左専道村についても『大阪府の地名1(平凡社)』の「大阪市城東区」にある記述を紹介しておきます。
※大阪府の地名1-P630
(資料2)-------------------------------
左専道村(大阪市城東区諏訪1-4丁目、永田2-3丁目、東中浜5-6丁目、同8-9丁目)
天王田村の東、長瀬川左岸にあり、東は河内国森河内村(現東大阪市)。深江村(現東成区)で奈良街道(暗峠越)から分かれた摂河国境沿いの道が、村の東端を通って剣道へと続く。集落は村域北東隅に位置し、南方にある12間四方の墓地は行基が開いたと伝える。また延喜元年(901)太宰権師として筑紫へ左遷された菅原道真が、途中立ち寄ったのが当村諏訪明神の森といい、村名の由来説話がある(大阪府全志)。中世は四天王寺(現天王寺区)領新開庄(現東成区)に含まれたとみられる。
大阪市指定の保存樹 |
元禄11年(1698)治水のため村域大和川の外島(中州)が取り払われ(大阪市史)、宝永元年(1704)の大和川付替えで川は水量が減少して大部分の川床は開発された。
享保20年(1735)以降成立の村明細帳(諏訪神社文書)は、特定年の村明細帳ではなく書式・類例を記したものであるが、寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳と同じ451石余が記され、稲富領400石のうち下田93石余・畑299石余・永荒7石余、幕府領51石余のうち田50石余・永荒1石余とある。また宝永5年、永田村と共同で笹関新田(現鶴見区)のうち1畝8歩の地を銀101匁余で布屋九右衛門より、幅2間半・長さ52間半の用水路を銀188匁余で鴻池新七より購入したこと、当村は砂交じりの水損場で麦は不作であること、年貢の津出しは剣先船を利用したこと、村保有の小船は14艘で下肥の運搬や農通いに使用したことなどがわかる。主要井路に橋本・西河原・高野田の各井路があった。享保20年の摂河泉石高調で、村高464石余のうち6石余が新田とされるのは、購入した笹関分か。
諏訪神社は建御名刀美命・八坂刀売命を祀る。前掲村明細帳に引く元禄5年の寺社相改帳によると宮座65人、うち年長の9人が社務をつかさどり、禰宜・神子はいない。古来武家の尊崇厚く、豊臣秀吉奉納と伝える獅子頭一対が残る。
後藤山不動寺 |
不動明王を本尊としたので左専道不動とよばれ、正月28日は初不動といって参詣人が多く(浪華の賑ひ)、桃の名所としても知られた(浪花のながめ)。大阪では「そうはさせない」というとき、語呂合わせに「ドッコイそうは左専道の不動」ということがあった(大阪府全志)。
万峯山大通寺は融通念仏宗。ほかに慶長7年頃左専道惣道場として創建されたという真宗大谷派林照寺、浄土宗地蔵庵がある。
-------------------------------(資料2おわり)
上記(資料2)の文中にある、「南方にある12間四方の墓地は」とある部分、左専道の旧村域の南側にはそのような墓地は見たことがなく、「北方」の間違いではないかと思います。明治時代の地図にも集落の北西端に墓地の地図記号が見られ、南にはありません。
そして、これら両村の歴史を見ると、重要な街道を接し、また、大河にも接していた事で、水路の利用もしていたとの事で、水陸の要衝であった事がわかります。また、江戸時代を通じてほぼ幕府領で、時代が変わっても要地として把握されていた事がわかります。
時代は降って、織田信長の時代。この時の本願寺宗は、自衛的戦争を織田方(室町幕府が機能していた頃に始まった。)に対して起こします。この戦争は、その勃発から10年の長期戦になりますが、その時も森河内は重要な拠点となり、両者の争奪戦となっています。
ちなみに、森河内は本願寺宗の本拠である大坂を守るための支城としての機能を果していました。その時の史料を一部、ご紹介します。天正5年と考えられる、10月20日付けで、織田信長から筒井順慶に送った音信です。
※織田信長文書の研究-下-P324、(新)大阪市史5(史料編)P196
(史料3)-------------------------------
(明智)惟任日向守光秀用所申し付け、自余(他所、丹波国)へ差し遣わし候。一途(いちず:決着する)之間、森・河内城之方に自身相越し、用心等堅固に覚悟せしめ、摂津国大坂へ通路並びに夜待ち以下の事、聊かも油断あるべからず也。
-------------------------------(史料3おわり)
融通念仏宗寿量山圓通寺 |
次ぎにまた、関連史料をご紹介します。天正6年(1576)と思われる11月3日付けで、明智光秀が、所属不明の佐竹出羽守某宿所へ宛てて出した音信です。
※亀岡市史(資料編2)P28
(史料4)-------------------------------
来る12日、南方に至り御出馬されるべく候由、仰せ出され候之間、丹波国亀山之普請相延べ候。然者油断無く陣用意専用候頃、鉄砲・楯・柵・縄・俵之儀、10日以前に河内国森河内に相着かれるべく候。我等は11日に彼の地へ罷り越すべく候条、其の意を得られるべく候。恐々謹言。
-------------------------------(史料4おわり)
この頃には森河内に、更なる強固な陣を構築しようとしている様子がわかります。柵を巡らせ、俵や楯を並べた陣地を作ろうとしていた事がわかります。また、鉄砲も配備していたようです。
光秀は、佐竹出羽守某にそれらを11月10日までに森河内に運び入れるよう指示し、光秀自身が翌11日に着いたら、作業を始められるように、段取りを組んでいたようです。
現在の長瀬川(東向) |
また、私の研究の領域外ではありますが、慶長19年(1614)の大坂冬の陣では徳川方の本多忠朝が布陣しているようですね。
この森河内・左専道あたりは最近、住宅の建設も盛んになりつつありますので、急速に町並みを変えつつあります。景色が一変する前に、ご興味のある方は、散策されてもそういう中世の面影を楽しめると思います。