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2023年3月14日火曜日

摂津国河辺郡(現兵庫県川西市)にあった、上津城を考えてみる

先に紹介した新田(多田)城についての関連記事です。この上津(うえつ)城は、塩川氏の拠点であった新田(多田)城と対を成す城で、両城の間には、主要道である能勢街道を南北に通しています。
 この至近でもあり、豊嶋郡にあった池田城は、発掘調査等から、その発展の過程で最晩年には能勢街道を城内に取り込む形態となっています。他地域にも、街道と城の関係は、密接である事例が多くあり、この新田城・上津城の関係も、例に漏れず、そのようであった事でしょう。残念ながら、新田・上津城については、あまり発掘調査が進んでおらず、多くが明かではありません。

先ずは、今ある情報を集めてみたいと思います。いつものように、以下に関連資料をご紹介します。
※日本城郭大系12(上津城)P330

---(資料1)---------------------------------
上津城の築城時期は不明であるが、新田城の支城の一つとして築かれ、新田城から塩川を渡った東側丘陵上、旧平野村字(「東上津」「西上津」「権現」「竹の下」)にあったものと思われる。
 「多田文書」の「荒木の兵上津城来襲記録」(『荒木村重史料』所収)によると、多田春正が上津城主であった天正六年(1578)に荒木村重の兵が上津城を攻撃している。春正は防戦に努めたが、落城し、自害した。なお、多田春正は源満仲の末裔で、26代目であったという。
 現在、城跡は田畑に開墾され、あるいは民家が並び、城郭構造の詳細は不明になっている。
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続きまして、こちらも定番、日本城各全集(1967年刊行)の該当記事です。
※日本城各全集10(川西市上津城)P192

---(資料2)---------------------------------
多田城ともいわれ、塩川伯耆守の築城と、能勢妙見宮の文献にあるのみで、詳細については不明。
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そして更に、地史としての、いつもの平凡社の地名シリーズ該当記事です。
※兵庫県の地名1(川西市新田村)P384

---(資料3)---------------------------------
平野村(現川西市平野1-3丁目、新田3丁目、長尾町、多田桜木2丁目、東多田3丁目、東畦野山手1丁目、向陽台、平野)
新田村の東に位置する。地名は平野神社(現多太神社)に由来するといわれる。(摂陽群談)。慶長国絵図に平野村・新田村と併記され、村高は不明。元和3年(1617)の摂津一国御改帳および正保郷帳では東多田村と併記され、高652石余。領主の変遷は幕府領ののち、寛永17年(1640)摂津高槻藩領、寛文2年(1662)から慶応4年(1868)まで幕府領(川西市史)。当地の平野温泉は「摂津名所図会」「摂陽群談」に紹介された湯の一つで、安永9(1780)に「多田温泉記」が刊行され、その効能を宣伝する。汲み上げた源泉を温めて入浴した。文化8年(1811)に大坂東町奉行一行が多田院参詣のあと平野温泉で一泊。同8年には多田院御家人が湯元で会合。幕末の大火以後は寂れ、湯ノ町の地名を残すのみとなった。天保13年(1842)の諸商売村々書上帳(西本家文書)では、左官一(農間)・米酒商二・荒物商一・馬喰一・紺屋一・屋根屋一。禅宗平常院(現曹洞宗岡本寺)がある(元禄5年「平の村寺社吟味帳」岡本寺文書)。
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それから、上記に取り上げた「日本城郭大系」の該当記事に採用されている元の情報です。『多田庄十郎文書』に、荒木の兵上津城来襲について伝わっています。
※荒木村重史料(伊丹資料叢書4)P139

---(資料4)---------------------------------
口上覚
一、多田御家人と一統相唱候内多田名字壱人有之候。多田字之儀は従 満仲公・頼光公・頼国・頼綱と次第に嫡男二而致相続、多田本政所・新田政所と越中守正迄 満仲公より弐拾八代致相続、春正は平野村之内上津之城主、其節伊丹有岡之城主荒木之一族襲来上津之城一戦之砌春正自害、其の子小次郎丸有重以来至今二一庫邑井之内二居住、家禄之儀は越中守迄庄内並他所入組致領知来候所、右大坂大将軍之節被没収、依之有重以来無縁二而時節を相待居候内(中略)
 明和9年(壬辰:1772)二月 多田院 御役者中
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また、ウェブサイト『北摂多田の歴史』の「多田庄の歴史散歩」の項目に、「5-1.平野上津にあったとされる「多田上津城」と「正法寺」と「観音寺」」という項目があり、ここで、多田春正の自害は「永禄十年(1567)八月十日」の事と紹介されています。このサイトは、地域資料を多数収集され、詳細に分析されています。
北摂多田の歴史「多田庄の歴史散歩」
http://hokusetsu-hist.sakura.ne.jp/newpage1kawanishiiseki.html

ちなみに、この永禄10年の蓋然性を考えるなら、この頃はちょうど、池田家当主の勝正は、三好三人衆側につき、松永久秀と激しい闘争を繰り返していた時期です。この松永方に、伊丹・塩川氏が付いていますので、戦いの起こる情況としてはあり得ます。
 この年の10月10日、あの有名な奈良東大寺大仏を焼失する合戦があり、松永方は三好三人衆方に対して、起死回生の夜襲を仕掛ける程に追い詰められていました。8月と言えば、松永方が窮地に立っている時期でもありました。
 しかし、上津城の城主多田春正は源満仲の末裔(26代目)が、自害・落城したというのは、大きな出来事であった筈です。その後の顛末は今のところ調べに及んでいないませんが、多田家(嫡流)が一時的に滅んでいます。

一方、新田・上津に拠点を持っていた塩川氏は、北方の山下(やました)地域に拠点を移しますが、いつ頃移ったのかは、今のところハッキリしていません。しかし、多田の荘園の中心である多田院は、その後も同じ場所にあることから、これを守るためにも、また、街道の監視のためにも塩川氏は、支城を要所に配置していたと思われます。そのためにも新田・上津も規模を変化させながら、機能は維持していたと思われます。

さて、天正6年11月付けで、織田信長は、塩川領中所々へ宛てて(中山寺文書:兵庫県宝塚市)禁制を下しています。信長は電光石火の動きで、通路封鎖を行い、荒木村重方の拠点孤立化を実行しています。
※織田信長文書の研究 下巻 P402

---(資料5)---------------------------------
禁制 塩川領中所々
一、軍勢・甲乙人等、乱入・狼藉事。一、陣取事。一、伐採山林・竹木事。右条々、堅被停止了。若於違犯之輩者、速可被処厳科者也。仍下知如件。
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これは、この頃あった、荒木方の打ち廻りに対する対応のようです。10月28日の夕方、賀茂村・栄根村を荒木方が打ち廻りを行っています。
※伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P134 ※『穴織宮拾要記 本』

---(資料6)---------------------------------
一、天正年中伊丹ノ城主荒木摂津守反逆之時、東ハ長柄川を限り津ノ国一ヶ国を放火ス。天正六年十月二十八日空曇りたる日、暮方伊丹より賀茂栄根村栄根寺へ火を掛ける。神主右衞門佐定明先殿内へ入り、御神体を守り出し、西之方松ノ木ノ根迄守り出し候ヘバ、はや大勢来たる。居宅ニハ家来共旧記共取り出し、妻子共引きつれ、北ノ口方ヘハ逃れず、池田山へ登り山越えに能勢大里村森下氏親類たる故、夜中に逃げ行く。家来妻子共に三十六人也。持ち逃げたる記録皮籠に二つ背負い也。、とある。
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この地域は、摂津加茂・栄根村(現兵庫県川西市加茂・栄根)方面は、荒木氏の池田家中での本拠地とも伝わる地域であり、特別な場所でもあります。また、付近は地形が隆起しており軍事的要衝でもあります。
 文中には、「北ノ口方ヘハ逃れず、池田山へ登り山越えに能勢...」とあることから、北側方面はキケンと判断していたことが判ります。通路も塞がれていたようです。

塩川氏はその当初から村重の行動に従わず、織田方として独自に行動していたようです。荒木方にとってこれは、喉元の急所に不安定材料を抱える事でもありました。その領界付近で、早くも交戦があったようです。
 資料5の塩川領中所々へ宛てた織田信長の禁制は、これへの対処だったようです。また、発行者が塩川氏では無かったのも重要ですね。

加えて、同年12月11日の織田方砦各所の記録によると、塩河伯耆守が古池田の受け持ちだったようです。これは、村重にとって、大きな誤算だったのでしょう。その影響は、続く高山右近、中川清秀、安部仁右衞門の織田方への投降に連なる要素も含んでいたのかもしれません。

さて、年が明けた天正7年、『信長公記』3月14日条。織田信長は「多田の谷」にて放鷹を楽しんでいます。
※改定 信長公記(新人物往来社)P244

---(資料7)---------------------------------
多田の谷、御鷹つかはされ候。塩河勘十郎、一献進上の時、御道服(どふく)下され、頂戴。忝き次第なり。
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信長は、この頃、池田城に本営を置き、戦況を確認していました。また、翌月18日、荒木勢が織田信長方の付城を攻撃しています。荒木方は、重要な場所を取り返して領内並びに丹波方面への連絡路を確保するために、部分的攻勢をかけています。
 これを受けて、同月27日、織田信長嫡子信忠が、中川瀬兵衛尉清秀などを伴って15,000の軍勢で能勢街道を北上、荒木方の拠点に対する根本対応を行って、連絡路の完全な遮断を行っています。この時、池田城から至近の止々呂美城を落としています。中川清秀がそれらの調略に活躍したようです。
※ちなみに、大阪府止々呂美には、塩川隠岐守入道の古塞という伝承があるようです。

信長は、同じ18日、塩川伯耆守長満へ銀子百枚を下しています。この交戦で功績のあった事、また、忠誠を尽くしている事への褒美だったのでしょう。塩川氏は荒木村重の政権離脱には加わらず、初期段階から織田方へ誼を通じたようです。
 同月月28日に織田信長が、塩川伯耆守長満・安東七郎(平右衛門)へ覚書を発行しています。
※兵庫県史(史料編・中世1)P436

---(資料8)---------------------------------

一、何口へ敵相動■、此方諸口出あい■を仕、各別可馳合、若油断之輩候者可為曲事、交名を可注進事。一、番等之儀、夜中ハ不及申、昼も無懈怠、其口其口を請取、不可油断事。一、諸口より敵と出合可停止。但、調儀之口も有之者相尋、其上にて可被沙汰事。一、番手人数無退屈、かたく可申付事。一、何篇当年中二ハ可為一着之条、不入動候て、可然もの鉄砲なと二あたらさる様、丈夫にはげミ簡要之事。
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この覚書の翌日。織田信長は、再度池田城の本営に入り、戦況を確認します。池田は、主要道を四方八方に通しているため、播磨国三木城、丹波国八上城の様子なども全て速やかに得る事ができます。この時の布陣の様子について『信長公記』は細かに記しており、「賀茂岸」(兵庫県川西市)の陣で、伊賀平左衛門、同七郎と共に、塩河伯耆守(長満)の名が見えます。
 ですから、先の信長の塩河伯耆守への覚書は、賀茂岸の陣で受け取って、これを読んでいたことでしょう。

多田庄は国内最大の荘園で、広大な領域を有していました。その多田庄の中心に多田院があり、その御家人を自覚する人々も庄内外に居住していました。更にその中に多田鉱山を含みます。この掌握のためにも、塩川氏を活用しようと織田政権は考えたのだと思います。逆の視点で見れば、荒木村重の織田政権からの離叛は、この鉱山を手中に収めていることの計算もあったのだと思います。

『北摂多田の歴史』の説を参考に、上津城と新田(多田)城の位置関係を、大正時代の地図にマークしてみました。上津城は、永年に渡り、気になっていたところですが、未訪問ですので、近日こちらも訪ねてみたいと思います。




「塩川氏の拠点新田(多田)城について」は、こちらの記事をご覧下さい


【修正】利右衛門さんのご教示を得て、文の修正を行いました。ありがとうございました。(2023年3月21日)

2023年1月14日土曜日

摂津国河辺郡(現兵庫県川西市)にあった、新田(多田)城を考えてみる

ずっと気になっていた地域を訪ねました。令和5年の初詣に兵庫県川西市平野にある、平野神社を訪ねました。気持ちの良い素晴らしい神社でした。その折のブラ歩きで、新田城跡も知る事ができました。
 荒木村重の統治や天正6年の村重の織田信長政権から離叛した事による争乱について知るための非常に重要な地域です。また、細河庄との境界の情況について、その周辺情況も、しっかり見ておかないといけないので、気になっていました。

兵庫県川西市にあった、新田(にった:しんでんとも)城は、凄い城でした。塩川氏が山下に本拠機能を移す以前は、新田城が塩川氏の拠点城でした。あまり調べずに、別の場所を目的に訪ねた折に、偶然、気になった所がその城跡だったので、よく調べて、近日に再訪したいと思います。その下調べ的に、このこの記事を出しておきます。

いつものように、以下、村と城についての資料をご紹介します。
※日本城郭大系12(新田城)P330
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新田(しんでん)城は、別名「多田城」ともいい、旧多田新田村にあった。この地の東側に塩川が流れ、西側から南側に猪名川が流れて村の東南隅で合流している。広義の新田城とは、この二つの川に挟まれた地を指し、承平年間頃、源(多田)満仲およびその御家人(多田御家人)が集落を作り、代々住んでいた所という。
 しかし、一般的にいわれている狭義の新田城は、このうちでも特に軍事的な防御施設のあった所で、東部塩川沿いの丘陵部をさしている。この付近は、多田御家人中でも有力者であった塩川氏が代々守り”常の城”を置いていたが、天正年間(1573-92)の伯耆守国満の時、北方の山下城を本城とした。この頃も新田城は存続していたらしく、同6年(1578)の荒木村重の叛乱によって多田城・多太神社をはじめ、付近一帯が焼き打ちに遭っている。「明治8年新田村地字図(『川西市史』所収)」には、城跡の中心部に「城山」「城山ノ下」「城ノ下」「東堀」などの字名が見られ、昭和30年頃まで、田畑の土手に等間隔に並んだ疎石が残っていて、城壁跡といわれていた。現在、丘陵上は宅地化され、多田グリーンハイツとよばれているが、南麓に奥行き5-10メートルの削平段が数カ所と、下方に幅6メートル・深さ5メートルの竪堀跡と思われるものが残っている。
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新田城山公園という公園があるのですが、そこから東向きに丘陵を利用した城であるようです。また、塩川を超えた直ぐ東側にもある上津城と連動した機能を持っていたと考えられており、両城の間にある、塩川と能勢、妙見方面へ通じる重要な街道を監視するようにそれぞれ立地します。

続いて、地史としての、いつもの平凡社の地名シリーズ該当記事です。
※兵庫県の地名1(川西市新田村)P384
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新田村(現川西市新田1-3丁目、平野2丁目、多田院1丁目、向陽台1-2丁目、緑台2丁目、新田)
多田院村の東、猪名川と塩川にほぼ囲まれて立地する。多田の開発に伴う地名と考えられ、元禄11年(1698)の国絵図御用覚(多田神社文書)に「ニッタ」の訓がある。

 享徳元年(1452)12月29日の沙弥本立売渡状(同文書)に「多田庄新田村」とあり、多田院千部経中に村内高岡西窪を3石5斗で売渡している。文明8年(1476)高岡仲明が多田院御堂修理料として新田村内の木村屋敷前の田を寄進している。(同年10月8日「高岡仲明寄進状」同文書)。
 「細川両家記」によれば、永正16年(1519)秋、細川高国は都を立ち、越水城(現西宮市)の救援のため小屋・野間(現伊丹市)や新田・武庫川に陣取り、澄元方との合戦に及んだという。明けて1月、今度は澄元方が小屋や新田に陣取り、合戦したという。
 天文16年(1547)又六兵衞が多田院に羅漢供田として「新田村之内馬場」垣内加地子4斗を寄進している(同年7月6日「又六兵衞寄進状」多田神社文書)。この内馬場を現猪名川町域の内馬場とすると広域すぎて妥当ではない。
 天正10年(1582)9月1日の多田院・新田村際目注記案(同文書)によると、当時、新田村が東順松下町の際まで自領内として押領したため、多田院と新田村との間で境目論争が起きた。寺家より往古の支証を出し、塩川城に新田村在所の年寄どもや寺家僧衆が登城し、双方の言い分を聞いた上で、上寺の東は三間ほど、北は山の際の横大道・平野への横道を限って寺領内とするという裁定となった。

 なお、弘治4年(1558)山問頼秀は長谷乙浦山に関する平居・新田両村の山手代を万願寺に寄進している(3月11日「山問頼秀寄進状」万願寺文書)。
 城山之中にあったとされる新田城は、多田城ともいい、塩川氏の居城とされる。のち国満のとき、山下に新たな城を築き移ったと伝える。現在遺構は消滅したが、城跡中心付近には城山・城山ノ下・城ノ下・東堀などの字があったといわれる。
 慶長国絵図に村名がみえ、平野村と併記されるが、村高は116石余であろう。領主の変遷は、寛文2年(1662)まで矢問村と同様で、同5年以降は多田院領として幕末に至る(川西市史)。寛文5年、四代将軍徳川家綱は、多田院社領として新田村の116石余を含む500石を寄進、同11年の社領寄進の将軍判物(写、多田神社文書)がある。多田院領の当村など三ヵ村では、享保9年(1724)に風損による年貢米25石余の引下げをはじめ、同17年に虫害による同じく62石余、元文5年(1740)には洪水により、明和8年(1771)には干損のため、天明2年(1782)には水害などと災害による減免を出願してきたが、天明6年には前代未聞の凶作として年貢引方を願出ている(清水平文書)。浄土宗宝泉寺がある。
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『兵庫県の地名1』中で、「のち国満のとき、山下に新たな城を築き移ったと伝える。」との伝聞が伝えられ、加えて、『日本城郭大系12』には、「天正年間(1573-92)の伯耆守国満の時、北方の山下城を本城とした。この頃も新田城は存続していたらしく、同6年(1578)の荒木村重の叛乱によって多田城・多太神社をはじめ、付近一帯が焼き打ちに遭っている。」と、焦点を絞り込んでいます。
 天正年間に移ったキッカケは、山下付近で、鉱山開発が行われたために、本城を移したと思われます。荒木村重が天正元年から、織田信長権力の下で信任を受けて頭角を顕し、実質的な摂津国守護になっていたため、次第に国内が平定される中で、軍事・経済分野においても再構成がされつつありました。
 これも伝聞の範囲で今は収まっているのですが、『兵庫県の地名1』川西市笹部村の項目には、天正2年に河辺郡笹部村を分離して山下町を作ったとされ、この山下に城(元々支城などがあったのかも)を作り、町には吹場が集約されて鉱山関係者の居住地としたとあります。
 織田政権下で成長した荒木村重権力の下に入った塩川氏が、状勢の変化により、拠点を移したと思われます。因みに、この年、荒木村重もそれまでの拠点であった池田城を畳み、伊丹に新たな城を築いて、ここを本城としています。有岡城です。村重の領内は、天正2年から翌年にかけて、大規模な軍事拠点の再編成が行われていますので、多分これに伴う動きが、新田城から山下城への変遷にも関わると考えられます。

ということで、ザッと思いつく所をまとめてみました。また、詳しく現地を訪ねて、地形などを見たいと思いますので、その折にまた、この記事を補足します。