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2024年5月18日土曜日

豊後竹田の中川家の家老となった、摂津武士の戸伏氏について

ちょっと気になっているのですが、あまり深く調べる事も無く、時間が過ぎてしまいました。最近また気になり、備忘録として記事にしておきます。

現在は静かな町外れの住宅地ともなっている、大阪府茨木市戸伏町の集落ですが、戦国時代、この村出身の武士がいたようです。

元々は、永禄9年に、池田勝正がこのあたりで合戦をしたという伝承記録があり、それが気になったのがキッカケで戸伏村を知りました。その関連資料を以下にご紹介します。
※よみがえる茨木城(茨木町故事雑記)P163

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永禄9年(1566)10月20日、池田筑後守勝正茨木城に発向し、芥川城主中村新兵衛高次に与して長田河原に陣し、高槻之城主入江左近将監等と相戦う。入江は富田之間に陣し、中村は総持寺村門河堤に陣す。入江・中村等敗北し、勝正は茨木城に帰陣す。
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上記に出てくる人物名は、実在しますし、この頃、ちょうど勝正は「筑後守」を名乗りはじめた時期でもあります。この時、合戦の行われた「長田河原」とは、茨木市大住町付近のようで、この場所は戸伏村(郷)の範囲内です。戸伏村について、いつもの大阪府の地名を以下に抜粋して、ご紹介します。
※大阪府の地名1(平凡社)P188

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戸伏村(茨木市戸伏町、大住町、末広町)

赤色四角囲みの村が戸伏村を構成する集落(村)
茨木村の東、安威川右岸に位置。鎌倉時代初期頃は公家久我家の所領で、年月日未詳の久我家領目録(久我家文書)に摂津国「戸伏領」がみえる。文和元年(1352)2月18日の総持寺領散在田畠目録写(常称寺文書)によると、戸伏村字丸坪・字門田に総持寺の寺領があり、総持寺散在所領取帳写(同文書)の文安2年(1445)正月17日請取分にも戸伏のうちにあったとみられる総持寺領が記される。室町時代には相国寺(現京都市上京区)領戸伏庄があり、「鹿苑日録」長享元年(1487)8月12日条に「当寺領摂州戸伏上下村」に対し守護段銭免除の折紙が室町幕府より出された記事がみえる。また同書延徳元年(1489)正月11日条に、戸伏庄先庄主大蔵寺栄監寺が再任をもとめてきたので、任料100疋で補任状を発給している。なお応仁・文明の乱後のものとみられる摂津国寺社本所領並奉公方知行等目録(蜷川家文書)には三条侍従中納言家(三条西実隆か)領として「院御庄内(溝杭・茨木・鮎河・戸伏)」がみえ、当時は不知行となっていた。
 慶長10年(1605)摂津国絵図には「戸臥村」とあり高63石余。元和初年の摂津一国高御改帳によると高槻藩内藤信正領。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳には「戸伏村(庄村・中村・橋内村・牟礼村)」として1071石余が記され、京都所司代板倉重宗領。以後重宗の子重郷・重形と引き継がれ、天和元年(1681)重形の領地替で幕府領となった。享保19年(1734)以降の領主の変遷は中ノ城村に同じ。なお前記摂津国高帳にみえる庄村以下4村は戸伏村の枝郷で(元禄郷帳・天保郷帳)、戸伏村と郷的に結び付いていた。享保20年の摂河泉石高帳によると戸伏村本村のみの村高141石余。寺院には浄土真宗本願寺派戸伏山光照寺がある。明治16年(1883)庄村・中村・橋之内村・牟礼村が合併して戸伏村となる。
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明治時代後期の戸伏村の様子
『茨木町故事雑記』の伝承が、割と当時の状況を反映していると思われる要素として、永禄9年の政治状況は、将軍義輝殺害後に、中央政治が混乱し、次期将軍を巡って激しい争いが起きていました。三好三人衆と松永久秀が不和となり分裂、三好三人衆方が、阿波公方を擁立して、足利義栄を立てて京都へ攻め上ろうとしており、池田勝正は義栄擁立派として、積極的に行動していました。
 9月23日、義栄は摂津国武庫郡の越水城に入って、上洛の駒を一つずつ進めていました。12月5日、義栄は総持寺へ入り、その2日後、富田の普門寺へ入っています。同月28日、朝廷から従五位下左馬頭を叙任され、将軍職就任へ向けて、手続きも着々と進めます。

池田勝正の茨木方面の合戦(長田河原)は、そんな動きの中で行われたようで、『茨木町故事雑記』という伝承記録ではありますが、概ねの人物名、時代の流れに沿った時期は順当です。また、それを補完するかのような当時の史料もあります。
 年記未詳で、10月18日付け、三好三人衆方足利義栄擁立派と思われる松山彦十郎が、播磨国人別所大蔵少輔安治へ音信(返信)しています。
※戦国遺文(三好氏編3)P231

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御状拝見せしめ候。仍って茨木方不慮之覚悟是非に及ばず候。其れに就き(摂津国豊嶋郡)池田表之儀も万(よろず)伊丹(忠親)申し度くとて色を相立て之由候。然者此の者之儀申し談じ、越ち度無き之様及び断ずべく候条、手前に於いて御気遣い有るべからず候。次に其の表之儀に候はば、西表御在陣之由候。御辛労是非に及ばず、置塩与御方御召し之儀も相調え候由、別使へも御報せ申せしめ候。猶追って申し述べるべく候条せしめ。恐々謹言。
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文中の「仍って茨木方不慮之覚悟是非に及ばず候。」とは、寝返りがあった事を伝えているように思われます。『茨木町故事雑記』にある、戸伏郷内の長田河原合戦は、その2日後の事です。

寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳によれば、戸伏村は、庄村・中村・橋内村・牟礼村(この4村は戸伏村の枝郷)を含め、1071石余の生産高があり、小さくない規模です。

その戸伏村には、やはり武士がおり、摂津池田家中から頭角を顕した、中川瀬兵衛尉清秀の家老格に登った人物がいました。
※中川家文書(神戸大学文学部 日本史研究室)P4

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知行配分目録
壱万八千五百石      中川石千代(秀成)
弐千石「四千石(異筆)」 中川平右衞門尉
千五百石         熊野田千介
七百石          寺井弥次右衞門尉
八百石          戸伏助進
 以上弐万参千五百石
 (包紙)「秀吉様与之御配分付」(朱書)「四十一」」
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また、元亀2年(1571)8月28日早朝、摂津国島下郡宿久河原にて、いわゆる白井河原の大合戦が行われますが、この時、戸伏氏一党は、荒木信濃守村重・中川清秀勢に居て、手柄を立てたようです。
※中川史料集:太祖 清秀公条P22

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一、(9月)欠日 戸伏宗慶兄弟五人並びに、嫡子助之進白井河原合戦以来、御幕下に属し忠戦を励み、茨木御入城の節は近隣を唱呼して、御味方に属け島下郡も悉く、御幕下に属せしむ。その功に依って御人数御預け老職仰せ付けられる。
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この後に、荒木村重や中川清秀が、茨木城に移り、周辺を統治して勢力を拡大させます。茨木城の至近にある戸伏村は、茨木城からすると鬼門でもあり、安威川手前の要衝。また、高槻街道と総持寺を繋ぐ重要な街道も通しています。重要拠点の一つとして、支城的な役割りも持っていた場所だったと考えられます。

戸伏姓を持つ武士が実在した証拠として、当時の史料を上げておきます。『親俊日記』の天文8年(1539)12月28日条、幕府政所代蜷川親俊が、幕府奉行人松田丹後守晴秀などへ音信した中に、戸伏掃部助の名が出てきます。
※親俊日記1(増補 史料大成)P334、大阪府の地名1(平凡社)P154

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また詳しいことが判れば、情報を追加したいと思います。以下、現在の戸伏集落の写真を載せておきます。

【追伸】
戸伏村に含まれる、安威川を渡った先の庄村に長塩家(旧寺田氏)の墓があります。長塩氏といえば、三好長慶や細川管領家に見られる高位の人物です。墓石の形式からしても、五連投ですし、非常に古いので、もしかして、そのあたりに繋がる家が庄村に根付いているのでしょうか。これもとっても気になります。

旧寺田氏 長塩家の墓地として、ポツンと一家だけあります

様式が無茶苦茶ですが、五輪塔の残欠を重ねてあります

以下、戸伏村(集落)の様子です。

集落の中心部の町並み

素戔嗚尊神社(戸伏第2児童公園)

集落の中心部にある浄土真宗本願寺派 戸伏山 光照寺

集落の中心地にある城のような旧家1

集落の中心地にある城のような旧家2

集落の中心部分(左は素戔嗚尊神社:戸伏第2児童公園)

村の南出入口にあたるところで道は旧高槻街道