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2016年3月2日水曜日

河内飯盛城に三好長慶が入った理由を考える

近年、河内国飯盛城跡を国の史跡として指定を受けるべく、その機運が盛り上がる中で見られる、「飯盛城は日本の首都だった」との解釈なのですが、私のこれまでの理解ではそういう発想がなかったので、ある意味では衝撃的でした。

摂津国人池田勝正を見ていく上では、どうしてもその上位権力の動きを見る必要がありますので、当然ながら、三好政権についても詳しく見る必要があります。
 追いかけている年代は、勝正が生まれてから死亡するまでの期間として1530年(享禄3)〜1578年(天正7)の約50年間で、その前後2年づつくらいを加えて対象にして見ています。

それで、ちょっとこの記事を書く段階ではうろ覚えなのですが、享禄年間頃かそれより前、畠山氏の争いの中で、河内国の統治権利が南北に分割された政治決着があり、この前例を以て、その後の動きがあるように捉えていました。
 木沢長政の上位権力である畠山在氏が、その河内北半国守護格のようになり、その重臣であった木沢長政が飯盛山城に拠点を構え始め、長政はそういった権力の境目に、色々と城を築いていたと理解していました。信貴山城・二上山城などもそうですね。
 それを契機として、河内国が南北に分断したこと自体、競う本質が出来た事になるので、どちらも相手が弱体化すれば、統一しようとする動きがいわば摂理に変化したように思います。

私はこの前例が、織田信長の時代にも見られ、争いの種、政治の概念にもなっていたと見ています。

それと、河内と大和国境は、地域を越えて国人の結びつきが強く、いつ敵味方に分かれるか判らず、微妙な紛争地域でしたので、ここを監視する必要があります。飯盛城・信貴山城・二上山城あたりは、そういった目的の城と考えていました。

もちろん、河内飯盛城のポテンシャル(素質)は、戦争の時代には、どうしても取っておくべき要地ではあったのですが、それに加えて、河内・大和国境の人間の結びつきがあって、ここに三好長慶が入って、それらを監視していたと考えていました。
 永禄2〜3年にかけて、幕府方として河内畠山家内訌に介入し、終いには畠山家を機能停止させてしまう事になったのですが、三好長慶に対抗する周辺勢力が、畠山家の残党と結びつき、これに抵抗をしていました。また間もなく、畠山氏のこの動きに近江守護の六角氏も加担する動きを見せ、同じ、反三好連合ができあがり、大和国も不穏な状態が続いていました。
 ちなみに六角氏は、管領細川晴元と三好長慶の抗争で、晴元の隠居と引き替えにその嫡子六郎(昭元)の管領就任を条件に和睦しましたが、長慶はこれを実行せず、手元に置いて軟禁状態にした事から、両家は良い関係にありませんでした。畠山氏は、この六角氏と結びつき、その領内に一時期、匿われていたようです。

そういった事情から、戦争の新たな局面を迎えたため、永禄4年に長慶は、息子の義興に当主を譲り、いわば隠居して、後援の体制を作り、それまで居た芥川山城から飯盛城に移り、奈良の松永久秀と共に、河内・大和国の対策に乗り出します。また、政権内での現代の管区のような受け持ちも、そういう区分けされた概念で、河内を南北に分けて統治を行っていたと思います。
 ですので、体制としては当主が三好義興なのですから、ここが首都(首都という発想ならば...)だと思っていました。義興が京都へ出仕し、長慶がそれを助ける体制だと見ていました。長慶は、大和の制圧により、畠山氏残党の勢いを削ぐ次の目標を立てていたのではないかと思います。

先日の「落語と城トーク」のシンポジウムトークを聞いていると、「飯盛城の石垣は、東側に多く、見せる城としては、東に向いていた」との見解が示されていた事からも、多聞山城についてもそういった向きはありますので、それぞれの城は同じ目的があったと感じました。大和国を囲むように、一貫した同じ方策(政策)を行っていたと思います。
※もちろん、飯盛城の東側に多く見られる石垣は、全て長慶の生きていた時代なのか、その後なのか、どういう段階を経ていったのかを明らかにする必要はあるのですが...。

そんな中、長慶の跡取りである義興の急逝、続いて長慶の急逝。続いて、三好三人衆と松永久秀の内訌があって、大和国制圧の目的は達せられませんでしたが、その後の将軍義昭政権でも、結局は同じ考え方、政策、軍事行動を行っており、今、飯盛城の位置づけを強調して「日本の首都だった」としているところは、何となく違和感を持ちながらも、そういった側面での事だったと、個人的にはやはり思うのです。
 現に、将軍義昭政権下では、河内国を二つに分けて、北部を三好義継、南部を畠山昭高へ与えて、それぞれ両守護としています。これは、先例に習うと共に、概念が既に出来ているために、交渉の落としどころとしても使えたのだろうと思います。

更に更に、三好義継が討伐された天正元年(1573)、その権力の欠所に荒木村重が任命され、摂津国を中心としながら、京都周辺の織田政権浸透に尽力した、と個人的には考えています。
 脇田修氏の研究では、河内国南部には、土地や権利の差し出し的な把握が行われていますが、北部は荒木村重が討伐されるまで行われていないようで、これはやはり、そういった権力の境目があったことを示していると思います。
※これについて詳しくは「荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について」をご覧下さい。


2016年1月18日月曜日

乱世を駆け抜けた城「若江城を探る」シンポジウムを聴講して

去る1月16日、先週の土曜日なのですが、東大阪市立男女共同参画センター・イコーラムホールで開催(主催:近畿大学 文芸学部文化・歴史学科)されたシンポジウムに参加してきました。当日は盛況で、立ち見も出る程でした。プログラムは、
  • 問題提起-歴史的拠点としての若江 網 伸也氏(近畿大学文芸学部)
  • 落葉 若江城と三好氏 -調査結果から- 菅原 章太氏(東大阪市教育委員会)
  • 城郭史から見た若江城の再評価 -戦国から織田への転換点- 中西 裕樹氏(高槻市立しろあと歴史館)
  • 若江城はどのようにイメージされてきたか 小谷 利明氏(八尾市立歴史民俗資料館)
  • シンポジウム:網、菅原、中西、小谷各氏
の内容で行われましたが、私はちょっと先約があって、シンポジウムは聴くことができず、講演会のみの参加だったのですが、内容は大変興味深かいものがありました。

個人的には、会場の参加者の様子を見ると、専門的に研究している風でも無く、興味レベルの市民が参加していたようでしたので、もう少し判りやすい比較やビジュアルを多用して説明した方が良かったのではないかと思いました。つまり、説明が詳し過ぎたように感じました。
 私自身は面白かったのですが、内容が結構アカデミックで、学術レベルが高すぎた感はあったかもしれません。難しいところですね。

さて、その中で興味があったのは、以下の要素です。
  • 重要な地域(若江地域について)は、時代が変わっても同じ。
  • 若江城の成立環境後期は、守護方としての動きの可能性がある事。
  • 三好義継は始め、河内守護職として飯盛山城に入り、永禄13年始め頃には若江城に移ったとの考えを再認識した。
これらの要素は、私の関心分野にも大きな影響があり、もう一度考え直さないといけない所も出てきました。

そう言われてみると、もう一度、自分の研究ノートを見直した時、同じ要素を載せてはあるのですが、その意味や可能性を考えずに通り過ぎて、通年や一般論を思い込んでいる所があるのです。そういった事が一カ所でもあると、それに関連する場所や出来事もつながって理解します。
 「思い込み」は禁物ですね。怖いですね。全ての前提が摂理(真実)とは全く違う方向に進んでしまいます。
 
シンポジウムに参加して良かったです。これを機に、私の研究も、該当部分を見直していきたいと思います。全体の研究も、より摂理に近付けるようになっていけばと思います。



2016年1月7日木曜日

永禄年間末期の三好義継の居城は、河内国の飯盛山城か!?


飯盛山城跡から京都方面を望む
近年、河内国飯盛山城を国指定の史跡にしようと、大東市や四條畷市で盛り上がっているようで、学術的な再検証も行われているようです。
 それにともなって、様々な出版物も出ていて、その理由について書かれています。三好義継は、池田勝正とも深く関係していますので、大変興味深く見ているのですが、自分でも思い込みがあったので、それを補正しようと、自分でまとめている資料を見直しています。
 最近の飯盛山城の捉え方にによると、足利義昭が第15代室町将軍に就いた永禄11年秋には、三好義継は飯盛山城を本拠にしており、若江城に移ったのは翌々年の同13年頃との推定がされています。
 本城と支城の関係や人物についてなど、こまごまとした要素を詳しく検討した論文のようなものも追々出てくると思いますが、今のところ、この新たな見解に納得のいく所も多くあり、受け入れています。
 ただ、永禄12年正月に、三好三人衆方の軍勢が将軍義昭の居所となっていた京都六条本圀寺を襲った時、その行軍行程は河内国の淀川東岸及び東高野街道を進んだと思われますので、これと飯盛山城との関係について興味を持っているところです。
石垣の様子
三好三人衆の軍勢が、飯盛山城下を通過をしたのであれば、敵方である飯盛山城に、どのような対処をしたのでしょうか。何もせず北上すれば、背後から襲われます。やはり、ここに軍勢を割くなどして、後衛としなければいけないはずです。
※歴史資料では、この時の三好三人衆方の軍勢は、義継方の村などの拠点を放火するなど打ち廻りつつ進んだようです。
 そうすると、三好義継は塞がれた道を使えませんので、田原方面から交野などを経由するか、奈良多聞山城の松永久秀と合流し、南山城方面を北上するなどして京都に入ったか、ちょっと再考の余地が出てきます。
 義継が一番敵に近かった割には、京都に入るのが遅いようにも思いますので、敵方勢力に阻まれたり、迂回の必要があったりして、時間がかかったのかもしれません。飯盛山城からの普通の行軍であれば、半日から1日もあれば、十分に京都に入れるはずです。
 義継の河内(北)半国守護としての最初の居城が、若江城では無く、飯盛山城であったとすれば、そういったところの出来事との整合性も補正する必要があり、これに関係する勝正との動きも修正の必要がありそうです。

また、今後の詳しい調査に期待しています。