近年、河内国飯盛城跡を国の史跡として指定を受けるべく、その機運が盛り上がる中で見られる、「飯盛城は日本の首都だった」との解釈なのですが、私のこれまでの理解ではそういう発想がなかったので、ある意味では衝撃的でした。
摂津国人池田勝正を見ていく上では、どうしてもその上位権力の動きを見る必要がありますので、当然ながら、三好政権についても詳しく見る必要があります。
追いかけている年代は、勝正が生まれてから死亡するまでの期間として1530年(享禄3)〜1578年(天正7)の約50年間で、その前後2年づつくらいを加えて対象にして見ています。
それで、ちょっとこの記事を書く段階ではうろ覚えなのですが、享禄年間頃かそれより前、畠山氏の争いの中で、河内国の統治権利が南北に分割された政治決着があり、この前例を以て、その後の動きがあるように捉えていました。
木沢長政の上位権力である畠山在氏が、その河内北半国守護格のようになり、その重臣であった木沢長政が飯盛山城に拠点を構え始め、長政はそういった権力の境目に、色々と城を築いていたと理解していました。信貴山城・二上山城などもそうですね。
それを契機として、河内国が南北に分断したこと自体、競う本質が出来た事になるので、どちらも相手が弱体化すれば、統一しようとする動きがいわば摂理に変化したように思います。
私はこの前例が、織田信長の時代にも見られ、争いの種、政治の概念にもなっていたと見ています。
それと、河内と大和国境は、地域を越えて国人の結びつきが強く、いつ敵味方に分かれるか判らず、微妙な紛争地域でしたので、ここを監視する必要があります。飯盛城・信貴山城・二上山城あたりは、そういった目的の城と考えていました。
もちろん、河内飯盛城のポテンシャル(素質)は、戦争の時代には、どうしても取っておくべき要地ではあったのですが、それに加えて、河内・大和国境の人間の結びつきがあって、ここに三好長慶が入って、それらを監視していたと考えていました。
永禄2〜3年にかけて、幕府方として河内畠山家内訌に介入し、終いには畠山家を機能停止させてしまう事になったのですが、三好長慶に対抗する周辺勢力が、畠山家の残党と結びつき、これに抵抗をしていました。また間もなく、畠山氏のこの動きに近江守護の六角氏も加担する動きを見せ、同じ、反三好連合ができあがり、大和国も不穏な状態が続いていました。
ちなみに六角氏は、管領細川晴元と三好長慶の抗争で、晴元の隠居と引き替えにその嫡子六郎(昭元)の管領就任を条件に和睦しましたが、長慶はこれを実行せず、手元に置いて軟禁状態にした事から、両家は良い関係にありませんでした。畠山氏は、この六角氏と結びつき、その領内に一時期、匿われていたようです。
そういった事情から、戦争の新たな局面を迎えたため、永禄4年に長慶は、息子の義興に当主を譲り、いわば隠居して、後援の体制を作り、それまで居た芥川山城から飯盛城に移り、奈良の松永久秀と共に、河内・大和国の対策に乗り出します。また、政権内での現代の管区のような受け持ちも、そういう区分けされた概念で、河内を南北に分けて統治を行っていたと思います。
ですので、体制としては当主が三好義興なのですから、ここが首都(首都という発想ならば...)だと思っていました。義興が京都へ出仕し、長慶がそれを助ける体制だと見ていました。長慶は、大和の制圧により、畠山氏残党の勢いを削ぐ次の目標を立てていたのではないかと思います。
先日の「落語と城トーク」のシンポジウムトークを聞いていると、「飯盛城の石垣は、東側に多く、見せる城としては、東に向いていた」との見解が示されていた事からも、多聞山城についてもそういった向きはありますので、それぞれの城は同じ目的があったと感じました。大和国を囲むように、一貫した同じ方策(政策)を行っていたと思います。
※もちろん、飯盛城の東側に多く見られる石垣は、全て長慶の生きていた時代なのか、その後なのか、どういう段階を経ていったのかを明らかにする必要はあるのですが...。
そんな中、長慶の跡取りである義興の急逝、続いて長慶の急逝。続いて、三好三人衆と松永久秀の内訌があって、大和国制圧の目的は達せられませんでしたが、その後の将軍義昭政権でも、結局は同じ考え方、政策、軍事行動を行っており、今、飯盛城の位置づけを強調して「日本の首都だった」としているところは、何となく違和感を持ちながらも、そういった側面での事だったと、個人的にはやはり思うのです。
現に、将軍義昭政権下では、河内国を二つに分けて、北部を三好義継、南部を畠山昭高へ与えて、それぞれ両守護としています。これは、先例に習うと共に、概念が既に出来ているために、交渉の落としどころとしても使えたのだろうと思います。
更に更に、三好義継が討伐された天正元年(1573)、その権力の欠所に荒木村重が任命され、摂津国を中心としながら、京都周辺の織田政権浸透に尽力した、と個人的には考えています。
脇田修氏の研究では、河内国南部には、土地や権利の差し出し的な把握が行われていますが、北部は荒木村重が討伐されるまで行われていないようで、これはやはり、そういった権力の境目があったことを示していると思います。
※これについて詳しくは「荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について」をご覧下さい。
摂津国人池田勝正を見ていく上では、どうしてもその上位権力の動きを見る必要がありますので、当然ながら、三好政権についても詳しく見る必要があります。
追いかけている年代は、勝正が生まれてから死亡するまでの期間として1530年(享禄3)〜1578年(天正7)の約50年間で、その前後2年づつくらいを加えて対象にして見ています。
それで、ちょっとこの記事を書く段階ではうろ覚えなのですが、享禄年間頃かそれより前、畠山氏の争いの中で、河内国の統治権利が南北に分割された政治決着があり、この前例を以て、その後の動きがあるように捉えていました。
木沢長政の上位権力である畠山在氏が、その河内北半国守護格のようになり、その重臣であった木沢長政が飯盛山城に拠点を構え始め、長政はそういった権力の境目に、色々と城を築いていたと理解していました。信貴山城・二上山城などもそうですね。
それを契機として、河内国が南北に分断したこと自体、競う本質が出来た事になるので、どちらも相手が弱体化すれば、統一しようとする動きがいわば摂理に変化したように思います。
私はこの前例が、織田信長の時代にも見られ、争いの種、政治の概念にもなっていたと見ています。
それと、河内と大和国境は、地域を越えて国人の結びつきが強く、いつ敵味方に分かれるか判らず、微妙な紛争地域でしたので、ここを監視する必要があります。飯盛城・信貴山城・二上山城あたりは、そういった目的の城と考えていました。
もちろん、河内飯盛城のポテンシャル(素質)は、戦争の時代には、どうしても取っておくべき要地ではあったのですが、それに加えて、河内・大和国境の人間の結びつきがあって、ここに三好長慶が入って、それらを監視していたと考えていました。
永禄2〜3年にかけて、幕府方として河内畠山家内訌に介入し、終いには畠山家を機能停止させてしまう事になったのですが、三好長慶に対抗する周辺勢力が、畠山家の残党と結びつき、これに抵抗をしていました。また間もなく、畠山氏のこの動きに近江守護の六角氏も加担する動きを見せ、同じ、反三好連合ができあがり、大和国も不穏な状態が続いていました。
ちなみに六角氏は、管領細川晴元と三好長慶の抗争で、晴元の隠居と引き替えにその嫡子六郎(昭元)の管領就任を条件に和睦しましたが、長慶はこれを実行せず、手元に置いて軟禁状態にした事から、両家は良い関係にありませんでした。畠山氏は、この六角氏と結びつき、その領内に一時期、匿われていたようです。
そういった事情から、戦争の新たな局面を迎えたため、永禄4年に長慶は、息子の義興に当主を譲り、いわば隠居して、後援の体制を作り、それまで居た芥川山城から飯盛城に移り、奈良の松永久秀と共に、河内・大和国の対策に乗り出します。また、政権内での現代の管区のような受け持ちも、そういう区分けされた概念で、河内を南北に分けて統治を行っていたと思います。
ですので、体制としては当主が三好義興なのですから、ここが首都(首都という発想ならば...)だと思っていました。義興が京都へ出仕し、長慶がそれを助ける体制だと見ていました。長慶は、大和の制圧により、畠山氏残党の勢いを削ぐ次の目標を立てていたのではないかと思います。
先日の「落語と城トーク」のシンポジウムトークを聞いていると、「飯盛城の石垣は、東側に多く、見せる城としては、東に向いていた」との見解が示されていた事からも、多聞山城についてもそういった向きはありますので、それぞれの城は同じ目的があったと感じました。大和国を囲むように、一貫した同じ方策(政策)を行っていたと思います。
※もちろん、飯盛城の東側に多く見られる石垣は、全て長慶の生きていた時代なのか、その後なのか、どういう段階を経ていったのかを明らかにする必要はあるのですが...。
そんな中、長慶の跡取りである義興の急逝、続いて長慶の急逝。続いて、三好三人衆と松永久秀の内訌があって、大和国制圧の目的は達せられませんでしたが、その後の将軍義昭政権でも、結局は同じ考え方、政策、軍事行動を行っており、今、飯盛城の位置づけを強調して「日本の首都だった」としているところは、何となく違和感を持ちながらも、そういった側面での事だったと、個人的にはやはり思うのです。
現に、将軍義昭政権下では、河内国を二つに分けて、北部を三好義継、南部を畠山昭高へ与えて、それぞれ両守護としています。これは、先例に習うと共に、概念が既に出来ているために、交渉の落としどころとしても使えたのだろうと思います。
更に更に、三好義継が討伐された天正元年(1573)、その権力の欠所に荒木村重が任命され、摂津国を中心としながら、京都周辺の織田政権浸透に尽力した、と個人的には考えています。
脇田修氏の研究では、河内国南部には、土地や権利の差し出し的な把握が行われていますが、北部は荒木村重が討伐されるまで行われていないようで、これはやはり、そういった権力の境目があったことを示していると思います。
※これについて詳しくは「荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について」をご覧下さい。