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2023年3月18日土曜日

摂津池田城家老の存在

摂津池田の伝家老屋敷位置
摂津池田家から台頭した荒木村重が摂津国守護職として有岡城主となり、摂津国内を治めていた頃、池田城家老として、5人の名が池田に伝わっています。
※北摂池田 -町並調査報告書-(池田市教育委員会 1979年3月発行)P31(『穴織宮拾要記 末』)

---(資料2)------------------------------------
一、今の本養寺屋敷ハ池田の城伊丹へ引さる先家老池田民部屋敷也 一、家老大西与市右衛門大西垣内今ノ御蔵屋敷也 一、家老河村惣左衛門屋敷今弘誓寺のむかひ西光寺庫裡之所より南新町へ抜ル。(中略)。一、家老甲■(賀?)伊賀屋敷今ノ甲賀谷北側也 一、上月角■(右?)衛門屋敷立石町南側よりうら今畠ノ字上月かいちと云、右五人之家老町ニ住ス。
※■=欠字
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上記にある家老の家系の内の2名が、「荒牧屋」を称した山邑氏と同じ時代に生き、縁をつなぎます。
 その家老の一人は、上月角■衛門で、その系譜を持つと思われる人物が、上月十大夫政重と考えられます。この人物は、荒牧(荒蒔)出身の赤松一族です。
※池田町史 第一篇 風物詩P135

---(資料3)----------------------------------------------
【法園寺】
建石町にあり、竹原山と号し、浄土宗知恩院の末寺にして本尊は阿弥陀仏なり。創立の年月詳らかでないが、再建せしは天文7年(1538)にして、僧勝誉の檀徒と協力経営せし所なりと。(中略)。
 縁起によれば、同寺はもと、池田城主筑後守の後室阿波の三好意(宗)三の娘を葬りし所であって、池田城主の本願に依り同城羅城(郭外)内に阿波堂を建立し、其の室の冥福を祈りたる処なりと、後この阿波堂は上池田町(現在の薬師堂)に移建されしと伝わる。
 なお当寺には、赤松氏、上月十大夫政重の塔婆がある。其の文に、

【赤松氏上月十大夫政重之塔】
寛永19年午9月12日卒 法名、可定院秋覚宗卯居士
宗卯居士者、諱政重、十大夫、姓赤松氏(又号上月)蓋し村上天皇之苗裔正二位円心入道嫡子、信濃守範資、摂津国守護職補され自り以来、世々于川辺郡荒蒔(荒牧)城、範資九代之嫡孫豊後守殖範、其の子範政求縁■中三好・荒木両党、父子一族悉く殞命畢ぬ。于時政重3歳也。乳母懐抱而城中逃げ出於、豊嶋郡畑村至り、叔父石尾下野守撫育焉。22歳而又親戚を因み、池田備後守の愛顧を受け、■■池田里(今ここに旧館址有り)後、稲葉淡路守■吉朝臣、寛永17年辰、辞官而て、帰寧ここに本貫、同19年壬年9月12日75歳而卒去。則ち竹原山法園寺に葬り矣。室家妙薫大姉者船越女、歿後同於彼の寺也。
享保7年壬寅9月12日
※■=欠字
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★上記、上月氏についての詳しくは「池田市建石町の竹原山法園寺(ほうおんじ)にあった戦国武将上月十大夫政重の塔婆」の過去記事をご覧下さい。
https://ike-katsu.blogspot.com/2016/07/blog-post_3.html

資料3の伝承を読むと上月政重は、寛永19年(1642)に75歳で亡くなったとしてあるので、逆算すると1567年(永禄10)の生まれとなります。また、政重は3歳の時に、三好・荒木両党により、父子一族悉く殺害されたとあり、これは元亀元年(1570)6月の池田家中の内訌である事が判ります。この伝承は、史実をある程度正確に伝えているようです。

一方、もう一人の家老は、甲■伊賀守という人物で、その系譜を持つと見られるのは、甲賀谷又左衛門尉正長です。
※伝法 正蓮寺発行の『正蓮寺概史』より(抜粋)

---(資料4)----------------------------------------------
【正蓮寺略縁起】
寛永2年(1625)篤信の武家、甲賀谷又左衛門が、毎夜海中にて光を発するものを見つけ、網を入れたところ、お木像が上がって来たので、邸内にお祀りしていました。たまたま京都から来られた修行僧、唯性院日泉上人がこれを御覧になり、間違い無く日蓮大聖人の御尊像であることを認められました。そこで、日泉上人を開山とし又左衛門を開基として、大方の協力を得て建てた草庵が、今の正蓮寺のおこりであります。寺号の正蓮寺は、甲賀谷又左衛門の予修(よしゅ:生前に、自分の死後の冥福 (めいふく) のために仏事をすること。)、正蓮日宝禅定門より、また山号の海照山は、御尊像が海を照らした事から名付けられたものであります。(後略)
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更に、尼崎長遠寺への莫大な貢献を知る事のできる関係資料です。
※尼崎市立文化財収蔵庫(同市教育委員会 歴博・文化財係)様からのご提供資料

---(資料5)----------------------------------------------

資料名
年代
内容等
1
多宝塔棟札
慶長11年
「願主甲賀谷又左衛門尉正長敬白」
2
多宝塔棟札
慶長12年
「甲賀谷又左衛門尉正長(花押)
3
日桓曼荼羅本尊
慶長13年1月2日
裏書「授与甲賀谷又左衛門尉正長」
4
客殿棟札
慶長18年4月6日
「大願主甲賀谷又左衛門造之」
5
日蓮書状
(乙御前母御書)
元和元年9月5日
裏書「元和元乙卯暦九月五日
願主甲賀谷又左衛門法名正蓮(花押)
6
日蓮曼荼羅本尊
元和元年9月5日
裏書「元和元乙卯暦九月五日施主又左衛門(花押)
7
日桓曼荼羅本尊
元和4年11月17日
裏書「甲賀谷又左衛門尉法号正蓮日寶授与」
8
日厳曼荼羅
元和8年3月11日
裏書「摂州尼崎長遠寺常住本尊修補之施主甲賀谷又左衛門正長」
9
日聡曼荼羅
元和8年3月11日
裏書「摂州尼崎長遠寺常住本尊
修補之施主甲賀谷又左衛門正長」
10
日円題目
元和8年3月11日
裏書「摂州尼崎長遠寺常住本尊
修補之施主甲賀谷又左衛門正長」
11
本堂棟札
元和9年5月
「願主甲賀谷又左衛門尉法号正蓮日寶建之□」
12
甲賀谷正蓮書状
8月14日
長遠寺宛
13
鐘楼棟札 
寛永14年6月27日
「為正蓮日寶遺言所建立之鐘楼同也
願主大坂法華甲賀谷又左衛門尉貞勝」
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★上記、甲賀谷氏についての詳しくは「此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察(伝法(大阪市此花区)について)」の過去記事をご覧下さい。
https://ike-katsu.blogspot.com/2019/08/blog-post_20.html

上記一覧による尼崎長遠寺への篤信行動から甲賀谷正長は、1637年(寛永14)頃までには没していたようです。ちなみに同寺へは、荒木村重や池田家当主であった池田勝正なども関係を持っていました。
 また、正長は隠居し、入道号を名乗っており、その名が「正蓮」で、日蓮宗に深く帰依していました。摂津国西成郡伝法の正蓮寺は、1625年(寛永2)に、正長が開基となって創建されたお寺です。
 精神的な拠り所としての日蓮宗への帰依だけではなく、港としても重要であり、尼崎や伝法に物流の拠点を持つ意図も同時にあったのではないかと思われます。両寺は街道によって繋がっています。
 ちなみに、その後、正蓮寺は七堂伽藍が備わり、大坂二十五ヵ寺に数えられる程に栄えます。正蓮寺川もその名の通り、正蓮寺にちなんで呼ばれるようになったようです。

池田城家老の身分であったこの両名は、同時代に生きた人物でした。また、時代は太平の世となり、戦国時代に荒廃した事物が復興する中で、地域の自立、産業育成を各地が競い合いました。そんな中で、池田郷は酒造の先進地域の一つでもあり、酒造産業が急速に成長していました。

 

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摂津国河辺郡荒牧村について

少し話しは戻って、荒牧村について見てみます。
※兵庫県の地名1(日本歴史地名大系29)P429

---(資料6)----------------------------------------------
◎荒牧村(伊丹市荒牧1-7丁目、荒牧、荻野7-8丁目、荻野)
鴻池村の北に位置し、村の北端を有馬街道が通る。荒蒔村とも(慶長国絵図など)。古代の牧があったとする説もある。川辺北条の条里地割が残り三ノ坪・九ノ坪などの小字がある。
 応永26年(1419)11月の上月吉景譲状並置文(上月文書)に「あらまき」とみえ、吉景は荒牧の地頭職を室町将軍から与えられ、守護からも荒牧のうち三分の二の知行を認められた。残りの三分の一は吉景の舎弟則時に与えられ、のち景氏に伝承された。この年吉景は、地頭職と同地の三分の二を子息景久に譲っている。
 文正元年(1466)閏2月、有馬温泉(現神戸市北区)の帰途、京都相国寺蔭凉軒主で、播磨上月氏出身の李瓊真蘂は、荒牧の上月大和守入道宅とその南側の子息太郎次郎館を訪れている。屋敷は足利尊氏から、軍忠によって拝領したという(「蔭凉軒日録」同年閏2月22日条)。
 上月大和守入道は庶子家とみられ、荒牧に居館を構えていた事が確認される。太郎次郎は、200〜300人もの「歩卒、僕従」を率いて湯治中の真蘂を警護したほか、有馬に滞在して種々接待につとめ、またこの頃上月氏は25間もの倉を昆陽野から購入したという(「同書同月11日条・17日条など」)。荒牧上月氏の勢力の一端が知られる。字城ノ前に荒牧館跡があったとされるが、遺構は認められない。

 文禄3年(1594)鴻池村・荻野村と一括で検地を受けた。慶長国絵図には荒蒔村とあり、集落は分かれていたものの石高は両村と一括。なお文禄3年9月日の中村検地帳(小池家文書)によると、中筋村(現宝塚市)から出作があった。正保郷帳では高849石余と他に新田高71石余。領主の変遷は鴻池村に同じ。用水は天王寺川・天神川・堂ヶ本池・上ノ池・下ノ池があった。小浜駅(現宝塚市)が近くにあり、百姓牛が駄賃稼ぎをしていたと思われ、天保14年(1843)には同駅を通らず生瀬宿(現西宮市)の荷物を伊丹駅に運んだとして論争になった(「間道通行詫証文」上中家文書)。
 寛文9年(1669)頃は、126軒・663人(「尼崎藩青山氏領地調」加藤家文書)、天保9年は105軒・435人、牛36(「巡検使通行用留」岡本家文書)。産土神は天日神社。明治41年(1908)愛宕神社を合祀。本殿は向唐破風付き一間社春日造で、17世紀から18世紀初期にかけてのものと推定されている。天台宗容住寺・浄土真宗本願寺派西教寺がある。容住寺は聖徳太子が摂津四天王寺から中山寺(現宝塚市)へ往還の際に大石に腰掛けて霊感を感じた場所に建立されたという。本尊十一面観音坐像は後世に補修されているが平安中期の作とされ、市内最古の仏像と考えられる。初め豊学寺といったが、貞享元年(1684)破却され、元禄6年(1693)再興(「容住寺建立訴状写」沢田家文書)。本堂・薬師門は同9年建立。周辺には太子信仰の伝承が多い。西教寺は寛文7年(1667)善求の代に寺号免許という(末寺帳)。
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荒牧村には城があり、赤松氏の流れを汲む上月氏が、相当規模の館城を構えていたと、当時の記録にもあります。戦国時代、200〜300人の動員力を持つ上月氏は、城下集落を形成していた事が窺えます。

寛永年間(1624 - 44)、第三代将軍家光の頃、政権基盤の強化政策の一環として、全国的に村切りが行われており、この地域も例外ではありません。「鴻池村」の条を見ると、以下のようにあります。
※兵庫県の地名1(日本歴史地名大系29)P428

---(資料7)----------------------------------------------
◎鴻池村(伊丹市鴻池、北野1 - 6丁目、荻野1丁目、同3丁目、中野北1丁目)
武庫川支流の天神川と天王寺川に挟まれた村で、新田中野村の北に位置する。文禄3年(1594)9月荻野村・荒牧村と一括で宮木藤左衛門尉の検地を受けた(延享4年「荻野村書上帳」荻野部落有文書ほか)。慶長国絵図、元和3年(1617)の摂津一国御改帳では鳴池村とあるが誤写か。この段階では村切されておらず、石高は荒牧を本郷とし荻野と三ヵ村合わせて1782石余。(後略)
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元々荒牧村は、荒牧を本郷とし鴻池村と荻野村を合わさって存在して、1782石余の生産力を持つ村でした。ですので、中世は基本的にこの構成で成り立っていたと思われます。集落は分かれており、それぞれに寺は持つものの、荻野村に産土神として、春日大明神、鴻池村に宮座があり、鎮守神としての八幡社があります。宮座は左右の座があり、左座は24軒で荒牧村東政所から移ってきた家などで構成し、右座は33軒で同村(荒牧)本郷や西政所から移ってきた家などで構成した(「鴻池村地株五つの覚帳」武田家文書)ようです。
 このような宮座の状況を見ると、村切りされる以前の文化が続いていたことが分かります。離れた集落をどのように繋いでいたのかは不明ですが、戦国時代という有事では、物理的な何らかの方策を立てていたと思われます。

時代は降って、村切り後の荒牧村は、「正保郷帳」によると高849石余の生産力を持つ地味だったようです。これは決して小さくは無い生産高です。なお、中世の「石」は「貫」と併記されて用いられますが、そもそもは生産高であり、類似した感覚のようです。また、「石高」は、米の生産のみを指さず、商業活動なども含めた生産活動の算定に使われていました。

櫻正宗の前身「荒牧屋」の当主山邑氏は、この上月氏の集団に属し、時代の求めに応じて代々家を継いでいたものと思われます。

 

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荒牧屋(山邑家)と池田城家老職系譜を持つ上月政重は同郷

先述の通り、上月重政のルーツの地が荒牧村であり、そこに住まう山邑氏とは当然ながら古い縁故関係があって、元禄・寛永年間という日本国内の経済復興期に、家業飛躍の好機を甲賀谷正長に求めたのだろうと思われます。この頃、めぼしい酒造地がほとんど無く、池田郷は、江戸積の下り酒を独占していました。
 伝法の正蓮寺開基というハレ舞台で、「荒牧屋」の酒を多量に寄進できるというのは、これ程のビジネスチャンスはありません。
 伝法という地は、交通の要衝であり、多くの人々が交差する場所で、当然ながら銭も情報も集まります。そんな場所に手がかりができるのは、それだけで莫大な財産となります。
※※大阪府の地名1(平凡社)P747

---(資料8)----------------------------------------------
【伝法村】 此花区伝法1 - 6丁目
中津川が下流の中州によって伝法川と正蓮寺川に分流する地に位置し、伝法川の北岸を北伝法(伝法北組)、南岸を南伝法(伝法南組)と称した。南東側は四貫島村。地名は仏教伝来にちなむとか、鳥羽上皇が紀州高野山に伝法院を建立する時、その用材を船積みした地であるからなどの里伝がある
 当地は、中世末期には中津川河口の湊として交通の要衝となっており、伝法口とも称された。「陰徳太平記」によると石山本願寺を攻める織田信長が、「伝法」に武将を配置している。また慶長19年(1614)の大坂冬の陣では、大坂城に籠もる豊臣方が当地に砦を築いたともいわれる(大阪市史)。諸川船要用留所収の慶長8年付徳川家康の過書中宛朱印状写に過書船発着地の一つとして当地があげられている。同10年の摂津国絵図には「テンホ」とみえる。
 元和元年(1615)大坂藩松平忠明の支配下で船手加子役を賦課され、同6年には大坂御船手(小浜氏)の支配下となり、船番所も設置された。寛永11年(1634)から加子扶持7石を支給されている。寛文10年(1670)幕府領となったことにより加子役はそのままで、年貢も賦課されるようになった(西成郡史)。当地が行政的に村となったのはこれ以後のことで、それ以前は大坂に準じて幕府直轄都市の扱いを受けていたと思われる。元禄郷帳に村名がみえ、幕府領となっている。以後幕末に至る。
 享保20年(1735)摂河泉石高帳によると130石余、流作地4石余。加子役は屋敷を単位に賦課され、南北両伝法に185軒の公事屋敷があった。ところが天明年間(1781 - 89)町を単位に賦課する方法に改められ、当時、当地辺りに成立していた八か町、すなわち北伝法上之町に35役、同中之町40役、同下之町30役、南伝法上之町42役、弥右衛門開の内八軒町6役、南伝法下之町12役、五右衛門開5役、十三軒町15役が課せられた。なおこの加子役の賦課率は村小入用の割付にも適用され、享保8年以降は村小入用の6割は加子役に、4割は村高に割付られたという(西成郡史)。
 大坂市中の河川を回漕する上荷船・茶船のうち、当村上荷船は最も古い由緒をもつ七村上荷船の一つに数えられている。年次は未詳だが船極印方(「海事史料叢書」所収)によると、上荷船45艘をたばねる組頭一人が南伝法に、同45艘の組頭二人と同44艘の頭一人が北伝法にいた。
 正保期(1644-48)上方から江戸への下り酒が伝法廻船で積み出され万治元年(1658)佃田屋与治兵衛が北伝法上島町で江戸積の廻船問屋を開業、寛文年中、中島屋小左衛門・小山屋源左衛門・堂屋藤兵衛が酒樽専門の江戸積問屋を開業、元禄年中(1688 - 1704)には綿屋治兵衛・大鹿屋九兵衛・宮本弥三兵衛・薬屋新右衛門らも加わって、その数を増やした(「船法御定並諸方聞書」同書所収)。それに用いられた伝法船は従来の菱垣廻船よりも迅速に回漕したため「小早」と称され、やがて酒樽以外の商品も積み込んで菱垣廻船に対抗した。これが享保期以降、樽廻船と呼ばれるようになった(「菱垣廻船問屋規錄」同書所収)。樽廻船はとくに伊丹・池田の酒造業の発展に対応して繁栄した。しかし当地においては貞享元年(1684)安治川の開削によって河港としの繁栄を順次安治川沿岸に奪われ、当時船数700余・家数800余・人数3500余と栄えていたのに対し、天明年間には船数200余・家数400・人数1900余に減少したといわれる(西成郡史)。
 もっともその頃当地には廻船業の他に酒株37・醤油造株3・樽屋26・運送屋3・寒天曝屋4・籠屋2・竹屋2・畳屋2・家および船大工9・紺屋4・質屋4・寺子屋4・商人73・医師4・按摩17・社人3・僧尼道心者35などがあり、小都市の景観を呈していた。また、伝法川に設けられた船渡しは「伝法の渡し」とよばれ、尼崎に至る街道に通じて、大名参勤の通路となっていた
 当地には鴉宮(からすのみや)・澪標(みおつくし)住吉神社、浄土真宗本願寺派浄泉寺・西光寺、真宗大谷派慶善寺、浄土宗宝泉寺・西念寺、日蓮宗正蓮寺、単立(浄土真宗系)安楽寺がある。鴉宮はもと伝法の船問屋が祀った「伝母頭神社」といい、豊臣秀吉の朝鮮出兵の時、三羽の鴉が水先案内をしたことから現社名に改称したと伝える。
 川名の由来ともなった正蓮寺では8月26日に川施餓鬼を行う。「伝法の施餓鬼」とよばれ、天神祭とともに浪速の夏の二大行事とされている。明治10年(1877)当村は南伝法村・北伝法村に分村した。なお、天保郷帳に弥右衛門開18石余と「助太夫・五右衛門開」77石余がみえるが、うち弥右衛門開と五右衛門開は当村に近い伝法川上流中州に開かれた地で、助太夫開は大野村(現西淀川区)に接して開かれた新田である。
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池田から江戸までの輸送経路と運賃



それからまた、正蓮寺について、縁起を紹介しておきます。
※伝法 正蓮寺発行の『正蓮寺概史』より

---(資料9)----------------------------------------------
【正蓮寺略縁起】
寛永2年(1625)篤信の武家、甲賀谷又左衛門が、毎夜海中にて光を発するものを見つけ、網を入れたところ、お木像が上がって来たので、邸内にお祀りしていました。たまたま京都から来られた修行僧、唯性院日泉上人がこれを御覧になり、間違い無く日蓮大聖人の御尊像であることを認められました。そこで、日泉上人を開山とし又左衛門を開基として、大方の協力を得て建てた草庵が、今の正蓮寺のおこりであります。寺号の正蓮寺は、甲賀谷又左衛門の予修(よしゅ:生前に、自分の死後の冥福 (めいふく)のために仏事をすること。)、正蓮日宝禅定門より、また山号の海照山は、御尊像が海を照らした事から名付けられたものであります。
 大阪の代表寺院25ヶ寺の内に数えられた正蓮寺は、惟うに権門の庇護に依り建立された寺ではなく、土着の一無名人の発願にて創立された庶民的な寺院であります。創建以来来伝燈絶えずして信徒参集し、寺門興隆して現在は第26世を踏襲するに至っております。
【伝法の川施餓鬼】


享保6年(1721)、当山第7世、寂行院日解上人は、日蓮大聖人が海中にて衆生済度せられた功徳を継承せんとて、川供養の行事をはじめられたのが、いまの伝法の川施餓鬼であります。創始以来、正蓮寺川に棚を作り色々な供物をして、有無両縁の万霊を供養して参りました。摂津名所図絵に記されている様に、数百曳の船団で参拝者が群集したしました。地元の伝法・高見・四貫島の各家では、遠近より親類縁者を招いて精霊をお祀りし、法要の後は各船団は棚を片付けて船遊びに興じてお祭り騒ぎになるのが常でした。陸では数百の露店が賑わい、名物の枝豆・竹ごま・焼鳥屋などが繁昌し、全く天神祭をしのぐ程の盛大な大阪の夏を締めくくる行事でした。夕刻、船団も引き揚げ露店も終わる頃には涼風も吹く時期でもあり、「暑い夏には天神祭、あついあついも施餓鬼まで」と、今日までの夏の風物詩として語り継がれ親しまれて参りました。古来より仏法経典の渡来した最初の浜とも云われる伝法の地であります。仏事が盛大に行われて来たのも当然のことと思われます。昭和46年には、川施餓鬼創始250年の記念大法要を厳修いたしました。殊に現在は、区内に奉賛会が組織され、更には浪速全般に亘る参拝会の活躍は、誠に有り難いことでもあります。ただ、昭和42年頃より正蓮寺川の汚濁が甚だしくなった為、川渡御は新淀川に移すことになりました。平成26年度に「正蓮寺の川施餓鬼」として大阪市指定無形民俗文化財に指定されました。
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縁起では、「甲賀谷又左衛門正長が篤信の武家」であったこと、「寛永2年(1625)、正長を開基として、大方の協力を得て建てた草庵が、今の正蓮寺のおこり」であること、「甲賀谷正長(正蓮日宝禅定門)が生きている間に、予修として寺の開基を行った」ことが伝わっています。

 

施餓鬼当日の様子 ※2019年撮影 

 

施餓鬼当日の様子 ※2019年撮影

 

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2016年7月16日土曜日

池田市建石町の竹原山法園寺(ほうおんじ)にあった戦国武将上月十大夫政重の塔婆

1939年(昭和14)3月発行の『池田町史』法園寺の条に、上月(赤松)十大夫政重についての記述があります。これは寺に残る寺伝や過去帳なども調べて紹介されているようです。以下にその記述を抜粋します。
※池田町史 第一篇 風物詩P135

-(資料1)---------------------------------
【法園寺】
建石町にあり、竹原山と号し、浄土宗知恩院の末寺にして本尊は阿弥陀仏なり。創立の年月詳らかでないが、再建せしは天文7年にして、僧勝誉の檀徒と協力経営せし所なりと。(中略)。
 縁起によれば、同寺はもと、池田城主筑後守の後室阿波の三好意(宗)三の娘を葬りし所であって、池田城主の本願に依り同城羅城(郭外)内に阿波堂を建立し、其の室の冥福を祈りたる処なりと、後この阿波堂は上池田町(現在の薬師堂)に移建されしと伝わる。
 なお当寺には、赤松氏、上月十大夫政重の塔婆がある。其の文に、

赤松氏上月十大夫政重之塔

寛永19年午9月12日卒
法名、可定院秋覚宗卯居士

宗卯居士者、諱政重、十大夫、姓赤松氏(又号上月)蓋し村上天皇之苗裔正二位円心入道嫡子、信濃守範資、摂津国守護職補され自り以来、世々于川辺郡荒蒔(荒牧)城、範資九代之嫡孫豊後守殖範、其の子範政求縁■中三好・荒木両党、父子一族悉く殞命畢ぬ。于時政重3歳也。乳母懐抱而城中逃げ出於、豊嶋郡畑村至り、叔父石尾下野守撫育焉。22歳而又親戚を因み、池田備後守の愛顧を受け、■■池田里(今ここに旧館址有り)後、稲葉淡路守■吉朝臣、寛永17年辰、辞官而て、帰寧ここに本貫、同19年壬年9月12日75歳而卒去。則ち竹原山法園寺に葬り矣。室家妙薫大姉者船越女、歿後同於彼の寺也。

享保7年壬寅9月12日
※■=欠字
----------------------------------

それから、『池田市内の寺院・寺社摘記』という、いつ頃書かれたのか不明ですが、昭和後半頃と思われる著者不明の冊子があり、そこに法園寺の紹介があります。地元の郷土史家が書かれたようですが、ここにも少し違う謂われがありますので、参考までにご紹介します。但し、原典の記述は無く、その旨ご注意下さい。
※池田市内の自院・寺社摘記P33

-(資料2)---------------------------------
(前略)
創建の年月が詳らかでありませんが、再建せられたのは天文7年(1538)で、山城国洛陽の法園寺4世勝誉が当寺に転任して、現山号を命名。檀徒と協力して経営し、諸堂を完備再興して、宝永年間(1704-11)に池田筑後守勝正が先妣妙玉大姉の冥福のための大修理を加えて、今日に至っております。
(後略)
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池田市建石町にある法園寺の正門
上記で、明らかに違うところがあるので、お知らせしておきます。宝永年間と池田勝正は、全く別の時代ですので、明らかに時日とは一致しません。永禄年間(1558-70)の間違いかもしれません。
 ただ、池田勝正の妻としての「先妣妙玉大姉」が現れますが、より古い『池田町史』では、「池田城主筑後守の後室阿波の三好意(宗)三の娘を葬りし所」とあって、記述が異なっています。
 多分、後者が正しく、三好越前守政長(入道して宗三)の娘を後妻にもらった信正であれば、史実と合致しますので、こちらが正しいのではないかと思います。
 そもそも、池田氏の正式な菩提寺は大広寺ですので、その城主の妻の墓をこちらに置いているというのは、一族とは少し違う扱いにしていた事になります。

さて、(資料1)に話しを戻します。その文中、上月政重は、寛永19年(1642)に75歳で亡くなったとしてあるので、逆算すると1567年(永禄10)の生まれとなります。また、政重は3歳の時に、三好・荒木両党により、父子一族悉く殺害されたとあり、これは元亀元年(1570)6月の池田家中の内訌である事が判ります。この伝承は、史実をある程度正確に伝えているようです。
 その時、政重はどこに居たのかというと、同じ摂津の川辺郡の「荒蒔城」としており、これは今の伊丹市荒牧に比定されますが、ザッと調べた範囲では、荒牧村には確かに館城の伝承地があり、それなりの勢力を持っていたようです。以下に少しだけ、紹介してみます。
※兵庫県の地名1(日本歴史地名大系29)P429
 
-(資料3)---------------------------------
(前略)
応永26年(1419)11月の上月吉景譲状並置文(上月文書)に「あらまき」とみえ、吉景は荒牧の地頭職を室町将軍から与えられ、守護からも荒牧のうち三分の二の知行を認められた。残りの三分の一は吉景の舎弟則時に与えられ、のち景氏に伝承された。この年吉景は、地頭職と同地の三分の二を子息景久に譲っている。
 文正元年(1466)閏2月、有馬温泉(現神戸市北区)の帰途、京都相国寺蔭凉軒主で、播磨上月氏出身の李瓊真蘂は、荒牧の上月大和守入道宅とその南側の子息太郎次郎館を訪れている。屋敷は足利尊氏から、軍忠によって拝領したという(「蔭凉軒日録」同年閏2月22日条)。
 上月大和守入道は庶子家とみられ、荒牧に居館を構えていた事が確認される。太郎次郎は、200〜300人もの「歩卒、僕従」を率いて湯治中の真蘂を警護したほか、有馬に滞在して種々接待につとめ、またこの頃上月氏は25間もの倉を昆陽野から購入したという(「同書同月11日条・17日条など」)。荒牧上月氏の勢力の一端が知られる。字城ノ前に荒牧館跡があったとされるが、遺構は認められない。
(後略)
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村の歴史としては上記のようにあり、館を持ち、200〜300人の動員力を持つ荒牧上月氏は、確実に存在しています。
 いずれにしても政重は、代々住む荒蒔城で三好三人衆方となった荒木(池田)一党に攻められて、一族郎党の多くが殺されたとしています。その折、政重は乳母に助け出されて、親類(母方の弟か)のある畑村へ逃げ(避難)、そこで育てられたようです。
 政重22歳の時、天正17年(1589)に、親戚を因んで池田備後守知正の被官となりますが、慶長9年(1604)の知正の死去を契機に、稲葉氏へ再仕官したようです。
 ここで、少し気になるのは、上月家と池田知正の家系が親戚であったかのように伝えてある点です。単純に書いてあることを辿ると、政重の母方が畑村の石尾下野守家から出ていて、この石尾家が細河郷の山脇系池田家とも姻戚関係などを持っていれば、接点が見出せます。畑村と東山村は、五月山を経た山道でつながっていますので、不自然な関係ではありません。

また、この政重は、稲葉氏の家臣としての職を辞して、池田に戻り、その2年後の寛永19年(1642)9月に75歳で亡くなると、法園寺で葬られます。上月政重が池田に戻り、なぜ法園寺に葬られたのかについては、理由があるようです。
 この上月氏は、池田家中で家老を務め、法園寺のある建石町に家老屋敷を持っていたとの伝承記録があり、その事にも関係しているためと考えられます。
 それについて『穴織宮拾要記 末』の中に記述があるようです。「五人之家老町ニ住ス」として、池田民部、大西与市右衛門、河村惣左衛門、甲■伊賀、上月角■衛門と記されています。その文を抜粋します。
※参考:池田城関係の図録(池田城域南端)

-(資料4)---------------------------------
一、今の本養寺屋敷ハ池田の城伊丹へ引さる先家老池田民部屋敷也 一、家老大西与市右衛門大西垣内今ノ御蔵屋敷也 一、家老河村惣左衛門屋敷今弘誓寺のむかひ西光寺庫裡之所より南新町へ抜ル。(中略)。一、家老甲■(賀?)伊賀屋敷今ノ甲賀谷北側也 一、上月角■(右?)衛門屋敷立石町南側よりうら今畠ノ字上月かいちと云右五人之家老町ニ住ス。
(後略)
※■=欠字
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摂津池田城の復元イメージ模型より(南端部分)
文中の「池田の城伊丹へ引さる先」の事としてある意味は、天正3年(1575)に荒木村重が、池田から伊丹へ本拠を移す前の様子を描いているようです。ただ、勘ぐり過ぎかもしれませんが、この一節は、民部丞屋敷の事だけにかかる意味なのか、5人の家老屋敷の同時代性を言っているのか、迷うところではあります。
 それから、上月角■(右?)衛門なる人物の屋敷が、建石町の南側より裏の畠ノ字上月かいち(垣内)と云う所にあった、と記述しています。
 上月政重が、稲葉氏の家臣を辞して池田に戻り、その死後、建石町の法園寺に葬られたのは、この事と関係があると思われます。
 多分、池田家中で家老を務めたらしい上月角■衛門とは、政重の一族で、天正3年では、政重が僅か8歳(数えで9歳)であり、家老を務めるという訳にもいきません。上月氏の別の有能な人物が取り立てられたのでしょう。元亀元年の上月氏の惨禍の折、家中が二分され、三好三人衆方荒木氏に味方した一派があったのかもしれません。

一方、上月氏の居城とする荒蒔(荒牧)は、村重系の荒木氏が本拠を構えていたと考えられる栄根・加茂村から西へ進んだ、平井・山本あたりの影響(支配)地の西端あたりで、微妙な位置にあります。塩川氏との勢力境界あたりで、山本村には、喜音寺(きおんじ)という塩川氏ゆかりの寺もあります。
 それ故に、元亀元年は三好三人衆方の勢力が再び増していた時期でもあって、荒木村重や池田家にとって、近接する有力な勢力への備えや有馬街道の確保の観点でも荒牧は、押さえておくべき地域だったのかもしれません。
 
それから、この上月政重の塔婆ですが、1999年頃に私自身も建石町の法園寺さんを訪ねて聞いてみたのですが、1995年の阪神大震災で寺地に小さくない被害が出てもいて、その時には所在が判らなくなっていました。その時はあまり詳しく聞くこともできなかったのですが、またこれも、再度尋ねてみようと思います。

上月氏と言えば、やはり、播磨国人で赤松氏一族としての上月氏が有名ですよね。この城での攻防戦は、荒木村重の織田信長からの離反を巡る動きの中で、注目される歴史です。この荒牧上月政重の系譜もやはりそこにつながるのですが、池田との接点はどこかというと、池田には有馬街道が通っており、文字通り有馬(有馬郡は赤松氏が入り、分郡守護を代々伝領。)を経て、三木や加古川方面ともつながっていた、当時としての主要道路があったためです。官道であった西国街道にも匹敵する脇往還道で、交通量も大変多かったともされている道で、政治・経済ともに播磨国方面と池田は、有馬街道を通じてつながりを深く持っていました。