ラベル 戦国武将_河内安見氏 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 戦国武将_河内安見氏 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2013年3月18日月曜日

天正5年4月6日、織田信長方荒木村重、播磨国人原右京進宿所へ宛てて音信

小野市史第4巻 史料編の380ページに、興味深い史料があります。

この時は織田信長方であったであろう荒木村重が、播磨国人と思われる原右京進の宿所へ宛てて音信しています。

内容は、
--------------------------------
存分安河(不明な人物)へ申し候処、委細御返事、先ず以て本望候。安見参り候はば、居細申し談ぜられるべく候。急度御参会然るべく候。恐々謹言。
--------------------------------
となっています。

この史料は年記を欠きますが、個人的推定で天正5年ではないかと考えています。理由は、文中の「急度御参会然るべく候」とは、村重が播磨方面で活動を活発化させていた頃のものと考えてみました。
 村重はこの年5月、9月に小寺(黒田)勘兵衛孝高に音信するなどしていますし、羽柴秀吉なども盛んに播磨方面で活動しています。

もう一つ、この史料に注目すべき点があります。「安見参り候はば、居細申し談ぜられるべく候」とあります。
 安見は多分、河内国人の安見氏で、この頃は安見新七郎が当主です。通説では、天正3年頃に安見氏は滅びたと伝わっていますが、活動しています。

昔は何かと縁故関係がなければ、信用を得られません。どこの誰かも解らないのに、深い話しもできません。
 この安見氏とは、かつては河内国の守護代も務めた家柄でもあり、また、河内国発祥とされる鋳物師集団とも関わりがあり、安見氏の本拠である交野・茨田郡には、田中家という鋳物師が居り、江戸時代には禁裏御用も務める程の集団でした。

小寺領内に野里村があり、ここが鋳物師集団の居住する所でした。もちろん、小寺氏は置塩城の播磨守護家赤松氏に仕える家でしたので、安見氏とは、鋳物師つながりの縁故があったと考えられます。
  更に安見氏の本拠地は京都に近く、京都の禁裏は経済立て直しの一環として、鋳物師統括も真継氏によって進められていましたので、安見氏との接点もあったようです。そういった複数の要因がこの動きとなり、この史料に現れているのではないかと考えたりしています。

安見氏は、荒木村重の命で播磨国に赴き、原氏と何らかの打ち合わせを行っています。 なぜ村重が命令しているとわかるかというと、「安見参り候はば」と呼び捨てにしているからです。
 それと、この史料にはもう一人人物が現れます。「安河」です。これは既知の人物で、フルネームで書かず、省略されています。
 これは、安○河内守という人物だと思います。村重の側から原氏へ赴いた人物です。「存分安河(不明な人物)へ申し候処、委細御返事、先ず以て本望候。」という一文からわかります。
 現代文にすると、「安河にこちらの考えを伝えておきましたが、詳しい返答があり、誠に満足です。」 みたいな内容になろうかと思います。
 相手の使者だと、安河に対して敬語が使われる筈ですが、特にそれが見られませんので、状況としては、村重が安河を原氏へ使いにやり、村重がその返事を聞き、更に村重は安見を派遣したようです。急ぎの事があったのでしょう。

こういった動きが、村重謀叛の折の黒田勘兵衛の行動に繋がるいち要素になっているのだと思います。

2013年2月28日木曜日

天正3年9月18日、長雲軒妙相、河内国人安見新七郎宿所へ宛てて音信す

名古屋大学文学部国史研究室の所有する史料が『中世鋳物師史料』として発刊されています。

同史料に含まれる書状に、年欠9月18日付けで、長雲軒妙相なる人物が、河内国人安見新七郎宿所へ宛てたものがあります。この安見氏は、河内国守護代の家系で、この新七郎はその当主にあたる人物です。また、安見氏は、北河内地域などの鋳物師を統括していたようです。枚方の鋳物師として、田中家があり、領内の職人として把握していたようです。

そしてこの安見氏、この後に、荒木村重の被官となっているようです。 村重の使者として、播磨国人らしき原氏の元に発っている書状が存在します。

長雲軒妙相なる人物の書状の内容は、
-------------------------------------
尚々佐右(佐久間右衛門尉信盛)いよいよ仰せ付けられ由、地下人申しに付きて、先日申し遣わし候処、返事御入れ事、其の写しをも彼の地下人方へ遣わし候。同篇御用捨て専一候。以上、と前置きしている。本文は、久しく老面談ぜず候者、十一日 御上洛に就き、御供致し候。仍て河内国枚方之在る鋳物師事、其の方自り夫役仰せ付けられの由候。惣別諸国候鋳物師事、禁裏御料所に付きて、諸役御免許に候。御朱印をも遣わされ候条、向後御用捨て尤も然るべく候。柳原殿自り仰され候間、申し入れ事候。若し又御存じ無き事候歟。彼の在所候者共、御尋ね有り、急度仰せ付けられるべく候。此の方御用の儀候者、相応じ疎意有るべからず候。恐々謹言。
-------------------------------------
となっています。

 そして、この書状の年代比定ですが、佐久間右衛門尉信盛の河内国周辺での活動時期や、文中の「十一日就 御上洛、仍ひらかた在之鋳物師事、自其方夫役被仰付之由候」とは、織田信長の上洛を指すと考えられ、天正3年10月10日に信長は上洛している事から、この史料は天正3年と思われます。

それから、長雲軒妙相なる人物は、内容からすると、織田政権の関係者のようです。

2002年11月の交野城跡の様子
天正3年頃の安見氏は、河内国交野郡を中心とする地域を拠点として活動しており、交野城を根城としていたようです。交野城あたりは、奈良と京都への要衝でもあり、大坂・奈良・京都からちょうど20キロメートル程の位置にあります。3カ国国境の地域といってもいい場所です。また、土地も肥沃で、米や作物も多く採れます。
 また安見氏は、永年に渡るそれまでの守護代としての活動経験もあり、河内国全土に繋がりも持ち、鷹山氏など大和国側にも影響力を持っていました。
 ちなみに同じ盆地内にある津田城は、交野城と補完関係にもあったようで、地理的にも京都に対する重要な場所です。

参考:河内国津田城

そういった人物であり、その本拠地域でしたので、京都とも関係が深く、また、政権維持に重要な人物でもありましたので、重用されたようです。
 天正年間初期、織田政権が各地に軍事侵攻する中で、京都を中心とする地域の防衛も疎かにできず、荒木村重に摂津だけではなく、河内半国(中・北)をも任せていたようです。それは、キリシタン史料など、様々な資料に見られます。
 また、安見新七郎は、父直政が元亀2年、松永久秀に嫌疑をかけられて自害させられています。間もなく、居城の交野城に松永勢が攻め寄せますが、これを退けて守り抜きました。史料を見ていると、この事件以来、新七郎は反松永勢力として活動したようです。

それから、通説では、天正3年の織田信長による河内国平定で、安見氏は滅びたとなっているようですが、織田政権に組み込まれたのが実情のようです。 その後も活動が見られます。