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2024年8月14日水曜日

丹波八上城に存在する「芥丸」(伝芥川某の持場)という気になる曲輪について

摂津池田家を見る上で、やはり、丹波国の雄「波多野氏」の観察は欠かせません。
 摂津池田郷は、多くの街道(西国街道・能勢街道・余野街道・中山道・高山道・高山道・有馬道・尼崎伊丹道・篠山街道)を通し、篠山方面を始め、複数本の主要街道が池田から北方向へ繋がっています。故に池田郷は丹波国方面とも関係が深く、「ヒト・モノ・コト」の歴史を重ねています。
 例えば、戦国時代にあっては、池田弾正忠(筑後守信正)と波多野秀忠は、血縁関係があったようです。
※細川両家記(群書類従20号:武家部)P593

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『細川両家記』大永6年条:
(前略)あくる12月1日、此の仁陣破れけり。然るに池田弾正忠は、波多野が甥なりければ、則ち彼の方へ裏帰り、河原林・塩川衆の退き口へ矢戦するなり。有馬殿道永(高国)方なるにより、此の人々有馬郡へ逃れけり。池田は我城へ帰り楯籠もり、今度伊丹は国の留守して、我が城にあり。京田舎の騒動斜めならず。然らば細川澄元方牢人摂津国欠郡中嶋へ切り入り也。三宅・須田あまり悦で、河を越し、吹田に陣取り。道永方伊丹衆・上郡衆談合して、(後略)
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とあります。しかし、『細川両家記』とは、いわゆる軍記物であり、記述の信頼性に欠くという側面があるのですが、その他の一次史料を併せ読みますと、この当時の両家(両当主)は、行動を共にする事が多い上に、危険を侵してまでも相互扶助行動が見られます。
 例えば、近年、年代比定が行われた、細川晴元方山城(西岡)国人衆が着陣を報告した中に、波多野秀忠と池田筑後守が行動を共にしている史料があります。
 細川六郎晴元方山城国人高橋与次郎頼俊・神足(代)治家・竹田左京進仲広・能勢孫太郎頼親・石原惣左衛門尉綱貞・八田勘解由左衛門尉俊兼・竹田弥七郎仲次・志水蔵人助吉種・竹田藤五郎感仲・能勢次郎兵衛尉頼次・石原孫五郎延助・小野彦二郎家盛・竹田肥後守長泰・野田(代)秀成が、同晴元方三好筑前守元長陣所に宛てて音信しています。
※長岡京市史(資料編2)P219など

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態と注進せしめ候。仍て去る5月芥川中務丞・入江藤四郎摂津国へ至り入国に付きて、山城国西岡於手合い候べく由申し越され候。殊に細川晴元方近江守護六角定頼勢京都白川へ着陣候の間、将軍義輝以下の御敵旁山城国西岡へ以って要用の由候の間、則ち罷り越し候。その以後各参陣致すべくの処、波多野孫四郎(秀忠)池田筑後守、山城国山崎口打ち明け候者、摂津国上郡之陣取り雑踏すべくの旨、申し越されに付きて今于に摂津国大沢於在陣仕り候。この旨従い両人も御意を得られの由候間、先ず延べ引き申し候。然る間京都・摂津国の御敵通路堅固に差し塞ぎ候。これ等の趣き、然るべく様御取り合い所仰せ候、恐惶謹言。
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それからまた、大永・享禄・天文年間などで摂津国内の有力勢力として行動を共にする事が多かった池田・芥川氏も、天文後半から永禄年間にあってもその傾向が続いています。
 因みに、この時は、家中一体の体制ではなく、分裂状態にある中での、権力補完関係の行動でした。史料は、将軍義晴が、細川六郎(晴元)被官寺町三郎左衛門入道・摂津国人伊丹左近将監・同池田筑後守(信正)同芥川中務丞へ宛てて感状を下しています。
※兵庫県史(資料編・中世9)P469、戦国期細川権力の研究P251など

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堺津合戦之後、尚相踏み以て、向後軍忠せしむべく旨、聞こ食しかれ了ぬ。言上之趣き、尤も比類無く、次に細川六郎出張時節、聊かも油断有るべからず、其れに就き、弥粉骨抽ず者、神妙たるべく、猶大館常興申すべく也。
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また、別の史料もご紹介します。天文8年、河内国十七箇所の代官職の要求が幕府に認められながら、細川右京大夫晴元・三好政長らの画策で不当に退けられた事に三好孫次郎(範長:長慶)が武力蜂起した時の様子です。
※摂津市史(史料編1)P379、(新)茨木市史4(史料編:古代中世)P421

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『大館常興日記』閏6月14日条:
一、未明に荒礼部(不明な人物)より書状之在り。池田筑後守・伊丹次郎・三宅出羽守・芥河豊後守、此の人数へも成され、御内書、別して三好孫次郎に対し意見加えるべく之由、之仰せ下され、何れも副状調進致すべく候由之仰せ出され也。仍って則ち之相整え、荒治(不明な人物)へ之上せ進めるべく也。
『親俊日記』閏6月13日条:
三好同名扱い破れ、既に京中騒動に付きて、三好孫次郎方へ御内書成られ、摂津国同意の輩、伊丹次郎、池田筑後守、柳本孫七郎、三宅出羽守、芥川豊後守、木沢左京亮方へ意見加えるべく之由、何れへも之下し成され了ぬ。御内書河村有林之調え進める。
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赤色三角印のあたりが「芥丸」砦跡
そのような関係性がある中で、波多野氏の居城である丹波国八上城には「芥丸」なる曲輪があり、これが芥川某の受け持ちであったと伝わる施設があります。これは非常に気になります。
 永い間の様々な関わりの中で、支配の境を接する者同士が、関係性を深める状況は当然ながら、あったと思います。しかしながら、この芥丸については、伝承での「芥川某の曲輪」とのみの情報です。それ以上の情報は、今のところありません。

今のところ筆者の直感的な要素も多く、繙くための思索でしかありませんが、「芥丸」について、全く自由な発想で、情報を集約しておきたいと思います。先ずは、『城郭大系』から「八上城」についての必要部分を抜粋してみます。
※日本城郭大系12(新人物往来社)P328

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八上城の条
(前略)さらに頂上の帯郭から東へおよそ30m下がると、周囲に古い形式の土塁で囲った東西約20m、南北7mほどの灌木の茂った郭に出る。「蔵屋敷」という一郭である。そして尾根伝いに左手に向かうと、「茶屋ノ壇」から出郭である「芥丸」「西蔵丸」に至る。また右手に下ると「上ノ番所」「下ノ番所」という郭跡に達し、野々垣口に通じており、この「下ノ番所」の一隅に内側を石積みにした直径約3mの井戸がある。「淺路池」と呼ばれているが、この一帯が井戸郭であろう。また「西蔵丸」という広さ20m × 10mほどの一郭があり、頂上の本城部分を中心にした鶴翼形に広がった郭群の東方最先端にある砦跡で、背後の「芥丸」砦と共に野々垣口・西庄口・藤ノ木口を扼(やく)する重要拠点であったものと推定できる。(後略)
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とあります。城下の街道との関係や地形から、徐々に構えが拡がったと『城郭大系』では推察しています。
 一方で、『城郭大系』での分析から約20年を経た『戦国・織豊期城郭論』では、同城の構成を以下のように分析しています。該当部分を抜粋してみます。
※戦国・織豊期城郭論(丹波国八上城遺構に関する総合研究)P35

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図5:戦国・織豊期城郭論より
2.曲輪群の構成
本節では、波多野氏段階の八上城の縄張について考察したい。城域は、基本的に1地区(八上城の中心的曲輪群)・2地区(北東尾根筋の曲輪群)・3地区(蕪丸周辺の曲輪群)という膨大な曲輪群から構成されている。(中略)
 波多野氏が戦国大名化する過程で、1地区が整備され、さらには三好長慶や織田信長との戦争によって、城域が攻撃面に当たる2地区へと拡大したと推測されるのである。
 ここでは、遺構調査に基づき、最大規模に発展した波多野氏段階の八上城の復元を試みたい。まずは、前述した3地区を除く各地区別の主要曲輪に関する調査結果を記す。なお〔 〕の中の数字は図5の曲輪番号である。(中略)
 さらに進むと、この地区最大の曲輪〔19〕がある。ここから東北の尾根上に、全長220メートル、幅9メートルで馬駆場〔20〕とよばれる細長い平坦かつ直線的な遺構が存在する。おそらく城域の東端に位置する伝芥丸や伝西蔵丸からの情報を、伝本丸へと伝えるための通路として機能していたのであろう。
 その先には、伝芥丸〔21〕がある。東西9メートル・南北11メートルの小規模な曲輪であるが、礎石が残存している。ここを北に下り、堀切を渡って鶴ヶ峰を登った地点に伝西蔵丸〔22〕とよばれる曲輪がみられる。東西12メートル・南北14メートルの規模であるが、一段下に帯曲輪があり、尾根の先にも竪堀があることから、この曲輪の自立性がうかがわれる。(中略)
 2地区は、藤木坂筋や野々垣筋といった八上城の背後を固める曲輪群であり、尾根筋に連なって築かれた小規模曲輪群に、竪堀を有機的に配して防備機能を高めている。しかしこれらは、いずれも自然地形に小規模な普請を加えたにすぎないことから、基本的に波多野氏段階の遺構と考えてよいと思われる。織豊大名在城期には、主郭にあたる1地区が改修されたのであり、2・3地区に対しては石垣を使用したり虎口を改変していないことからも、補助的な曲輪群として、ほとんど手が加えられなかったのであろう。
 以上から戦国末期の八上城は、東西800メートル・南北700メートル以上の規模を持つようになっており、他の戦国大名の城郭と同様に、縄張が肥大化・拡散化する傾向にあったことが判明する。
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八上城案内パンフレットより(部分)
『戦国・織豊期城郭論』では、『城郭大系』の説を踏襲的に詳しく分析しながらも、慎重な判断になっているように感じられます。

いずれにしても「芥丸」を含む郭群は、波多野氏段階での事と考えて間違い無く、個人的には、その可能性へ更に筆者の思いを踏み込みたいと思います。

前述の、波多野氏・池田氏・芥川氏の関係性により、この「芥丸」については、阿波・摂津国に縁の芥川氏との関連を想定できるのではないかと思います。
 摂津国方面の芥川氏拠点と八上城方面(波多野氏勢力圏)とは街道を複数通していますので、行き来が可能です。また、政治・軍事などの繫がりの中では、連動も容易です。
 特に天文年間後半の天文17年夏以降からは、摂津国池田家中の分裂で、権力が不安定となった主格の池田長正と、同様に三好長慶と一族でありながら立場の安定しなかった芥川孫十郎の政治的不安定さを外部権力(勢力)に補完を求める行動から、両者は丹波・摂津国境付近への定着が想定されます。

芥川孫十郎は、三好長慶の権力下にありながら背反常無く、権力基盤が弱いために非常に不安定な立場にありました。
 天文22年8月、長慶に対し、またも謀反を起こしましたが、この時ばかりは許されませんでした。孫十郎の居城であった芥川山城は陥落します。そして、孫十郎方の人質は皆、殺されています。この時の様子をご紹介します。

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『足利季世記』芥川落城之事条:
同19日、芥川孫十郎兵糧に詰まり色々三好方へ和睦の儀詫言有り。城を明け渡しける長慶衆同日打ち入り、芥川一味の人質を皆誅されける芥川は三好豊前守が姉聟なれば、其の好(よし)みを頼み、阿波国へ下りける。(中略)三好長慶も則ち同25日、芥川城に移り給えば、...(後略) 
『細川両家記』天文22年条:
(前略)8月22日に芥川孫十郎方兵糧之無くして噯いに成りて退城也。則ち城を長慶へ受け取られ候也。此の時の人質衆を誅され候也。(中略)8月25日に長慶入城候也。芥川孫十郎方の無念推量申し候。阿波国へ下られ候て三好豊前守方頼み、堪忍の由に候也芥川孫十郎は三好豊前守の妹聟也
『言継卿記』8月22日条:
丙申、天晴、天一天上。(中略)今日午時(午前11時〜午後1時)摂津国芥川城之渡し云々。安見美作守宗房之請け取り云々。(中略)来る25日三好筑前守長慶移るべくの由風聞。いよいよ細川右京大夫入道晴元出張される様体難しく也。(後略)
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その後、芥川孫十郎は、義理の父である三好豊前守を頼って阿波国へ下ったとありますが、その後は史料上にも見られなくなり(永禄4年末に再登場)ます。一時的に浪人した可能性もあると思います。
 この行動特性、当時の政治状況分析については、「摂津国芥川に関係の深いいくつかの系譜の芥川氏について、馬部先生のお見立て」をご覧下さい。

図録 越前朝倉氏一乗谷より

波多野氏にとっても、組織の維持・発展の様々な材料として、人材(能力)、上位権力との関係、交通や経済的要素、情報の入手経路などの観点でも、名のある人物を抱える事を積極的に行っていたと考えられます。また、波多野秀忠の娘を三好長慶に嫁がせていたものの、離縁された心情的な不穏さも何らかの作用を及ぼしていたかもしれません。
 それらの要素の中で、波多野氏と芥川氏が協調・信頼関係を結んでいた痕跡として「芥丸」が存在したとしても、決して不自然ではありません。波多野氏は、それ程の求心力を持つ勢力であった事も疑い有りません。もちろん、幕府や管領の知行地が丹波国内に多くあったという一面もあるでしょう。
 同様の例として、越前朝倉氏の城下に、近江国人浅井氏が屋敷を構えていた事とも、遠からず共通性があるように思われます。

この「芥丸」の築造年代については、不明ですがそこに存在する理由としては、前述のように阿波・摂津国の芥川氏との関係が、蓋然性高く想定できるのではないかと思われます。

それから、もうひとつ気になるのは、波多野氏の本拠である八上城とその周辺は、春日神社が多いですね。本姓が藤原である池田氏との親和性もこの点にもあるのかもしれません。

丹波八上城に関する今後の研究に期待して、新たな関連史料などの発掘を待ちたいと思います。

 

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2024年6月29日土曜日

松永久秀が、幕府政所伊勢貞助などへ宛てた新出史料の特別公開を展覧して

令和6年(2024)6月15日から、高槻しろあと歴史館にて、最近発見された松永久秀書状の展示が行われましたので、見てきました。

その書状は欠年史料でしたが、同館により、天文22年(1553)のものと比定されており、私も内容からして間違いの無い見立てだと思います。
 年記以下は、7月30日付のものですが、内容としては、その近辺の出来事を語った、いわゆる軍記物『細川両家記』『足利季世記』『長享年後畿内兵乱記』、また『言継卿記』の記述に加えて、その正確さを証明するかのように、新出史料は、それらの流れと一致する当時の情報交換が行われています。加えて、既出史料にはない出来事もあり、前述の軍記物などを補足するかのような興味深い要素も見られます。

一方で、同館を訪ねたついでに、何か目新しい資料はないかと物色していると、『しろあとだより:24号(令和4年(2022)3月発行)』があり、それもネット内でダウンロードして、記事を読みました。
 そこには、特に今回の展示を意識したはずは無いと思いますが、天文22年の芥川城落城時の「帯仕山」についての考察記事が載せられていました。
 今回もまた、奇縁がそこに...。私自身も、池田長正の動向を追う中で、天文22年という年が気になっていました。その年は、その前後で、断片的な長正及び池田衆の史料が見られるのですが、関連性を帯びておらず、その記述の意味を判断できずにいました。
 それからまた、この年は、京都の中央政権でも画期を呈した動きがあり、それまでの流れが変わる、要注意の年でもあります。

今回もまた奇縁のおかげで、保留状態にあったところを、前に進める動機を作ってもらいました。
 以下、天文22年の池田長正及び池田衆の動向の思索として、キーワードを挙げておきたいと思います。その前提として、馬部隆弘先生による天文22年頃の京都中央政権についてのご見解を紹介しておきたいと思います。
※戦国期細川権力の研究P705

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天文19年から22年までの間に、三好長慶方が臨時公事の賦課に積極的に関与し始めるのは、管領細川氏綱と長慶の主従関係が崩れ、特に天文21年2月に、長慶が御供衆に加えられて幕臣となった事が大きな理由である。ただし、天文22年前半まで、氏綱方と長慶方は、あくまでも別個に文書を発給していて、上下関係は歴然と残っていた。ところが、天文22年後半になると、氏綱内衆と長慶内衆の家格差は大幅に縮まり、両者の連署状が成立する。
 このように、公事と書札礼の両面を踏まえると、氏綱と長慶の関係性は、天文21年と翌22年の二度の転機を経て変化したと指摘し得る。
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これは非常に重要なご指摘で、この事で、これまでの欠年史料の特定が進み、非常に複雑な人物関係が繙かれるに至りました。
 それ故に、私の研究範囲である摂津池田氏の行動についても、ある程度の推測が立つようになりました。大きな前進です。
 この年も、正統な池田家惣領を主張する池田長正と、近世でいうところの家老的組織である池田四人衆の人々は、その主張を認めず、分裂していた可能性が高いように思われます。

例えば、欠年史料で、12月15日付けの池田四人衆が、当郡中所々散在へ宛てて下した禁制的法度は、後の考証(若しくは備忘録的メモ書きかもしれません)で「天文22年」としてありますが、実はこの考証は、馬部先生の研究成果による恩恵で、正確である可能性が増した訳です。池田四人衆の池田勘右衛門正村・池田十郎次郎正朝・池田山城守基好・池田紀伊守正秀が、当郡中(摂津国豊嶋郡)所々散在へ宛てて音信(折紙:直状形式)。
※箕面市史(資料編2)P411

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箕面寺山林所々散在従り盗み剪り者、言語道断の曲事候。宗田(池田信正)御時之筋目以て彼の寺へ制札出され間、向後堅く停止せしむべく旨候。若し此の旨背き輩之在る於者、則ち成敗加えるべく由候也。仍て件の如し。
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箕面寺中枢機関であった岩本坊

この文書内容についてですが、実は天文20年5月付けで、同じ内容のものが、池田長正により作成されています。その後に、同内容で上記の触れを池田四人衆が出すというのは、その前例の打ち消しであり、その時点での権力の表明でもあります。
 これは、天文22年8月18日、細川晴元方の多田・塩川勢力が、「池田表」にて蜂起するのですが、失敗します。この事で芥川城は利を失い、この翌日に芥川城の芥川孫十郎(右近大夫)は、降伏を申し入れます。
 よって、この「池田表へ蜂起」に、池田長正が晴元方として加わっていたのではないかと、推測できるようになります。

池田長正は、先代惣領の筑後守信正の子でありましたが、その妻の舅である三好政長(宗三)が、その立場を悪用して、長正を介し、池田家そのものを乗っ取ろうとしていました。それがために、池田家中からは猛反発を受けていました。その中心を担ったのが、池田四人衆であった訳です。
 故に長正は自らの身分と権力の裏付けを、外来権力に頼らざるを得ず、三好政長を側近として重用した管領細川晴元の権力に依存した権力体となっていました。よって長正の行動も活動拠点も、常に晴元権力の所在地にあったと考えられます。
 逆説的にみれば、長正は池田城内には起居する事ができなかったとも考えられます。少なくとも天文22年当時は、城内に居住する条件になかったと思われます。
※細川両家記(武家部:群書類従20号)P613、足利季世記(三好記:改定 史籍集覧13別記類)P211

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『細川両家記』天文22年条:
一、同8月18日、細川晴元方の牢人衆多田・塩川方衆一味して池田表へ打ち出され候といえども、存分成らずして則ち明くる日帰る也。
『足利季世記』天文22年・芥川落城之事条:
8月18日、晴元方の牢人摂津国多田の塩川伯耆守に一味して、池田表へ蜂起し、芥川の後巻きをせんと企みけれども叶わず散々に成り行けば。
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軍記物とはいえ、今よりもこの当時は、言葉選びには慎重だったと思います。「蜂起」という言葉をどうして選んだのでしょうか?「責め」ではなく。池田家内部からの動きも感じさせるのですが、ちょっと気になります...。
 そして、上記の軍記物の正確さを裏付ける、当時の史料が存在します。前管領細川晴元方塩川国満が、天文22年8月22日付で、池田表を攻めたことについて、平尾孫太郎某へ感状を下しています。
※池田郷土研究8-P39

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去る18日(8月18日)池田表に於いて太郎右衛門尉討死、比類無き忠節候。なお委細新九郎申すべく候。恐々謹言。
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芥川城からの遠望(撮影:2001年2月)
それからまた、芥川城に籠もっていた芥川孫十郎も、細川晴元権力に依存する人物で、その家中において池田長正と同様の構図・立場にありました。孫十郎は、三好氏一族に迎えられていましたが、叛服常無く、いわゆる「問題児」でした。
 そのような境遇から、この芥川孫十郎と池田長正は、しばしば行動を共にし、共通の目標に向かう動きもしていました。その状況を知る一端として、天文21年6月4日付けで、松永久秀が京都大徳寺塔頭大仙院侍衣禅師へ宛てた音信に、池田長正と芥川孫十郎についての記述がみられます。
※戦国遺文1-P121など

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尊書拝受致し候。仍って今度丹波国の儀、不慮の次第候。悪逆人の儀、退治の行候処、摂津国人池田兵衛尉(長正)・小河式部退城仕り候。則ち池田の城存分に申し付け候。芥河孫十郎事も造意の段白状候て、種々懇望半ば候。何れの道にも手間入るべからず候間、御心安く思し召されるべく候。此等の趣き、宜しくご披露預け候。恐々謹言。
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また更に、この史料について、軍記物の記述があります。天文21年5月23日、三好長慶が丹波国八上城を攻めていたところを、形勢不利となって陣を解き、撤退します。それについての記事です。
※群書類従20号(武家部:細川両家記)P612、長享年後畿内兵乱記(続群書類従第20号上:合戦部)P318

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『細川両家記』天文21年条:
(前略)5月23日の夜半に三好筑前守長慶勢、摂津国衆諸陣悉く有馬郡へ引き退かれ候なり。(後略)
『長享年後畿内兵乱記』天文21年条:
(前略)5月23日夜、丹波国多紀郡高城と雖も三好筑前守長慶取巻く。芥河・池田・小河反逆に依り取退雑節。(後略)
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池田長正と芥川孫十郎は、常に呼応した動きをする事が多く見られます。これは、共通の利益や状況を持つ、仲間的な行動だと、資料上から読み取れます。また、このことから軍記物の大筋の正確さは、信用に足りる(100パーセントとは言えなくても)ものであることも判ります。

八上城遠景(撮影:2006年10月)
天文22年の夏、三好長慶が、その一族でありながら芥川孫十郎を芥川城に攻めたのは、丹波国方面から近江国西部にかけて、細川晴元方勢力の拠点があり、これと孫十郎が結び付いていた事からの処置でした。
 また、この年、将軍義輝も細川晴元を擁護する動きを見せ、行動を共にしていました。加えて、晴元には、摂津国の塩川・多田氏や能勢方面でも加担する勢力がありましたので、池田長正も丹波・摂津国境のあたりに居て、行動の機を謀っていたものと思われます。
 そんな中、芥川城を占領した三好長慶は、直ちに晴元勢を追って、丹波国に攻め入ります。この時、池田衆も従軍していますが、これは池田長正ではなく、池田四人衆方の勢力であったと考えられます。
 しかしながら、長慶方の軍事行動は、この時はうまく行かず、撤退。池田衆にも何らかの損害が出ていたようです。
※言継卿記3-P72、群書類従20号(武家部:細川両家記)P614、足利季世記(三好記:改定 史籍集覧13別記類)P211

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八木城からの遠望(撮影:2001年10月)

『言継卿記』9月19日条:
癸亥、天晴、天専終、戌刻自り雨降り。(中略)昨日(18日)丹波国へ立ちたる三好人数敗軍云々。内藤備前守・池田・堀内・同紀伊守・松山・石成等討死云々。但し松永弾正忠(久秀)殊無き事云々。
『細川両家記』天文22年9月3日条:
(前略)同18日に後巻して此の衆打ち勝ち、内藤肥前守(備前守)国貞・永貞父子と池田、堀内を打ち取り。此の外数多討ち死也。然れ共松永兄弟は難なく打ち帰られ候也。此の時内藤方の城丹波国八木難儀候所、松永甚長頼は内藤備前守聟也ければ、此の八木城へ懸け入り、堅固なる働きとも見事なるかなと申し候也。
『足利季世記』天文22年(芥川落城之事)条:
(前略)同18日、城よりも突きて出て、相戦う半ばに晴元より香西越後守元成・三好右衞門大夫政勝(宗三子息)大将にて後巻きあり。松永が後陣に控えたる内藤備前守・池田・堀内等を打ち取りければ悉く敗北して、寄手散々に落ち行ける。大将(別働隊)討たれければ、内藤が居城八木の城明けるに、松永甚介此の城に入りて敗軍を集め、城を持ち固めける。松永は内藤備前守が聟なれば、城中にも一入頼もしく思いける落ち武者かく計らいける事、武功第一也と沙汰しける。
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天文22年付けの諸史料にみられる、摂津池田についての記述は、やはり、このように池田長正と池田四人衆が、晴元・細川氏綱(管領現職)両派に分かれて行動しています。その視点で見れば、既知(既出)の資料群は、矛盾の無い記述内容です。

そしてこの年の暮、既述の12月15日付(史料2)で、池田四人衆が当郡中所々散在に宛てて下した法度は、池田衆にとっての縁故寺院であり、且つ、摂津・丹波国境に近い場所で、氏綱方の池田四人衆が勢力を得て、先に下した池田長正権力の効果を削ぐ意味を示したものであろうと考えられる訳です。池田四人衆の権力が優位に立ち、その時局を進めたようです。
 これ以降、池田長正は史料・軍記物でも見られなくなり、代わって池田四人衆関連の史料が頻出するようになります。

そういう意味で、今回の高槻しろあと歴史館にて行われた、松永久秀の新出書状展示は、この重要な、天文22年の京都中央政治構造の解明に寄与する発見だったと思います。

追伸:
この激動の年、更にこのような大事件もありました。6月9日、阿波守護であった細川讃岐守持隆(氏之?)を三好豊前守(長慶実弟)が殺害。持隆は細川晴元と兄弟であり、政治・軍事上の何らかの障害になっていると考えたのでしょう。しかし、これは「主殺し」であり、当時の倫理観に照らしても、国内外に動揺が走ったと思われます。
 8月13日、将軍義輝が都落ちし、その勢いに陰りがみられたこともあり、幕府奉行衆が大量に離反して、京都に戻ります。三好長慶は、地域統治に於いて、それらの協力も得られることとなりました。
 そして、これらの動きを見ていた、阿波足利家が、京都の中央政権復帰を望み、上洛の構えを見せます。大坂本願寺などへ関係各所へ音信を行っていました。

これらの要素を個々にみれば、新聞記事を見るのと同じですが、やはりこれらの動きは関連性があって、欲求や何らかの高まりの中で、連鎖して起きています。この頃には実力者に成長していた三好長慶は、解決すべき要素に優先度をつけて、各々解決を計ったために、この後、大きく飛躍していきます。


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