図1:元禄期の酒屋・炭屋の分布図 |
※江戸下り 銘醸 池田酒と菊炭(池田市立歴史民俗資料館)
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【池田の酒造業の発展】
池田の酒造業は、満願寺村(川西市)から応仁年間(1467 - 69)、池田に移って酒造業をはじめた満願寺屋にはじまるといわれている。家伝によれば、宝暦14年(1764)時点ですでに、「2〜300年以前より酒造仕候様に相聞へ」といい、慶長19年(1614)、大坂冬の陣で家康が暗峠に陣した際、池田の銘酒を献じ、そのために朱印状が授けられたという。
表1:摂泉十二郷の江戸積入津樽数 |
江戸時代に入り、幕府の酒造統制政策のもと、池田は「往還の道筋、市の立つ処」として酒造業がみとめられ、朱印状の庇護もあって、伊丹と並ぶ銘醸地へと発展したのである。
◎池田酒 豊島郡池田村に造之、神崎の川船に積しめ、諸国の市店に運送す、猪名川の流れを汲で、山水の小清く澄を以て造に因って、香味勝て、如も強くして軽し、深く酒を好者求之、世俗辛口酒を伝へり。(「摂陽群談」元禄14年刊)
◎池田、伊丹の売り酒、水より改め、米の吟味、麹を惜しまず、・・・・・軒を並べて今の繁盛、・・・・・大和屋、満願寺屋、賀茂屋、清水屋、此の外次第に栄えて、上々吉諸白、・・・・・。(井原西鶴「織留」)
このほか、池田の酒を紹介した当時の書物は、枚挙にいとまがない。
明暦3年(1657)の酒造株設定時には、42株、13,640石がみとめられ、元禄期には、60株を超えた。江戸積銘醸地の中でも中心的存在で、元禄10年(1697)、池田から江戸へ下った酒は、28,238駄 = 56,576樽にものぼる。これは、この年の江戸下り酒総入津髙の8.8%を占め(表1参照)、まさに、近世池田酒造業の全盛期であった。
このころの酒屋の分布状況をみてみると(図1参照)、そのほとんどが東・西本町(現栄本町)に集中している。池田屈指の酒造家満願寺屋や大和屋も、東本町(現在のコミュニティセンターから職業安定所付近)にあった。
図3:江戸時代・池田酒の商標 |
【池田酒造業の衰退】
幕府の酒造統制が緩和され、灘をはじめとする新興酒造地が登場してくると、池田はだんだん遅れをとるようになった。その後の酒造政策によって若干の変動はみられるものの、池田が占める江戸積入津樽数の割合は減少の一途をたどり(表1参照)、酒造株のなかでも休株のものが目立ってきた。
衰退の要因には、いくつか指摘されている。その一つは、池田が海岸線から遠く、江戸積みには不利な条件であったことである。江戸時代を通じ、猪名川通船願いが何度となく出されるが、その都度、池田をはじめ周辺諸駅の馬借らが反対し、実現しなかった。天明4年(1874)、ようやく許可されたが、それは、下河原(伊丹市) - 戸野内(尼崎)間に限られていた。
池田から江戸までの輸送経路と運賃 |
第2点としては、酒造技術(水車精米・仕込方法)改良の遅れがあげられる。灘では、近世中期から、既に水車精米を採り入れていたのに対し、池田や伊丹では、依然、足踏み精米にたよっていた。明治期に入ると、木部の水車場を利用していたことが知られているが、いつ頃から水車による精米が始まったか定かでない。文化年間(1804 - 18)にも、木部の水車場が米搗きに使用されていた記錄があるが、酒造業との関係は詳らかではなく、仮に酒造米の精白に使用されていたとしても、灘方面の急流を利用した水車に比べ、その精白度や精白量は低かったと思われる。
仕込技術の面では、薄物辛口への好みの変化に対応し、文化・文政期、灘では、米1石に対し水1石の仕込方法に成功しているのに対し、池田では、米1石に対する水は5割弱に過ぎなかった。
呉春酒造酒蔵梁の書付(元禄14年 甲賀谷仁兵衛) |
このほか、酒造家が金融業へ一部資本を転換するようになったことなども要因の一つにあげられている。こうした諸条件が重なって、やがて、江戸積酒造体制から脱落し、酒造株の質入れや売買が行われ、「出造り」が一般化していった。
以上のような発展、衰退の歴史のなかにも、新旧酒造家の交代がみられる。元禄期ごろ、上位を占めていた小部屋、菊屋、満願寺屋に替わり、江戸時代後期は、甲字屋、綿屋などが成長してくる。これら新興酒造家の中には、酒造技術の改良に努め、辛口薄物の酒の量産化を実現したものもいる。しかし、こうした動きが池田の酒造業の復興までに至らなかったのは、これら酒造家が、純粋に酒造経営を行っていたのではなく、貸金を主とし、酒造業を行っていたという点にあったといわれている。仕込技術では、遅れを取らずとも、原料の酒米の多くを質入米に頼っていたことが、酒の品質を左右したのではないかと考えられている。
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※文中の酒造家小部屋とは、「小戸」か。
少々長い引用でしたが、酒造と輸送は両輪ですから、効率のよい輸送(出荷)をどのように確保するのかは、非常に重要な問題です。この池田の一大産業の勃興に、池田の武士や元の住人が戻って従事するようになっていたようです。酒造最大手の満願寺屋は、当主の名を「荒城九郎右衛門」といい、「荒城」との字を充ててありますが、これはやはり「荒木」であろうと思われます。また、他の荒木一派も「鍵屋」という屋号で酒造業を営んでいたり、他にも池田家中の武士であった酒造家もありました。
一方で、それに関連する役割を持つ者も当然いた事でしょう。荒木村重は没落して後、摂津国守護職であった頃の役目の延長で、鋳物師統括に関する取り計らいをしていたらしい史料もあります。
※中世鋳物師史料P141
(資料10)-----------------------
先刻申し入れ如く候。彼の知行分の儀、荒木弥四郎村基存分に成り候者、知行分存知候間、重馬之かい料の儀、進められるべく申しの由、松台(不明な人物)仰されるべく候。恐々謹言。
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上記は年記を欠く、3月26日付の文書で、宇■真清、公卿真継久直宿所へ宛てて音信されているものです。宇■真清とは、■が欠字ですが、これは宇保という人物と思われ、宇保は今の池田市内にある地域の「宇保」の有力者と考えられます。この地域にも宇保姓の武士が居た事は、当時の発行文書からも明かです。また、真継久直とは、あまり地位の高くない公卿ですが、日野家に関係し、全国の鋳物師の統括を担っており、この頃は、一元化を推し進めている途上でした。その流れの中での文書です。
このように、甲賀谷正長も池田の家老的重職を務める役の家系にあったようですから、その政治力や人脈を活かした、時代時代の役割りがあったのだろうと思われます。
先にも述べたように、正長は長遠寺の復興や正蓮寺の創建に、中心的な役割りを果たしており、それに伴う経済的支援もしていることから、相当な経済力も持っていたことは明かです。甲賀谷という、いち地域から町全体の政務(まつりごと)を行う地位に昇っていたのかもしれません。
最後の桶職人 武呂氏(池田酒と菊炭より) |
※大阪府の地名1(平凡社)P316
(資料11)-----------------------
【甲賀谷町(現池田市城山町・綾羽1丁目)】
東本町の北裏側にあり、町の東側は池田城跡のある城山。西は米屋町。能勢街道より離れているため商人は少なかった。元禄10年(1697)池田村絵図(伊居太神社蔵)には大工5・樽屋1・日用9・糸引1・医師1・職業無記載36がみえる。酒造業が集中している東本町に近接することから大工・樽屋などの職人は酒造に関係したものと思われる。
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甲賀谷は、近年まで大工職をはじめ、職人の多い町として知られていて、この江戸時代の流れが、その時代に沿いながら地域の定形文化が続いていたといえます。