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2023年4月8日土曜日

佐保城と佐保栗栖山城と白井河原合戦の関係性を考える

永い間、気になっていた佐保城を訪ねる機会があり、行ってきました。お誘いいただき、実現しました。実際に現地を歩いてみると、文献からは判らない「感覚」を感じることができ、非常に有意義です。
 この佐保城がなぜ気になるかというと、白井河原合戦において、非常に重要な位置づけであるためです。ここは、幕府方の和田伊賀守惟政が本陣を置いた幣久良山から5.5キロメートルの距離にあり、徒歩でも1時間余りの至近距離にあります。

左手は中世頃の寺跡と推定 
当時の記録『尋憲記』8月29日条には、一、摂津国にて、昨日28日合にて和田父子其の外同名衆打ち死に。各家の衆237人、中間小者55人打ち取り由也。池田・淡路衆との合戦にて打ち果たし、則ち高槻・茨木・宿久城・里(佐保)城、以上4つ落居の由、慥かに沙汰と申し候処へ、城宗徳方(不明な人物)より上乗院へ書状同辺由也、とあります。
 いくつか、白井河原合戦について記録している当時の日記がありますが、佐保城についての記述は、『尋憲記』のみです。
 ちなみに『尋憲記』とは、奈良興福寺大乗院の門跡尋憲が綴った日記で、この頃、奈良方面でも合戦が盛んにあり、周辺地域の情報を小まめに書き残しています。奈良方面へも和田惟政は、度々出陣しており、この白井河原合戦の直前にも出陣していました。
 また、物理的な視点では、茨木・高槻(大阪府)方面で起きた戦争の速報が、合戦翌日に奈良興福寺大乗院(現奈良市高畑町)へ届いていて、その情報に佐保城を含む、高槻・茨木・宿久城の4つの城が落ちたと伝わっています。この内、高槻城が落ちたとの報せは、結果的に誤報でしたが、概ね情報は正確です。

この合戦により落城したという情報要素は、この時の状況から考えて、佐保城は和田方となっており、そこを池田勢が攻め落としたという事になりそうです。
 ただ、いつ頃から佐保城が和田方であったのか、明確な記述は見当たりません。また、佐保城と佐保栗栖山砦との関係性、城主や築城年代なども公的には不明で、故に白井河原合戦時の関係性もハッキリとしたことは材料の乏しさから不明といえます。
 今後の議論収斂に役立てばと思い、現在あたる事の出来る材料をまとめておきたいと思います。この小考の最後で、個人的見解をまとめてみたいと思います。
 先ずは定番、日本城郭大系からです。
※日本城郭大系12-P75

---(資料1)--------------------------------------------
佐保川の流れ
佐保城は、茨木市上音羽の多留見から発する佐保川が佐保の本庄で流れを東から南へと大きくかえる地点の北方の山頂に営まれた山城である。
 山は城山と呼ばれ、標高198mの独立丘的な形態を有する山であるが、背後(北)の山とは、わずか幅約30mの田圃を介して続き、その田圃との比高もわずか7-8mに過ぎない。したがって、背後からの攻撃には弱く、そのため、おおむね東西に長く延びる本丸の北側部分約80mにのみ土塁をめぐらしている。
 一方、南面はこの山から派生する支脈を介して佐保川に臨んでおり、その比高も約50mにも達しており、非常に堅固であるといえる。
 さて、本城は、わずかにくの字形に彎曲するものの、ほぼ真一文字に東西に延びる山頂部を本丸とする単郭式城郭と思われる。山頂南面中央部には大手口と推定される区域があり、2-3m四方の小さな平坦部が残っているが、そこには本丸を背にして高さ1.5m、幅70cm内外の巨石が三個立て並べられており、後世、大坂城の大手門桝形・同桜門桝形などの虎口正面における巨石使用の先駆として注目されるものである。この大手門に至る大手道は、つづら折となって続いているが、途中数カ所で巨石が2・3段積みあげられている場所があり、城郭に関わる何らかの施設の跡と思われる。大手道を下っていくと、山の中腹に10年程前に新築された住宅があり、その裏庭で大手道はとぎれてしまっている。したがって、それ以下の城郭施設の有無については、全く知ることができない。
 一方、本丸の北面する部分は、前述したように高さ40-50mの低い土塁が続いており、防衛力の弱い北方からの攻撃に備えたものであろうと推定される。本丸の平坦部は、枯れた松や竹林によって足を踏み入れることさえ困難な状態であり、内部の残存状況はまったくわからない。
 いずれにしろ本城は、石塁もほとんど持たない単郭式の小城郭であったと思われ、その北部に営まれていた泉原砦と同じく、能勢と茨木とを結ぶ山中の間道を扼するために築かれたものであっただろう。
 城主・沿革についても全く伝わっていない。ただ、建武3年(延元元:1336)頃、泉原には勝尾寺領高山庄の下地雑掌職を勤める泉原将監という人物があおり、それが泉原砦とも何らかの関係を持っていたと思われるところから、この佐保にもこの頃、佐保一円を支配した小土豪が存在したことは充分考えられる。
 なお、『東摂城址図誌』には、この城のほかに佐保砦跡として一城跡の存在を記している(字城屋敷)が、その遺跡は明かではない。
--------------------------------------------(資料1おわり)---

そして、日本城郭大系からです。しかし、この表題は佐保城ですが、どうも佐保栗栖山城を指しているようです。
※日本城郭全集9-P87(1967年8月刊)

---(資料2)--------------------------------------------
保川右岸、栗栖の中腹に東西約60メートル、南北約220メートル、回字形の城であった。別に東西約100メートル、南北約216メートルともあり、城山といわれ、字を宮ノ上という。別に東西、南北とも約60メートルの砦あり、城屋敷という。
 興廃の年月、歴史も明かではではないが、付近に泉原城、当城より南へおよそ2キロメートル、佐保川左岸に福井城があったので、おそらく戦国の頃、両城砦いずれも、興廃を共にしたものだろう(『摂津志』『東摂城址図誌』)。(北本好武)
--------------------------------------------(資料2おわり)---

続いて、わがまち茨木(城郭編)での佐保城の記述です。
※わがまち茨木(城郭編)P70【執筆者】免山 篤

---(資料3)--------------------------------------
佐保城縄張図(わがまち茨木より)
大字佐保字馬場谷の通称城山に築かれた城砦である。佐保は泉原と同じく山間の佐保川中流に開けた盆地で、歴史は縄文期の庄ノ本遺跡に始まるのであるが、その後の遺跡は現在のところ不明である。泉原と同様に仁和寺の庄園として支配されていた。庄園時代は、佐保村と佐保村有安名で統治され、佐保村の年貢高8石余に対し、有安名のそれは30石〜50石と、異常に大きな名主であった。この体制は庄園が消滅する永正末年まで続いた。このような有力名主の存在を語る資料として、字馬場の教円寺付近に残る鎌倉様式を示す巨大な宝篋印塔や室町期の大型五輪塔があげられる。また、同地の言代神社は、もと八所宮権現と称された。これは忍頂寺の鎮守と同名であり、仁和寺に連なるものである。このことは有安名主の居住地も自ら憶測されるものであり、これらの事実は仁和寺の庄園下当時の動きに関連するのであろう。馬場の地名もこの八所社に関わる地名であろう。
 さて、城であるが、佐保の元村と称する字庄ノ本集落の東に、北から延びてきた尾根が一度低下し、その先端から隆起して佐保川に向けて押し出した標高198メートルの小丘を利用して築かれている。主軸をほぼ東西におく長さ80メートル、幅30メートル位の楕円形をした単郭式の城で、北西の尾根に続く部分は幅20メートル位に切り開かれて、付近に「堀切」の地名を残している。この部分が、比高8メートル位と最も低く他は20〜30メートル位の急傾斜で囲まれている。
 城への入口は、山の西際に居住の山の持ち主でもある庄田氏宅の北側に開いている。村道から少し登った処に小郭があり、その南端から郭内への登り道が出ている。小郭の北側にも堀切状のものが北に造られている。道は少し登ると等高線に沿って幅が少し広くなり帯郭状になった部分を経て急坂が曲折して郭の東南に取り付いている。
 これとは別に曲折した道の途中から石を乱雑に積まれた部分を通って郭の南西側中央に造られた長さ7メートル、幅3メートル位の小平地に通ずる道があり、これが本来の郭の入口であろう。この地点には巨石が4個直線に並んでいるが、これは岩石節理の露出を郭壁に利用しているようである。
 郭内北側は、高さ1.5メートル位の土塁が構えられている。土塁は地点によって規模に変化が見られ、北西部分の規模が最も大きくなっている。これは比高の最も低い部分に対する配慮であろう。
 北の一角には矢倉台と見られる部分があり、その地点で土塁が一部切れているが、外部への道は見られない。それより東寄りに前記矢倉台と対になるあたりに土塁が郭内に突出した部分があり、塁もその岐点で高くなっている。
 郭の西北縁辺に径2メートル、深さ1メートルの円形土拡がみられ、狼煙の跡と思われる。郭内には人頭大の河原石がかなりみられるが、何れも浮いて存在する。外郭設備とし、東南側の土塁から7メートル程下った地点に南北に長さ30メートルの堀切が造られている。
 ほかに北側堀切に接して二段に小平地が造られ、上の段に一ヵ所、下段に二ヵ所の円形陥没が見られる。しかし構築の目的等は不明で、下段の一基は、かなり深く掘られているが、湧水の可能性の薄い地点であるので、井戸とは見られず、新しい掘削のようでもある。城地には矢竹が密生しているが、植栽された可能性がある。矢竹は当地方では、集落付近のみという片寄った分布が見られる。
 築城は、地域守備を目的としたものであろうが、狼煙らしいものの存在から、ある時期には他地域との連合体制にあったことも考えられる。佐保川対岸にも小城郭様の地形が見られ、一連の城として佐保川沿いの旧道を守っていたものとも考えられる。
 築城の時期、築城者に関しては全く伝えるところは無いが、築かれた場所が地名からみて、庄の政所の所在地と見られ、中世庄官の流れをくむとみられる佐保氏の居住地でもあることから、一応、佐保氏が関係した城砦と憶測するものである。時期は今のところ不明である。佐保氏に関しては史料を欠くが、豊後竹田の中川家文書中、山﨑合戦部分の記事中に(佐保喜兵衛)の名が見られるのと、市内千提寺のキリシタン墓碑銘に佐保カララ上野マリアの名が残るのみである。ちなみに「上野」は、「カミノ」で、佐保の別称である。余事ながら、これは千提寺のキリシタン史料を解く鍵の一つと考えている。
--------------------------------------------(資料3おわり)---

同じ資料から、佐保栗栖山砦についてです。
※わがまち茨木(城郭編)P73【執筆者】免山 篤

---(資料4)--------------------------------------------
佐保栗栖山城縄張図(わがまち茨木より)
『摂津志』に「佐保砦」とあるものである。佐保盆地の南を画する山脈が、佐保川によって切断された東側の突端、標高184メートルの来栖山頂に築かれた連郭式の城屋敷と称す。東西200メートル、南北100メートルの範囲に遺構を残している。尾根続きの東を除く三方は急斜面で囲まれた要害の地である。
 城への通路は佐保から福井に通ずる旧道より分かれて佐保川の枝流大谷川を渡って東方へ尾根沿いの道が通じている。いま一本、国見街道より尾根筋が東から通じ、途中郭の手前60メートル位の処に、長さ25メートルにわたって幅約0.5メートルの土橋が造られ通行を制限している。これを過ぎて少し進んだところで佐保の谷からの道と合流して郭の入口に至る
 虎口には、左右に竪堀が延びてその間に幅1メートル位の土橋が造られている。入口正面に比高4メートル、上面の径14メートル位の見張台状の小郭があり北側のみ土塁を構えてこれを第一郭とする。道はこの郭の南裾を通って次の第二郭へと通じている。
 二郭は、本丸に当たる第三郭との間に位置する30メートル四方位の不整円形をしたもので、当城で最も広い面積を占めている。郭内南東部には浅い5メートル四方位の凹地があり、その北に小さな土拡が2基見られる。
 二郭より一郭への通路は、現在一郭の西南に登り道があり、一郭の西に少し下って小平地が造られていることから、当時の入口は、そのあたりかも知れない。二郭の南に比高4.5メートル位の径18メートル不整五角形をした一郭がある。これが中心郭で、第三郭とする。南西に小平地を伴っている。三郭の西に長さ12メートル、幅8メートル位の郭があり、第四郭とする。北側に土塁を構え土塁の三郭裾への取付部から北に向かって竪堀が延びている。南側の東端、次の第五郭との境に長さ5メートル、高さ1.5メートル位の石積みが見られる。三郭の南には二郭と同じ高さで10メートル × 20メートル位の第五郭が造られ、第二郭とは小径によって結ばれている。
 郭の中央から南に向かって排水溝のような設備が地表に現存する。この二・五の両郭が生活の場と考えられ、土坑等はそれに関係するものであろう。
 四郭の西には少し高くなって長さ20メートル位の細長い郭があり、東半分には巨石の露出が多く見られるが、人工的な石の移動は見られない。これを第六郭とする。この郭も西に小平地を伴っている。六郭の西には6メートル程下って約6メートル四方位の小郭が造られ、これが城地の西端である。
 城の北側に井戸ヶ谷と称する谷があり、以前八角形の石積み井戸が残っていたと伝えられるが、現在埋没してみることができない。城の内外には土拡の存在を示す陥没地が多く見られるが、性格は不明である。山の持主、北浦照之氏の話しでは、手痕の付いた土器を拾ったことがあると云うことである。
 この城は佐保の入口を扼し、国見街道にも通じ、地の利を得ているのであるが、築城の時期、築城者については、全く史料を欠いている。戦国頃の築城と考えられるが、今後の調査に期待する。しかし、小規模ながら、完全に当初の地形をとどめた城砦として貴重な存在である。(後略)
--------------------------------------------(資料4おわり)---

最後に、佐保栗栖山砦の発掘調査報告書から、必要部分を抜粋したものを以下に示しておきたいと思います。以下は「第3章 調査の概要」「第7章 総括」「付章 佐保栗栖山砦の縄張りと遺構」からです。
※佐保佐保栗栖山砦跡- 国際公園都市特定土地区画整理事業に伴う調査報告書 -:2000年11月

---(資料5)--------------------------------------------
佐保栗栖山城の現在(撮影2023.4.2)
◎佐保栗栖山砦跡は文献にその名前を残さない城跡であるが、この尾根には不自然な平坦面があり、調査以前から砦跡(山城)の存在が知られていた。(中略)曲輪1の平坦面から疎石建物が検出され、その北側と東側には土塁2がある。建物の礎石や床面は火熱を受けており、火災を被ったことが確認された。また、建物に使用されたと考えられる焼けた土壁も多量に出土している。(後略)
※第3章 調査の概要より

佐保栗栖山砦は「砦」と呼称するよりも「山城」と言うべき規模を有するものであることが明らかとなった。また、全面発掘調査により、郭同士の連絡機能が明確になり、様々な工夫がみられる注目すべき貴重な調査例となった。
◎佐保栗栖山砦の存続期間:出土遺物からは15世紀末から16世紀中葉までの期間が考えられ、出入口1の構造、各石積の使用状況、礎石建物、瓦の不使用から、現状の構造となって、放棄されたのが16世紀中葉の新段階であると考えられる。礎石建物や斜面の石積は短期的な存続を考えたものではなく、また、遺構の変遷も確認されたところから、15世紀末或いは16世紀前葉に築城され、16世紀中葉に破却されるという存続期間を推定する。
◎築城主体について:当砦跡は大規模な山城ではないが、在地集落在住者である小領主が築いた城としては規模の大きさや構造面から考えにくい。もう少し強力な権力が介在したと考えるべきではないかと思われる。村落に密着した在地支配の拠点として築城されたのではなく、何らかの軍事緊張に伴って築城されたことが推定される。近くには佐保城がありながらも異なったこの場所に栗栖山砦を築城している。その意義は大きいものであろう。
 但し、変遷で述べたように曲輪1を中心とした小規模の単郭山城であった古段階の時期を想定するならば、小領主、土豪の城郭として当初は機能していたことも考えておかねばならない。
◎最後に:以上のように佐保栗栖山砦跡は戦国期に拡がった防御技術を各所に積極的に活用していることがわかった。中世山城は築城主体・戦闘方法・社会情勢などの変化の中で、城自体にも様々な機能が求められ、それに応じて構造と共に著しく多様化を遂げていった。佐保栗栖山砦跡も半世紀に近い存続の中で様々な変化をしたことが明らかになった。(中略)
 佐保栗栖山砦跡の遺構・遺物から築城主体の権力構造の特色を導き出し、地域史・在地構造を分析し、さらに、一国以上の規模からもその存在について検討しなければならないのだが、充分な検討をするところまでには至らなかった。
※第7章 総括 第1節 佐保栗栖山砦跡の調査成果より

佐保栗栖山城(撮影2023.4.2)
◎佐保栗栖山砦跡以前の調査成果:砦跡の曲輪8の谷筋斜面から炭窯と考えられる窯が2基、曲輪3の南辺斜面から焼土坑が1基検出された。いずれも砦跡の下層から検出されており、砦の時期以前の遺構であることが確認された。出土遺物はごく少量であるが、10世紀に相当する土器が出土しており、これらの遺構の時期にあてることができるものと考えられる。(中略)佐保栗栖山砦跡の位置に10世紀には、人の行動が及んでいたことが明らかになった。
※第7章 総括 第2節 佐保栗栖山砦跡以前の調査成果より

◎佐保栗栖山砦は開発によって消滅することになったが、徹底的な発掘調査のおかげで多くの知見を我々に残してくれた。それは土木技術面から縄張り・立地に関わるものまで多岐にわたっている。
 そのうち全国的にも始めて確認されたと思われる曲輪造成技術に関わる事実は、曲輪11下面の地山刻み込みである。開発覚悟の全掘方針ではあっても、普通はここまでしないという最後のダメ押しの発掘で、私は現物を見る機会がなかったが、写真を送って頂いて驚いた。(中略)古代では珍しくないが、中世城郭では希である。
 (前略)同じ形は大和の十市氏関連の多武峰城塞群や穴師山などにある。(中略)十市氏の例をそのまま適用するのは難しいが、応用はできる。ヒントは、外側土塁が南側にはあるが北側にはない、という点である。(中略)だから南側だけ外側土塁の手法を採用したわけである。このような理屈に手慣れた様子は、1560年代前半の十市氏と同じレベルとみてよい。縄張りの編年作業に使える事例である。(中略)だとすると、規模こそ違え、姫路城二の丸の三国堀に相当する。曲輪1の西端の迫り出しの厳しさも、この関係で説明しやすくなる。(中略)
 そのころの本城は眼下の道を監視する軍事機能しか持たない閉鎖的な砦だったと思われる。それが改修されて、曲輪2が造成され(=堀が埋められ)、前述のような虎口と進入ルートの工夫がなされ、道との関係を積極的に追求するような性格の城に変質したのである。外と出入りする、開くということと、外と戦う、閉ざすということとの矛盾を解決するために、虎口の工夫がなされるのである。(中略)通路8の幅の広さも注目に値する。かなりの重要人物がこの通路を上下したに違いない。(中略)近世城郭では、こういう位置の曲輪は人質曲輪と呼ばれることがある。中世城郭では人質曲輪の確認例はない。それどころか人質曲輪のような機能を限定することが妥当かどうか疑問視されている。曲輪5の出土遺物の特徴からすると貯蔵庫の可能性があるようだ。(中略)
 このことから本城全体の性格を問うと、人質曲輪の可能性のある謎の曲輪5を秘匿=重用することを任務の一つに負わされて、改修されたのではないだろうか。
 本城は周辺との地理的な関係から見ると、高山氏が淀川筋に進出する際の繋ぎ城の可能性が高いが、それも細川・三好・松永等上部権力との関わり無しには考えられない。複雑な畿内政治に組み込まれる中で、特異な縄張りが必要になったのであろう。
※付章 佐保栗栖山砦の縄張りと遺構より
--------------------------------------------(資料5おわり)---

といっところが、現在のところの文献資料です。これらに加え、現地の観察から個人的に考えた(感じた)ことを以下にまとめてみたいと思います。

気になるのは、小盆地を囲む山地に城跡があることです。佐保・栗栖山城は、南北に走る亀岡街道の脇に立地し、監視・封鎖の用途としても機能していた思われますが、南西に伸びる盆地の端には岩坂村があります。この開口部にも手を打たなければ封鎖の意味が無くなり、筒抜けになってしまいます。
 岩坂村から粟生村方面への山道が伸び、両村は代々関係性が深いようです。中世末期から近世にかけての資料でも粟生村との関連性の親密さを感じさせます。現在の地名は「粟生岩阪(大阪府茨木市)」で、やはり伝統を踏襲しています。
 但し、岩坂村に隣接して神合(じごう)村があり、こちらは、佐保村に連なる関係であったようです。行政上の村切りかもしれません。とても複雑です。『大阪府の地名1』によると、1605年(慶長10)摂津国絵図には「五ヶ庄内谷」として「■■(梅原か)・屋上村・神合村・免山村・庄本村・馬場村」がみえ、近世初期に五ヶ庄と称された北摂山間諸村の南辺に位置した。とあります。
 さて、岩坂村についての推定ですが、岩坂村が粟生村と親密である状況が、中世にも続いていたなら、粟生の出先としての岩坂村だったのかもしれません。少々距離があるのは気になりますが...。
明治42年頃の佐保地域の様子

 時代により状況も色々で、敵になったり味方になったりすると思いますが、現地で聞いてみると、それぞれは親密な交流が続いていた訳でもないようです。ですので、共同体という意識も無く、敵味方に分かれる事も多々あったと思われます。

【佐保城について】
既述の『わがまち茨木(城郭編)』にて、免山氏は、「築城は、地域守備を目的としたものであろうが、狼煙らしいものの存在から、ある時期には他地域との連合体制にあったことも考えられる。佐保川対岸にも小城郭様の地形が見られ、一連の城として佐保川沿いの旧道を守っていたものとも考えられる。
 築城の時期、築城者に関しては全く伝えるところは無いが、築かれた場所が地名からみて、庄の政所の所在地と見られ、中世庄官の流れをくむとみられる佐保氏の居住地でもあることから、一応、佐保氏が関係した城砦と憶測するものである。」と述べています。
 また、免山(めざん)・梅原の集落もこれを構成する一部であったと様にも見え、免山集落から城への道も複数本通じており、連動性があるように思われます。加えて、時期は不明ながら、発掘調査を踏まえると最初は小規模な関連施設的に栗栖山砦を連動させていたのかもしれません。
 そしてまた、城の眼下を通る亀岡街道は、何度も折れながら進みます。これは天然の「当て曲げ」でもあり、城の設備では「横矢掛かり」のような環境ができあがっています。軍事的緊張の高まりの折、ここを通り抜けるには相当な威圧になると思われます。真っ直ぐには進めませんし、両側に城の施設があります。

【村内に存在する別の権力】
現代社会でもある事ですが、基礎自治体の域内に上位行政体管轄の道(国道)が通っていたり、地勢上から上位行政体の機関が常駐する事務所(河川管理など)あったりします。
 これと同じく、中世にもそのような状況はあったと思われます。もちろん、その機能を引き受けることのできる体制であれば、城そのものも大きくなったり、中心政権内でも深く関わる氏族となって、それなりの大きな組織体となることでしょう。
 しかし、それができない状況では、上位権力の出先施設を置いて、運用すると言うことも当然ながら、あったでしょう。この佐保村の場合、村の統治機構の中(政所やそこから派生した地域の豪族)、その領域に、中央政権の城(栗栖山城)が存在したのではないでしょうか。
 それは、細川氏や三好政権あたりにそれが必要となり、その後の中央政権支配領域拡大(統治機構の変化)により、その役割りを終えたといった流れになる気もします。(元々の佐保と有安名という別の権力体(機構)が、時の状況により変質したのかもしれません。)その時期は、ちょうど16世紀中葉あたりで、荒木村重の統治する頃は、城郭形態も変化して、必要があれば有岡城など拠点城に人質は収容できるようになっていきます。
 この視点は、今のところ想像の域を出ませんが...。

【馬場村】
佐保地域の歴史的背景は、今のところ、不明な事が多いながらも解明の手がかりとして、有安名(みょう)があります。庄園時代は、佐保村と佐保村有安名で統治され、佐保村の年貢高8石余に対し、30石〜50石もある有安名が存在し、異常に大きな名主として注目されています。この体制は庄園が消滅する永正末年まで続いたと考えられています。
 これについて、既述の『わがまち茨木(城郭編)』にて、免山氏は、「このような有力名主の存在を語る資料として、字馬場の教円寺付近に残る鎌倉様式を示す巨大な宝篋印塔や室町期の大型五輪塔があげられる。また、同地の言代神社は、もと八所宮権現と称された。これは忍頂寺の鎮守と同名であり、仁和寺に連なるものである。このことは有安名主の居住地も自ら憶測されるものであり、これらの事実は仁和寺の庄園下当時の動きに関連するのであろう。馬場の地名もこの八所社に関わる地名であろう。」と述べられています。
 この経緯からすると、馬場村が、有安名主の居住地であり、このあたりは在地(免山・梅原など)とは少し経緯の違う地域となっていたようです。「馬場村」自体は他の周辺集落より大きめの規模で、且つ、集落の大きさに比べると寺の大きさが目を惹きます。加えて村の立地は要害性もあります。

佐保の盆地右奥は栗栖山城

【佐保栗栖山城】
小土豪では保ち得ない規模と構造、土木・造作技術、立地であることから別の上部権力体の城として存在していたのではないでしょうか。
 この位置なら、小規模で不十分な施設ならば守るのが難しいように思われますが、盆地全体の掌握のためには、最適化された施設とされたように思われ、同時に、旧来の亀岡街道の監視に加えて、清阪街道の監視・掌握も同時に行える規模に拡大・強化されているように思われます。
 旧政権から幕府に移管された芥川山城のように、この栗栖山城も同じような経緯があったのではないでしょうか。こちらは、直下に亀岡街道も監視でき、粟生方面等とも繋がる複数の間道のロータリー構造とも言える、盆地を掌握して街道全体を押さえる目的もあったように思われます。
 永禄11年秋以降、ここを和田・高山氏が強行に領したことで、周辺の敵対勢力は不利、または、一掃されて、追われた者が池田方に助けを求めに来たと伝わる伝承は、こういった状況から生まれているのではないかと思われます。

【白井河原合戦との関係】
亀岡街道を北に進めば、能勢・余野方面と繋がっており、ここの通行を確保(敵にとっては阻止)する必要性があり、要地である佐保は、手を打つ必要があると思われます。ですから、幕府方であった施設を池田勢が落とした。それは勝ち戦の勢いに乗って、8月28日当日に行われたと考えられます。これは、敵方のシンボルを破壊するという、政治・軍事的に大きな出来事であったかもしれません。地域の「開放(奪還)」といったような、強いメッセージにもなった事でしょう。
 佐保栗栖山城の発掘調査では、曲輪1の建物が火災を受けたとの見解が示されており、何らかの関連誌があるのかもしれません。火災は13から成る曲輪で、1ヵ所のみの検出で、全体から検出されるものでは無いので、「自焼」的な跡なのかもしれません。
 一方で、佐保栗栖山城の陥落は、それ以前の可能性もありますが、今のところ勝ち戦の勢いに乗って城を落としたと考える方が、自然だろうと思います。在地の佐保城の状況については、現在のところ不明です。

【白井河原合戦後の佐保栗栖山城】
前述により、佐保栗栖山城が、別の権力体によるもので、白井河原合戦に勝利した三好三人衆方池田勢が、同城を落としたと、仮定します。
 それが達成されると、亀岡街道を北上し、泉原村を経て余野へ。そして、その隣は犬甘野、亀岡への通路が開けます。途中の「余野」は街道の交差点で、東西南北どちらへも進むことができるロータリー交差点的立地です。いわゆる要衝です。
 そしてこの余野には、地名を冠した余野氏が居り、同氏は池田氏と姻戚関係にあります。佐保の交通障害が無くなった事で、丹波国方面から茨木城方面までの連絡と通交が可能となりました。
 佐保栗栖山砦跡発掘調査報告書内で想定されていた、「高山氏が淀川筋に進出する際の繋ぎの城の可能性が高い」とは、少々距離があり過ぎる上に、尾根筋・谷筋の一本道が無く、何度も山と谷を越える道となります。
 栗栖山城の関連性を考えるなら、亀岡街道上の要所を見た方が自然であろうと思えます。また、元亀2年(1571)当時の状況として、幕府方和田惟政の与力であった高山氏は芥川山城を、同様に栗栖山城も役割りを担っていたのではないかと思われます。
 芥川山城は丹波方面への備えですので、亀岡街道を有する栗栖山城も同じような役割りがあったのではないでしょうか。そういう意味では、丹波方面への街道の分岐点であった福井城も非常に重要な役割を担った筈で、『日本城郭全集』で述べられている「佐保川左岸に福井城があったので、おそらく戦国の頃、両城砦いずれも、興廃を共にしたものだろう。」とは、概ね言い得ているようにも思えます。
 さて、白井河原合戦で壊滅的な敗北をしてしまった和田方は、多くの人材を失い、高槻の本城を残して、多数の拠点も失っています。背後の山地支配も大きく後退しています。
 これにより、高槻城は北や西から常に狙われる事となり、支配地が小さくなった事で、敵の動きも事前に知ることが難しくなったとも思われます。丹波への街道を押さえることは非常に重要で、軍事・政治・経済活動のためには、それが統治の必要要素だったともいえます。
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このように、今回の訪城で不明の闇に少々の光が見えるようになると、また別の要素にも考えが及びます。佐保城の用途・機能を考えるなら街道沿いに、いくつかの更なる施設も必要になるように思え、南條集落方面を見通すための監視所、梅原集落を守るためのいくつかの拠点もあったのではないかと思われます。

永年、保留状態であった佐保城についての思索は、今回の訪城で一気に進み、大変有意義でした。訪城をお誘いいただき、ありがとうございました。

【補足記事】
『佐保佐保栗栖山砦跡- 国際公園都市特定土地区画整理事業に伴う調査報告書 -』にある「人質」「曲輪1(のみ)の火災跡」について考える


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