2019年8月24日土曜日

此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察(瑞光山 本養寺(大阪府池田市)について)

日蓮宗(法華)の特徴は、主に町屋と町衆を布教対象としていたため、周辺地域の拠点的特徴も持っていた池田に、日蓮宗の布教拠点(寺院)があったのも、それは自然なことと言えるのかもしれません。以下、池田の本養寺について、ご紹介します。
※大阪府の地名1(平凡社)P316

(資料2)--------------------
瑞光山 本養寺(2001年頃撮影)
【本養寺(現池田市綾羽2丁目)】
日蓮宗。瑞光山と号し、本尊は十界大曼荼羅。応永年中(1394-1428)の創建と伝え、寺蔵の近衛様御殿御由緒によると、関白近衛道嗣の子で、京都本圀寺の第5世日伝の嫡弟玉洞妙院日秀の創建という。当寺諸記録によると、室町時代には「近衛様御寺」とよばれ、江戸時代には6代将軍徳川家宣の御台所煕子(天英院)が、近衛基煕の女であることから、将軍家より寺領が寄進され、また煕子の妹功徳池院脩子を妃とした閑院宮直仁親王からも上田一反余を寄進されている。
 元禄4年(1691)から同8年にかけて檀越大和屋一統の援助により再建された。現在の堂宇はその時のもの。本堂安置の応永8年銘の日蓮像は、後小松天皇の帰依があったという。境内に日蓮が鎌倉松葉谷で開眼供養をしたと伝える鬼子母神を祀る鬼子母神堂、大和屋一族で酒造家西大和屋の主人でもあり、安政2年(1855)に「山陵考略」を著した山川正宣の墓がある。
 なお、当寺は「呉春の寺」と俗称されるが、天明2年(1782)文人画家で池田画壇に大きな影響を与えた四条派祖松村月渓が寄寓、呉羽の里で春を迎えた事により、呉春と改名した事に由来する。
--------------------(資料2おわり)

また、池田での『穴織宮拾要記 末』による伝承では、荒木村重が池田城を畳み、本拠機能を伊丹へ移したときに、本養寺も伊丹へ移したとしています。しかし、場所など伊丹での実態状況が不明です。江戸時代に再び池田へ戻ったとされるまでの間はよくわかっていません。
 町衆と深く結びつく宗教で、歴史も永く、池田では大きな寺院でもあったことから、本拠を移すにあたって行動を伴にすることは、何ら不自然ではありません。
 ちなみに、法華宗も日蓮宗も日蓮上人を宗祖としています。本山の違いがあって、宗派が別れています。時代を経る中で、考え方の違いで派生していきました。元々は法華宗と呼ばれていたようです。

また、天正3年頃に池田から伊丹へ本拠機能を移した時の伝承記錄に、本養寺のことが記述されています。『町並調査報告書』など、いくつかの資料からの引用です。
※(1)北摂池田 -町並調査報告書-(池田市教育委員会 1979年3月発行)P32(『穴織宮拾要記 末』)、(2)荒木村重史料(伊丹史料叢書4)P136(『穴織宮拾要記 本』)

(資料3)-----------------------
(1)しかし荒木村重は間もなく、本養寺・大広寺を伊丹へ移し、町人も「城之用聞五軒伊丹へ引き」「池田之城をたたみ百姓二歩せ」(以上『末』)、本拠を伊丹へ移した。
(2)一、今ノ本養寺屋敷ハ池田ノ城伊丹へ引さるさき家老池田民部屋敷也。(中略)一、大広寺・本養寺二箇寺伊丹へ引跡二も小寺建置、旦那ノ内身体よろしき人死候時ハ伊丹へ和尚呼二行也。本養寺ハ元円住坊山二有、留守坊主ノ名円住坊と云候故、今畠ノ字円住坊山と云、伊丹崩候後池田二二ヶ寺被帰候。秀吉公・秀頼公之御時より池田ハ御代官所成ル、片桐市正御預り牧治右衛門池田支配ノ時、右之屋敷本養寺へ寄付せられ候。町人も城之用聞五軒伊丹へ引、又帰り候
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このような伝承記錄があるのですが、伊丹市側では本養寺のこの動きについて把握されてされておらず、詳細は不明です。場所なども判っていません。もしかすると伊丹にある日蓮宗滋霔山 本泉寺に何らかの関係があるのかもしれませんが、それも不明です。






◎参考記事:摂津国河辺郡の大尭山長遠寺(現尼崎市)を再建した甲賀谷正長は、摂津池田の出身者か!?

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