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2013年7月8日月曜日

三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その1:三好筑前守政長(宗三)について)

堺市の善長寺にある三好政長の墓
この記事については、最近(2015年11月)に、戦国遺文(三好氏編3)が発刊された事で、以下の時点よりも目にする史料が増えましたので、近日に追って修正をしたいと思いますので、少々お待ち下さい。

 三好為三を知ろうと思えば、一世代前から見る必要がありそうです。その父(為三が政勝と同一との前提)にあたる越前守政長入道宗三についてみておきたいと思います。

やらなければいけない事なのですが、系図関連はあまり取り組めておらず、私が把握しているのは、宗三には少なくとも3人の子がおり、1人は娘で、2人は男子。その娘が摂津国池田家当主の筑後守信正に嫁いでいるようです。
 2人の男子の内、兄が下野守を名乗り、弟が右衛門大夫で宗三跡職、つまり家督を継いでいます。
 ですから、池田信正にとって宗三の2人の男子は義理の兄弟になるわけです。

それから、私は享禄2年(1529)あたりから池田勝正について調べていますので、それ以前は、残念ながら今のところご紹介できません。政長の出自などは、他のサイトなどをご参照頂ければと思います。すいません。

という事で、私の守備範囲の中から、今回のテーマに関係する三好政長についての出来事を抜き出してみたいと思います。

◎天文13年 5月9日
三好政長、嫡子新三郎政勝へ家督を譲る。政長は隠居して入道となり「宗三」と名乗る。
◎天文17年 8月12日
三好宗三、同族三好長慶により非行を訴えられる。
◎天文18年 6月24日
三好宗三戦死。嫡子政勝は摂津国榎並城へ籠り生き延びる。

この内、大変注目される史料が天文17年8月12日の史料です。三好筑前守長慶が、細川右京大夫晴元奉行人塀和道祐・波々伯部左衛門尉・高畠伊豆守・田井源介長次・平井丹後守へ宛てた音信です。以下、その内容をご紹介してみます。

-史料(1)------------------------------------------
急度申せしめ候。仍て同名越前守入道宗三(政長)礼■次、恣に御屋形様の御前を申し掠め諸人悩まし懸け、悪行尽期無きに依り、既に度々於、上様御気遣い成られ次第淵底御存知の条、申し分るに能わず候や。都鄙静謐に及ぶべく仕立て之無く、各於併て面目失い段候。今度池田内輪存分事、前筑後守(信正)覚悟、悪事段々、是非に及ばず候。然りと雖も一座御赦免成られ、程無く生涯為され儀、皆々迷惑せしめ候処、家督事相違無く仰せ付けられ太松(長正か。不明な池田一族。)、条々跡目の儀、安堵せしめ候き。然る所彼の様体者三好宗三相拘い渡し置かず、今度種々儀以って、城中(池田)へ執り入り、同名親類に対し一言の■及ばず、諸蔵の家財贓物相注以って、早や知行等迄進退候事驚き存じ候。此の如く時者、池田家儀我が物にせしむべく為、三好宗三掠め上げ申し儀、筑後守信正生害せしめ段、現行の儀候。歎き申すべく覚悟以って、三好宗三一味族追い退け、惣同名与力被官相談じ、城中堅固の旨申す事、将亦三好宗三父子に対し候て、子細無く共親(外舅)にて候上、相■彼れ是れ以って申し尽し難く候。然りと雖も万事堪忍せしめ、然るに自り彼の心中引き立て■■の儀、馳走せしむべく歟と、結局扶助致し随分其の意に成り来り■■今度河内国の儀も、最前彼の身を請け、粉骨致すべく旨深重に申し談、木本(木ノ本?)に三好右衛門大夫政勝在陣せしめ、彼の陣を引き破り、自ら放火致して罷り退き候事、外聞後難顧みず、拙身(三好長慶)を相果たすべく造意、侍上げ於者、言語道断の働き候。所詮三好宗三・政勝父子を御成敗成られ、皆出頭致し、世上静謐候様に、近江守護六角弾正少弼定頼為御意見預るべく旨、摂津・丹波国年寄衆(大身の国人衆)、一味の儀以って、相心得申すべくの由候。御分別成られ、然るべく様御取り合い、祝着為すべく候。恐々謹言、としている。
※■=欠字部分。
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天文17年5月、摂津国池田家当主の池田筑後守信正が、管領細川晴元に切腹させられます。その後宗三は、舅である事を理由に、池田家の領知を同意を得ないまま処分したり、財産を自分のモノにするなどしている事を三好長慶は訴えています。宗三の目に余る非行を池田家から調停を懇請されたようです。
 長慶は、宗三が池田家中の知行・財産を掠め取っていると強い口調で非難してしています。また、池田家中に宗三の親類・宗三派が居り、内訌に陥っているとも伝えています。

兎に角、この事件からは、宗三の人間性を窺う事も出来、非常に興味深い史料です。 

また、この事を裏付ける史料が見られます。参考のため、ご紹介します。欠年11月27日付け、細川晴元方三好之虎(義賢)、摂津国人池田信正衆同名正村など(四人衆)宿所へ宛てた音信です。
※豊中市史(史料編2)P512、箕面市史(史料編6)P437

-史料(2)------------------------------------------
阿波国御屋形様科所摂津国垂水事、先年平井丹後守方と三好政長(宗三)以って調え、相渡され候へき。然るところ、近年また押領候て然るべからず候間、御代官職事、最前平井対馬守方従り仰せ付けられ候条、速やかに渡し置かれ候様、孫八郎殿(池田四人衆が推す当主)へ御異見肝要候。なお、加地又五郎申すべく候。
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更にもう一つ。上記の関連史料です。欠年11月30日付け、細川晴元方某(姓名不明盛■)が、摂津国人池田信正衆同名基好など(四人衆)宿所へ宛てた音信。
※箕面市史(史料編6)P437

-史料(3)------------------------------------------
摂津国垂水儀、此 御屋形様料所筋目を以って、先年三好宗三と平井丹後守方以って調え、相渡され候事候。然るところ、重ねて御押領然るべからず候。御代官職事、先々自り平井対馬守方仰せ付けられ候条渡し置かれ候。なお、御異見候者喜悦為すべくの由、書状以って申され候。別して御気遣い仕るべく候 。
※■=欠字部分。
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政長が善長寺の創建に関わる
このような状態であったにもかかわらず細川晴元は処置をせず、宗三への加担をやめなかったために三好長慶は、父親の代から仕えていた晴元から離れる事を決意します。
 天文18年に長慶と宗三は衝突し、宗三は摂津国江口城で戦死してしまいます。代替りした嫡子政勝は落ち延びます。

次は、この一連の関係の中での池田筑後守宗田について、取り上げようと思います。