史料が少いのですが、池田家政の画期の一つ、また、荒木村重の出自の一部が明確になる人物としても、池田長正の事跡を追うことは非常に重要です。
この長正という人物は、池田勝正の先代であり、池田家の波瀾万丈の悲劇の中心人物であった当主池田信正の次の代にあたります。
この信正の死後、池田家中は分裂し、信正の創設した「四人衆」なる、いわば官僚(家老)と、跡目を自称する当主長正(本人)とが対立し、それぞれに惣領を立てて、並行します。
これには、非常に複雑な経緯があり、ここでは一旦割愛して、後日に詳しくご紹介します。
この争いが、非常に激しく行われ、池田長正は池田城には、起居できなくなり、一旦外に出ていたと思われます。また、自己の権力を形成する基盤も無くなって、細川晴元権力、いわば外来権力の後ろ盾を必要とする時期が一定期間あったはずです。若年であった事も大きな理由です。
しかし、その池田長正が、池田四人衆との争いに競り勝ち、最終的に惣領の名乗りである「筑後守」を音信に署名しています。これは、勝手にやっている事では無いと思われます。四人衆との和解を経て、惣領を自他共に認められている証拠だと考えられます。
その史料と言うのは、今のところ一点のみです。欠年11月25日付、山田彦太夫に宛てた音信です。これは、能勢のM氏所蔵文書です。
※戦国の動乱と池田氏(池田市制施行50周年記念)P17
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先年以来相詰め届け之儀、祝着候。罷り出でられ候共、人数等割り入れるべく、必ず越されるべく候。然るに於いては忠節之筋目相違有るべからず候。恐々謹言。
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恐々謹言の書留ですが、目下に軍事動員をかけているような内容です。これは、余程の関係性があっての事だと思います。
これまでは、宛先の山田彦太夫が、どこの「山田」なのかわからなかったのですが、近年の私の要素の蓄積により、能勢のM氏が所蔵している理由は、彦太夫が能勢の住人である可能性が高いと考えるようになりました。これは、確定度合いが高いと考えておりますし、それを証明するための他の史料も探しながら、後日にそれらを明らかにしたいと思います。能勢方面には、山田という集落がありますし、そこには比較的規模の大きな「山田城」もありました。もしかすると、余野との関係性も長正の代で醸成されている可能性も高いです。
上記の史料は、欠年で、今のところ永禄4年(1561)と考えてはいますが、もう少し前の可能性もあります。
内容的に、軍事動員ですが、能勢周辺の至近とは限らず、長正が軍事動員を割と大規模にしなければいけなかった時期。または、能勢周辺でそのような必要性があった時期。長正が、ある程度、権力を帯びていた時期。などなど。
因みに、池田長正は、永禄6年(1563)2月に死亡しています。この年は、時代の変わり目のような年廻りで、3月に、前右京大夫(管領)細川晴元が死亡、8月に三好長慶の一人息子義興、12月に右京大夫(現職)が死亡しています。あまりにも重要要素が重なり過ぎており、疫病の蔓延があったのではないかと考えられます。
この池田長正の死後、速やかに惣領の継承が行われ、池田勝正が惣領となります。しかし、勝正も直ぐには「筑後守」を名乗らず、試用期間があった可能性もあります。と言うのも、勝正の惣領就任は、池田四人衆の承認の下で行われ、その権力下にあった可能性もあります。