2025年6月25日水曜日

新出の「織田信長から細川六郎(昭元)へ宛てられた朱印状」が発行された、摂津池田家と細川六郎と三好為三の動き

永禄7年の三好長慶没後、まだ若年だった後継者義継を支える目的で、「三好三人衆」なる家中の有力者が官僚機構を中心として家を支える方策を打ち出しました。それまでにも、内政機関のようなものは、あったようですが、長慶の巨大な存在感と求心力を維持するために、特に意識して組織されたようです。
 当初は、そこに松永久秀も加わっていましたが、思いの違いから、三好一族衆と久秀の外様衆の闘争に発展します。
 外敵に備えるどころか、内部抗争に陥ってしまい、敵の付け入る隙を与えてしまいます。時が経ち、その抗争で劣勢に立たされた久秀勢は、外部勢力と手を組むようになります。これまでの敵であった勢力とも交わるようになり、争いはドロ沼化してしまいます。

さて、そんな「三好三人衆」と言われる一団にも変遷があり、当初は、三好長逸、石成友通、三好下野守であったのが、永禄12年5月に、下野守が死亡したことにより、その弟である為三が補充される事となったようです。
 しかし、その頃には三好家そのものも衰退の徴候が現れ、且つ、織田信長が戴く将軍義昭の京都中央政権が勢いを増していた時期でした。
 もはや三好家は団結の中心ではなく、集団の一翼的な立場になってしまいました。ブランド力を維持しているだけの集団です。そんな後期三好三人衆とも呼ぶべくその中に、三好為三は兄の後継者として、名を連ねていたようです。
 それ知る史料として、元亀元年8月2日のものと思われる、三好三人衆方三好日向守入道宗功(長逸)石成主税助長信・塩田若狭守長隆・奈良但馬守入道宗保・加地権介久勝・三好一任斎為三が、山城国大山崎惣中へ宛てた音信があります。
※島本町史(史料編)P435

---史料(1)------------------------
当所制札の儀申され候。何れも停止の条、之進めず候。前々御制札旨、聊かも相違在るべからずの間、其の意を得られるべく候。恐々謹言。
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大山崎の摂津・山城国境(2014年撮影)
しかし、そこに署名している人々は、3名以上で、名のある人物も見られますが、「三人衆」の枠内ではあるものの、集団に象徴的、また、強権保持者はいなくなりつつあったのかもしれません。三好方の当主は、あくまで河内半国守護に任ぜられた三好義継で、義継は幕府方の立場でした。
 一方で「三好三人衆」という集団は、比較的長期の活動実績もある事から広域に認知されてもおり、この集団の知名度を利用していた事も、この時期に認められるように思います。連名に見られる、奈良氏は奉行人のような立場の人物で、過去の文書履歴を管理して、新たな体制内で間違いの無い判断ができるように、重要な相手にはアピールの意味もあって、このような構成になっているのかもしれません。
 その他、後期三好三人衆によると思われる史料がありますので、ご紹介しておきます。今のところ、元亀元年4月22日の史料と推定され、石成友通と三好為三が、大和西大寺の関係者へ宛てて音信した史料です。大和国はこの時に敵対していた松永久秀の根拠地でもあります。
※戦国遺文(三好氏編2)P259

---史料(2)------------------------
◎石成主税助友通が、大和国西大寺綱維房へ宛てて音信(返報)
此の表在陣之儀に就き、御音信為御折紙殊に御巻数並びに鳥目弐拾疋語御意懸けられ候。御懇ろ儀畏み入り候。将亦其の表手遣い之刻、御寺中並びに在所之儀、疎略存ずべからず。恐々謹言。
◎三好一任斎為三が、大和国西大寺同宿中へ宛てて音信
御音信為巻数並びに鳥目20疋御意懸けられ候。御懇之至り畏み入り候。積もり参らせ御札申し入れるべく候。猶御使者へ申し候。恐々謹言。
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摂津国野田城跡(2013年撮影)
三好為三は既述の通り、三好下野守の跡を継ぐべく補充されたと考えられます。兄の下野守と管領格の細川六郎(昭元)とは直結した最側近の関係性でした。加えて、「三好三人衆」という三好家の政治中枢でもありました。

三好三人衆という組織の代替わりは、その主体を見失っていたと、その歴史から知ることができます。家を支える視点から離れ、個々人の利益のための「三好三人衆」ブランドの利用に陥ります。
 元々、この三好為三という人物は、その父である三好越前守政長(宗三)の遺志を継ぎ、「摂津池田家の財産は自分のものだ。」との主張を生涯に渡って続けています。
 この三好為三については、このブログで過去記事がありますので、そちらをご覧下さい。

三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その4:三好右衛門大夫政勝(為三)について)
https://ike-katsu.blogspot.com/2013/08/4.html

さて、そんな三好三人衆方の状況を知ってか、知らずか、織田信長はそ中の立場ある人物に調略を仕掛けます。それが、元亀元年8月付、織田信長による細川六郎宛の朱印状でした。
※泰厳歴史美術館蔵 元亀元年8月付、細川六郎宛の織田信長朱印状

---史料(3)------------------------
条目
一、池田当知行分并前々与力申談候
  但此内貮万石別ニ及理、同寺社本所奉公衆領知方、除之事。
一、播州之儀、赤松下野守、別所知行分、并寺社本所奉公衆領知方、除之、
  其躰之儀、申談事。
一、四国以御調略於一途者可被加御異見之事
  右参ヶ条聊不可有相違之状、如件。
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この時、準備が調わなかったのか、状況許さず、六郎は直ぐに動きませんでしたが、しかし、その配下の中心的人物である、三好為三が香西佳清などを伴って、将軍義昭・織田信長方に投降します。
※改訂 信長公記(新人物往来社)P109、細川両家記(群書類従20:合戦部)P636、多聞院日記2(増補 続史料大成)P206、言継卿記4-P441など

---史料(4)------------------------
『細川両家記』元亀元年条:
(前略)一、同8月30日に三好下野守の舎弟為三入道は信長へ降参して野田より出、御所様へ出仕申され候なり。
『信長公記』野田福島御陣の事条:
(前略)8月28日夜に、三好為三香西、摂津国天王寺へ参らせられ候。
『言継卿記』8月29日条:明日武家摂津国へ御動座云々。奉公衆・公家衆、御迎え為御上洛、御成り次第責めるべくの士云々。三好為三(300計り)降参の由風聞。
『多聞院日記』9月1日条:
(前略)三好為三香西以下帰参云々。実否如何。
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続いて、三好為三の重臣(馬廻り?)と思われる三木某などが、幕府方に投降します。
※言継卿記4-P442

---史料(5)------------------------
敵方自り三木■■■、麦井勘衛門両人、一昨日(9月1日)松永山城守久秀手へ出云々。
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これは、史料(3)にある「池田当知行分、并せて前々与力申し談じ候。」に相当する動きであろうと考えられます。六郎の一団の関係者へ包括的に恩賞を用意し(唆す)、調略を実行していたのでしょう。故に、先に六郎の取り巻きから続々と投降したと考えられます。
 この深刻な事態を受け、三好三人衆の筆頭構成員である三好長逸が、池田城から野田・福島方面へ入ります。
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P636

---史料(6)------------------------
元亀元年条:
一、同9月3日に三好日向守長逸、同息兵庫介も摂津国池田より出、同国福嶋へ入城由候也。
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この重要情報を得たのか、幕府方和田惟政は、池田領内の市場を打ち廻るなどして、攻撃をしています。連絡線を絶つ目的があったのでしょう。
※言継卿記4-P443

---史料(7)------------------------
9月9日条:
池田衆取り出で、摂津国川辺郡伊丹へ取り懸かり、伊丹兵庫助忠親取り出で、同和田伊賀守惟政出合い、池田へ迎え入り、市場焼き云々。
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三好為三など、敵勢力(組織)中枢の人物が投降した事により、その内部情報が、幕府・織田信長方に漏れてしまいました。そのためと思われますが、その約2週間後、幕府・織田勢は、野田・福島城の三好勢に対して総攻撃を行いました。
 しかし、それを機に、大坂本願寺が三好方として大挙加勢し、攻守の形勢が逆転してしまいます。幕府・織田勢は、京都を守備するために退却を余儀無くされました。

これは、広域に見ると、反幕府・織田勢力が、京都周辺で一斉に反撃を始め、京都を占領すべく動き始めた狼煙でもありました。

三好為三などは早速、軍事動員され、比叡山へも参陣しています。しかし、状況不利となり、信長は戦略的手段を用いて朝廷を動かし、朝倉・浅井・本願寺・三好など諸勢と和睦を結びます。元亀元年も暮れる、12月の事です。

この和睦が成立した事で、本願寺門主光佐は、細川六郎へ年末年始の音信を行っています。池田郷土史学会会員の荒木幹雄氏によると、両者は姻戚関係(義理の兄弟)であったようです。
 さて、細川六郎(後に右京大夫昭元)について、宣教師ルイス・フロイスは次のように記しています。
※耶蘇会日本通信(下)P232

---史料(8)------------------------
1573年4月20日(元亀4年3月19日)付、都発、パードレ・ルイス・フロイスよりパードレ・フランシスコ・カブラルに贈りし書簡:
(前略)細川殿(昭元)御屋形は公方様に次いで日本の重立ちたる領主なるが、攻囲の中に6ヶ月間中島の城に在り、之を囲めるは三人衆、霜台三好殿及び大坂の坊主並びに多勢の兵にして、城内には御屋形の家中重立ちたる武士のキリシタン2人在りき。城は決して武力を以て陥すこと能わず、屢(次)戦争あり双方共に常に士卒を亡いたり。終いに悉く通路を断ち飢餓に依りて之を陥落せしめたるが、細川殿は信長遠方に居り之を救うこと能わざりしが故に士卒と共に堺に赴きたり。
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とあります。フロイスは、キリスト教の布教にあたり、権力構造やそれに関わる人物について、分析を行っており、それらの立場ある人物を教化する事で、更に情報も入手するという構図を作り上げていました。
 ですので、フロイスのこの記述も、概ね当時の認識を忠実に記していると考えられます。本願寺光佐と昭元は、義理の兄弟ではありますが、このように「攻守」全く逆の立場に身を置く事もありました。

元亀2年頃から幕府・織田勢と三好・本願寺など反幕府勢は再び交戦を始めます。この6月頃から幕府勢は、三好方であった池田衆を積極的に攻めたため、三好三人衆方であった池田衆は劣勢に立たされます。
 しかし、池田衆は起死回生の決戦を宿河原(白井河原)に挑み、見事に大勝利を得、敵大将の和田惟政とその重臣を多数を討ち捕るという、壊滅的な損害を与えます。惟政は、幕府の中枢を担う人物でもあり、その勢力を失う事で再び京都陥落の危険性が高まりました。この大合戦は、8月28日に行われ、その余波たる小競り合いは、同年11月頃まで続いています。

再び三好方が京都周辺で勢いを増した事から朝倉・浅井勢は、六角勢も加わって、比叡山方面まで迫ります。信長は、この窮地に朝倉・浅井を匿う比叡山を焼き討つという強行手段を取ります。この前年の同じ時期にも同様の行動があり、三度同じ事を繰り返さないという措置でもありました。門跡といえども、朝廷の意向にに随わない者は、武力行使を厭わない姿勢を内外に示しました。
 この間、白井河原合戦に勝利した池田衆は、支配領域を拡げ、歴代最大の版図を得るに至り、政治主導者の交替時の習わしである「摂津国豊嶋郡所々散在」へ宛てた禁制を下します。
摂津国箕面寺岩本坊(2022年撮影)
 三好三人衆方摂津国池田三人衆と見られる池田十郎次郎正朝・荒木信濃守村重・池田紀伊守正秀が、摂津国豊嶋郡中所々散在に宛てて禁制を下しています。
※箕面市史(資料編2)P411

---史料(9)------------------------
摂津国箕面寺山林自り所々散在盗み取り由候。言語道断曲事候。宗田(故池田筑後守信正)御時筋目以って彼の寺へ制札出され間、向後堅く停止せしむべく旨候。若し此の旨背き輩之在り於者、則ち成敗加えられるべく由候也。仍件の如し。
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このように、幕府・織田勢が窮地に立つ中、細川六郎は、三好方から離れて投降します。続いて、三好三人衆の中心人物である石成友通も投降します。それは元亀3年1月のことでした。
※兼見卿記:第一(続群書類従完成会)P24

---史料(10)------------------------
17日条:
細川六郎(昭元)出頭也。見物了ぬ。騎馬薬師(寺)三宅香西三騎也。馬廻り打籠也。七百計り之在り。祗侯の砌、官途右京大夫、又名乗り御字遣わされ、秋(昭)元云々。
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細川六郎が投降すると、直ぐ「右京大夫」を叙任し、正式な管領の地位に就きます。また、将軍義昭から偏諱を受けて「昭元」と名乗ります。

元亀3年3月24日、細川昭元は、石成友通を伴い、京都二条妙覚寺の織田信長に参候します。
※改訂 信長公記(新人物往来社)P123

---史料(11)------------------------
むしゃの小路御普請の事条:
3月24日、(中略)細川六郎殿石成主税助始めて、今度、信長公へ御礼仰せられ、御在洛候なり。今般大坂門跡より万里江山の一軸、並びに、白天目、信長公へ進上なり。
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同じ頃、甲斐守護武田信玄の周旋により、織田信長と本願寺との和睦もなされています。史料(11)にある、「今般大坂門跡より万里江山の一軸、並びに、白天目、信長公へ進上なり。」とは、こういった本願寺方との和睦が成った事と、昭元が光佐と義理の兄弟であったという関係もあったためでしょう。

その後、今度は将軍義昭と織田信長の不和が深刻化してしまいます。(元亀3年)5月13日付、将軍義昭の武田信玄への内書を経て、信玄が反織田信長方松永久秀側近岡国高へ音信した内容から、将軍は信長の打倒を決意していたものとみられます。
 当時の通信事情から考えて、リアルタイムの意思疎通は不可能ですが、合意形成は既に整っていたと考えられます。
※戦国遺文(三好氏編3)P42

---史料(12)------------------------
珍札披見快然候。如来の意、今度遠江国・三河国へ発向、過半本意に属し候。御心安かるべく候。抑て公方様(将軍義昭)織田信長に対され御遺恨重畳故、御追伐為、御色立てられ之由候条、此の時無二の忠功励まれるべく事肝要候。公儀御威光以て武田信玄も上洛せしめ者、異于に他申し談ずべく候。仍て寒野川弓(十三張)到来、珍重候。委曲附しと彼の口上候之間、具さに能わず候。恐々謹言。
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この頃になると、三好三人衆は、本国阿波・讃岐・淡路国方面の外へ出る程の余裕がなくなり、内部抗争などを伴って、弱体化していきます。
 そのため、将軍が反信長勢を糾合し始めると、そちらへ靡く勢力が現れ、求心力は将軍義昭方向へ向かい始めます。
 将軍と織田信長は、互いに反目しながら、名だたる人物の取り合いになっていました。その過程で、摂津池田衆もその影響を受けて、どちら側に加担するのかで内部で争い始めます。他の国人、例えば塩川氏などでも同じ状況でした。
 そして、管領昭元も両陣営から誘いを受けていました。この流れで、将軍側近であった明智光秀や細川藤孝なども信長の傘下に入ったりしています。
摂津国中嶋城跡(2006年撮影)
 昭元は、どうも信長についたようで、記述の史料(8)にあるように、非常に苦しい場面でも、持ち場を守り抜く姿勢を示しています。昭元は、若年であった事や時代性もあって、その伝統的権威に陰りもみられ、経済基盤も弱かった事もそこに至る一因でした。そのため、先ずはその足がかりとなる中嶋(城)の持ち場を守る事に注力したのかもしれません。
 この余談を許さない状況の中で、政治・経済の中心となる中央政権(将軍義昭・織田信長)が分裂したために、細川昭元傘下として寝返った三好為三にとっても、判断の難しい局面に陥りました。
 元々、将軍義昭政権下で交渉はしていたものの、為三の要求が非現実的で莫大であったため、折り合いがつかずに、交渉が纏まらなかったようです。

年が明けた元亀4年、早々から将軍義昭と織田信長は、もはや武力衝突不可避となり、両陣営は、その準備を急ぎました。
 この流れで、摂津池田家中も分裂となり、池田一族衆は幕府方へ、荒木村重一党は織田方へ加担する事となって、袂を分かちます。
 2月になると。両陣営は動きを活発化させ、将軍義昭の拠点である京都二条城へ続々と友軍が集結し、幕府方池田衆も2000騎を率いて入城しました。
※耶蘇会士日本通信(下)P248

---史料(13)------------------------
1573年4月20日(元亀4年3月19日)付、都発、パードレ・ルイス・フロイスよりパードレ・フランシスコ・カブラルに贈りし書簡:
ジョアン(内藤如安)の都に着きたる日、池田殿兵士2000人を率いて公方様を訪問せり。此の兵士の到着に依り都は少しく鎮静せり。
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同月26日、摂津国中嶋城が落ち、ここを守っていた細川昭元と典厩家(管領家の分家)の細川藤賢は、堺に逃れました。
※織田信長文書の研究(上)P611

---史料(14)------------------------
猶以て朱印遣わし候はんかた候者、承るべく候。只今丹波国人内藤方への折紙之遣わし候。さてもさても此の如く体たらく不慮の次第に候。今般聞こ召し直され候へば、天下再興候歟。毎事御油断有るべからず候。替わる趣きも候者、追々承るべく候。京都の模様其の外具さに承り候。満足せしめ候。今度松井友閑・嶋田秀満を以て御理り申し半ばに候。之依り条々仰せ下さりに付きて、何れも御請け申し候。然ら者奉公衆の内聞き分けざる仁体、質物之事下され候様にと申し候。此の内に其方之名をも書き付け候。其の意を得られるべく候。此の一儀相済まず候者、其の上意に随うべく、何れも以て背き難く候間、領掌仕り候。此の上者信長不届きにて、之有るべからず候。此方隙き開き候間、不図(ふと)上洛を遂げ、存分に属すべく候。其の方無二之御覚悟、連々等閑無く入魂せしめ処、相見え候。荒木(信濃守)村重池田其の外何れも此の方に対して疎略無く、一味の衆へ才覚肝要に候。恐々謹言。
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しかし、この中嶋城は、信長方により、直ぐに取り戻されたようです。ここは水運の要であり、非常に重要な場所でもありました。非常に長い音信なので、細川昭元(中嶋城)関連を抜粋します。
※織田信長文書の研究(上)P614

---史料(15)------------------------
五畿内・同京都之体、一々行き届け候。度々御精に入れられ候段、寔に以て満足せしめ候。(中略)一、中嶋之儀、去る27日(2/27)に退城之由、さてもさても惜しき事に候。公方所為(せい)故に候。右京兆(細川昭元)御心中察しせしめ候。質物(人質)出しに付きては進上候て尤も候。(中略)一、中嶋之事、執々(とりどり)承りに及び候処、堅固之由尤も候。則ち書状以て申し候間、御届け専用に候。然ら者、鉄砲玉薬・兵糧以下之儀者、金子百枚・二百枚程の事余に安き事に候。上洛之刻、猶以て其の擬(検討をつける)仕るべく候。弥々荒木(信濃守)村重と相談有り、御馳走専一候。(後略)
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4月、遂に両者は衝突し、信長勢は洛中・洛外を大規模に放火します。これに将軍義昭方はなす術もなく、同月7日に和睦が成立します。そして、京都へ入る予定であった武田信玄が、同12日、進軍途中で死亡してしまいます。
 この事は、当時の通信事情から、また、京都周辺を封鎖している事もあり、信玄の死亡は、直ぐに将軍の元には届かず、将軍に加担する勢力との協働を計るべく、二条城防備を更に強化するなどしています。

山城国槙島城跡(2009年撮影)
7月5日、二条城を側近の三淵藤英に守らせ、将軍自らは山城国宇治郡槙島城に入って、再度の挙兵を行います。しかしながら、長くは続かず、同月18日、将軍が信長に降伏し、京都から追放となります。信長は間髪入れず、槙島城に細川昭元を入れ、周辺の残党を一掃するべく、拠点とします。
※改訂 信長公記(新人物往来社)P142

---史料(16)------------------------
真木島にて御降参、公方様御牢人の事条:
7月18日巳の刻、両口一度に、其の手其の手を争い、中島へ西へ向かって噇っと打ち渡され候。(中略)真木島には信長より細川六郎(右京大夫昭元)を入れ置き申され、諸勢南方表打ち出し、在々所々焼き払う。
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この掃討作戦で、将軍義昭方となって戦っていた、元三好三人衆の一人、石成友通は、山城国の淀城にて戦いましたが戦死しています。7月27から29日頃の事とされています。
※改訂 信長公記(新人物往来社)P143

---史料(17)------------------------
岩成討ち果たされ候事条:
去る程に、公方様より仰せ付けられ、淀の城に、岩成主税頭・番頭大炊頭・諏訪飛騨守両3人楯籠り候。羽柴筑前守秀吉、調略を以て、番頭大炊・諏訪飛騨守両人を引き付け、御忠節仕るべき旨、御請け申す。然る間、長岡兵部大輔藤孝に仰せ付けられ、淀へ手遣い候ところ、岩成主税頭、城中を懸け出で候。則ち、両人として、たて出だし候。切って廻り候を、長岡兵部大輔臣下、下津権内と申す者、組討ちに頸を取り近江国高嶋へ持参候て、頸を御目に懸け、高名比類無きの旨、御感じなされ、忝くも、召されたる御道服を下され、面目の至り、冥加の次第也。何方も御存分に属せらる。
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7月28日、元号が「天正」と改まり、ひとつの時代は終わり、新たな時代の幕開けを迎えました。

 

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<元亀元年から元亀4年までの動き> =================

◎元亀元年 --------------------
4/22 反幕府・織田信長方三好三人衆派石成友通、大和国西大寺綱維房へ宛てて音信(返信)
※戦国遺文(三好氏編2)P259

4/22 反幕府・織田信長方三好三人衆派三好為三、大和国西大寺同宿中へ宛てて音信
※戦国遺文(三好氏編2)P259

4/28 越前国金ヶ崎からの撤退戦始まる
※改訂 信長公記(新人物往来社)P103

5/上 織田信長、五畿内の主立った武家から人質を取る
※改訂 信長公記(新人物往来社)P102

6/9 将軍義昭一族同苗藤賢、某(幕府関係者)へ音信
※新修 茨木市史(通史2)P28、戦国摂津の下剋上(高山右近と中川清秀)P153 

6/18 幕府衆細川藤孝など、畿内御家人中へ宛てて音信
※大日本史料10-4-P525(武徳編年集成)、朝倉義景のすべてP66

6/18 摂津池田城内で内訌が起こる
※言継卿記4-P424、多聞院日記2(増補 続史料大成)P194、細川両家記(群書類従20:合戦部)P634

6/19 反幕府・織田信長方摂津池田衆、三好三人衆方へ使者を派遣
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P634

6/26 反幕府・織田信長方三好三人衆三好長逸・石成友通など、摂津国池田へ入城との風聞が立つ
※言継卿記4-P425

6/26 摂津守護池田筑後守勝正、将軍義昭に面会
※言継卿記4-P425

6/27 将軍義昭、近江国出陣を延期(中止)
※言継卿記4-P425

6/28 摂津守護和田惟政、小曽根春日社に宛てて禁制を下す(直状形式)
※豊中市史(史料編1)P121

7 反幕府・織田信長方三好三人衆派池田民部丞、山城国大山崎惣中へ禁制を下す(直状形式)
※島本町史(史料編)P443

7/5 反幕府・織田信長方三好三人衆派池田某、池田家の家督を相続?
※大日本史料10-4-P522(荒木略記)、池田町史P137

7/21 反幕府・織田信長方三好三人衆勢、摂津国中嶋へ上陸
※足利義昭(人物叢書)P168、言継卿記4-P432、近世公家社会の研究P23

7/27 反幕府・織田信長方三好三人衆三好長逸、摂津国欠郡天満森方面へ入る
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P634、陰徳太平記4(東洋書院)P54

8/2 反幕府・織田信長方三好三人衆三好為三など、禁制発給について山城国大山崎惣中へ宛てて音信
※島本町史(史料編)P435、戦国遺文(三好氏編2)P261

8/3 幕府衆細川藤賢(典厩)、摂津国人野部(辺)弥次郎へ音信
※新修 茨木市史(通史2)P29

8/13 摂津守護伊丹忠親、反幕府・織田信長方三好三人衆派池田勢等と摂津国猪名寺附近で交戦
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P634、陰徳太平記4(東洋書院)P54

8/25 摂津国豊島郡原田城が焼ける
※言継卿記4-P440

8/27 摂津守護池田勝正、摂津国欠郡天満森へ着陣
※ビブリア53号P155(二條宴乗記)、言継卿記4-P440、陰徳太平記4-P54

8/28 反幕府・織田信長方三好三人衆三好為三など、幕府・織田信長方に投降
※改訂 信長公記(新人物往来社)P109、細川両家記(群書類従20:合戦部)P636、多聞院日記2(増補 続史料大成)P206、言継卿記4-P441

9 反幕府・織田信長方三好三人衆派池田民部丞、摂津国多田院に禁制を下す (直状形式)
※川西市史(資料編1)P456

9/1 阿波足利家擁立派三好三人衆方三木某など、幕府・織田信長方松永久秀に投降
※言継卿記4-P442

9/3 将軍義昭、摂津国欠郡中嶋へ着陣
※ビブリア52号P157+62号P66(二條宴乗記)、細川両家記(群書類従20:合戦部)P636、改訂 信長公記(新人物往来社)P109、言継卿記4-P442

9/3 反幕府・織田信長方三好三人衆三好長逸など、摂津池田城を出て摂津野田・福島城へ入る
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P636、戦国歴代細川氏の研究P383

9/8 摂津守護伊丹忠親・和田惟政勢、反幕府・織田信長方三好三人衆派池田領内の市場などを打ち廻る
※言継卿記4-P443、高槻市史1-P738

9/12 幕府・織田信長勢、摂津国野田・福島城の総攻撃を行う
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P637、改訂 信長公記(新人物往来社)P109

9/20 織田信長、三好為三へ摂津国豊島郡の知行について音信(朱印状)
※池田市史(史料編1)P28、織田信長文書の研究-上-P417、戦国遺文(三好氏編2)P267

9/23 幕府・織田信長勢、摂津国方面から撤退
※言継卿記4-P448、細川両家記(群書類従20:合戦部)P638、改訂 信長公記(新人物往来社)P112

9/25 幕府・織田信長(為三含む)勢、比叡山の麓へ陣を取る
※改訂 信長公記(新人物往来社)P113

11 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津池田知正衆中川清秀、池田周辺諸城を攻める?
※伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P92

11/5 反幕府・織田信長方三好三人衆派池田民部丞、摂津国箕面寺に禁制を下す(直状形式)
※箕面市史(資料編2)P414

12/8 幕府・織田信長、三好三人衆方の和睦を成立させる
※ビブリア53号P164(二條宴乗記)、戦国期歴代細川氏の研究P128

12/25 反幕府・織田信長方本願寺光佐、細川六郎(昭元)に音信
※本願寺日記-下-P595

12/27 反幕府・織田信長方本願寺光佐、細川六郎(昭元)に音信
※本願寺日記-下-P596


◎元亀2年 --------------------
1/16 反幕府・織田信長方本願寺光佐、細川昭元へ音信
※本願寺日記-下-P596

1/16 反幕府・織田信長方本願寺光佐、細川昭元へ音信
※本願寺日記-下-P596

2/5 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津国人池田正秀荒木弥介石成友通、堺商人天王寺屋宗及の茶席に出席
※茶道古典全集8-P160

3/19 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津国人池田正秀、堺商人天王寺屋宗及の茶席に招かれる
※茶道古典全集8-P160

6/4 織田信長、幕府衆細川藤賢(典厩)の知行地について細川藤孝へ音信
※織田信長文書の研究-上-P458

6/中 摂津守護和田惟政、摂津国豊嶋郡原田城を落とす
※言継卿記4-P502、豊中市史(史料編1)P121

6/10 摂津守護和田惟政、摂津国吹田城を落とす
※言継卿記4-P502、高山右近(人物叢書)P29

6/12 織田信長、将軍義昭側近細川藤孝へ音信
※織田信長文書の研究-上-P459

6/16 織田信長、幕府衆明智光秀に三好為三の処遇について音信
※大阪編年史1-P406、織田信長文書の研究-上-P392、改訂 信長公記(新人物往来社)P109

6/23 摂津守護和田惟政、摂津国豊嶋郡牛頭天王へ宛てて禁制を下す
※豊中市史(史料編1)P122、高槻市史1-P739+3(史料編1)P432

6/24 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津国池田衆、摂津国有馬湯山年寄中へ宛てて音信
※兵庫県史(史料編・中世1)P503、池田市史1-P662

7/2 反幕府・織田信長方本願寺光佐、同細川昭元へ音信
※本願寺日記-下-P598

7/下 摂津守護池田勝正・幕府衆細川藤孝勢、摂津国池田城を攻める
※池田市史1-P668、吹田市史2-P10

7/26 幕府衆三淵藤英、摂津国豊島郡春日社目代に宛てて音信
※豊中市史(史料編1)P123

7/31 将軍義昭、三好為三に所領安堵の御内書を下す
※大日本史料10-6-P685、明智光秀(人物叢書)P61

8/2 摂津守護池田勝正、摂津国原田城へ入る
※池田市史1(史料編1)P82、大日本史料10編之6-P701(元亀2年記)、戦国期歴代細川氏の研究P223

8/18 摂津守護和田惟政・同伊丹忠親勢、反幕府・織田信長方三好三人衆勢と摂津国内で交戦
※高槻市史3(史料編1)P433、陰徳太平記3-P268

8/22 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津国池田勢、兵を率いて出陣
※耶蘇会士日本通信-下-P137、フロイス日本史4(中央公論社:普及版)P268

8/28 摂津国白井河原合戦
※高槻市史3(史料編1)P433+438、多聞院日記2(増補 続史料大成)P256、言継卿記4-P523、耶蘇会士日本通信-下-P137、フロイス日本史4(中央公論社:普及版)P268、陰徳太平記3-P268、ビブリア54号-P39(二條宴乗記)、大日本史料10-6(尋憲記)、中川史料集P15

9/1 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津国池田勢、摂津国茨木城とその領内を攻撃
※伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P144、陰徳太平記3-P270、中川史料集P21

9/5 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津国池田勢、摂津国高槻城を攻める
※中川史料集P22

9/6 反幕府・織田信長方三好三人衆派池田勢、戦闘に敗北
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P257

9/9 摂津国高槻の攻防について交渉が整い、一時的に停戦となる
※大日本史料10-6(尋憲記)、高槻市史3(史料編1)P439

10 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津国池田家内の中川清秀、摂津国欠郡新庄城へ入る
※よみがえる茨木城P17+67+130

10/21 織田信長、三好一任斎為三へ音信
※泰厳歴史美術館所蔵資料 2025年4月12日報道の新出史料

11/8 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津国池田三人衆、摂津国豊島郡中所々散在へ宛てて禁制を下す
※箕面市史(資料編2)P411、伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P17

12/13 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津国人池田正行、奈良春日大社南郷目代今西橘五郎へ音信
※春日大社南郷目代今西家文書P456、豊中市史(史料編1)P128

12/17 細川昭元、幕府へ出仕
※兼見卿記:第一(続群書類従完成会)P24


◎元亀3年 --------------------
1/26 織田信長、石成友通へ音信(朱印状)
※織田信長文書の研究(補遺・索引)P127、戦国遺文(三好氏編3)P22

3 織田信長、幕府方甲斐守護武田信玄の仲介により本願寺と和睦
※御坊市史1(通史編)P478、本願寺(井上鋭夫)P222

3/14 反織田信長方三好三人衆派摂津池田三人衆荒木村重、京都吉田神社神官吉田兼見からの音信を受ける
※兼見卿記:第一(続群書類従完成会)P37、伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P41

3/24 細川昭元、織田信長へ参侯
※改訂 信長公記(新人物往来社)P123、戦国史研究76号-P13

4/13 幕府方摂津国中嶋城細川昭元、反幕府・織田信長方三好義継と和睦
※明智光秀(人物叢書)P92

4/14 反幕府・織田信長方本願寺坊官下間正秀、近江国北部十ヶ寺惣衆中へ宛てて音信
※近江国古文書志1(東浅井郡編)P89、戦国遺文(三好氏編3)P30、本願寺教団史料(京都・滋賀編)P247

4/16 摂津守護池田勝正勢、河内国交野方面へ出陣
※兼見卿記:第一(続群書類従完成会)P38、改訂 信長公記(新人物往来社)P124

4/18 反幕府・織田信長方本願寺坊官下間正秀、近江国北部十ヶ寺衆惣中へ宛てて音信(返信)
※近江国古文書志1(東浅井郡編)P90、戦国遺文(三好氏編3)P31、本願寺教団史料(京都・滋賀編)P248

5/10 反織田信長方将軍義昭派本願寺坊官下間正秀、近江国十ヶ寺惣衆中へ宛てて音信
※近江国古文書志1(東浅井郡編)P90

6/2 幕府方将軍義昭派細川昭元、讃岐国人香西玄蕃助某へ音信
※瀬戸内海地域社会と織田権力P208

6/12 反織田信長方三好三人衆派荒木村重、摂津国豊嶋郡春日社南郷目代今西宮内少輔へ音信
※豊中市史(史料編1)P125、伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P13

8/25 幕府方細川昭元、美濃国常在寺へ音信
※岐阜県史(史料編:古代・中世編1)P60

8/28 反織田信長方将軍義昭派本願寺勢、幕府方織田信長派摂津国中嶋城を攻める
※中川史料集P14、戦国期歴代細川氏の研究P128、元亀信長戦記P53

9/2 反織田信長方将軍義昭派本願寺光佐、細川昭元に音信
※本願寺日記-下-P602

10/7 反織田信長方将軍義昭派三好三人衆方三好為三、上御宿所へ宛てて音信
※箕面市史(史料編6)P438

10/13 反織田信長方将軍義昭派三好三人衆方三好為三、聞咲(所属不明)へ音信
※大阪編年史1-P459、戦国遺文(三好氏編2)P272

11/6 将軍義昭、同側近上野秀政へ池田民部丞召しだしについて内書を下す
※高知県史(古代中世史料)P652

11/13 織田信長、細川昭元衆薬師寺弥太郎へ音信(朱印状)
※織田信長文書の研究-上-P585

11/19 織田信長衆木下秀吉、将軍義昭側近曾我助乗へ音信
※兵庫県史(史料編・中世9)P432、豊臣秀吉文書1-P16、細川家文書(中世編)P151

12/10 将軍義昭、側近一色藤長へ細川典厩藤賢について内書を下す
※福井県史(資料編2)P686

12/20 反織田信長方三好三人衆・三好義継・松永久秀・本願寺勢など、摂津国中嶋城を攻撃
※大阪編年史1-P492


◎元亀4年 --------------------
2 織田信長方摂津国人荒木村重、佐久間信盛などへ使者を遣わす
※陰徳太平記4(東洋書院)P134

2/15 摂津池田衆など将軍義昭勢、京都二条城へ集結
※亀岡市史(資料編1) P1168、耶蘇会士日本通信-下-P248、永禄以来年代記(続群書類従29-下)P268

2/23 織田信長、荒木村重の「無二之忠節」の約束に喜ぶ
※織田信長文書の研究-上-P606、兵庫県史(史料編・中世9) P432、伊丹史料叢書4(荒木村重史料)P23

2/26 織田信長、摂津池田衆荒木村重の扱いについて細川藤孝に音信
※織田信長文書の研究-上-P611、綿考輯録1-P65

2/27 摂津国中島城が落ち、細川昭元が堺へ逃れる
※細川両家記(群書類従20号:武家部)P639、耶蘇会士日本通信-下-P232、織田信長文書の研究-上-P614

3/7 織田信長、摂津国中嶋城について細川藤孝に音信
※亀岡市史(資料編2)P1168、織田信長文書の研究-上-P614、兵庫県史(史料編・中世9)P434、伊丹史料叢書4(荒木村重史料)P24

3/11 足利義昭方池田衆、京都八条へ陣を取る
※戦国期室町幕府と在地領主P298、大日本史料10-14(東寺執行日記)P246

3/12 将軍義昭方池田衆及び内藤如安忠俊、兵を率いて将軍義昭へ参侯
亀岡市史(資料編1)P1171、耶蘇会士日本通信-下-P248、イエズス会日本報告集(第3期第4巻)P198、フロイス日本史(中央公論社刊)4-P290

3/13 足利義昭方池田衆、京都八条方面で東寺衆と陣取りを巡って喧嘩
※東寺執行日記3(思文閣出版)P173、耶蘇会士日本通信-下-P249「註」、フロイス日本史(中央公論社刊)4-P292

3/14 将軍義昭、摂津国人池田遠江守某へ内書を下す
※高知県史(古代中世史料)P651

3/27 織田信長派荒木村重・細川藤孝、近江国逢阪で織田信長を迎える
※フロイス日本史(中央公論社刊初版)4-P299、イエズス会日本報告集(第3期第4巻)P206、陰徳太平記4-P134

3/27 将軍義昭、兵を城に入れて防備を固める
耶蘇会士日本通信-下-P259(異年年代記抄節)、イエズス会日本報告集(第3期第4巻)P205

3/29 織田信長派荒木村重、細川藤孝と共に織田信長と知恩院で会見
※改訂 信長公記(新人物往来社)P 137、耶蘇会士日本通信-下-P262、イエズス会日本報告集(第3期第4巻)P206

4/4 将軍義昭方本願寺光佐から越前守護朝倉義景への音信に池田遠江守が登場
※本願寺日記-下-P611

4/7 将軍義昭・織田信長の和睦が成立する
※大日本史料10-15-P81、福井県史(資料編2)P726、図説丹波八木の歴史2(古代・中世編)P169

4/27 織田信長衆林秀貞など、将軍義昭方奉行人池田清貪斎正秀などへ起請文を提出
※織田信長文書の研究-上-P629、足利義昭(人物叢書)P207

4/28 将軍義昭方池田清貪斎正秀など、織田信長衆塙(原田)直政などへ起請文を提出
※織田信長文書の研究-上-P630、足利義昭(人物叢書)P207

7/5 将軍義昭、織田信長に対して再度挙兵
※改訂 信長公記(新人物往来社)P139、長岡京市史(資料編2)P650

7/18 将軍義昭、織田信長に降伏
※ビブリア54号(二條宴乗記)P59、改訂 信長公記(新人物往来社)P141、信長記-上(現代思潮新社)P172

7/20 織田信長方細川昭元、山城国槙島城へ入る
※改訂 信長公記(新人物往来社)P142、信長記-上(現代思潮新社)P174

7/20 織田信長方細川昭元、山城国槙島城へ入る

※改訂 信長公記(新人物往来社)P142、信長記-上(現代思潮新社)P174

7/27 足利義昭方石成友通、戦死
※改訂 信長公記(新人物往来社)P143、足利義昭(人物叢書)P219

8 荒木村重、摂津国一職を約される?
※織田政権の基礎構造(織豊政権の分析1)P109、陰徳太平記4(東洋書院)P135

8/4 足利義昭方池田某自刃?
※池田市史(資料編1)P82、伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P134、陰徳太平記4(東洋書院)P135

 ================= <年表おわり>

 

2025年6月14日土曜日

山の尾根を割り、防御施設にしているかもしれない痕跡

赤色立体地図を見ていると、尾根の形状で気になる所が多々あります。尾根を割って歩きづらくしているような形状があります。地質がそのようになっていて、風雨で自然に崩れたのかとも考えたのですが、それだと周辺でも起こる筈ですが、特にそれに似たような状況も見当たらない。
 一方で、後世に人為的に治水や地山の為にこのような改変を行ったかとも考えたのですが、それにしては不自然な形状が多い。水の流れに逆らうような作りも多く見られます。

 

五月山南側にある痕跡(大阪府池田市畑)

五月山南側にある痕跡(大阪府池田市五月丘)

五月山北側にある痕跡(大阪府池田市木部町)


  • この尾根を割ったような形状は、守備要点付近でみられる。
  • 普請が複数で、巨大である。(もしかして、信長が池田を本陣とした時のものあるか。)
  • 自然的に崩れる場合は、もう少し階調的になるのではないか。


色々見る内に、これらも人為的に作られたもので、障害物として機能させる目的があったと考えて、守備普請の一部とみています。目的は、

  • 数本ある進行ルートの一つを潰す。
  • 一番広い尾根を割る。
  • 比較的勾配が緩く、人が多数で通過できそうなところを潰す。
  • 堀底道のようにして守る。


といった事を思いつきます。

一方で、自然地形としてあり得る場合もあります。また、何らかの目的を持って、人工的に普請した可能性もあります。
 これらの要素が見分けられないところがあって、何か思いつく事がありましたら、ご存知の方にご教示いただければと思います。以下、疑問に思う点をまとめます。

  1. 他で、このような例はご存知ですか?(生駒山でもありますが少ない。)
  2. 添付のファイルにあるような地形は、自然的に起こり得るか。
  3. 地山や治水などの目的で後世に人工的に作られた可能性はあるか。(だとすれば、形状がイビツ)
    ※人工的に作られたものが、経年変化でそうなったかも知れないが...。
  4. つづら折れの道が、経年変化で崩れた。


もし、これらが城の防御機能としての可能性があるのなら、これもまた、城郭分野では新たな視点になり得るように思います。どうぞ宜しくお願い致します。

【追伸】
「備陽史探訪の会」 田口会長様に上記の件質問しました所、「佐和山城と、一乗谷で見たことがあります。」とご教示いただき、やはり、人工的に造作されたものであることが、ハッキリしました。ありがとうございました。

 

 

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2025年6月7日土曜日

摂津池田城の広大な防御構想について考えるまとめページ

赤色立体地図が映し出す五月山

近年、2002年にアジア航測の千葉達朗氏により考案された、赤色立体地図のおかげで、城郭研究の分野は、飛躍的に研究が進展しています。
 この技術が、奈良文化財研究所のWEBサイトで一般利用が可能となった事で、いつでも、誰でも、山地の地形の可視化技術利用が可能になりました。
 これにより、これまで未認知(または伝承のみで不明)であった城・砦跡が次々と発見されており、私の守備範囲である摂津池田城周辺についても、多大なる恩恵を受けているところです。

一方で、近年は開発スピードが早く、それらも鑑みて、できるだけ早めにその痕跡を確認し、概念化をしておかなければならない状況でもあると考えています。
 逆に、文献の分野は、年々史料の翻刻などが進み、また、新出史料などが公表されるなどして、拡がりと深まりを見せる中で、物理的な城郭発掘分野は、法的・経済的な制約も相まって、破壊が進んでいるのが現状です。

摂津池田城に関する、物理的な城郭発掘分野も、そういった意味では、優先順位を上げて活動しなければならないように考えています。こちらでは摂津池田城とその関連の記事を集めて、ご紹介していきたいと思います。


摂津池田城の縄張り概念は、五月山山上にまで及んでいた!?
摂津池田城の防御体制は、細河郷にも及んでいて現在認識されているよりも非常に広範囲である可能性が高い
現存する摂津国豊嶋郡伏尾村(大阪府池田市伏尾町)に残る砦跡(仮称:伏尾イゴキ砦)
摂津池田の五月山(大阪府池田市)に見られる特徴的な防御施設らしき普請跡。トーチカの原始的なカタチか!?
摂津国豊嶋(現大阪府池田市)・河辺郡(兵庫県川西市)境に存在した可能性のある砦跡を発見か!? 
明智光秀も度々利用した余野街道上に存在した、池田市伏尾町の八幡城が巨大であった可能性について
戦国時代の摂津国池田城と支城の関係を考える
荒木村重の重臣であった瓦林越後守は、池田育ち(生まれ)か!?
戦国時代に池田市木部町にあった木部砦(城)跡 
山の尾根を割り、防御施設にしているかもしれない痕跡 ← NEW!

 

現存する摂津国豊嶋郡伏尾村(大阪府池田市伏尾町)に残る砦跡(仮称:伏尾イゴキ砦)

摂津国豊嶋郡伏尾村は、細河郷内にあり、平野部と山地の結節点にもあたります。いわば「出入口」で、非常に重要な立地です。また、ここは郡の境目(河辺・豊島郡)でもあり、その境目に沿って「妙見街道」が通るという、交通の要衝でもありあました。
 ここより北側の、丹波国や摂津国能勢郡といった地域に通じており、太古から交易が行われ、産出する鉱物や山の富を輸送する重要な、通路でもありました。
 視点を変えますと、室町時代末期に地域政権が成長する頃には、豊嶋郡を中心とした池田氏が勃興し、五月山の南側(大阪府池田市綾羽2)に城を構えて本拠とします。
 細河郷は、池田城の裏庭であり、五月山の北側にあたる事から、勢力を増大した池田氏は、同地域にも積極的に関与するようになり、管理下に置いたとみられます。
 その細河郷を構成する六ヵ村の一つである伏尾村には、久安寺という近衛天皇との繫がりを持つ真言宗系の大寺院があります。伏尾村は、久安寺との結びつきが強く、地域政権でもあった池田氏は、同寺とも共存・共栄関係を志向していたようです。

時は「戦国」、久安寺という宗教組織(今とは社会的立場が違う)も、武家である池田氏との関係性を保ち、戦乱を避ける工夫をしていたと考えられます。そのような視点で見れば、久安寺・伏尾村と周辺にも自衛のための城や砦跡が見られます。

その例の一つをご紹介します。

旧細河郷内を赤色立体地図で見ていると、気になる地形があり、更によく見ると、その形状も非常に気になります。
 立地的にも眼下に余野街道(摂丹街道)、その背後にも同じく余野街道と五月山へ上がる道に接続する通路があります。
 そして更にここは「イゴキ」との字で呼ばれ、久安寺に深く関係する場所で、「寺尾千軒」や流行病患者のための病院などがあったと伝わっています。
 そのような経緯もあり、ここは久安寺の一部でもあった場所ですので、戦国時代には伏尾村の南の入口としての概念があったのではないかと思われます。

 

大阪府池田市伏尾町にある砦跡と思われる場所

以下の赤色立体地図では、2ヶ所の赤色丸印をつけてありますが、本来はどちらも何らかの人工的な普請がされていたと思われます。しかし、今はこの地図の東(右)側部分は、レジャー施設として開発されており、痕跡は残っていませんでした。
 一方、西(左)側部分の小さな舌状丘陵には、土塁と曲輪、堀跡が残っており、ここは砦(城)として使われていた事が判明しました。
 地形としては、西側の余野街道側は絶壁で、天然の要害性を持ち、北と南側は谷です。東端に、今は集落が建っていますが、ここを画して、丘陵を一つの縄張りにしたようです。

赤色立体地図に映し出される砦と思われる地形(大阪府池田市伏尾町)

ちょっと詳しく見てみましょう。
 

仮称:伏尾イゴキ砦の縄張り拡大

この「仮称:伏尾イゴキ砦」と目される、一体的な地形を更に分割しています。北側の端に人工的な普請跡(曲輪)があり、東端の集落と繋がっています。逆側の南辺は崖で、こちら側のその先は緩やかな谷となるため、そこにも備えがされていたのではないかと思われます。
 再訪し、よく見る必要がありますが、地形的には南側にも曲輪のようなカタチが複数箇所みられます。
 西側は、急峻な崖のため、ここから攻める事は不可能ですが、そこに土塁を設けています。現在は、ゴミの投棄・放置場になっているのですが、今も戦国時代の痕跡をハッキリと残しています。

仮称:伏尾イゴキ砦の土塁の現状

仮称:伏尾イゴキ砦の東側の区切り

仮称:伏尾イゴキ砦の北側にある曲輪の様子

仮称:伏尾イゴキ砦の南側の曲輪

縄張りの東端集落の南側の様子で、手前の畑と家の間に谷がある

最後に、この場所との関係性を見るために、広域に赤色立体地図を見ておきたいと思います。地図中の赤色丸印は、人工的な普請を確認した所で、黄色丸印は、未踏査の場所ですが、施設など何らかの痕跡がありそうな立地です。

仮称:伏尾イゴキ砦北方の城・砦の配置想定


今は「伏尾台」として開発されてしまいましたが、この山の随所に砦・監視・避難所が設けられていたと考えられます。それは、久安寺の自衛体制でもあり、関所も設けて管理を兼ねて、経済活動(有料道路にして、道の管理も)の拠点になっていたのかもしれません。

さて、既述の「寺尾千軒や流行病患者のための病院」が、この「イゴキ」と呼ばれた場所にあったとされ、この削平地は久安寺の栄えていた頃に拓かれた跡ではないかと思われます。
 「仮称:伏尾イゴキ砦」は、それらを戦国時代に再利用されたものと思われます。室町末期の動乱期には、寺も自衛の必要があったため、要所には軍事的な施設と体制を取っていたと考えられます。
 それらは連絡の目的もありますので、要所から要所は直線的に結ばれて、監視のための眺望も確保された所に施設があるように思います。道を監視し、連絡と連携体制を基本的に考えて、施設を置いたと考えられるため、砦は、対岸の吉田村と久安寺につながる線を保っていたのではないかと思われます。


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2025年6月3日火曜日

摂津池田の五月山(大阪府池田市)に見られる特徴的な防御施設らしき普請跡。トーチカの原始的なカタチか!?

摂津池田城は、その背後が山で、この山を取られると、城内を俯瞰されることとなってしまい、城の「弱点」との通説が、特に検証される事なく、永年に渡り順送りとなっていました。しかしながら、この要素は、軍事面の知識では素人の私でさえも、戦いのプロフェッショナルであった武士集団の本拠が、何の策も講じない筈が無いと考えていました。
 この度、ご縁があって、その永年の疑問が解ける機会に巡り会い、やはり池田城を俯瞰される弱点の対策を施していた事が判りました。至る所に砦や監視所のような普請を行っていた跡を発見しました。それらは非常に広範囲で、多数存在しますので、近日にそれらをまとめて、記事にしていきたいと思います。
 また、村(集落)との連携もされていたと考えられ、共存関係で防御体制を構築していたとも思われ、この視点についても記事で触れていきたいと思います。

私が「池田城の本拠を守るために、五月山や細河地域などにも何らかの策を講じていた筈」と考えていたのは、北摂山塊に、池田城と同じような環境の要所はいくつかあり、他の場所では、その奥地(丹波・能勢方面など)から軍勢が下りて、平地へ出るような動きが度々見られるのですが、奥地からの街道を幾本も通す池田で、それがあまり見られず、池田城が攻められる頻度も他地域のそれと比べると非常に少ない事に注目していました。それは偶然ではなく、必然であり、防御体制を敷いていた為だと考えていました。

最近、城郭に詳しい方の案内で、五月山周辺、特に細河地域(大阪府池田市)を見て歩きましたが、やはり、その見立ては間違いではなかったと感じ、それらの痕跡を多数発見しました。
 今後、更に詳しく見、本当にそうなのかどうかの精査をも必要ですが、もしそれらが見立て通りなら、池田城の城としての概念そのものを大きく見直す必要があると思われます。
 その「大仕事」の前に、池田城の守備体制の一例として、特徴的な人工普請跡をご紹介しておきたいと思います。
 山の尾根の要所(ピークや分岐)に砦・監視所を作り、堀切や堀を設けている所が多数あります。物理(軍事)的に障害物を設けて、尾根沿いの上り下りをさせないようにしているようです。
 例えば、摂津池田氏の菩提寺である大広寺(大阪府池田市綾羽2)の西側、ここに娯三堂古墳があります。これを利用したと思われるトーチカ風の人工普請跡があります。一方を開け、三方を土塁で囲むような地形を作っています。これは、鉄砲や弓といった飛び道具の武器を使うには、身を隠して対応できるのではないかと考えられます。

大広寺から東側に尾根道下を通る山の道もあった

 
現地を見ると、トーチカの原始的なカタチのようにも思えますし、このような防御拠点があれば、その先に進むことが難しくなりますので、特に守備には有効ではないかと思われます。
 また、この場所は地形的に、一旦下って谷になり、再び地面が隆起して枝豆のようなカタチの尾根が南西方向に伸びる、独特な地形です。これが高低差を持ちつつ屏風のように連なっていますので、防御地形としてうまく活用されていたと考えられます。ちなみに、この尾根上に、巨大な茶臼山古墳があります。


左側は明治42年測図、右側は現代

 

娯三堂古墳砦は、その尾根の上部に位置し、その間を通る山道をも警戒する役割もあったと思われます。
 現在では池田市の上水道貯水タンクなどがあって、開発されてしまいましたが、この辺りは、そういった役割を帯びた施設があったと考えられます。

さて、池田城の守備施設らしき場所をもう一つ、ご紹介します。五月山の北側、細河地域にも、砦・城跡が多数見られます。集落は深い谷を境として形成されており、天然の要害を持ちつつ、豊かな水の供給源でもあります。五月山から、至る所で川に水が流れ、水には苦労が無いであろう事は、歩いていて実感します。
 中河原町・東山町の境目から、東山町側に入った場所に、ここにも三方を囲んだカタチの人工普請跡があります。ここは太平洋戦争時に、魚雷などを格納する地下壕があった場所ですので、それらの関連施設の可能性もあるのか、確認が必要ではあります。
 しかし、ここにも娯三堂古墳砦のような志向の形状で、痕跡があります。そのの場合は、尾根筋では無いのですが、五月山側に、山の中を等高線に沿った山道が数本あるため、東山村の南端を守る役割があったのかもしれません。

 

池田市東山町の集落はずれにある防御施設と思われる普請跡

 

五月山周辺には、このような片仮名の「コ」の字形(若しくは円形とも)の普請跡が複数あり、あまり他では見ることがありません。
 これはもしかすると、摂津池田氏の独自の発想で、守備体制を組んでいた事によるものかもしれませんが、他の地域でもあり、私が知らないのかもしれません。
 しかし、この構造は特に鉄砲を使って守備する場合、非常に都合が良いですし、屋根を設置すれば、雨風も凌げる長時間の駐屯場所としても使えるように思います。
 色々と不明な点も多いのですが、何れも自然にできた地形とは思えませんし、この地域でよく見かける「炭窯」というのも構造が違うように思います。


池田市中河原町に残る炭焼窯跡

五月山周辺で見られる片仮名の「コ」の字形の普請跡や尾根上のピークや分岐の要所には、多数の普請跡が見られ、やはり、池田城の背後を取られない防御体制が取られていたと考えられます。
 このために、摂津池田城は「難攻不落」を誇ったようですが、これを破ったのは、1568年(永禄11)秋の織田信長による足利義昭上洛戦の時だったと思われます。
 織田勢は50,000騎ともいわれる大軍で摂津池田城を急襲し、「陣山(横岡公園)」(明治42年の地図を参照)に本陣を置きます。しかし、この先には進めなかったとみられ、ここから西側は急に落ち込む細い谷道で、進めば谷の両側から攻められてしまいます。その位置に、娯三堂古墳砦がありました。近世城郭で見られる「桝形」のような構造だったのかもしれません。
 『信長公記』によると、10月2日に総攻撃を開始し、外構えに取りついて、一進一退の攻防となったようです。信長の馬廻り?水野金吾忠分?配下の梶川平左衛門高秀が戦死。同じく馬廻り魚住隼人・山田半兵衛が負傷して後退。
 この時は、攻め手の軍勢主力を池田城の南側から攻めさせたようですが、城方の抵抗が激しく、攻め手に欠いた織田勢は、町場に火をかけ始めたことから、和睦となったようです。双方に死傷者を出して、信長勢は重臣を失います。その時の合戦を舞台に描いた版画があります。

『真像太閤記画譜』に描かれた池田勝正と織田方武将梶川高秀
(東京大学大学院教育学研究科・教育学部図書館室所蔵資料)
 

また『同記』では、この城攻めの時、信長が「北の山」に陣を置いたとしている事から、これを今の感覚の「五月山」と解して、現在の通説になっています。

 しかし、実際には、今でいう五月山に上る事は、当時の状況では到底できず、「陣山」に進出して停止するのが限界だったと考えられます。この陣山も単独で守るには不十分な環境であり、そのために、短期決戦を計って、いわゆる武士らしからぬ「汚い手(放火)」を使ってでも、和睦に持ち込む方針であったと考えられます。かといって、安全圏で指揮を採ることは出来ず、大将は危険を顧みず前に出て、諸将を鼓舞しなければ、烏合の大軍が瓦解してしまいます。
 その当時の五月山は、山林が今よりも南側に拡がっており、丘陵地帯も山林であったため、その間を山道が縦横に走っています。今とは五月山の様相が全く違います。

昭和30年代の開発前の横岡公園付近(個人蔵)


また、この時、管領細川晴元の息六郎(後の昭元)や三好長逸など三人衆方の武将や将軍義栄方の要人なども池田へ避難していたようで、それ程に堅固な城と考えられていたエピソードの一つだと思います。

 

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2025年5月31日土曜日

摂津池田城の防御体制は、細河郷にも及んでいて現在認識されているよりも非常に広範囲である可能性が高い

細川六郎(昭元)と摂津池田氏についての関係性「元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状」をまとめていた途中で、脱線してしまい、池田の城郭の分野へ入り込んでしまいました。
 言い訳をさせていただきますと、山の中の城跡は、冬期のみの限定された調査になってしまう事から、そちらへ注力してしまいました。細川六郎と摂津池田氏の関係性について楽しみにされていた方には、大変申し訳けなく思います。必ず、事態(私の頭の中)の収拾をつけてまとめますので、少々お待ち下さい。

さて、今回の記事は、その摂津池田城についてです。五月山(大阪府池田市)北側を特に見たのですが、詳しい方に案内をしていただきますと、やはり、公的にもこれまで未知であった砦や城と思われる痕跡が無数にある事が判りました。今回知り得たそれらは、精査も必要ですが、村(集落)との関係や街道監視(管理)と密接に関係していると思われ、特に摂津池田城の背後にある五月山の裏庭(北側)には豊嶋郡・河辺郡の境目があり、その河辺郡の有力者である塩川氏と池田氏は戦国時代末期には、長期間に渡って敵対関係にありました。

そういった状況にもあり、五月山北側の細河庄(郷)は、摂津池田氏にとって、管理下に収める必要が是非ともあったと考えています。
 そのような想定で、2025年1月から赤色立体地図を元に、頻繁にそれと思しき場所を確認に訪れました。その想定としては、(1)豊嶋・河辺郡境、(2)街道の要所、(3)集落の近く、などには、必ず何らかの施設があるのではないかと考えました。

結果としては、想定通りにそれらしき痕跡がありました。自然に形成されたのではない人工普請跡が見られました。以下、簡単に上述の要素を(1)〜(3)の例にまとめてご紹介します。

(1)豊嶋・河辺郡境
郡境の豊嶋郡側に「陽松庵」があり、その北側の独立した山の頂きに城跡が確認できました。城跡から西側には妙見街道が走り、その城跡は、これを監視するために機能していたものと思われます。
 その直下に陽松庵がありますが、同庵の創建は1351年(観応2)京都天龍寺(臨済宗)を開いた夢窓疎石によると伝わり、その後の経過は不明ながら、1713年(正徳3)に天佳禅師を迎えて再興されています。
 今のところ、それらの伝承を補う資料は無いのですが、戦国時代の視点で見ると、その立地的には非常に重要でしたので、吉田村に関連する何らかの施設があったと考えられます。この東側には谷を挟んで突出した山が、かつては存在(開発により掃滅)し、そこが「オダノカイチ」と呼ばれる城跡とも伝わっています。吉田村自体が、小規模な拠点城であった可能性があると伝承や遺物、立地から考えられます。

陽松庵から続く山の頂上に城跡を確認

陽松庵の山の上にある城跡の位置関係

陽松庵上の山にある城跡から西側の妙見道を望む

(2)街道の要所
想定を戦国時代末期の池田氏支配下に当てています。その頃、摂津国豊嶋郡にあった久安寺は、大寺院に成長していたようで、その威光も相当な影響力であった事が想像されます。
 その久安寺には、内院として49院と堂塔があり、外院は東山町(大阪府池田市)に及び、神殿(田?)には総門が、また香華田や寺院僧堂も存在したと伝わっています。更に、吉田橋(池田市吉田町)の東(イゴキ)に、寺戸千軒や流行病患者のための病院、東山村に紫雲寺、木部村に蓮台寺、古江村に等覚寺などがあったとされています。それらの伝承は今のところ、少々時代の盛衰の時差はあるものの、細河庄が一時代の先進的地域であった事を物語っています。
 そんな久安寺には、戦国時代に於いても主要道の一つであった摂丹街道が通り、その途中にいくつもの里(山)道を交える重要な交通路でした。その通路を監視・管理する為とも思われる砦跡があり、尾根道を切断する巨大な堀切が今も残っています。
 この付近にそのような堀切がいくつかあり、軍事的な意味合いも持ちつつ、関所のような施設があったのではないかとも考えたりしています。

久安寺から余野川を挟んだ山にある摂丹街道を監視したと思われる施設の堀切

摂丹街道を監視したと思われる施設の位置関係 

堀切の現状(2025年3月撮影)

(3)集落の近く
豊嶋・河辺郡の境目である古江村(現池田市古江町)は、主要道である能勢街道を通し、その東側至近に片岡村があって、そこを妙見街道が通ります。その妙見道に豊嶋・河辺郡を結ぶ脇街道が複数交差しており、この付近は、交通の要衝となっていました。
 伝等覚寺と思しき寺跡のような痕跡がありました。片岡村の伝承として、戦国時代まで、村の上に「古御坊」と呼ばれる寺があり、それが戦乱で焼けてしまったので、その下の里に僧侶が降りてきて住み着いたので、その僧侶の名から「片岡」という集落名になったと伝わっています。
 しかし、この場所はそういった古刹があった事から、人や物が集まり、街道も次第に形成されたのではないかと考えられます。
 古江村側には、その西側至近の場所に猪名川が流れ、また、東西に伸びる長細い丘陵の突端が古江村付近で落ち込んだ間を能勢街道が通っています。その街道の対岸の山をも見通す場所に古江古墳がありますが、ここも戦国時代には砦として使われていたと考えられます。戦国時代、基本的に古墳は、軍事的な利用がされていたと考えられます。
 さて、そんな古江村から里道で谷筋を上る場所に、広い削平地と人工的な堀のような普請跡がありました。ここは有事の場合に、村人の避難場所であり、守りのための砦ではなかったかと考えられます。削平地は非常に広く、村人の他にも収容が可能な程、広い場所です。

そしてまた、その対岸、細河庄の中央部を余野川が流れ、古江村などからそれを超えた先に五月山があります。五月山を中心に見た場合、その北側、池田城からは北側背後にあたる重要な場所に中河原村があります。
 その中河原村の背後の山の中に平坦地を設けてあり、そこに村人の避難地があったのではないかと思われる場所があります。ここは、古代寺院があったと考えられる場所で、その跡地を使って、何らかの施設を整えていた可能性があり、人工的に造成された広い地形が残っています。近年それらは、植木畑にもなっていますので、その区別をつけることも課題です。

古代寺院跡地と推定される場所の平坦地の人工的普請跡

中河原社の位置関係

中河原社とその周辺に拡がる広大な削平地(2025年4月撮影)

人工的な普請が認められる跡地の位置

伝等覚寺と思われる場所などの位置関係

伝等覚寺跡(伝古御坊?)と思われる現状(2025年5月撮影)

一方で、摂津池田氏の本拠である、池田城は五月山南側にあり、なだらかに標高を下げつつ丘陵地を経て平らな地形となっていきます。
 池田城は、この地形を巧みに利用し、川や丘、谷を使って防御構想を組んでいたと考えられます。それに沿って城跡があり、また、史料上からもその範囲が想定されます。また、この川の外側にも縁故地や城館跡などを設けており、橋頭堡のようないくつも設定して、強固な防御態勢を敷いていたと思われます。

摂津池田城の南側の川を利用した防衛ライン構想の想定


追伸:今回、の調査では、 I さん、N さんには大変お世話になりました。ありがとうございました。

 

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2025年5月5日月曜日

摂津国豊嶋(現大阪府池田市)・河辺郡(兵庫県川西市)境に存在した可能性のある砦跡を発見か!?

兵庫県川西市1丁目16から大阪府池田市古江町1にかけて見られる人工物の一部で、これは堀跡と思われます。高さは4〜5メートルほどあります。堀らしき写真は、赤色立体地図の赤色丸印内、矢印の方向から撮影しています。

この辺り、戦国時代には特に重要な要所でした。地形的には、ほぼ東西に伸びる標高100メートル程の丘陵(板かまぼこ状)の西端にあたり、その丘陵に河辺郡と豊嶋郡の境目があります。
 その丘陵最西端には、眼下に能勢街道と篠山街道が走り、それらの間を猪名川という大きな川(人馬などでの渡河は不可能)が流れています。また、今回の堀(砦)跡と思われるところから、東側至近に妙見街道を通しています。

戦国時代、豊嶋郡は池田氏が、河辺郡は塩川氏がおり、両者は戦国時代末期、敵対関係にありました。その事から、有事には街道を封鎖し、郡境を超える軍勢に備える必要がありました。また、ここには「古江」という集落があり、その集落を守る必要もあります。

そういった事から、非常に念入りな防御施設を拵える必要があったものと思われ、既述の赤色丸印、すぐ東(右)側には、丘陵南突端に広い平坦地があり、ここに兵を駐屯させられるような場を設けていた可能性もあります。要するに砦のようなモノがあったと想定されます。
 更に、今は宅地開発されてしまっている場所(池田市古江町1)は、尾根続きで西端まで伸びており、その最西端には、公的に把握された古江古墳があります。この古墳も、眼下を見下ろす監視所のような役割に使われており、一体化した概念が感じられます。

公的には把握されていない遺跡ですが、状況から考えて、ここには重要な軍事施設があっても良い環境です。今後も調べを深めていきたいと思います。

本日ご同行いただきました、郷土研究家の I(アイ)様、池田市史学会のM様のご案内とお話しは、大変意義深く、勉強になりました。ありがとうございました。

航空・衛星写真から見た現在の地表面の様子

1909年(明治42)当時の該当地域の地図

堀跡と思われる状況1   

堀跡と思われる状況2

大阪府池田市の文化財「古江古墳」から西を望む


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2025年2月28日金曜日

摂津の有力国人池田氏が、摂津国豊嶋郡細河庄に合法的な進出が成ったと考えられる史料

 現大阪府池田市の細河地域に古代寺院が存在した事について、摂津の豪族池田氏の史料を見直していましたら、判断の指標になりそうな重要な記述(史料)に気づきました。池田氏が摂津国豊嶋郡細河庄に合法的な進出が成ったと考えられる、史料です。
これは、権大外記で左大臣の鷹司家家来であった中原康富の日記『康富記』で、文安5年(1448)8月3日条にあります。『新修 池田市史』には、この記述について、背景と記述の意味が説明されています。
 それによると、この日、中原康富が鷹司邸に召された折、「摂津細河庄の本家職分を池田筑後守充正(政)と契約した」と聞かされて、康富はこれを頻りに止めたけども、お聞き入れなく、もったいなき次第なり。これは匡具(ただとも)の仕業によるものらしいが、佞臣(ねいしん)というべきなり。、と憤慨している記録のようです。
 また、続けて背景環境の解説では、細河庄の本家職すら得分化して、既に国人池田筑後守充正の代官請けとなっていた。、読み解いています。
さて、この後、池田家中では、一族で細河庄の受け持ちを分割しており、文明14年(1482)11月28日付で、中川原村は池田若狭守正種が受け持って、年貢を近衛家に納めています。(もちろん手数料(25%程)を差し引いています。)

久安寺も近衛家と関係の深い寺院ですので、同じ藤原系統である摂津池田家からも現場で支援を受けて、勢力拡大に一役買っていたのではないかと思います。久安寺の山門は、室町中期頃のものとされていますので、これは、この史料の動きと一致するものと思います。

本来、五月山北辺に栄えた古代寺院が、久安寺の隆盛と入れ替わったか、吸収されたのでしょう。更にこの動きの中で、池田氏は自らの氏寺である大広寺の末寺を入れて、支配強化を行っているように見えます。

ちなみに大広寺は、応永2年(1395)に創建されたとされています。五月山周辺は、見事に大広寺ネットワークが張り巡らされて、摂津池田氏と共存関係を築いていたように思われます。

 

『康富記』文安5年(1448)8月3日条

 
大澤山 久安寺山門(大阪府池田市)

塩増山 大広寺山門(大阪府池田市)


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2025年2月26日水曜日

長久3年(1042)に描かれた、摂津国豊嶋郡細河庄に存在した古代寺院跡(玉性院?)を発見か!?

非常に興味深い遺跡を発見したかもしれません。平安時代頃に存在したとされる、大規模寺院の跡が、今も残っていました。(これから更に調査を続けます。)
 大阪府池田市に伝わる細河庄境界絵図(長久3年:1042)について、これまでは、想像の範囲で、あまり確認もされていなかった(池田市教育委員会自体が、これは想像の社寺であるとの見解を述べています。え?調べた?)のですが、この絵図に描かれている五月山側にあった大寺院の跡が、今も残っている可能性があります。

絵図が描かれた長久3年とは、平安時代で、この当時、今は大寺院と考えられている久安寺の規模が小さく、その前身と思われる「安養院」として描かれています。
 これに対して、五月山側の現池田市木部町から東山町にかけて、大規模寺院の存在が描かれており、絵図中の「玉性院?」は、三重の塔が描かれる隆盛ぶりです。また、同市中川原町と思しき付近に、鳥居と建造物が描かれており、五月山北側山麓に、安養院(久安寺)よりも賑やかな宗教施設の様子が描かれています。

本日令和7年(2025)2月24日、どちらかというと、城跡を確認のために、専門性の高い方と一緒に見て回りました。そうする内、城と言うよりは、寺院ではないか、しかも、非常に規模の大きい寺であることを確認しました。
 その時には城では無く、寺院ではないか?、と感じただけだったのですが、それらをひと通り見終わって、手持ちの資料を確認する内に、この「細河庄境界絵図」の存在を思い出し、現地の感想と結び付きました。
※いわゆる、戦国時代にはこれらも防御施設そして利用されていたものと思われます。
 
この現池田市の細河地域は、研究する人も殆どおらず、資料も残っていません。ただ、非常に古い神社やお寺が多いという、感想の順送りが続いていただけでしたので、この気付きは、更なる思考の前進に繋がれば、非常に意義有ることと感じています。

後世に残すため、この調査を続けていきたいと思います。
 
 
長久3年(1042)摂津国豊嶋郡細河荘大絵図(部分) 池田市立歴史民俗資料館所蔵

池田市木部町と同中河原町との境界の谷にある古代寺院らしき跡


池田市中川原町にある中河原社鳥居


池田市中川原町にある中川原社の古代寺院跡を感じさせる特異な地形(後年は城跡?)