2017年3月29日水曜日

天正4年5月、天王寺砦救援の軍議で織田信長の命令に異儀を立てた荒木村重

四天王寺
独裁的で、なんびとにも畏れられていたかのような、怖いイメージのある織田信長ですが、そんな信長の命令を荒木村重は、理由を述べて、それを請けなかったエピソードがあります。
 天正4年5月、織田信長が出席の上で、軍議が開かれました。本願寺勢に包囲されている天王寺砦の明智光秀・佐久間信盛などを救援するためです。
 この時は本願寺方の勢い強く、天王寺砦の陥落が心配され、非常に切迫した状況でした。既に塙直政(原田備中守)一族など、名だたる武将が戦死し、この勝ちに乗じて、天王寺砦が多数の本願寺勢に攻囲されていました。

以下、その時の様子を『信長公記』から抜粋し、ご紹介します。
※信長公記(新人物往来社)P193

(資料1)----------------------------------
【原田備中、御津寺へ取出討死の事】
(前略)
5月3日、早朝、先は三好笑岩、根来・和泉衆。2段は原田備中、大和・山城衆同心致し、彼の木津へ取り寄せのところ、大坂ろうの岸より罷り出で、10,000計りにて推しつつみ、数千挺の鉄砲を以て、散々に打ち立て、上方の人数崩れ、原田備中手前にて請止(うけとめ)、数刻相戦うと雖も、猛勢に取り籠められ、既に、原田備中、塙喜三郎、塙小七郎、蓑浦無右衛門、丹羽小四郎、枕を並べて討ち死になり。其の侭、一揆ども天王寺へ取り懸かり、佐久間甚九郎、惟任日向守、猪子兵介、大津伝十郎、江州衆、楯籠もり候を、取り巻き、攻め候なり。其の折節、信長、京都に御座の事にて候。則ち、国々へ御触れなさる。
----------------------------------(資料1 終わり)

これは本願寺方が瀬戸内海を通じて、毛利方から補給と支援を受けていた事から、このルートを断つために、織田信長がその封鎖を行う中で起きた闘争です。それについて、再び信長公記の抜粋をご紹介します。
※信長公記(新人物往来社)P193

(資料2)----------------------------------
【原田備中、御津寺へ取出討死の事】
4月14日、荒木摂津守・長岡兵部大輔・惟任日向守・原田備中4人に仰せ付けられ、上方の御人数相加えられ、大坂へ推し詰め、荒木摂津守は、尼崎より海上を相働き、大坂の北野田に取出(砦、以下同じ。)を推し並べ、3つ申し付け、川手の通路を取り切る。惟任日向守・長岡兵部大輔両人は、大坂より東南守口・森河内両所に、取出申し付けられる。原田備中守は、天王寺に要害丈夫に相構えられ、御敵、ろうの岸・木津両所を拘(かか)え、難波(なにわ)口より海上通路仕り候。木津を取り候へば、御敵の通路一切止め候の間、彼の在所を取り候へと、仰せ出さる。天王寺取出には、佐久間甚九郎正勝、惟任日向守光秀おかれ、其の上、御検使として、猪子兵介、大津伝十郎差し遣わされ、則ち御請け申し候。
(後略)
----------------------------------(資料2 終わり)

楼の岸跡
そんな中での想定外の出来事が起き、織田信長はこれに緊急対応した訳です。信長はこういう時、対応が非常に迅速ですし、自ら先頭に立ち、戦死も厭わず行動します。
 対応が遅ければ相手が有利になりますし、第2・第3の被害が自軍に及び、益々状況が悪化します。心理的にも不利になり、戦意が萎えます。

信長は、原田備中守が戦死した事を知ると、直ぐさま陣触れを出し、京都を発ちます。河内国若江城に入り、ここで情報収集と準備を整えます。これは天王寺砦の後詰めの役割りも兼ねます。若江から天王寺までは、ほぼ直線に真西の方向で、距離も2里(8キロメートル)余りの至近距離です。この時の様子です。
※信長公記(新人物往来社)P194

(資料3)----------------------------------
【御後巻再三御合戦の事】
5月5日、後詰として、御馬を出だされ、明衣の仕立纔(わず)か100騎ばかりにて、若江に至りて御参陣。次の日、御逗留あって、先手の様子をもきかせられ、御人数をも揃へられ候と雖も、俄懸の事に候間、相調わず、下々の者、人足以下、中々相続かず、首(かしら)々ばかり着陣に候。然りと雖も、5、3日の間をも拘(かか)えがたきの旨、度々注進候間、攻め殺させ候ては、都鄙の口難、御無念の由、上意なされ、
(後略)
----------------------------------(資料3 終わり)

公記にもあるように、出陣が急な事であり、人数が揃いません。現代の信長イメージとは少し違うような感じがしますね。
 この時期、信長は政治的にも優位に立ち、社会的地位も上昇させ、全体の戦況も余裕が無かった訳ではありません。それでもこのような状態ですし、信長といえどもいつでも行動の強制ができる訳でもなかったようです。
 信長は勝たなければならない「戦」には「必ず勝つ」という事を強く認識し、その通りの結果をもたらします。また、救わなければならない対象も同じで、見捨てる事もありません。
 この時も、その通りの行動を取り、味方を救援に成功します。そして、2次被害も何とか食い止める事ができました。
※信長公記(新人物往来社)P194

(資料4)----------------------------------
清水坂(この付近では良質な水が湧く)
【御後巻再三御合戦の事】
かくの如く仰せ付けられ、信長は先手の足軽に打ちまじらせられ、懸け廻り、爰かしこと、御下知なされ、薄手を負わせられ、御足に鉄砲あたり申し候へども、されども天道照覧にて、苦しからず、御敵、数千挺の鉄砲を以て、放つ事、降雨の如く、相防ぐと雖も、噇っと懸かり崩し、一揆ども切り捨て、天王寺へ懸け入り、御一手に御なり候。然りと雖も、大軍の御敵にて候間、終に引き退かず、人数を立て固め、相支え候を、又、重ねて御一戦に及ばるべきの趣、上意に候。
 爰にて、各々御味方無勢に候間、此の度は御合戦御延慮尤もの旨、申し上げられ候と雖も、今度間近く寄り合い候事、天の与うる所の由、御諚候て、後は二段に御人数備えられ、又、切り懸かり、追い崩し、大阪城戸口まで追いつき、首数2,700余討ち捕る。是れより大坂四方の砦々に、10ヶ所の付城仰せつけらる。
 天王寺には佐久間右衛門尉信盛、甚九郎、進藤山城守、松永弾正、松永右衛門佐、水野監物、池田孫次郎、山岡孫太郎、青地千代寿、是れ等を定番として置かれ、又、住吉浜手に要害拵え、真鍋七五三兵衛、沼野伝内、海上の御警固として入れ置かる。
(後略)
----------------------------------(資料4 終わり)

しかし、こんな時に荒木村重は、軍議の席で織田信長の作戦構想に異儀を立て、独自の見知を述べて、信長に認めさせます。
 この時、村重にとっても当面の危急は脱した状態で、さ程の苦しさ(政治・軍事的に)は無かったと見られますが、なぜこのような態度になったのでしょうか。

この頃、村重はそれまでの「信濃守」から「摂津守」の官途を叙任しており、これは信長の計らいや尽力もあった筈ですが、「それとこれとは別」といった態度にも見えなくはありません。
 織田政権の緊急事態に応えてこそ、日頃の恩に報いる事だと一般的には感じますが、村重には村重の立場があり、視点と考えがあったのでしょう。また、敵の数が多く、苦戦が予想されるため、自分の側の被害を避けたりする事を考えたのかもしれません。
 村重はこの2年前、摂津国内の中嶋・崇禅寺付近で合戦を行い、大きな損害を出しています。同じ事を繰り返す訳にはいかないと、考えていたかもしれません。

いずれにしても、村重は信長の命令を断り、後詰に徹する旨を述べ、尼崎から北野田、木津方面にかけての北方向から本願寺に備え、西方向にも警戒する陣構えを担当することになりました。
※信長公記(新人物往来社)P194

(資料5)----------------------------------
【御後巻再三御合戦の事】
(前略)
5月7日、御馬を寄せられ、15,000ばかりの御敵に、纔(わず)か3,000ばかりにて打ち向はせられ、御人数三段に御備えなされ、住吉口より懸けらせられ候。
 御先一段 佐久間右衛門尉、松永弾正(山城守)、長岡兵部大輔、若江衆。
 爰にて、荒木摂津守に先を仕り候へと、仰せられ候へば、我々は木津口の推へを仕り候はんと、申し候て、御請け申さず。信長、後に先をさせ候はで御満足と仰せされ候へき。
(後略)
----------------------------------(資料5 終わり)

摂津国内での合戦ですし、役割りからして村重が主たる軍勢を担うのは、当然の事だったと思います。
 しかし、村重のこの時の行動が不自然にも感じられ、後に村重は信長に対する謀反を起こした事から、『信長公記』の作者である太田牛一は、対比的に扱い、その出来事を特記したのかもしれません。

とに角、信長はこの緊急事態を打開しなければならない事を強く意識していましたので、自ら先頭に立って指揮する事を決します。そして、何とか危急を脱する事はでき、明智光秀や佐久間正勝などの武将は討死を免れました。
※信長公記(新人物往来社)P195

(資料6)----------------------------------
安居神社から北方向を望む
【御後巻再三御合戦の事】
(前略)
かくの如く仰せ付けられ、信長は先手の足軽に打ちまじらせられ、懸け廻り、爰(ここ)かしこと、御下知なされ、薄手を負わせられ、御足に鉄砲あたり申し候へども、されども天道照覧にて、苦しからず、御敵、数千挺の鉄砲を以て、放つ事、降雨の如く、相防ぐと雖も、噇っと懸かり崩し、一揆ども切り捨て、天王寺へ懸け入り、御一手に御なり候。然りと雖も、大軍の御敵にて候間、終に引き退かず、人数を立て固め、相支え候を、又、重ねて御一戦に及ばるべきの趣き、上意に候。爰にて、各御味方無勢に候間、此の度は御合戦御延慮尤もの旨、申し上げられ候と雖も、今度間近く取り合い候事、天の与うる所の由、御諚候て、後は2段に御人数備えられ、又、切り懸かり、追い崩し、大坂城戸口まで追いつき、首数2,700余討ち捕る。是れより大坂四方の塞々(とりでとりで)に、10ヶ所の付城仰せつけらる。天王寺には、佐久間右衛門尉信盛、甚九郎、進藤山城守、松永弾正、右衛門佐、水野監物、池田孫次郎、山岡孫太郎、青地千代寿、是れ等を定盤として置かれ、又、住吉浜手に要害拵え、まなべ七五三兵衛・沼野伝内、海上の御警固として入れ置かる。
 6月5日、御馬を納められ、其の日、若江に御泊まり、次の日、眞木嶋へお立ち寄り、井戸若狭守に下され、忝き次第なり。二条妙覚寺に御帰洛。翌日、安土に至りて御帰陣。
 (後略)
----------------------------------(資料6 終わり)

それからまた、「天王寺砦とはどこか」という事ですが、わかりやすくまとめられている資料がありますので、ご紹介します。
※大阪府の地名1-P681

(資料6)----------------------------------
勝鬘院の多宝塔
天王寺砦跡(天王寺区伶人町・逢阪1丁目)
織田信長が築かせた城。城跡については月江寺付近とする説(摂津志)があるが、四天王寺の西、勝鬘院と茶臼山の間の上町台地西端に北ノ丸、中ノ丸、南ノ丸の小字が残り、この地は西が急崖で城地として最適の条件にある。江戸時代中頃とみられる石山合戦配陣図(大阪城天守閣蔵)にも、四天王寺に西接して「サクマ玄蕃サカイノ道ヲフサク」と記されている。
 天正4年(1576)3月、本願寺顕如は織田信長に反旗を翻し、石山本願寺に籠もって抗戦を始めた。信長は明智光秀・細川藤孝・原田直政・荒木村重らに命じて攻撃態勢を整え、天王寺口の攻め手を原田直政として城砦を構えさせた。
 本願寺側が木津(現浪速区)と楼ノ岸(現中央区)に砦を築いて、木津川を通じて海上と連絡をとっているのを知った信長は、まず木津川口の占拠を命じ、同年5月3日、原田直政・筒井順慶らに攻撃させた。しかし本願寺門徒の勢力は強く、木津川口の戦で原田直政は敗死、直政にかわって天王寺には明智光秀が布陣した。
 敗戦の報を受けた織田信長は、京都を発って、若江城(跡地は現東大阪市)に入り、5月7日には若江を出て天王寺へ救援に向かった。『信長公記』には「天王寺砦」とあるので、まださほど堅固な城郭ではなかったとみられる。信長は激戦の後、天王寺砦に拠る明智光秀と合流することに成功、門徒勢を石山本願寺の木戸口まで追撃したが、その堅塁を抜くことはできず、長期包囲戦術をとることにした。
勝鬘院に隣接する大江神社の坂
天王寺砦の増強も図られ、早くも5月9日、信長は摂津国平野庄(現平野区)中に「天王寺取立之城普請」のため用材などについて奔走するよう指令している。
 天王寺砦には佐久間信盛・同正勝父子と松永久秀が定番として詰めたが、翌5年8月、松永久秀の背反後は佐久間父子がもっぱら当たることとなった。大軍による長期の攻撃にもかかわらず、信長はついに武力で石山本願寺を落とすことができず、正親町天皇の調停という形で前関白近衛前久らを勅使として本願寺に派遣、和議によって石山を退去させようとした。和議の約定が成立した天正8年3月17日付けで信長は血判した覚書七ヵ条(本願寺文書)を出したが、その第二条で、顕如らが石山本願寺から退去するに先立って、まず信長方の軍勢が「天王寺北城」(天王寺北方にある信長方の付城)から撤兵し、近衛前久らと入れ替わると誓っている。
 和議が成立し、顕如は4月9日、紀州鷺森へ去り、退去を拒んでいた教如らも、ついに8月2日、信長に石山本願寺を明け渡した。その直後の8月中旬、信長は天王寺城の定番である佐久間父子の罪状ををあげて剃髪させ、高野山に追放した。罪状の冒頭で、佐久間父子が天王寺城に在城した5年間になんの戦功もあげず、「取出」(天王寺城)を堅固にさえしておればやがて信長の威光で退散するだろうと考えていたのは、武士道にもとるものである、と叱責している点が注目される。佐久間父子の追放後、天王寺城は壊された。
----------------------------------(資料6 終わり)

若江城跡
村重は、天正4年4月までは、天王寺砦にも出入りしていた可能性もあっただろうと思いますが、5月の軍議は、河内国若江城で行われたようです。また、信長公記では「住吉口」から天王寺の本願寺勢を攻めたようです。軍議の後、配置につくために各所へ進んだと思われます。村重は、河内国内を北上し、摂津国内へ入って木津川口へ向かったと思われます。

この天王寺での合戦の約2ヶ月後、足利義昭を奉じた毛利輝元勢が大船団を組んで、大坂の本願寺方に物資を搬入。この時、木津川口にて大海戦があり、織田方は大敗を喫します。村重も水軍を率いてこれに参戦しているようです。
 詳しくはわかりませんが、村重は早い段階からこの毛利方の動きを掴んでいたため、天王寺砦の戦いでは、木津川口や北野田方面を固めることを具申したのかもしれません。
 上記で記述の、村重が信長の命令を請けなかった理由のもう一方の推測としては、これも成り立つかもしれません。本質的には、村重に下された官途である「摂津守」の意味は、やはり摂津国の知事ですから、その中で起きる事については、主体的に行動することが求められ、期待されることが一般的感覚だったと思います。その意味では、村重のこの行動が、少々の不審を買ったことも否めないのではないかと思います。

この後の約2年間は、織田方の瀬戸内海の制海権はやや不利となり、一方の本願寺方にとっては物資補給のメドも立ちました。両軍共に、作戦の再構築が必要になったようです。


2017年3月23日木曜日

摂津池田家当主よりも地位の高い池田播磨守正久という人物について

摂津国内の有力国人であった池田氏は、その活動範囲の広さから様々な史料が残っています。ただ、それらは断片的で、連続性が無いために、関連性の判断が非常に難しいところがあります。

今回ご紹介する、池田播磨守正久の書状もそのひとつです。いつもの様に、先ずその史料からご紹介します。年記未詳で、無神(10)月20日付けで、今西宮内小輔(春憲)宿所へ宛てたものです。
※池田市史(史料編1)P25、豊中市史(史料編1)P115、春日大社南郷目代今西家文書(本文編)P446

(史料1)----------------------------
前置き:尚々納所仕候様々御馳走所給候。尚此者可申候間、不能懇筆候。
本文:此間不申通御床敷存候。仍去年も以書状申候代物之儀、急度被成御馳走候而可給候。若貴所被仰儀、無同心之体候者、此方へ可被成御引付候。催促付可申候。但寄井筒屋其方へ不被借候哉。こい(乞い)可申候はば、御報に委細可承候。御隙之時進入御奉待候。恐々謹言。
----------------------------(史料1 終わり)

年記未詳の史料という事からその比定なのですが、個人的には『春日大社南郷目代今西家文書』の推定も参考にし、今のところ天文16年(1547)と考えていますが、これについては他の年代の可能性もあります。しかし、確証無く、流動的なところがあります。

それで、その年代比定の理由ですが、宛先である「今西宮内小輔」の活動時期は、天文から天正に渡り活動していて、池田家当主の信正・長正・勝正の3代を跨ぎます。ですので、この視点では、殆ど年代推定の幅を狭めることができません。
 次に、文の内容ですが、「尚々納所仕候様に御馳走所給候」や「仍去年も以書状申候」「若貴所被仰候儀無同心之体候者、此方へ可被成御引付候」などの部分は、天文15年に南郷目代今西家から大規模な代官請けを得た池田家が、今西家との関係を繋ごうとしていた行動で、池田信正失脚中の家政に関する動きと考えてみました。
 この史料のように池田正久は、家政の一端を担って活動していたのかもしれませんが、残念ながら、他に正久の史料は見当たらず、この件についての詳細は不明です。

更に、正久の官名である「播磨守」ですが、これは山陽道(8カ国)に属する大国(他に上国・中国・小国の区別あり)の扱いです。この大国は、地位にすると「従五位」で、池田家当主の「筑後守」の地位「従五位下」を上回るもので、播磨守は一段地位の高い人物となります。
 池田家中には、従五位下を上回る地位の人物は見当たらず、池田正久は家中で一番地位の高い人物という事になります。一般的には、こういう社会的地位を家中の者が得る時には、当主を超えない範囲で地位の配分(栄典授与・論功)が行われますが、何らかの特別な手柄を立てて地位を得ていくという可能性も無い訳ではありません。
 しかし、そういった場合は家中が割れて敵味方となり、激しく争う場合や、家を出た者が別の有力者に属して出世したような場合などに見受けられたりします。

いずれにしても、池田正久の地位の高さの実用性は、当主が健在で正常な家政運営が行われている間には、可能性として低いように思われます。
 それにあたる時期としては、天文16年6月25日に細川氏綱を擁立した池田家が管領細川晴元に背いて降伏し、恭順していた頃(信正は隠居し、宗田との入道号を名乗ったらしい)、即ち、池田家中が主体的で正常な家政を執り行えなくなっていた時期の正久の行動と考えてみました。

ちなみに、この池田家が細川晴元に対して恭順している時期に、池田家にとって大きな出来事がありました。
 池田信正は、義理の父である三好政長を通して晴元に謝罪し、一応は許されていました。政長は、晴元の最側近でもあり、その流れで接点を活かすことは自然な見立ててです。しかし、池田家にとって予想外だったのは、親類として保護するどころか、政長が池田家中の政治に介入を始め、財産なども不当に取り上げる行動に出た事でした。
 信正の妻は、三好政長の娘で、それにつながる一派が池田家中に居て、諍いが起きていたようです。
 もしかすると、池田正久は三好政長一派である可能性もあるにはあります。何事も有利に運ぶために、社会的地位を高くする方法もあるのかもしれません。そうだとすると、姓名も「三好」だった可能性もありますね。これは今のところ、筆者の空想レベルなのですが...。
 
それから、個人的には訝しんでいるところもあるのですが、この播磨守正久が池田勝正の父と推定する研究者もあるようです。その根拠も今のところは、希薄ですが、こちらが完全否定する程の材料も無いといったところです。

また、文中に「但寄井筒屋其方へ不被借候哉」との表現が見られます。「井筒屋」とは商人らしき人物ですが、この井筒屋について、関係無いとは思うのですが、池田の郷土史に井筒屋が関連していますので、一応、参考までにあげてみたいと思います。
※『わたしたちの郷土 -文学に現れた遺跡と人物-』より

(資料2)----------------------------
昭和30年代の池田本町の井筒屋跡写真
写真:昭和30年代の池田本町の井筒屋跡
【井筒屋跡】
本町いづつやの2階に住む豊年の新米坊主呉春(自筆の大黒天図署名より)
天明元年(1781)当時、存充白と名乗っていた松村呉春は京都から蕪村門の先輩、川田田福の好意に甘え池田の本町にあるその出店井筒屋の2階に移り住むこととなった。
 翌天明2年の年頭に当たり全てを新しくしようと考え、池田の古名、呉服で春を迎えるのだから呉服の呉と春とを結びつけて、呉春と呼ぶことにした。時に31才。
 本町井筒屋云々の署名は天明2年9月、呉春が池田荒城氏(満願寺屋)の転居祝いに贈った大黒天図に残されたものであるが、その頃はまだ丸坊主になって日が浅かったので、自分でも珍しくこんな称えをしたものらしい。一説には本町通、現紅屋呉服店ともいう。
【川田田福】
田福は、井筒屋庄兵衛と称した京都の人で呉服商を営み、池田本町に出店を持っていたので、池田と因縁が深い。田福は蕪村について俳諧を学び、その門下の中でも尊敬に値する人物であった。田福は謡曲、蹴鞠にも興味を持ち、また絵画をもよくしたようである。池田の高法寺に川田祐作居士遺愛碣というのが建っているが、これは荒木李𧮾の撰木で弟の荒木梅閭の筆である。
----------------------(資料2 終わり)

さて、史料1の文の内容は、少し音信が途絶えたが、去年も書状で伝えた「代物」の事、必ずの取り計らいを期待する。もし、そちらでそれに同意しない者があれば、催促を行うので、こちらへ報せてもらいたい。ただし、井筒屋よりそちらへ借りられるか。乞う事があれば、報せにより承る。状況次第に進めてもらい、それを待つ。、というような旨で伝えており、「代物」についての用件のようです。代物とは「銭」の事なのかもしれません。
 この音信の時期は、10月ですので、米の収穫時期です。前置きにある文は、その事のようです。しかし、それとは別に、去年から代物の事について伝えているようです。それを南郷目代の今西宮内少輔にも協力を求めているのは、上位の権力からの用件なのかもしれません。

池田正久についての史料は、この1点しか見当たらず、不明なところも多いのですが、今後も調査を続けていきたいと思います。



2017年3月20日月曜日

荒木村重の父、若しくは村重の先代にあたる人物(信濃守勝重)の史料が実在する可能性について

近年、知名度も高くなってきた摂津国の戦国大名荒木村重ですが、それはやはり、織田信長方の武将としての活躍が大きな要因でしょう。もちろん、大河ドラマで取り上げられたり、ゲームや漫画などへの露出もあるでしょう。ここ最近は、加速度的です。
 しかし一方で、この荒木村重という人物は、不明なところも多くあって「謎の武将」といったイメージも強いようです。特に、織田方の武将として名前が知られる前の活動については、殆ど知られていません。
 
筆者はどちらかというと、その前の摂津国の国人大名であった池田勝正の動きを研究している事もあって、その重なりが、この村重(家系)の黎明期から成長期にあたり、自然と並列研究のようになっています。
 それらも追々、お伝えしていきたいと考えているのですが、今回は以前から個人的に気になっていた、村重の父の可能性がある荒木信濃守勝重なる人物が、摂津国人らしき「北與」なる人物に宛てた史料がありますので、ご紹介したいと思います。年記未詳の2月14日の音信(返報)です。
※豊中市史(史料編1)P126

(史料1)-------------------------------
前置き:尚々善へも以別帋可申入候へ共、御意得候て御演説所仰候。
本文:如仰久敷不申承不断御床敷令存候。折節御懇御状本望之至候。随而此間者弥介方に長々逗留仕候。内々に我等も可参心中之候処難去用所共候て不参御残多存候。此由北右へも被仰候て可給候。次以前承候南郷(摂津国垂水西牧)知行分事、勝正折帋之儀も可相調候へ共、無紛儀候者、可為有様候之絛可御心安候。殊に彼庄之事者同美存知之由にて候之間、被仰様体委可申聞候。其方之儀不苦候者、北右善へ被成御同道、ふと御出奉待候。我等もやかて可参候。急申候間此外不申候。恐々謹言。
-------------------------------(史料1 終わり)

先ず、この史料の年代比定をしないといけないのですが、結論から言いますと、永禄8年(1565)かその前年ではないかと考えています。以下、その理由を述べます。

この音信の宛先である「北与」とは、北河原氏と考えられ、同氏は摂津国川辺・豊島郡境付近の豪族とされています。また、文中の「弥介(やすけ)」とは、荒木村重を指すと考えられる事から、弥介を名乗っていたらしい元亀2年(1571)以前から永禄6年(1563)頃までの期間が想定されます。
 他方、「勝正折帋之儀」とは、荒木勝重の上位者である事が伺え、永禄6年2月の当主長正死亡後から元亀元年6月19日の勝正追放までの間が想定できます。なお、永禄4年9月9日には、南郷目代の今西家によって、勝正に対する特別な祝儀が贈られているため、その頃から勝正に代替わりとなったか、南郷の特別(主要)な管理を行うようになった可能性もあります。

更に文中の「同美」とは、荒木美作守宗次を指すと考えられ、その活動時期を見ると、永禄5年4月に荒木美作守が摂津国箕面寺に宛てた禁制の副状(池田長正に対する)を発行し、同年2月23日に南郷に関する問題解決のための音信を受けたりもしています。宗次の史料は、永禄8年2月以降は見られなくなります。当主の交代と共に、荒木美作守にも地位に変化を生じさせたものと思われます。

それらの状況を考え併せると、この史料は、宗次の史料上の活動が見られなくなる頃(池田長正の死亡による当主交代)に近い時期、永禄7年の池田家と今西橘五郎・宮内少輔(春房?)とのやり取りに関係のある史料と想定しています。

さて、文中に登場する人物名の補足をしておきたいと思います。文中には北河原一族の人物名が複数人出てきます。「北與=与右衛門?」「善=善右衛門?」「北右=右衛門?」「北右善=右衛門?と善右衛門?の両者をまとめて書いた」といった具合に、人物名を略して書いています。この件について、何度もやり取りしているためです。

文の内容を見ますと、「荒木信濃守は北河原方へ向かうつもりで、弥介方に長々逗留しており、やがて北与・右・善の3名とも合流し、南郷知行分の懸案解決を図る予定である。これについては、荒木美作守がよく知っているので、委しく申し聞き、事の次第がハッキリすれば、現当主池田勝正から証文を発行してもらうつもりなので安心するように。」との旨を伝えており、信濃守勝重は、当主勝正の奉行人のような行動をしていた事が判ります。
 前当主池田長正の家老荒木美作守から同名信濃守勝重が役を引き継ぎ、活動をしていた一端がこの史料から読み取れるように思います。

そして、折紙発給者の荒木信濃守勝重とは、その名から考えて、「弥介」の後に「信濃守」を名乗る村重に関係が深い人物と思われ、その名の一字に「重」の字を持っています。また更に、勝正と関わると考えられる「勝」の字も持ち、両者に深い関係を持つ人物と推定できます。
 この事から「弥介」すなわち後の村重は、当主勝正から見ると系図的には一世代下であろうことも判明します。この時点で村重は官名を持たず、その父と考えられる勝重が「信濃守」を名乗っているからです。また、概ね「紀伊守」「遠江守」などの官名は、それを代々継ぐ家系があって、当主がその官名を名乗ります。

ただ、荒木信濃守勝重についての史料は、今のところ、この1点のみで、他の活動については不明です。どの時点、どういう理由で勝重が、その地位を譲る事になったのかは、今後も見ていきたいと思います。