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2023年3月18日土曜日

摂津国河辺郡荒牧村について

少し話しは戻って、荒牧村について見てみます。
※兵庫県の地名1(日本歴史地名大系29)P429

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◎荒牧村(伊丹市荒牧1-7丁目、荒牧、荻野7-8丁目、荻野)
鴻池村の北に位置し、村の北端を有馬街道が通る。荒蒔村とも(慶長国絵図など)。古代の牧があったとする説もある。川辺北条の条里地割が残り三ノ坪・九ノ坪などの小字がある。
 応永26年(1419)11月の上月吉景譲状並置文(上月文書)に「あらまき」とみえ、吉景は荒牧の地頭職を室町将軍から与えられ、守護からも荒牧のうち三分の二の知行を認められた。残りの三分の一は吉景の舎弟則時に与えられ、のち景氏に伝承された。この年吉景は、地頭職と同地の三分の二を子息景久に譲っている。
 文正元年(1466)閏2月、有馬温泉(現神戸市北区)の帰途、京都相国寺蔭凉軒主で、播磨上月氏出身の李瓊真蘂は、荒牧の上月大和守入道宅とその南側の子息太郎次郎館を訪れている。屋敷は足利尊氏から、軍忠によって拝領したという(「蔭凉軒日録」同年閏2月22日条)。
 上月大和守入道は庶子家とみられ、荒牧に居館を構えていた事が確認される。太郎次郎は、200〜300人もの「歩卒、僕従」を率いて湯治中の真蘂を警護したほか、有馬に滞在して種々接待につとめ、またこの頃上月氏は25間もの倉を昆陽野から購入したという(「同書同月11日条・17日条など」)。荒牧上月氏の勢力の一端が知られる。字城ノ前に荒牧館跡があったとされるが、遺構は認められない。

 文禄3年(1594)鴻池村・荻野村と一括で検地を受けた。慶長国絵図には荒蒔村とあり、集落は分かれていたものの石高は両村と一括。なお文禄3年9月日の中村検地帳(小池家文書)によると、中筋村(現宝塚市)から出作があった。正保郷帳では高849石余と他に新田高71石余。領主の変遷は鴻池村に同じ。用水は天王寺川・天神川・堂ヶ本池・上ノ池・下ノ池があった。小浜駅(現宝塚市)が近くにあり、百姓牛が駄賃稼ぎをしていたと思われ、天保14年(1843)には同駅を通らず生瀬宿(現西宮市)の荷物を伊丹駅に運んだとして論争になった(「間道通行詫証文」上中家文書)。
 寛文9年(1669)頃は、126軒・663人(「尼崎藩青山氏領地調」加藤家文書)、天保9年は105軒・435人、牛36(「巡検使通行用留」岡本家文書)。産土神は天日神社。明治41年(1908)愛宕神社を合祀。本殿は向唐破風付き一間社春日造で、17世紀から18世紀初期にかけてのものと推定されている。天台宗容住寺・浄土真宗本願寺派西教寺がある。容住寺は聖徳太子が摂津四天王寺から中山寺(現宝塚市)へ往還の際に大石に腰掛けて霊感を感じた場所に建立されたという。本尊十一面観音坐像は後世に補修されているが平安中期の作とされ、市内最古の仏像と考えられる。初め豊学寺といったが、貞享元年(1684)破却され、元禄6年(1693)再興(「容住寺建立訴状写」沢田家文書)。本堂・薬師門は同9年建立。周辺には太子信仰の伝承が多い。西教寺は寛文7年(1667)善求の代に寺号免許という(末寺帳)。
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荒牧村には城があり、赤松氏の流れを汲む上月氏が、相当規模の館城を構えていたと、当時の記録にもあります。戦国時代、200〜300人の動員力を持つ上月氏は、城下集落を形成していた事が窺えます。

寛永年間(1624 - 44)、第三代将軍家光の頃、政権基盤の強化政策の一環として、全国的に村切りが行われており、この地域も例外ではありません。「鴻池村」の条を見ると、以下のようにあります。
※兵庫県の地名1(日本歴史地名大系29)P428

---(資料7)----------------------------------------------
◎鴻池村(伊丹市鴻池、北野1 - 6丁目、荻野1丁目、同3丁目、中野北1丁目)
武庫川支流の天神川と天王寺川に挟まれた村で、新田中野村の北に位置する。文禄3年(1594)9月荻野村・荒牧村と一括で宮木藤左衛門尉の検地を受けた(延享4年「荻野村書上帳」荻野部落有文書ほか)。慶長国絵図、元和3年(1617)の摂津一国御改帳では鳴池村とあるが誤写か。この段階では村切されておらず、石高は荒牧を本郷とし荻野と三ヵ村合わせて1782石余。(後略)
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元々荒牧村は、荒牧を本郷とし鴻池村と荻野村を合わさって存在して、1782石余の生産力を持つ村でした。ですので、中世は基本的にこの構成で成り立っていたと思われます。集落は分かれており、それぞれに寺は持つものの、荻野村に産土神として、春日大明神、鴻池村に宮座があり、鎮守神としての八幡社があります。宮座は左右の座があり、左座は24軒で荒牧村東政所から移ってきた家などで構成し、右座は33軒で同村(荒牧)本郷や西政所から移ってきた家などで構成した(「鴻池村地株五つの覚帳」武田家文書)ようです。
 このような宮座の状況を見ると、村切りされる以前の文化が続いていたことが分かります。離れた集落をどのように繋いでいたのかは不明ですが、戦国時代という有事では、物理的な何らかの方策を立てていたと思われます。

時代は降って、村切り後の荒牧村は、「正保郷帳」によると高849石余の生産力を持つ地味だったようです。これは決して小さくは無い生産高です。なお、中世の「石」は「貫」と併記されて用いられますが、そもそもは生産高であり、類似した感覚のようです。また、「石高」は、米の生産のみを指さず、商業活動なども含めた生産活動の算定に使われていました。

櫻正宗の前身「荒牧屋」の当主山邑氏は、この上月氏の集団に属し、時代の求めに応じて代々家を継いでいたものと思われます。

 

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寛永2年に荒牧屋(櫻正宗の前身)が創業した頃を考える

1625年に山邑家は、酒造業界へ新たな参入をした画期だったのかもしれません。創醸とはいえ、正蓮寺とのエピソードを考えると、それ以前から酒造りは行われており、品質と量の確保ができるレベルであったからこそ、正蓮寺開創に多量の酒を提供できたものと思われます。
 元禄年間過ぎ頃まで、酒造については、池田郷が酒の大規模生産地でした。その後は次第に生産地が増えますが、それまでにはかなりの時間を経ています。池田郷を中心として、関連要素の年譜をあげてみます。

荒木村重が織田政権から離叛した事により、織田勢に攻められ、池田の町は大きな被害を被ります。その荒廃から復興までの流れと、池田の町と周辺の人・事・物に関する出来事を一覧にしてみます。 

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1578年 荒木村重領内池田郷へ織田信長勢が池田城下へ攻め入り打ち廻る
1579年 池田の町の再建が始まる
1582年 織田信長暗殺される
1584年 尾張小牧・長久手の戦いに池田知正が従軍
1584年 伊居太神社の神輿が再び出る
1589年 上月十大夫政重、池田備後守知正へ仕官
1592年 小坂前町を境に二分して、新たに中之町を作る
1595年 池田の町に大火が起こる
1600年 関ヶ原合戦、池田知正が徳川家康に従軍する
1604年 池田知正死亡
1605年 池田三九郎死亡(その父である光重が知正の跡を継ぐ)
1609年 池田備後守光重、摂津池田大広寺へ知正などの肖像画、釣鐘、10石の寺領を寄進
1613年 関弥八郎の不祥事に連座して、池田光重が失脚(駿河国法命寺へ蟄居)
1614年 大坂冬の陣、池田光重が有馬豊氏客将として参陣
1615年 大坂冬の陣
1616年 徳川家康没
1624年 大坂の町割りが概ね調い、人口は28万人と推定される
1625年 摂津国西成郡伝法の正蓮寺開創
1625年 摂津国河辺郡荒牧の「荒牧屋」創業
1628年 甲賀谷正長没か
1642年 上月政重没
1644-48  伝法から江戸への下り酒が積み出される(正保年間)
1658年  佃田屋が、江戸摘みの廻船問屋開業
1661-73  大坂の町づくりが概ね完成(河口整備含む)(寛文年間)
1661-73  摂津国西成郡伝法にて酒樽専門の江戸積問屋を開業(寛文年間)
1670年 伝法が幕府領となる
1684年 安治川開削により、伝法の輸送環境が不利となる
1688-1704 大鹿屋などが加わり、輸送業者の数が増加。(元禄年間)
1697年 池田の町絵図が作成される
1696年 摂津池田郷に、本養寺再建される(池田の主要な寺院が随時復興)
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創醸からの間、荒牧屋は、池田郷との関係を強くしていたのだろうと思われます。池田酒は、江戸へも出荷する程の量ですから、提携関係を保ち、製造から輸送まで、協働していたのではないでしょうか。

池田の酒造業は、次第に衰退するとはいえ、元禄年間をピークとして、その後も暫く、池田酒は北摂地域で独占的に江戸積入津樽数を維持しますので、莫大な稼ぎであったと思われます。
 池田郷は幕府の直轄地でもあり、様々な政治的便宜を得たりするなど、他地域には無い優位性があったと思われます。
 このピーク時の元禄10年(1697)に作成された、その当時の町の様子を記録した絵図が残っています。戦乱で失ったものを次々と取り戻し、寺社などは、この頃に再建されます。復興にとどまらず、町は拡大もしていた事と思われます。

元禄時代よりも少し前、正保元年(1644)に、愛宕火が、池田の町で興ります。これは民間から発生したもので、これに対して京都の愛宕神社から苦情が寄せられて訴訟となりますが、池田郷は幕府領でもあり、これを京都所司代板倉勝重が事を収めます。
 このエピソードは、町に活気があり、社会的上位の苦情も覆す程の勢いも感じさせる事から、やはり酒造業を中心とする産業の活況を挫かない配慮があったのかもしれません。
 「摂泉十二郷の江戸積入津樽数」の内訳を見れば、確かに、徐々に池田の酒造生産高は衰えています。しかし、元禄10年の池田郷の独占状態から、次の統計年である天明6年までは、100年近く時差があります。一世代20年として、5世代程の期間が空いていますので、その間に何があったのかは、精査する必要があります。池田郷の酒の生産量自体は6割以上減少していますので、それは、気になるところです。

その過程で、荒牧屋は、1717年に新たな取り組みで、更に時代に対応する決断に至ったのでしょう。この時、池田郷の優位性が崩れており、新天地を求めたのかもしれません。
 もう、この頃になると、人も世も変わり、それまでとは違う価値判断を余儀なくされていたのでしょう。池田との関係性も薄れつつあったのかもしれません。

池田酒史の中で、櫻正宗の前身である「荒牧屋」の名は見られませんが、どこかに未知の資料があるのかもしれません。

 

1911年頃の荒牧周辺地図 ※赤丸印が荒牧村

 

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